
世に言う「清須越し」は、相当な規模で行われている。
当時人口6万人を擁していた政治の中心地・清須から、町ごと全てが引
っ越す大行事で、後に残ったのは行く当てのなかった農民だけだと言う
から凄まじい。

一方名古屋には、東西52町(5.7㎞)、南北55町(6.1㎞)の新しい町
が誕生した。城郭を中心に身分格式による地域割りが行われ、ここに62
万石の城下町が完成した。
町人町は城の外堀を隔てた南側に作られ、その東・西・南の外側を武
家地で囲い、さらにその外側に多くの寺院を配置したとされている。

町割りされた通りの幅は三間であった。
また宿場町・宮と城下町・名古屋を結ぶメインストリートの本町通りは、
他の道路より広い五間幅で造られ、この通り沿いにも次々と人々が住み着
き町人町が形成されたという。

名古屋に進出する商人達にとって、この通り沿いに御店を出すことは
ステイタスであり、最大の夢である。
町造りに関わった商人には、明確な三つのグループがあると言う。
一つは松坂屋に代表される清須からのグループ、二つ目は家康の膝元
駿河から移った菓子の桔梗屋らのグループ、三つ目はそのどちらにも属
さないグループで、今日名古屋で老舗と言われる店舗や商店のルーツは
殆どがそこにある。

城下町名古屋は、町割りを正四角形のブロックを基本として配置した。
是までの城下町とは違う最大の特徴は、道に面した何れの辺にも町屋を
並べたことだ。
こうしてメインの通りだけではなく、どの通りも賑わう町を工夫した。
がこれだとブロックの中央には、ぽっかりと空き地が出来てしまう。(続)


