見透かされてるよ。まいったね。鴻上が挨拶の中で書いてる、「・・・・困った芝居を見た時の思いのたけは、ネットによって簡単に埋めることができます。ブログでもTwitterでもfacebookでも、他者とぶつかることなく自分の思いを書き込める場所はたくさんあるのです。・・・・あなたが何かを発言すれば、簡単なコメントがついて、簡単なレスがついてとりあえずなぐさめられる。・・・・」って。機先を制するってやつだ。こんなご挨拶を傍らに置きつつブログを書くって、ちょっとやりきれない作業だ。ふん、マスタベーションしてんじゃねえよ、声が周りからも自分自身からも聞こえてくる。でも、今の僕にはこの芝居を見て、昔鴻上とその仲間たちがしたように、居酒屋に繰り込み熱く語れる環境はまったくない。書かないという選択もあるにはある。でも、それはただの怠慢に過ぎない。自ら与えた課題を放棄したら、なんのために東京くんだりまで劇を見に来たのか、物見遊山・芝居見物じゃないか、などと自分励ましつつこの舞台の感想を書いてみよう。
うまいなぁ!鴻上。何から書こう。まずは舞台装置。幅1間、高さが6尺、7尺、8尺、9尺、10尺、11尺、あるいはそれぞれもう1尺ずつ高いかもしれない、のリバーシブル(両面使用)の移動可能パネル。奥には5尺×3間?2枚と2尺×3間?2枚が吊られている。これは吊りぱなし。このパネル群に様々色や模様の照明を当てたり、映像を映し出したりして、矢継ぎ早のシーン転換を表現していた。オープニング、中学生のいじめシーンはここにソースフォーなんかのネタで光の格子縞を鮮烈に浮かび上がらせ、禍々しい緊張感を演出していた、さすが!さらに、リバーシブルパネルの裏面は歪みのある鏡面仕上げ。これも随所で不吉な感じを醸し出してうーん、いいなぁ!
次はキャラクターか。物語のメインストリーム、復讐をたくらむ元いじめられっ子たちも一人一人がくっきりと個性的に形作られていて無理がない。さらに、物語にふくらみを与える役所も、芥川記念賞を受賞したものの次作に行き詰まる女やインチキ宗教を操る詐欺師の男女、彼等に騙され正義の青森ヒーロー三上マスクとして場違いな活躍を繰り広げる青年、さらに、終盤で思いがけないどんでん返しを準備するダンス教室のインストラクター。巧みな造形と割り振りによって、話を飽きさせない。随所に挟み込まれるナンセンスシーンやダンスも楽しく、重いテーマの救いのなさを救ってくれていた。
しかし、なんと言ってもストーリーだろう。いじめを受け、心の傷、トラウマを抱え続ける若者たちがいじめた相手に復讐の一撃を加えることで生き直しを目指す。その反撃の鉄槌を果敢に実行した青年はヒーローとなり、復讐への勇気を与える存在として多くの賛同者を集める。秘密結社のように若者たちが集まった「空震同盟」は活動方針を巡って亀裂を深める。このあたり70年代新左翼運動のヘゲモニー争いを彷彿させる。全体の構成は鴻上の以前の作品「パレード旅団」の続編あるいは書き直しバージョンと見てよいと思うが、話はさらに錯綜していて登場人物の絡まり方もはるかに緻密になっており、次ぎ次ぎに転がっていく物語は観客を釘付けにしてはなさない。特に、SFの趣向からパラレルワールドを組み込んだことで、よりミステリアスになり謎解きの力で最後まで引っ張ることができた。
こう書いて来ると、鴻上ワールドに圧倒され引き回され感心し満足しながら至福の時を過ごしたように聞こえるだろうが、実は、見ている最中も見終わってからも、なんか違うぞ!おかしいぞ!ごまかされるな!って声に悩まされ続けた。その警戒感が何から来るか、半日ずっと考え続けてきた。で、整理できたことは、いじめられた者、性的虐待を受けた者の復讐心、この設定そのものが安心ならないってことが一つだ。この感情、有無を言わさぬものじゃないか?特に若い人たちには多かれ少なかれいじめ体験ってものがあるだろうから、感情移入しやすい設定なのだと思う。実際、観劇後熱心にアンケートに書き込んでいるのは若者たちが圧倒的だった。現役高校生なんかだったら、涙流して共感するだろう。だが、誰もが簡単に乗り移れる設定というのは安易なんじゃないか、って思うのだ。言ってみれば、流行みたいなものだ。純愛映画の定番、死を宣告された若い女性の純愛なんかと同じじゃないかって感じる。
さらに、気になったのは、教祖的な青年から同盟の主導権を奪おうとする幼なじみ青年が掲げる目標だ。仲間たちの反対を押し切って対社会への反乱を意図して闘争宣言をウェブに公表する。その内容だ。阪神大震災、オーム真理教事件以来、古き良き日本への回帰運動がファッショ的に強まっており、今回の東北北関東大震災での自粛の強要となどの動きがさらに強まるとして、そのような世間の風に抗い抵抗するための決起行動だという。たしかに、日本人には横並びの意識が強い。かつての大政翼賛会の苦い経験もある。実際、一部には政治家に対して寄付の強要を主張したり、不要な照明を敵視するような言動が見られないわけではない。しかし、全国紙のアンケート調査でも、自粛は行きすぎているとの意見が80%近く上っている。つまり、一抹の不愉快は感じるものの、世間の風となって社会全体を吹き流すほどのものとはとうてい思えない。それどころか、僕などは、この大災害を契機にこれまでの過剰浪費、格差社会、生態系無視の自然破壊文明を大きく舵を切り直してほしいと願っているので、この青年の苛立ちはおよそ共感できるものではない。まして、空震同盟に集まってきている若者たちは、一人一人の私怨をはらすことが目的なわけなのだから、とうていそんな大義名分について来るとは思われない。つまり、この青年が友人の命を奪ってまで組織を乗っ取る客観的必然性が感じられないということだ。
さらに、僕の感覚からするといじめという言葉はかなりの呪術力を持ち始めていて、時には魔女裁判的に使われ始めていると感じさえしている。いじめに関しては、いじめを受けたと感じる者が、いじめだ!と叫べば被告人は弁明できない、これこそ世間の風ではないかと常々感じている。だから、劇の終わり近く、世間の風が吹いたと戦々恐々となって右往左往する姿には首をかしげて見つめざるをえなかった。空震同盟が暴力的リンチ(私刑)を肯定し実行する行動であれば、世間の風当たりが強くなるのは当たり前で、そのことを世間の横暴と非難するのは当たらないと思う。ところが、鴻上の物語る力は実に巧妙なので、この常識的反応を観客の心から奪い去ってしまったのだと思う。まさに、虚構の力だ。これが僕が、なんかいかんぞ!騙されるな!と感じた理由なのではないかと思っている。と、自分なりに落とし前をつけて、ブログにアップし、なぐさめと成就感を得るわけなのだなぁ。
置農食育子どもミュージカル『ベジタブル!ワンダフル!!』 のフィナーレ『ベジタブル!ワンダフル!!』の動画をアップしました。ご覧ください。