人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

叡知の光

2021-02-20 12:22:36 | 哲学・思想
誰しもが経験しているようなことで、いくら考えても分からなかったことが、考え疲れたか、考えが尽きてしまった時などに、ポンと突然アイデアが閃くって話をよく聞きますね。
私などは朝目覚めた時に、閃いたというか、既に閃きに与っていることがよくあるのです。
こういうことになってる時は考えてないってことですね。じゃ、それはどっから来たのか? 何かが降りて来るのか?
多くの人はこういうことを考えることはすれど、意識することはほとんど無いのではないでしょうか?
これは、正に思考の領域というより、その深みにある意識の領域と関わることと言っていいでしょう。
つまりは、それが思いを超えるということ、思いを超えたものに与ることにつながるのですi
マトモな宗教、スピならこのことに意識が向けられているはずなのですが...然るに、何とその界隈では、"思考停止"に陥ってしまっている事態で溢れていることかi
"OO先生がこう言っていた"、"聖書にこう書いてある"...哲学的な人は、このようにただ、他からの受け売り、お追従に終始することを無批判、無反省とか言って批判するのですが、それは思考が固着して、超えた方に開かれない状態にあるということなのです。
これは、考えることを放棄し、思考のフィルターが通ってないことで、そういう風に感じるようです。
だけど、そのことでかえって思考の堂々巡りに陥ったりして...考えりゃいいってもんじゃないでしょう。
そこには思考とは別のフィルターを通す意味が隠れているのではないでしょうか?
ここを通らないと、宗教も哲学もその本来性からズレを来さざるを得なくなるでしょう。
ここに思いを超える、思いを超えたものに意識が向けるという意味があるのです。
表層的思考を超えて、あるいはその根底にあるものは、仏教でよく言い慣わされている"智慧"、哲学的"叡知"、超智、神智...本来の宗教も哲学もこれに与ることを目指し、又関わってきたのです。
こう言って、何も常人には到達することの出来ない、難しい境地のことを言っているのではありません。"あ、そうかi"、ポン、っていうようなことですよ。
それは本来から与えられているのです。盲信にハマるか、考えすぎて"意識されない"だけのことです。
"思考停止になってないで、もっと考えろi"、いや、"考えちゃダメだ、感じるんだi ..."
どっちもじゃダメなのか?
深く考えることと、感じることとは分けられないのではないでしょうか?
考え、思いよりも先にあるものが...それに乗っかりながら考えが浮かぶのが、もしくは降りてくるのが感じられるのです。
これは自分が考えているだけからは分かりません。自分の考えを超えた叡知の光に与っているということなのですi
考えることを放棄してしまうのでもなく、あーだ、こーだ考え巡らすのでもなく...
それがどっから来るのかは分からない...分からないものは考えたってしょうがありません。
確かなことは、そこに心安らぐものがあるのです。
だから...自ずと、寝ている間でも、知らぬ間に意識が向いちゃうのでしょう。自然と、ポンと...


コメント
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