人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

昼休みはみんなで...

2021-07-07 11:55:12 | 祈りと瞑想
先日、仕事の関係でアフリカ、ガーナの黒人で、イスラム教徒の方と共にしました。
たまたま、今初めて本格的に「コーラン」を読んでいるのですが、イスラムの方には悪いけど、正直あまり面白く感じず、とても文庫本(岩波)で三冊通して読む気になりません。
同じ預言の書ということで、「旧約聖書」みたいなものを連想したのですが、コーランの方には隠喩というか、象徴的な表現が少ないという違いがあります。とても現実生活に則した内容が多い、という印象を持ちました。
そこで、そのにわかな、浅い知識を元に、片言しか日本語を話せない、その彼に片言の英語を交えて色々話してみました。
「コーランを毎日読んでいるのか?...読んでるって? リアリイ?i...(あんな退屈なものをかi)」
私は彼がジョーク混じりで話しても、おおらかそうな性格に見えて、"多分、殺されることはないだろう"、と思い調子に乗って、「僕がお金に困った時は、お金を貸して下さい、でも利息を取っちゃダメだぞi(イスラムでは禁止されている。だから銀行員になる人は居ないのだと言う)」「(これ見よがしに)あの前のカレー屋さん旨そうだな、よしポークカレーを食べようi(何故か、ポークとカツカレーしか看板にない)」...と、アラーの呪いも恐れずに続けるのでした。
又、ご存じのように、イスラムでは毎日祈りの時間が定められているのですが、さすがに仕事を中断する訳にはいかず、昼休み時間にまとめてやるのだそうです。勿論、聖地メッカのある西の方角に向かって、だそうです。
そして、昼休みになって、彼は何やら"アラビアの怪人"ザ.シーク(悪役プロレスラー)のように、派手な色柄のカーペットを取り出し、本格的に祈り始めたのでした。方角は北のような気がしましたが...
祈りの時間。傍らで誰かが祈っていたら、自ずと私も意識がそっちに向いてしまいます。
ある集団で、一定の形に則って行う場合は、勿論私もそれに順次ますが、いつの間にか、無形の、内的に開かれる感じになってゆきます。
この感覚は、多少のバラエティはあるものの、根本的には、この時のイスラムだろうと、キリスト教、神道、何教だろうと同じです。同じでなきゃおかしいでしょ?
私はとにかく昔から、神、神的なことに関して、どの神が高い位だの、唯一神だ、多神教だ、どっちが正しいか、どうかだののことなどマトモに考えることが出来ません。生理的に考えられないのですi
それは、あまりにも人間的なことで、人間がそう言っているというのなら分かります。だけど、人の思いを超えた神にカコつけて宣うなど、悪いジョークのようにしか感じません。
このリアルな現臨感覚ともいうべきもの...それは全てで一つのものです。全一なるものは分離することが出来ません。分裂しているのは、そのように語る人間だけではないでしょうか?
ところで、このイスラムの慣習に習って、一定の時間祈りの時を持つ、ということは素晴らしいことだと思います。
勿論その形、信仰の別、時間も自由でいいでしょう。昼時間などは普遍的に時間が取れていいでしょう。
少なくとも、何らかの信仰者なら可能なはずです。といって、勿論これは、随意に...と言っているのでして、その気の無い人には勧められません。当たり前のことです。
自由でなければ...自由であるから内発的になる...そこから思いを超えたものが開かれるのです。
気が向いたら...って感じでもいいと思いますよ。気が向けば、意識も向くでしょう?
少なくとも、こういうことが世界的規模で習慣となったら...と思いは馳せてゆくのですが...
世論が分裂してて、何のためにやるのか分からない、オリンピック開催もいいけど、このみんなが参加出来る、宗教的オリンピック?みたいなこと、今まで誰も唱えなかったのでしょうか?...世界の宗教を超えた統一的なやり方はどうしたらいいかとか、メンドクサいことじゃなくて、自分の自由なやり方で、ほんの少し、気が向くだけのことなのに...
これは夢みたいな話なんでしょうか?...それとも何のために存在してるのか分からない、多くの宗教というものが夢みたいなものなのでしょうか?
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隠された祈り

2021-07-06 10:11:44 | 祈りと瞑想
私がこれまで、"こうすれば何かの境地に達する"とかの特定のやり方、方法というものに頼ってこなかった大きな理由は、そのやり方を覚えようという気が無かったからなのでした。
まあ、これほど根本的な、生来的な理由というものは無いでしょう。
言うまでもなく、やる気が無い、その気が無いってことは、根本的にその道に携わるには相応しくないことなのです。(私の場合はってことですよi)
自然にそうなってしまうんだからしょうがないのです...。
"悟りを開くために、神と一つになるためにそういう方法に従うんですよi"、と言われたって、そうなる気がしてこないのです。
これには、色んな人が色んな違う方法を掲げるので、何が本当なんだか分からなくなる、ということも重なっていたのでした。
そのマニュアルのような書き物があっても、字面を追って読むことも困難になるくらいで、これは生理的な問題と言ってもいいでしょう。
そうは言っても、勿論どうすれば悟りや神の道につながるか、ということも考えていた訳でしたが...しかし、どうしたらいいかは分からなかったのです。
そこで、"人に訊いてもそんな風なことで、ラチが明かないので、神に訊くのがいいi...求めているものそのものなんだから間違いあるまいi"...
というようなことは、求道初期の頃は、勿論意識されてませんでしたが、どっかで覚えられていたのでしょう。
これは祈ることなのです。
祈ることは、何も"ひっかかるものなしに"、自然に出来ます。求道心が起こる以前の昔からしていたようですし...
このことに限らず、どうしていいか分からない時は、自然と"神様..."、と祈らされていたのです。神は何かは分からなくとも...
"神よi...あなたはどういう方なのか分からない...どうか、ハッキリとお示し下さいi"
これは、昔から、いや、物心ついてからというべきか、自覚的でないが、意識に覚えられていた、"隠された祈り"と言ってもいいでしょう。
私はそれがどういうことか知らずに、私を超えたものに意識が向かわされていたようです。
私を超えたもの...私は人からの知識でなしに、自然とそっちに意識付けられてしまうところがあるのです。
このことは、今の私が意識的にさせられることで、ハッキリと分からされます。
祈りについては、色んな人が言う、色んな祈りの"方法"について尋ねるのはバカげたことです。
勿論、幾人かの先師たちから啓発を受けたこともありましたよ。
しかし、自然に身に付いている部分が大きいのです。
祈りと言っても、願いごとをする訳じゃありません。もっとも、そういうこともありますが、根本的には、思いを超えて、神的なものと交わることに他なりません。(いつも言うように、これは深い部分で瞑想と同じなのです)
そのように意識が向かわされる...そのようにやろうとしなくたって、元々その気になってしまっているのですi
そうすると...何だかよく分からないが、何かが開かれてくる気がしてくる...面倒クサそうな、人為的なことは手が付かない...
これが、私が一つ祈ることはしてきた、やらされていた理由なのです。


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幸福と自然な状態

2021-07-04 10:36:39 | 雑感
「人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ。ただそれだけの理由なのだ」(ドストエフスキーの言葉)

人生には不幸な事態、苦難というものが付きものですね。
不幸を避けて、幸福なことばかりを追い求め、得ようとする訳には行きません。
不幸、苦難を抱えるというのは、どういうことかと言うと、そのように思い煩うということに他ならないでしょう。
そのことについて、"思い煩わなきゃいいんだ、考えなきゃいいんだi"、と平然と言い放つ向きがあるならば、その人間は思い煩ったことも、自分自身に向き合ったこともない、ということでしょう。
"思い煩うことは苦しい、そこから逃れたい...けど次から次へと思いに絡められ、いよいよガンジガラメに陥ってゆく..."
こういうことを書いているだけで、段々そのようになって行きそう...昔からそういう性向と共に生きてきたからでしょう。
しかし、昔からと言っても、本来からということとは違います。何故ならば、そういう苦境から脱したいという思いがあるからです。
それは、身体的な病についても言えることで、苦しみにあるのは本来性から離れているからで、そこから癒されることでそこに戻れる、という自覚があるということでしょう。
こういう自覚があるからこそ元の状態に戻れるのです。
では、この本来性というものは、不幸からは離れることなのでしょうが、幸福な状態ではないのでしょうか?
中立な状態?...私は言葉では知ってますが、実際はそれがどういう状態なのかは分かりません。まあ、考えてみると、とても退屈な状態なのかとも思えますが(笑)...
不幸にも見舞われてないが、幸福なことにも与ってない? まあ、世の中こういう事態になってるし、金は無いし、いつ不幸になるかも分からないし、良いことは無いみたいですよi
しかし、特に幸福なことが得られる訳じゃないけど...幸福な状態にあるってことは分かるのです。本当に幸福に与るということはこういうことなのでしょう。
本来性ということ。私は最近、ここに意識が自ずと惹き付けられてやまないものを感じています。
ということは、それは思い煩いから自ずと離れられるということなのです。
本来から来るから自ずとそうなる...それは、考えることをやめるとか、ネガティブな思いを引っ込めて、ポジティブな思いに切り替えるということでもありません。
ラマナマハルシが、「幸福であることは、人間の自然な状態である」と言っている通りです。
人は不幸な事態に見舞われて、不幸な思いに囚われます。しかし、幸福は、そうなれるようなことが舞い込まなくともそうなっているのです。
自然な状態なものほど、気付くことが難しいようですが、これほどシンプルなことは無いでしょう。
私が過去、思いのガンジガラメ地獄から脱したことを思い返すと、全く他愛の無いことからばかりだったのでした。
風向きが、気温が変わったとか、気候の変化とかが実に大きかったのです。
変わるというのは、自然な状態に他ならないのです。
だから...変わろうとしなくても、変わる時は変わる...。
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真理を生きる

2021-07-03 09:56:00 | 哲学・思想
「真理は抽象的理性の光ではなく、霊の光である」「真理を把握するということは、我々とは無縁のもの、我々と対峙したものを把握することではなく、真理との交わりであり、真理の中で生活し始めることである」(ベルジャーエフ「真理とは何か」/理想社刊)

人間は歳を取るにつれ、感受性は減退して行くものなのでしょうか?
私の場合、ある部分では減退し、別の部分ではさらに増したようにも感じます。(これは怒りっぽくなったとか、老年期特有のものとは違いますよi)
正確には、抽象的に思い描くようなことよりも、具体的、身体的に浸透するようにも感じられるようになったというべきでしょう。
私は、精神的な道に目覚めた20代の若い頃から、真理の探求らしきことに夢中になってきました。
"私はついに真理を見い出したのだi"、と感じたことは何度もあります。
しかし、その多くは、ただ、"これが真理だ!"、と思い描いていただけだったのでした。
何故ならば、その多くは今の私はそう感じていないのだから...
"ある時の真理の発見は、新たな真理の発見によって色褪せたものになり、それも又時と共に消えて行った..."
一体、私は何に対して真理を感じていたのでしょうか?、その真理とは如何なるものだったのでしょうか?
真理とは?...そういう経験をしてきたからか、正直どうでもいいと思っています。
真理らしきものは、かように"消えてゆく姿"となった訳ですが、それとは別に、昔から私に根付いている、言い換えれば、身に覚えられているものがあるのも確かなことです。
そう、具体的にそう感じられることほど確かなことはありません。
それが真理なのかどうかは分からないし、どうでもいいことです。
とにかく、私はそう感覚されたものに意識が向かわざるを得ないのです。
それは愛、平安といったものをもたらす感覚に他なりません。
愛、平安、そして真理と思い、考えられていたものの多くはここに残っていないのです。
真理というものは、当然のことながら相対的なものでしかなく、真理であろうとするものは人によって違いますし、前言のように時によって変わるものです。
しかし、その感ずる内容は何であれ、何人も真理の探求に心を向かわせるものは、そこに何らかの光、幸福といったものに与らんがため、という意識が働くからではないでしょうか?
少なくとも、私はそうでない真理のことなど考えたこともありません。
私はそう考えてきたのです。真理の発見というのは喜ばしいことに違いないでしょi、でなきゃウソですよi
そこにはしかし、私の思いと別なところで、知らずに何かが浸透し始めたようでした。
愛、平安、幸福というものは、そう思い描かれたものではなかったのです。
私は頭だけでなく、多分全存在は、愛、平安...そう感じたものに赴かざるを得ません。
それを真理と呼んでいいのかは分かりませんが...。
意味は分からずとも、生きるとはそういうことではありませんか?
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闇夜に鳴り響く謎の声

2021-07-01 11:56:17 | 雑記
私が今の所に来て12年くらいになるのですが、いつしか夜になると、"け、け、け、け"...と何か動物の鳴き声みたいなものが聞こえてくるのに気が付きました。
最初は、今頃の季節、雨降った後などによく車に轢かれて死んでいるのを見かける、ヒキガエルだろうと思い、実際動画で聞いてみると、それに近いし、さして気にならなかったのですが...しかし、冬でも聞こえてくるではありませんか?
ところでこのヒキガエルってのが、何とも不思議で、その幼生はオタマジャクシに違いないだろうし、近くに沼も、池も無いのに、連中一体どこからやって来たのか?、と思ってしまうのです。もしかして、地中からカエル体となって這い出すのでしょうか? カブトムシじゃあるまいし...
家から2キロぐらい離れた、公園の池がその故郷なのでしょうか? オタマジャクシそんなに居るか? いつも大挙してここまで移動するのか?
それともこの地下に知られざる池でもあるのか?(かつてあちこちに沼や池があったというが...)
こんな特異な生態を持つ連中のことだから、都内のどこでも出没するのでしょうね?...それともここだけだったりして?
ちなみに私がここへ来る前、20数年間兵庫県に住んでいた時は、近所でヒキガエルなぞ一匹も、死んでいるのも見た記憶がありません。
んで、そうそう、あの奇怪な鳴き声のことですが、最近色んな動物の鳴き声を聞き比べて見たところ...イタチにほぼ確定しました。
ヒキガエルの鳴き声とよく似てますが、も少し低音で、よく響き渡ります。
野生のヤツか? 私は一度も出くわしたことがありません。ペット?、じゃあフェレット?...いや、鳴き声が違う...。
野生だとして、ここ東京では、ハクビシンやアライグマの出没例(明治神宮や多摩川河川敷には、私も見たことあるがタヌキが居るi)はよく聞きますが、イタチはほとんど聞きません。
兵庫の武庫川に近い所に住んでいた時は、一時頻繁に見ました。
最初見た時は綺麗な巨大ネズミかi、とビックリして、私が"妙な生き物が出たぞi"、と知人に話したら、"何や、イタチやんかi"と当たり前のように言っているのが不思議に思えたのでした。そこではフツーにお目にかかれるらしいのです。
何でも江戸時代に、ネズミ駆除か何かの目的で、沢山武庫川沿いに放したことがあったとか...
お陰でネズミは出なくなったらしいけど、飼ってる鳥が頻繁に被害に遭うらしいです。
一度、そいつがネコに追っかけられているのを見たことがありましたが、ある一瞬ネコも私もキョトンとなってしまいました。
突如視界から消えてしまったのですi ネコが首を傾げてる所を見ると、どうやら小さい排水溝の穴に逃げ込んだらしいです。何て神出、いや伸縮鬼没なんだi
不思議な動物にも地域差ってものがあるのでしょうか?
いや、待てよ、ホントにイタチってことでいいのだろうか? 気になる~...
今度、近くのばあさんに会ったら聞いてみよう、"け、け、け"の正体...
何で急に気になり出したかと言うと...最近、"け、け、け"、と笑うお化けが出てくる動画を観たからなのでした...。

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