広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

雪融け進む

2013-03-09 20:57:37 | 秋田の季節・風景
2月18日の記事では、まだ相当の積雪が残っていた秋田市内。
2月27日までは、最高気温が0度前後で60センチほどの積雪だったが、それ以降は5度以上になる日や雨の日があって、28日は53センチ、3月1日に49センチ、5日に47センチ、6日に42センチ、7日35センチ、8日29センチ、9日は18センチと、急激に減った。気温は3月7日には12.8度まで上がった。
それでも、時々雪が降って、ちょっぴり積もるし、今日は昼間の気温が1度前後で風が冷たかった。
【23時20分追記】最近は荒れ模様になることもあり、3月2日には秋田新幹線が雪によって(?)脱線するようなこともあった。でも、秋田市内では風が強いくらいで、さほどでもなかった。
道路は、大通りは早期に雪が消え、小路もざふざふやザブザブ(水たまり)を経て、場所によっては除雪車がやっと来て、今は路面が出ている所が多い。
車が立ち往生した所もあったものの、路面も思ったより早く雪が消えた印象。雪が残る箇所では、今日は寒さでツルツルになっていた。

千秋公園・穴門の堀。左は秋田県民会館。全面凍結しているが、厚い氷ではなさそう

エリアなかいち「にぎわい広場」
前回最後に紹介した、エリアなかいちの新しい県立美術館前の広場に作られていた、雪のすべり台や犬っこ。その後も、融けかけて残っていたようだが、ここ数日で解体され、雪捨場へ運んでいるようだ。
わざわざおカネをかけて捨てに行かなくても、こんなに広いんだから、ここに散らばしておけば自然に融けるんじゃない? 運ぶトラックが妙にかわいらしいサイズだったのも、効率が悪そうだし…【11日追記】ここで3月11日に震災復興イベントが行われたので、その準備で場所を開ける必要があったようだ。

雪は残っているところには残っている。
一面雪
桜の咲く様子を紹介したことがあった、楢山南中町の「楢山街区公園」。
大雪に対応して、秋田市内の街区公園が近隣の雪捨場として開放されたが、ここを含めどこもそれほど多くは捨てられていない模様(車での搬入が禁止されているから)。だから、ほとんどがここに降り積もった雪のようだ。
「楢山街区  」

2月25日の大町公園橋
融雪装置が故障してそれっきりの大町公園橋では、高欄(欄干)と同じくらいまで雪が積もり(以前の記事)、中央部のわずかな幅が通路として道がついていた。今は、
かなり減った

竿燈大通りは、車道も歩道も雪がほぼ消えているが、一部区間だけ融雪装置の具合が悪いのと、日当たりが悪いのが災いして、路肩や歩道の隅に雪山が残っている。
黒く汚れて、ザラメ状の雪山。これも春が近い証

けやき通りは、車道は出ているかと思いきや…
3車線のうち、歩道側1車線が半分ほど雪でふさがっている
道路のキャパシティが大きく、これで通行に支障はないのだろうが、除雪は極力やらないことが今冬の秋田市の方針だったのだと、改めて感じる光景。
前回も紹介した、雪で高低差ができて歩きにくい、裁判所横の歩道は、
相変わらず歩きにくそう
雪の総量は減っているが、まだ多いし、ざくざく。
実は、特に歩きにくい部分は、配置上は裁判所の敷地内に回れば避けられる。敷地内は雪がなくて歩きやすいし、通るなとは書いてないので、通らせてもらった。
向こうが秋田市役所。芝生の雪が消えているのに、歩道はこんなに雪が残る
南側は日陰ではないのに、なんでここだけこんなに雪が残るのだろう。

これも以前紹介した、壊れかけの民家。この大雪で倒壊しないかと、近くを通るたびに気になっていた。
無事(?)なようで、変わらず
目立って崩壊が進んだようにも見えない。
屋根や一部の壁がないため、雪が積もる部分が少なくて大雪でも影響が少ないとか、隣のビルが風雪から“守って”くれるからだろうか。
でも、この状態だと、積雪より風のほうが怖いかもしれない。夏も気が抜けない。

※この建物はその後、2014年に解体された。この記事中ほど。


さて、路肩の雪は、気温や日光、雨で表面から融けるだけでなく、地面の熱によって地際側からも融ける。積もった雪の密度が違ったりして、中のほうからも融ける。
したがって、見かけは大きな雪山でも、中はスカスカで、ドサっと崩れたり、歩いていて踏み抜いてしまったりすることがある。(上の裁判所横の歩道なども、この点もあって通りたくない)

最近まで知らなかったのだけど、「雪根開き」や「根開き」という言葉がある。
雪が積もった場所において、木の根元から同心円状に雪が融けていくさまを指す。庭や公園でも普通に見られる光景なので、雪国に住む人なら理解できるかと思う。
「木自身が発する熱で融ける」とされることもあるが、正確には「直射日光を受けて暖められた幹からの放熱と幹に当たった日光の反射光によって周囲の雪が融けてできたもの」という仕組みだそう。(北海道庁環境生活部 自然環境課ホームページよりhttp://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/skn/sizenhome/100p/sizen.htm)
竿燈大通りの照明・信号柱も雪根開き?
電柱など柱の周囲でも、雪が丸く消えているのを見かける。上の理屈だったら、木でない無機物で雪根開きが起こっても、おかしくない。
上の写真の向こう側(車道側)では、上部に雪が残ってつながっていて、地際は融けて穴が開いている。
どっちの雪根開きが早いか?
※関連記事はこの記事後半

路肩の雪山にも穴が開いていた
雪の融けかたっておもしろい。
雪の穴の向こうに見えるのは、春の景色?
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高校入試あれこれ

2013-03-07 23:52:07 | 秋田のいろいろ
5日に「秋田県公立高等学校入学者選抜 一般選抜」、いわゆる公立高校の一般入試が行われた。

ここでの「公立高校」とは、各秋田県立高校と秋田市立秋田商業高校のこと。
かつては、近隣市町村が共同で運営していた「公立(組合立)合川高校」があったが、市町村合併で北秋田市立になって、現在は県立秋田北鷹高校に統合。(開校当初は私立秋田短大附属合川高校だったので、私立→組合立→市立→県立と変遷したことになる)
それから、能代市立能代高校【9日訂正】能代商業高校は、今年3月で県立能代北高校と統合して県立能代松陽高校となるので、市立高校としての入試は行わなかったはず。
【9日訂正】上記「能代高校」とあったのは「能代商業高校」の間違いでした。すみません。
なお、中高一貫の秋田市立御所野学院は、高校からの編入はないそうなので5日の試験はなかったはず。(国立秋田高専や美短(来年度から美大)附属高等学院は、高等学校ではないので、もちろん別)

秋田県の高校入試の学科試験は、昔は9教科とか3教科だった時期もあったと聞くけれど、今は5教科。【2016年6月28日追記】秋田県の高校入試が9教科から3教科に変更することが決まったのが、1966(昭和41)年6月28日だそう。具体的に何年度の入試から変更されたのかは分からない。
【2021年12月28日追記】2021年12月28日付 秋田魁新報「シリーズ・時代を語る」で元・秋田県教育次長の佐々田亨三氏の発言で、3教科になったのが「昭和42(1967)年春」と判明。3教科は「昭和55年春の入試まで」で1981年度から5教科が続いていることになる。したがって(ストレートの受験生は)1951~1965年度生まれの14学年が、3教科だった。ただし、下の追記のように、3教科+作文という時期もあったらしい。
教科減には生徒・教員の負担を減らし、授業内容の充実を図る狙いがあったようで、「国語は社会もきちんと学んでいけないと解けない、数学では理科の理解度も測ることができる」という理由付け(コジツケでは)がされていたそうだ。佐々田氏は3教科入試は、試験外科目の学力低下など「今考えても、教科減が本当に良かったのか、疑問が拭えません。」とし、「高校入試は当面、5教科が適当と捉えています。」としている。(以上追記)

全国的に多くの県で同様のようだが、5教科の試験と面接を1日で行う。
北陸地方では、同じ試験内容でも2日間にまたがってゆっくりと行う県もあるそうだ。
【2017年12月16日追記・秋田県の9教科入試当時のこと】
2017年12月15日付秋田魁新報「シリーズ時代を語る」本荘山の会会長・荘司昭夫氏(1941年生まれ)の連載4回目で、1957年の県立本荘高校の入試科目について言及されていた。
当時は「中学校で習う全9教科が入試で出題されていました。」ものの、「当時の入試は英語か技術・家庭のどちらかを選ぶことができたのです。」だそう。
実際には9教科でなく8教科を勉強して受験すれば良かったということのようだ。今の感覚では、9教科の中で、どうして英語/技家の2教科だけ部分的に選択制となっていたのか、理解し難いが、当時としては、英語をさほど重要視していないとかの理由で、そんなもんだったのだろうか。
本荘高校以外の高校でも、同じ選択だったのだろうか。
また、当時は男子が技術、女子が家庭と男女で科目が分かれていたと思うが(1976年度生まれまではそうだった)、試験も男女で別だったのだろうか。とすれば、試験問題としては10教科あったことになる。
【2018年3月12日追記・秋田県の面接について】
2018年3月12日付秋田魁新報「内外の歴史」欄によれば、1985年3月12日に実施された入試(つまり1985年度入試)から、「秋田、湯沢、大曲工を除く60校で筆記試験後「面接」を実施」とある。残り3校がどうして実施しなくて、いつから初めたのかは不明だが、1969年度生まれの人から大部分が面接を受けるようになったようだ。思ったより遅い。
【2021年5月12日追記・この記事のコメントより、1975年度の入試科目について】
3教科時代だったわけだが、今は国語の問題の1つである「作文」が国語と独立して試験されていたようだ。(以上追記)


私立学校が5校(うち秋田市内に4校、さらにうち2校が女子高)しかない秋田県においては、公立高校の一般入試はある意味とても重要な日。高校入試にちなむいろいろ。
●解答速報
秋田では、高校入試の日の夕方、テレビで「解答速報」すなわち「学科試験の解答と解説を伝える特番」が生放送される。今年は、民放3局が揃って16時台に放送した。
インターネットテレビガイドより。左からABS、AAB、AKT
こんなことをする地域って、他にあるのだろうか?

今年の状況をざっと見てみると、青森県、富山県、福井県では放送されなかった模様。
岩手県や静岡県では、いずれもTBS系列局(ラジオもやってる老舗局)だけが放送。大都市圏の愛知県でも、テレビ東京系列局が放送しているので、まあ、地域・テレビ局によってやったりやらなかったりということかもしれない。
秋田のように、複数の局で解答速報をするところは、北海道が5局のうち3局、山口県が秋田同様3局中・全3局で放送した。

全国的には、解答速報の番組は、予備校や進学塾がスポンサーとなり、解説もそこの講師が出演して行なっているものが多いようだ(山口は3局とも予備校講師が解説)。
秋田でも、予備校講師が出演する局も今はある。だけど、ほかの局では、公立中学校の先生が出演して解説する。
僕が中学生だった平成初期は、AAB開局前でABSとAKTの2局しかなかったが、2局とも解答速報を放送し、どちらも予備校ではなく、学校の先生が出ていた。

中学校の先生を生でテレビに出すとなれば、スタジオは秋田市にあり、平日だから制約がある。
出演するのは秋田市立中学校の先生だけだと思う。年代は30歳代前後の人が多いか。当日は3年部の先生は各高校の引率に出ていてテレビ出演どころじゃないだろうから、おのずと1・2年部所属の先生だったのだろう。
考えてみれば、中学校の先生が出演して高校入試の解説をするというのは、どこかヘンな感じもする。
中学校の先生の出演は、全国的にはどんなもんなんだろうか。スポンサーの予備校にすれば、解説も自前で行えば、説得力も宣伝効果も高まるだろうから、そちらへシフトしているのかもしれない。

【2021年5月12日追記・学校の先生が出演することについて、関連するかもしれない話】
魁「中学自習室」の記事へのコメントで、こんな話を教えてもらった。1974年には、紙面と連動してABSで「ラジオ講座」が放送されていて、秋田市内の中学校教員が出演していたとのこと。
解答速報とどちらが先かは分からないが、中学校の先生が放送で解説するという形は同じ。どちらかがきっかけとなってもう一方ができたのかもしれないなどと憶測。(以上追記)


ところで、解答速報の放送時間帯が気になった。全国的には、16時台か17時台に放送している。
秋田県では3局とも16時台の放送なわけだが、これって早すぎると思う。学科試験が15時15分に終了し、以後、順次面接なので、16時に帰宅できる受験生はごく限られている。(僕が受験した時は、16時ちょうどに高校を出た記憶があるが、放送時間は少し遅かったような気もする)
以前はどこかの局で深夜に再放送していたが、今はないようだし。まあ、自分で録画して見なさいということでしょうか。
ちなみに、山口県では、3局ともいつもはネットしている夕方の全国ニュースを一部休止(開始を遅らせて)、IBC岩手放送でも、時代劇の再放送を休んで、それぞれ17時台に解答速報を放送している。


今は、県教育庁自身や一部予備校が、すぐにネット上に解答を公開するようにもなった。テレビで、しかも民放各局がこぞって解答速報すること自体の意味合いも薄れてきているように思えてしまうが、解答速報はこれからも放送され続けるだろうか。【末尾リンクの続編の通り、この後、中学校教員の出演がなくなったり、放送しない局ができたりして、2021年春にはどこも放送しなくなってしまった。】

●新聞解説
テレビと同じようなことは、翌日の新聞でも。
大学入試センター試験でも同じだが、問題と解答が掲載される。秋田魁新報は本紙に、全国紙は別刷り。
さらに秋田魁新報では、翌日の紙面を一面割り振って、5教科の出題意図や解説が掲載される。文章による解説は、テレビ同様に中学校の先生によるもの。

●問題
上記の通り、試験問題と解答は、ネットや新聞で公開される。
県教育庁高校教育課のホームページから、国語の試験問題をダウンロードしてみた。表紙はちゃんと表示されるが、スクロールすると、
真っ白?
「次の文章を読んで、1~6の問いに答えなさい。」とあるだけで、あとは真っ白。PDFファイルが壊れたのかと思って、再度ホームページを見ると、「大問二・三・五に関しては、著作権の関係で掲載できません。」だそうだ。
該当する問題では、文章だけでなく、著作権とは関係ないはずの問題文も見られない。解答は見られる。

というと、大問5つの国語の問題の半分以上が見られないことになる。
見られるのは、「聞くこと」に関する検査の「一」と、「枕草子」からの「四」だけ。

ところが、新聞には、大問二・三・五が文章部分も含めて公表されている。テレビの解答速報でも映ったはず。
大学入試センター試験の国語の文章題をネットで見てみたが、こちらは文章部分もすべて公開されている。また、他県では文章の部分だけ「省略」とし、問題文は見られるようにしている所があった。

ちなみに、大問二は「平田オリザ『わかりあえないことから』」、三は「山本一力『菜種晴れ』」が出典元の、普通の問題文。
大問五は、作文の問題。なんで作文に著作権が絡むのかと、不思議だが、こんな問題。
「次の言葉を読んで、あなたが思ったことや考えたことを、後の〈条件〉にしたがって書きなさい。」とあり、後に日野原重明氏(聖路加国際病院名誉院長)による一文が出ている。(条件とは、題名不要で200~250字)
なるほど。
たった1行の一文を使っただけでも、著作権が出てくるのは当然のことだが、問題をまるまる消してしまう秋田県教育庁の対応は、いかがなもんだろうか。

●書き取り問題
国語の問題を見ようと思ったのは、わけがある。漢字の書き取りの問題を知りたかったから。
今回は、読みも含めて、次の問題が出た。

大問二「トオく」「ハナって」「概念」「回避」
大問三「トドいて」「カクベツ」「家督」「生地」

高校入試でこの漢字。どう思われるでしょうか?
個人的には「家督」「生地」が意表を突いた、やや難しい出題に感じた。他は簡単なようにも感じるが、まあ妥当かもしれない。

僕が高校入試の漢字にこだわるのは、こんな思い出があるから。
僕が受験した年は「ウツクしい」というのが出題された。「美しい」。
運良く合格し、入学しておそらく最初の国語の授業で、現れた先生がこんなことをお話しになった。
「「美しい」なんて簡単な漢字を高校入試に出すなんて、ずいぶん見くびられたと思わないか? 秋田県の教育なんてこんなもんなんだ!」(←若干誇張して記憶しているかもしれません)
聞いた生徒の多くが、たしかにそうだと納得したはず。
そう話された先生は、その後、順調に出世されて、入試問題を作成・監修する側にもいらしたことがあるようだ。(その先生が実際に問題を作ったか、書き取りの内容に口出しできたかどうかは不明)

時が経って、今は「遠く」。「美」は小学校3年生、「遠」は2年生で習う漢字だそう。うーん…

ただ、改めて調べたり考えたりすれば、「美しい」を高校入試に出題すること自体、間違いではなかったのかもしれない。
県内全部の高校で共通の問題なのだから、いろんな受験者がいる。極端に難しい漢字を出題すれば、県全体での正解率が低下し、試験問題として成り立たなくなってしまう。全国的に公立高校入試に出題される漢字の書き取りは、小学校で習う漢字(教育漢字)が中心のようでもある。
【2018年4月13日追記】2018年4月2日付秋田魁新報・中学自習室の第1回で漢字の出題基準が説明されていた。「秋田県公立高等学校入学者選抜学力検査問題作成方針」において「漢字については、常用漢字を読む力と学年別漢字配当表に示されている漢字を書く力」について出題するとのこと。書き取りは小学校で習った文字しか出題しないことが明示されていたのだった。(以上追記)
それに、書き取りは、使われた文章の中から抜き出して出題されるのが一般的だから、文章中に書き取りに適当なレベルの箇所を探すことが大変かもしれない。
その先生も、当時は若くて、そんな事情をご存じなかったのだろう。

でも、学力日本一の秋田県の小中学生には、もっとレベルの高い問題でもいいかもしれませんよ。

【2014年3月6日追記】翌平成26年入試では、書き取りに「察知」「保てる」「雑誌」「大勢(おおぜい)」が出題された。
2013年よりは難易度が上がって、良問のような気がする。

【2015年3月6日追記】平成27年度入試では、漢字の読み書き、慣用句、敬語の問題をまとめて大問「二」(「一」は「聞くこと」に関する調査=リスニング)に独立して出題された。過去にない出題形式。
文章題から抜き出して出題するよりも、このほうがやりやすいだろうし、たしか青森県などでは以前からこの方式。
漢字は読みが「体裁」「費やす」、書き取りが「討議」「奮って」「専念」。昨年同様、一定のレベルがありそう。県教委では出題の狙いとして、「基礎的・基本的な言語事項。」「(これまでの全国学力テストなどによって)明らかになった弱点が補強されているか。」などとしている。

●合格発表
合格発表は、3月12日に各高校に掲示(時間は学校ごとに異なる)し、ホームページにもアップ。今は当然のごとく、受験番号だけの発表。

今からすれば信じられないが、昔は合格者の氏名も発表され、しかもそれがテレビで中継されていた
僕の頃はワープロ専用機が普及していたので、学校によっては合格発表にも使っていたような気がするが、巻紙に毛筆の手書きで縦書きしたものを掲示する学校もまだ多かった。筆を揮える先生はそう多くなく、多くても筆跡があちこちで違えば見た目が悪いわけで、いずれにしても少人数での作業となり、書く担当になった先生は苦労していたようだ。
昔は16時に発表する所が多く、解答速報同様に民放テレビ局(たしか2局とも)が特番を組んでいた。秋田市内の高校から順に、一部は中継を出し(各校の掲示板を直接撮影するので、ちらつく雪や見に来た人の頭が映ったりした。合格者へのインタビューもあったか)、残りはスタジオで紙の名簿(ワープロ作成の横書き)をカメラで映していたかと思う。
もちろん、新聞にも掲載された。
【2018年2月24日追記】大学入試での話だが、1996年に新聞に合格者の氏名を載せるのはプライバシーの侵害だと日本弁護士連合会が各社へ要望、文部省(当時)が各大学に配慮するよう通知したとのこと。これが地方の高校入試へも波及していくのだろう。

※合格発表に関する2014年の記事
【2014年3月31日追記】記事と直接の関係はないけれど、宝塚音楽学校の合格発表について。
屋外で合格者の受験番号を掲出し、受験生や保護者が詰めかけるのは、よくある光景(服装は華やかだけど)。
合格発表の時間になると、覆っていた紙や布を剥がしたり、裏返した掲示板を表にしたり、フライング気味にえっちらおっちら運んできたり、やり方は学校によってさまざまだが、宝塚では、蝶番がついていて半分に折りたためる掲示板を用い、それを開く方式。美的といえば美的か。
ユニークなのは、発表の作業を教職員でなく生徒(2年制なので1つ先輩か)が行うこと。受験会場の設営を現役生徒が行うのは公立高校などで広く行われているし、それと同じではある。
さらに宝塚ならではなのが、「ただ今から、合格者を発表致しますっ!」と、舞台の一場面のようなセリフ付きなこと。ニュースでこのシーンを何回見ても、失礼ながら笑ってしまう。
(以上追記)


秋田では、修学旅行の安否を伝えるテレビCMが放映されるとか、一般の人が亡くなった時に新聞広告が出る(死亡広告。秋田県外でも地方では見られる)とか、他の地域や特に大都市圏に住む人が驚く“風習”があるものだが、高校入試に関しても、それに相当するものがあるみたいだ。そして、時が経てば変化するものもあるもんだ。

※その後、2016年の話題
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金の町・銀の町

2013-03-06 23:05:21 | 秋田の地理
だいぶ前にアップした珍名アパートに入れてもいいようなアパートを秋田市某所にて発見。
「Agハイツ」
Agって何? 所有者のイニシャルとか?
(勘がいい方は、タイトルを見て分かっちゃいますかね)

ヒント。近くには、
「ハイツ泉銀」(「いずみぎん」と読めばいいの?)

ここは、秋田市泉地区。
1999年に住居表示が実施されるまで「泉字銀ノ町」という地名があった。現在の泉中央一、五、六丁目、泉南一、二丁目の各一部に相当し、泉小学校・秋操近隣公園・泉保育所から保戸野桜町と接する天徳寺地下道の通り(神田線・添川線のバス通り)までの一帯。

上の2つのアパートの所在地は、いずれも旧銀ノ町だったと思われる。
「ハイツ泉銀」は地名の略だろうし、「Agハイツ」は「銀」の元素記号「Ag」が由来だろう。
【5月26日追記】クレヨンしんちゃんの秋田県(大曲辺り)在住の父方祖父「野原銀の介」。5月24日放送のアニメでは「Ag」というロゴ(?)が入ったパーカーみたいなのを着ていた。
今は泉中央

地名としての銀ノ町はなくなっても、「銀ノ町」にちなむ施設が他にもいくか残っている。
「leopalace銀ノ町MDI」
「レオパレス21」とは書いていないが、昔の運営会社名である「MDI」とあるので、無関係ではないようだ。

「秋田銀行泉銀の町家族寮」
銀行だけに銀の町とは都合がいい。

「銀ノ町」「銀の町」の表記が混在している。正式には「ノ」だったようだが、住民が住所を書く時などは「の」で書く人も多かった。
雪に埋もれる公園
その名は、
「泉銀の町街区公園」(1992年供用開始)
秋田市役所ですら「の」を使っている。
※秋田市では、住居表示で地名が変わっても、公園の名称は以前のものを引き続き残す方針のようで、他地域にも多い。


アパートで名称が「銀ノ町」など昔の地名ということは、それは古いアパートということになる。「泉中央」など新しい町名を使ったアパートも出てきているので、名前で古さが分かってしまうのは、大家さんとしては苦しいかもしれない。
銀ノ町を名乗っていたアパートには解体されたものもあり、昔の地名を今に伝えるの建物たちも、ゆくゆくは消えていく運命。


アパートや公園以外で旧地名を今も使っているものには、町内会の名前がある。
あとは、(銀ノ町にはないが)コンビニのサンクスの店名。※サンクスの店名に関する以前の記事
公式サイト店舗検索より「サンクス秋田泉上の町店」
銀ノ町の南隣に、字上ノ町というのもあり(同様に1999年に消滅)、そこにあるサンクスが改名せずに続いている。



さらに実は、銀ノ町の北隣には、字「金ノ町(きんのまち)」があった。金と銀が揃っていたのだ。
現在の泉中央二、三、四丁目の各一部で、泉小学校と泉中学校の間の一帯。(中学校の所在地は旧・字新川?)

銀ノ町ほど多くはないが、「金ノ町」を名称に使ったアパートも存在する。(元素記号にちなむ「Auハイツ」残念ながらはない)
そして、金ノ町にもサンクスがあった。
天徳寺地下道の通り。向かい(右側)は保戸野桜町
天徳寺地下道のすぐ南、上の写真で左側にあったのだが…
閉店していた!

「お知らせ」
2月28日午後10時で閉店したそうだ。
店舗名は「サンクス秋田金ノ町店」。泉上の町店と違って「泉」が付かない店名だったのだろうか。
この跡はどうなるのだろう?
【5月12日追記】5月現在では、空き店舗で、借り手を募集中。
【6月18日追記】7月の参議院選挙を控えて、某宗教系の立候補予定者が選挙事務所として借りたとのこと。
【2014年5月18日追記】選挙後空き家となり、2014年5月頃から高齢者の健康関係の店が入ったとのこと。

近くの他のコンビニといえば、400メートルほどの保戸野八丁(工業高校そば)にサークルK、あとはファミマやローソンは500メートルほど離れている。

5日付秋田魁新報経済面によれば、今年1月末時点の秋田県内の各コンビニ店舗数は、ローソン169、サンクス82、ファミリーマート56、セブン-イレブン14、サークルK12。金ノ町店の閉店で、サンクスは81になった。
ちなみにファミリーマートは2016年2月までに100店舗以上に増やす方針とのこと。



最後に、泉地区の地名についてまとめておきます。(参考:秋田市役所市民生活部生活総務課「地名小辞典」)
秋田市中央部の北寄り、新国道からJR奥羽本線・天徳寺にかけてが「泉」地区。
【3月7日追記】元々は「(南秋田郡)泉村」で、1889(明治22)年に手形村、保戸野村と合併して「下旭川村」の大字泉、1892(明治25)年に上旭川村(今の濁川・新藤田から仁別一帯)と合併して「旭川村」、1933(昭和8)年に秋田市に編入された。

40年ほど前までは一面の田んぼだったというが、宅地化が進んだ今はその面影はない。
1962年の航空写真を見れば、新国道・市電の線路から今で言う保戸野桜町にかけて、家が一軒もなく、まさに一面田んぼ。おそらく、保戸野、外旭川、八橋などの農家が耕作する田んぼだったのだろうか。県農業試験場がこの辺にあった(仁井田に移転する前)という話も聞いた。
1975年の航空写真では、線路沿いや秋大附属学校周辺はまだ田んぼが多いが、それ以外には住宅が建ち並んでいた。市立泉小学校は1979年、泉中学校は1981年に開校している。
余談だが、泉中学校の開校前の計画段階の仮称は「八橋中学校」だった。

なお、泉地区は、線路の向こう側(天徳寺側)にも一部またがっていて、そちらは外旭川小・外旭川中または旭川小・秋田東中学区。
狭義の「泉」と言えば、線路の保戸野側の泉小・泉中学区のエリアのみを指す。


かつては全部、大字「泉」だったが、(隣接地域と合わせて)段階的に住居表示が実施されている。特に1999年に大規模な住居表示が行われて、金ノ町、銀ノ町など多くの小字が消滅した。
現在までに住居表示が実施されてできた町名は、
1980年4月1日:泉一ノ坪、泉釜ノ町、泉馬場、泉東町、泉三嶽根(みたけね)
1999年10月1日:泉北(いずみきた)一~四丁目、泉菅野(すがの)一・二丁目、泉中央一~六丁目、泉南(いずみみなみ)一~三丁目
法則に従って、秋田市役所寄り=新国道側が一丁目。

それに、住居表示未実施の小字で五庵山(ごあんざん)、登木(のぼりき)、三嶽根が残る。
五庵山と三嶽根は平和公園とその周辺。住居表示実施の「泉三嶽根」と未実施の「泉字三嶽根」が共存するのがややこしい(1999年までは釜ノ町でも同様だった)。
登木は運輸支局付近の新国道の両側で泉の最北端。ぽつんと取り残されたようだけど、なんで住居表示しないのだろう。


以前存在し、住居表示実施に伴って泉から消えてしまった小字は次の通り。(住居表示後の新町名として残っているものも含む)
1966年消滅:八丁
1980年消滅:一ノ坪、反町(たんまち)、新堰(にいぜき)、馬場
1999年消滅:大橋、大畑、釜ノ町、上ノ町、金ノ町、銀ノ町、下ノ町、新川、菅野、道田(どうでん)、鯲沼(どじょうぬま)

「八丁」と言えば、今は泉の隣の「保戸野八丁(ほどのはっちょう)」。おそらくそこが旧・泉字八丁だったのだろう。泉から保戸野へ編入されて、地名が今に残ることになる。「反町」というのも、保戸野八丁付近の町内会名で残っているはず。

鯲沼」や「大畑」のように八橋(やばせ)と泉の2つの大字に同名の小字が存在したり、「大畑」と「大橋」、「新川」と八橋や保戸野の「新川向」のように似た小字が近接していたのは、ややこしかった。

1999年に住居表示が実施されたエリアには、小字を使ったバス停がいくつかあった(泉山王環状線と泉秋操線用)。
当時は市営バスが運行していただけに、バス停名は住居表示実施とおそらく同時に、改名された。
しかし、泉秋操線(現・泉ハイタウン線)の車両の行き先表示は、中央交通に移管される2006年3月まで変更されず、「泉道田」「泉上ノ町」と住居表示実施前の小字のまま残っていた。
 再掲

考えてみれば、気になるのは「○ノ町」シリーズの多さ。
天徳寺から南(八丁方面)へ向かって、釜ノ町-金ノ町-銀ノ町-上ノ町-下ノ町と5つがほぼ直線に並んでいたことになる。近くに「保戸野原の町」もあるが、昔は泉村の「原ノ町」だったようだから、6つか。
まあ、上と下、金と銀は、地名がなかったから適当な言葉を選んで並べただけにも思える。でも、「釜ノ町」の「釜」って何だろう?
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さっちゃん

2013-03-04 21:08:40 | 秋田のいろいろ
秋田の「さっぽろ屋」が潰れた。

まず、報道で分かった事実から。
秋田市河辺の製麺業「伏伸庵(ふのしあん)」が3月1日に事業を停止し、自己破産申請の準備に入った。負債総額は約4億円。
同社は、1965年に現社長が秋田市旭南で個人創業(後述のようにやや異なる情報もある)。1970年2月に法人化して「さっぽろ屋」。1986年11月に河辺に工場を建設して拡大。ピークの1993年6月期には約11億2千万円の売り上げを計上していたが、2012年6月期には約2億7千万円まで落ち込んでいた。
今年2月に、さっぽろ屋から伏伸庵に商号を変更していた。
といったところ。

以下は、あいまいな記憶に基づくものもあり、間違っているかもしれません。

「さっぽろ屋」は、秋田県内の飲食店向けやスーパーなどで売る家庭向けの麺を製造・販売していた。学校からトラックが出てくるのを見たことがあるので、ソフト麺ややきそばなど、学校給食向けもあったのかもしれない。
なぜ「さっぽろ」なのかは知らないけれど、マスコットキャラクター「さっちゃん」が製品や配送トラックに描かれ、「さっちゃんマークのさっぽろ屋」として、秋田県民に親しまれていた。
秋田では、「ヤマヨ(本社・秋田市泉、1913年創業)」と並ぶ、地元の麺屋さんだった。(「たけやパン」と同じように、てっきり全国展開していると思い込んでいた人も多いのではないだろうか。)

たしか、だいぶ昔はテレビCMが流れていたはず(火曜19時のサザエさんの再放送だったか? あれは「林泉堂」?)。
「伏伸庵」に名称変更したのはつい最近で知らなかったが、さっちゃんマークのトラックを最近見たような気もする。
【10日追記】伏伸庵は、河辺岩見にある「伏伸の滝」が由来だろう。

一部新聞では、価格競争や大手との競争に勝てなかったともあった。
スーパーの家庭向け麺類では、保存・輸送技術の発達で県外企業製のものも売られているし、例えば横手市十文字の「林泉堂」みたいな新たな県内メーカーによる製品も目を引くし、ヤマヨは川反の「横町紀文の千秋麺」を家庭向けにした新商品を出すなど製品開発に励んでいるようだ。
そんな中、さっちゃんの目玉商品とか新商品は、記憶にない。「稲庭ラーメン」なる商品はあったようだが。


なお、インターネットには、「有限会社さっぽろ屋」当時のホームページが残っている(http://www.chuokai-akita.or.jp/akitanomen/sapporoya/)。ホームページ作成時点では、秋田市川尻若葉町に本社があったようだ。
さっちゃんがいた!
また、別のホームページ「秋田ラーメン.コム(http://www.akitaramen.com/kaisya.html)」によれば、創業地は旭南ではなく「川尻沼田(住居表示前の川尻字沼田のことか)」で、現在の川尻大川町や山王沼田町付近の模様。以後、1967年に旭南に工場を移転、1972年に本社・工場を川尻大川反へ移転、1986年に工場を河辺へ移転、1989年に本社を川尻若葉町へ移転。という経過になっている。


業務用に仕入れていた飲食店では困っている所があるかもしれない。個人的には商品自体に思い入れはなく、なくなって困るわけでもないが、「さっちゃん」にもうお目にかかれないと思うと、寂しい。
【23時追記】何でも扱う食堂や社食・学食の類では、麺もつゆもさっぽろ屋のものを仕入れて出していた所があったかもしれない。そんなお店では、今までの味が楽しめなくなることになりそう。
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弘前の校舎

2013-03-02 17:12:51 | 津軽のいろいろ
先日の体育館の続き。
公立学校の校舎の設計には、各自治体の方針(好み?)や建設当時の建築業界の流行が反映されているらしいことを、秋田市立学校(この記事など)を例に見てきた。
弘前市立の学校では、秋田市では見ない屋根がある校舎など、古めのものがまだ多く残る気がしていたが、最近は建て替えが進んでいる。中心部で見たものをいくつか。
●最新型
まずは、体育館の記事でも紹介した2校。校舎も体育館と同時に建てられた最新型。
弘前市立第三中学校
1997~1998年築だから、秋田市で盛んに新校舎が建てられていた頃である。秋田市立保戸野小や桜中と“同期”か。

外壁はあずき色というか暗めのピンク(秋田市の勝平中学校ってこんな色だったような?)。
上の写真の道路に面した、西向き中央の正面玄関部分だけ、色が濃く、やや装飾的なデザイン。電気時計は掛け時計タイプ。
道路から見ると、横に長い校舎がどっしりと構えながら、中央の飾りがいいアクセントになっている。


弘前市立大成小学校
現在は弘前駅からいちばん近い小学校かな。
大成小は、2002年に第一大成小学校と第二大成小学校が統合、旧第二大成小の場所に新校舎を建てて開校した。※関連した話題がこの記事中ほど
「創立10周年」と看板が出ているものの、さかのぼれば明治時代に「大成小学校」として開校し、後に分離した経緯があるそうで、“再統合”と言えるのだろう。

秋田市でいえば、勝平小学校(2003年)と同時期の校舎。
クリーム色と茶色を組み合わせた外壁。箱型だが、正面玄関部分は緩やかにカーブし、右には円筒形のもの(給食室関係?)がある。
形でも色でもメリハリが効いていて、かつ落ち着いた印象がする。

正面の3壁面上部に、校章と校名が示されている。その下には秋田市と同じような「塔時計(埋込み式電気時計)」が設置されている。文字盤には数字なし。

なお、「第三大成小学校」もあり、現在も存続している。
1990年代に新校舎ができていて、クリーム色と青系統(紺色?)というドラえもんみたいな配色だが、これも悪くなかったと記憶している。(上空から見ると校舎がブーメランみたな「く」の字形なのも珍しい)


秋田市の新しい校舎もいいとは思うが、単調で汚れやすい色合い、メリハリのないデザインの中に現れる無意味な(?)塔もどきや柱、よく分からない壁画などは気になる。
弘前市立の学校のほうが、落ち着いていて機能的に感じて、好き。(あくまで外観です。内部は知りません)



●建設中
現在、秋田市では校舎改築(建て替え)はひと通り済んで落ち着いたが、弘前市では建築中のものも。
雪の中、工事中(横断歩道橋から)
第三中の真向かいの、市立文京小学校が改築中だった。第三中寄りにある、現在のグラウンド部分に校舎が建つらしい。
工事看板
昨秋から今年いっぱいかかるようで、工費は約9億円。設計は弘前市内にある設計事務所が行ったようだ。(電気や水道設備の工事は別発注)
秋田市の場合、山王中や北中は設計を公募したが、他は市が自ら(建築職職員が)設計することもあるはず。

文京小の今の校舎は、見るからに古かった。
 北側から
1964(昭和39)年開校だそうだから、その時の校舎を使い続けているのだろうか。とすれば49年!
東西方向に長い校舎が、団地のように南北に5本並んで(実際にはうち2本は短くて陰に体育館がある)つながっている構造。

青い屋根があり、集合煙突(後述)が並ぶ
(屋根の有無や校舎の配置は別として)2階建てだったり壁面の感じなどは、1960年代に建てられた、秋田市立旭北小や牛島小の鉄骨造(S造)の先代校舎に似ていると思う。

窓枠は鉄製
秋田市でも、昭和30年代建築の校舎では鉄の窓だったが、昭和50年代には順次アルミサッシに交換していた。鉄窓は、開閉時は重く、ゴロゴロと音がうるさかった。

文京小の新校舎は鉄筋コンクリート造3階建て、延べ面積5149.65平方メートルとのこと。どんなデザインの校舎ができるだろう。
※続きはこの記事後半



●元校舎と集合煙突
上記と以前の記事でも紹介した、旧第二大成小と統合された、旧市立第一大成小学校。弘前市立病院の向かい・土手町商店街の裏側にあった。
旧校舎はそのまま残され、「弘前市役所土手町分庁舎」として活用され、区画整理課、市民生活センター、市民課駅前分室が入っている。(グラウンドは病院の駐車場になっているのかな)
土手町からも病院向かいからも入っていけるが、校舎は奥まった場所。
病院側から入った風景
窓口の案内板が立っているが、それ以外は現役の学校かと錯覚しそう。
校舎はコの字型だが、
間に雪山が!
屋根付きだけに、中庭には落雪でできた雪がたまっていた。
まだ屋根から落ちてきますよ
上の写真右上の時計の所に、小さいベランダがあり、棒が2本立っている。掲揚塔のようだけど、地上にないのが珍しい。

「コ」の右下・病院の通り寄りに、体育館がつながっている。今は使われているのかは分からないが、残っていた。
切妻屋根で小さい体育館
校舎よりも古いようにも見える、かわいらしい体育館。形や色合いが秋田市立中通小のものに似ている。
中通小と違い、3階建て相当の高さで、アリーナは2階にあるようだ。1階はどうなっているかというと、
「大成小学校 児童昇降口」という看板が残っていた。「第一」が抜けている?
体育館は市立病院の通りのイトーヨーカドー側。体育館の下を通らないと登下校できなかったのだろうか。
土手町商店街側から通う児童や、教室とグラウンドの行き来には、遠回りだ。(現在は体育館下は閉鎖され、校舎本体に直接出入りできる)

上の各写真でも分かる通り、旧第一大成小校舎にも、集合煙突があった。FFストーブの給排気筒もあったので、現在は使われていない模様。※秋田市立学校の集合煙突
その集合煙突が、変わっていた。

屋上の煙を出す先端部はコンクリート製で、これは集合煙突として普通。
だが、そこから真下に、金属製らしきパイプが伸びている。そのパイプは、各フロアの窓に向かって枝分かれしている。
パイプは地面までつながっていて、そこに小さな扉(掃除用か)があるようだ。

鉄筋コンクリート造の建物の集合煙突では、建物自体の壁の中に空間を設けて煙突とするのが普通のはず。
それにより、煙突のメンテナンスが軽減され、窓に煙突穴を付けなくて済むからすきま風も防げる。
しかし、旧第一大成小校舎では、わざわざ校舎の外に煙突(パイプ)を作り、窓に穴を開けて接続している。木造建築で集合煙突を付けるには、こうしないといけない(でないと火事になる)が、鉄筋コンクリート造なんだから…
これだと、集合煙突のメリットがあまりなく、各教室から直接煙を出すのと違わないような気がする。見映えも良くない。校舎完成後に後付けで集合煙突を設けたのだろうか。

ちなみに、
文京小の集合煙突
文京小は、外から見て壁の煙突相当の部分が出っ張っていて丸わかりだが、コンクリート製。これなら分かる。(でも、今はFF式のようだ)


なお、弘前市役所土手町分庁舎の機能は、7月にリニューアルオープンする、近くのジョッパル改め「ヒロロ」の「(仮称)駅前分庁舎」に移転するため、用途廃止。当面は倉庫などとして活用するとのこと。(2月13日東奥日報より)



●円形校舎
最後に、弘前市立ではなく、私立学校の校舎から。弘前で「校舎」といえば、これでしょう。
どーん(正面の北側)
学校法人柴田学園 柴田女子高等学校の「円形校舎」。
場所としては、市立第三中と背中合わせの敷地だが、道はやや入り組んでいて、僕はこの辺でいつも方向感覚・距離感覚が惑わされて、迷いかける。
弘前に引っ越して間もない頃、ここにこんな建物があることを知らずに、迷いかけて(いや、迷って)偶然ここにたどり着いたことがあり、その時は、驚くとともに不思議な感覚にとらわれた。
初めて遭遇した時はこのアングルだったか(南東側)

ここで、「円形校舎」を説明しないといけません。
円形校舎とは、円筒・円柱の形をした校舎のこと。昭和30年代に流行し、国内で100程度建設されたという。学校によって「円型校舎」表記や「円筒校舎」と呼ぶこともあるが、「円柱校舎」とは呼ばないようだ。
各教室は窓を背にする扇型で、それが切り分けたバウムクーヘンのように配置され、中心に廊下と螺旋階段が配置されるのが標準。校舎外周にベランダが設置されて廊下的に使われたり、屋上にドーム状の屋根が付くタイプも少なくないようだ。
教室の採光や音響に優れ、建設コストが安く、土地を有効活用できるメリットがあったものの、部屋によっては日当たりが悪い、増築に対応できない、避難経路が限定されるといった問題点もあり、廃れてしまったという。
それらが老朽化し、近年は解体される円形校舎もあり、現役で使われているものは少ない。

秋田で円形校舎といえば、秋田市立秋田南中学校が有名。(秋田市広報紙では「円形」「円型」両方の表記が見られる)
1961年に落成し、1977年頃まで校舎として使用。以後は、秋田市楢山地区コミュニティセンターに転用され、2005年に解体された。
1960年7月1日付広報あきた147号では「円形校舎は、県内小、中学校では初めてという珍らしいもの。」「市立の小、中学校舎のテストケース。」と紹介している。
計画段階は2階建てだったらしいが、3階建て15教室で竣工。屋上は運動場だったそうで、高いフェンスが張り巡らされていた。ベランダはなく、窓枠の格子が細かい。コミセン転用の時点では、アルミサッシに交換されており、印象が少し変わった。

1961年といえば、秋田市立学校初の鉄筋コンクリート造校舎とされる、土崎中も同じ頃にできたはずだが、南中のほうが少し後だったのか?
秋田市では、円形校舎はなじまないと判断され、建設は南中だけで終わってしまい、生徒増加に対応できずに15年ほどと早期に転用されてしまったのだろう。
1963年には、森吉町立(現・北秋田市立)前田小学校にも円形校舎が落成したが、2006年に新校舎ができて解体されている。
以上、秋田の話。弘前に戻ります。


青森県内にもいくつか円形校舎はあったようだが、弘前市内では柴田女子高だけではないだろうか。そして、それが現存している。いつ造られたかは、不明。
4階建てだが、最上階にはほとんど窓がなく、体育館や講堂のような場所らしい。3階以下には、外周にベランダがある。撮影位置や雪が積もって分かりにくいが、屋根はドーム状(赤いようだ)。
ピンクと水色の配色が女子高らしく(一般的に円形校舎はグレーが多いようだ)、最上階の窓が互い違いの格子になっているのが凝っている。
最上階が“頭でっかち”で、上水道のタンク(秋田市豊岩浄水場とかにある)のようにも見え、写真で見るよその円形校舎とは若干趣が違う。

初めて見た時、不思議な感覚がしたと上に書いたけれど、円形校舎ならではの丸い形やほぼ全面ガラス張りであることに加え、細い道を挟んで隣接する周囲の住宅とのスケール感の違いがそう感じさせたのだろう。周りが広々としていたり、敷地の奥のほうにあれば、あまり驚かなかったかもしれない。


現在、使われているかも分からない。
訪れたのは休日だったが、少なくとも内部はフルに使われているようには見えない雰囲気が漂っていた。(この後ろに新しい校舎があるようだ)
窓が開きっぱなし?
でも、
一部の部屋からはストーブの煙突が出ている
部分的には、現役で使われているのだろうか。

ちなみに、近くに建つ、同校の体育館も変わった形。
工事中?
正方形に近い形で、4辺ともカーブした屋根のようだ。カマボコ屋根の変化形ということだろうか。落雪する場所が四隅に集中しそうだが、どうなんだろう。
2014年撮影・更新のグーグルストリートビューで、この体育館が解体されて自転車置き場になったことが分かった。


城下町弘前の入り組んだ狭い道の中に、でーんと構える円形校舎は、巨大UFOが着陸したようにも見えるし、そのままずりずりと動き出しそうにも感じてしまう。
※2018年に反対側・第三中越しに円形校舎を見ることができた。この記事中ほど。また、2019年度から柴田女子高が男女共学化され、柴田学園高校となる。


以上、弘前市中心部だけでも、いろんな校舎があるものだと実感した。
ところで、文京小の建設工費は本体が約9億円。
中学校だったかの社会科で「学校1つ建てるのに10億円かかる」と習ったのを覚えているが、現代でも変わらないのか。新幹線1両が約3億円(7両編成のスーパーこまちだとその7倍)、秋田中央道路地下トンネルの700億円などと比べれば、大した額じゃない気がするけれど、歴史ある古い校舎は大事に使って残してほしいとも思う。
コメント (14)
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