仕事がら文章の校正を頼まれることがある。
公に出す広告や、展示のキャプションとか。
時々趣味で書いた本の校正も頼まれると、こちらは仕事中には出来ないので、持ち帰る。
さて、他人の間違いは案外見つけやすいが、自分の書いたものは思い込んで書いているので、後で見つけて「あらら」と、思うことがある。
そういう点でも、他人に見てもらうのは大事だ。
しかし、話し言葉はそうはいかない。
今朝のニッポン放送のラジオで、政策アナリストとかいう方が、コロナの5類引き下げについて話していた。
観光に力を入れていた政府だが、その裏で困窮している人たちがいたことを力説していた。なるほどと聴いていたが、「政府の目配せが足りない・・」という言葉が何回も出てきて、「目配り」と、言って欲しいなあと思い、気になってしまい「目配せ」という言葉が出るたびに、話の内容が遠ざかっていった。
書いたものと違って、言葉はどうしようもなく、何回も聞こえる目配せに、もしや最近はそう言うようになったのか?と、不安になった。
「悩むところです」が、「悩ましい」というようになったので、私の知識不足かもしれない、世の中は流れているのだ。
いやいや、やはり目配りが足りないと言って欲しい。
結局、パーソナリティの目配せが足りなかったのだ。