麒麟琳記〜敏腕Pの日々のつぶやき改題

還暦手前の身の回りのこまごま。
スポーツや映画演劇など。

MeiとAn

2018年08月24日 | 身辺雑記
アルファベットのみの短い表記の
芸名がバッコする今日この頃、
個人的にちょいと違和感があるが、
それ以上にむしろ「没個性」になり、
アピールできないんじゃね?とも。

・・・って愚痴からの本題。
物事は明暗が分かれるもの。

勝負に勝った強豪私立よりも、
敗れた公立雑草軍団に注目が行く
・・・なんてのも一つだが

メダルラッシュのアジア大会でも
競泳やバドミントンの好調に比して
お家芸・女子レスリングでは、
まさかの金ゼロ・・・なんか
新しいビールの商品名みたい
ただ。
金はゼロだが銀銅はあわせて5個
(出場6人中)だから充分立派!
とも言えるわけである。
ま、何たって、これまで五輪でも
金メダルを多く取りチーム日本を
牽引した種目だからな……。

その前に起きた「事件」が、
もちろん影を落としてもいる。

「事件」といえば。
バスケットボールは戦う前に白旗。
いや実際、対戦は続いており、
尚かつ「4人を欠いた初戦」を
たったの8人で勝利したのは見事。

それにしても。
なぜ「彼女」の行くところ行く所で
不幸は起きてしまうのだろう……。

三屋裕子
バレーボール史に名を刻む
スターの一人だが、その人生は
波瀾万丈この上ないのである。

当時は(また女バレでは今でも)
高校から実業団が当たり前の時代、
名門・八王子実践から当然日立、
という王道を歩むと思いきや
筑波大学に進学したサイさんに、
まず最初に襲いかかったのは
〈モスクワ五輪ボイコット〉。

出場すれば九分九厘優勝と言われた
小島監督率いる日本代表は
同監督のユニチカ中心のメンバー
(横山、水原、小川、広瀬ほか)。
その中で江上(日立)とともに
学生ながらメンバー入りしていた。

卒業後は日立へ。黄金時代を牽引。
84年ロス五輪銅メダルを花道に引退。

なんと高校教師に
そしてその後は大学院に進む。

2004年、シャルレ代表取締役社長。
社会貢献活動をきっかけに顧問就任。
そのわずか3か月後のことだった。
06年Jリーグ理事、翌年4月には
日本バレーボール協会理事に就任。
そんな中、同年6月の株主総会で
創業家によるクーデターにより、
シャルレ社長の座を追われた。


そして、今回の試練だ。
14年、国際バスケット協会から
資格停止処分を受けたJBAは
体制を一新、川淵新会長のもと
新たな一歩を踏み出し、2016年
会長を禅譲されたばかりの出来事。

発覚後、即帰国となった4選手を
伴った記者会見は一定の評価を得た。
ただ、全てがこれからだ……。

センタープレーヤー時代、クイック、
ルート攻撃等で世界を魅了した
サイさんの闘いは続く

明と暗は一人の中にも。
それはまた、誰にも起こること。

コメント
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