人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨と磁場

2022-06-21 10:58:14 | 現臨、ハタラキ
神業者とか神社によく行かれる方ならお分かりのように、古い神社には、神気、霊気のようなものが感じられたりします。
実際には、その中心である社殿辺りからでなく、その裏山であったり、神域とされる周辺からそれが醸し出されていたりするのです。
もっと具体的に言えば、神社の原態そのものであったりする、巨石(複数の場合もある)がその気を媒体している場合が多いのです。
霊なる気..波動と言ったりもしますが、これと現臨と私が呼んでいるものとどう関係しているのでしょうか?
そんなに多くはないですけど、その気を感じている内に、現臨にあるような意識状態になったこともあります。
思考が超えられて、実存的な内奥が開かれて行くような状態をそう言っているのですが、ただそれは、その磁場(ディーバ?)からの霊気によるものなのか、私に固有のものから来るのかは定かではありません。
多分両方だと思いますが、磁場特有のものか、一人一人に直接関わるものなのか、この違いはあるのです。
この場合、その磁場エネルギーがそういう意識状態を呼び覚ましたと言えるでしょう。こうなったらそこに違いなど感じられません。
上の理由で、磁場からのものだけからはあまりそういうことにはならないのが普通でしょう。いや、いつもそうなったらオカシナことになるかも...
この霊気というものは、神縁の無い者には感応しないものでして...な~んて、そんなことありません!
現臨状態とか妙なこと(?)になる人はともかく、これは所謂霊感の有る無しに関わらず、誰しもが感受出来るものだと私は信じて疑いません。(何も感じないというのは、よほどの鈍感か、敬神の思いを全く欠いた人なのでしょう?)
その意味で、霊なるものには違いないでしょうが、物理的エネルギーに近いものだと思われます。自然界には未知なるハタラキがいっぱいある!
漠然と思ったり、感じたりしないで、意識を、それがどこから来るのか、向けてみたら岩に当たるかもしれません。
その際、”これは何の霊だ”とか、やたらと固定観念に任せて、あらぬ空想、妄想ごとに走って、”異なる神”(観念の神)に感応してはなりません。正しい神は、自己の内なるものと切り離されていないのです。
そして、この自然の霊気は、各人固有の霊気が気枯れ(ケガレ)、弱まっている時などそれを補充し、あるいはそれをより豊かなものにする役割があるようです。
古来より、我々日本人はこうした精神文化に親しんで来たのです。本当の神の宮はこちらにあるのです!
キリスト教的西欧にしてみたら、磁場エネルギーなど異神(ディーバ)みたいなものなのでしょうが、自己の深いところでは一つのものとならざるを得ないでしょう。
というより、現臨は普遍的なものなのだから当然なのです!


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ただ感じていたらいい!

2022-06-19 10:16:18 | 哲学・思想
いつも言うように、宗教、スピなど精神的な道というのは、分からないことだらけです。
何しろ実証することが出来ません。
実証科学だって、新説が出てきて、それまでの定説が覆ることがあるのですよ!
だのに、何故かくも固定観念に囚われた、決めつけたような言辞でいっぱいなのか、不思議でしょうがありません!
色んな人が違うこと言ってる...これだけで何がホントなのか分からなくなりそうじゃないですか?
前世というものがあるのです!、って誰かは言うかもしれないが、私には分からない...かといって、あるかもしれないから無闇に否定も出来ません。要するに、”へえ、そうなの?“、とテキトーに聞いてる、っきゃないことなのです。
こういうものに、ドグマ、権威などが蔓延るというのは、ホントにオカシイと言う他ありません!
かく言う私だって...そういうものに反発してはいたけれど、長いこと分かろうとしていた...分かろうとする呪縛から抜け出すことが出来なかったのです!
何が正しいことなのか、思考で判断しようとしていたのです。それ自体が悪いってもんじゃなく、そういうことも勿論必要ですよ。
しかし、そもそもが分からないことだらけの土壌にあっては、そのように観念で固めてしまうことは、それを不毛の地に変えてしまうことにつながるでしょう。
そこから、生きたものが伝わらない、感受出来ないということは致命的なことです。
そう、それは伝わる、感受出来るものなのです!
だったら分からなくていい!...それは何か楽しい、幸福にさせるものなのか?...だったら尚更のことではないか?!
こういうことは理屈じゃありません。そして私は知らされていた!...何か分からないけど、惹かれてやまない、幸せにさせる何かを!
誰しも経験しているのではありませんか?
ただ感じていたらいいのです!...それをいちいち“これは何次元からの波動でして“、だの”あれを信じたら、この行法を行えば得られる!“など思念のコンクリートで塗り固めることなどしなくても...
それでは命の通路は塞がるだけです。
ただ感じている、受け入れる...受容。通ってゆく...
その真実性、実在性などに囚われずとも、在るものは在るだろう...否定しなくとも、無いものは無いだろう。通るものに流れてゆく...
これは思考を働かせる以前に、意識が動き、つながるようなことです。
愛しい命のぬくもりの、幸福にさせずに置かないあの感じ...忘れてはならない!...
いや、こちらの思いを超えて、あちらの方が覚えてくれているのでしょう!
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ハートの目覚め

2022-06-18 10:11:55 | 覚醒
「心がハートにとどまっていれば、個我は消え去り、真我が現れる」(ラマナ.マハルシ)

精神的な目覚めに与る時、思考マインドが後退し、純粋意識が顕わになるということは、何度か言っています。意識の転換が起こるのです。
このことは全くその通りで、私は長年そのように、それだけであるように理解していたのですが...
だから、再び思考マインドに心が覆われると、又その意識状態になるようにと、色々”思ったり“するのです(笑)
意識がどうとかならんかなあ、と...意識次元のことに囚われていたのです。
しかし、その覚醒の事態には、もう一つハートの目覚めというものがあるはずなのです。少なくとも私の場合は...
このことは、何で理由も無しに涙が止めどもなく溢れてくるのか、説明の付かないことから伺えられるでしょう。
思考的部分に隠れているので、あまり自覚されることは無かったのですが、二つのことは分けることが出来ませんが、本当に実感されたことは、こっちの方だったと言えるでしょう!  
これは、思考が飛んでいたのだから、当然のことなのですが...要するに思考に囚われ、ハートにとどまることに意識が向けられなかったということです。
(これは、誤解されることですが、ハートのチャクラのことを言っている訳ではありません。そこに意識を集中しないと、とか囚われちゃうでしょ?)
思考は、もっと高い悟りの段階、もっと覚醒意識状態を定着させねばならない、などと駆り立てられる...そうなっている時、魂はあの愛、平安に安らぐことは無いのです!...これを欠いた悟りなどある訳が無いではないか!
いや、ホンモノ?の、究極?の悟りを追い求めることなどどうでもよい!
愛、平安はどこから来るのか?、その源、最愛のものとの出会い...原点に帰ることで、そういう思いから吹っ切れることが出来ました。そして追い求めても得られない、そのものが恒常的に感じられるようになったのです。
私は、それで真我が実現したのかどうかは分かりません。んなこた、どうでもいいでしょう!
分かっていることは、そう思っているのなら、思いたいヤツがそう思っているというこでしょう?
だけど、真我だろうと偽我だろうと、そう思っている私とは別に、私は在り続けてますよ!
あっちの私がこっちに臨むことで...
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安楽の法門

2022-06-16 10:04:02 | 祈りと瞑想
「座禅は習禅にあらず、安楽の法門なり」(道元禅師)

座禅でも瞑想でも日夜修行に勤しんでいる方、修行は楽しいですか?
え?、足のシビレと闘っている?...睡魔が襲ってくる、雑念が止まない...正しいやり方で出来ているのかどうか迷っている...
でも、そこに平安、至福があるという、悟りの境地を目指しているのだから、修行に励まないとならない?
だから、どんどん修行を深めて行って、段々その境地に近づいて行く?
しかし、その座る道において知らぬ人は居ないであろう、道元禅師は“座禅は習禅にあらず“、と言っているのです!
私は門外漢なので軽々しいことは言えませんが、長年、自分が勤しむ何かによって、段々悟りとか高い境地が開かれて行くんだ、という思いに支配されていたのは、同じだと思うのです。
実際に取り組んだということは、ほとんど無かったですが、“精神世界“のことがブームとなり、様々な教え、メソッドが紹介され、それらに目が奪われたりしたこともありました。
何てこたあない、私にはそういうものに取り組む気根が無いように感じてならなかっただけなんですけど...別のものも既に感じていたのです。
何らの修行らしきことをしていなくとも、歓喜、平安に包まれてしまうことがあるということを!
いつもそうなる訳じゃないですが、ある本を読んでいるだけでそうなる...随喜の涙がこぼれる!
これから、あるやり方を習得しようという気持ちになりません。
ただ、そのまま感じていたい、安んじていたい!...これが正に現臨にある状態に他ならないのです!
何もする気が起きません。そのまま...座り続けるのなら、そのまま、ひたすら座るのみ...只管打座。おそらくは、菩提樹の下でブッダが”入られていた“のは、かかる禅だったのでしょう。
道元禅師が“安楽の法門“と言ったものは、形は違いますが、この消息を伝えたものではないでしょうか?
しかし、その状態が過ぎ去った時、“あれは一時的な精神の高揚した状態なんだから、ちゃんとした道に則らなかったらダメなんだ!”、なんて、そういうどっかにありそうな道らしきものを探し求めたりして...一時も二時も無い!、思いを超えたところからでなければ、どこにも道など開かれないですよ! 
何かのやり方を習ったってそうはなりません!...法~形なき命に触れなければ...形は何であれ、法を伝えるものこそが法門なのでしょう。伝わるものがあれば、形はあっても無くてもいい...法にあって、平安、安楽でない訳が無い!
これから先の、得られるかどうか分からないものを求めるのではありません!
今、自分自身の現実に臨むものを求める!...
”きたきた~“...楽しくなってきやしませんか?!


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オトコの世界の終焉

2022-06-15 10:11:04 | 雑感
“生きている、生かされているだけで幸せ!”
“自分は自分だけでなく、何か大きなものとつながっている感じが、守られている感じがする!”

最近、特に若い女性の間でこういう感覚を持った人が結構多くなって来ているように思います。
そりゃあ、ゆるふわとした、スピも盛んになってるだろうし、それの影響というものもあるでしょう。
だけど、中には天性から、誰に教わること無しに、ナチュラルにそう感じられる人というのも居るのではないでしょうか?
こういう人には、ホント何の説明も要らないでしょう。“現臨“だなんて訳の分からんこと言う必要など更々ありません。それは正にそういう感じのものなのだし...
ただ、さほど自覚意識が無く、漠然とそう思い、感じているだけだと、何かに流されたり、見失ったり、そのままで終わってしまったら、とても勿体ないことなので、老婆心ながら一言、二言...こういうのは、オトコのサガかもしれないが...
そのことをもっと意識してみるのです。自分が今、それを感じている...それは全く自分自身の問題として感じてみる...そうすると、もっと具体的に、リアルに感じられるようになります。
漠然と愛、安らぎを感じていたものが、よりリアルに感じて来ます。そうして、そうした意識状態が定着するようになります。
こういう感じのものを現臨と呼んでいるのに他ならないのです!
こういうことは、多く女性本来の性質に関わることと言わねばならないでしょう。
男性で、こういう感じの人はほとんど見られないし、話す気にもなりません。バカにされそうで...
男は、何かを追い求めることから始めなければならず...そしてまだそれを得ることが出来ず、追い求め続けている!
連中ときたら、愛とか安らぎといったことよりも、もっと高く、進んだ悟りの境地を目指して何かと戦い続けているようなのです。何が本当で、正しい悟りの道なのかと、そうでないものを打ち、こぼたんと...一体どこまで行ったら気が済むのか!...愛、平安を置き忘れて...
バッカじゃなかろうか!、これはホントに度し難いことですよ!
既にあるところに安んじている彼女はきっと、“おつかれさんです。ガンバって下さい!、じゃお先に...うふふっ!”、と笑っていることだろう...
私は、ここにオトコ中心の世界の終焉というものを感じざるを得ません!
人類の歴史は戦争の歴史と言われるように、オトコ中心世界は、必ず火を見ずに置かない...そしてすべてを巻き込み、滅亡へと追いやるでしょう。
これに歯止めをかけるものは、古くて新しいオンナの道しかないのではないか?!
いやいや本来は、愛と安らぎに与ることにオトコもオンナも違いなど無いはずです。
これまで、あまりにもオトコがのさばり過ぎていた、ということなのでしょう。
オトコの世界の終焉...それはすべての人間の本来性の回復を意味するに他ならないでしょう!

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