簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

朝生(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-01-06 | Weblog
 元禄文化の頃、公家や武家等が茶の湯の折、抹茶などと共に味わう和
菓子を「上菓子(じょうがし)」と呼んだが、それには白砂糖や純度の
高い氷砂糖が贅沢に使われていた。
献上品としても使われ、上等な菓子との意を込めて、こう呼ばれていた。



 砂糖は南蛮文化と一緒に伝えられたものだが、当初は主に中国から輸
入されていて、白砂糖の中でも最上級の純白な品を「三盆白」と言い、
「唐三盆」と呼ばれていた。
当時はまだまだ高級品で、上菓子以外での使用は禁じられていた。



 吉宗の時代になって享保の改革では、国内でも砂糖の生産を奨励した。
当時サトウキビは南西諸島で栽培され、黒砂糖の生産が一般的であった。
やがてその栽培を全国に広め、技術の革新により、待望の国産初の白砂糖
の商品化に成功した。
「唐三盆」に対して、この国産品は「和三盆」と呼ばれることになる。



 国産の砂糖が出回り、輸入品を凌ぐようになると、ようやく庶民にも
届くようになる。
 とは言え、それは半世紀以上も先の文化文政(1804~1830の頃)の時
代と言われ、ようやく庶民がおやつとして食べる、砂糖を使った甘い和
菓子が色々と生まれるようになる。



 それらの菓子は、手づかみで気軽に食べられる事をコンセプトにして
創られ、「朝生(あさなま)」と呼ばれていたそうだ。
日持ちをせず、その日のうちに売り上げてしまうことを目的としたこと
から、このように呼ばれた。



 江戸の町中なら社寺の門前や、繁華な町並の中の屋台で、街道筋なら
宿場や立場などの茶店で、身近で手頃に食べる事が出来た。
金鍔、大福、桜餅、あん餅、今川焼等が生まれたのがこの時代らしい。

 こうして生まれた「朝生」は、庶民の支持を受け、その地ならではの
名物と成り、今日まで引き継がれている物も少なくない。(続)



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甘味処(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-01-04 | Weblog


 疲れた時に甘い物が欲しくなるのは、今も昔も変わらない生理的な現
象らしい。
東海道を歩き、ようやく宿場に辿り着き、宿内で和菓子屋などの甘味処
を見付けると、ついつい足が向いてしまう。
元々甘味が好きも有るが、疲れた身体がそれを求めているからだ。



 店の名物、売れ筋を尋ね、ばら売りがあれば一つ二つ買い求め、断り
を入れた上で、その店先で頂いてみる。すると求めたわけではないのに
多くの場合、有りがたいことにごく普通にお茶の接待をしてくれる。
 当然お菓子を頂きながら話も弾むし、身体を休息させることが出来、
何よりも甘味は次の歩きへの活力となる。



 昔ならこうした役割を担うのは、さしずめ茶店と言った処だ。
旅人が身体を休めると同時に、当時は餡を包んだ「桜餅」「かしわ餅」
「よもぎ餅」や、「ぼた餅」「おはぎ」、また餡やきな粉をまぶした団
子など、飲み物ならお茶や白湯、甘酒が提供されていたようだ。



 ところで「小豆」は植物繊維が豊富で、体内環境を整える、甘党には
嬉しい作用があるそうだ。またポリフェノールは、赤ワインの約2倍も
あり、健康バランスを整えるサポニン、カリウム、ビタミン類(B2や
B6)も多い。
意外なことに鉄分は、ほうれん草の倍近くも含んでいるという。



 餅の元となる米、餡の元となる小豆等を合わせて食べることで、必須
アミノ酸の値が揃い、パワーを生み出す源となる。
特に「よもぎ餅」に搗き込むヨモギは、鉄分の多い植物である。

 これらは歩き疲れたときの好適品となり、当時の人々は、こうした食
品のバランスの良い組合せを、経験的に知っていたのであろう。(続)



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茶店(水茶屋)(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-01-02 | Weblog


 京都駅の南方にある東寺では、弘法大師の月命日で有る毎月21日に、
境内に弘法市と呼ばれる大規模な市が立つ。
今や観光名所の様相で、大勢の善男善女を集め賑わっている。
骨董、雑貨から、日用品、衣類、食料品、花木植木に至るまで、何でも
揃う市として有名だ。



 今でこそ「何でも市」となっているが、その起こりは、この日に寺に
訪れる大勢の参拝客に「一服一銭」と言われる、安価なお茶を簡単な屋
台で提供したのが始まりだ。これがお茶店の前身とも言われている。



 江戸時代、繁華な町中や、社寺の門前、主要な街道の宿場や立場には、
庶民が休憩する場所として多くの茶店(水茶屋)があった。
 広重も「東海道五十三次」の中では、袋井の「出茶屋ノ図」、二川の
「猿ヶ馬場」、石部の「目川ノ里」、草津の「名物立場」、大津の「走
井茶屋」等で茶店を詳細に描いていてその様子を窺い知ることが出来る。



 幕府の規制も有り、茶店は基本的には、人通りのある明け六つ(午前
6時頃)から暮れ六つ(午後6時頃)の間の営業であった。
 当初のお茶は、朝一度に大量に煮出し、客には1杯のお椀で提供する
安価な物が主流であった。やがてお客毎に茶葉を取り替え、熱湯をかけ
る漉茶で何杯も提供する、やや高価なお茶まで様々な形態が生まれた。



 中には桜湯、あられ湯、麦湯(今で言う麦茶)や葛湯、甘酒などを提
供する茶店も有ったようだ。その後も茶店は進化を遂げ、只単に湯茶を
飲ませるだけには留まらず、接待する茶汲み女を置いて人気を競った。
 やがては、菓子や名物の餅、団子なども合わせて売る「茶屋」として
発展していく事になる。(写真:東寺の弘法市)(続)



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