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慶長16(1611)年徳川家康は、木曽と木曽川を尾張藩の直轄地とした。
木曽美林から切り出される材木を、筏を組んで木曽川を流し、伊勢湾を
渡り宮から城下に運び、名古屋城の築城や新たに作られる城下町の建設
用材に充てる目論見である。
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その前年福島正則に命じ、台地の西辺に運河を掘削した。
全国20余りの大名にお手伝い普請を下命し、掘削人夫を出させ、人海戦
術により同年の6月に一年足らずで完成させた。それが堀川である。
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熱田から城下まで、約4000間(7.2㎞)、幅12~48間(22~87m)、
水深凡1間(1.8m)の運河か開通した。
この運河、その当時の技術から推測すると、完全な零からの掘削で
はなかったとの異説も有るようだ。
その時代、城下には運河に転用できるほどの大きな自然の川は無かっ
たが、何らかの川筋か用水をベースにしたとの説である。
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これにより当時海に面した熱田(宮)から、お城下まで舟運が開通し、
建築資材を運ぶ運河として利用されることになる。
結果、名古屋は木材の一大集積地となり、お城に近い堀川沿いには材木
商を始め米穀、塩、味噌、酒などを商う商家が軒を連ねることになる。
五條橋近辺には、今もその名残の材木商や土蔵などが残っている。
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江戸時代には魚取りをする姿も見られた歴史有る運河は、何時しか水
質が悪化し、死の川となった時期があった。
高度成長期に入り工場や家庭の排水が大量に流れ込むと、川にはポコポ
コとメタンガスの湧き出るどす黒いヘドロが溜まり、辺りに悪臭をまき
散らすドブ川となった。
甲羅干しをするカメばかりで、魚影を見ることは全く無くなった。(続)
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