まだ最終話まで見てないんだけど、『マイディア・ミスター』、気に入ったので書いちまおう。
Netflix作品ってラストの帳尻合わせでがっかりすること多いじゃないか、無理やり詰め込み過ぎた複線の回収とか、世間的に無難に着地するためとか、何より多いのが愛のハッピーエンド!
まっ、許せるっちゃ許せる範囲じゃあるんだが、なんか人並みの満足感押し付けられたようで、ちょっとなぁ、って白けることもままある。
なので、『マイディア・ミスター』、まだ残り1/3は未残してる今、思い付いたことを。
「少女とオジサン」、って設定、これが一番のキーワード。隠れたベストシチュエーションだよなぁ。
最近見たNetflixドラマでも、『梨泰院クラス』 だろ、
『トッケビ〜君がくれた愛しい日々〜』、
どっちも年長者への高校生とか少女の愛の物語だもの。歳の差恋愛の切なさとスリリングが魅力だよな。
ただ今絶賛視聴中の『マイ ディア・ミスター』なんかもろにそれで、そこがなんともおじさん、いやジジイにはグッとくる。
ただ、前2作はオジサンって言っても、ええーっ、ほとんど同じじゃん!ってジジイには見えるが、若い娘たちにゃ少しの歳の差がとてつもなく大きく見えるってことあるからなぁ、って無理やり頭で納得。
でも、『マイディア・ミスター』はねぇ、正真正銘、本当のオジサンだから、見かけはもちろん、不倫され夫とかって、いよいよオジサン純度が上がってるってるのよ。
相手の少女は21歳の非正規社員、歳からすりゃ少女にゃ不合格だが、社会からはみ出した暮らしぶりやら考え方、行動からは十分に少女なんだよな。
それとあの衣装、みすぼらしいハーフコートとよれよれスニーカー、それと両手をポケットに突っ込んだ姿、うーん、演出さんお見事!あっ、オジサンの無精ひげも。
ただ少女だったらなんだっていいって話しではないのさ、この「少女とオジサン」シチュエーションは。
少女は薄幸、悩み多く、孤独で自死のオーラを放ってるような少女ってのが必要条件なんだ。『梨泰院クラス』 も『トッケビ〜君がくれた愛しい日々〜』もそうだろ、周囲からのはみ出し者だ。
オジサンの方も世間に馴染めない落ちこぼれで、この社会から理解されない悩みを抱えるさえない大人、はみ出し者二人が心を振るわせ合うってところが、このシチュエーショの目玉なんだなぁ。
見る者が感動を得るのは、弾き出された者の苦しみ、嘆きに共感し互いの琴線に共感し、自分の中の孤独な部分に訴えかけて来るからなんだと思う。
じゃぁ、歳の差の方は?少女の側から見れば、責任感とか仕事力とか、包容力とかの大人としての魅力に、世間的な適応不良なか弱さが張り付いたおじさんなんだというところに惹きつけられる。
一方、オジサンは、言うまでもない、自分ごときくたびれて果てたよれよれの中年を慕ってくれる少女の若さは、ときめき以上のものでしかないだろう。
ただし、少女は積極的になれても、オジサンはどこまでも控えめ消極的であることが求められる。据え膳に涎流すようなおじさんはお呼びでないのだ。
ここに現代の純愛が成立する余地が生まれる。
『マイ ディア・ミスター』、頑なな少女の心がおじさんの誠実な朴訥さと下心なしの庇護する思いやりに少しずつ心を開いて行く、じっくりじっくりと動作や顔の表情が変わっていく様、この変化が、うーん、なんともいじらしいじゃないか!切ないじゃないか!って、下心ありありのジイサンでも胸キュンしてしまうわけなのさ。
そんな薄汚いおじさんやジジイのためのドラマじゃない!って怒られそうだが、俺の場合、この「少女とオジサン」パターンは、若いころからの病み付きの設定だったんだ。
高校生の時、感動一番の映画は『シベールの日曜日』だったし、
大学生の頃は伊東きよ子の歌『花と小父さん』だった。内容は敢えて述べない、必要ない。上に書いたとおりの物語だ。
社会との違和感を抱え続ける男は、いつか少女が救いの手を差し伸べてくれるのを待っているんだと思う。性的な匂いを漂わせることを慎重に忌避しつつね。
周囲に溶け込めない少女も、同年代の少年たちとは異質な価値観と世界を持ち、なおかつ、はぐれ者の自覚で共感するオジサンに淡い期待を寄せ続けるのだろう。