宮の湊を発した海上七里の舟旅も、桑名城の白壁の物見櫓(蟠龍櫓)
が見え始めれば、最早安堵の着岸だ。
江戸から96里(約384㎞)、京からは30里(120㎞)の距離である。
伊勢国松平下総守十一万石の城下町桑名は、東海道42番目の宿場町だ。
元々この地は、木曽三川が伊勢湾に注ぐ辺りで、商人の湊町として開
けた歴史を有している。江戸中期頃には宿内の住人は8,848人を数えた。
家数2,544軒、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠120軒を要する規模であった。
東海道の要路、七里の渡し場を控えた大きな宿場町で、その賑わいは中
世以来のものと言われている。
伊勢湾台風以前のこの辺りは、まだまだ開発も進まず、広重の世界に
近い景色が広がっていたらしい。
今では水害対策の巨大な防波堤で揖斐川から隔てられ、嘗ての渡し場の
面影は堤防の下に消えた。
東国からのお伊勢参りでは、その第一歩を踏み出す地でもあった。
天明年間以降、変らぬ姿で建つ伊勢国一の鳥居を潜ればお伊勢さんに向
かう参宮道の始まりである。今目にする鳥居は、平成27(2015)年の御
遷宮の折、御神材で建て替えられたもので有る。
嘗ての東海道は、関ヶ原~米原へ抜ける北ルートが多用されていた。
時代が江戸に入り伝馬制が発せられると、比較的平坦な北ルートから急
峻な鈴鹿越えの南ルートに定められた。
その要因は気象的な問題と、距離の違いが大きかったようだ。
美濃・近江の国境は名うての豪雪地帯で、冬になると雪に閉ざされ通
行が出来なくなるリスクを避けたと言われている。
加えて京から宮までを見ると、美濃北ルートでは4泊5日を要するのに、
伊勢南ルートなら2泊3日で済む。
情報伝達の迅速化を目指す幕府には都合が良かったらしい。(続)
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