足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。
百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その12
誰をかも 知る人にせむ 高砂の
松も昔の 友ならなくに
出典
古今集(巻十七)
歌番号
34
作者
藤原興風
歌意
年をとった私は、
いったい誰を友達にしようかなあ、
昔を知っている相手と言えば、
長寿の高砂の松くらいだが、
その高砂の松も昔馴染みの友達ではないことだから。
注釈
「誰をかも(たれをかも)」=「いったい誰を」の意。
「知る人にせむ」の「知る人」は、
自分を理解してくれる人、知己の意。
「高砂の松」=枕詞、
現在の兵庫県高砂市の松のことで、
長寿の松として、歌に詠まれていた。
「友ならなくに」の「ならなくに」は、
「無いことだがなあ」と訳す。
高砂の松を長生きするものの比喩として擬人化し、
老残の孤独、寂しさが、切なく歌われている。
藤原興風(ふじわらのおきかぜ)
日本最古の歌論書「歌経標式」の著者藤原浜成の曾孫。
紀貫之等と共に、「古今集」歌壇、有数の歌人、
管弦の名手、三十六歌仙の一人、
参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)
(つづく)