広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

桜中継/坂の途中

2014-04-30 21:20:41 | 秋田の季節・風景
今年はきれいに咲いた、秋田市の千秋公園の桜に関連して2つ。

土曜日の午前中、秋田朝日放送「サタナビっ!」の中継が二の丸広場に来ていた。
売店横に白い中継車が乗り入れていた

 
「AAB」が旧ロゴなので、新しい車ではないのだろう。チャンネル番号にちなんだ希望ナンバーで「・・・5」。
隣にいたトヨタハイエースも「5」で、「秋田朝日放送」表記のみで「AAB」ロゴはなかった。

中継車の屋根には、六角形のパラボラアンテナがあり、「TOSHIBA」とあった。上の写真のように中継車後部下には「Ikegami」ともあった。
中継車の屋根からは棒が伸び、上にカメラが付いている。“如意棒カメラ”か。
上に上がると、
カメラとご対面
一般的なハンディカメラを載せられるようになっているらしい。カメラには、おそらく「Ikegami」ロゴが入っている。AABロゴはなし。

ここで「Ikegami」について。「池上通信機」のことで、医療用機器なども手がけているそうだが、業務用放送機器のメーカー。現在は東芝と資本提携しているそうなので、アンテナが東芝製なのもその縁かもしれない。
僕が池上通信機の存在と業務用テレビカメラメーカーであることを知ったのは、平成初期に放送されていたテレビCM。
「あなたが謎のフライシュマンアマガエルモドキを見ている時、謎のフライシュマンアマガエルモドキはイケガミを見ている」
「あなたがゴルバチョフを見ている時、ゴルバチョフはイケガミを見ている」
というのをご記憶にないでしょうか?

※正確にはフライシュマンアマガエルモドキという名(和名)の生物はいないようだ。「フライシュマンガラスガエル」の別名が「アマガエルモドキ」らしい。
※「ゴルバチョフ」とは当時のソビエト連邦(ソ連)の最後の最高指導者。最終的には「大統領」だったが、「書記長」の肩書きの印象が強いか。CMでは「書記長」とか「大統領」とか肩書きが付いていたかもしれない。いずれにしても、1991年のソ連崩壊前のCMということになる。
ゴルバチョフ氏の映像を使ったことについては、当時の旺文社の中学生向け雑誌において、池上通信機ではソ連の放送局と取り引きがあるため、そのツテで映像を提供してもらったという記載があったはず。

フライシュマンアマガエルモドキという名も衝撃的だったが、イケガミのブランド名と業務がよく分かる、いいCMだった。
と思っていたのは僕だけだったのか、今ネットで検索しても、このCMについて述べている人はとても少ない。


デジタル化された最近は、放送用カメラとしてはキヤノン、ソニー、パナソニック辺りが幅を利かせているような印象がしていたが、中継車込みで池上通信機が活躍しているのを知ることができた。
「あなたが桜を見ている時、桜はイケガミを見ている」といったところでしょうか。



千秋公園の花見に戻ります。
秋田市の桜まつりとしては最大規模だけに、出店も多く出て、二の丸広場周辺にずらりと並ぶ。
主催する秋田観光コンベンション協会のホームページには、「露店が約80店出店します。」とある。

ただ、昔に比べると減っている。
おそらく10年ほど前なら、公園に上っていく坂の下、市立中央図書館明徳館・秋田県民会館脇の道にも並んでいたのだが、今年はなかった。
県民会館脇、正面が図書館、左の坂で二の丸へ。以前は左の歩道部分にも店が出ていた

現在は千秋公園へのメインルートである、図書館前から松下門跡を通って二の丸へ上がる坂。「大坂」と呼ぶ人もいる。
坂は途中で右へ曲がって二の丸へ至る。
曲がり角にババヘラアイス

坂の上に最初の出店
今年は坂を上り詰めた付近から出店の列が始まっていた。昔は坂の途中にもあったと思うのだが(傾斜していて営業しづらそうだけど)。

さて、上の写真でババヘラアイスがいた坂の曲がり角を、特に花見の時期に通ると、切ない思いに駆られる。
小学生だった昭和末期には、ここだけ露天が途切れていて、そこで白衣(和服?)を着てアコーディオンを演奏する人がいた。

第二次世界大戦で負傷し後遺症を負ったような「傷痍軍人」が、お金をもらう手段として演奏していたのだ。

特に夜の暗い中では、白い衣装とアコーディオンの音色が独特の近寄りがたい雰囲気を漂わせており、花見の華やかさとは違った気持ちにさせられたものだった。

こうした傷痍軍人は、千秋公園だけに限らず、弘前公園でもいたそうだし、土地によっては繁華街にいつも来ていた【2017年10月9日補足・秋田市でも広小路・木内前のアーケードにいることもあったとか。そう言われれば、そんな気もしなくはないが、確実な記憶はない。】こともあったという。本当に傷痍軍人なのか疑問視する人もあったというが、いずれにしても、昭和が終わろうとしていた終戦から40年経った当時でも、まだ戦争が影を落としていたことになる。


ちなみに、アコーディオンという楽器も、他にはNHKのど自慢の伴奏と小学校の器楽部の子が演奏していた程度しか知らない。いずれも昭和の思い出だ。
(のど自慢では、昭和末期は出始めのデジタルシンセサイザーと共存していた。いつの間にかシンセサイザーが2台になってアコーディオンがいなくなったのだが、それはいつのことだろう? 調べたのだがよく分からない。)

県民会館脇の内堀端のいろんな桜。奥が坂
コメント (5)
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