1966年刊行の吉村昭の歴史小説。
戦艦武蔵ノートで予習したので驚く事はなかった。
建造されることになった理由と過程、
長崎の三菱重工造船所での建造風景、
進水の様子、出陣、沈没・・・
取材ノートを元に詳しく書かれていた。
吉村氏の歴史小説は綿密な取材の上に成り立っている。
話を盛り上げたり面白くするために脚色したくなるものだが、
真実に何も足さない、真実から何も引かない、
そこがいい所だと思う。
1943年にトラック諸島に向けて出陣し連合艦隊旗艦になった。
しかしそこで戦艦大和と同様に、燃料を食うという理由から、
動く事はなく、大和ホテル、武蔵御殿と呼ばれた事は知らなかった。
我が郷土の三大偉人の一人である山本五十六海軍元帥は、
大和型戦艦の製造にあたり「時代遅れ」と乗り気ではなかった。
すでに船(海)の時代ではなく飛行機(空)の時代であると解っており、
大和も武蔵も沈没し、日本が敗戦する事も予測していたと思う。
その山本が武蔵に乗船していた時の様子を読んで、
郷土の英雄は真に見事な人物であったと再認識した。
4月18日、ラバウル基地からブイン基地へ向けて飛び立った、
一番偵察機に搭乗した山本はブーゲンビル島上空で
アメリカ軍の戦闘機に攻撃され戦死した。
座席に座り軍刀を握ったままの姿で絶命していたそうだ。
1944年、レイテ沖海戦に向かった武蔵は10月24日、
フィリピンのシブヤン沖で撃沈するのだが、すでに空からの援護はなく、
アメリカ軍の爆撃機、雷撃機の集中攻撃を受ける様子に、
あんまりだ・・・・と思った。
10時半前に始まった第一次攻撃から15時半ころまでに、
5度の空襲で魚雷33発、爆弾17発、至近弾18発を受け、
19時半ころ沈没した。
駆逐艦に救助信号を送ったが、大きな武蔵に巻き込まれて沈没する事を恐れ、
了解と回答したが近ずけなかったのは仕方ないかもしれない・・・。
武蔵は1000個以上の部屋に分けられており、
空気が抜けないため、完全に海底に沈まず、
浮いたまま海流にもまれて漂流しているらしい・・・。
戦記を読んで思う事はどこの戦いも悲惨であったと言う事だ。
実際に足を運んだインドのインパールの戦記も惨いものだった。
私たちは戦争を忘れてはならないのだ。
今、私たちがこうやって生きているのは、過去があったからである。
全乗組員2399名中、1023名が戦死、生存者は1376名。
助かった乗務員は司令官を失った事もあり、
前戦に赴き玉砕した人が多かったそうだ。無念であっただろう。
今は安らかに眠られたし。
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