人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

お天道様が見てござるi

2021-02-08 10:58:03 | 意識、照明
前回の記事で私は、"裁判の宣誓てーのは、神の名の元に、それを冒涜するものだi"、なんてこと書いてたんですけど...映画「オペラ.ハット」とか「十二人の怒れる男」(古いi)とか観てたら分かるでしょ?
はっi、あれは海の向こうの話、キリスト教中心の国の話なんだっけ...当たり前すぎてハズかしいi...(欧米ではそうなんだからいいだろi)
だから私は人の知らない、どーでもいいことは沢山知っていて、常識的なことには疎い人間なんです。
私は非国民なんでしょうか? いいえ、神を知らない日本人の方が非国民なんですi 誰が日本人だかさっぱり分かりませんが...
この国では何ですか、その宣誓では"良心に従って..."とか言うんですか...初めて知った訳じゃないけど...
良心。...う~ん...私の"りょうしん"はとっくに死んじゃいましたよi 死語のように感じるのは私だけでしょうか? 
"黒会"でやり取りしてる人たちとか、何かの釈明会見とかしてる人たちにお訊きしたいです。良心てなんですか?、と。
人間は良心を有しているのでしょうか?
如何にも私が居て初めて、良心が有るとか無いとかって話になるようです。これはやっぱり"良い"とか、どうとかの心の問題になるのでしょうか?
それではどうしても私には、私の思いを超えた消息のことが伝わってこないように感じてしまうのです。
それで、"私の良心の御前に、真実を述べ、隠しごとをせずに、偽りを述べないことを"誓えるでしょうか? 
良心は、多分に道義的なものに意識が反映されているように思われます。
つまりは、"そう思っているもの"ということであり、自分の意志で操作することも可能なのではないでしょうか?
しかし..."あの御方の御前に...ああ...もう、ダメですi 隠しおおせない、ありのままにならざるを得ないi..."
人間は自らを律することも、当然のことながら自らを裁くことも、人を裁くことも出来ないのではないでしょうか?
そのあらゆる思考、欲望の暴走も止めることは出来ないのではありませんか?
それは神的なものによってしか出来ないi
この国では、神という言葉をウカツに使うのはどうもはばかるものがあるらしいです。
普通に、この国を"神国"と呼んでいた時代からまだ一世紀も経っていないにも関わらず...
"良心に従って云々"というのは、実に民主主義に根差した在り方と言えます。
如何にも神を無きものにしたって感じですが、"神の名において"、これを冒涜することに比べたら遥かにマシなことだと思います。
しかし、頭の中には神も、お上も死に絶えてしまったかもしれませんが、"お天道様が見てござるi"、という言葉からもたらされる感覚はどっかに息づいているのではないでしょうか?
みんな分かってるはずでしょうi...何もかもが茶番だらけだってことが...ホントはもっとらく~に生きれるハズなんだってことが...青空の下明け透けで生きてていんだってことが...
隠したってムダだi "お天道様が見てござるi"
人間は、人間を超えたものによって初めて裁きに"与れる"ことが出来るのでしょう。
裁きとは実に許し、愛、平安に与ることの裏返しに他なりません。神的な光に与るとは、そういうことなのですから...
いつも見て、感じている太陽も目覚めてみたらホントのお天道様のように、別様に感じられるかもしれませんよi


コメント
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