人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

原点と見えない仕組み

2021-05-22 09:34:51 | 回想
"昭和58年の夏、私は初めて人生の裏側に足を踏み入れ、人生の真実を知り、その瞬間から私の人生は劇的に変わったのでした。
これは、その年の年頭に私の原点というもの、神に立ち返ることに気付かされ、着々とその瞬間を迎えるべく、見えないところから仕組まれていったのでした..."

と、いうようなことは多分ないだろうと思いますよi(あふんi)...回想的なことに照らせば...
見えない仕組みというか、導きというものはあったかも知れませんが、当時は自覚されてなかった、分からなかったのです。だから見えないんですよ。
上記したようなことは、現在の私がそのように感じている部分は確かにあります。
しかし、自覚されてなかったということは、このことは意識付けられてなかったということなのです。
ああいうことは、今生では味わえないような、歓喜、至福に与ることなんだ、ってことは知識的にも思わされていたことでしたが、それで人生が劇的に変わった、なんてこたなかったですねえ...。
とにかく、これが意識的でなかったという証左なのでしょう。
だから、それは唐突にやってきて、唐突に去って行ったという印象なのです。
去ったということは、元の木阿弥になったということなのですが...これは、意識的になっていない、当時の私が感じたことであるのは言うまでもありません。
今、このことに意識を向けてみると...その前も、後のことも一連なりのことに感じています。
今生で味わえないような...ただの知識だけでそんなことは感じられないでしょう。実際、それ以前にじんじんと感覚されるようなこと、意識が高揚してくる、広がるようなこともありました。ではその前は? 物心付く前は?...あの後本当にそれは消えてしまっただろうか?
今、私は何を感じてこれを書いているのだろうか?
私のすべての人生を一連なりに貫き、息づいているものがある...あの夏の夕暮れ、私の全身全霊をもって目覚されたことというのは、実にこのことだったのではないかi
それは私の深部に刻印されていて、決して拭い去ることの出来ないことなのです。
そして、それはこのチッポケな私からは決して、決して、"NEVER"開かれないものだった、ということも...
原点に立ち返らざるを得ないことは、全くもって自明なことではないかi
原点というものが無ければ、中途も行く末もありません。
すべての元なるもの、依ってきたるもののことです。
そう考えると、やはりそこに見えない仕組みみたいなものを感じざるを得ません。
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究極の二択

2021-05-20 10:28:23 | 創作
ー恋人たちの会話ー
「あなたはこないだ、あなたにとって神が最愛のものだ、みたいなこと言ってたわよね?...それって私よりってことなの?」
「そ、それはだね、人生で何時、一番愛というものを感じたか、っていう話の流れで出たことなんであってね...」
「何だか歯切れが悪いわね...じゃあ、最愛のものは私なの? ...そうなんでしょ?、違うの?」
「そ、そんなこと、分かりきったことじゃあないかi...目の前に居る君を前にして、"君でない"、なんて言えやしないよi」
「でも、私分かってるわ、あなたは信仰的な人なのよ、神は万物の創造主、神無しであなたは生きていけないんだったら、神が最愛のものになるんじゃなくて?...」
「確かに、僕もそういう風なことを言ったよ、でも、今は...」
「今は?...私ってことなの?...ああっ...もしかしてあなたは容易く節を曲げちゃう人なの?」
「ち、違うよi...多分...」
「"たぶん"ね...はっきりしない人ね、はっきり言ってちょうだいi 私なの、神様なの、どっちなのi」
「だ、だから今は"きみ"(小声)だって言ってるじゃあないかi」
「そうなの?...じゃあ、あなたは平気で神様の札を踏みつけられる人なのね、護教精神なんて無い人なのね?」
「護教精神?...そんなものは知らないなあ...札でも、お守りでも持ってこい、ってもんだよi 最愛のものは、信念なんかとかじゃ語れないものだよi」
「じゃあ、あなたの目の前に神が現れても、そういうことが言えて?...」
「ええっ...目の前に...そいつあ、ダメだi、無理だi...いいや、君だって無理だよi」
「私も...何で? 私は神様なんか信じちゃないわよi...第一それが本当に神様なのか、幻想なのか分からないんじゃなくて?」
「いや、見えようが、見えまいが"現前する"ってのはどうしようもないことだよi」
「じゃあ、神があなたの目の前に現れたら、それがあなたの最愛のものになるってことなのね?」
「そうだよi 最愛のものというのは、いつも現前するものなんだよi...神は万物の創造主、神あっての僕...そういう理屈を知っていても、どうしても現前するものがすべてになっちまうさ...」
「それで、今は私が目の前に居るって訳ね?」
「そうだよi...君を目の前にして言うのもなんだけど...いつも現前している君を見ていると、現実に見えていない君のことも見えてくるようだ...まるで女神様のように思えてくるよi」
「だから女神様と私とどっちなのよおi」
「そ、そんなあ...どっちでもいいじゃないか!」
「じゃあ、それが私と別の彼女だったら、そういう風に思えるの?」
「それは、目の前に居ないんだから分からない」
「もし、居るんなら...」
「そういう風になるかなあ?」
「呆れたi...もう、知らないi、さよならi...」

"どうして、こうなっちゃうかなあ?...ぐすん...
だから...この答えは分かりきったことなんだi..."
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原点への回帰

2021-05-18 11:54:24 | 回想
過去を回想してみると...
私は割かし記憶がいい方なのかもしれませんが(近い過去のことはかなり曖昧です)、過去のことをありのままに想起することはまず不可能です。
それは、何と言っても現在の私が想起している訳で、どっかで現在の心境というか、意識状態がそこに反映されてしまうことはやむを得ないでしょう。
というよりも、作家の辻邦生さんが「時間の逆流」と言っていたようなことは避けられないように思います
もし、過去のことがリアルに意識裡に甦って来たならば、それは正に現在にそう感覚されていることに他ならないのです。
それが過去をありありとしたものにしているのでしょう。
又、そのリアルな思起をいっそう際立たせているのは、言うまでもなく過去のメモリアルなものの現在への顕現でもあります。
回想というものには、時間を超えたものが息づいているのを感じずにおれません。

昭和57年の暮、私は関西から東京に帰省していました。
西荻窪にあるキリスト教専門の古書店で、小池辰雄先生の著作集第三巻「無の神学」を求め、それから明くる正月の間、夢中で読んでいました。
久しぶりに、時間や場所を忘れてしまうくらい高揚して、その本に引き込まれて行きました。
私は、そうして原点に戻らされたようなのです。
私の原点...と言っても、どこにそう感じさせる起点があるのかは判然としないのですが、とにかく当時も今もそう感じざるを得ないものが私の中に息づいているのです。
端的に言えば神、神的なもの、最愛なるもの、そのものへの回帰ということになるでしょう。(そこでは、小池先生の伝える"無者キリスト"を通してということになるでしょうが...)
"回帰"という二文字が、もうそういうことを言い表しているのでしょう。
そして、この前年、精神的覚醒への求めてやまざる欲求と共に、そのことへの迷いというものももたげていたのが、一気に晴れたように感じました。
原点への回帰というのは、けだしそうさせざるを得ないものではないでしょうか?
もう、覚醒をもたらすであろう、霊的エネルギーを神的なものそのものから切り離してしまうようなことには囚われなくなりました(後年、性懲りもなく囚われてしまいましたが...)。
神への回帰こそは、私の原点回帰である...このことは、私の人生のあらゆる局面で言えることなのです。
これは、今も今、そう感じているのは言うまでもありません...。
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神とエネルギー

2021-05-16 10:14:35 | 覚醒
「われわれにとっては、ダンマよりも如来という表現の方が、いっそう親しいものであり、肌身に感応されるものであり、より人格的であるといえよう」
(玉城康四郎「仏教の根底にあるもの」/講談社学術文庫)
「キリストに本当に出会ったら、ひれ伏し、倒れ、降参することになるはづです」
「聖霊の現実は言うまでもなく愛の現実で、愛ほど現実感のつよいものはないです」
(小池辰雄著作集第三巻「無の神学」/著作集刊行会)

私が"じんじんしてくる"と、具体的な感覚を伴うものとして表現しているものは、ある種のバイブレーションのような感じ、私の存在を通してそうしたエネルギー交換が起きていることを言っているのです。
私は昭和57年当時、この感覚を取り戻し、ひいては人生を一変するであろう、精神的覚醒に与らんと願い求めていたのでした。
聖霊といわんか、観音妙智力といわんか、とにかくそういう不可知のエネルギーに触れれば、劇的変容が起こるものと思い込んでいたのです。
しかし、当時夢中になって読んでいた「ヨーガ霊動法」という本を詳しく紐解けば...密教的観法に関わることで、何か邪霊的な因縁に巻き込まれたとか、日本におけるスブド創設に関わったある会員が、常軌を逸した行動に走ったとか、ラティハンを修することにより精神的バランスが崩れるという事例がある、など好ましくないことも色々書かれてあったのです。
このことが、求めてやまない気持ちを抱きながらも、一歩踏み込めない気持ちにさせていたのも事実なのでした。
"ここには何かが足りないか、何か純粋なものに向かわせない余計なものが介在、混在しているのではないか?...小池先生や手島先生(当時は、聖霊体験に導く道も各種の霊動法に関係していると理解されていたのです)の本から受ける感じとは何かが違う..."
私は薄々と感じ取っていたのです。
このことは翌年の夏、念願が叶ったのか、その精神的目覚めに与った時に、ありありと示されたのですi
覚醒体験そのもののことでしたら、先の超エネルギー的なものに触れることによって起こり得るでしょう。
しかし、そのことと最愛なるもの、神的な現存と意識の内奥で出会うということは、別のことと言わねばならないでしょう。
覚醒したからと言って、その後の人生が幸福に導かれるとは限らない...それによってむしろ狂ってしまうことだってあり得るのです。
故に..."体験すりゃいいってもんじゃないi"、と言うのですi
要するに、愛と平安に導かれるか、どうかということに尽きるでしょう。
あるバイブレーション感覚がもたらされたとして、何か意識の拡大みたいなこともありますが、それだけでそういうものに導かれたりはしないのです。私の経験では。
これが愛と平安は、神的な現存と共にあると言っている所以なのです。
精神的目覚めにあっては、あるエネルギー交換、その流入といったものがあるのは確かなことでしょう。
しかし、その力は、神的なものとイコールであるとは言えないでしょう。
神的なものから来るのかもしれませんが、神的実在はもっと包括的なもので、もっと我々の深部に息づき、開示してくるものと言えるでしょう。
とはいえ、言うまでもなく、あの当時はこういうことは、意識的に、自覚的になっていなかったのでした。
生来からの自我性の強さから自由になっていなかったのです。何とも神経症じみてるではないか?

"すべてがガラス越しに映っている...ありありと真向かいに会えるものは無いのか?...ああ、無条件に僕が飛び込んでゆけるもの、そこでぶっ倒れても構わないものは無いのかi"

神経症じみた私の精神の奥で、こういう叫びに駆られるものが、息づいているのをどっかで覚えられていたのでした...。
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失われた力を求めて

2021-05-15 10:16:19 | 回想
私がこれまで悟りに至るであろうとされる、特定の瞑想などの修行法に依ってこなかったのは、単純に意識がそういう方に向かなかったからです。
やり方が具体的に書かれてあるものに接しても、読もうという気すら起こって来ません。
ただ、悟りというか、言い方は様々ですが、そういうものを求める気持ちは無性にあったのです。
昭和57年頃は、特にその思いがやみがたく強まっていました。
これには、その前年頃から手島郁郎先生の本が続々と出版されるようになり、又時を同じくして小池辰雄先生の著作集も刊行中で、出される度に求めて読んでいたことが大きい要因なのでした。
私は、そこに"聖霊のバプテスマ"を受ける道を見い出していたのです。つまり修行による悟りというより、そっちに意識が向けられており、悟り、覚醒の道というものは、聖霊というか、神的な恩寵によるものという風に捉えられていたのです。
そこにはやり方なんて何も示されておりません。ダイレクトに惹き付けられるものを感じていたのです。
とはいえ、そういう求める心とは裏腹に、数年前に初めて小池先生の集会を訪れた時に抱いた、あのフツーでない空気に怖じ気づいたこと、又自分の中で、キリスト教という枠にはまりたくなかったことなどが払拭出来ず、一歩踏み込むことは躊躇していたのです。
しかし、求め心は収まらない...この時、その数年前に芽生えた、あのじんじんしてくる感覚は失われていました。これがそういう思いに拍車をかけていたのは間違いありません。
そんな折、その年の今頃の季節、書店で中野裕道という人の「ヨーガ霊動法」という本が目にとまり、むさぼるように読んだことがありました。
この本は、従来の修行系の"悟りに至る道"でなく、意志的努力に依らない、無為的、神的恩寵などをベースにした、国内の、あるいは国外から伝えられた、そうした道の数々を紹介した、おそらくこれまで類書のない、画期的な書物と言えるものです。
そこでは、我が国に古来より伝わる鎮魂法、インドネシアに発祥したスブドなる団体に伝わるラティハンという修練、密教の知られざる観法、民間に健康法として伝えられた自動運動などが取り上げられ、それらには一様に無為的な霊動が誘起されるのが特色で、一定の方法というものを超越して、根底は一つのものに感じられる、とある...
実に超宗派的なものを目指していた(?)私には、打ってつけのもののように感じられたのでした。
じんじんしてくる感じとは何であろう? ある種のバイブレーション、名状し難いものであるのは勿論ですが、神的エネルギー、ハタラキ的なものに他なりません。
"その不可知の力に与れることが出来さえすればいいのだi"
そうして求道精神が数年ぶりに旺盛になり、あちこち門を叩こうということになったのですが...その試みはことごとく空振りに終わったのでした。
連絡無しに行ったことが問題だったのですが、鎮魂法を伝える道場は、今ではやっていないとのこと、スブドのオープン(ラティハン入門)の会場へ行っても誰も出て来ず"閉"店しているよう...霊動による健康法は電話で連絡しましたが、「あなたはどこが悪いのですか?」と訊かれ、「どこも悪くない(精神は?)のでいいです」と答えてしまう始末...
そうしているうち、何だか神から見放されたような気分になってきました。
数年前にあった、何かに導かれている、意識が開かれてゆく感じが少しも感じられてきません。
結局、その年は、満たされない気持ちを抱きつつ、いつしかそれも諦めからか、終息していったのでした...。
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