宮と桑名の七里の渡しは、潮位や風の影響を受け、何時間も要した。
標準的には4時間、潮の流れや風向き、風の強弱で、時にはその倍の時
間を要することも有ったと言う。
深刻な困り毎はトイレで、男は竹筒を使えるが、女はそうも行かない。
これを心配して陸路の佐屋街道を選ぶ女性が多かったらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/9f/9206c8cde4634c81b11b2459c9f8fd60.jpg)
現在では、木曽三川の下流域に鉄橋が何本もかけられ、JR線や近鉄
線、国道や高速道路と様々なインフラが整っている。
関西本線を走るJRの快速・みえなら20分程で駆け抜ける。
東海道五十三次歩きの再開である。
桑名駅東口を出て、七里の渡しの終点、桑名の渡し場跡を目指す。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/2e/731d6db5fa8b10a5eeeb96c6a3c11772.jpg)
駅前からの通りを東に向けて700m程行くと、左側に「法性山海蔵寺」
という曹洞宗の寺がある。天正2(1574)年創建の古刹で、「薩摩義士
を祀る寺」として知られている。
宝暦の治水工事は、凄惨を極める中僅か1年と言う短期間で完成した。
しかし、その間の代償は余りにも大きく、幕府への義憤から抗議の自害は
51名に及んだが、その死は全て「腰の物(刀)にて怪我」と届けられた。
病死も33名を数え、薩摩藩は財政も人材でも多くの犠牲を払う事になる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/c9/e13dd124b33fc152f33be6f421507d71.jpg)
死者を弔う筈の近隣の寺々は、幕府を憚り、係わりを避け、供養の埋
葬さえままならなかったらしい。
それらを決着させ、鎮魂の思いを込めた工事奉行の家老・平田勒負は、
労苦を共にしながら、半ばで逝った多くの藩士と共にこの地に眠る事を
決意し、終には自裁する。
しかしその死すら「持病による病死」と、幕府には届けられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/34/4df88c9e8fe899213d5c4a56c7f0aeb8.jpg)
藩士の供養先が見付からぬ中、海蔵寺には当初割腹した14名の藩士が
葬られた。後に廃寺となる安龍院に葬られた10名の藩士もここに改葬さ
れ、今では平田靭負を中心に24名の墓が現存し市指定史跡となっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/3b/fc7acfcd27fdf64ae3ac3ba882158588.jpg)
毎年、平田靱負の命日の5月25日には「薩摩義士追悼特別法要」が挙
行され、薩摩義士の子孫や関係者など多くの方々が参列すると言う。
後に成り、工事現場の締め切り堤防には、「治水神社」も建立された。
今では義士の墓所は、岐阜県下に10ケ寺、三重県下に3ヶ寺、京都伏見に
1ヶ寺あると言う。(続)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/6d/c170e9c749bb560c6fd17d7fe088b95a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/c5/608a98fcd1340cbecac4921275227ec4.jpg)
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標準的には4時間、潮の流れや風向き、風の強弱で、時にはその倍の時
間を要することも有ったと言う。
深刻な困り毎はトイレで、男は竹筒を使えるが、女はそうも行かない。
これを心配して陸路の佐屋街道を選ぶ女性が多かったらしい。
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現在では、木曽三川の下流域に鉄橋が何本もかけられ、JR線や近鉄
線、国道や高速道路と様々なインフラが整っている。
関西本線を走るJRの快速・みえなら20分程で駆け抜ける。
東海道五十三次歩きの再開である。
桑名駅東口を出て、七里の渡しの終点、桑名の渡し場跡を目指す。
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駅前からの通りを東に向けて700m程行くと、左側に「法性山海蔵寺」
という曹洞宗の寺がある。天正2(1574)年創建の古刹で、「薩摩義士
を祀る寺」として知られている。
宝暦の治水工事は、凄惨を極める中僅か1年と言う短期間で完成した。
しかし、その間の代償は余りにも大きく、幕府への義憤から抗議の自害は
51名に及んだが、その死は全て「腰の物(刀)にて怪我」と届けられた。
病死も33名を数え、薩摩藩は財政も人材でも多くの犠牲を払う事になる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/c9/e13dd124b33fc152f33be6f421507d71.jpg)
死者を弔う筈の近隣の寺々は、幕府を憚り、係わりを避け、供養の埋
葬さえままならなかったらしい。
それらを決着させ、鎮魂の思いを込めた工事奉行の家老・平田勒負は、
労苦を共にしながら、半ばで逝った多くの藩士と共にこの地に眠る事を
決意し、終には自裁する。
しかしその死すら「持病による病死」と、幕府には届けられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/34/4df88c9e8fe899213d5c4a56c7f0aeb8.jpg)
藩士の供養先が見付からぬ中、海蔵寺には当初割腹した14名の藩士が
葬られた。後に廃寺となる安龍院に葬られた10名の藩士もここに改葬さ
れ、今では平田靭負を中心に24名の墓が現存し市指定史跡となっている。
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毎年、平田靱負の命日の5月25日には「薩摩義士追悼特別法要」が挙
行され、薩摩義士の子孫や関係者など多くの方々が参列すると言う。
後に成り、工事現場の締め切り堤防には、「治水神社」も建立された。
今では義士の墓所は、岐阜県下に10ケ寺、三重県下に3ヶ寺、京都伏見に
1ヶ寺あると言う。(続)
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