簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

並木町駅(岡山臨港鉄道・廃線跡を歩く)

2023-04-05 | Weblog


 線路跡と言われる市道だが、何の痕跡も見い出せないまま、住宅街の
中をほぼ西に向かって歩く。
住宅地としては新興なのか、比較的新しい住宅が多いが庭先には花木が
植えられ見事に花が咲いている。近頃の住宅は車庫を広く取る為、庭先
に植木を植える家は少ないと聞いたが、この辺りの庭には花木も多い。



 途中、福田公民館を越え、暫く行くと四車線の市道を横切る。
左手に駐車場が有り、この辺りに運行開始と同時に開業した、「並木町
駅」があったようだ。
岡南元町駅からは500m程離れ、大元駅からは6.1㎞地点である。



 当初は「臨港藤田駅」として開業し、昭和35(1960)年に「岡南藤田
駅」と改称した。
これは児島湾の干拓事業に貢献した「藤田傳三郎」に因んだ駅名らしい。

 岡山の南部一帯は、平安期以降頻りに干拓・埋め立てが進められた。
江戸以降も干拓は続けられ、これは明治から昭和の時代まで続いた。
拓かれた地は、塩抜きをし、新田として開発された。
江戸期以降、その事業に深く関わったのが「藤田傳三郎」である。



 専用鉄道線の開通当時でも、沿線一帯には一面の水田が広がっていた。
やがて鉄道の旅客扱いが始まると、駅を中心に周辺は宅地化され、並木
町は岡南地区でも有数な住宅地となり、中間駅ながら比較的乗降客が多
かったらしい。地名に因み「並木町駅」となったのは昭和53年の事だ。



 昭和30(1955)年駅から1.5㎞程南方に「岡山労災病院」が出来ると、
職員もこの駅を利用し、徒歩や自転車で通勤するなどしたようだ。
 しかし昭和30年代に入り、市内バスの路線網も広がり、労災病院線が
昭和32年に、空港線(当時は児島湖に面して岡山空港があった。現在の
岡南飛行場である)が昭和37年に運行を始めると、鉄道の利用客は激減
したという。(続)





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岡南元町駅 (岡山臨港鉄道・廃線跡を歩く)

2023-04-03 | Weblog


 岡山臨港鉄道の線路跡は、倉庫会社の敷地内を緩やかな曲線を描きな
がら、やや西寄りに北に向けその先で県道40号線を横切って抜けている。
 「是より先は私道につき徐行願います」と書かれた看板が立てられて
いるところを見ると、倉庫会社の敷地ではなく通り抜けても良さそうだ。



 県道に出ると、「岡山臨港倉庫運輸(株)」の本社前には、臨港鉄道
で使われていた機関車が雨よけの建屋の中で静態保存されている。
運行開始と同時に導入されたディーゼル機関車DB型の102号機として、
昭和28(1953)年8月に導入されたもので、運行を止めるまで主力とし
て使われた機関車である。
車体横腹に、「汽車會社 昭和二十七年製造」のエンブレムが見られる。



 県道は、片側2車線の広々とした道路に拡幅されている。
道路を渡った右側に歯科医院が有り、左側の福島小学校との間を線路が
抜けていたらしい。
医院の手前に、単式ホーム1面1線の「岡南元町駅」があったと言う。



 起点の大元駅からは6.6㎞地点に辺り、開業は昭和43年10月と比較的
新しい駅だ。
南岡山駅からは僅か280mと至近に造られたのは、南岡山駅と岡山港駅
が貨物専用駅になった事により南岡山駅での貨物と旅客の扱いを分離し、
旅客終着駅とするためである。



 岡南元町駅を出た線路は、ほぼ西に向けて進む。
県道を渡ると、市道を挟んで左に小学校が有り、周辺一帯は住宅街だ。
この広い市道が線路跡であろうか、単線の軌道敷にしては広すぎるよう
にも思うが、複線用の敷地を予め有していたとも言いそれなら納得だ。(続)





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