村上春樹的思考について引き続き考えて行こう。
羊男の部屋は特別な場所だ。それが自己顕示欲に
よって表されたものだとしたら、いささか問題があ
るだろう。
でも、彼は選ばれてしまったのだ。その、選ばれたこ
とこそ、厨二病的発露となっているのだろう。
(実は、この論を書くのは二度目だ。一度目はいささかの
間違いで失われてしまったのだ。)
ひとは、特別な場所を求める、ひとによって、それはネズミ
の国だったり、図書館だったり、町の本屋さんだったり、
お洒落なカフェだったりするのだろう。
ひとは、自然特別な場所を求め、指向する生き物なのかも
しれない。そこに運命を見い出し、快楽を覚えるのだ。
それは、決して誰にもでも開かれているわけではない。
そのひとだけに与えられた、そのひとだけの楽しみだ。
それをひとはヲタクと云う。我々はそこで、運命や宿命
やさだめを見い出し、あるいは、推しを見い出し、右往左
往しつつ、そこに辿り着く。そういう運命にあるのだ。
例えば、羊男の部屋がセブンのような誰でも行ける
場所だったりしたら、文学として成立し得ないのではない
だろうか。誰にも行けない、誰も知らない場所だからこそ、
文学的成立と、そこに村上春樹的世界の構築が存するの
ではないか。そういった、文学的特性と側面を考えると
やはり、村上春樹的世界は、厨二病だからこそ、成立し
得ると云えるのではないだろうか。
ぬぉう、またまた長くなってしまった。我々は長い長い地球
の歴史の中で一瞬間だけ交錯する時間を共にする、仲間のような
ものだ、もっと仲良く出来ないものか、としばしば思ったりする。
公共性のあるネットの中でさえ埋もれてしまいがちな、いろいろ
な意見に出会うのも、羊男の部屋に辿り着くようなもの。
あれっ、おれっちは、なにを言いたいんだっけな、いささか取り
留めもなくなってきたので、これにて、お終い。
それじゃ、みゃた。
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