日本が高度経済成長を続ける昭和の時代、鉄道は全盛期を迎えている。
国鉄は全国津々浦々に幹線網を張り巡らし、昭和58(1983)年には営業
線区は242線区、その営業距離は2万㎞を超えていて、国鉄としてはこの
頃最長の営業キロ数を誇っていた。
その幹線からは彼方此方へ、まるで増殖を続ける生き物のような枝線
が伸び出ていた。
枝線は、地区住民の足として集落を結び、また工場生産物の輸送手段と
して工場や、特産物の出荷で産地と消費者とを結んでいた。
そんな人々に重宝された枝線の一番先に位置するのが終着駅である。
これらの終着駅はその先のない行き止まり駅でこんな駅は全国に130駅
を越えていた。
その頃の国鉄は、「いい旅チャレンジ20,000㎞」と言うキャンペーンを
展開している。
国鉄の全営業路線の乗り潰しを促し増収効果を目論むもので、昭和50年代
の半ば頃だと覚えているが、実際に完乗者も相当数いたと記憶している。
しかしその後国鉄は分割民営化されJRグループと成り、営業収支の
悪化等から廃線が相次ぎ、10年ほど続いたキャンペーンが終わる頃には、
営業路線は6割ほど、営業距離も9割強ほどになっていた。
こんな時真っ先に切り捨てられるのは、幹線ではなくこの終着駅に向か
う路線である。
しかもその後も線区の切り捨てが続いているのは、周知の事実だ。
赤字とは言えその鉄路は、沿線の住民にとって、かけがえのない生活
の足で、その駅は故郷の原点、拠り所でもある。
「これらの存在は、故郷を忘れた日本人のささやかな抵抗の砦」と称し
た人がいたが、今日その砦は、一つ又一つと取り壊されている。(続)
(写真:夕張線)
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