その2
「ジイチャの写真」
M男は、小学生の頃、祖父のことを、「ジイチャ」と呼んでいた。祖父は、人付き合いが悪く、家族とも一線を画して、年中、一人、川へ魚釣りに出掛けるような、身勝手な?、孤高の?、年寄りだったと思っている。
今から10数年前に、長年空き家になっていた北陸の山村の実家を整理解体処分したが、その際に残っていた古いアルバム数冊を持ち帰り、なかなか廃棄出来ないまま、未だに埃を被ったままになっており、先日、「ジイチャ」の写真が残っていないか、めくってみた。
M男は、これまでも、「ジイチャ」の写真と言えば、実家の座敷に飾ってあった遺影の写真を見ていた位で、他では見た覚えが無かったが、
「もしかして、これ、ジイチャ、かな?」という写真が、2枚だけ見つかった。
戦前の表紙がボロボロの小さなアルバムの中間のページに、糊で貼り付けられた、3cm✕5cm程の小さな、セピア色の写真が有り、間違い無さそう?である。
「ジイチャ」の経歴等を、祖母や父母から詳しく聞いた覚えは無いが、「ジイチャ」は、戦前、東京で、警察の用務員(警察官ではなく)をしていたらしいという話をどこかで聞いていたような記憶が有り、どうも、その写真は、その職場で撮った写真なのではないかと思われるからだ。
よくよくみると、遺影の写真は、この写真を修正加工したものではないかという気がしてきた。貴重な写真だった分けだ。
終戦間際、M男の父親の実家を頼って北陸の山村に疎開し、そのままその地に定住した家だったため、当初、村落では、疎開者?、よそ者?、扱いだったとも聞いていた。そんな中で、「ジイチャ」は、なかなか、地元に溶け込めなかったのかも知れない。
カメラ等持っていなかった時代で、家族で写っている写真等、ほとんど無いが、わずかに、アルバムに貼り付けられている、親戚や近所の冠婚葬祭等で撮られた集合写真等にも、「ジイチャ」は、写っていない。そういう場には、いっさい顔を出さなかったのか、出ても写真嫌いで、逃げていたのか、とにかく、孤高の人?だったのだと思う。
(つづく)
お盆、お正月に新しい下駄買ってもらって、ゴムの黒い短靴履いてましたね。
今だと孫達はダサいと絶対に履かないけど終戦ご物が無かったからお下がりばかり着せられたと妹など今でもいいます。
衣類や履物、お下がりだったり、正月に特別新調だったりした時代、
今の若い人には、想像出来ないでしょうね。
今年も1年間、有難うございました。
来年もよろしくお願いします。