簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

牛馬養生所跡 (東海道歩き旅・近江の国)

2024-04-05 | Weblog
 鈴鹿峠(標高378m)を超えてからの近江路は、土山、水口、石部と
宿を重ねる毎に標高が少しずつ下がり、この辺りが100m前後で有る。
ここからは、草津宿を目指し、更に標高は下って行く。



 東海道は旧岡村で草津川に行く手を阻まれ右に折れ、この先は旧草津
川に沿って進む。やや西北寄りに進路を変え、250m程で新幹線の高架
を潜ると、道は緩やかな下りだ。
「従是東膳所領」の領界石辺りで旧小柿村に入る。



 住宅地の前に「史跡 牛馬養生所跡」の石碑が立っている。
使役として使われなく成った牛馬が残酷に殺処分される様子を見かねた
庄屋さんが、天保12(1841)年ここに、老牛馬が余生を過ごせる場所を
つくったという。



 「この施設は和邇村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和邇村の牛上で老廃
牛馬の打ちはぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老
牛馬であっても息のある間は内はぎすることを止めるようと呼びかけた。



 天保十二年四月当地が東海、中山両道を集約する草津宿近くであるこ
とから、ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生場を設立、県下の
老牛馬を広く収容された」と説明書きには記されている。



 湖西地方の和邇村は、現在の大津市北部(旧志賀町)辺りのことで、
JR湖西線には和邇(わに)駅があり、地名とし今も残っている。
和邇村は琵琶湖大橋の無い当時なら、陸路で行ったら十里近くも離れた
ところである。



 因みに当栗東市には、JRAの競走馬トレーニングセンターがあり、
市も「馬の町」を謳っている。

 嘗ては東海道・中山道の追分けに近く馬が頻繁に行交っていた。
往時からこの辺りは馬には縁深いものが有ったのであろう。(続)




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立場・目川の里 (東海道歩き旅・近江の国)

2024-04-03 | Weblog

 東海道は金勝川(草津川の支流)に突き当り、右に曲がり、川に沿っ
てその先で左に曲がり込むと、目川の集落に入っていく。
目川は「上り下り立場」で、旅の必需品を売る店が沢山軒を連ねていた。



 中でも「ひょうたん」は、酒やお茶・水を入れる容器として人気商品
であった。地元農家の副業的な地場産業として、その需要は明治に入る
まで続いたと言う。

 街道筋にも、目川のひょうたん直売所が有り、大小様々な形をした可
愛らしいひょうたんが店先で売られていた。
ひょうたんは、二つとして同じ形がないのが特長という。



 道辺に「(右方向)東海道 (左方向)中郡街道」と刻まれた石の道
標が立っている。
 東海道は右に折れるが、左に取れば金勝川に沿って、石部までは1里
24町26間(約6.6㎞)だ。今日のの県道川辺―御園線の起点である。



 横には、川辺灰塚山古墳群の説明も刻まれている。
「目川と梅木の間に灰塚山が有り、昔からここには栗の大樹があった。
ここからは弥生式土器の出土があり、大樹を焼いた灰で築いたらしい塚
が数基有った事から灰塚山と呼ばれていた」という。



 その大樹を掘り起こした跡が灰塚池である。
そこを埋め立てた跡地には今体育館が建ち、栗東運動公園になっている。
郡名の「栗太」はこの栗の大樹に因むものだという。



 立場の名物は、菜飯田楽で伊勢屋という店が知られていた。
安藤広重が「東海道五十三次之内 石部 目川ノ里」として、田楽茶屋
「いせや」を描いたのはここらしいが、跡地を示す説明板と石碑のみだ。



 田楽茶屋・元伊勢屋跡には、「田楽発祥の地」の石碑が立ち、その傍
らには、「従是西膳所」と刻まれた領界石が立っている。(続)




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川辺・善性寺 (東海道歩き旅・近江の国)

2024-04-01 | Weblog

 東海道は、鈎里(まがり)集落に入ってきた。
上鈎池の西側土手下の公園に、「九代将軍 足利義尚公 鈎の陣所ゆか
りの地」の大きな自然石の碑が建てられていた。
周囲には、歌人だった義尚の何首かの和歌を刻んだ石碑も並んでいる。



 応仁の乱後、衰退気味の幕府権力を回復させようと、隣国近江で幕府
の所領を横取りしていた六角高頼を討伐するため近江に出陣した。
池の300m程西の永正寺付近(諸説有り)に布陣したが義尚は、この陣
所で25歳の若さで病没した。



 上鈎から葉山川橋を渡り、川辺(かわづら)集落に入ってきた。
葉山川は琵琶湖に注ぐ一級河川で、滋賀県には多い天井川の一つである。
天井川は一度氾濫すると、周辺に唯ならぬ災害をもたらすため、治水対
策で川床の掘り下げ、川幅の拡張等、河川改修工事が行なわれていた。



 その先に、慶安2(1649)年開基の真宗大谷派の善性寺が有った。
文政年間には、オランダの医師シーボルトが、江戸参府の帰途に立寄っ
たとの記録が自著である「江戸参府紀行」残されている。
 当寺の僧・恵教が、植物に造詣深いことが広く知られていて、それを
知って訪ねたものらしい。



 当寺では、「スイレン、カエデ、ウド、モクタチバナ」等、当時とし
ては珍しい植物を見学して帰ったそうだ。
植物学者のシーボルトは、日本文化を研究しながら出島に植物園を作り、
約1400種の植物を栽培していたといわれている。



 彼は江戸参府の折、天文方・高橋景保に最新の世界地図を送り、お返
しとして伊能地図を受け取り、帰国する際国外に持ち出そうとした。
当時は、日本地図を国外に出すことは御法度であった。

 所謂文政11(1828)年に起きた「シーボルト事件」で、シーボルトを
含む役人・関係者が処罰されている。(続)





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