簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

閑所(カンショ)(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-11-07 | Weblog
 いままでの城下町はメインの通りをつくり、そこに向かい合うように
町屋を並べていた。これだと町の賑わいは、このメインの通りだけに限
られてしまう。家康の名古屋城下の整備では、これまでとは違う新たな
試みがなされていた。



 家康の名古屋における町造りは、碁盤割りに通りをつくり、その各辺
に家屋や長屋を並べ、それぞれを向かい合わせて間口を開かせ(全方向
に間口を向け)た。
 こうすることでどの通りでも町屋同士が向かい合い、線ではなく面と
して活気ある町並みと成るように工夫がされていた。



 結果各町屋は間口が狭く、奥行きの長い構造となり、家と家の間には
狭い路地が出来、その奥は袋小路となり奥庭のような空き地が出現した。
丁度碁盤割り一ブロックの、対角線の交わる中心部分で、ここは「閑所
(カンショ)」とも「会所」とも呼ばれる共有地となった。



 閑所の多くには、つるべで汲み上げる共同の井戸があり、木等を植え、
根元には地神や水神様を祭り、所によっては火の見櫓が設けられもした。
この閑所は、昭和の高度成長期で再開発される以前の市内には随分と残
されていた。



 昭和の頃、狭い路地と空地は、子供達の格好の遊び場にもなっていた。
学校が終われば、ここに集まることが暗黙の約束で、何人かが集まれば、
かくれんぼ、缶蹴り、陣地取り、馬乗り、メンコ、コマ回し等々、他愛
のない遊びがすぐに始まった。



 「カンショ」と言う言葉を聞くと、日暮れまで走り回った、60年以上
も前の故郷の懐かしい光景が今でも思い浮かぶ。
近頃では、そんな地の古い家屋や長屋は取り壊され、ビル、タワーパー
キングやマンションなどが立てられ、どんどんと失われている。(続)





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城下町・名古屋(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-11-04 | Weblog


 世に言う「清須越し」は、相当な規模で行われている。
当時人口6万人を擁していた政治の中心地・清須から、町ごと全てが引
っ越す大行事で、後に残ったのは行く当てのなかった農民だけだと言う
から凄まじい。



 一方名古屋には、東西52町(5.7㎞)、南北55町(6.1㎞)の新しい町
が誕生した。城郭を中心に身分格式による地域割りが行われ、ここに62
万石の城下町が完成した。
 町人町は城の外堀を隔てた南側に作られ、その東・西・南の外側を武
家地で囲い、さらにその外側に多くの寺院を配置したとされている。



 町割りされた通りの幅は三間であった。
また宿場町・宮と城下町・名古屋を結ぶメインストリートの本町通りは、
他の道路より広い五間幅で造られ、この通り沿いにも次々と人々が住み着
き町人町が形成されたという。



 名古屋に進出する商人達にとって、この通り沿いに御店を出すことは
ステイタスであり、最大の夢である。
町造りに関わった商人には、明確な三つのグループがあると言う。

 一つは松坂屋に代表される清須からのグループ、二つ目は家康の膝元
駿河から移った菓子の桔梗屋らのグループ、三つ目はそのどちらにも属
さないグループで、今日名古屋で老舗と言われる店舗や商店のルーツは
殆どがそこにある。



 城下町名古屋は、町割りを正四角形のブロックを基本として配置した。
是までの城下町とは違う最大の特徴は、道に面した何れの辺にも町屋を
並べたことだ。

 こうしてメインの通りだけではなく、どの通りも賑わう町を工夫した。
がこれだとブロックの中央には、ぽっかりと空き地が出来てしまう。(続)





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清洲公園(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-11-02 | Weblog


 五条川に架かる朱い欄干の大手橋の少し先を、新幹線が轟音を残して
走り去っていく。
東海道本線を、長い編成の列車や貨物列車が、頻繁に行き交っている。
日本の大動脈は、嘗ての「天下布武」の拠点淸洲城を、「本丸ゾーン」と
「清洲古城跡公園」、「清須公園」の三カ所に完全に分断している。



 「本丸ゾーン」と五条川を挟んで向かい合うのが「清洲古城跡公園」で、
JRの線路を潜った先が、大正10年に開園した「清洲公園」である。
 公園内には信長公を祀る小社があり、幕末の頃建てられた「清洲城跡顕
彰碑」2基も残されている。



 芝生広場のある緑豊かな公園で、その中心には地元の篤志家から寄付
された、27才の桶狭間出陣の勇姿を模した信長公像が建てられている。
 平成に入り地元の企業から濃姫像が寄付され、清洲城内に建てられて
いたが、信長一人では寂しかろうと、清須市誕生7周年を記念して向か
い合うこの位置に移された。



 「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり・・・」

 信長は、自身が好む幸若舞「敦盛」の一説を吟じ、舞い、僅か六騎の
股肱の臣を従えただけで、熱田神宮に向かいそこで軍を整え、戦勝を祈
願、桶狭間の合戦に臨んだという。
信長の天下布武の礎となった城らしく、その石碑も建てられている。



 家康による「清洲越し」で、多くの建物が失われた城跡には、一抹の寂
しさが漂っている。そんな地で、五條川の河川工事の折に石垣の遺構が見
付かり、「清須ふるさとのやかた」の横に復元展示される事になったのは、
僅かな救いである。



 今日では公園から五条川河畔の一帯は、桜の名所となり、春には多くの
花見客で賑わう。
又信長にあやかり、立身出世、必勝祈願、夫婦の絆の「パワースポット」
として、公園は多くの市民に愛されているという。(続)



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