人があるから、世界がある
* * * * * * * * * *
私はここまで来た。
この山に、この身に、この心に、何が起こるかを見に来た―。
浅間山頂の景観のなかに、待望のその時は近づきつつある。
古代ローマの博物学者プリニウスのように、噴火で生命を失うことがあるとしても、
世界の存在そのものを見極めるために火口に佇む女性火山学者。
誠実に世界と向きあう人間の意識の変容を追って、
新しい小説の可能性を示す名作。
* * * * * * * * * *
プリニウス・・・古代ローマの博物学者ですね。
ヤマザキマリさん&とり・みきさんのコミックで「プリニウス」というのがあって、
未読なのですが、なんとなく名前だけは気になっていました。
そんなおかしなつながりで読んだ本作。
もちろんストーリー中にプリニウスその人は出てきませんが、
でもそのプリニウスになぞらえた行動を
主人公である火山学者・頼子がとってしまうのです・・・。
しかも結末はなし!
「こ、ここで終わりですかい!!」と、
思わず著者に恨み言を言ってしまいたくなりますが。
本作中に、江戸時代に浅間山の大噴火を
かなり間近で体験した女性が綴ったという手記があります。
凄くリアルな描写で、私はすっかり怖くなってしまったのですが、
これを読んだ頼子もその文章に感じ入ってしまう。
それ以前に彼女は、
口から出た言葉やあるいは文章に書いた言葉が、
どうしても相手に正しく伝わらないことにいらだちを覚えていたのです。
それは受け取り側のせいばかりではなく、
自分の表現に問題があるのだろうかと・・・。
そこで、彼女は、その書き手の女性を自分の胸中において、問いかける。
―――どのようにして、体験と執筆の間にあるはずの隙間を埋めて、
こんなにも生き生きとした文章をかけたのか、と。
それに対する答え。
「書かれた言葉、話された物語は手で扱うことができます。
怖い体験そのものはただ一方的に受取るだけで、
お山が静まるのを震えながら待っているほか人にはできることがありません。
しかし、それをあとになってから言葉にすれば、
それは目の前にあって、掌に乗せることもできます。
とてもとても恐ろしかったけれども、
そこに書かれた以上には恐ろしくなかった、そういうことが言えると思います。」
つまり、書くことで山に勝ったのだと頼子は思う。
まさしく、物語るというのはそういうことなんだろうなあ・・・と、思った次第。
それから、易を見る男性が言うことも興味深いのです。
「あっちに世界があって、こっちに人がいて、
この人と世界の間で何か付き合いというか交渉というか、それが起こるのではない。
…人があるから、世界があると、こうは考えられんかな?
人の目が向く先に景色が生じ、草木が生え、お日さんが光る。」
科学者である頼子の中で少しずつ何かが変わっていきます。
で、問題のラストですが、私はそこで火山の噴火があったりはしないと思うのです。
おそらく頼子にだけ意味のある何かが起こる。
あるはずのない花があるとか、いるはずのない鳥が飛んでくるとか・・・。
それは多分頼子のこれまでの人生の何かと関連し、連想を働かせる何か。
そして多分、壮伍との新たな関係に踏み出す・・・。
あまりにも少女趣味かな?
まあ、だからこそ、著者はそこまで書かなかったんですよ、
きっと。
「真昼のプリニウス」池澤夏樹 中央公論社
満足度★★★.5
図書館蔵書にて
真昼のプリニウス (中公文庫) | |
池澤 夏樹 | |
中央公論社 |
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私はここまで来た。
この山に、この身に、この心に、何が起こるかを見に来た―。
浅間山頂の景観のなかに、待望のその時は近づきつつある。
古代ローマの博物学者プリニウスのように、噴火で生命を失うことがあるとしても、
世界の存在そのものを見極めるために火口に佇む女性火山学者。
誠実に世界と向きあう人間の意識の変容を追って、
新しい小説の可能性を示す名作。
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プリニウス・・・古代ローマの博物学者ですね。
ヤマザキマリさん&とり・みきさんのコミックで「プリニウス」というのがあって、
未読なのですが、なんとなく名前だけは気になっていました。
そんなおかしなつながりで読んだ本作。
もちろんストーリー中にプリニウスその人は出てきませんが、
でもそのプリニウスになぞらえた行動を
主人公である火山学者・頼子がとってしまうのです・・・。
しかも結末はなし!
「こ、ここで終わりですかい!!」と、
思わず著者に恨み言を言ってしまいたくなりますが。
本作中に、江戸時代に浅間山の大噴火を
かなり間近で体験した女性が綴ったという手記があります。
凄くリアルな描写で、私はすっかり怖くなってしまったのですが、
これを読んだ頼子もその文章に感じ入ってしまう。
それ以前に彼女は、
口から出た言葉やあるいは文章に書いた言葉が、
どうしても相手に正しく伝わらないことにいらだちを覚えていたのです。
それは受け取り側のせいばかりではなく、
自分の表現に問題があるのだろうかと・・・。
そこで、彼女は、その書き手の女性を自分の胸中において、問いかける。
―――どのようにして、体験と執筆の間にあるはずの隙間を埋めて、
こんなにも生き生きとした文章をかけたのか、と。
それに対する答え。
「書かれた言葉、話された物語は手で扱うことができます。
怖い体験そのものはただ一方的に受取るだけで、
お山が静まるのを震えながら待っているほか人にはできることがありません。
しかし、それをあとになってから言葉にすれば、
それは目の前にあって、掌に乗せることもできます。
とてもとても恐ろしかったけれども、
そこに書かれた以上には恐ろしくなかった、そういうことが言えると思います。」
つまり、書くことで山に勝ったのだと頼子は思う。
まさしく、物語るというのはそういうことなんだろうなあ・・・と、思った次第。
それから、易を見る男性が言うことも興味深いのです。
「あっちに世界があって、こっちに人がいて、
この人と世界の間で何か付き合いというか交渉というか、それが起こるのではない。
…人があるから、世界があると、こうは考えられんかな?
人の目が向く先に景色が生じ、草木が生え、お日さんが光る。」
科学者である頼子の中で少しずつ何かが変わっていきます。
で、問題のラストですが、私はそこで火山の噴火があったりはしないと思うのです。
おそらく頼子にだけ意味のある何かが起こる。
あるはずのない花があるとか、いるはずのない鳥が飛んでくるとか・・・。
それは多分頼子のこれまでの人生の何かと関連し、連想を働かせる何か。
そして多分、壮伍との新たな関係に踏み出す・・・。
あまりにも少女趣味かな?
まあ、だからこそ、著者はそこまで書かなかったんですよ、
きっと。
「真昼のプリニウス」池澤夏樹 中央公論社
満足度★★★.5
図書館蔵書にて
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