たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

分倍河原の戦い

2018年06月04日 13時17分17秒 | つぶやき・うんちく・小ネタ・暇つぶし・脳トレ

先日 あじさいまつり開催中の 東京都府中市の 「郷土の森公園」を 訪ねましたが 車でなく電車で行きました。
京王線とJR南武線の接続駅 「分倍河原駅(ぶばいがわらえき)」で下車しましたが 通過することしょっちゅうなのに 下車するのは 初めての駅です。
駅から「郷土の森公園」へは バスで6分程、徒歩で20分程となっていましたが ウオーキングを兼ねて 遊歩道、緑道を歩いて向かうことにしたのです。

分倍河原駅を下車して直ぐ目に入ったのは ロータリー中央に立っている 新田義貞の像でした。
予備知識もなにも無しで 「?、?、」、

帰ってから ネット等で調べてみましたら 目から鱗です。
今まで知らなかったことを 知ることが出来ました。

現在の府中市分倍河原付近は 鎌倉時代後期、元弘3年に 北条泰家率いる鎌倉幕府軍と 新田義貞率いる反幕府軍が激突した合戦場だったそうなんです。府中市分梅町の新田川分梅公園には 「分倍河原古戦場碑」も 有ります。

元弘3年(1333年)5月8日 新田義貞は 上野国(現在の群馬県)生品明神で 鎌倉幕府打倒の兵を挙げましたが その時点では 総勢150騎ばかりだったと言われています。
背景には 鎌倉幕府の幕命により 後醍醐天皇等 西国の討幕勢力を鎮圧するため上洛した足利高氏(後の足利尊氏)が 後醍醐天皇の誘いから天皇方に付くことを決意、反幕府の兵を挙げたことが有ります。
それに呼応する形で 新田義貞等 関東でも 討幕ののろしが上がったということです。

新田義貞軍は 南行して利根川に至ったところで 越後、信濃、甲斐の一派が合流し 総勢7000騎までになりました。
5月9日 利根川を渡ったところで 足利高氏(後の足利尊氏)の嫡子 千寿王(後の足利義詮)や 上野、下野、上総、常陸、武蔵等の 鎌倉幕府に不満を持った武士団が次々と合流し 新田義貞軍は 20万7000騎までに 膨れあがったと言われています。

現在の埼玉県の入間川を渡り 5月11日には 「小手指原の戦い」で 5月12日には 「久米川の戦い」で 鎌倉幕府軍を撃破、
鎌倉幕府軍は 武蔵国最後の要塞である多摩川で 新田義貞軍を食い止めるべく 分倍河原まで撤退したとされています。
さらに 鎌倉幕府軍は 分倍河原に10万の援軍を派遣し迎撃、援軍が加わっていたことを知らなかった新田義貞軍は 本陣が総崩れ寸前まで敗北し、堀兼(現在の埼玉県狭山市)まで 敗走したと言われています。

新田義貞は 退却も検討しているところに 三浦氏一族 大多和義勝が 相模国の氏族を率いて 6000騎で加勢。
大多和氏は 元々 北条氏と親しい氏族でしたが 北条氏に見切りを付けて 新田義貞の味方になったことになります。
大多和義勝の行動、決断には 足利高氏(後の足利尊氏)の 意図や命令が有ったとも 考えられているようです。

大多和義勝の協力を得た新田義貞は 5月16日早朝 再度 分倍河原に奇襲を仕掛け大勝、
鎌倉幕府軍は敗走、「分倍河原の戦い」による 新田義貞の勝利は その後の戦局に大きな影響を与えました。
鎌倉幕府は 7つの切通しを固めて鎌倉に立て籠もり 新田義貞軍もかなり攻めあぐんだものの 稲村ケ崎から強行突破し、鎌倉に乱入、 「東勝寺の合戦」で ついに 鎌倉幕府が崩壊したという歴史です。

分倍河原駅前の新田義貞像から 思いがけず そんな歴史を知ることになったのでした。

 

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梅雨の前 晴天爽やか 朝散歩 

2018年06月04日 08時44分20秒 | 散歩・ウオーキング

天気予報では 当地 今日は 29℃前後まで上がるようです。
今週中には 梅雨入りが発表されるかも知れないとのことで、梅雨入り前の貴重な晴天、
8時過ぎ、妻は 勇躍 毛布等のクリーニングに 近くのコインランドリーに 出掛けてしまいました。
早朝は 半袖シャツでは ひんやりする程の爽やかさ、
近くの川沿いを歩いてきましたが もう 夏の花 ネムノキ(合歓木)が咲いていて 季節の巡りを感じます。

ナンテンの花、

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