気になっていたんだ、秋葉原無差別殺傷事件のこと。きっかけは、山形東高校の昨年度大会作品『蟹工船』だった。舞台そのものは才気に溢れエネルギー満載で、さすが山東と羨ましくねたましい仕上がりだった。中でもオープニング、アキバ事件のKが次々にメールを送っては、嘲笑され、非難され、無視され孤立を深めていくシーンは、音響と照明の効果的な使用と相まって、息をのむほどの衝撃的な場面だった。
そう、このシーンの圧倒的なインパクトが一つ。それともっと大きなとっかかりは、やっぱり脚本に対する違和感だった。『蟹工船』とアキバ事件?それって同列?『蟹工船』で撃ち殺された反乱者たちが、ダガーナイフを振り回して狂うKに「またやろうな!」って呼びかける?のってあり?県大会で見た後、ずっと気になっていた。
まあ、時代が違うでしょ、置かれた窮状のレベルが比較にならんでしょ、と、軽~くいなして済ますこともできた。でも、知ったふりして通り過ぎるのが、どうにも気がかりでしかたなかった。『蟹工船』とは縁もゆかりもないって本当か?何がどうひっかかるのか?それもよくわからない。非正規派遣労働者の暮らしぶりってどうなってんだ?Kが送ったメールってなんだ?と、長らく保留常態にあったこの問題、暇できたからこの正月、ちょっとばかり本を読みながら考えてみたってことだ。
読んだたって、『アキハバラ発〈00年代〉への問い』(大澤真幸編・岩波書店刊)と『論争 若者論』(文春新書編集部[編])の2冊だけなんだけど、実に多くのことを教えてもらったし、考えてみることができた。いろんな場面で引用されその破壊力では群を抜いた論文『「丸山眞男」をひっぱたきたい-31歳フリーター。希望は、戦争。』(『論争 若者論』所収)。そうか、こんな真情にまで追いこまれているのか、と切なくやりきれなく読んだ。この著者だけでなく、社会の不平等に怒りを鬱積させている若者たちの標的が、戦後高度成長の上がりを掠め取った団塊の世代(僕も含む)や左翼的言論(僕も含むかな?)に定められているってことも、実は今回の読書で学んだことだった。そうだよな、でも、責められるのは辛い。
東浩紀へのインタビュー『「私的に公的である」から言論の場を構築する』(『アキハバラ発〈00年代〉への問い』所収)も、若い世代の論客が、この事件が発する言葉を誠実に聞き届けようとする姿勢に共感できた。東が「この事件はテロだ」と、新聞に書いたことに対して、仲正昌樹が『アキバ事件をめぐる「マルクスもどきの嘘八百」を排す』(『論争 若者論』所収)で上げ足取り的にちょっかいを出していて、なるほど、この人のもの言いってテレビのコメンテーターそのものだ、要は相手を叩いてへこませれば勝ちってことなんだって感じたりもした。
さらに、濱野智史『なぜKは「2チャンネル」ではなく、「Mega-View」に書き込んだのか?』(『アキハバラ発〈00年代〉への問い』所収)では、ほんの些細なことのように思える書き込み先の違いから、Kの立ち位置とその思いをくっきりと浮かび上がらせていた。もちろん、ここに書かれた掲示板や携帯サイトに関する知識は、ほとんどすべて初めて聞くことばかりで、ほほーっ!なるほど!そうなのか!の連発で読み終えた。こういう優れた論文読むと、この人の本まで読みたくなる。
その他にも、重松清が、共感することと、実行することとの大きな隔たりを説いて、若者に必死で自重を呼びかけていた文も、そのひたむきさに心打たれた。さらに、若者のコミュニケーションの問題として捉えた浅野智彦『孤独であることの二つの位相』には、この事件にとどまらず、今の若者がぶち当たっている孤独からの脱出の方策を提起されていて考えさせられた。つまり、濃密に愛されるってことも大切だけど、地域や職場で尊重される、褒められるってことの方がよっぽと役に立つってこと。親密な友人もいいけど、薄い人間関係だって重要なんだゾ、ってこと。そのことを教育の場でももっともっと教えなくちゃならないし、社会にあっては、そんなゆったりとした公共の場(例えば趣味のサークルとか、劇団とか?)を作り出す努力、あるいは、そんな場に入り込む勇気が必要とされるって言っている。ほんと、その通りだと思う。僕も卒業間近の3年生には、毎年言ってきた、地域の活動に参加しろよって。
さあて、僕はアキバ通り魔連続殺人事件から何を課題として受け止めていくべきなのか?派遣労働の理不尽もある。格差社会の現実もそうだ。団塊への糾弾も心に止めておこう。最後の拠り所の意味を失ってしまった家族のこともだ。もしもKが結婚できていたなら、なんてことも考える。孤独に鋭敏すぎる若者の心性ってことも。で、僕に少しでも手伝いできるとするなら、コミュニケーションスキルとまで言わないが、ゆったりと他者とつながる方法とその場を提供するってことくらいだろう、演劇を通して。おっと、もう一つ、こういった難しさを手元に置いて、それを表現活動の中に生かしていくってことなんだろうな。大して役に立たなくてゴメン!