元禄文化の頃、公家や武家等が茶の湯の折、抹茶などと共に味わう和
菓子を「上菓子(じょうがし)」と呼んだが、それには白砂糖や純度の
高い氷砂糖が贅沢に使われていた。
献上品としても使われ、上等な菓子との意を込めて、こう呼ばれていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/10/b20e3cd94925e9b0fd64ef4d8e8b0363.jpg)
砂糖は南蛮文化と一緒に伝えられたものだが、当初は主に中国から輸
入されていて、白砂糖の中でも最上級の純白な品を「三盆白」と言い、
「唐三盆」と呼ばれていた。
当時はまだまだ高級品で、上菓子以外での使用は禁じられていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/3c/3290cc732be67cf9795ad5479d2a29c8.jpg)
吉宗の時代になって享保の改革では、国内でも砂糖の生産を奨励した。
当時サトウキビは南西諸島で栽培され、黒砂糖の生産が一般的であった。
やがてその栽培を全国に広め、技術の革新により、待望の国産初の白砂糖
の商品化に成功した。
「唐三盆」に対して、この国産品は「和三盆」と呼ばれることになる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/d0/8157cc209ef49cfdab169bfbd8f2325c.jpg)
国産の砂糖が出回り、輸入品を凌ぐようになると、ようやく庶民にも
届くようになる。
とは言え、それは半世紀以上も先の文化文政(1804~1830の頃)の時
代と言われ、ようやく庶民がおやつとして食べる、砂糖を使った甘い和
菓子が色々と生まれるようになる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/f4/f20f21b1c650b2b4f35c27e35871d27e.jpg)
それらの菓子は、手づかみで気軽に食べられる事をコンセプトにして
創られ、「朝生(あさなま)」と呼ばれていたそうだ。
日持ちをせず、その日のうちに売り上げてしまうことを目的としたこと
から、このように呼ばれた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/c6/7ac8040d93d0c588ea480ae24c84f836.jpg)
江戸の町中なら社寺の門前や、繁華な町並の中の屋台で、街道筋なら
宿場や立場などの茶店で、身近で手頃に食べる事が出来た。
金鍔、大福、桜餅、あん餅、今川焼等が生まれたのがこの時代らしい。
こうして生まれた「朝生」は、庶民の支持を受け、その地ならではの
名物と成り、今日まで引き継がれている物も少なくない。(続)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/88/c0e0e84f63f3359309c0ea75d3245316.jpg)
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菓子を「上菓子(じょうがし)」と呼んだが、それには白砂糖や純度の
高い氷砂糖が贅沢に使われていた。
献上品としても使われ、上等な菓子との意を込めて、こう呼ばれていた。
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砂糖は南蛮文化と一緒に伝えられたものだが、当初は主に中国から輸
入されていて、白砂糖の中でも最上級の純白な品を「三盆白」と言い、
「唐三盆」と呼ばれていた。
当時はまだまだ高級品で、上菓子以外での使用は禁じられていた。
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吉宗の時代になって享保の改革では、国内でも砂糖の生産を奨励した。
当時サトウキビは南西諸島で栽培され、黒砂糖の生産が一般的であった。
やがてその栽培を全国に広め、技術の革新により、待望の国産初の白砂糖
の商品化に成功した。
「唐三盆」に対して、この国産品は「和三盆」と呼ばれることになる。
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国産の砂糖が出回り、輸入品を凌ぐようになると、ようやく庶民にも
届くようになる。
とは言え、それは半世紀以上も先の文化文政(1804~1830の頃)の時
代と言われ、ようやく庶民がおやつとして食べる、砂糖を使った甘い和
菓子が色々と生まれるようになる。
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それらの菓子は、手づかみで気軽に食べられる事をコンセプトにして
創られ、「朝生(あさなま)」と呼ばれていたそうだ。
日持ちをせず、その日のうちに売り上げてしまうことを目的としたこと
から、このように呼ばれた。
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江戸の町中なら社寺の門前や、繁華な町並の中の屋台で、街道筋なら
宿場や立場などの茶店で、身近で手頃に食べる事が出来た。
金鍔、大福、桜餅、あん餅、今川焼等が生まれたのがこの時代らしい。
こうして生まれた「朝生」は、庶民の支持を受け、その地ならではの
名物と成り、今日まで引き継がれている物も少なくない。(続)
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