人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

夢の中のネコ

2021-07-22 09:50:59 | 雑感
私は昔からネコとは縁が深く、幼い頃はよくネコの"ゴロゴロ"を子守唄代わりに寝ていたものでした。
これまで、生まれた多くの子ネコなども含めたら、何匹ネコを飼っていたか分からないくらいです。
大体が近所で"にゃーにゃ~"鳴いているのを拾ってくるか、家に迷い込んで来たのをそのまま飼ったか、勝手に居着いた(?)かしたのでしたが、ここ25年くらいは、賃貸住宅に住んでいるという事情もありますが、そういうケース自体にも出くわさなくなったのです。(野良ちゃんなら毎日のように、トタン屋根か塀を歩いてますよi)
しかし、あるネコの夢を見た時は、普段からずっとネコと共に生きているという気持ちになってしまうのです。
その夢一晩だけというのなら、別にどおってことないですが、何回も見ていて、出てくるネコはいつも決まっていて、茶トラとアビシニアンの中間という姿をしています。
このネコに近い感じのネコを飼っていたこともありますが、どのネコとも違うのです。
夢の中のシチュエーションは違うけど、ネコは同じです。こういう夢はいつから見始めたのか、定かではありませんが、この25年ばかしの間じゃないかと思われます。
こういう訳で、現実には知らないけど、夢の中では毎度お馴染みのネコなのです。
大体が久しぶりに会うことで、私は幸せな気分になるのですが、飼いネコなのか、どうかはハッキリしてません。
これは多分、現実にネコと身近に接している時でも、飼っているのか、ネコの方で勝手に居座っているのか、ハッキリしてない感覚が反映されているのでしょう。
つい数日前に見たケースでは、明らかに飼いネコで、長い間姿をくらましていたのが、押し入れの布団がモゾモゾ動き出して、全く長夜の眠りから覚めたの如く、"にゅーっ"、と起き出したのでしたが、ある時は大学に迷い込んで来たことも、仕事中に現れたこともありました。
どの状況でも私の想いは同じです。"やあ、君かあ、会えてうれしいーっ"
しかし、いつもすぐある疑問が持ち上がります。とにかくこのネコとは何十年も旧知の仲なのですが、いつも年格好は同じ、2、3歳という感じ、そして何十年も生き続けている...飼いネコの時も何日もエサを食べてないのに、眠り続けていたi
"お前は一体、どうやって生きているんだ?"...しかし、それも、"そうか、分かったぞi、これは夢なんだi"と、夢の世界の終わりを告げる、"覚醒の気づき"によって、明かされることに...
私が物心着いた時、ネコと共に居ました。
ある人なんかは、そういう場面を実際に見てるって訳でも無いのに、ネコの話をしたことがあるからなのか、私はいつもネコを可愛がっているというイメージを持っている、と言います。
確かにネコが大好きだし、私の人生でネコとの関わりは深いものがあります。いつもネコと共に居る気もします。
だから、ああいう夢を見るのでしょうか? そんなだからネコを飼いたい願望が投影されているのでしょうか?
それとも、あのネコは守護霊か何かの現れなんでしょうか?
いいや...私が生まれつき、"善か悪か"、二重人格のネコ人間みたいなものだからなんでしょうか?


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考えるなi 意識しろi

2021-07-20 11:44:58 | 求道、探究
前回の記事で、"考えごとにしないで、感じたらいいんですi"、みたいなこと書いちゃったのですが、実は最初からもっとストレートに響くであろう、ある言葉が浮かんでいたのです。
だけど、それは一寸使い古されているような感じがするので、引っ込めてしまったのでした。
しかし、今日は、あのブルース.リーの命日なのだそうな...ちっとも知りませんでした。そんじゃあ、改めまして...
「考えるなi 感じるんだi」
これは、ご存じ映画「燃えよi ドラゴン」の台詞ですが、日本で封切られた、昭和48年のブルース.リーの人気ぶりはそりゃあ、スゴかったi...日本の映画界にも火が付き、翌年ぐらいから空手とか武道を描いた作品が続々作られたくらいです(大体が東映系)。しかし、リーはこの時既に故人になっていたのでした。
私は当時高校二年で、クラスにブームに肖って市販されていた、ヌンチャクを持ち込んでくる生徒が何人か居て、私が借りてテキトーに振り回してたら案の定、腕を強打し、その痛さに悶絶して、二度と触るのも、見るのもイヤになったことがあります。(それからすぐ学校で持ち込み禁止となった)
ところでこのブルース.リーのものなのか、脚本家が考えたのか分からないこの台詞ですが、このように続くのだそうです。
「...それは月を指差すようなものだ。指ばかり見てちゃ栄光はつかめないぞi」
一体、何を感じたらいいのか?...と、考えてしまう...それじゃ、ダメなんだと又...具体的に感じられるものがあるから感じることが出来るのです。
これは、武術の修行での場面でしたが、"考えるなi"、という言葉には、小手先のテクニックなどに囚われない、ということも含んでいるようですね。
何ごとでも目的が明確になっていなければ、テクニックなどの手段に溺れてしまう、ということはフツーに言われるようですが...
私は武道などのことは、よく分からないのですが、人によっては、技法や理屈を超えて、何かに惹き付けられるように、自然と動作が起こる瞬間というのがあるのではないですか?
この言葉の喩えでは、"月を見ろi"、と言っているようですが、月の魔力みたいなものもあるのかもしれません。
私なんかは、一寸祈り心地になって、意識が月みたいな自分を超えたものの方に向けられると...そう、あるんですi
これは、感じるというより、意識することなんです。そうすると、じんじん感じられてきます。
何かは分からないけど、意識したらそういうの感じられませんか?
だけど意識するなんて言うと、やっぱり考えることだったり、念じる、意念を強めることだったりして、毎度のことながら、上手く言い表せないんですね。
感覚と切り離せないものなんで、やっぱり意識して、感じてもらうしかありません。
要するに、考えることや、考える自分がやる行為とは違うということが分かれば、そうなっているものです。
これは、考える自分を超えたものがある、ということを言っているのです。これに自然と赴いてしまう...ここには目的というものも無くなってしまう...それに囚われると、やはり思いに取り込まれてしまいます。
このことが分からないから、修行のための修行になってしまうのでしょう。
惹き付けてやまないものがある...やはり月の魔力のようなものなのか?
気が付いたら、カミかオオカミになっているんじゃないでしょうか?!
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自分が自分で居られる感覚

2021-07-18 10:13:08 | 求道、探究
感覚。
感覚というと、熱いとか冷たいとか痛いとか、肉体に結び付いたものしかないと思っている人もいるかもしれません。
しかし、誰しも例えば、あそこへ行くと何となく心地よいとか、薄気味悪いとか、肉体的でなくとも"体感"しているのではないでしょうか?
それとも、そういうことは意識せずに、"思い過ごして"しまうのでしょうか?
私が数十年前に突如芽生えた感覚というものは、単なる肉体的感覚ではありません。
といって、体感的なものが無いという訳でもなく...じゃあ、霊感か?...霊能力が発現した訳でもありません。
私がこの時実感したことは、肉体的なことと精神的なこととは、元々つながっているということ...つまりその感覚は、心身の分けられないものだったのです。
これを便宜的に内的感覚と呼んでいるのですが、これが霊性を深めて行く上でのベースになっているのです。
現臨感覚、何か超越的なものによって照らされていく感じ~照明、何かに導き、守られている感じ...これらはすべてこの感覚のバリエーションと言ってもいいのです。
心身は分けられないものだけど、単なる思い、マインドとは分けられねばなりません。このことはいつも意識付けられていることです。
考えても分からないことを考え続けて、空想、妄想してたって、いつまで経っても霊性は開かれるものではないのですから...
このことで、思いを超えたものが意識されるのです。いや、意識されるから思いが超えられるのか?
何でもいいけど、意識と内的感覚はつながっているのです。
最初は微妙に感じられるものでも、考えごとのようにしないことがコツです。といって考えまいと念じたりするのでもなく、感じていたらいいのです。
内的感覚というのは、難しく考える必要ありません。自分が自分で居られる感覚と言ってもいいのです。
そこには、"私は在る"感覚、安心、愛が感じられる...不快だったり、恐ろしい感じは、内的には感じられません。どうもそういう時は、内的に閉じられているように感じられますねえ。
要するに、自然に、本来的に感じられるものなのです。
ということは、これから修行して開発し、獲得するものじゃないってことです。
だから、難しく考える必要がない...自然に赴くものを感じていたらいいでしょう。



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神のタッチ

2021-07-17 10:57:59 | 祈りと瞑想
"神の手がかかる"
これは、私があるスピリチュアルな力に捉えられ、自分の思い、力が後退されることをそう言っているのですが、オショー.ラジニーシなども"マスターズ.タッチ"、と似たようなことを言っているのですね。(そうだった...)
とにかく、いつも言うことは、自分からは自分の思い、力を後退させ、それを超えたものに与ることは出来ないということです。
自分を超えたものが接触してくる...これは、極めて具体的な感覚を伴うものなのです。
神が何かは分からないけど、抽象的な観念でない、アリアリとした神的現存に与るということは、この感覚無しには開かれないと言ってもいいでしょう。
まず、その神的現存が臨む、という現臨感覚というものに与ることが根本的なことです。そこからでなければ何も始まりません。
さらにそれが直接的に力、ハタラキとして感覚されてくることを神との接触、タッチされると言っているのです。
具体的には首筋辺りに、何か引きつれのようなものが感じられ、それが全身に及ぶようになってくる...こないだ、一寸熱中症になりかけたのですが、似たところはありますね。
決定的に違うのは、苦しさ、不快さというものは無く、意識がボーッとなって、地に足がつかないという感じにはならないで、むしろ明晰になって、"私は在る"という感覚が深まってくるというところです。
これとは違う、私はほとんど経験がありませんが、何か別の霊的な力によって、あるいは誰かを通じて、それに近い状態になるという例もあるかもしれません。
これには、現臨、私は在るという感覚が有るかどうか、あるいはそこに愛、平安が感じられるかどうか、ということが重要な見きわめと言えるでしょう。
要するに、見た目にはともかく、それは他から操られたりするものでなく、より自分自身になる、自分の実存が開かれる、ということ...言い換えると、何かに支配されるのでなく、自由になるということです。
私が最初にこういうことになったのは、多分昭和53年暮れの、あのムチャクチャ祈っていて、意識が遠退くような事態に見舞われた時だと思うのですが、そうなる恐怖があったせいか、実はその見きわめは出来なかったのです。
しかし、ひたすら祈り続けているうち、"私はここに居る"という感覚とともに安らぐことが出来たのでした。
ここで肝心なことは、神の手がかかることは、ある霊的な力、そういう作用それ自体に囚われる、捉えられるということでは無いということです。これは、言葉にすれば微妙なようでも、実に大きな問題ですi
神と切り離しても、別の力によってもこういうことは行われるでしょうから...言い換えれば、神と切り離されるから別のものに変質してしまうのでしょう。
ですから、ムチャクチャ祈ることはお勧めしませんが、神そのものを求め、祈ることが大事なのです。
私の経験では、祈っているうち、有難い気持ちになってきたならば、もう、そこに神にタッチされるという端緒はもたらされている、と言えるでしょう。
このことに意識的になってみる...意識的に深まるにつれ、何かがヒタヒタと迫ってくるのが感じられる...そうなると、神にタッチされるのも時間の問題でしょう。
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霊の現実に目覚めて

2021-07-15 11:46:15 | 回想
私は暑さが大の苦手でして、ここんとこの急な暑さの到来に早くもバテ気味なのです。
昨日は一時、何か心ここにあらず、地に足がつかない感じになってしまいました。
これはもしや、五井先生のことを批判的に書いたバツなのかなあ、なんてことも思ったりもしたのですが...困った時には、そうだ、「世界平和の祈り」を称えるのがいいんですよi この場合、"内なるものが開かれる"云々ということは関係ないんですからねi

あの時もそうだった...昭和53年の暮れ...。
"いつまでも先生に依存してたらダメなんだi"...それまで特別な師として、崇拝に近いような気持ちで接していた、五井先生から意識的に離れる決心をした直後のことでした。
"意識が飛びそうだi、気が狂ってしまうんだろうか、死んじゃうんだろうか、バチが当たったんじゃあるまいか?i"...
初めて、ハッキリ意識が変容したことを経験した時、実にキケンな精神状態に晒されていたのです。
これは初めて必死で、むちゃくちゃ祈っていたことで引き起こされたことで、又それによってか、心の平静さを取り戻したという顛末だったのです。あ、そうそう、そういや、"五井先生ーっ"、て叫んでましたっけ(笑)
この時、意識は飛ばなかったですが、明らかに思考は飛んでしまっていました。"思いが超えられる"、という端緒はここにあったのです。
これ以降、私にある感覚が芽生えたのです。
現臨感覚というのもそうです。あの窮地から救われたのは、"私はここに在る"~これは、自己、自己を超えたもの共々が在るというニュアンスです~という、実存感覚によるもので、それも現臨とつながっているのは言うまでもありません。
当時、中国の宗教結社、道院(まだ見習い期間中だった)で伝授された「先天の坐法」を修していたのですが、そういう影響からか、それ以降、顕著な変化が感じられるようになりました。
"気"というものの存在、その動き、巡り、自分の意志で集中しようとしなくとも、自ずと意識が集まるような感覚などです。
これは、十数年途絶えていた期間もありましたが、現在でも続いているものです。
ただ、一つ違うのは、耳下線の部分というのか、ほっぺたから後頭部にかけて膨張するような感覚が鳴りを潜めたということです。
これは、精神の高揚感に伴うもので、どっちが先かはよく分かりませんが(同時?)、ある種の宗教的、スピ的な本を読んでいるだけで、よくそうなりました。(ぱっと読んだだけで、ぱっとそうなる)
書店で、どの本を選ぶかはこれで決めていたほどです(笑)...で、そういう本というのは、"ぷくーっ"とはならないけど、大体今でも愛読書です。何でこの時、立て続けにそうした本に巡り会ったのかはよく分かりませんが...
こういう経験を通して、それまでとは観方、感じ方がハッキリと変わったことは、それまで短絡的に信じ込んでしまう傾向のあった、自分で確かめられないような、霊界の存在とか過去世のこととか所謂オカルトめいた話についてのことです。
つまり、現臨感覚、私の実存と直接つながらないものとは区別されるようになったのです。
これは、そのまま思考~思い描いた世界と、それを超えた世界との区別と言い換えてもいいでしょう。
又、それまで、霊、霊なるもののことについては何回も耳にしていたし、思い、イメージを膨らませもしてきました。
だけど、それはどこまでが現実で、どこまでがファンタジーであるか、全く曖昧なものだったのです。どちらかというと、現実遊離したものという風に捉えられていました。
しかし...「霊なるものこそは現実である」(ベルジャーエフ)ことにこの頃目覚めたのです。これには、精神が高揚せずに居られないというもの...
もっとも、それは多く予感めいたものの内に知らされていたのでしたが...。
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