ステージおきたま

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笑ってる場合ですか!『鴎外の怪談』

2014-11-19 10:40:08 | 劇評
 久しぶりにこまつ座以外の舞台を見た。二兎社公演、『鴎外の怪談』。ほんと寂しいよ、プロの芝居はほとんどかからなくなってしまったフレンドリープラザ。以前は年に何本もやってきて、なんと黒テントだって公演してたのに!地方はどこでもかでも落ち込む一方だ。しかも、観客が200人程度!って、うーん、絶句!菜の花座のシニア公演より少ないなんて。

 二重の意味で地方の貧しさを見るな。一つ、経済的貧窮、チケット代5,000円ってここらの一般感覚として、かなり厳しい、だから客が来ない。でも、そればかりじゃない。だって、こまつ座なんかで有名タレント出てれば、もっと高くたって満席だから。テレビでお馴染みの人なら見に来るってことだ。これがもう一つの地方の貧困。

 でも、こりゃなにも地方に限ったことじゃないかもしれない。東京なんかの大都市圏だって、分母がめちゃくちゃ大きいから、それなりに入っているふうに見えるけど、名の通らない劇団、役者、作者の作品だと、やっぱり、えっ!これだけ!!って具合だから。要するに、日本の貧しさってことなんだな。

 さて、『鴎外の怪談』だ。作者の永井愛さんは僕のもっとも崇敬・敬愛する脚本家だ。永井さんの作品は、置農演劇部で2回、菜の花座で1回上演している。置農でやった『見よ、飛行機の高く飛べるを』なんかは、惚れて惚れて惚れ抜いて、二回も上演してしまったほどだから。

 永井さんの作品の魅力は、時代と切り結ぶ真摯さとその鋭い問題意識を笑いの中に溶かし込む巧みさかな。『見よ、飛行機・・』は、明治期、女性の目覚めを権力や社会との圧倒的な風圧に抗して生き抜こうとした女子師範学校生徒たちの挫折と希望の物語だった。今回はほぼ同じ時代の鴎外だ。幸徳秋水らの大逆事件が時の政府のフレームアップであることを比喩的に批判しつつも正面切って対決しえない鴎外。事件に面と向かえない自己に絶望し戯作者へと韜晦する永井荷風。時代を画す鋭い棘を自らの痛みとして誠実に悩み苦しんだ人たち。世俗的な義理や欲と誠実に生きんとする欲求の板挟みとなってもだえ苦しむ鴎外、その姿は、若き日、エリーを切り捨てた過去の過ち、さらには幼少時のキリシタン弾圧の記憶につながり、自己を責めさいなむ。

 さて、今の時代はどうなんだ?見て見ぬふりをしちゃあいないか。大きな屈曲点をやり過ごしていないか。我慢ならぬことに押し黙っていないか。あの時代大逆事件が暗黒の時代への曲がり角であったように、今もそんな歴史の変節点にあるのではないのか。永井さんの息詰まるような自問自答が、鴎外や荷風の言葉のはしばしからはき出され、その必死なまなざしは、当然観客の心を痛撃する。必死のまなざし、喩えなんかじゃない。だって、すぐ近くで永井愛さんが見ていたからね。

 だからってことなんだろうか。今回の作品は笑いの仕掛けはずっと限られていたように思う。もちろん、永井さんの作品だから、究極のクライマックスに見事な笑いを仕組んであったりもしてところどころ客席に笑いは広がってはいたが、やはりリラックスして楽しめたというわけには行かなかった。

 たぶん、笑ってる場合ですか?!ってことなんだろう。それだけ永井さんの危機意識が痛切だってことなんだって思いつつ、さて、おまえはどうなんだ?見逃していないか?許していないか?自分を賭けて行動できるのか?詰まらぬくすぐり喜劇書いてないで、時代と真っ向勝負しなくちゃいけないんじゃないか?・・・・と、暗い思いに苛まれつつ、舞台ばらしの手伝いしてたのでした。

 おっと、永井さん、あら、笑わせたつもりだっのに、なんて残念がるかもしれないけどね。

 
コメント
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