初めに御礼だ。『DUST』制作担当の皆さん、便宜を図ってくださってありがとう。お陰様で、置農演劇部の生徒たち、とても幸せな時間を持つことができました。東京で、しかも新国立で、さらに日頃気に入っていた若い役者さんたちの舞台を、すぐ間近に見ることができたなんて、彼らはもう、かなり興奮していました。本格的なセンター舞台、贅沢に仕込まれた照明、生の歌とギター演奏。その真ん中に、憧れの△△がいる。(もっとも、僕にはさっぱりわからない。)もう、これ以上の贅沢はありませんね。東京公演のご褒美を先にもらってしまったって感じでした。どっきどきの2時間20分だったと思います。改めて、ありがとうございました。
さて、舞台の感想なのだが、と、文体が変わる。・・・・難しい芝居だった。内容のことではない。ストーリーは至極単純。ニートは強制労働に処するとの法律(DUST法)に基づき無人島の施設に送られてきた青年男女が、そこを脱走し森の中で暮らす。乏しい食べ物を奪い合いついには殺し合う、って話しだ。山田悠介の原作を岡本貴也が脚色・演出した作品。この芝居見るって決まって早速、原作も読んでおいたので、その点は、二つを比較しながら楽しく見ることができた。
でも!どちらも、入り込めないものが最後まで残った。まず一つは、こういう法律が成立するというシチュエーションをどうリアルに築くかって問題だ。原作も舞台もこの点、疎かなんだよな。こういう設定、面白いでしょ、ちょっとありそうもないけど、あったらすごいでしょ、じゃあ、それ前提に話し進めっから付いてきて、って感じかな。これって、高校演劇のシチュエーションコメディ作るのと同じ手法じやないか。これ安易だよねって高校演劇東北大会の感想でも書いた。こういう劇画的状況を作り出すには、それ相当の手はずを踏んでくれないとね。例えば、何年か前の韓国映画『オールド ボーイ』(日本のコミックが原作)なんかは見事だった。とてもあり得ない設定に、知らず知らずの内に引き込まれたもの。何故か、見ながらあの映画を思い出していた。あっ、そうそう、小説の後半は復讐譚で『オールドボーイ』に似てたからかな。ちょっとこのDUST法には無理が多いし、その無理を有理に変えようって気持ちがまるで欠けていた。コミックに慣れ親しんでいる若者たちにはそれでいいんだろうけどね。
次に違和感が残ったのは、あの舞台の上を走り回る若者たちから、ぎりぎりの飢餓という死線が浮き上がってこなかったことだ。いろんな理由が考えられる。演劇って方法が飢餓線上の人間を表現するのには適切ではなかったんじゃないかってこと。だって、わずか2時間程度の連続する時間の中で、餓死寸前の体や表情なんて作れないもの。しかも、すぐそこで観客が見てるんだよ。無理だよ。この点、文字表現の原作の方がまだ、引き込む力を持っていた。
二番目に考えられるのは、センター舞台の制約だ。何も置けないんだよ、装置とか大きな道具とか。工場のラインも森も海も廃屋もすべてマイムと照明で表現しなくちゃなんない。空間的な奥行きも作れない。これはさすがにきつかった。役者はその厳しい条件の中で無我夢中で頑張っていたけど、やはり、無理は無理だった。
さらに、これも演出に関わることだけど、舞台の板を真っ白にした。これって照明を映えさせるためだったのかな?たしかに、照明はほんと工夫があって、うわー、やるぅぅぅぅ!って一つ一つ楽しめたんだけど、サバイバルゲームの舞台には相応しくなかったと思う。つのり来る饑えとともに淀んでいく生活の澱や神経のざらつきが、舞台の純白に裏切られていた。
あと、歌についても。曲そのものはどれも美しい歌で満足できた。役者たちもあの激しい動きの中で、精一杯歌い上げていた。でも、やっぱり、あのメロディは違うと思う。あの歌い方は違うと思う。死線をただよう亡者たちのものではなかった。
ということで、ごめんなさい。せっかく便宜はかってもらっていながら、厳しい評価してしまいました。このブログ読んで見に行くかどうか迷っている人、ぜひ、見てください。出演の若者たち、懸命にやってるから。舞台も美しいから。って、書いて勘弁してもらおう。