簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

城下筋 (岡山市内路面電車・番町線)

2021-08-06 | Weblog


 今日、路面電車・番町線が走った痕跡は、どこにも無く、何も残され
てはいない。
岡山駅前から直進し、城下で左折すると、中央に緑豊かな緑地帯を有す
る、片側2車線の「城下筋」と呼ばれる大通りに出る。
「岡山カルチャーゾーン」を貫くメインストリートであるが、その昔は
道の中央に路面電車の単線軌道が敷かれていた。



 通りを北進すると、「岡山オリエント美術館」が見えてくる。
昭和54(1979)年に、「県会議事堂」「東警察署」の有った跡地に建
てられたものだ。
番町線の最寄りで言えば、「石関町」ではと思われる。



 次の「出石町(県庁前)」には、かつて県庁があったが、戦災で焼失し
跡地には、昭和62(1987)年に開館した「県立美術館」がその偉容を誇
り建っている。
隣には、昭和37(1962)年に「天神山文化プラザ」の前身、「県総合文
化センター」が開館している。



 二つの美術館に挟まれるように、RSK山陽放送の本社ビルが有る。
嘗て三つの丘の一つ「石山」に、NHKの放送会館と向かい合い建って
いたが、この城下筋に新築移転を果たしている。
内部には、三間四方の総檜造りの本格的な能舞台を持つ「能楽堂ホール
tenjin9」開設された。



 道路を隔てた向かい側には、江戸時代には酒折宮と言われた、岡山の
総鎮守・岡山神社が鎮座している。
目の前に旭川が流れ、右手には岡山城の天守が聳え、川越しの前方には、
緑豊な岡山後楽園の森を望む景勝の地にある。
歴代岡山藩主に崇敬され、市民にも初詣七五三詣等馴染みの深い神社だ。
番町線なら「石関町」が最寄りで、歩いて2分とかからない距離だ。(続)





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番町線の環状化計画(岡山市内路面電車・番町線)

2021-08-04 | Weblog


 「万町」は、岡山駅北方の構内線路敷きから、現在の新幹線の高架下
(現在の岩田町と奉還町が隣接する)一帯らしい。
嘗ては旧山陽道(西国街道)の「万町口」と呼ばれ、城下では最大級の
柱間3.3mの惣門と番小屋、常夜灯が立ち、城下町の西入口とされた場
所である。



 この辺りには明治31(1898)年に、中国鉄道により開通した津山線
の岡山市駅が有った。鉄道は後に国鉄津山線となるが、開業の6年後に
は国鉄岡山駅まで延伸し、乗り入れている。
番町線が後楽園口まで開業した当時は、既に岡山市駅は存在していない
が、番町線の環状化計画はかなり早い段階で立てられており、この駅と
の接続も考慮しての経由地で有ったようだ。



 創業当初の計画では、番町線の環状化は番町から西進、山陽鉄道の線
路に突き当たり南に折れ、線路伝いに岡山駅に到る。
ほかにも、内山下支線を京橋の手前で西に折れ、今日の大供交差点に向
かい、更に大元まで行く黒住線が計画されていた。
黒住線は大供から岡山駅前に向かう、環状線化の計画も視野に入れてい
たのであろう。



 岡電の路面電車・番町線が、せめてもう四半世紀持ち堪えていたなら。
当初計画通り番町から延伸され、万町を経て岡山駅に到る環状化が実現
していたなら。
黒住線が環状化され岡山駅前に繋がり、今日まで生き残っていたら・・。



 年間240万人余りの観光客が訪れる「岡山後楽園・岡山城」へのアク
セスと成っていた。
「岡山カルチャーゾーン」の美術館や博物館、新しく建設中の「市民会
館」等を訪れる市民の足となれていた・・・筈。
今当地では、路面電車の延伸・環状化の議論が再燃している。(続)





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番町線の廃止 (岡山市内路面電車・番町線)

2021-08-02 | Weblog

 社債20万円を公募して、開業に到った番町線の当初計画は、この先
「万町」を経由して岡山駅に戻る環状化である。
しかし、軌道敷は「番町」の電停の先で途切れたままの、取敢えずの
先行開業で有った。それでも沿線には、官公庁や学校等も多く立地し、
まずまずの滑り出しのようだ。





 しかし路線が短く収益も思うに任せず、加えて資金も集まらず、環状
化の計画は中々進まなかった。
資金難で計画が日の目を見ない内にやがて大きな災厄を迎える事になる。
岡山市街地は、第二次大戦の空襲で殆どが焼き尽くされてしまったのだ。
沿線の架線柱はほぼ全焼した。
天神山地区に立地する各施設も例外ではなく焼け落ちてしまった。





 その為戦後になると各施設は、新天地を求め、各々が移転・再建され
ることとなり当地からは去って行き、結果路面電車の需要は激減した。
加えて戦後の市街地復興の一環で、出石地区と旭川の対岸・浜地区とを
結ぶ新たな橋(新鶴見橋)の架橋と道路の建設が計画された。
高度経済成長期のモータリゼーションの波は、容赦なく押し寄せ、邪魔
者扱される路面電車には過酷な試練が訪れることになる。





 苦しい赤字経営が続き、いち早く番町線にはワンマン運転が取り入れ
られたのは昭和31(1956)年の事であるが、それでも経営状態は好転
する事は無かったと言う。

 長年市民の足として親しまれ戦後の市街地の復興にも活躍した、番町
線の路面電車も、終には昭和43(1968)年5月、半世紀にも満たない
その歴史の幕を閉じることになる。
環状化の夢、全線開通を待たずの終焉である。(続)




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