簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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食べたまま、書いてます。

旧片上鉄道(赤穂線・乗潰しの旅)

2020-07-01 | Weblog
 この町の発展で忘れてならないのは、旧片上鉄道の存在である。
大正12(1923)年、和気―片上間で開通した片上鉄道は、その後和気、
井ノ口と北に向けて延伸し、昭和6(1931)年には柵原まで全通した。
地元では、「カタテツ」の愛称で親しまれた鉄道である。



 これにより柵原鉱山で産出される硫化鉄鉱を片上港まで鉄道輸送する
ルートが完成した。
沿線の和気では山陽本線と、西片上ではやがて開通する赤穂線と接続し、
旅客の取扱いも有りここ片上は重要な結節点としても賑わうことになる。



 嘗ては風待ちの湊として、また優良な漁港として、山陽道が通る宿
場町として、明治維新以降は有能な地場産業である耐火レンガの工場
が多く立地し町は繁栄を続けた。



 加えて、吉井川の舟運に変わる輸送手段としての片上鉄道の開通は、
上流の柵原鉱山で産出される硫化鉄鉱の輸送を一手に引き受ける事で
町に更なる繁栄をもたらし、アーケードの商店街は活気に溢れていた。



 しかし片上鉄道が担ってきた鉱石の輸送は、トラックに切り替えら
れる事となり、押し寄せるモータリゼーションの波には抗うことも出
来なかった。
加えて沿線の人口減少にも歯止めがかからないと有って、旅客輸送だ
けでは経営が成り立たず、平成3(1991)年にはついに廃線となった。



 鉄道と共に繁栄を続けた町も、気が付けばいつの間にか商店街から
人波が消えていた。
そんな町の起爆剤として華々しく進出した大型商業施設も一時の慰め
でしかなく、何時しか撤退し、主を失った建物は放置され地元では幽
霊ビルと呼ぶ者までいる始末だ。
活力を失い、疲弊する地方都市の生き残りをかけた模索は、未だに続
いている。(続)






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