人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自己と神的なもの

2021-02-23 03:23:25 | 
初めてこのブログを読まれた方は、一体何を書いているのか戸惑う向きもおありかと思います。
例えば、神という言葉がやたらと出てくるので、何かの宗教を信奉しているのかと思われたりするかもしれません。
しかし、私は神を実体論として語ることはほとんどしていないつもりなのです。
創造主であるとか、宇宙、世界を見えないところで支配しているであろうような神についてはほとんど言及していないのです。
そういう神は、私には有るとも無いとも分からない...
このことも含めて、なるべく決めつけたようなこと、トラワレになるようなことは書かないように心がけているのです。
そして書いていることは、ほとんど私の個人的な備忘録のようなものです。
読者に何かの信仰を押し付けるつもりは毛頭ありません。
そういうことを含んでのことですが、人はそれぞれ何かに強く意識が向けられて生きているもので、その部分が強調されて表現されるものだと思うのです。
人は一人一人顔も違う、それがのっぺらぼうでない人間の個性として表されるのは、ごく自然なことでしょう。
しかし、それが勢いで決めつけたような言い回しになることもあるかもしれず...そうなったら悪しからずということで...以上のことお含み下さい...。(含みっていうことは、ある種の幅、自由さをもたらすようでとても大事なものだと思いますね)
それで多くここで表現されている神というものですが、これは以上の理由でホントは、"神的なもの"というべきものなのです。メンドクサいので神と言っているに過ぎないのです。
その実体が何かは分からない...しかし、感じることは出来る...それが深まれば深まるほど、思いが超えられた感じになる、自分が思われたものでない感じになる。
それは私の実体験では、この思われた私だけからはそうなってこないのです。そうさせるあるものがある...というかそれは実体を持った何かでなくハタラキ的なものです。
このような思いを超えた、超えさせる何かを総じて神的なものと呼んでいるのです。(そういう含みがあるってことです)
ちなみに仏陀は、自分と別在、超在するような神のことはほとんど語っていませんでしたが、"ダンマ(法)"というものは強調している...これが正にそういうものでしょう。
そう、正に正にそれは自己と切り離されたもののようには感じてこないのです。
矛盾した言い方ですが、それは自己と超越した(それが思いを超えているということ)もののように感じたりします。しかし、そのような他者的なものにあれば、あるほど自己は自己そのものになるような感じになってくるのです。
そういう感じをもたらすものとして、私は何かすべてを見透す光に照らされている(自分が"観察"することと区別して、"照明"と呼んでいます)、というようなことを言ったりします。
この自己に超越して観ているものは、真我(これも私はそういう実体あるものとしては認識出来ないものなのですが...)だとも言われているのですが、そうかもしれません。
いずれにしても、私が神と言っているものは、自己と切り離されたものではない(といって全く一つのものものとは言いきれないですが)という含みがあるのです。
そして宗教はともかく、最近のスピ界隈でも神とは言わずとも、こうした限界ある自己を超えたハタラキ的なものについて語れない向きもあることが、私にはいつも不思議でしょうがなく思っているのです。
それは思われた自己だけからは、しばしば思いの出口の無い、ガンジガラメ地獄にハマってしまい、絶望的状況の中でふと、密閉された部屋にあって、通気孔から涼風が吹き込むようにも、思いを超えたものが開かれたという実体験から来るものなのです。

神という言葉にアレルギーを感じている人が居るのも私なりに理解しているつもりです。
そして私は今、特定の宗教を信奉してませんが、善くも悪くも宗教的な道に関心が向き、関わりもあったのも確かなことです。
神という言葉をしばしば使うのもそういう私のサガの表れなのでしょう。
人間誰でも多かれ少なかれそういうサガを背負って生きているものです。
なるべくお互いそういう部分で障りにならないように心がけて生きたいものでずね。
まあ、あるがままにしか生きられないものだと思いますが...
コメント
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