青森県弘前市出身で秋田県湯沢市に住む、石岡好憲(よしのり)さんという方をご存知でしょうか。1927年生まれの86歳、小児科の開業医でこの3月で「第一線からは退きました」という。
秋田魁新報社会面に、「シリーズ時代を語る」という連載がある。秋田県に縁のある人物の半生を、独り語り形式で綴るもので、3月3日から4月6日までの35回に渡って、石岡さんが取り上げられた。
以前の秋田市河辺出身の民謡関係の人の連載では、弘前市小栗山の師匠に弟子入りした話があったが、石岡さんは子ども時代を弘前で過ごしたため、昔の弘前の様子がいろいろと分かって、興味深かった。
・「5人きょうだいの長男として、現在の青森県弘前市大字小比内(さんぴない)で生まれました。」「津軽平野の田んぼに囲まれた集落でした。家は農家で米1町5反歩(1.5ヘクタール)、リンゴ5反歩を栽培していたほか、馬1頭を飼っていて運送業も営んでいました。」
→今は住宅地だけど、昔は農村だったのか。まあ、今も少し外側は田んぼだから、想像はつく。
・父は「岩木山神社の神職の家系で、次男だったことから石岡家に婿に入り」「小学校の教師をしていました。」
・実家は弟が継いでいる
・「昭和9(1934)年4月、地元の外崎尋常小学校に入学、同級生は60人もいて、1学年1学級のみ」
※「外崎」のふりがなは、3月5日の第3回では「とのさき」、3月6日の第4回では「とのざき」で異なっているが、正しくは「とのさき」だろうか。
→外崎尋常小学校は外崎国民学校を経て、1947年に他校と合併して弘前市立豊田小学校となって現在に至る。
現在の住所では、北から外崎-豊田-小比内という位置関係。
・担任の勧めもあり「旧制の県立弘前中学」を受験。「私の小学校からは、1人私だけが受け」、成績トップで合格。「外崎尋常小学校からストレートで弘前中に進学したのは3人目」
・「(中学)4年生になった昭和18(1943)年の夏休みには、青森県の南部地方へ開墾の勤労奉仕に招集され、秋には陸奥湾の小湊海岸から野辺地海岸までの一帯で」県内他校と合同軍事教練。
・翌年「7月末には、横浜の日産自動車への学徒勤労動員」
横浜では食べ物に困り、実家から「リンゴが送られてくると、近くの中華街に行って中華麺と交換し、帰ってから煮て食べました。おいしかったですね。」
・「弘前中学校の卒業式は昭和20(1945)年3月、学徒勤労動員先の横浜市で行われました。」「(空襲の恐れがあり)鉄かぶと、防空頭巾を持参しての卒業式」
・「旧制の弘前高校(弘高)に合格しており、卒業式後は弘前に戻れると思っていたのですが、戦争が激化し授業開始は8月からとなったため、横浜に残って工場で作業を続ける」しかし、「(横浜大空襲があり)6月には弘前に帰ることができました。」
→今では考えられないことばかり。平和ほど喜ばしいことはないと思える。
・「弘高は1年間の寮生活が義務付けられていました。私も市内に実家があるにもかかわらず入寮しました。」「寮は終戦後にいち早く学生による自治が復活、自由闊達な雰囲気」
・東京などの生徒が「食糧難や空襲から逃れようと入学し」、「志願倍率は15倍もありました」
・当時は定員の関係から「高校に入ってしまえば、どこかの国立大には潜り込めるような具合でした。」
→難関だったのか入りやすかったのかよく分からないが、ある意味今と同じ「全入時代」だったのか。
【21日補足】分かっていたつもりで勘違いしていたが、旧制高校とは現在の「大学の教養課程」におおむね相当するそうだ。だから、教養から専門に進むに当たって、(大学は別になるとはいえ)全入ということであり、今の感覚からすればある意味当たり前のようにも思える。
旧制弘高といえば、太宰治と…
・「同期にはNHKアナウンサーとして活躍した鈴木健二さんもいました。そういえば兄の鈴木清順さん(後に映画監督)もいて、彼は6年しっかり通い、私たちと一緒に卒業しました。」
※旧制高校は3年制。6年在籍できた
弘高から、1948年に東北大医学部へ進学(当時は4年制)。北杜夫と同級。
「(1、2年の)基礎医学の一番の難関は「本川生理」と呼ばれた本川弘一教授(後に東北大学長)の第2生理学の試験でした。」
→もしやと思って調べてみたら、やはり。「歌う生物学」で有名な本川達雄氏の父。そういえば達雄先生を最近テレビで見なくなったが、東京工業大学教授を今年でやめていた(定年退職か)。弘一氏は1903年生まれ、1971年没。
【2015年5月31日追記】テレビで久々に達雄先生をお見かけした。2015年5月31日放送のTBS「林先生が驚く初耳学!」で、ヒトデの権威として東京工業大学名誉教授の肩書。頭の毛がなくなっていた!
・医学部卒業後1年間の「インターンは古里の国立弘前病院で行いました。」
→弘前大学医学部附属病院ではなく、国立病院。
記事での補足はなかったが(知らない人は大学病院と混同するかも)、現在は「独立行政法人国立病院機構 弘前病院」。弘前大学(医学部以外がある本部)の向かいにあり、旧陸軍病院の流れを汲んでいる。起源は1897年までさかのぼり、1949年の大学病院よりもずっと古い。
インターン終了後、弘前大学医学部の小児科医局へ。
1957年に秋田県花岡町(現・大館市)の花岡鉱山病院(同和鉱業の経営。1978年閉院)に小児科医長として赴任。
1961年に八戸市民病院。
開業を考え、弘前か妻の実家(稲川町)に近い秋田県湯沢市中心部でと考えた。
1963年に湯沢で開業し、後に秋田県内初の休日急患診療所開設に尽力。
・1969年に学校医になった際、「健診の前に、これまでにかかったことのある病気、現在治療中の病気、健康上の心配事などを父兄から提出してもらうようにした」「この方式は後に、全県に広がり、より詳細なアンケートが実施されるようになりました。」
→そう言われれば、学校の健診でそういう問診票みたいなのがあった。どこでもやってると思ったが、この方が始めたのか。
・「花見とねぷたには毎年、医院の看護師や事務員を連れて出掛けています。30年ほど前に実家の所有地で温泉を掘ったところ、見事に湧き出て、温泉付きの小さな家を建てた(のでホテルを取らなくて済んでいる)」
→うらやましい!
※「外崎」のふりがなもそうだが、文中で旅行先として「不老不死温泉」という記述があった。正しくは「不老ふ死温泉」ですよ。魁さん。
ざっとかいつまんでしまったけれど、こんな人がいて、こんな時代があって、そして今があるということか。
連載では、石岡先生の医師になってからのことなど、さらにいろいろと語られています。興味のある方は、図書館などで古新聞(縮刷版は出していない)をご覧になるか、いずれ出版されるであろう「さきがけ新書」をお読みください。
【2017年1月20日追記】2017年1月19日、石岡氏は横手市で亡くなった。89歳。
秋田魁新報社会面に、「シリーズ時代を語る」という連載がある。秋田県に縁のある人物の半生を、独り語り形式で綴るもので、3月3日から4月6日までの35回に渡って、石岡さんが取り上げられた。
以前の秋田市河辺出身の民謡関係の人の連載では、弘前市小栗山の師匠に弟子入りした話があったが、石岡さんは子ども時代を弘前で過ごしたため、昔の弘前の様子がいろいろと分かって、興味深かった。
・「5人きょうだいの長男として、現在の青森県弘前市大字小比内(さんぴない)で生まれました。」「津軽平野の田んぼに囲まれた集落でした。家は農家で米1町5反歩(1.5ヘクタール)、リンゴ5反歩を栽培していたほか、馬1頭を飼っていて運送業も営んでいました。」
→今は住宅地だけど、昔は農村だったのか。まあ、今も少し外側は田んぼだから、想像はつく。
・父は「岩木山神社の神職の家系で、次男だったことから石岡家に婿に入り」「小学校の教師をしていました。」
・実家は弟が継いでいる
・「昭和9(1934)年4月、地元の外崎尋常小学校に入学、同級生は60人もいて、1学年1学級のみ」
※「外崎」のふりがなは、3月5日の第3回では「とのさき」、3月6日の第4回では「とのざき」で異なっているが、正しくは「とのさき」だろうか。
→外崎尋常小学校は外崎国民学校を経て、1947年に他校と合併して弘前市立豊田小学校となって現在に至る。
現在の住所では、北から外崎-豊田-小比内という位置関係。
・担任の勧めもあり「旧制の県立弘前中学」を受験。「私の小学校からは、1人私だけが受け」、成績トップで合格。「外崎尋常小学校からストレートで弘前中に進学したのは3人目」
・「(中学)4年生になった昭和18(1943)年の夏休みには、青森県の南部地方へ開墾の勤労奉仕に招集され、秋には陸奥湾の小湊海岸から野辺地海岸までの一帯で」県内他校と合同軍事教練。
・翌年「7月末には、横浜の日産自動車への学徒勤労動員」
横浜では食べ物に困り、実家から「リンゴが送られてくると、近くの中華街に行って中華麺と交換し、帰ってから煮て食べました。おいしかったですね。」
・「弘前中学校の卒業式は昭和20(1945)年3月、学徒勤労動員先の横浜市で行われました。」「(空襲の恐れがあり)鉄かぶと、防空頭巾を持参しての卒業式」
・「旧制の弘前高校(弘高)に合格しており、卒業式後は弘前に戻れると思っていたのですが、戦争が激化し授業開始は8月からとなったため、横浜に残って工場で作業を続ける」しかし、「(横浜大空襲があり)6月には弘前に帰ることができました。」
→今では考えられないことばかり。平和ほど喜ばしいことはないと思える。
・「弘高は1年間の寮生活が義務付けられていました。私も市内に実家があるにもかかわらず入寮しました。」「寮は終戦後にいち早く学生による自治が復活、自由闊達な雰囲気」
・東京などの生徒が「食糧難や空襲から逃れようと入学し」、「志願倍率は15倍もありました」
・当時は定員の関係から「高校に入ってしまえば、どこかの国立大には潜り込めるような具合でした。」
→難関だったのか入りやすかったのかよく分からないが、ある意味今と同じ「全入時代」だったのか。
【21日補足】分かっていたつもりで勘違いしていたが、旧制高校とは現在の「大学の教養課程」におおむね相当するそうだ。だから、教養から専門に進むに当たって、(大学は別になるとはいえ)全入ということであり、今の感覚からすればある意味当たり前のようにも思える。
旧制弘高といえば、太宰治と…
・「同期にはNHKアナウンサーとして活躍した鈴木健二さんもいました。そういえば兄の鈴木清順さん(後に映画監督)もいて、彼は6年しっかり通い、私たちと一緒に卒業しました。」
※旧制高校は3年制。6年在籍できた
弘高から、1948年に東北大医学部へ進学(当時は4年制)。北杜夫と同級。
「(1、2年の)基礎医学の一番の難関は「本川生理」と呼ばれた本川弘一教授(後に東北大学長)の第2生理学の試験でした。」
→もしやと思って調べてみたら、やはり。「歌う生物学」で有名な本川達雄氏の父。そういえば達雄先生を最近テレビで見なくなったが、東京工業大学教授を今年でやめていた(定年退職か)。弘一氏は1903年生まれ、1971年没。
【2015年5月31日追記】テレビで久々に達雄先生をお見かけした。2015年5月31日放送のTBS「林先生が驚く初耳学!」で、ヒトデの権威として東京工業大学名誉教授の肩書。頭の毛がなくなっていた!
・医学部卒業後1年間の「インターンは古里の国立弘前病院で行いました。」
→弘前大学医学部附属病院ではなく、国立病院。
記事での補足はなかったが(知らない人は大学病院と混同するかも)、現在は「独立行政法人国立病院機構 弘前病院」。弘前大学(医学部以外がある本部)の向かいにあり、旧陸軍病院の流れを汲んでいる。起源は1897年までさかのぼり、1949年の大学病院よりもずっと古い。
インターン終了後、弘前大学医学部の小児科医局へ。
1957年に秋田県花岡町(現・大館市)の花岡鉱山病院(同和鉱業の経営。1978年閉院)に小児科医長として赴任。
1961年に八戸市民病院。
開業を考え、弘前か妻の実家(稲川町)に近い秋田県湯沢市中心部でと考えた。
1963年に湯沢で開業し、後に秋田県内初の休日急患診療所開設に尽力。
・1969年に学校医になった際、「健診の前に、これまでにかかったことのある病気、現在治療中の病気、健康上の心配事などを父兄から提出してもらうようにした」「この方式は後に、全県に広がり、より詳細なアンケートが実施されるようになりました。」
→そう言われれば、学校の健診でそういう問診票みたいなのがあった。どこでもやってると思ったが、この方が始めたのか。
・「花見とねぷたには毎年、医院の看護師や事務員を連れて出掛けています。30年ほど前に実家の所有地で温泉を掘ったところ、見事に湧き出て、温泉付きの小さな家を建てた(のでホテルを取らなくて済んでいる)」
→うらやましい!
※「外崎」のふりがなもそうだが、文中で旅行先として「不老不死温泉」という記述があった。正しくは「不老ふ死温泉」ですよ。魁さん。
ざっとかいつまんでしまったけれど、こんな人がいて、こんな時代があって、そして今があるということか。
連載では、石岡先生の医師になってからのことなど、さらにいろいろと語られています。興味のある方は、図書館などで古新聞(縮刷版は出していない)をご覧になるか、いずれ出版されるであろう「さきがけ新書」をお読みください。
【2017年1月20日追記】2017年1月19日、石岡氏は横手市で亡くなった。89歳。