人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

REALITY

2021-05-13 10:12:30 | 映画・音楽など
"君と出会って驚いた、人生がすっかり変わってしまうなんて思いもよらなかった
君の姿を見て、何か特別なものに包まれているのを感じたんだ

夢は僕のリアリティ、ただ一つだけのリアル.ファンタジー
それは幻想と人は言うけれど、夢の中で生きてゆくんだ
その意味が示されるように
夢は僕のリアリティ、別な種類の現実
夜には愛を夢見て、それでいいんだと知るんだ
たとえ、それがファンタジーだとしても

もし君が本当に居るのなら、拒まないでくれ
新しい愛の道を教えてほしい
それが真実だと、どうしたらいいのか教えてほしい
君には特別な何かを感じている..."
❮1982年日本公開の仏映画「ラ.ブーム」の主題歌「愛のファンタジー(Reality)より❭

ソフィー、あの頃はスクリーンで君と出会えることは出来なかった...
なんか、年相応でないし、回りは若い女の子ばかりみたいだし、こっぱずかしかったんだi
ほんとは観に行きたかったのに...
あの頃は、ファンタジーを誘うような雨の日が多かった気がするなあ...
街中でよくこの曲が流れてた
僕は何か失ったものを探すことに夢中だった...
この世のどこかに人知れず隠れてるに違いない...そいつを見つけたなら、今よりももっとリアルなものに出会えるんだと...
特別な場所、特別な日にそれに出会えるんだと...
全くファンタジーだなi
失ったもの?...
あの頃、僕は既にきっと大事なものを忘れていたんだ
喫茶店の二階で、何人もの人が行き交うのを窓越しに見ていた...
どんな顔で、どんな表情をしているかなどどうでもよかった...
ソフィー、もし君のことをもっと見ていたら...もう、じっとしていられなかっただろう...
人の目など気にしてなどいなかっただろう...
何が虚像で、何が実像だかわからないけれど...
見た瞬間が特別なものになってしまうんだi
しかし...あの頃はもう戻ってこない...
失ったものは取り戻せない...
でも、ソフィー、僕は初めて君を見ている気がするが...
君は一体誰なんだい?
本当に初めてなんだろうか?
あの頃よりもっともっと前から会っていたような気がする...
実際に見ているよりもっとリアルに...この今に...
どうして、失ったなどと言えるのだろうか?
僕のリアリティ...


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祈りの妙

2021-05-12 12:10:52 | 祈りと瞑想
"神は思いを超えたもの...だから、あなたが思い描いている神は、あなたの想像の産物なのだ、空想の神なのだ、思いを超えない限り実在の神に出会うことは無いのだ..."
なんてことを私はいつも言っているかもしれないのですが、そんなことエラそうに言うつもりも実はありません。
そういうことはあくまで神的なもの、現臨と一つになってしまっているような意識状態に関わることを言っているのでして...それと、"神とは何ぞや、ああだこうだ"、と神を理屈ごとにしてしまう向きに対して言いたくなる場合もあるのです。
そこには祈り心というものが感じられない...
私は、精神的な道においてこれまで特別な方法に依拠して来ませんでしたが、一つ祈りというものが重要なものとしてあったことは何度か書いています。
少し、現実に即してみましょう...神について何にも思い描かれること無しに、祈ることなんて起きてくるでしょうか? 祈り心など沸いて来るでしょうか?
宗教的な人なら大概は、自分が信奉している神に思いが向けられるでしょうし、そうでない人も何らかの神的なものをイメージするのでしょう。
そこから自分の意念的な方に向かうか、自分を超えた方に向かうかで全く異なったものになってしまいます。自分の思念に任せてしまう、念力的なものと祈りとは違いますね。
自分の限界を弁えるところから祈りが生まれるのでしょう。
そうして祈っていると...祈り心が出てきて、いつの間にか何か有難い感じ、愛、安らぎが感じられてくる...そうなると、頭でイメージしていた神というものが薄らいでゆく感じになって来ないでしょうか?
観念的に思い描いていた神というものが、具体的な感覚として生きたものとして示されるようになるのです。
これが祈りの妙というものなのです。神に思いを向けるということが、どういうものかということを物語っているのです。
意識とか分かりにくいこた、ここでは言わなくてもいい...フツーに神を思うでいいのです。
だが...いつの間にか思いは超えられてしまう...
取っ掛かりは、祈りを通して神を思うことなのでしょうが、実はそのようにせしめているものがある...祈らされていることでもあるのでしょう。
私は今でも神が何であるかは分かりません。しかし、それは私の思いを超えせしめ、それと一つのものせしめるものである、ということはひしひしと感じざるを得ません。
これはもう、悟ろうとか覚醒しようとかってことじゃなくなってしまうのです。愛、平安に導かれるということは...
そういうことに意識が向けられない...これが現実で起きていることなんですよi
そういうものがあるにせよ、神的なもの抜きでは考えられません。私の現実では..."開かれる"という感じにはどうしてもなってこないのです。
とにかく、神的なものに自然に意識が向いて、パッとなってしまう...これは意識でも思いでもどっちでもいいことなんですが...これは、瞑想的なものでもあるし、思われたものよりも広く、深い意味での祈りと言っていいものでしょう。
ますます、祈ろうとしなくても、祈らされてしまうような感じになってくるのを覚えています。


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否定、肯定、受け入れること

2021-05-10 12:09:38 | 求道、探究
こうしていつも言葉を綴っている訳ですが、言葉というものには限界があると痛感せざるを得ません。
言外のことがどうしても伝えられない...まあ、いつも書いているものはそういうものばかりなんでしょうが...
例えば私は、"受け入れる"ということをよく言います。"そのままでいい"とか...
この言葉をそのまま受けると、"肯定すること"であるかのように取ってしまう向きも多いことでしょう。
ずっと読まれている方ならお分かりかもしれませんが、非常に微妙な違いのようで、この中身は全く違うものなのですi
この違いはいつも触れている、"思いを超える"かどうか、ということに関わる結構重要なものと言えるのです。
予め言っておきたいことは、肯定することや、その反対の否定することも、それが悪いと言っている訳じゃありません。
思いから離れたところでは、何も否定されるべきものは無いのです。すべては肯定...ち、違うなあi
だから...受け入れるしかないi...少し現実に即してみましょう。
怒りの念を発してしまったi..."怒っちゃダメなんだ!"、とフツーは否定的に捉えたりするのですが、短絡的なスピの教えなんかでは、因果の法則みたいなのを持ち出して、そういうネガティブな思いを捨てて、ポジティブな思いに切り換えましょう、とか出来もしないようなことを言います。
これは、否定的な思いを否定してんだ、ってことはよく考えれば分かりますね。いくら否定したって、消えないものは消えないし、かえって自責の念という、これ又うんとネガティブな思いに囚われてしまったりします。
そこで、進んだ(?)教えなんかでは、"怒っていいんですよ、そのままでいいんですよi"、とその思いを肯定しようとしたりします。
これはかなり微妙なところに触れているのは間違いないんですが、積極的に肯定的に思おうとすると、そこからズレてしまいます。
肯定感を強めれば、否定感も強まって短絡的になったりしかねません。善いんだか、悪いんだか分からなくなる...
"怒ってしまったi"...起こってしまったんだから善いも悪いも無いのです。そういう現実の前では...
要するに否定する、肯定するとか、善いことを思おうとか、思い方をどうこうするという問題じゃないということです。
その現実が、神的なものの現前であれば...受け入れるしかないi 自分が善かろうが、悪かろうが、思いは超えざるを得ない...そのままでいいも何も、そのままになっているしかありません。
こうあるべき自分など木っ端微塵i...あるがままの自分でなければそのみ前に与ることは出来ない...否、そうなっていることが現臨にあるということなのです。
色々な教えに接して、肯定という言葉で、受け入れるということを伝えようとしているのだろうことは、私もしばしば感じることもあります。
だが、受け入れざるを得ない現実というものは、けっして肯定的に思おうとすることじゃないのですi それは"断念"されるということなのだから...
思いを超えられるということは、信じたり疑うことも出来ないということです。
神を信じられますか?...受け入れられますか?
否定か肯定かという二元対立的な思いの次元を超えた消息のことは、この違いが示されることほど人生で大きな意味を持つものは無いにも関わらず、やはり言葉を持っては言い表すことは出来ないようです。
この現実は...受け入れざるを得ないのでしょう...。
コメント (2)
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最愛のものとの出会い

2021-05-09 03:57:09 | 
私がどうして最愛のものと出会うことが出来たか、だって?...
簡単なことだよi
私は最愛のものこそが人生で一番会わなきゃならないもの、どうしてもこうしても、会わずにおれないものだということが分かったんだ!
最愛のものに出会うことが最善のことなんだi
だから、もうそのもののことしか眼中に無かった...
どうやったら会うことが出来るかとか...どこで会うことが出来るかとか、そんなことじゃないi
ただ、会いたいという一心がある...そう思おう、思おうとするんじゃなくね...
時々はそんなことが意識に上る者も居るかもしれない
だけど、私はいつもそういうものに意識が向けられていた...
時々の人はすぐ忘れて、別のことに夢中なのさi...何が最善のことなのか知らないが...
色々な人が色々なことを言う...
しかし、すべてで一つのものしかないんじゃないか?...それが最愛のもの...
何と言うのかな?...もう、理屈ごとじゃないi
私はそのものと出会うに値するのかとか、相応しいのかとか、もっと自分を今よりマシな人間に高めようとか、成長してからとか、欠点を改めようとか...そんなあれこれはすべて余計なことなんだi
最愛のものとはどういうものかと自分で考え、分析し、もう少し分かってからにしよう、なんて人間には一生かかったって分かるまい、会えまい...そういう人間には縁が無いんだろう...
最愛のもの、そのもの...それ以外のものはすべて次愛、次善だi
次なるもの、最愛のものに"ついてのもの"は、最愛のもののことじゃないi
ましてや、人がそう言っているもの、人づてに聞いたものなどのことなんか...
そんなものに、そんなところに留まって居られる訳がないじゃないかi
最愛のものとは、その出会いの瞬間に分かるものなんだi
でも、それは会う以前から知らされている...だから分かるんだi
君がそう考えているもののことじゃないi
だから...だっても、どうやっても、へったくれもないんだi
"自分にはまだその時が来ていない"、とか"自分は会うに相応しくない"とか...何故、考えなくてもいいことを考えるのか?
現に真向かいに合いまみえているというのに...
だから、留まってなど居られないi
自分のすべてを挙げてそっちに向かわざるを得ないi
そのもの以外は意識されない
だから...そのものに意識が向いちゃうんだi
こんなこと、あれこれ考えている自分からは、とてもじゃないがそんなことにはならないi
難しいなんてもんじゃない...絶対に出来ないことなんだi
だけど、簡単なことだよi
自分には何も出来ないということが分かればね...
私が捉えようとする先にもう捉えられてる...
どうしてもこうしても、求めてやまないものは現前している...
現前していることほどリアルなものは無いi
この現実は受け入れるしかないi...考えごとでベールをかけることなんて出来っこないi
一切の虚飾、作為無しにそうなっているまま、ということなんだから...
いつの間にか、あちらの方が"会おう、会おう"としているのを感じずにおれなくなる...
だから...それを受け入れるしかないi
簡単だろう?...
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マイナスの自分を受け入れる

2021-05-08 10:40:39 | 求道、探究
私がいつも"思いを神的なものに向ければ、思いを超えられる"、なんてこと書いているので、さぞかし、"このヒトは、諸々の思いから自由なんだろう"、と思われる向きもあろうかと思いますが...そんなこたないi
何度も書いているように、私は生来から何かと思い煩う質でして、それがさして特別な悩み事がある訳でもないのに、ただ、思いがコンガラがっているだけになっていて、それ自体が悩み事になってしまうという、常人には理解出来ないほどのものを抱えていたのです。
しかし、それもあの"思いを超えた御方が臨んで来てくれたお陰で克服することが出来た...なんてことこたないi
克服したという覚えはないのです。克服しようとしたこともないのだから...諦めているのです。
例えば、次のような強迫神経症みたいなことは今でもあるんですよ。
私はTVで「ネプリーグ」というクイズ番組を割合観ているんですが、その中に"時間内に日本の鉄道で山の付く駅名十コ答えよi"、という問題を受けて、自分で川の付く駅名を3分以内に十コ答えてゆく、というのをやってみる...答えられないと番組で"ドカンi"となるように、上から核爆弾が落ちてきて、人類滅亡...人類の存亡は私に掛かっている..."ええっと、"武庫川"、"神崎川"、"寝屋川"(東京の人は知らない?)...ん~出てこない、どうなる、人類..."、と、そうして、これまでで3回くらいは人類は滅亡してるのですi(笑)
このように自分で自分を追い詰める、強迫するような心的傾向というものは今もあります。ジンクスをかつぐとか...道をうっかり変えると人類滅亡...(笑)
だけど、かつてのように深刻にはなりません。思いから離れられる道というものが開かれたのですからね。やはりこれは大きいことです。
しかし、克服したという風には捉えられておりません。
ヘタに"自分は克服出来た!"、などと思い込むと、克服出来ていない自分を見せられた時に、さらに否定的な思いが強化され、その自分を押し隠すように、デキル自分の仮面を装ったりします。
そうなると、思いを超えたものも開かれなくなるでしょう。
むしろ、そういう自分を否定する、排除するのでなしに受け入れる...いや、先の理由で受け入れざるを得ないというべきか?
受け入れたところから、開かれる...受け入れることで、思いの密閉空間から風が吹き込むのです。
思いのくびきの苦しさというものをイヤというほど知っているから、そういう自分だから、そこから離れることの喜び、自由というものが分かるのです。
思いに囚われる自分も居れば、超えられる自分も居る...これは思いは、思われた自分からはどうにもならないことの裏表のようなものでしょう。
どんなに自分がマイナスだろうと、ありのままの自分を受け入れなければ、神的なものも受け入れられません。
神的なものは、ありのままの自分を通して顕わになるのだから...
コメント (4)
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