江戸幕府は街道を整備し泊りの出来る宿場を整備すると同時に、宿場間の距離が
長い処や、峠越え、川越など特別な理由が有ればその間に「間の宿」を設け旅人の
便宜をはかった。
しかしそれはあくまでも休憩の施設で、表向き宿泊は許されてはいなかったらしい。
「寄木細工の里」として知られる畑宿も、箱根の峠越えを控えた休憩施設とし
て開かれた立場と呼ばれるところであったようだ。
標高が400mを越えるこの地の街道筋には多くの茶屋が建ち並び、そこでは名物の
そばやアユの塩焼き、小田原北条氏時代から伝えられているという伝統工芸品の
箱根細工などが旅人の足を止めていたと言う。
集落には茗荷屋と呼ばれた本陣(宿場ではないので正式には本陣ではないらしい)
を務めた名主屋敷が残されていたが、大正時代の火災で焼失し、今はその庭園が残る
のみだ。
今でもたまに猿の群れが現れると言う鄙びた里で、街道沿いには茶店が立ち、民宿が
有るなど観光地としても知られているらしく、古街道歩きでは出会うこともなかった
観光客らしき人の姿がバス停などで散見できる。
集落の西の外れから再び旧道に入り、守源寺と茶店の間の細い坂道を暫く進むと、
江戸から数えて23番目の一里塚が残されている。一部は復元整備されたものだが、
道の両側に残っているのは平塚の品濃坂に次ぐものである。
塚の直径は約五間(9m)で、円形に小石を積み上げ土を盛って築いた右側の塚には
目印としてモミが、反対側にはケヤキが植えられている。(続)
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