映画と本の『たんぽぽ館』

映画と本を味わう『たんぽぽ館』。新旧ジャンルを問わず。さて、今日は何をいただきましょうか? 

「寝ながら学べる構造主義」 内田 樹

2011年07月08日 | 本(解説)
解りやすけれど、最後でつまずいた

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)
内田 樹
文藝春秋


              * * * * * * * *

先に「映画の構造分析~ハリウッド映画で学べる現代思想」という本を読み、
痛く感じ入ってしまった私は、
調子に乗ってこのような本を読むことにしてしまいました。
寝ながら学べる・・・? 
「読んでいる内に寝てしまう」なら、自信あるんですけどね(^^;)
つまりは、先の本の根本的思想となる「構造主義」について、分かりやすく解説した本。

今、とりあえずは一冊読み終えた私としては、
結局よくわかったという自信はありません。
でも、部分部分では理解できていたと思うので、
後はその総括的なところが自分の中で通じていないのだろう・・・と思うわけです。
もう一度読めばあるいは・・・。
しかし、もうたくさん・・・かな?

ですが興味深い話はいくつかありましたのでご紹介しますね。
著者は、まず近代の思想の歴史をたどって解説しています。

マルクスは、人間の個別性をかたちづくるのは、その人が「何ものであるか」では無く、
「何ごとをなすか」によって決定されると考えた。
つまり、「行動すること」に軸足を置いた人間の見方。
人間は生産=労働を通じて、何かを作り出す。
そうして制作されたものを媒介にして、いわば事後的に人間は自分が何者であるかを知る。


フロイトは、人間の一番内側にある領域に着目。
人間が直接知ることのできない心的活動=無意識が、
人間の考えや行動を支配している、としました。
そして「抑圧」のメカニズムを解きます。
ごくごく簡単に言えば、ある心理過程を意識することが苦痛なので、
それについて考えないようにすることですね。
私たちの自分の心の中にあることすべて意識化できるわけではなく、
それを意識化することが苦痛であるような心的活動は、無意識に押し戻される。


私たちは自分が何者であるかを熟知しており、その上で自由に考えたり行動したり、欲望したりしているわけではない。
・・・これが前―構造主義期、マルクスとフロイトの考え。


更にはニーチェも、人間はほとんどの場合、ある外在的な規範の「奴隷」に過ぎないという。
このニーチェの道徳論はかなり痛烈です。
彼の言う「大衆社会」とは、成員たちが「群」をなしていて、
もっぱら「となりの人と同じようにふるまう」ことを最優先に配慮するようにして成り立っている。
この社会の道徳とはみんな同じ、万人が平等であること。
みんな同じような顔つきをし、同じような考え方感じ方をする・・・。
まさに現代の大衆の有り様だ・・・。


また、私たちが思考するためになくてはならないのが言語。
哲学には言語学も絡んできたりするんですね。
確かに、私たちは言語があるからこそ考えることができるわけだ。
「私のアイデンティティ」は「私が語ったことば」を通じて事後的に知られる。
・・・ふうむ。


私たちは歴史の流れを「いま・ここ・私」に向けて一直線に「進化」してきた過程としてとらえたがる。
そうではなくて、何故ある種の出来事は選択的に抑圧され、黙秘され隠蔽されるのか。
何故ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか。
その答えを知るには、出来事が「生成した」歴史上のその時点にさかのぼって考察しなければならない・・・・
と、考えたのがフーコー。
たとえば「狂気」は近代以前には人間的秩序の中に正統な構成員として、受容されていた・・・
という下りはとても興味深いものがあります。
その後社会から狂人たちのための場所はなくなってゆく。
権力は私たちの身体の有り様にまで影響を及ぼす・・・。
走り方、座り方・・・など。
農民が兵士として訓練されたり・・・。
政治権力が臣民をコントロールしようとするとき、
権力は必ず「身体」を標的にする。
こんな話はちょっと怖いですね。


ことばづかいに注目したのはバルト。
たとえば中学生が自分のことを「ぼく」から「おれ」に変更したとすると、
それは人称の変化だけではなくて、ことばづかいの全域に影響を及ぼすし、
さらには髪型、服装、生活習慣なども
「おれ」という一人称にふさわしいものに統制されるというのです。
何となく納得いきますね。
とすれば、日本語で考えること、英語で考えること、
おなじ問題を考えても何だか結論が違ってきそうな気さえする。
確かに、私たちは言葉使いで思考が左右される、そんなことはありそうです。

       

さて、拾い読み的解説も少し疲れてきました。
実は構造主義を語るには最も重要と思われるラカンのことについては、
私はイマイチ理解が及ばない。
「エディプス」という言葉が出てきます。
「エディプス」とは、図式的に言えば子供が言語を使用するようになること、
母親との癒着を父親によって断ち切られること、
この二つを意味している。
これは「父親の威嚇的介入」の二つの形である

・・・と。
む、難しい・・・・!
子供の成長とは・・・この世界は「すでに」に文節されており、
自分は言語を用いる限り、それに従うほかないという、
「世界に遅れて到着した」ことの自覚を刻み込まれることを意味している。

むむむ・・・。
どうも私の中でうまく具体的につながりません。
まるでこの章以前までじっくり説明しすぎたために、
肝心の所で時間切れ、いえ紙面切れでも起こして
端折ってしまったかのような・・・
いえ、単に私の理解力のなさの故かもしれませんが。

ラカンについては、もう少しかみ砕いた講義を
是非また機会があれば拝読してみたいところです。
勉強不足で申し訳ありません・・・。

「寝ながら学べる構造主義」内田樹 文春新書
満足度★★★★☆