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「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第三章 シノドスの過程 : C – 教理の発展における信者の役割 D「疎外された少数派」の役割

2024年01月25日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第三章 シノドスの過程

C 教理の発展における信者の役割
22.信者は教会の教理を精緻化する役割を果たしますか。
23.それは信者が教会の不可謬性に積極的な役割を果たすという意味でしょうか。
24.シノドス推進者たちは、信仰の遺産の有機的発展において、教導権の積極的役割と信徒の受動的役割を区別していますか。

D 「疎外された少数派」の役割
25.シノドス推進派は、「疎外された少数派」の声に特に耳を傾けると主張していますか。
26.教区の協議で集められた「預言的証言」に含まれる「困難で否定的な経験」とは何ですか。
27.大陸レベルの協議はこれを反映していますか。
28.大陸ステージのための作業文書は女性の叙階について何と言っていますか。
29.これらのテーマは新しいものでしょうか。

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C – 教理の発展における信者の役割

22.信者は教会の教理を精緻化する役割を果たしますか。

はい。たしかに、単なる信者(洗礼を受けてはいるものの、聖なる叙階の秘跡を受けなかった人々)であっても、教会生活において非常に重要な役割を果たしていることは否定できません。彼らは、教会の生ける石なのですから。洗礼は彼らを教会の体の中に組み入れ、教会の使命を共にする者とし(45)、堅振が彼らを「キリストの真の証人として、言葉と行いによって信仰を広め守ることに、さらに厳格に義務づけ」させます(46)。私たちの主が使徒たちに約束された聖霊による天主の援助(ヨハネ14章16-17節、ヨハネ14章26節)は教会全体に関わるものであり、それは主に教導権(infallibilitas in docendo 教えにおいて不可謬)を通して示されますが、信者の総意を通しても明らかにされます。後者は、教会の信仰における不可謬性(infallibilitas in credendo 信じるにおいて不可謬)を表現するものであり、この不可謬性は、先に見たように、信者が洗礼において受ける信仰の感覚に基づいています。

しかし、「信者たちの信仰の共同感覚」(consensus fidei fidelium)をルソーの「一般意志」(volonté générale)と同一視することはできません。2018年4月にローマで開催された会議でヴァルター・ブラントミュラー枢機卿が指摘したように、「カトリック信者が一斉に(en masse)、離婚後に再婚することや避妊を実践することを、あるいはそれに類することを正当と考えるとき、これは信仰に対する大規模な証しではなく、集団背教です」(47)。

同じ集会で、ブラントミュラー枢機卿はまた、次のように回想しています。「信仰の感覚」(sensus fidei)は、信者があらゆる誤謬を認識し、本能的に拒絶するように導く、一種の霊的免疫システムとして働きます。それゆえ、教会の受動的不可謬性、すなわち、教会が全体においては決して異端に陥ることがないという確信が頼りにしているのは、天主の約束とともに、この「信仰の感覚」(sensus fidei)なのです」(48)。

23.それは信者が教会の不可謬性に積極的な役割を果たすという意味でしょうか。

いいえ。ここで強調されているのは受動的、つまり受容的な不可謬性です。教皇と諸公会議の教義宣言という荘厳な教導権と司教たちの通常の普遍的教導権においてのみ、位階階級の不可謬性が能動的です。聖ペトロと使徒たち(およびその後継者たち)は、「すべての民に教えよ」という使命を受け、その結果、信者たちに自分たちの教えを信じることを主が義務づけたからです。「あなたがたの言うことを聞く者は、わたしの言うことを聞く者である」(ルカ10章16節)。

24.シノドス推進者たちは、信仰の遺産の有機的発展において、教導権の積極的役割と信徒の受動的役割を区別していますか。

いいえ。グレック枢機卿は、シノドスの耳を傾ける過程を通じて、「信仰の感覚はその積極的な機能を回復する」と宣言しています。この機能は、教皇グレゴリオによる改革後に奪われたとされています(49)。グレゴリオ改革は、「教会体の硬化、特に教導教会(Ecclesia docens)と聴従教会(Ecclesia discens)の間の固定化された関係の形態」を生み出したからだと主張されます。同枢機卿によれば、そのような旧態依然とした教会では、「すべての活動能力が前者の手に集中され、聖なる天主の民である信者は従属する者に貶められていました」(50)。そこで今、この状況を元に戻すのだとされているのです。

D―「疎外された少数派」の役割

25.シノドス推進派は、「疎外された少数派」の声に特に耳を傾けると主張していますか。

「ハンドブック」は、「排除され、疎外されていると感じている人々を巻き込むためにあらゆる努力を払う」べきだと主張しています(15ページ)。この文書は、少数派に対する優遇策を表明していると言ってもいいでしょう。「総括文書は、あまり聞いてもらえない人々の声に特別な注意を払い、私たちが『マイノリティ・レポート』と呼ぶことのできるものをまとめるべきです。フィードバックは、肯定的な経験を強調するだけでなく、困難で否定的な経験も明らかにすべきです」(29ページ)。「実際、『マイノリティ・レポート』と呼べるようなものの視点が、天主が教会に伝えたいと思っておられることの預言的証言になることもあります」(57ページ)。

26.教区の協議で集められた「預言的証言」に含まれる「困難で否定的な経験」とは何ですか。

シノドスの大陸ステージのための作業文書には、いくつかの項目が挙げられています。「より有意義な対話と、より歓迎される場を求める人々の中には、さまざまな理由から、教会に属することと自分たちの愛情関係との間に緊張を感じている人々、例えば、再婚した離婚者、結婚せずに子を育てる親、一夫多妻制の結婚生活を送る人々、LGBTQの人々、なども見受けられます」(39番)(51)。

シノドス推進者にとって、それはこれらの「疎外された少数派」を教会に「含める」という問題だとされます。

27.大陸レベルの協議はこれを反映していますか。

はい。シノドスの旅における大陸ステージの結論文書(大陸統合【総括文書】)のほとんどすべてに、「疎外された少数派」と協議することに特別な配慮が払われたことが明記されています。

例えば、「北米統合【総括文書】」にはこうあります。「大陸集会では、各国の報告書と同様に、教会内の包摂性と歓迎の度合いを高めることが深く望まれていました。実際、交わりを壊しているとみなされた主な要因の一つは、特定の人々やグループが教会で歓迎されていないと感じているという多くの人々の経験でした。大陸ステージで名前を挙げられたグループには、女性、若者、移民、人種的または言語的少数派、LGBTQ+の人々、離婚して結婚無効宣言を受けずに再婚した人々、身体的または精神的な能力の程度に差がある人々が含まれていました」(26番)(52)。

28.大陸ステージのための作業文書は女性の叙階について何と言っていますか。

シノドス推進者にとって、女性は「排除された少数派」の一つです。「大陸ステージのための作業文書」は、教会の各組織の統治構造に女性が完全かつ平等に参加するために(64番参照)、新しい実践、構造、習慣(60番参照)をもって、教会に新しい文化を確立しなければならないと述べています。また、多くの女性が、自分たちの貢献やカリスマが必ずしも評価されていないことを悲しく感じていることを確認しています(61番参照)。最後に、多くの人が女性助祭と女性が説教できるよう求めているとしています。女性の司祭叙階を提案する人もいます(64番参照)。

教皇フランシスコ自身も重要な一歩を踏み出しました。4月、史上初めて、シノドスでの投票権を女性に認めたのです。ローマ教皇は、シノドス参加者の最大25%を平信徒、男女とし、全員が司教と同等の投票権を持つことを決定しました(53)。

29.これらのテーマは新しいものでしょうか。

いいえ。それらは、代表的な進歩的潮流による古い主張に一致しています。特に第二バチカン公会議以降に定型化されたかつての主張です。スイスのクール教区名誉補佐司教、マリアン・エレガンティ司教はこう語ります。「私は、タイトルにあるように、扱われるテーマは、教会の新しい『手法』(nodus operandi)とされる『シノダリティ』となるのだろうと思いました。しかし、実はそうではありません。それどころか、それは、1970年代以来、何度目か分からないほど加熱された同じシノドスの食べ残しに関するものです。つまり、民主主義、参加、エンパワーメント、あらゆる職位に女性を置くこと、女性の助祭職や司祭職、婚外性関係や再婚、同性愛に関する性道徳の見直し、典礼における司祭職の終焉などです。私たちは皆、このことを知っています」(54)。

最も顕著なケースは、1968年から1970年の3年間に、いわゆるオランダ司牧評議会が開催されたことです。これは、「シノダリティに関するシノドス」が今日提示したものと同様の様式と提案でした。このつまずきを与える会議によって、オランダの教会は深い危機に陥りました。1980年1月、ヨハネ・パウロ二世はこの危機を解決するために、オランダ司教の特別シノドスを招集しました。オランダの司教たちは、1968年から1970年の公会議で公言された多くの誤謬の撤回を表す内容の文書に署名しなければなりませんでした(55)。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第三章 シノドスの過程 : A「シノダリティ」

2024年01月24日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第三章 シノドスの過程

A 「シノダリティ」
10.「シノダリティ」とは何ですか。
11.シノダリティは何を求めていますか。
12.シノダリティは教会生活にどのような影響を与えますか。

B 「耳を傾けること」
13.なぜ「信者の声に耳を傾ける」ことが第一の役割なのですか。
14.牧者が信者の声に「耳を傾ける」という伝統的な感覚は存在するのでしょうか。
15.「耳を傾ける」という現代的な概念に欠点はありますか。
16.民の声は天主の声ですか。
17.彼らは耳を傾けることが必要だとするためにいかなる神学的正当化を行いますか
18.では、いかなるときに信者の信仰が不可謬であるのかを、どのようにして知ることができますか。
19.シノドス推進派は誰に耳を傾けていますか。
20.このように広範囲に耳を傾けることにはどのような危険性がありますか。
21.人は誤ったつまずきを与える提案を聖霊のものだとすることができますか。

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第三章 シノドスの過程

A 「シノダリティ」

10.「シノダリティ」とは何ですか。

国際神学委員会によれば、「シノダリティ」という名詞は最近作られたものであり、第二バチカン公会議文書や教会法典には出てこない「新しい言葉」です。同委員会によれば、教会の新しいモデルの文脈において、「シノダリティは、天主の民である教会の具体的な生活様式であり、そのすべての成員が共に旅し、集会に集い、福音宣教に積極的に参加するときに、交わりとしての教会の存在を明らかにし、その実体を与えるものです」(24)とのことです。

教皇フランシスコによれば、「シノダリティは、教会の本質、形態、様式、使命の表現です」(25)。したがって、シノダリティは「教会の構成要素」(26)とされています。

11.シノダリティは何を求めていますか。

シノドス推進派は、教会生活におけるすべての信者の参加と共同責任を高めることがシノドスにとって適切であると主張します。シノドス事務局によって作成された「シノダリティに関するシノドス」のための「ハンドブック」(Vademecum)が述べているように、「シノダリティの道は、天主の民の生きた声に根拠を置きながら、天主の意志をできる限り忠実に反映した司牧的決定を行うことを目指すものです。…シノダリティは、司牧者に対し、その世話を委ねられている群れに注意深く耳を傾けるよう求めています」(28)。

12.シノダリティは教会生活にどのような影響を与えますか。

共同体全体の声に耳を傾けるということは、教会における権威の改革を意味します。教皇フランシスコによれば、教会のピラミッド構造を逆転させなければなりません。「この教会では、逆ピラミッドのように、頂点は底辺の下にある」(29)とされます。

司教シノドス事務総長のマリオ・グレック枢機卿はこう言います。教皇フランシスコは、

「位階的権威の「逆ピラミッド」のイメージの生き生きとした刺激的なモデルを提供しました。アマンダ・C・オズハイムがこう正しく観察しています。「反転したピラミッドとしての位階的権威が、教会の古いピラミッド型受胎、すなわち聖霊がまず教皇と司教に、次に聖職者と修道者に、そして最後に信者に与えられるというトリクルダウンの教会の経綸を逆転させる。…このピラミッドは、教会を事実上、教導教会(ecclesia docens)と聴従教会(ecclesia discens)に分けた。ピラミッドを反転させることで、フランシスコの類推は、権威を、教会内で他者に耳を傾け、他者から学ぶという受容に依存するものとして捉え直したのである」(30)。

教会における権威をこのように民主的に再定義することで、「聖職者主義という災いを克服する」ことが可能になるはずだとされています。なぜなら、「私たちは皆、互いに依存し合っており、聖なる神の民の中で平等な尊厳を分かち合っている」はずだからです(31)。

B 「耳を傾けること」

13.なぜ「信者の声に耳を傾ける」ことが第一の役割なのですか。

すでに述べた「ハンドブック」では、聞くという言葉が102回も登場します。信者の声については83回言及されていますが、天主の言葉については19回しか言及されていません。

バチカンのウェブサイトに掲載されたインタビューの中で、マリオ・グレック枢機卿は次のように述べています。

天主の民の声に耳を傾けることによって――これが特定の教会における意見を求めることの目的です――聖霊が教会に対して行っておられることを私たちが聞くことができるということを、私たちは知っています。このことは、教会の行く末を決めるのは天主の民であるという意味ではありません。天主の民全体(司牧者を含む)の預言的機能には、司牧者の識別という任務が対応します。天主の民が語ることから、司牧者は聖霊が教会に何を語ろうとしているのかを把握しなければなりません。しかし、天主の民の声に耳を傾けることから、識別は始まらなければなりません(32)。

14.牧者が信者の声に「耳を傾ける」という伝統的な感覚は存在するのでしょうか。

確かに、良き牧者は羊に寄り添い、羊の霊的な状況や願望に耳を傾け、理解しなければなりません。しかし、今日の「耳を傾ける」とは、羊と同調する義務を意味しています。評価基準は、啓示された真理や良心の高潔さではなくなり、信者の願望を受け入れることになります。

15.「耳を傾ける」という現代的な概念に欠点はありますか。

現代的な「耳を傾ける」の視点に立てば、教会は、司牧者たちの声を通してキリストの教えを伝える母にして教師であることをやめ(「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人である」―ルカ10章16節)、これまで議論の余地がないと考えられてきた真理を疑うことを恐れず、耳を傾け、対話し、質問する教会となります(33)。「傾聴は最初の一歩であるが、それには開かれた心とマインドが必要である」と「ハンドブック」は述べています(34)。「傾聴への第一歩は、心を偏見や固定観念から解き放つことです」(35)。さらに、「シノドスの過程は、既成の答えやあらかじめ決められた判断に頼ることなく、真正面から耳を傾けるために自らを開く機会を私たちに与えてくれます」(36)。

上に引用した文章の中で、グレック枢機卿は、司教の識別は、天主の民の言うことが天主の啓示が教えることと一致しているかどうかを確認することではなく、その逆であることを確認しています。司教の識別とは、天主の民の言うことを、聖霊の言葉として認識することとされているのです。

カトリック教会は常に逆の立場から出発してきました。啓示と聖伝によって知られる信仰の真理を土台として、それを時代と場所の状況に応じて具体的な生活に適用し、人々を永遠の救いへと啓発し導いてきました。「シノダリティに関するシノドス」は、その逆に向かっています。具体的な状況から出発して、それに適応した司牧方針と規律を練り上げるのです。このような方法は、啓示された真理から出発するのではなく、教会が適応すべき具体的な歴史的状況から出発する歴史主義的観念を前提としています。

16.民の声は天主の声ですか。

必ずしもそうではありません。教会では、「民の声」(vox populi)という表現は、多数派の声が必ず善であるという、現代の民主主義国が提示している意味とはまったく異なる意味を持ちます。この点について、元教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿は次のように語っています。

すべての信者が教会の預言職、王職、司祭職にあずかることは、父と子と聖霊の御名による洗礼に秘跡的に基づくものであり、民主国家の政体体制のように国民から発する権力に基づくものではありません。司教、司祭、助祭の役務は、キリストの権威に基づいています。…歴史上、民の訴えの声はむしろ両義的でした。アテネの民はしばしば哲学者に腹を立て、民主的にソクラテスに死刑を宣告しました。
天主の民は主に対して繰り返し不平を言いました。…ピラトは冷笑的にイエズスにこう言いました。「あなたの国の人と司祭長たちが、あなたを私に渡したのだ」(ヨハネ18章35節)。一方、新約では、メシア的な天主の民の特徴は、キリストの司祭職を共有していることからすべての信者が天主の言葉に耳を傾け、叙階された司教と司祭が、教会のかしらであるキリストのペルソナにおいて、司祭的な民を聖化し、導き、教えるという事実にあります(37)。

17.彼らは耳を傾けることが必要だとするためにいかなる神学的正当化を行いますか。

教皇フランシスコ、シノドス主催者たち、そしてその準備文書は、「信者全体は、…信仰の問題において誤まり得ません。この特徴は、超自然の信仰の感覚(sensus fidei)に示されています。…これが、有名な言葉、『〈信仰するにおいて〉(in credendo)不可謬』というものです」(38)と「吐き気を催すまで延々と」(ad nauseam)主張しています。

彼らはこのような発言をどのように神学的に正当化しているでしょうか。

2011年から2014年にかけて、国際神学委員会(ITC)は信仰の意味に関する研究を行い、その結果、「Sensus fidei in the Life of the Church」(教会の生活における信仰の感覚)という文書を発表しました。

この研究は、信者の信仰の感覚のことを、「自然的、即座的、自発的な反応であり、信者が信仰の真理に適合するものに自発的にしがみつき、それに反するものを敬遠するという、生命本能あるいは一種の『天賦の才能・直観的識別力』に匹敵するもの」(54番)と説明しています。この霊的本能は、「信仰の徳が、信じる主体と、信仰の真正な対象、すなわち、キリスト・イエズスにおいて啓示された天主の真理との間に確立する親和性(connaturality)に」(50番)由来するとされます。

この感覚は、「その対象、すなわち真の信仰に関しては、それ自体不可謬」(55番)とされます。しかし、すべての信者が不可謬なのではない、なぜなら、一方では、この感覚の発展は信仰の徳の発展に比例するからであり、そのため、それは各人の生活の聖性に比例する(57番参照)、さらに、現実の世界では、信者の直観は、純粋に人間的な意見や、文化的背景により広まった誤謬とさえ混ざり合うことがある、とされています。

このため、ITCの文書は、教理省の宣言「Donum veritatis」(真理の賜物)の35段落を引用して、急いで付け加えています。「神学的な信仰にそのようなものはあり得ませんが、信者の考えはすべて信仰に由来するというわけではないため、信者は依然として誤った意見を持つことがあり得ます。天主の民の間で流布しているすべての考え方が信仰に適合しているわけではありません」(55番)(39)と。

18.では、いかなるときに信者の信仰が不可謬であるのかを、どのようにして知ることができますか。

唯一の確実な方法は、レランスの聖ヴァンサンのルールを適用することです。それは常にどこでも、すべての人によって信じられてきたもの(quod semper, quod ubique, quod ab omnibus)は不可謬である、というものです。これは教会の聖伝の教理です。「信者の感覚」(sensus fidelium)とは、ある瞬間に信者や司祭が考えていることではなく、何世紀にもわたり、世界中で、司教と信者の最後の一人までの総意です」と、元英国国教会の主教で、現在はカトリック司祭であるナジール=アリ神父は説明しています(40)。

それゆえ、ある新奇なものに関する信者の意見が、いつでも不可謬であると考えるのは軽率です。そして、聖霊が今日の教会に何を伝えたがっておられるものが何かを知るために、深く根差した信仰を持つ高潔な人々、洗礼を受けたすべての人々、さらには他の宗教を実践している人々や無神論者にまで意見を求める必要があると考えてしまうのは、さらに無謀なことです。

19.シノドス推進派は誰に耳を傾けていますか。

シノドス主催者は、無神論者の声を聞くことを含め、可能な限り広く耳を傾けるよう呼びかけています。

洗礼を受けたすべての人々は、ともに、天主の民の生きた声である「信者の感覚」(sensus fidelium)の主体です。同時に、識別の行為に完全に参加するためには、洗礼を受けた人々が、信仰の実践から離れた人々、他の信仰伝統の人々、無宗教の人々など、それぞれの地域の文脈にある他の人々の声を聞くことが重要です。…
…私たちは、教会から離れた人々、ほとんどあるいはまったく信仰を実践していない人々、貧困や疎外を経験している人々、難民、排除された人々、声なき人々など、周縁の人々に個人的に接触しなければなりません(41)。

20.このように広範囲に耳を傾けることにはどのような危険性がありますか。

ナジール=アリ神父はこう警告しています。「意見を聞かれた人々は、カテキズムを受ける必要があります。そうでなければ、私たちが得られるものは、人々を取り巻く文化を反映したものだけでしょう」(42)。

シノドスで提示された提案の多くは、現代の傾向を反映しています。国際神学委員会は、新たな教会的風潮は「社会を動かすすべての市民の参加に関する現代意識の高度な要求をより注意深く見極めること」の成果であると述べており、このことを認めています(43)。

21.人は誤ったつまずきを与える提案を聖霊のものだとすることができますか。

いいえ。それでは冒涜的な操作になってしまうでしょう。スヘルトーヘンボスの補佐司教であるロベルト・ムツァーツ司教は次のように述べています。「現在までのところ、シノドスの過程は社会学的な実験のようなもので、聖霊がそのすべてを通してご自身の声を聞かせるということとはほとんど関係がありません。それはほとんど冒涜と言えるかもしれません。明らかになりつつあるのは、シノドスの過程がいくつかの教会の立場を変えるために利用され、聖霊が擁護者としてその論争に投げ込まれるだろうということです。たとえ聖霊が何世紀にもわたって直感に反することを息吹いてこられたとしても、です」(44)。


【参考資料】同性の人々の結合の祝福についての質問に対する教理省の回答(2021年3月15日付)

2023年12月28日 | カトリックとは

【参考資料】同性の人々の結合の祝福についての質問に対する教理省の回答(2021年3月15日付)

Responsum of the Congregation for the Doctrine of the Faith to a dubium regarding the blessing of the unions of persons of the same sex, 15.03.2021

同性の人々の結合の祝福についての質問に対する教理省の回答

提出された以下の質問に対して:
「教会は同性の人々の結合に祝福を与える権能を有するか」

回答:

解説

いくつかの教会の状況において、同性の人々の結合を祝福する計画や提案が進められています。このようなプロジェクトの動機は、同性愛者を迎え入れ、寄り添いたいという誠実な願望によることが少なくありませんが、彼らに対しては、「同性愛の性向を示す人々が、自分の人生における天主の意志を理解し、完全に遂行するために必要な援助を受けることができるように」信仰の成長の道が提案されています[1]。

そのような道では、天主の言葉に耳を傾けること、祈り、教会の典礼行事に参加すること、そして愛徳を実践することが、自らの歴史を読み解いた上で、自由と責任をもって自らの洗礼の召命に従うという決意を維持するに際して、重要な役割を果たすことができます。なぜなら、「天主はすべての人を愛しておられ、教会も同じ」[2]で、あらゆる不当な差別を拒絶しているからです。

教会の典礼行為の中でも、「準秘跡」には特別な重要性があります。「これらは秘跡に似た聖なるしるしであり、特に教会の執り成しによって得られる霊的な種類の効果を表します。それによって人は秘跡の主な効果を受ける心構えができ、生活のさまざまな場面が聖化されるのです」[3]。「カトリック教会のカテキズム」は、「準秘跡は秘跡のように聖霊の恵みを授けるものではありませんが、教会の祈りによって人が恵みを受け、それにこたえるための準備をさせてくれるものです」(1670番)と明確に記しています。

「祝福」は「準秘跡」の範疇に属しており、準秘跡によって教会は「天主を賛美するよう私たちに呼びかけ、天主の保護を懇願するよう私たちを励まし、私たちの聖なる生活によって天主のあわれみを求めるよう私たちに勧めます」[4]。加えて、準秘跡は「秘跡の一種の模倣物として制定されており、祝福は何よりも教会の執り成しによって達成される霊的な効果のしるしです」[5]。

その結果、祝福を特定の人間関係に対して呼び求めるとき、準秘跡の性質に適合させるためには、参加する人々の正しい意向に加えて、祝福されるものが、被造物に刻まれ、主キリストによって完全に啓示された天主の設計に従って、恩寵を受け、それを表現するように客観的かつ積極的に秩序づけられていることが必要です。したがって、教会によって与えられる祝福の本質と一致するのは、それ自体でそのような目的に奉仕するよう秩序づけられている現実だけです。

この理由で、同性の人間の間の結合のように、婚姻外(すなわち、それ自体で生命の伝達に開かれた男と女の解消できない結合の外)での性行為を含む関係やパートナーシップに祝福を与えることは、たとえ安定した関係であっても合法的ではありません[6]。このような関係には、それ自体で評価し感謝すべき肯定的な要素が存在しますが、その肯定的な要素は、創造主の計画に秩序づけられていない結合の文脈の中に存在するのですから、このような関係を正当化して、教会の祝福の正当な対象とすることはできません。

さらに、人に対する祝福は秘跡と関連しているため、同性の結合の祝福を合法的なものとみなすことはできません。なぜなら、同性の結合は、婚姻の秘跡で結合した男と女の上に呼び求める婚姻の祝福[7]を模倣したもの、あるいは類似したものであろうと考えられますが、実際には、「同性愛の結合が、結婚と家族に関する天主の計画と似ているものだとか、あるいは類似しているものだとか、みなす根拠はまったくない」[8]からです。

したがって、同性の人々の間の結合の祝福を違法とする宣言は、不当な差別の一形態ではなく、またそのように意図されたものでもなく、むしろ教会が理解する典礼儀礼の真理と秘跡の本質そのものを思い起こさせるものです。

キリスト教共同体とその司牧者たちは、同性愛の傾向を持つ人々を敬意と思いやりをもって迎え入れ、教会の教えと一致しながら、彼らに福音を完全に宣べ伝えるための最も適切なやり方を見いだす方法を知るよう求められています。同時に、共同体と司牧者たちは、同性愛の傾向を持つ人々のために祈り、彼らに寄り添って、彼らのキリスト教信仰の旅路を共にする[9]という教会の真の近しさを認識し、真摯に心を開いて教えを受けるべきです。

提出された「質問」(dubium)に対する回答は、教会の教えによって提案されたような、啓示された天主の計画に忠実に生きようとする意志を表明する、同性愛の傾向を持つ各個人[10]に与えられる祝福を排除してはいません。むしろ、彼らの結合をそのようなものとして認める傾向のあるあらゆる形態の祝福を無効と宣言しています。この場合には、実際には、祝福は、上述の意味において、そのような各個人を天主の保護と助けに委ねるという意向ではなく、啓示された天主の計画に客観的に秩序づけられていると認めることができない選択や生き方を認可し、奨励するという意向を表明することになるのです[11]。

同時に教会は、天主御自らが、この世で巡礼する子どもたち一人一人を祝福してやまないことを思い起します。なぜなら、天主にとって、「私たちは、私たちが犯すことのできるすべての罪よりも、天主にとって大切な存在だからです」[12]。しかし、天主は罪を祝福なさらないし、祝福なさることも不可能です。天主が罪深い人間を祝福なさるのは、罪深い人間が、自分が天主の愛の計画の一部であることを認識し、天主によって変えられることを認めるようになるためです。天主は実際、「ありのままの私たちを受け入れ、ありのままの私たちを見捨てることはありません」[13]。

上述の理由から、教会は、上記のような意味での同性の人々の結合を祝福する権能を有していないし、有することもできません。

教皇フランシスコは、本省次官に与えられた謁見の席において、上記の「質問に対する回答」(Responsum ad dubium)と付属の「解説」の公表について報告を受け、これに同意を与えました。

2021年2月22日、使徒聖ペトロの教座の祝日に、ローマにて、教理省より。

ルイス・F・ラダリア枢機卿(イエズス会)
長官

✠ ジャコモ・モランディ
チェルヴェーテリ名義大司教
次官

_______________________

【注】
[1]フランシスコ、使徒的勧告「愛のよろこび」(Amoris laetitia)、250番
[2]司教シノドス、「第15回通常総会最終文書」、150番
[3]第二バチカン公会議、「聖なる典礼に関する憲章」(Sacrosanctum Concilium)、60番
[4]ローマ儀式書、教皇ヨハネ・パウロ二世の権威で公布され復興された聖なる第二バチカン・エキュメニカル公会議の教令から、「祝福について」、一般緒言、9番
[5]同上、10番
[6]「カトリック教会のカテキズム」、2357番
[7]実際、婚姻の祝福は天地創造の記述までさかのぼり、男と女に対する天主の祝福は、実りある結合(創世記1章28節参照)と相補性(創世記2章18-24節参照)に関連している。
[8]フランシスコ、使徒的勧告「愛のよろこび」(Amoris laetitia)、251番
[9]教理省、書簡「同性愛の問題 同性愛者の司牧的ケアについて」、15番参照
[10]「祝福について」には実際、主の祝福を呼び求めるべき状況が延々と列挙されている。
[11]教理省、書簡「「同性愛の問題 同性愛者の司牧的ケアについて」、7番
[12]フランシスコ、2020年12月2日の一般謁見、祈りに関するカテケージス、祝福
[13]同上


第六の封印「太陽は荒い毛の布のように黒くなった」(黙示録6章12節)の意味と解釈

2023年12月04日 | カトリックとは

第六の封印「太陽は荒い毛の布のように黒くなった」(黙示録6章12節)

2023年11月28日

The Sixth Seal: “And the sun became black as sackcloth of hair” (Apoc. 6: 12)

ロバート・ラズ・クミタ(レムナント・コラムニスト、ルーマニア)

終末の時代の前に起こるであろう宇宙的な出来事に関する聖書の預言の中には、太陽が暗くなることについて言及しているものがある。当然のように、このしるしは旧約聖書で繰り返し言及されている。預言者ヨエルは、「地がおののき、天が震え、太陽と月は暗み、星はその光を失う」(ヨエル2章10節)と語っている。預言者エゼキエルの書では、天主ご自身が語り、歴史への摂理的な介入の結果をこう告げておられる。

「おまえが倒れ死ぬとき、私は空を暗くし、星を暗ませ、雲で太陽を隠し、月に光を放たせない」(エゼキエル32章7節)。

同様に、預言者イザヤは、「月は赤らみ、日は青ざめる。万軍の主が、シオンの山とエルザレムに君臨されるとき、その老人たちの前に主の栄光は輝く」(イザヤ24章23節)と述べている。例外なく、これらすべてのテキストにおいて、太陽が暗くなることは歴史への天主の介入と関連している。この介入は、特定の文脈での選ばれた民に適用される審判を通じてのもの、あるいは世の終わりに起こるであろう普遍的な審判を通じてのものである。

共観福音書(マテオ、マルコ、ルカ)のテキストには、私たちの主イエズス・キリストご自身が歴史の終わりに関する預言の中で言及された、太陽が暗くなるしるしが記されている。福音史家マテオは、「日は暗くなり、月は光を失い、星は空から落ち、天の力は揺れ動く」(マテオ24章29節)と、一連の宇宙的な出来事について広範囲に描写しており、これを福音史家マルコ(13章24-25節)も繰り返している。福音史家ルカはもっと簡潔に表現し、「日、月、星にしるしが現れる」(ルカ21章25節)と述べている。このように、太陽が暗くなることが言及されている例は数多くある。しかし、すべての中で最も興味をそそられるものは、聖書の黙示録にある。

「小羊が第六の封印を切ったとき、私は大地震が起こるのを見た。太陽は荒い毛の布のように黒くなり、月は全面血のようになった。天の星は、いちじくの木が大風に揺らいで青い実を落とすように、地に落ちた」(黙示録6章12-13節)。

「荒い毛の布のように黒くなった」太陽のイメージは、私を魅了してやまない。注意深く考えてみると、日食というよりも、太陽が覆われ、隠されているのであり、太陽の表面は小さな隙間がいっぱいで、そこから光が断続的に漏れているのだ。避けられない疑問は明らかである。この太陽が神秘的に覆われていることには、どんな意味があるのだろうか。可能性のある答えを読み解くには、私たちはまず、この黙示録の箇所に関する聖人たちや教会博士たちの解釈を検討しなければならない。

七つの封印は、七つの時代のことだと考えられてきた。これは、黙示録の5章と6章に記述されている小羊であるイエズス・キリスト、人となり給うた天主だけが、戦闘の教会の地上での設立で始まる期間全体にわたって展開させるものである。第六の封印について、聖書の最も重要な解釈者の一人である尊者聖ベーダ(672年頃、または673-735年)は、この封印は「反キリストの時代に起こるであろう」[i]歴史上のその期間の出来事を指している、と述べている。この解釈に沿って、中世の著名な学者であるヨークのアルクイン大修道院長(735-804年)は、「地震によって、反キリストの下での最後の迫害を理解すべきである」[ii]と主張している。ペッタウの聖ヴィクトリヌス(-304年)とブルゴーニュ人、アルルの聖セザール(470年または471-543年)も同じ見解を示している[iii]。しかし、聖ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿の解釈に関する記事ですでに見たように、その迫害の種類はニュアンスの異なる読み方を受ける可能性のある主題である。

月は教会の象徴であり、自らの光を太陽である天主から受けるが、血のように変わるため、反キリストの時代に真の信仰を持つ信者が受ける殉教のしるしと考えられている。しかしながら、聖ベーダは、迫害の最も苛烈な面は、物理的な次元ではなく霊的な次元に関係していることを示唆しているように思われる。第一に、彼は第六の封印を切ることと救い主キリストの十字架刑との間に神秘的な相関関係をこう確立している。「主が週の六日目に十字架につけられた時のように、世は暗黒と恐怖で揺り動かされる」(太字は私の強調)。

尊者アンナ・マリア・タイギが預言した暗闇の三日間の解釈のケースで見たように、これらのことは、世および闘う教会の歴史の中のある期間、つまりイエズス・キリストの十字架上の死によって始まる三日間に象徴的に対応する反キリストの時代のことを指すことが可能だ。しかし、太陽が暗くなることの意味は何だろうか。以下の聖ベーダの注解が、再び私たちを照らしてくれるだろう。

「これは、まるでキリストの力が隠されるか、あるいはキリストの教理が一時的にぼかされるかベールで覆われるかのようであり、そのとき、反キリストのしもべたちがキリストのしもべたちを攻撃するために登場するのである」。

ここから何が理解できるだろうか。太陽は天主の力と天主の超自然の啓示(すなわち、「天主の教理」)を象徴している。毛は「反キリストのしもべ」なのか。いや、そうではない。このことを正しく理解するためには、毛のイメージを熟考し、その意味を完全に引き出す必要がある。毛は私たちの頭を飾り、毛は頭皮から出ている。この細部に注目したとき、私たちはすぐに何を思い浮かべるだろうか。私たち自身の考えだ。いろいろな考えが「頭をよぎる」と言わないか。どんな考えか。残念だが、中立的なものもあり得る。例えば、「私は食べるつもりだ」というようなものだ。あるいは、「自分の生き方を改めるために告白し、悔い改めようと思う」というような、肯定的で天的なものもあるだろう。しかし、否定的な、邪悪な、異端的な考えもあり得る。歴史上で初代教皇である聖ペトロが、イエズスが命を捧げるためにエルザレムに行くのを阻止しようとした瞬間を覚えているだろうか。救い主がペトロに言った答えはこうだ。

「サタン、引き退れ。あなたは天主のことではなく、人間のことを考えている(φρονέω)のだ」(マルコ8章33節)

このとき、ギリシャ語のテキストが私にとって最大の助けとなった。なぜなら「考えている」と訳されている動詞はφρονέω(phroneó)であり、「理解する、考える」という単純にして明快な意味だからだ。言い換えれば、ペトロが、イエズス・キリストが私たちの救いのために十字架上で命を捧げようとするのを妨げようとするとき、彼の頭にあるのは「人間的な考え、悪魔の霊感による人間的な考え」なのだ。つまり、天主のご意志や物事の理解に反対する考えである。私たちが異端と呼ぶことのできるこれらの考えは、あの「布」の形で織られ、太陽の光、つまりキリスト教の信仰を通して私たちの心を照らしてくれる超自然の啓示を暗くすることになる「毛」なのである。

この理由で、聖ベーダは「反キリストのしもべたち」、すなわち、信仰について自分たちの考えや解釈を持っていて、真の信仰に忠実であり続けるキリストのしもべたちを攻撃する異端者たちについて語ることができるのである。第六の封印が切られた後の出来事が語られる際の黙示録の描写の「雰囲気」は、一種の総力戦である。正統な信仰(=太陽)を守る者たちと、「私たちが津波の水面下にいるように沈んでいる支配的な新近代主義の象徴である荒い毛の布袋の中に詰められた無数の異端」を推進する者たちとの間で行われる戦争である。

ヨークのアルクインは、自分がよく知っていたこの解釈を否定せず、同時に有効であり得るもう一つの解釈を提案している。それは、福音に忠実な人々の「ライフスタイル」、つまり、生命(親がすべての子を受け入れる)、貞潔(純潔、慎み深さ、良いマナー、控えめな服装が尊重される)、清貧(一時的なこの世のものが永遠の命という霊的なものに厳格に従う)という価値観に従った生き方に関するものである。しかし、このキリスト教的なライフスタイルは、悔い改めを拒む人々の目には、アルクインの主張によれば、耐え難いものであり、受け入れがたいものなのである。

「太陽はまた、宣教する者たちの光輝く生き方を示すこともある。つまり、終末の時代には、太陽は荒い毛の布のようになるのである。なぜなら、宣教する者の光輝く生き方は、不道徳な者の目には粗暴で卑劣に映るであろうからである」。

提案されている二つの解釈は互いに補完し合っている。一つ目は、「荒い毛の布」(すなわち新近代主義)という形で、天主によって啓示された正統な教理をぼかしてしまう異端の総合を指している。二つ目は、キリスト教徒の生き方の道徳的な面に関するものである。永続的に受け入れられている十戒の価値観を通して光輝くキリスト教徒の生き方は、不道徳な者たちの目には暗くなったように見えるのである。彼らは、それを惨めなもの、つまり、布袋のように荒れたもの、あるいは中世の修道院で着用されていた痛悔者の衣のようなものと捉えるからである。

時々、細かい点まですべてが適合しているように見えることがある。しかし、もしそうであるならば、それは第六の封印が切られたことを意味するのではないか。このことは、賢明な慎重さをもって答えなければならない重要な疑問である。

[i]黙示録6章に関する聖ベーダの注釈は、https://sites.google.com/site/aquinasstudybible/home/revelation/st-bede-on-revelation/chapter-1/chapter-2/chapter-3/chapter-4/chapter-5/chapter-6。[アクセス:2023年11月11日]

[ii]アルクインの黙示録の注釈はこちらで読むことができる。https://sites.google.com/site/aquinasstudybible/home/revelation/alcuin-of-york-commentary-on-revelation[アクセス:2023年11月11日]

[iii]ラテン語による黙示録注解、ウィリアム・C・ワインリッチ著、IVPアカデミック、2011年。

黙示録 第6章 私はまぼろしを見た。
小羊が七つの封印の第一を切ったとき、四つの動物の一つが、雷鳴のような声で「近よれ」というのを聞いた。そして私は、白い馬が現われるのを見た。乗っている者は弓をもっていた。この人に冠が与えられた。かれは勝つ者であって勝つためにでていった。
第二の封印を切ったとき、第二の動物が「近よれ」というのを聞いた。するともう一頭の炎のような色の馬がでてきた。それに乗っている者には、人間が殺しあうために地上から平和を奪いとる力が与えられ、大きな剣がわたされた。
小羊が第三の封印を切ったとき、第三の動物が「近よれ」というのを聞いた。私は黒い馬が現われるのを見た。それに乗っている者は、手に秤をもっていた。私は、四つの動物の中から出る一つの声のようなものを聞いた。その声は「小麦一ケニクスは一デナリオ、大麦三ケニクスは一デナリオ、油とぶどう酒とには触れるな」といった。
第四の封印を切ったとき、第四の動物が「近よれ」というのを聞いた。私は浅黄色の馬があらわれるのを見た。それに乗っている者は死とよばれ、冥府がそれにしたがっていた。かれらには、剣と飢えとペストと地上の猛獣とをもって、地の四分の一を殺す力が与えられた。
それから小羊が第五の封印を切ったとき、私は、天主のみことばのためと、また、自分たちがそれを証明したために殺された人々の霊魂を、祭壇の下に見た。かれらは大声に、「聖いお方、真実の主よ、審判と、地上に住む人への私たちの血の復讐のときを、あなたはいつまでのばされるのですか?」といった。かれらおのおのに白い服が与えられ、かれらと同じように死にわたされるしもべと兄弟との数が満たされるまで、もうしばらく忍耐するようにといい聞かされた。
小羊が第六の封印を切ったとき、私は、大地震が起るのを見た。太陽は荒い毛の布のように黒くなり、月は全面血のようになった。天の星は、いちじくの木が大風にゆられて、青い実を落すように、地に落ちた。天は、巻物を巻くように見えなくなり、すべての山と島とは、その場所を変えた。地上の王、君主、千夫長、金持、勢力者、奴隷も自由民もみな、洞穴と山の岩間とにかくれ、山と岩とに向かっていった。「私たちの上に落ちて、玉座に座るお方のみ顔と小羊のおん怒りからかくしてくれ。おん怒りの大なる日はきた。だれがそれに耐えられよう?」。(…)


煉獄は、少なくとも贖罪のための通常の場は、地の下に位置しており、煉獄の霊魂たちと呪われた霊魂たちは、同じ地下の空間に、つまり聖書が地獄と呼ぶ深い所にいる

2023年11月21日 | カトリックとは

「事実と特別な啓示によって説明された煉獄の教義」
フランソワ=グザヴィエ・シュッペ神父(1823~1904年)著
第一部 煉獄、正義の神秘

第4章

煉獄の場所 - 神学者たちの教え - トレント公会議の公教要理 - 聖トマス・アクィナス

信仰は、煉獄の場所について正確なことは何も教えていないが、最も一般的な意見、すなわち聖書の言葉と最もよく一致し、神学者の間で最も一般的に受け入れられている意見は、呪われた者が落ちる地獄からそう遠くない地の底に煉獄を置くというものである。聖ロベルト・ベラルミンによれば、神学者たちはほぼ全員一致で、煉獄は、少なくとも贖罪のための通常の場は、地の下に位置しており、煉獄の霊魂たちと呪われた霊魂たちは、同じ地下の空間に、つまり聖書が地獄と呼ぶ深い所にいる、と教えている(1)。(1) De purgatorio. lib. 2. cap. 6.

使徒信経で、イエズス・キリストは死後、地獄【日本語では誤解を避けるために「古聖所」と訳されている】に下られた、と言うとき、トレント公会議の公教要理(1)は、「地獄【古聖所】という語は、まだ天国の永遠の至福を得ていない霊魂たちがとどまる隠れた場所を意味する。しかしこのような場所は全部、同一種類のものではない。そのうちのあるものは恐しい暗い牢獄で、断罪された人々の魂はそこで汚れた霊たちと一緒に永遠に消えない火によって苦しめられている。これはゲヘンナ、深い淵とも呼ばれ、厳密な意味での地獄である。つぎに煉獄の火がある。そこでは、敬虔な人々の霊魂がいかなる汚れも受け入れない永遠の天の祖国に入るため、一定の期間、苦しみを受けるところである。第三の場所は、キリストの到来前の聖人たちの霊魂がとどまっていたところで、かれらはそこで何らの苦痛も感じることなくあがないの希望に生き、平和な生活を楽しんでいた。キリストは古聖所にお下りになり、アブラハムのふところにあって救い主を待っていたこれの敬虔な人々の霊魂を解放した。救い主の現存は、直ちに捕われ人たちに輝かしい光をもたらし、かれらの霊魂を無限の喜びと歓喜をもって満たし、天主を直観するというあれほど望んでいた至福を分け与えた。こうして、主が改心した盗賊に対して「今日あなたは、私とともに天国にあるであろう」とおおせられて約束されたことが実現した。」

聖トマス(2)は言う。「煉獄の償いのために二重の場所があるというのは、非常にありうることである。第一の場所は、一般的な霊魂たちのためのものであり、地獄に近い所、地の下にある。第二の場所は特殊なケースのためのものであり、そこで多くの【煉獄の霊魂たちの】出現が起こったのであろう」。これは多くの聖人たちの言葉や、特別な【私的】啓示に対応した答えになる。- それゆえに聖なる博士【聖トマス・アクィナス】は、他の多くの人々と同様に、天主の正義が特定の霊魂の浄化に特別な場所を割り当てることがあり、生きる者を指導するため、あるいは死者に必要な祝福を与えるため、あるいは天主の知恵と憐みにふさわしい他の理由のために、それらの霊魂の出現を許すことがある、と認めている。

これが煉獄の場所に関する教義の概略である。私たちは論争のある問題点は取り扱わないので、その論証も反論も付け加えはしない。スアレスやベラルミンのような著者の著作を読めばわかることである。地獄が地の下にあるという意見は、現代科学を何も恐れるに及ばないということを指摘するだけにしよう。純粋な自然科学は、このような超自然的秩序に属する問題には無力である。

さらに、霊魂という霊は、物体が存在しないかのように、物体が占める場所にいることができることを知っている。したがって、地質学者がよく言うように、地球の内部が火の海であろうと、その他の状態であろうと、地球の内部が霊魂、それも復活した肉体をまとった霊魂の住処となることを妨げるものは何もない。

使徒聖パウロは、空気中には多くの闇の霊【悪霊】が満ちていると教えている。私たちは闇の力、すなわち大気中に蔓延する悪霊と戦わなければならない(3)。一方、私たちを守ってくれる善良な天使たちも、この世界では決して少なくないことを知っている。さて、もし天使たちや他の霊たちが、物理世界を全く変化を起こさせないで大気中に住むことができるのならば、なぜ死者の霊魂たちが大地の下の懐に留ることができないようなことがあるのだろうか。

(1) Catech. Rom. cap. 6. §1. — (2) Supplém. Part. 3. Quest. Ult. — (3) Ephes. VI, 12.


天主の計画における煉獄:天主は私たちに、死者のための祈り、煉獄の霊魂への献身という、彼らの神秘的な牢獄への鍵を与えてくださった

2023年11月20日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、フランソワ=グザヴィエ・シュッペ神父(1823~1904年)著「事実と特別な啓示によって説明された煉獄の教義」の一部をご紹介いたします。

第一部 煉獄、正義の神秘

第1章

天主の計画における煉獄。
煉獄は、私たちの聖なる宗教(カトリック)において重要な位置を占めている。それは、イエズス・キリストの御業の主要な部分の一つを形成し、人間の救いの経綸において本質的な役割を果たしている。
聖なる天主の教会は、その全体として考えると、三つの部分、すなわち、戦闘の教会、凱旋の教会、苦しみの教会つまり煉獄、から構成されていることを思い起こそう。この三重の教会はイエズス・キリストの神秘体を構成し、煉獄にある霊魂は、地上の信徒や天上の選民と同様に、その構成員である。
福音書において教会は通常、天の王国と呼ばれる。煉獄も天国や地上の教会と同様、その広大な王国の一地方である。
3つの姉妹の教会は互いに絶え間ない関係を持ち、諸聖人の通功と呼ばれる絶え間ない交わり(コミュニケーション)を行っている。これらの関係は、すべての選民が目指す最終目標である栄光へと霊魂を導くことであって、それ以外に目的はない。3つの教会は、永遠の都、栄光のエルサレムである天国に住むために、互いに助け合っている。
私たち地上の戦闘の教会の信徒が、煉獄の霊魂とどのような関係にあるかと考えれば、それは彼らの苦しみを助けることである。天主は私たちに、死者のための祈り、煉獄の霊魂への献身という、彼らの神秘的な牢獄への鍵を与えてくださったのだ。


シノダリティーに関するシノドス SYNOD ON SYNODALITY by Fr Peter Scott

2023年08月28日 | カトリックとは

シノダリティーに関するシノドス

SYNOD ON SYNODALITY by Fr Peter Scott

シノダリティーに関するシノドス

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の言葉

教皇ピオ九世は、間違いなく天主からの霊感を受けて、フリーメーソンと教会のすべての敵が、教会に侵入してカトリックの宗教を破壊するための計画において作成した誤謬を、自由主義者や進歩主義者が第二バチカン公会議のテキストに導入するのに成功した誤謬を、糾弾し、断罪しました。第二バチカン公会議は、それ以前のすべての公会議がそうであった教義的公会議ではなく、「司牧的」公会議にすぎないとよく言われますが、この公会議が聖霊によって霊感を受けたものではなかったことは本当に確実です。聖霊が、その全能によって、真理を誤謬で覆い隠しつつ、しかし誤謬を免れるように、第二バチカン公会議に霊感を与えることができたとほのめかすことは、考えられませんし、冒涜的ですらあります。
マルセル・ルフェーブル大司教
「異端に抗して」240ページ

シノダリティーに関するシノドス

来る2023年10月にローマで開催される「シノダリティーに関するシノドス」は、実質的な重要性はほとんどなく、聖伝のカトリック信者である私たちには関係ないと考えたくなります。これまでのシノドスと同じことが繰り返されるでしょうが、しかし、このシノドスは、教会を内部から破壊しつつある革命の重要な一歩です。情報を得ておくことは、このような自然主義に、教会の真の教えをもって対抗する準備をすることです。

シノドスは、教会における伝統的なものです。一つの州や国の司教たちによる集会であって、定期的に必要な規律の改革を検討するためのものです。しかし、今回は、「シノダリティーに関するシノドス」であるため、これまでとは異なります。教皇フランシスコは、教会は今やシノドスの教会であると主張しています。彼がこのことで言わんとしているのは、教会は民主的であり、聖ペトロの岩の上にではなく人民の上に創立され、上から下ってくるのではなく下から上がっていくものだということです。これは、フランス革命の原則、すなわち自由、博愛、平等を、教会に適用したことの最終的な結果です。教会に何を求めるかを決めるのは人民であり、永遠の救いを得るために何を信じ、何をすべきかを私たちに教えるのは、もはや教会の位階階級ではない、ということです。

革命的方法

第一に、今回のシノドスは、実際のところは司教のシノドスではありません。なぜなら、投票権を持つ364人のメンバーのうち、50人以上が女性、70人以上が平信徒であり、言うまでもなく司祭もいて、その中には同性愛推進派のジェームズ・マーティン神父もいます。

第二に、私たちは教会を変革するために使用される方法に注目しなければなりません。これは、これまでの段階的な会議と討議の後に作成され、2023年6月20日に発表された作業文書の中で説明されています。それは「討議要綱」(Instrumentum laboris)という名称です。同文書は、シノドスの教会とは何かについて明確な定義を与えることを拒んではいますが、その特徴、すなわち、「真の共同責任」を生み出す「洗礼に由来する共通の尊厳を認識することの上に、シノドスの教会が打ち立てられているという意識」(20条)を述べています。それは、権威が教える教会ではなく、経験を分かち合って対話によって学ぶという聴従の教会です。その結果、従来のカトリック教会とは完全に逆の姿となります。シノドスの目的は、教会についてのこの新しい民主的な考え方を、教会のすべての活動に浸透させていくことであり、「洗礼による共通の尊厳および宣教のための共同責任が肯定されるだけでなく、行使され、実践される空間を構成するように、制度、構造、手続きにおいてもますますシノドス的な教会」(21条)を作ることとされます。そのとき、位階階級、そして上から教えや規律を押しつける権威は、過去のものとなります。

このことを正当化するために、この作業文書は「信仰の感覚」(sensus fidei)について言及しています。「信仰の感覚」とは、伝統的には、信仰についての真にして超自然の意味と理解と解されています。真の「信仰の感覚」(sensus fidei)は、教える権威すなわち教導権から来るのですが、しかし、この理解はそうではなく、自分が何を信じたいかというすべての人の個人的な考えから来るものとされます。このことは、「洗礼によってキリスト信者は信仰の感覚を持つ」という断言によって、偽りの正当化がなされています。

正しい心構えをもって有効で合法的に受けた洗礼ならば、注入された信仰の徳が与えられるのは確実だというのは正しいことです。しかし、このことは、洗礼を受けた人が、全てカトリック信者として考えるということを保証したり、また、信仰を守ること、ましてや信仰が私たちカトリック信者に教え求めていることの自覚を保証したりするものではまったくありません。さらには、おそらく有効に洗礼を受けたであろうプロテスタント信者で、真の信仰をまったく持っていない者も、何百万人もいるでしょう。しかし、作業文書は次のように断言しています。「一つの洗礼を通して、すべてのキリスト信者は、『信仰の感覚』(sensus fidei)にあずかっています。この理由で、シノドスの教会では、すべての洗礼を受けた人には、注意深く耳を傾けなければなりません」(ワークシートB 1.4)。

教会の教導権の教える権威を実質的に否定していることに、誤謬があります。この理論によれば、洗礼を受けたすべての人々は不可謬であり、自分の望むことを信じることができることになります。これは、真理が客観的で不変であると断言する人にとっては明白な矛盾です。教会は自らの教えが不可謬であることを明確に定義しています。第一バチカン公会議で定義された(Db1839)【デンツィンガーの旧版の番号】ように、能動的な不可謬性はキリストの代理人である教皇にのみ属し、教皇はそれによって信仰や道徳に関する教義を不可謬的に定義します。しかし、信者の受動的な不可謬性もあり、それは能動的な不可謬性の結果です。教会の教導権の教えに同意する限りにおいて、信者は間違うことはあり得ません。これこそが、真の「信仰の感覚」(sensus fidei)であり、忠実なカトリック信者だけが持つものなのです。それは、他の多くのものの中でもとりわけ、ご聖体への愛、ミサへの愛、童貞聖マリアへの愛、天主の審判への恐れ、煉獄のあわれな霊魂のために祈ろうという望みを彼らに与えます。

注意していただきたいのは、この信仰の真の理解とは、人の個人的な考えに従うのではなく、教会の教えに服従するということです。誰であっても、教会の教導権への従順を撤回した途端に実際にそうなるように、自分自身の個人的な確信において必ずや間違いを犯し得るのです。洗礼は、このこと【間違いを犯し得ること】に対抗する保証にはなりません。特に、真の信仰を持っていない異端者から洗礼を受ける場合いはそうです。このような純粋に人間的な、そしてしばしば誤った、宗教問題に関する個人的な考えを、信仰の感覚(sense of Faith)と呼ぶのは全くの茶番であり、直ちに真の信仰の喪失へと至らせます。

エキュメニズム

このことによる結果があります。プロテスタント信者も洗礼を受けています。それゆえ、シノドスの教会によれば、彼らにもまた、カトリック信者と同様に耳を傾けなければなりません。なぜなら、教会とその教える権威を拒否しているという事実にもかかわらず、彼らもまた信仰の感覚を持っていることになるからです。このことは明確に述べられています。「エキュメニカルな旅を深めたいという深い願望もまた現れます。真正なシノドスの教会は、一つの洗礼を共にするすべての人々を巻き込まずにはおきません」(24条)。このカトリック信仰との明白な矛盾は、この作業文書が常に助長しているエキュメニズムの基礎です。なぜなら、シノドスの教会は、まるで教会がこれまで「教会の外に救いなし」と定義したことがなかったかのように、必然的にエキュメニカルな教会であろうとするからです。

ピオ十一世は、1928年にエキュメニズムを断罪した回勅の中で、明確にこう教えました。「そうならば、信仰に関する問題に於いてでさえ自分独自の見解や思潮を保持しつつ、多大に他人の意見と矛盾していても、キリスト者の間で締結を結ぶ可能性さえ考えられるでしょうか。私はあなたたちに尋ねます。一体いかなる信仰表明でもって、互いに矛盾する意見の人々を一つで唯一の連合に結ぶことができるとでも言うのでしょうか。例えば、或る者たちは、聖伝は啓示の正真正銘の源であると断言し、或る者たちはそれを否定しています。或る者は教会の位階制度は天主のみ旨によって、司教・司祭そして他の聖職者から成ると考えますが、他の者たちは位階制度は時代情勢やその時期により少しずつ導入されたと断言します。…教会の一致が、信仰の唯一の規範と、全てのキリスト者の同じ信仰によらねば生まれえませんのに、これらの意見の深い相違を目前にして、私たちはほとんど教会の一致を見ることができません。しかし、それ(意見の相違にも関わらず一致をもくろむこと)によって、人々は宗教をなおざりにする、即ち[どの宗教でも結局は一緒だとする]宗教無差別主義(indifferentism)、あるいは、近代主義(modernism)と呼ばれるものにたどり着くだろうと私たちは良く知っています。これらの誤謬に犯された不幸なものは、『教義上の真理は絶対ではなく、相対的、即ち、真理は時と場所のいろいろな要求に応じて、また霊魂のさまざまな必要に応じて適応しなければならない、何故かというと、教義上の真理は不変の啓示の中に含まれず、その本性からして人の生活に適応しなければならない』と言っています」(「モルタリウム・アニモス」[Mortalium animos]9条)。

【参考】
回勅「モルタリウム・アニモス Mortalium animos」 真実の宗教の一致について(ここでは10条から12条まで)

近代主義

注意していただきたいのは、すべての人の信仰体験を良しと断言する、この誤ったエキュメニカルな考えの根源は、信仰が主観的であると考えることにあります。すなわちこれによると、信仰は個々の人に依存し、人によって変わる、ということです。これは近代主義の主要な誤謬であって、1907年に聖ピオ十世によって断罪されているものです。すなわち、近代主義によると、信仰は各人に内在するものであって、すべての人が持たなければならない客観的な真理ではない、ということになります。これは、信仰とは、外部の源泉から来るものではなく、人の個人的な意識から来る経験だということを意味します。それによると、天主の啓示とは結果的に私たちの内で進行しているものとなります。従って、信仰は内在性を介して私たちの内に生じ、私たち自身の思考として私たちの心の中に湧き上がるものだと、彼らは断言します。そうなると、キリストが教会を通して私たちに信仰を教えるのではなくなります。これが、シノドスの教会に信仰の感覚を適用する根源となる概念です。すべてのさまざまな信仰の信条と経験を受け入れ、歓迎しなければならなくなるのです。

聖ピオ十世は、真理それ自体を破壊するこの考えを、次のように断罪しました。「すべての宗教の基礎であり土台である信仰は、天主的なものを必要とする衝動に由来する感情から成り立っている。この天主的なものの必要は、特別で、ふさわしい状況においてのみ経験されるものであり、それ自体は意識の領域に最初に潜んでいる。言い換えると、近代哲学の言葉を借りれば、潜在意識の中にあり、そこに、信仰の根が隠れ、気づかれないままで存在している」(7番)。このような主観的な感情こそが、シノドスが共有するとされている、いわゆる「信仰の感覚」(sensus fidei)の基礎であり、これが超自然的に啓示されたカトリック信仰を破壊しようとしているのです。天主の啓示はもはや、トリエント公会議が定義したような聖書と聖伝という二つの源泉を持っておらず、その代わりに洗礼を受けた者の心の中に見いだされるとされているからです。

結果

しかし、カトリック信仰によるこのような明確な教えにもかかわらず、このワークシートは、カトリック信者と異端者の間の会話における平等を提案し、混宗婚は信仰にとって危険であるとして教会によって常に禁止されてきたにもかかわらず、混宗婚を奨励さえしています。

非カトリック信者も同様に、唯一の真の信仰を受け入れることを拒否しているにもかかわらず、信仰の証人である殉教者になることができると考えられています。以下はワークシートの文章です。「シノダリティーとエキュメニズムは、より良いキリスト信者の証しという共通の目標を持って、共に歩む二つの道です。これは、【異なる】教会間の結婚や、殉教のエキュメニズムでキリストへの信仰の証しとして命を捧げるという究極の行為によることを含め、さまざまなレベルでの『生活のエキュメニズム』の共存の形を取ることができます」(B 1.4)。この重大な無関心主義は、唯一の真の教会によって教えられたままの信仰の破壊、つまり、私たちの主イエズス・キリストへの真の信仰の破壊です。

この作業文書にあるその他の誤謬は、結果として生じたものです。最悪の誤謬は、聖なる叙階に関するものです。プロテスタントと同様、この文書は、一般の平信徒の司祭職が、叙階された司祭職と同等の重要性を持つものとして提示されています。その結果、教会全体に対する責任や、教会で教え統治する権利を与えるのは洗礼であり、もはや聖なる叙階ではありません。教会は、聖なる叙階の秘跡を受けることができるのは男性だけであると不可謬的に教えているにもかかわらず、女性は、同等の権威を持つことになり、さらには助祭に叙階されることになるとされています。司祭はもはや天主の人ではなく、他の人と同じ人であるとみなされているため、司祭の結婚は許可されることになるのです。

このシノドスのプロセスでは、誰も、公の大罪を犯した人さえも排除しないような包括的な精神が、同性愛者やトランスジェンダーの場合のように、性的倒錯への開放へと至ります。これもまた、客観的な道徳の破壊がもたらした結果です。質問形式ではありますが、この宣言は非常に明確です。

「シノドス後の使徒的勧告『愛のよろこび』(Amoris Laetitia)に照らして、地位や性的指向のゆえに教会から排除されていると感じている人々(例えば、再婚した離婚者、一夫多妻の婚姻状態にある人々、LGBTQ+の人々など)を歓迎するために、どのような具体的な段階が必要だろうか?」(ワークシートB.1.2§6)。大罪の状態にあって、秘跡から排除され、永遠の滅びの火に入る公の罪人に対して、誰ももはや、回心して、不道徳な生活習慣というつまずきを終わらせ、天主の掟を守るように言うことはできなくなるのです。このような大罪の状態にある霊魂をそのままにしておくとは、何という"愛徳"でしょうか!また、教会が回心なしで彼らを受け入れるとは、何という悪しき模範でしょうか!

この文書を読むと、福音に従った真の教会改革には関心がなく、むしろ現代の世俗世界の天主を認めない人文主義的な原則を受け入れていて、環境、少数民族の文化の保護、社会正義、貧困者や移住者の解放、そして純粋に自然なレベルでの他の懸念されることに焦点を当てていることが分かります。しかし、永遠の救いという一大事についてはどうでしょうか、そのために教会が創立されたというのに。このシノドスは、教会の超自然の使命を裏切るものとならざるを得ません。しかし、その使命のために、天主は人となられ、私たちの罪のせいで死なれたのです。ですから、私たちは、カトリック聖伝への愛着を堅持するとともに、自分自身の高位聖職者によってひどく苦しめられている教会のために償いの祈りを捧げましょう。

ピーター・R・スコット神父


貧しい者の詩篇:いと尊きロザリオの百五十の黙想

2023年08月28日 | カトリックとは

貧しい者の詩篇:いと尊きロザリオの百五十の黙想

愛する兄弟姉妹の皆様、

参考資料としてご紹介いたします。

A Poor Man’s Psalter
150 Reflections on the Most Holy Rosary

聖ルイ・ド・モンフォールの提案による黙想の要点に基づくロザリオ
聖ルイ・ド・モンフォール、われらのために祈り給え!

COPYRIGHT © 2023 Danilo Da Silva Ramos
All rights reserved

目次

喜びの玄義
御告げ
御訪問
御誕生
神殿での奉献
少年イエズスの神殿での発見

苦しみの玄義
ゲッセマネの園での御苦悶
柱での鞭打ち
茨の冠をかぶせられ給う
十字架を担い給う
十字架刑

栄えの玄義
御復活
御昇天
聖霊降臨
聖母被昇天
聖母戴冠

【御告げ】
1.聖ヨアキムと聖アンナ、幼子マリアを聖なる童貞として聖別されるよう神殿に奉献する。
2.大工ヨゼフ:聖ヨゼフの杖の開花の奇跡。
3.マリアのヨゼフとの「婚約」または結婚。
4.天使ガブリエルが神殿にいる聖ザカリアに現れ、妻の聖エリザベトが彼の子を身ごもることを告げる。エリザベトは不妊症であり、二人とも高齢であったにもかかわらず。ザカリアは、その子を「ヨハネ」と名付けるようにと告げられる。ザカリアは信じなかったため、話せなくなる。
5.ガブリエルのマリアへの挨拶。「めでたし、聖寵充ち満てる御方。御身は女のうちにて祝せられ給う」。
6.天使を見たときのマリアの最初の恐れと、メッセージを聞いたとき、童貞がどうして自分の胎内に子を宿して生むことができるのかという戸惑い。
7.マリアの自由な同意。「われは主のつかいめなり。仰せのごとく、われになれかし」。
8.御父によって御子が永遠において生まれ給う。
9.御子がこの世に来られたとき、御子によって御父に捧げられたご自分の犠牲。
10.聖霊によるマリアの御胎内でのイエズスの霊魂の創造と御体の形成。


【御訪問】
1.ヨゼフに対するマリアの沈黙。マリアは謙遜のために、自分が天主の御母になるという神秘を、自分を正当化するために明らかにしない。
2.マリアが子を宿していることが分かると、ヨゼフは正義の人であったので、マリアのことを公にすることを望まず、内密に離縁しようと考える。
3.ヨゼフのマリアに対する疑いは、夢で彼に現れた天使によって払拭される。
4.ヨゼフとマリアの和解。
5.ヨゼフに連れられて、身重のマリアは、身重の従姉姉エリザベトを急いで訪ねる。
6.聖エリザベトはマリアに「御身は女のうちにて祝さえられ、御胎内の御子も祝せられ給う」と宣言する。
7.生まれる前の洗者聖ヨハネは、エリザベトの胎内で喜び踊る。
8.マリアは天主への感謝をマグニフィカトで表す。
9.マリアは3カ月間、エリザベトに奉仕する。
10.洗者聖ヨハネの誕生。聖ザカリアが石版に「その名はヨハネ」と書くと、声が回復し、ベネディクトゥス(「主なるイスラエルの天主をたたえよ」)を唱える。


【御誕生】
1.ヨゼフとマリアは人口調査の登録のためにベトレヘムに旅するが、到着したときには宿屋に部屋はない。
2.天主がこの世に来られたところは、みすぼらしい馬小屋。また、その馬小屋にいた動物たち、特に牡牛とろば。
3.子を産もうとしたマリアが、天主の大きな愛を深く感じる。
4.マリアの童貞性の封印を解くことなく、マリアの御胎内から赤ん坊が産まれるという奇跡的な御誕生。
5.天主の御子は、まぐさ桶の中で揺られ給う。
6.天使が、「Gloria in Excelsis Deo(いと高きところには天主に栄光)」と歌う。
7.貧しい羊飼いたちが、ささやかな贈り物を携えて馬小屋にやって来る。
8.割礼、イエズス初めて御血を流し給う。愛を持って受け入れられる割礼の御苦しみ。
9.イエズスの聖なる御名が授けられる。
10.バルタザール、メルキオール、ガスパールは、星に導かれてベトレヘムに行き、黄金、乳香、没薬を幼子キリストに贈る。


【神殿での奉献】
1.マリアの御潔め。
2.モーゼの律法の規定に従い、ヨゼフとマリアは長男の身代金として2羽の鳩を神殿に納める。
3.聖シメオンの歌、「Nunc Dimittis(主よ、今こそ)」。
4.イエズスは逆らいのしるしとなるであろう。
5.マリアの霊魂も剣で貫かれるであろう。
6.女預言者聖アンナ。
7.ヨゼフが夢の中で天使の警告を受けた後、聖家族はエジプトに逃げる。
8.罪なき幼子の虐殺。
9.幼子イエズスの前で、エジプトの偶像が倒れる。
10.ヨゼフは夢の中で天使から、「子の命を狙っていた者たちは死んだ」と告げられる。聖家族のエジプトからナザレトへの帰還。

 

【神殿で教えている少年イエズスの発見】
1.行方不明の少年イエズスを神殿で発見したとき、イエズスは言われた。「私が父の用事にかかりきりにならなければならないことを、知らなかったのですか(私が、私の父の家にいるはずだと知らなかったのですか)」。
2.イエズスはヨゼフとマリアに従う、年齢と知恵と恵みが進む、隠された命の神秘。また、聖ヨゼフの幸せな死。
3.イエズス、ヨルダン川で洗者聖ヨハネから洗礼を受け給う。
4.砂漠で40日間断食し、3度悪魔の誘惑を受け給う。
5.12人の使徒を召される。ペトロ、アンドレア、大ヤコボ、ヨハネ、フィリッポ、バルトロメオ、トマス、マテオ、小ヤコボ、タデオ、シモン、ユダ。
6.イエズスの公生活。「悔い改めよ」「天の国は近づいた」。説教、たとえ話、予言。
7.水をぶどう酒に変え、カファルナウムで貴族の息子を癒やし、ベテスダの泉で麻痺者を癒やし、5000人に食べさせ、水の上を歩き、盲人を癒やし、ラザロを死者の中からよみがえ給う。
8.御変容。エルザレムへの凱旋入城。
9.イエズス、使徒たちの足を洗い、新しい愛の掟を発し給う。
10.イエズス、最初のミサを捧げ、御聖体を制定し給う。


【ゲッセマネの園での苦悶】
1.イエズスはオリーブ山、ゲッセマネの園に退き給う。
2.イエズスの御悲しみ。イエズスの生涯を通じて、しかし特に、御受難の前夜に経験し給うた霊魂の疲れ。
3.ペトロ、ヤコボ、ヨハネは、イエズスと一緒に警戒しているべき時に眠る。
4.「この杯を取り除き給え」というイエズスの謙遜だが熱烈な祈り。
5.イエズスは御父の御旨に同意。「私の意志ではなく、御身の御旨のままに」。
6.イエズス、天から現れた天使によって強められる。
7.イエズス、血の汗を流し給う。
8.ユダが接吻をもってイエズスを裏切る。
9.大司祭の兵士やしもべとファリザイ人は、ランタン、たいまつ、武器を持ってイエズスを逮捕しようと前に進み出た後、後ずさりして畏れながら地面に倒れる。
10.ペトロが大司祭のしもべマルクスの耳を剣で切った後、イエズスはその耳を癒やし給う。


【柱での鞭打ち】
1.イエズス、縛られ、縄と鎖でつながれて引き立てられ給う。セドロンの峡谷を引きずられ給う。
2.予備審問。イエズスに対する偽りの証言。カヤファの家で、イエズスは目隠しをされ、打たれ、「予言せよ!誰がおまえを打ったのか?」とあざけられ給う。ピラトとヘロデは友人となる。
3.ペトロ、三度イエズスを否む。
4.ピラトは問う、「真理とは何か」。
5.民は、イエズスではなくバラバを選ぶ。
6.イエズス、裸にされ、鞭打たれ給う。イエズス、裸のゆえに拷問者たちから侮辱され、軽蔑され給う。
7.イエズス、首、腕、脚を柱に縛られ給う。
8.鞭、いばらの枝、杖、針金で編んだ縄、その他の鞭打ちの道具。
9.イエズスの御傷と、その御傷から流れ出る御血。
10.イエズス、弱って、自分の血の池に倒れ給う。


【茨の冠をかぶせられ給う】
1.ローマ兵がイエズスに古い紫の衣を着せ、笏に葦を、玉座に荒削りの岩を与えた。
2.いばらの冠。
3.いばらの冠を押しかぶされたとき、イエズスの御頭から血が噴き出る。
4.兵士たちはイエズスをあざける。「ユダヤ人の王、万歳!」
5.兵士たちはイエズスを打ち、唾を吐きかけ、ひげを抜く。
6.イエズス、総督官邸の階段(聖なる階段)を昇らされ、ピラトによって人々に示され給う。「見よ、この人を!」。
7.イエズス、「私の国はこの世のものではない」と宣言し給う。
8.ユダヤ人、「われらの王はチェザル以外にない」と宣言する。
9.ピラトはイエズスの死に対する責任から手を洗う。
10.ユダヤ人、「彼の血はわれらとわれらの子孫の上に!」と答える。


【十字架を担い給う】
1.ガバタでの裁判。イエズス、死刑の宣告を受け給う。
2.イエズス、十字架を担い給う。愛を込めて接吻し、抱きしめ給う。
3.イエズス、初めて倒れ給う。
4.イエズス、カルワリオへの道で、御母に遭い給う。
5.キレネの聖シモン、ローマ兵に徴発され、イエズスが十字架を担い給うを助ける。
6.聖ヴェロニカ、自分のベールでイエズスの御顔を拭う。
7.イエズス、ふたたび倒れ給う。
8.イエズス、エルザレムの娘たちに告げ給う、「わがために泣くなかれ、なんじのために、なんじの子らのために泣け」。
9.イエズス、みたび倒れ給う。
10.イエズス、十字架につけられるために裸にされ、泥水を飲まされ給う。


【十字架刑】
1.イエズス、十字架に釘付けにされ給う。
2.十字架が立てられる。
3.司祭たち、律法学士たち、長老たち、通行人たちは、「もし天主の子なら、十字架から降りよ」「彼は他人を救ったが、自分を救うことはできない」と言って、イエズスをあざける。
4.七つの最後の言葉。「父よ、彼らを赦し給え、その為すところを知らざればなり」/「今日、なんじ、われと共に楽園にあらん」/「女よ、なんじの子を見よ! なんじの母を見よ!」/「わが天主、わが天主、なんぞわれを見捨て給いしや?」/「われ渇く」/「成し遂げられたり」/「父よ、わが霊を御手に委ね奉る」
5.イエズス、十字架上で死し給う。
6.日食が起こり、大地が震え、墓が開き、神殿の幕が裂ける。
7.百卒長ロンギヌスが槍でキリストの聖心を開くと、貫かれたキリストの脇腹から御血と水が溢れ出る。
8.キリストの御体は十字架から降ろされ、御母の腕の中に横たえられる。
9.イエズス、アリマタヤの聖ヨゼフの墓に封印される。
10.聖土曜日、黒い土曜日、大安息日。

 

【御復活】
1.古聖所への降下。
2.旧約の義人たちのリンボからの解放。
3.墓の中でイエズスの霊魂と肉体が再結合。
4.玉石によって封印されたままの墓の中からイエズスの奇跡的な通過。
5.イエズス、マリアに密かに御出現になる。
6.地響きがして、見よ!天使が石を転がして、空の墓を開ける。
7.天使を見た衛兵は恐怖に襲われ、死人のようになる。
8.死体に油を注ぐために墓に到着した聖なる婦人たちは、天使に「なぜ生者を死者と一緒に捜すのか?」と尋ねられる。
9.ペトロとヨハネは墓に駆けつけ、遺体がなく、汗拭きと死装束だけが残っているのを自分の目で確認する。
10.イエズス、マグダラのマリアに御出現になり、兄弟たちにイエズスの復活を宣べ伝えるようにと命じ給う。


【御昇天】
1.イエズス、聖なる婦人たちに、エマオへの道で、ペトロに、聖トマスを除くすべての使徒たちに、ガリラヤ湖で聖トマスを含むすべての使徒たちに、五百人に、小ヤコボに、アリマタヤの聖ヨゼフに、そして御昇天時にベタニアへの行列中の弟子たちに、御出現になる。
2.「主よ、あなたは今、イスラエルに再び王国を回復されるのですか」と尋ねられると、主は「あなたたちに時や季節を知ることはできない」と答え給う。
3.「エルザレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てまで、私の証人となるのだ。信じて洗礼を受ける者は救われる」。
4.「信じた者には次のようなしるしが続く。悪魔を追い出し、新しい言葉で話し、蛇を扱い、毒を飲み、病人を癒やすであろう」。
5.イエズス、弟子たちに祝福を与え給い、地上から引き上げられ給う。
6.イエズス、雲に包まれ、弟子たちから見えなくなり給う。
7.二人の天使が白い衣を着た人として現れ、弟子たちに言う。「なぜ、見上げているのか。あなたがたが見たように、この方は天に行かれ、また来られる」。
8.イエズス、ご自身の力で天国の扉を開き給う。「永遠の門よ、高く掲げよ、そうすれば栄光の王が中に入るであろう」。
9.イエズス、天使、大天使、権天使、能天使、力天使、主天使、座天使、智天使、熾天使という九つの天使の階級を通って、上へと昇天し給う。
10.イエズス、全能の父なる天主の右に座し、かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために再び来り給う。


【聖霊の降臨】
1.弟子たちは、聖なる婦人たちや、イエズスの御母マリア、イエズスの兄弟たちとともに、高間の部屋にとどまり、心を一つにして祈りながら、聖霊の降臨を待ち望んでいる。
2.聖霊が、御父と御子から永遠に発出し給う。
3.聖霊降臨の日、聖霊は強い風の音とともに降臨し給う。
4.聖霊、火の舌として弟子たちに降り給う。
5.弟子たちは聖霊に満たされて、さまざまな言葉で話し始める。
6.ヨエルの預言。「そして、あなたの息子や娘は預言し、あなたの若者は幻を見、あなたの老人は夢を見るであろう」。
7.三千人の回心。
8.サウロ、教会を迫害する。聖ステファノの殉教。
9.ダマスコへの道における聖パウロの回心。
10.エルザレムでの第一回公会議。パウロはアンティオキアでペトロに面と向かって反対する。ユダヤ教の儀式的律法の廃止と、キリスト教の自由の凱旋。「私にとってはすべてが合法であるが、何者の支配下にもない」。


【聖母被昇天】
1.天使ガブリエルがマリアに出現し、マリアが間もなく取り去られて天に迎えられることを告げる。
2.無原罪の御宿りと罪なき生涯により、死はマリアを支配することができない。マリアは死なずに天国に行くことができるが、御子に倣って、自由に死ぬことを承諾する。
3.永眠。聖トマス以外の使徒たちの前で、彼らの祝福を受けた後、愛の恍惚の中で、穏やかにして安らかに眠りに就く。
4.分離されたマリアの霊魂は、イエズスに付き添われて永遠へと運ばれ、天の宮廷全体によって大いなる歓呼のうちに迎えられ給う。
5.マリアの葬列が暴徒に襲われる。
6.天使がマリアの棺を飾った天の棕櫚の枝を見て、暴徒は目がくらみ、その後回心する。
7.聖母の埋葬。
8.三日目、聖母は死者の中から復活し給う。
9.聖母は、御体とともに天に上げられ給う。
10.聖トマスがインドから帰り、使徒たちはマリアの御遺体を崇敬するために墓を開けたが御体はなく、マントとローブだけが残されていた。


【聖母戴冠】
1.マリア、聖三位一体から三重冠を受け給う。王の王、主の主であるイエズス・キリストの右に、聖母は王の母として座し給う。
2.マリアは、聖ドミニコにロザリオを贈り、恩寵の水路とし給う。マリアはロザリオを通して、アルビジョア派との戦いやレパントの海戦のように、サタンや教会の敵との戦いに勝利を収め給う。
3.カルメル山での御出現。
4.メキシコのテペヤクでの御出現(グアダルーペの聖母)。
5.パリのバック通りでの御出現(不思議のメダイ)。
6.ルルドの御出現
7.ファチマの御出現
8.「彼らにはぶどう酒がありません」。マリアはキリストに、「主の御怒りのぶどう搾りでぶどう酒をしぼり出す」ように、つまりハルマゲドンを開始するようにとりなし給う。
9.「太陽をまとい、月を足元に置き、十二の星の冠をかぶった婦人」と「赤い竜」との黙示録的な戦い。
10.汚れなき御心の凱旋。


家庭におけるイエズスの聖心の着座式の式次第:Ceremonials for the Enthronement

2023年06月26日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「家庭におけるイエズスの聖心の着座式の式次第」をご紹介いたします。

Ceremonials for the Enthronement of the Sacred Heart of Jesus in the home 家庭におけるイエズスの聖心の着座式の式次第
1. All gather around the image of the Sacred Heart. 1.全員が聖心の御絵の周りに集まる。
2. The Priest, in surplice and white stole, blesses the image.  2.司祭はスルプリと白いストラを着けて、御絵を祝別する。
The Blessing of the Picture 御絵の祝別
V. Adjutorium nostrum in nomine Domini. V.われらの助けは主の御名にあり。
R. Qui fecit coelum et terram. R.主は天と地を造り給うた。
V. Dominus vobiscum. V.主はあなたたちと共に。
R. Et cum spiritu tuo. R.またあなたの霊と共に。
Oremus. Omnipotens sempiterne Deus, qui Sanctorum tuorum imagines sculpi, aut pingi non reprobas, ut quoties illas oculis corporis intuemur, toties eorum actus et sanctitatem ad imitandum memoriae oculis meditemur, hanc quaesumus, imaginem in honorem et memoriam Sacratissimi Cordis Unigeniti Filii tui Domini Nostri Jesu Christi adaptatam bene + dicere et sancti + ficare digneris; et praesta ut quicumque coram illa, Cor Sacratissimum Unigeniti Filii tui suppliciter colere et honorare studuerit, illius meritis et obtentu a te gratiam in praesenti, et aeternam gloriam obtineat in futurum. Per Christum Dominum nostrum Amen. 祈願 全能永遠にまします天主、御身は、聖人たちのかたどりなる御絵と御像を認可し給い、われらがそれを見つめるたびに、その行いと聖性をまねるべく思い起こすようにさせ給うた。願わくは、御独り子、われらの主イエズス・キリストの至聖なる聖心を敬い、記念するために作られたるこのかたどりを祝別し、聖別し給わんことを。また、その前で、御独り子の至聖なる御心を礼拝し敬う者が、主の御功徳と御取り次ぎによりて、現世における恩寵と来世における永遠の栄光を得るようにさせ給わんことを。われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン。
(The priest here sprinkles the image with holy water.) (司祭は、御絵に聖水を振りかける。)
3. Then the Priest enthrones the image of the Sacred Heart in the place of honour. This is the symbolic act of Enthronement. 3.次に、司祭は、御絵を置いて敬う場所に、聖心の御絵を安置する。これが、着座式を象徴する行為である。
4-1. All stand while the Apostles’ Creed is recited as an act of faith. 4-1.全員立って、信仰の表明として、使徒信経を唱える。
われは、天地の創造主(そうぞうしゅ)、全能の父なる天主を信じ、またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト、すなわち、聖霊(せいれい)によりて宿り、童貞(どうてい)マリアより生まれ、 ポンシオ・ピラトの管下(かんか)にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬(ほうむ)られ、古聖所(こせいしょ)に降りて(くだりて)三日目に死者のうちよりよみがえり、天に昇りて(のぼりて)全能の父なる天主の右に座(ざ)し、かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う主を信じ奉る。▲われは聖霊、聖なる公教会、諸聖人(しょせいじん)の通功(つうこう)、罪のゆるし、肉身(にくしん)のよみがえり、終りなき命を信じ奉る。アーメン。
4-2. Then, the litany of the Sacred Heart is recited:  4-2.次に、聖心の連祷を唱える。
イエズスの聖心(みこころ)の連祷  
主あわれみ給え。 ▲キリストあわれみ給え。  
主あわれみ給え。  
キリストわれらの祈りを聴き給え。 ▲キリストわれらの祈りを聴き容れ給え。
天主なる御父(おんちち) ▲われらをあわれみ給え。
天主にして世のあがない主なる御子(おんこ) ▲われらをあわれみ給え。
天主なる聖霊 ▲われらをあわれみ給え。  
唯一の天主なる聖三位(せいさんい) ▲われらをあわれみ給え。
永遠の聖父(ちち)の御子なるイエズスの聖心(みこころ) ▲われらをあわれみ給え。
聖霊によりて童貞母(どうていぼ)の御胎内に造られたるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
天主の御言葉(おんことば)と合体せるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
限りなき威光あるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
天主の聖堂(せいどう)なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
いと高き御者(おんもの)の住居(すまい)なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
天主の家、天の門(てんのもん)なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
愛熱の燃ゆるかまどなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
義と愛との宝蔵(ほうぞう)なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
慈しみと愛とに充ち満てるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
よろずの徳のふちなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
いとも賞(ほ)めたたうべきイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
すべての心の王にしてかつ中心なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
えいちと知識とのすべての宝を含めるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
神性(しんせい)の充ち満てるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
御父(おんちち)の御旨(みむね)に適い給うイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
われらの聖寵のあふれをこうむらせ給うイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
永遠の丘の希望なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
忍耐と慈悲とに富めるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
すべて依り頼む者に対して恵みゆたかなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
命と聖徳との泉なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
われらの罪のあがないなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
辱しめに飽かされたるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
われらの罪のために砕かれたるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
死にいたるまで従順なりしイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
やりにて貫かれたるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
すべての慰めの泉なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
われらの命と復活なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
われらの平安とわぼくなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
罪人(つみびと)のいけにえなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
御身に希望し奉る者の救いなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
御身によりて死する者の希望なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
諸聖人の楽しみなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
世の罪を除き給う天主の小羊 ▲主われらを赦し給え。
世の罪を除き給う天主の小羊 ▲主われらの祈りを聴き容れ給え。
世の罪を除き給う天主の小羊 ▲われらをあわれみ給え。
心の柔和けんそんなるイエズス ▲われらの心を聖心にあやからしめ給え。
祈願 全能永遠にまします天主、いと慈しみ給う御子(おんこ)の聖心(みこころ)をみそなわし、罪人(つみびと)のために主の献げ給う讃美と償い(つぐのい)とを顧(かえり)み給いて、これになだめられ、御あわれみを求め奉る者に赦しを賜わらんことを。聖霊と共にとこしえに生きかつしろしめし給う天主なる御子イエズス・キリストの聖名(みな)によりて願い奉る。▲アーメン。
And the act of reparation are recited:  そして、償いの祈りを唱える。
人類の忘恩に対する償いの祈(聖心の大祝日にこの祈りを唱える)
いと甘美なるイエズスよ、主(しゅ)が人々に示し給いし御慈(おんいつく)しみはかえつてかれらの忘却(ぼうきゃく)と冷淡とけいべつとによりて報いらるるなり。さればわれらは、主の祭壇の御前(みまえ)にひれ伏し、いとも愛すべき主の聖心(みこころ)が、あらゆる方面より受け給う、かくも憎むべき忘恩(ぼうおん)ぼうとくを償(つぐの)わんがために特に礼拝し奉(たてまつ)る。▲されどわれらもまた、かつて主に背(そむ)き奉りたるものなるを思い出し、深く悲しみて御(おん)あわれみを願い奉る。われらはおのが罪を償(つぐの)うのみならず、さらに進んで、救霊(きゅうれい)の途(みち)を遠ざかり、主の御招き(おんまねき)に応ぜずして不信仰を改めざる者、洗礼の約束を破りて、主の御戒(おんいまし)めの快きくびきを振り棄てたる人々の罪をも償わんと望み奉る。すなわちわれらは、世の腐敗せる風俗、むくなる青少年の霊魂を堕落のふちに導く誘惑、聖日(せいじつ)の無視、主ならびに主の諸聖人に向けらるる不敬の言葉、主の代理者たる教皇を始め、すべての司祭職に対してなさるる侮辱、至聖(しせい)なる愛の秘蹟(ひせき)に対する無関心と恐るべきとくせい、主のさだめ給いし、公教会の権利と権威とにさからう、社会の公然の不義の如き、悲しむべき種々の罪を、あまねく償い奉らんと欲す。ああかくの如き罪をば、われらの血潮(ちしお)もてことごとく洗い浄(きよ)めんすべもがな。われら今ここに、主のいと高き御霊威(ごれいい)に対する冒辱(ぼうじょく)の償いとして、主がかつて十字架の上にて御父(おんちち)に献(ささ)げ給い、なお日ごと祭壇の上にて繰り返し給う償いに、童貞なる聖母、諸聖人、およびすべての信心深き信者の償いを合わせて献げ奉り、堅固(けんご)なる信仰、汚れなき生活、福音の戒め、ことに愛徳(あいとく)の完全なる実行をもつて、主の聖寵(せいちょう)の助けのもとに、われらおよび全人類の罪と、主の大いなる御慈しみ(おんいつくしみ)に対する冷淡とを、わが力の及ばん限り償い、全力を尽して、主に対する罪人(つみびと)の冒辱(ぼうじょく)を防ぎ、かつ能(あた)う限り多くの人々を、主の御許(おんもと)に呼び集めんと心より約束し奉る。いと慈悲深きイエズスよ、願わくは、至聖(しせい)童貞なる協償者(きょうしょうしゃ)マリアの御取次(おんとりつぎ)によりて、われらが進みて献げ奉る償いの約束を受け給いて、われらをして死にいたるまで忠実に主に仕え、天のふるさとにいたる日まで、この決心を固く保たしめ給え。聖父(ちち)と聖霊と共に世々に生きかつしろしめし給う主なるかな。アーメン。
5. All kneel while the priests recite the Act of Consecration of the Family to the Sacred Heart. 5.全員はひざまずいて、司祭は聖心に家庭を献ぐる祈りを唱える。
イエズスの聖心に家庭を献ぐる祈  
至聖(しせい)なるイエズスの聖心(みこころ)よ、主はかつて聖女マルガリタ・マリアにキリスト信者の家庭に王たらんとの御望(おんのぞ)みを明かし給えり。▲われらは主の御旨(みむね)を尊(とうと)みて、今日(こんにち)ここに集まり、主がわれらの家庭の王にましますことを宣言し奉る。
われらは今より、主の御生活(ごせいかつ)にならい奉りて、この世の平和に必要なる諸徳(しょとく)の花を、われらの家庭に咲き香(にお)わせ、また主の忌みきらい給う世間的精神をば、はるかにわれらの間(あいだ)より遠ざけんと欲す。願わくは、われらの知恵を治めて、信仰を素直ならしめ、われらの心をすべて、主ひとりを愛せしめ給え。われらはしばしば聖体を拝領して、主の愛に燃え、その炎をいつまでも失わざらんと欲す。▲至聖なるイエズスの聖心よ、われらのまどいに長(おさ)となり、われらの精神的および物質的事業を祝し給え。禍(わざわ)いを遠ざけ、喜びを神聖にし、苦しみを和らげ給え。
われらのうちに、主の御旨(みむね)を痛め奉る不幸に陥る者あらば、主が悔改(くいあらた)むる罪人(つみびと)に対して慈しみとあわれみとに充ちあふれ給うことを、思い出(いだ)さしめ給え。▲ついにわれらの家庭が、死別の不幸にあい、悲しみの雲に閉ざされん時は、去る者も留(とど)まる者も、すべて主の永遠の御定(おんさだ)めに服従し奉らん。やがては全家(ぜんか)挙(こぞ)りて天国に相(あい)集まり、主の御栄(みさか)えと御恵(おんめぐ)みとを、永遠に讃美する日の来(きた)るべきことを思わば、みずから慰むるに余りあるべし。
願わくは聖母マリアの汚れなき御心(みこころ)と、栄えある太祖(たいそ)聖ヨゼフとは、われらの家庭奉献(ほうけん)を主の御前(みまえ)に取次ぎ、われらをして、今日(こんにち)のこの奉献の記憶を、終生忘れざらしめ給え。願わくは、われらの王にして、父なるイエズスの聖心の、世々に活き、かつしろしめし給わんことを。アーメン。
7. All recite with the priests the following: 7.全員で、司祭とともに次の祈りを唱える。
感謝の祈り  
イエズスの至聖なる聖心よ、願わくは御身に栄光あらんことを。御身はこの家庭の成員に特権的な無限の憐れみを与え給えたればなり。
御身は、この家庭を、他の何千もの家庭の中から、御身の愛の受け手として選び給い、また、御身のいとも愛に満ちた聖心が、人々の忘恩に対する慰めを見出すべき、償いの至聖所として選びたり。主イエズスよ、主に忠実たらんとする群れの一部であるわれらは、主がわれらの家庭を統治したもうたるこの無上の名誉を受け奉るは、身にすぎて極めてかたじけなし。われらは御身を沈黙のうちに礼拝し、御身がわれらと同じ屋根のもとにて、御身の子らの労苦、心配、喜びを共にするを目の当たりにし、喜びに絶えざるなり。御身がわれらが貧しきあばら家に入り給うに、われらはふさわしき者あらずなり。されど、御身は聖心をわれらに示し給い、御身の聖なる脇の傷にて、聖寵と永遠の生命との源(みなもと)を見出すことを教え給い、かくしてすでにわれらを安心させ給えり。
この愛と信頼の精神において、われらは御身にわれら自身を奉献し奉る。御身は、変わらぬ生命なり。至聖なる聖心よ、われらと共に留まり給え。われらは、御身を愛し御身を愛させたい、という抗(あらが)いがたき望みを感じるが故なり。
われらの家庭が御身にとって、かつてのベタニアの家のように、そこでは主を愛する友人たちに囲まれて御身が安らぎを得ることができる、甘美な避難所とならんことを。マリアのように、御身の聖心の愛に満ちた親密さにおいて「より良いほう」を選んだ友人たちのいる避難所と。
われらが愛する救い主よ、御身の敵がこの世から御身を追放しようとする今この時、願わくはこの家庭が御身にとって、つつましくも、御身を喜んでもてなす避難所とならんことを。
主イエズスよ、来たり給え。ここではナザレトと同じように、われらは童貞聖マリア、御身の甘美な母に対して心からの愛を捧げ奉る。御身は聖母をわれらの母として与えたまえたればなり。御身の甘美な現存とともに、来たり給え。愛の王なるイエズスのためになさるるわれらの活動を支え、不幸と死とがいつの日か、われらに与えるも知らぬ空席を埋めるために。いとも忠実なる友よ、悲しみの中であったとしても、御身さえここにおられるならば、われらの涙は辛くもあらず。力づける平和の香油は御身だけが知り給う隠れたる傷を癒すなり。
来たり給え。おそらく今も、われらには苦難の黄昏(たそがれ)が近づきつつあるなり。われらと共に留まり給え。すでに日は暮れ、倒錯した世界がわれを否定の暗闇で飲み込もうとするがゆえなり。されど、御身のみが道、真理、生命(いのち)なり。その御身のみにわれらは従うことを望み奉る。その昔、ザケオに御身が宣うたみ言葉をわれらにも繰り返し給え。「私は、今日、あなたの家にとまる。」
しかり、愛する主イエズスよ、われらと共に御身の家に住み給え。そは、御身の愛と御身の現存のうちに、われらが生きるためなり。われらは、御身を王と宣言し、他には何も望まざるなり!イエズスよ、凱旋すべき御身の聖心が、この家庭にて永遠(とこしえ)に愛され、祝福され、栄光を受け給わんことを!御国の来たらんことを。アーメン。
8. Cor Jesu Sacratissimum, miserere nobis ! (ter) 8. 至聖なるイエズスの聖心よ、われらを憐れみ給え!(三回繰り返す)
Cor Mariae dolorosum et immaculatum, ora pro nobis.  聖母の悲しみに満ちた汚れなき御心よ、われらのために祈り給え。
Sancte Joseph, ora pro nobis. 聖ヨゼフ、われらのために祈り給え。
Sancte Pie Xme, ora pro nobis. 聖ピオ十世、われらのために祈り給え。
Sancta Margarita Maria, ora pro nobis. 聖マルガリタ・マリア、われらのために祈り給え。
(Omnes) Gloria Cordi Jesu Sacratissimo, in sempiterna saecula ! Amen. (全員)イエズスの至聖なる聖心に栄光あれ、千代に八千代に代々とこしえに!アーメン。
9. (All stand) To thank the Immaculate Heart of Mary for the grace of the Enthronement, and to proclaim and reconfirm this loving Mother as the Priestess and the Queen of the Family, all sing the Salve Regina. 9.(全員立つ)着座式という御恵みに対してマリアの汚れなき御心に感謝し、そして、この愛すべき御母を、家庭の女性司祭、元后として宣言・再確認して、全員でサルヴェ・レジナを歌う。
10. The Priest gives his blessing:  10.司祭は祝福を与える。
Benedictio Dei omnipotentis, Patris, et Filii, et Spiritus Sancti, descendat super vos et maneat semper. Amen. 全能の天主、聖父と聖子と聖霊との祝福が、あなたたちの上に降り、常にとどまらんことを。アーメン。
11. Then the members of the family sign the certificate of the Enthronement, which should be framed and hung near the image of the Sacred Heart or kept in the family archives. 11.次に、家族が一人ずつ着座式の証明書に署名する。これを額縁に入れて、聖心の御絵の近くにつるするか、家庭の保管庫に保存する。
   
13. The following indulgences to be gained by the members of the family (Raccolta 1943, page 536): 13. 以下の贖宥が、家族一人一人に与えられる(1943年版Raccoltaの536ページ)
1. A plenary indulgence under the usual conditions, on the day of die Enthronement. 1.着座式の日に、通常の条件のもとで全贖宥。
2. An indulgence of seven years for all the members of the family who, at least contrite of heart, assist at the ceremony of the Enthronement in their home. 2.少なくとも痛悔の心があり、家庭の着座式の儀式にあずかる家族全員に七年の贖宥。
3. An indulgence of three years – once a year, on the day they renew their official act of consecration before the likeness of the Sacred Heart of Jesus. 3.年に一回、イエズスの聖心の御絵の前で奉献を公式に更新する日に、三年の贖宥。
4. A plenary indulgence on the same day under the usual conditions. 4.同じ日に、通常の条件のもとで全贖宥。


テニエール(Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))著 『聖体の黙想』の過去記事の目次

2023年06月17日 | カトリックとは

テニエール(Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))著 『聖体の黙想』の過去記事の目次をご紹介します。

聖体の黙想 目次

聖体の制定された理由
1  聖体は天主のご托身の継続である
2  聖体は主の聖徳の模範の継続である
3  聖体は救い主のご受難ご死去の記念である
4  聖体は天父に対する最上の賛美である
5  聖体は救霊のみわざの継続である
6  聖体は天主の正義の御怒りを防ぐ楯である
7  聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である
8  聖体は霊的生活のかてである
9  聖体は私たち各自に対する主の変わらぬ愛のあかしである
10 聖体は地上における愛の中心であって信者の結合の鎖である
11 聖体はキリスト信者の慰めである
12 聖体は地上の天国であって終わりなき生命の保証である

天主である聖体
13 聖体は至聖なる秘跡である
14 聖体は天主である
15 聖体は永遠の天主である
16 聖体は偏在の天主である
17 聖体は御稜威尊い天主である
18 聖体は全能の天主である
19 聖体は至聖なる天主である
20 聖体は至善なる天主である
21 聖体は摂理の天主である
22 聖体は万物の主宰者である
23 聖体は至高の審判者である
24 聖体は慈悲深い天主である

人である聖体
25 聖体はまことの人である
26 聖体は仲介者である
27 聖体は父である
28 聖体は母である
29 聖体は私の兄弟である
30 聖体は霊魂の浄配である
31 聖体は友である
32 聖体はわが助言者である
33 聖体はよき牧者である
34 聖体は霊魂の医者である
35 聖体はわが伴侶である
36 聖体はわが宿主であり、また客である
37 聖体はわがしもべである

聖体礼拝の理由
38 聖体は秘跡のもとに隠れたもう天主である
39 聖体はまことの人イエズス・キリストである
40 聖体は天国における光栄の王である
41 聖体は地上における天主の最大のたまものである
42 聖体はすべての祝福の源である
43 聖体は救い主のご受難の生ける記念である
44 聖体の礼拝は救い主に対する冒瀆の最善の償いである
45 聖体の礼拝はこれに対して犯される罪の最善の償いである
46 聖体の礼拝は祈禱の義務を果たすのに最善の方法である
47 聖体の礼拝はいともたやすく最も楽しい祈りである
48 聖体の礼拝は最も有効な祈りである

聖体の顕示に関する黙想
49 聖体降福式は聖体中の主に光栄を帰する最上の方法である
50 聖体顕示は主の王的主権の表現である
51 聖体降福式は主の勝利の凱旋式である
52 聖体降福式は盛大な感謝の儀式である
53 聖体降福式はご受難に対する最善の償いである
54 聖体降福式は聖体のうちにおける主の御遜りの償いである
55 聖体降福式は天主の御怒りを防ぐ楯である
56 聖体降福式は仲介者イエズス・キリストに捧げる賛美である
57 聖体降福式はたやすく主に祈る最善の機会である
58 聖体降福式はパレ・ル・モニアルで示された主の聖心の御望みにかなうものである
59 聖体降福式に対する義務


【聖体の黙想】人である聖体 聖体は霊魂の医師である

2023年06月10日 | カトリックとは

聖体の黙想

人である聖体 

34 聖体は霊魂の医師である

 礼拝 あなたの肉体と霊魂とは無数の病を蔵している。この事実を深く自覚し、あつい望み、けんそんな信頼をもって、いとも親切で力のある医師イエズスを礼拝しよう。主は医師と呼ばれることを望んでおられ、地上でのかつてのご生涯におけるように、今日聖体のうちにおいても、医師の務めを果たされるのである。『医師を要するは壮健なる人にあらずして病める人なり』 Nan egent qui sani sunt medico, sed qui male habent とおおせになった主は、いつもどこででも人間の霊魂と肉身との医師でおいでになる。
 今日世間は重病に伏し、まことに力のある医師を要している。だから、天来の医師がみ手を休められることなく、ししとしてお励みくださるのは、まことにありがたいかぎりである。
 人祖が禁断の木の実を食べてから、病毒は人類の血液中にはいりこみ、諸器官を侵し、血液を腐敗させた。これによって人類は虚弱となり、害毒を受けやすく、その恐ろしい結果として手のくだしようがない難治の病をもつようになった。霊魂の病の本態は、肉身の病よりもいっそうわかりにくい。聖アウグスチノは、『全世界の上に横たわるこの大病人には偉大なる医師が必要である』 Magnus de coelo venit medicus quia magnus per totum orbem terrce jacebat cegrotus. といった。
 主はこの病をいやすために地上においでになった。実に主のご托身それ自身が、すでに根本的に全人類をいやしてくださるものだったのである。主が天主性を、人性すなわち人間の霊魂と肉身とに一致させてくださったことは、そのまま人類を健全な生きた体となされたことである。天主性に一致されたキリストの人性は、すべての病に対する力のある解毒剤となった。イザヤが『われらは主の御傷によりていやされたり』 De livore ejus sanati sumus. といったのは、その意味にほかならない。主はそのご教訓をもって私たちの病んだ知能をいやし、愛をもって私たちの死んだ心をよみがえらせ、秘跡をもって主のすべての御徳とご生命とを私たちの霊魂のうちに循環させてくださる。また医師であるキリストは私たちの肉身をも顧みてくださり、あるいは奇跡によって病をいやしてこれを健康体にし、あるいは聖体拝領によって心の苦しみを和らげて光栄ある復活の御約束の保証を与えてくださるのである。
 『医師を尊め。そは全能の主われらをあわれみ、病をいやさんとて彼らを送りたまいたればなり』 Honor a medicum propter necessitatem ; etenim ilium creavit Altissimus, a Deo est omnis medela. (Ecclus. xxxviii.) と聖霊もおおせになった。医師としての完全な知識と経験とをもって、私たちのすべての病をいやす方法を知っていらっしゃるイエズスをあがめ、そして礼拝しよう。どんな傷にも献身的な愛を示し、またどんなにわがままで恩知らずの病人であっても忍耐を失われない主をあがめ、そして礼拝しよう。私たちは主の治療に信頼し、その処方を忠実に守って、その全知、全能、全善に依頼して少しも疑ってはならない。

 感謝 主が地上のご生涯の間、霊魂または肉体的な病人に、いかなる慈愛と忍耐と熱心とをもって近づかれたかを思うとき、私たちは感謝の心を抱かないではいられない。主は、彼らを訪問し、また彼らが群れ集まることを許された。『病をいやされんとて群集おびただしく集まり来たり』『彼はそのすべてをいやしたまえり』 Magna multitudo languentium ; Et curabantur omnes. とは聖書のところどころに見られる言葉である。ある時は、ただ一言をもって、または手を触れただけで病をいやされた。またある時は病人に近づいて御身をかがめ、肉体の健康とともに、慰藉と信仰、改心と心の平和とを与えてくださった。
 肉体的な病人よりももっと苦しんでいる精神的な病人、すなわち悲しむ者、泣く者たちに対しても、主は彼らをいやそうと約束なさった。その際、主がお求めになったのは、主の御もとに来てその心に信頼し、いっさいの重荷をおまかせすることだけであった。『われに来たれ、すべて労苦して重荷を負える者よ、われ汝らを回復せしめん』 Venite ad me omnes qui laboratis... et ego reficiam vos. と。
 もしあなたが求めるなら、主は今日、より以上のことをしていっそうの愛を示し、私たちのためにその御力を用いて、各人の霊魂のすべての不安、すべての病をいやしてくださるのである。この際のあらゆる薬剤が、たったひとつの偉大な薬のうちに含まれている。それは主ご自身である。主は天主性と人性、ご霊魂とご肉身、御血と御肉、御徳とその御功力とのすべてをもって、ひとつの霊薬をつくり、日々これを私たちに施してくださるのである。アンチオキアの聖イグナチオは『聖体は不死の薬、死の解毒剤、罪を清め悪を追う霊薬である』 Panis pharmacum immortalitatis est, mortis antidotum, medicamentum purgans vitia et omnia pellens mala (S. Ign. Antioch.) といった。
 主の薬は非常に飲みやすい。『天よりの医師は甘味に満てるよき香油もて薬をつくり、われらを見守りたもうに倦(う)みたもうことなし』 In his curans mitigabit dolorem, et unguentarius faciet pigmenta suavitatis, et unctiones conficiet sanitatis, et non consummabuntur opera ejus. (Ecclus. xxxviii.) とあるとおりである。たびたび全快はおそく、不明瞭であり、また病人の不注意と不従順とによって妨げられる。しかし主は、少しもこれを意にかけられず、いつも同じ慈愛と深い心づかいとをもっておいでになり、病人の最後の日までこれを繰り返されるのである。
 ああ慈悲深いよき医師よ、倦むことなく私たちをいやそうと努めてくださる御身に、すべてをおまかせしない者があるであろうか。深い感謝の心を抱かない者があるであろうか。

 償い あなたの霊魂が過去においてわずらったことのある種々の病、また、現在および将来においてかかるかもしれない多くの病について、まじめに、また真剣に、その数、その重さ、その恐ろしさなどを考えてみよう。
 心の中に絶えず燃えている邪欲のほのおは、すべての悪の根源である。あなたはその中に生きている。世間、あなたの呼吸する空気、その他すべての感覚的被造物は、内部の邪欲に呼応して、その忌まわしい火をそそりたてる。だから、もしもほんとうに、あなた自身の腐敗と弱さとをあなたが知ったなら、あなたはどれほど自分を怖れ、同時にどんなに全幅の信頼をもって、慈悲深い医師に信頼することであろうか。
 ところが実際はこれに反して、私たちは彼を無視し、彼から遠ざかろうと努めている。私たちは真の医師よりも、にせの医師を好んで、創造主に求めなければならないものを被造物に求めている。ちょうど福音書の中に描かれている血漏の婦人のように、全信頼をむなしいものに傾けつくして、しかも病はだんだんと重なってゆくのである。
 慈悲深いまことの医師は、私たちのこの狂態を見て、み心を痛められるのである。ああ、いつ私たちは愚かな抵抗をやめ、信頼して彼を迎え、主よりも被造物を愛好するような無礼と侮辱とを改めるのであろうか。
 あなたはまた、自分だけでなく、他の愚かな人々のためにも償いをささげなければならない。彼らは自分の病のために、天主である医師をあなどるだけでなく、彼を憎み嫌い、彼の治療の効果を否定し、単に言葉だけでなく、時には暴力をふるってさえ、彼を他の霊的の病人のかたわらから追い払うのである。聖アウグスチヌノは、これらの人々を、天主である医師を十字架にかけた刑吏と同じように憎まねばならないものであるといったが、まさにそのとおりである。
 しかしながら主は常に慈悲深く、常に親切で、名誉が傷つけられることも、また生命が危害に会うこともすべてこれを意とせず、愛と忍耐とをもって人々の憎悪に打ち勝とうとして、自分を避ける人々のために祈り、彼らによって尊い御血が流されることがあっても、その御血を彼らの救霊のために天父にささげ、彼らのごうまんがくじけ、かたくなな心が和らげられることを願われるのである。主は縛られ、むちうたれ、ののしられ、あざけられ、十字架につけられ、冒瀆されても、ご自身が彼らをいやすためにあまくだった医師であるというひとことしか考えておられない。
 ああいかに不思議な忍耐、献身、けんそん、並びに愛の模範であろうか。私たちはこれをまことにさとってはじめて、愛のいけにえなるいとも愛すべき医師に尊敬と柔順とを誓い、その傷つけられた御稜威にふさわしい償いをなし、み心のお望みになる御慰めをささげることができるのである。

 祈願 福音書中で、あわれな病人、盲、つんぼ、不具者などが、その病をいやされるために主に叫んだ熱烈な祈りを、あなた自身のために繰り返すがよい。彼らの祈りは必ず聞き入れられた。あるいはすぐその場で、あるいはもっと不思議な方法で少しのちに。……このことはあなたの信頼を深めるはずである。
 生まれつきの盲は『主よ、われをして見えしめたまえ』といった。エリコの盲は『われをあわれれみ給え、ダヴィドの子イエズスよ』と叫んだ。カナアンの女は『わが娘は悪魔に苦しめらる』『子犬もその主の食卓より落つるパンくずを食するにあらずや』と祈った。悪魔につかれた子どもの父は主のみ前にひざまずいて、『主よ、わが子をあわれみたまえ、彼は悪魔につかれて激しく苦しめらる』と嘆いた。十人のらい病人は主の御姿を見かけるとすぐに、遠方から手をあげて、『イエズスよ、よき師よ、われらをあわれみたまえ』と願った。これらの祈りをみな、あなた自身の祈りとするがよい。
 もし不信の友だちが、ごうまんと性急との心から、あなたの祈りを妨げるようなことがあるなら、エリコの盲のように、もっと声高く、もっと熱心に叫ばなければならない。だがあなたの祈りは同時に、『主よ、わがしもべ病めり、されどわれは主のわが家の下に入りたもうにたえず、ただひとことをのたまわば彼はいえん』といった百夫長の祈りのようにけんそんでなければならない。
 最後に、ミサ聖祭中、司祭が聖体を拝領するときに『主イエズス・キリスト、われは主の御肉と御血とを受くるにたえざれども、願わくはこの聖体拝領が、わが審判と宣告とにならずして、主の御あわれみにより、かえってわが霊魂と肉身との守護といやしとにならんことを』 Perceptio Corporis et Sanguinis tui, Domine Jesu Christe, quod ego indignus sumere prcesumo, non mihi proveniat ad judicium et condemnationem, sed pro tua pietate prosit mihi ad tutamentum mentis et corporis et ad medelam percipiendam. との祈りの言葉を教会といっしょに唱えるがよい。
 
 実行 私たちの苦痛と傷と病とを、聖櫃中においでになる医師に語り、またその薬である聖体を拝領しよう。

X. Jesus in the Sacrament is the Physician of Souls. 

I. Adoration. 

Adore, with a deep sense of your incurable infirmity, amidst the exhaustion into which the innumerable maladies of your body and soul plunge you — adore with an urgent desire, with the cry of an ardent prayer and of a humble confidence that you will be listened to by the most kind, the most powerful Jesus, under the title of " Physician," which He has willed to take, in which He glories, and the functions of which He has exercised since He came upon earth, formerly in His mortal life and now in His Eucharist. 

" It is not those who are well who need a physician, but those who are sick:" Nan egent qui sani sunt medico, sed qui male habent (Luke v. 15.) And He is the Physician of human nature, of the soul and of the body, of the whole universe and of all times! 

Oh! how sick the world was and in what need it stood of a powerful and wise physician! How sick it still is and how necessary it is that the heavenly Physician, who has undertaken to cure it, should not abandon it but continue towards it His assiduous care. 

Since the day when the first man ate of the forbidden fruit, poison entered into the veins of humanity, deranged its organism, corrupted its blood, rendered it weak, easily susceptible to evil, incapable of being ever radically cured, always exposed to the most terrible accidents, to the most complicated maladies, to the most dreadful results. 

This poison of the mind and the body circulates in the will, in the intellect, in all the faculties, all the passions, where sin has extended its ravages, infecting, disorganizing, corrupting, paralyzing, leading to death and to decomposition, for which there is no remedy. The nature of the sicknesses of the soul would take still longer time to define than even those of the body, which are already incredible. Saint Augustine has well said, " For the great patient who lay stretched out over the whole earth, a great doctor was necessary : " Magnus de coelo venit medicus quia magnus per totum orbem terrce jacebat cegrotus. (Serm. 9. de Verb. Dom.) 

He came and set Himself to attend and to cure. In Himself, first of all, as in its vital principle and in its essential organ, He cured the whole of humanity ; by the contact and the personal union of His divinity with the soul and the body which He assumed He constituted a humanity wholly healthy, living, and perfect ; and of this humanity He made a vivifying principle, a powerful antidote, which cures and restores all men who are inoculated with it. It is thus that Isaias speaks : De livore ejus sanati sumus. 

He inoculates this restorative virus by means of His words, which cure the intellect, by His goodness and His love, which make their hearts revive, by His Sacraments, which penetrate into souls and make His virtues, His dispositions, His life circulate in them. He even cures our bodies, formerly by means of the miracles which restored them to health, and now in assuaging their pangs by Communion, and placing in them the pledge of a glorious resurrection. 

Honor the physician, says the Holy Spirit, for it is the Almighty who has created Him in His mercy to cure us : Honor a medicum propter necessitatem ; etenim ilium creavit Altissimus, a Deo est omnis medela. (Ecclus. xxxviii.) 

Honor then, adore in Jesus, the knowledge and the perfect wisdom of the physician, for He is acquainted by His knowledge and by His experience with all our 
ills and all their remedies; honor, adore in Him the indefatigable devotedness which no wound repels, which no sick man, however rebellious and ungrateful he may be, can ever weary; honor Him and confide to Him your cure, but obey all His prescriptions with scrupulous fidelity, and abandon yourself to His goodness, to His power, to His wisdom, without ever entertaining any doubts with regard to Him. 

II. Thanksgiving. 

We cannot recall to mind, without being touched by it and grateful for it, the goodness, the sweetness, the patience, the earnestness with which Jesus, the Physician of souls and of bodies, applied Himself to cure them during His life. 

He visited the sick, He called them to Him, He allowed them to surround Him, He always had a multitude of them with Him: Magna multitudo languentium ; and He cured them all: Et curabantur omnes. Sometimes by a word, sometimes by a touch, approaching the sick man, bending down over him and giving him, with health of the body, a kind word of encouragement, and often even faith, conversion, and peace of soul. 

To those who were suffering from moral maladies, worse than those of the body, to the afflicted, to the discouraged, to all who weep, He gave His promise to cure them, to raise them up, to renew them, asking them for nothing except to come to Him, to believe in His heart and confidently to cast therein their troubles and their burdens : Venite ad me omnes qui laboratis . . . et ego reficiam vos. He does more now, or if you prefer it, He extends His curative action and exercises it in a manner in which His love shines forth still more brightly. He comes to each particular soul, He visits it and penetrates into it, that He may take account of all the wounds, of all the discomforts, of all the sources of its sufferings. He visits all, penetrates everywhere, to cure all. He comes in person and His visit is prolonged; He stays near the patient, He dwells with him, He applies the remedy. All His remedies are enclosed in one single remedy, which is marvellous; it is Himself, yes, His divinity and His humanity, His soul and His body, His blood and His heart, His virtues and His merits; of all these He has made a remedy, a balm of life and of immortality: Panis pharmacum immortalitatis est, mortis antidotum, medicamentum purgans vitia et omnia pellens mala (S. Ign. Antioch.), and He applies it to the soul, to the heart, to the faculties, to the passions. He returns every day, because He is devoted and assiduous; and each day He applies with the same gentleness, the same condescension, the divine remedy which encloses all virtues, all efficacy. 

Oh ! how sweet is the remedy, how easy to take is the beverage! The Holy Spirit has well said, "The heavenly Physician has made remedies full of sweetness, a perfumed oil, and He will never weary of attending us : " In his curans mitigabit dolorem, et unguentarius faciet pigmenta suavitatis, et unctiones conficiet sanitatis, et non consummabuntur opera ejus. (Ecclus. xxxviii.) The cure is slow, is not very manifest, often counteracted and delayed by the imprudence and the disobedience of the patient; it does not signify! He is never rebuffed, and He returns with the same tender solicitude; He will do so down to the end, to the very last day of the patient's life. 

Oh! charitable and sweet Physician! Who would not have confidence in Him, and who would not thank Him gratefully, for never being weary of curing us. 

III. Reparation. 

Endeavor to see without subterfuge, without illusion, the number, the gravity, the horrible nature of the maladies of which your soul has already felt the mortal attacks, and by which it is always threatened. 

Sensuality is the fire always burning in the very centre of your being, the always purulent source; the medium in which you live, the air which you breathe, the whole sensible creation acts from the exterior upon this internal fire. Oh, if you could but thoroughly comprehend your corruption and your weakness, how you would despise yourself, and with what absolute and humble confidence you would have recourse to the most merciful Physician! 

Instead of that, we keep far away from Him, we despise His remedies; we prefer to have recourse to false physicians, and to seek from the creature what the Creator alone can give us. But, like the woman in the Gospel who had an issue of blood, we spend the resources of our confidence, and our state is continually aggravated: Erogaverat in medicos omnem substantia™ suatn. 

Ah, let us cease from this insane resistance which occasions us so many evils, and gives so much pain to our charitable Physician ; let us give our confidence to Him who deserves it, and do not let us inflict on Him the shame of always preferring the creature to Him. Fili, in tua infirtnitate, ne despicias teipsum ; da locum medico, etenim ilium Dominus creavit; et non discedat a te t quia opera ejus sunt necessaria. (Ecclus.) 

The reparation would not be complete, if you did not deplore the folly and the fury of those who are not content with not having their mortal maladies attended to by the divine Physician, but pursue Him with their hatred, outrage Him, shower furious blows upon Him, chase Him away from sick brethren, denying His skill and the efficacy of His remedies, covering Him with ridicule, and even hindering Him by violence from approaching them. Saint Augustine has stigmatized them by including them in the same anathema with the executioners who crucified their Physician, come down from heaven to cure them: Homines desperate degrotabant, et ipsa cegritudine qua mentes perdiderant, etiam medicum ccedebant, quin et occidebant. 

But, always charitable, always good, taking little account of His honor, or even of His life, dwelling only upon triumphing over hatred by His love and by His patience, He continues to pray for the men who repel Him, and when they cruelly shed His blood, He offers it for their salvation; He makes it flow down upon their heads that it may melt their pride and soften the hardness of their heart: file autem, etiam cum occideretur, medicuserat: vapulabat et curabat ; patiebatur phrceneticum nec deserebat aegrotum; bound, chained, struck at, mocked, crucified, profaned, He remembers only one thing: that He is their physician, and that He desires to cure them : Tenebatur, alligabatur, percutiebatur, irridebatur, suspendebatur, et medicus erat! 

Ohl how these prodigies of love, of devotedness, of patience and of humanity, need to be understood, that the gentle Physician, the victim of His charity, may receive in the respect, the obedience, the fidelity, and the eagerness of His children, the compensations due to His dignity, the consolations desired by His heart. 

IV. Prayer. 

Love to repeat, whilst appropriating them to yourselves, the prayers, the appeals, the redoubled supplications, the cries of anguish and of suffering, which the poor sick patients and the poor afflicted people send up to the heavenly Physician to obtain their cure; and remember, in order to sustain your confidence, that they were always attended to, if not immediately, at least later on, and more marvellously then, that they might be consoled. 

Say with the man who was born blind: "Lord, make me to see!" With the two blind men of Jericho, "Have pity on me, Jesus, son of David!" Cry out with the Chanaan woman: " My daughter is tormented with the demon!" And again, "Lord, help me, do not refuse me the crumbs on which the dogs feed beneath their masters' tables!" With the poor father of the boy possessed by the devil, and who, going down on his knees, exclaimed: " Lord, have pity oh my son, who is possessed by the evil spirit, who afflicts him terribly!" With the ten lepers, who, as soon as they perceived Him from afar, raised their voices and cried out: "Jesus, good Master, have pity on us! " 

If pride, impatience, discouragement of shortsighted friends, wish to dissuade you from continuing your prayers, go on like the blind man of Jericho, crying louder and more perseveringly ! Let your prayer, though it be ardent and earnest, be also humble, like that of the centurion: "Lord, my son is paralyzed and suffers horrible tortures. I am not worthy that Thou shouldst enter into my house, speak only one word and he will be cured." 

Lastly, say with the Church, with the priest who every day repeats it at the very moment when he communicates, the beautiful prayer addressed to the allpowerful Physician: 44 Let not the participation of Thy Body and Blood, Lord Jesus Christ, which 1, though unworthy, presume to receive, tend to my judgment and condemnation, but through Thy mercy may it be a safeguard and remedy both of soul and body: " Perceptio Corporis et Sanguinis tui, Domine Jesu Christe, quod ego indignus sumere prcesumo, non mihi proveniat ad judicium et condemnationem, sed pro tua pietate prosit mihi ad tutamentum mentis et corporis et ad medelam percipiendam. 

Practice. 

To speak of our pains, our wounds, and our ills to the divine Physician of the tabernacle, and often to receive the Communion under the form of a remedy. 


西暦1592年に日本人によって描かれた、現存する日本最古の聖母と御聖体への信仰を表す宗教画「ご聖体の連祷と黙想の図」

2023年04月05日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

明日は聖木曜日です!私たちの主が御聖体を制定された聖なる日です。
私たちの祖国日本では、キリシタン時代から御聖体に対する信心が極めて盛んでした。

西暦1592年に日本人によって描かれた、現存する日本最古の聖母と御聖体への信仰を表す宗教画(「ご聖体の連祷と黙想の図」)が、今でも現存しています。

Photo Credit

■「ご聖体の連祷と黙想の図」(澤田美喜記念館所蔵)は、12枚の和紙を継いだ長さ320センチ、幅22センチの薄手の和紙に、墨で文字と絵が描かれた巻物です。最後に西暦1592年パウロとの署名(奥書)があります。

■澤田美喜の伝記によると、これは彼女が1957年ごろ生月島のかくれキリシタン信徒から譲り受けたものです。紙を炭素同位体を使用したAMS年代測定法で調査したところ、この紙は1557年から1632年に伐採された木からできたものと判定されています。コピーではありません。

■聖母子像図:ラファエロの「システィーナの聖母」とそっくりの聖母子像が描かれています。聖母子像を取り囲むように、ポルトガル語で「至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え」(Lovvado seia o santissimo sacramento)が上と下に書かれています。

■ポルトガル訛りのラテン語祈祷文をかな書きにしたご聖体の連祷前半

文字の部分は、ラテン語をポルトガル語訛りに発音した「ご聖体の連祷」を変体仮名で書き留めたものが書かれています。「ご聖体の連祷」は、日本国内では他に大阪府茨木市で見つかった1例しかありません。
きりゑれいそん きりしてれいそん(Kyrie eleison, Christe, eleison)
きりゑれいそん きりしてれいそん
きりしてあうぢのす きりしてゑ(Christe, audi nos. Christe exaudi nos.)
はあてるでせり DS(デウス)みせれれ なうひす(Pater de caelis, Deus, miserere nobis.)
すぴりつさんと DS(デウス)みせれれ なうひす(Spiritus Sancte Deus, miserere nobis.)
たんたとりにたすうぬす DS(デウス)みせれれ なうひす(Sancta Trinitas, unus Deus, miserere nobis.)
ぱあにすびぶすきでせろでせんぢ 同(Panis vivus, qui de caelo descendisti, miserere nobis.)
でうすあうすこんぢとさうばあとる 同(Deus absconditus et Salvator, miserere nobis.)
・・・
びいぬんせなんすびるぢぬん(Vinum germinans virgines)
・・・
おぶらしよむんだ(Oblatio munda)
あくぬすあふすけまあくら(Agne absque macula)
べるぶんかろはくつ・・・(Verbum caro factum, habitans in nobis)
おすちあさんた(Hostia sancta)
かありすべんぢしおにす(Calix benedictionis)
みすてりうんひいでい(Mysterium fidei)

■ロザリオの十五玄義図(喜びの玄義・悲しみの玄義・栄えの玄義)、

御復活の玄義に描かれた男性は、日本刀を腰からぶら下げて、刃の部分を下にして帯刀しています。これは江戸時代よりも前、騎乗での戦闘が日常的だった時期の太刀の佩き方なのです。もしもこれが江戸時代に書かれたものであれば、大小2本の刀を刃を上にして帯に差しているはずでした。

■奥書「御出世以来千五百九十二年 者う路(はうろ)」。

岡美穂子は「天草パウロ良印」の可能性を提起している。天草パウロ良印は 1553 年頃、天草生まれの日本人修道士。1577 年にイエズス会に入会し、五島などののキリシタン布教のパイオニアとして活躍した。禁教により、慶長19年(1614)に国外追放となった高山右近と共にマニラへ渡り、同時期に死亡したと思われる。

■1615年にラテン語で出版された「種々の聖なる連祷 毎日の短い敬虔な信心業付き」("Sacrae Litaniae Variae, cum Brevi Piaque Quotidiana Exercitatione", Apud Franciscum Du Bois, 1615)には、「御聖体の連禱」が掲載されています。モーツァルトも1772年にこの連祷の作曲をしています。Wolfgang Amadeus Mozart: Litaniae de venerabili altaris Sacramento, K. 243(1772)

■以下、御聖体の連祷のラテン語と日本語訳をご紹介いたします。

Litaniae de Sanctissimo Sacramento 御聖体の連祷
   
Kyrie eleison, Christe, eleison 主あわれみたまえ。キリストあわれみ給え。
Kyrie eleison, Christe, audi nos. Christe exaudi nos. 主あわれみたまえ。キリストわれらの祈りを聴き給え。キリストわれらの祈りを聴き容れ給え。
Pater de caelis, Deus, miserere nobis. 天主なる御父、われらをあわれみ給え。
Fili, Redemptor mundi, Deus, miserere nobis. 天主にして世のあがない主なる御子、われらをあわれみ給え。
Spiritus Sancte Deus, miserere nobis. 天主なる聖霊、われらをあわれみ給え。
Sancta Trinitas, unus Deus, miserere nobis. 唯一の天主なる聖三位、われらをあわれみ給え。
   
Panis vivus, qui de caelo descendisti, miserere nobis. 天からくだられた生けるパン、われらをあわれみ給え。
Deus absconditus et Salvator, miserere nobis. 隠れたる天主にして救い主、われらをあわれみ給え。
Frumentum electorum, miserere nobis. 選ばれた者たちの小麦、われらをあわれみ給え。
Vinum germinans virgines, miserere nobis. 童貞女たちを生み出すぶどう酒、われらをあわれみ給え。
Panis pinguis et deliciae regum, miserere nobis. 肥えたパンかつ王たちの美味、われらをあわれみ給え。
Iuge sacrificium, miserere nobis. とこしえの犠牲、われらをあわれみ給え。
Oblatio munda, miserere nobis. 清き捧げもの、われらをあわれみ給え。
Agne absque macula, miserere nobis. 汚れなき子羊、われらをあわれみ給え。
Mensa purissima, miserere nobis. いと清き食卓、われらをあわれみ給え。
Angelorum esca, miserere nobis. 天使たちの食べ物、われらをあわれみ給え。
Manna absconditum, miserere nobis. 隠れたるマンナ、われらをあわれみ給え。
Memoria mirabilium Dei, miserere nobis. 天主の驚くべき記念、われらをあわれみ給え。
Panis supersubstantialis, miserere nobis. 日用の糧【超実体的なパン】、われらをあわれみ給え。
Verbum caro factum, habitans in nobis, miserere nobis. われらのうちに住み給う、人となった御言葉、われらをあわれみ給え。
Hostia sancta, miserere nobis. 聖なるホスチア、われらをあわれみ給え。
Calix benedictionis, miserere nobis. 祝福のカリス、われらをあわれみ給え。
Mysterium fidei, miserere nobis. 信仰の神秘、われらをあわれみ給え。
Praecelsum et venerabile Sacramentum, miserere nobis. いとも高き敬うべき秘跡、われらをあわれみ給え。
Sacrificium omnium sanctissimum, miserere nobis. すべての中で最も聖なる犠牲、われらをあわれみ給え。
Vere propitiatorium pro vivis et defunctis, miserere nobis. 生ける人々と死せる人々とのためのまことの罪の償い、われらをあわれみ給え。
Caeleste antidotum, quo a peccatis praeservamur, miserere nobis. それによりて我らが罪から守られる、天の薬、われらをあわれみ給え。
Stupendum supra omnia miraculum, miserere nobis. すべてを超える驚くべき奇跡、われらをあわれみ給え。
Sacratissima Dominicae Passionis commemoratio, miserere nobis. 主の御受難のいとも聖なる記念、われらをあわれみ給え。
Donum transcendens omnem plenitudinem, miserere nobis. すべての充満を超越する賜物、われらをあわれみ給え。
Memoriale praecipuum divini amoris, miserere nobis. 天主の愛の特別の記念、われらをあわれみ給え。
Divinae affluentia largitatis, miserere nobis. 天主の寛大さの激流、われらをあわれみ給え。
Sacrosanctum et augustissimum mysterium, miserere nobis. 神聖にして犯すべからざるいとも偉大なる神秘、われらをあわれみ給え。
Pharmacum immortalitatis, miserere nobis. 不死の薬、われらをあわれみ給え。
Tremendum ac vivificum Sacramentum, miserere nobis. 身震いすべき、命を与える秘跡、われらをあわれみ給え。
Panis omnipotentia Verbi caro factus, miserere nobis. 御言葉の全能により、パンとなった肉体、われらをあわれみ給え。
Incruentum sacrificium, miserere nobis. 無流血のいけにえ、われらをあわれみ給え。
Cibus et convivia, miserere nobis. 食べ物にしてかつ友なる客、われらをあわれみ給え。
Dulcissimum convivium, cui assistunt Angeli ministrantes, miserere nobis. 天使たちが仕えて同席する、いとも甘美なる宴、われらをあわれみ給え。
Sacramentum pietatis, miserere nobis. 敬虔の秘跡、われらをあわれみ給え。
Vinculum caritatis, miserere nobis. 愛徳の鎖、われらをあわれみ給え。
Offerens et oblatio, miserere nobis. 捧げる者【司祭】にしてかつ捧げられたもの【犠牲】、われらをあわれみ給え。
Spiritualis dulcedo in proprio fonte degustata, miserere nobis. 固有の泉から味わった霊的な甘美さ、われらをあわれみ給え。
Refectio animarum sanctarum, miserere nobis. 聖なる霊魂たちの回復、われらをあわれみ給え。
Viaticum in Domino morientium, miserere nobis. 主において死す人々の旅路の糧、われらをあわれみ給え。
Pignus futurae gloriae, miserere nobis. 将来の栄光の保証、われらをあわれみ給え。
   
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, parce nobis, Domine. 世の罪を除き給う天主の小羊 主われらを赦し給え。
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, exaudi nobis,Domine. 世の罪を除き給う天主の小羊 主われらの祈りを聴き容れ給え。
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis. 世の罪を除き給う天主の小羊 主われらをあわれみ給え。
   
V. Panem de caelo praestitisti eis, (T.P. Alleluia) 御身は天からのパンを彼らに与え給えり。(アレルヤ)
R. Omne delectamentum in se habentem. (T.P. Alleluia) すべての楽しみをその中に含ませ給えり。(アレルヤ)
Oremus; 祈願:
Deus, qui nobis sub Sacramento mirabili Passionis tuae memoriam reliquisti; tribue quaesumus, ita nos Corporis et Sanguinis tui sacra mysteria venerari, ut redemptionis tuae fructum in nobis iugiter sentiamus. Qui vivis et regnas in saecula saeculorum. Amen 天主よ、御身は驚くべき秘蹟のもとに御身の御受難の記念を我らのために残し給えり。願わくは、我らをして御身の御体と御血の玄義をかくも崇敬し、御身の贖いの実りをわれらにおいて常に感ずるをえんことを。御身は代々に生き、かつしろしめし給う。アメン。

至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え!Lovvado seia o santissimo sacramento! 


ルフェーブル大司教を擁護する:【付録】ルフェーブル大司教の賢明の徳

2023年03月21日 | カトリックとは

ルフェーブル大司教を擁護する:【付録】ルフェーブル大司教の賢明の徳

In defence of Archbishop Lefebvre

付録1 ルフェーブル大司教の賢明の徳

ルフェーブル大司教は、司祭生活の最初から行動の人でした。アフリカで神学校校長、宣教責任者、モルタンの修練院長、教皇使節にしてダカール大司教として責任ある立場にあり、次に聖霊修道会総長、そして聖ピオ十世会の創立者にして初代総長でした。さて、指導者に求められる特別な徳は、賢明の徳です。ルフェーブル大司教の賢明さは、超自然の賢明さであり、自分の意志ではなく、天主の御摂理によって現れた天主のご意志に注意深く対応するものでした。大司教は祈り、助言を求め、信仰の原則に照らして状況を徹底的に分析し、次に勇気をもって決断し、実行しました。大司教がかかわったものはすべて繁栄しました。おそらくそれは、大司教が自分の意志ではなく、まさに聖なる天主のご意志を探し求めていたからでしょう。

大司教は、これまでの宣教で、「通常ではない」(extraordinary)状況に対処することに慣れていたのであり、これは、欧州では通常の司祭(あるいは司教)が直面することのなかったものでした。ですから大司教は、私たちの状況が【宣教地の状況に】いかに似ているものであるかを、エコンでよく私たちに説明してくれました。

さて、聖トマス・アクィナスの教えによれば、賢明には或る特別な徳、つまり賢明の「能力の部分」(potential part)があり、それはまさに、例外的な状況下で何をすべきかについて正しい判断を下す能力を扱うものです。
「さて、通常の行動規則が当てはまらないことをしなければならない場合が時に起こる。…それゆえ、通常の法よりも高度な原則に従って、そのような事柄を判断する必要がある。…そして、そのようなより高度な原則に対応して、より高度な判断の徳を持つ必要がある。それは、『明察』(gnome、γνώμη)と呼ばれ、判断におけるある種の洞察力(perspicacity)を意味する」。

洞察力とは、状況あるいは環境を機敏に評価して、健全な結論を引き出す能力と定義されています。ルフェーブル大司教にはその徳があったのです。ルフェーブル大司教が教会の通常の法に従わなかったことを非難する人々は、教会の危機という例外的な状況を無視または否定しているように思えます。このことは、重大な見落としであり、彼らが明察(gnome)を持っていないことを意味しています。

ルフェーブル大司教は、4人の司教を聖別するという決断のために、文字通り何年も費やして内省し、祈り、助言を求めました。これはおそらく、大司教の人生の中で最も重要な決断でした。大司教は「天主の御摂理のしるし」を待ち、それはやって来ました。つまり、アッシジの諸宗教の集会と、「疑問点」へのローマからの回答でした。こういった非常に重大な誤謬をもっていない聖職者を信者が切実に必要としていることを示していました。

大司教は、アッシジの後の教理上の混乱という非常に「通常ではない」(extraordinary)状況の中で、霊魂の善のために、聖伝の存続のために、その決断を下したのです。ですから、聖伝は生き延びました。結実によって、天主は大司教の決断の正しさを示され、いつの日か教会もその決断を認めることになるでしょう。そのとき、大司教に、「並外れた」(extraordinary)程度の、これらの徳があったことが、認識されることでしょう。

付録2 ルフェーブル大司教の遺書

「愛する兄弟の皆さん、私は最後に、私の遺言と呼ぶべきものを述べたいと思います。遺言とは非常に深遠な言葉ですが、その理由は、私はこれを、私たちの主の遺言『Novi et aeterni testamenti.』(新たにして永遠の契約【遺言】)をまねたものにしたいと思っているからです。

『Novi et aeterni testamenti』――尊き御血の聖変化の際にこの言葉を唱えるのは司祭です――『Hic est enim calix Sanguinis mei: novi et aeterni testamenti.』(これ、新たにして永遠の契約なる、わが血のカリスなればなり)。イエズス・キリストが私たちに与えられたこの遺産、それは主のいけにえであり、主の御血であり、主の十字架です。すべてのキリスト教文明を、救いに必要なすべてのものを醸成させるものなのです。

ですから、私も、同じように、皆さんにこう言います。

●至聖なる三位一体の栄光のために、
●私たちの主イエズス・キリストへの愛のために、
●童貞聖マリアへの信心のために、
●教会への愛のために、教皇への愛のために、
●司教、司祭、すべての信者への愛のために、
●世の救いのために、霊魂の救いのために、
●私たちの主イエズス・キリストのこの遺言を守りなさい!
●私たちの主イエズス・キリストのいけにえを守りなさい。
●全時代のミサを守りなさい!

そうすれば、皆さんは文明が再び栄えるのを見るでしょう。この世の文明ではなく、天であるカトリックの国へと至る文明です。この世のカトリックの国がつくられているのは、他の何物のためでもなく、まさに天のカトリックの国のためなのです。

ですから、私たちの主イエズス・キリストの御血を守り、主のいけにえを守り、このミサ――先人たちから私たちに遺言として残されたこのミサ、使徒の時代から今日に至るまで伝えられてきたこのミサ――を守ることによって、です。あと少しで、私はこの言葉を叙階式のカリスの上で発しますが、50年前にこの同じカリスの上で発した言葉以外を、叙階式のカリスの上で発するなどと、どうして考えることができるでしょうか――それは不可能です! 私にはこの言葉を変えることなどできません! したがって、私たちは、先人たちが教えてくれたように、また、私たちの教師であった教皇たち、司教たち、司祭たちが教えてくれたように、私たちの主イエズス・キリストが統治されるよう、私たちの天の良き母の御取り次ぎによって霊魂が救われるよう、この聖変化の言葉を発し続けるのです。

アーメン!」。

今から20年前の1989年11月19日は、ルフェーブル大司教様の司祭叙階60周年でした - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 

ルフェーブル大司教を擁護する:第二バチカン公会議後の困難な時代においてルフェーブル大司教の持っていた超自然的な賢明さ - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

ルフェーブル大司教を擁護する:第二バチカン公会議後の困難な時代においてルフェーブル大司教の持っていた超自然的な賢明さIndefenceofArchbishopLefebvre2023年3月4日FSSP...

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ルフェーブル大司教を擁護する:第二バチカン公会議後の困難な時代においてルフェーブル大司教の持っていた超自然的な賢明さ

2023年03月19日 | カトリックとは
ルフェーブル大司教を擁護する:第二バチカン公会議後の困難な時代においてルフェーブル大司教の持っていた超自然的な賢明さ

In defence of Archbishop Lefebvre
2023年3月4日 FSSPX.NEWSサイト



愛する兄弟姉妹の皆様、

フランソワ・レネ神父(聖ピオ十世会)によるとても良い記事を日本語でご紹介します。これは、「イテ・ミサ・エスト」(Ite Missa Est)【聖ピオ十世会英国・スカンジナビア管区の雑誌】の2023年3・4月号に掲載された論文です。

はじめに

数カ月前まで、私はニュージーランドにいて、教会に関する論争の最前線から遠く離れていました。しかし今は、英国で新しい任務に就いており、ある同僚から、当会の教会法上の地位と教会との関係に関する疑念に悩まされている信者たちを助けることはできないだろうかと依頼されました。そのため、ここに省察をいくつか記しました。天主の聖寵により、それが信者の皆さんの助けになればと願っています。

聖ピオ十世会に対する態度は、活動のやり方に関する軽い意見の相違から、ルフェーブル大司教を異端そのものだと非難するような、中傷(重大なことで誰かを非難するが、しかし虚偽の非難)に終わる敵意まで、さまざまなものがあります。私は、このような非難がいかに虚偽であるかを示し、第二バチカン公会議後の困難な時代における大司教の超自然的な賢明さを、読者の皆さんに納得していただければと願っています。

1.少し歴史を振り返る:1960年代の典礼革命

信者席の信者、敬虔な信者にとって、1960年代はすべてが変わり始め、特に典礼において混乱が支配した時代でした。それは真の典礼革命でした。まず、少しの俗語【各国語】、次に、ここそこで俗語が増えていき、次に、あれやこれやの祈りの削除(例えば最後の福音)、次に、立ったままの聖体拝領、次に、逆向きの祭壇、次に、いくつかの場所での手による聖体拝領、次に…、次に…、次に、…、信者は、次の主日にはどんな新奇なものが出てくるのか分かりませんでした。ミサ典礼書はA、B、C年の週報【日本では「聖書と典礼」】に取って代わられました。信者の持っていた古いミサ典礼書は、価値がなくなってしまいました。より敬虔な信者たちは、新しいミサ典礼書を買いました。しかし、小教区ごとに異なっていたため、あまり役に立ちませんでした…新しいミサは、他の多くの改革の中の一つにすぎなかったのです。

私の経験では、信者たちがさらにショックを受けたのは、敬虔に捧げられた新しいミサそれ自体よりも、信者たちの信仰と信心にとって嫌悪すべきもの、手による聖体拝領でした(信者たちには、カルメル神父(ドミニコ会)といった司祭のように、それを研究する真の方法がなかったからです。「イティネレール誌」(Itinéraires)にある同神父の記事を参照)。

教会を愛するすべての良き信者にとってはつらい現象は、手による聖体拝領と同じぐらい重大で悲しむべき、あらゆる種類の新奇なものを導入した不従順な司祭たちが、「長上から」の支持を受けていたため、自分たちの不従順はとがめられることがなかったのですが、一方で、良き教理を説き、自分の小教区では手による聖体拝領を許さず、ミサでギターを使わせずグレゴリオ聖歌を使う忠実な司祭たち、これらの忠実な司祭たちは、その地位を追われ、降格され、時には早期の引退に追い込まれたということです。同じことが今日でも起こっています。例えば、フランスのトゥーロン教区のレイ司教は、自分の教区で(規模に比例して)フランスのどの教区よりも多くの召命を得ていましたが、昨年6月にローマから、司祭叙階を延期して未定にするよう求められました。

私の【出身地の】小教区、ルーアン近郊のビオレルにある天使の聖母教会では、主任司祭は市内の別の小教区の第二助任司祭とされ、助任司祭は教区のはずれに送られました。2人とも良き司祭であり、説教は正統的で、スータンを着続け、手にご聖体を授けることはせず、ノブス・オルドのグレゴリオ聖歌の本がない時期にはクレゴリオ聖歌の聖歌隊を守り、テキストが朗読と合わないにもかかわらず(!)聖伝のテキストのままをよく歌ったものでした。その小教区からは、5人の聖伝の召命が生まれました(4人はルフェーブル大司教によって叙階されました)。

この2人の司祭が新奇なものから小教区を守ってきましたが、彼らの後任は「移行期の司祭」であり、その新奇なものをすべて持ち込みました。そこで、脱出が始まりました。私の家族はその小教区を離れ、再び聖伝のミサを見つけるまで、保守的な司祭を探しました。母は当時、こう言っていました。「それまでの変化は、崖の上からゆっくりと降りてくるようなもので、聖伝のミサを再び見つけたときは、自分が崖の下にいて(ルーアン近くのセーヌ川の北岸には高い崖があります)、見上げてみて、自分が実際にどれだけ降りてきたかを実感したように思ったのよ」と。

1975年の私の家族のように、早くから聖伝のミサを見つけていた信者もいれば、もっと早かったり、もっと遅かったりした信者もいます。しかし、そのすべての人にとって、聖伝のミサを見つけることは、「これこそ、私たちが奪われてきた宝だ!」という目を開かせる体験だったのです。今日でも、多くの人々が、聖伝のミサを発見すると、同じ反応を起こします。1970年以降に生まれた人々でさえもそうです。それは、しばしば人生の転機となります。聖伝のミサは、教会の中心であり、教会の最大の宝であり、荘厳さと実りのすべてにおいて実践に移されたカトリック信仰なのです。

2.もう少し歴史を振り返る:聖ピオ十世会の始まり

この混乱が、単に典礼の領域にとどまるものではなかったということを記しておくのは、重要なことです。それ以上に重要なのは、それは信仰の問題だったということです。聖職者にとって、公会議は、曖昧さをもって、時にはあからさまな誤謬をもって、しばしば信仰を希薄にするという、この世に対する開放性を導入しました。その開放性は、霊魂に計り知れない損害を与えることになる「『自らを天主とする人間』の宗教への好感」(パウロ六世、1965年12月7日)を持つことを奨励したのです。

【注:パウロ六世の公会議閉会の言葉「"人間となった天主"の宗教は、『自らを天主とする人間』の宗教(なぜならこれも宗教のひとつですから)と出会いました。…限りない好感が公会議全体を侵略しました。…私たちの新しい人間中心主義を認めることを知りなさい。私たちも、誰にもまして人間を礼拝するものなのです。」】

信者のレベルでは、60年代後半に、カトリックの教理から大きく逸脱したカテキズム(オランダのカテキズムなど)や、単に基本的な教理を教えないカテキズムが登場し始めました。今日の「カトリック信者」の若者で、基本的なカテキズムを知っている人がどれだけいるでしょうか? 本当に多くの若者が、正しく教えられたことのない信仰を離れていることに驚く必要はないでしょう。1969年、私が8年生【12歳。フランスでは6歳になる年に小学校に入学する】のとき、司祭が、私たちカテキズムのグループを自分のオフィスに連れて行き、「私に何について話してほしいですか?」とだけ言ったのを覚えています。私は行くのをやめました…カトリックの学校で教師をしていた私の父は、子どもたちに基本的なカテキズムを学ぶことができるように、自分たちでカテキズムを教えることを組織した親たちのグループの一員でした。父は司教から「教会法上の派遣(canonical mission 教会法的身分)」を与えられてはいませんでしたが、カトリック信者の父親としての義務を果たしていたのです(天主は、5人の子どもたちから3人の司祭を出すことで父を祝福してくださいました)。

同時に、神学校の状況もひどいものでした。近代主義者たちは追い風を受けて、限界を知りませんでした。正統信仰を守ろうと望む人々は脇に追いやられ、しばしば神学校を去っていきましたが、いずれにせよ、神学校は、召命に欠けていたため、すぐに閉鎖されてしまいました!

本当に多くの人々が破壊を行っている一方で、ルフェーブル大司教は教化活動をしていました。1969年、シャリエール司教の下でフリブールに学び舎を開設し、1970年にはワリス州(ヴァレー州)(スイス)のシオン教区のアダム司教の認可を得て「霊性の家」としてエコンを開設、翌年には同じ司教からエコンを本格的な神学校とする認可を得ています。ルフェーブル大司教が1970年に初めてアダム司教に認可を求めたとき、アダム司教はこう答えました。「私たちの教区にはまだ三つの神学校がありますから、エコンを神学校として認可することはできません。しかし、少し異なる『霊性の家』はありませんから、エコンを『霊性の家』として認可します」。

しかし、(新しいミサが導入されたばかりの)1970年にフリブールのカトリック大学の状況が悪化し、良い教師と悪い教師が混在していたことから、ルフェーブル大司教は良い教師だけを選んでエコンに連れて来ることにし、そのためエコンが本格的な神学校になることを認めるようアダム司教に再度依頼しました。アダム司教はこう答えました。「昨年、神学校の許可を出さなかったのは、教区にまだ三つの神学校があったからです。昨年、二つの神学校が閉鎖されました。ですから、今年はエコンを本格的な神学校にする許可を出します」。私はこの事実を、関係者のすべてを非常によく知る1970年代初頭の神学校の校長、カノンであるベルト神父から聞きました。

この小さな出来事は、ともて重要でした。新奇なものを導入すれば衰退につながり、聖伝に忠実であれば生命と成長につながるのです。このパターンは、過去50年間、世界中の多くの場所で何度も何度も繰り返されてきたことが分かっています。

聖ピオ十世会は、認可されたから善だったのでしょうか、それともむしろ善だったから認可されたのでしょうか? 正しいトミズム的な答えは、ある行為の第一にして本質的な善はその客体から来る、というものです。外的な認可は、ある種の外来的な善を加えますが、第一にして本質的な善を構成するものではありません。

その反対に、多くの神学校で行われている近代主義の教えは、たとえ教師が長上からの教会法上の派遣(missio canonica)をもって「認可」されていたとしても、客観的には悪のままにとどまります(多くの人の信仰を破壊しています)。教会法上の派遣は、全時代の信仰に反する教えをカトリック的にするものではありませんし、することもできません。

事業の最初がルフェーブル大司教から出たものではない、ということを記しておくのは重要なことです。著名なカトリック信者たち(聖職者や平信徒)が、ルフェーブル大司教に神学生のために何かをしてくれるように促しました。後に、大司教が神学生たちに与えている良い精神を維持するために、神学生同士のつながりを作ってくれるように大司教に促したのは、神学生たちでした。ですから、すべてのことが秩序に従って行われるようにと、大司教は教会法上の認可を求め、そして最初に、その認可を得たのです。

ルフェーブル大司教は、真の教会人として、シャリエール司教を通じて、聖ピオ十世会が教会から正式に認可されることを常に重視していました。大司教の表現はこうでした。「nous sommes d'Eglise――私たちは教会に属しています」、教会の子として、教会の肢体として、教会という木にしっかりと接ぎ木された生ける枝として、ということです。聖ピオ十世会の廃止を常に無効と考えていたからこそ、大司教はその仕事を続けたのです。もし大司教が廃止を有効だと考えていれば、大司教は続けなかったことでしょう。見かけ上は廃止は有効であるかのようでしたが、真実においてはそうではなく、天主の御目にはそうではなかったのです。

3.聖ピオ十世会の認可に関する教会法についての若干の考察

聖ピオ十世会の会憲は、第1条でこう言っています。「兄弟会は、誓願のない共同生活をする司祭会である…」。聖ピオ十世会は、単なるピア・ウニオ(敬虔な団体 pius union)であったと言う人々もいます。彼らの反論は、この混乱が記されているシャリエール司教の書簡に由来するもので、書簡は、聖ピオ十世会はピア・ウニオ(敬虔な団体)として教区に建てられていると言っています。どう考えればいいでしょうか?

私の意見では、この問題を最もうまく扱っているのは、トマス・グラバー神父(教会法博士)です。以下は彼の中心となる主張です。

1.事の性質上、ピア・ウニオ(敬虔な団体)は、会員を、彼らの活動の一部、ある種の特別な善行(祈りなどを含む)のために縛る。誓願のない共同生活の会は、誓願よりも低い絆で、会員が福音的完徳に向かうのを助けるために、会員の全生活を縛る。

2.教会法は、平信徒に関する第三部で敬虔な団体(pious union)を扱っているのに対し、誓願のない共同生活の会に関する条項は、修道者に関する第二部にあり、二つの全く異なる章にある。

3.シャリエール司教は、聖ピオ十世会が誓願のない共同生活の会であることを正確に記した会憲を認可し、こうしてその地位を認可した。

しかし、シャリエール司教が認可した聖ピオ十世会の実態は、単なる「敬虔な団体」(pia unio)ではなく、むしろ会憲で正しく定義されていたもの、すなわち「誓願のない共同生活の会」だったのです。

さらに、もし聖ピオ十世会が単なるピア・ウニオ(敬虔な団体)にすぎなかったとすれば、廃止行為は使徒座の介入を要求することはなかったでしょう(ただし、不服申し立てを聴くことは除く)。さらにまた、教区長が確実性のために使徒座の助言を求めたとしても、ピア・ウニオ(敬虔な団体)はその部門には属さないため、修道者聖省(Sacred Congregation for Religious)はその権限を有さなかったでしょう。モンシニョール・マミーが修道者聖省に相談したという事実そのものによって、彼は聖ピオ十世会が誓願のない共同生活の会であることを暗黙のうちに認めたのです。

もう一つ、非常に重要な法の原理があります。「favorabilia sunt amplianda odiosa restrigenda――好ましいことは広く解釈されるべきであり、好ましくないことは厳格に解釈されるべきである」。なぜ、シャリエール司教の意図を、彼ができる限り認可しないように意図したかのように、最小限にするのでしょうか? その反対に、法の原理は私たちに、彼ができる限り良き仕事を支援したがっていたと解釈するように義務づけています。それ以外の態度は、新約の法の中心である愛徳ではなく、ルフェーブル大司教と彼の聖ピオ十世会に対する悪意を示しています。

4.聖ピオ十世会の違法な廃止:1975年

ルフェーブル大司教は、1969年に9人の神学生から始め、5年後には約90人になりました。フランスの司教たちは心配し始め、伝統的な方法で訓練された司祭を望まず、エコンが「野良犬神学校」(séminaire sauvage)であるかのような中傷キャンペーンを始めたため、バチカンは視察を命じ、それは1974年の秋になされました。バチカンからの視察者たちは、視察した内容に満足したと言いましたが、視察者たちは、何人かの神学生との会話の最中に、主の復活の教義に対する疑いやその他のつまずきを与えるような意見を述べました。そのため、ルフェーブル大司教は1974年11月21日、美しい宣言を発表したのです。

1975年2月、大司教は3人の枢機卿(タベラ、ライト、ガロンヌ)からなる委員会に招集され、視察について「おしゃべり」しました。会話はすべてルフェーブル大司教がした宣言に関すること向けられました。

そして、1975年5月6日付のモンシニョール・マミーの書簡が届き、彼は同日までに、自らの権限で「前任者の行為と譲歩を撤回する」と述べました。教会法は、彼はその権限を持っていないと言っています。司教は、誓願のない共同生活の会を廃止する権力を持ってはいません。司教は、認可することはできますが、いったん認可されれば、それを廃止できるのはローマだけなのです。

同日付の3人の枢機卿からの書簡は、マミー司教は自分が行ったことを行う権利を持っているが、それは客観的に見て教会法に反することである、と宣言したにすぎません。

ルフェーブル大司教は6月5日、この手続きに対して不服申し立てを行いました。6月10日、スタッファ枢機卿は、教皇がこの問題については自らの権限とした、という口実のもと、この不服申し立てを却下しました。6月14日、ルフェーブル大司教は2度目の不服申し立てを行い、この件の文書を要求しました。ヴィヨ枢機卿がスタッファ枢機卿に回答しないように命じたため、大司教は、この2度目の不服申し立てに対する回答は得られませんでした。

それ以来、この2度目の不服申し立ては係争中であり、教会法によれば、このような不服申し立ては「保留状態」(suspensive)となります。つまり、聖ピオ十世会を廃止する決定は、不服申し立てに答えるまで保留されているのです。したがって、現実には廃止はなく、廃止のように見えるだけなのです。

しかし、廃止のように見える以上、大司教はあらゆるところで、いかなる支援も拒否されることに直面しました。

5.善きサマリア人のジレンマ

ルフェーブル大司教は、このような反対に直面した場合、戦いを放棄し、すべての神学生を自宅に戻し、すべての仕事を閉鎖することも十分に可能でした。大司教は、自分のためだけに、信仰とミサを維持することができたでしょう。神学生たちと、すでに大司教を助けていた数人の司祭に、自分たちの面倒は自分たち見させればよかったのです。もし、他の多くの司教が神学校で聖伝に忠実に若者たちを育成していたなら、大司教は喜んでそうしていたことでしょう。しかし、1975年に、大司教は、これらの若者をどこに送ることができたというのでしょうか?

キリストの愛が大司教をしめつけていました(コリント後書5章14節)。大司教は、多くの霊魂が聖伝の教理と典礼を守る良き司祭を必要としていることを十分に認識していました。善きサマリア人(ルカ10章30-37節)のように、大司教は、教会の危機によって傷ついたこれらの霊魂が、道端に半死半生で放置されており、その地の司祭やレビ人は通り過ぎ、世話をしなかったのを見ました。大司教は、その霊魂たちにとってはよそ者でした。大司教は、自分の世話は自分でするようにと彼らを見捨てたのでしょうか、それとも、彼らが請い求めている助けを提供したのでしょうか? 大司教は彼らの世話をしたのです!

ルフェーブル大司教を理解するためには、善きサマリア人の模範を把握することが不可欠です。教会の教父たちはしばしば、私たちの主ご自身がこの善きサマリア人のようであった、と述べています。主の家は天国であり、主は私たちにとってはよそ者として、地上に来られました。旧約の司祭やレビ人は、傷ついた人の世話をしませんでしたが、主は世話をなさいましたし、さらに、ぶどう酒(主の尊き御血の象徴)と油(聖霊の賜物の象徴)をお与えになり、傷ついた人を教会の象徴である宿に連れて来られました。

それ以降、ルフェーブル大司教が聖ピオ十世会を継続させたのは、本質的に言えば、善きサマリア人の愛の答えだったのです。つまり、傷ついた霊魂に手を差し伸べ、自分が受けた賜物、司祭職だけでなく後には司教職さえも、他の人々に伝え、これらの霊魂を新しいセクトではなく、唯一のカトリック教会に導くということだったのです。

彼はその地域の裁治権を持っていなかったのではないか、と大司教を非難する人々がいます。後ほど、その疑問に戻りますが、そのような反論は、あたかも司祭とレビ人が戻って来て善きサマリア人をとがめ、ユダヤでは何の権利もないよそ者だったと非難するようなものです。

6.ミサの問題:1976年

当時、ミサをめぐる戦いは激しくなっていました。ブニーニは、「パウロ六世のローマ・ミサ典礼書の義務的性質に関する通達」(1974年10月28日)を、すべての司教協議会に宛てて発表しました。この通達の中で(そして他の文書の中でも)、聖伝のミサを捧げることを明確に禁止しており、例外は75歳以上の司祭で、その場合は一人の侍者と二人きりで私的に捧げることとしていました。この通達は「使徒座公報」(Acta Apostolicae Sedis)に掲載されることはありませんでした。この通達には、教会法上の価値はありません。自らの至高の使徒継承の権威の全ての重みを行使して、すべての司祭に「永久に」聖伝のミサを捧げる権利を保証した教皇聖ピオ五世の教書「クオ・プリームム」(Quo Primum)を、一人の単なる秘書が、このような小さな通達で、どうして覆すことができるというのでしょうか? できるはずがありません。

しかし、多くの司教はこの小さな通達を使って、聖伝のミサを守ってきた司祭を追及し、小教区から追放するなどしました。私は思い出しますが、シドニーのフォックス神父が、50周年記念ミサの説教の際、「ラテン語ミサは禁止される」(Latin Mass forbidden)という見出しのついた、当時のシドニー・モーニング・ヘラルド紙の一面を見せ、こう付け加えました。「私はそのミサを守りました!」と。私の教区では5人、祖父の教区では4人など、そのミサを守った多くの良き司祭がいました。フランスや多くの国々にそのような司祭が何百人もいましたが、割合的にはほんの一握りで、それでも彼らは、ミサを求める信者のためにそのミサを与える勇気を持っていました。教皇ベネディクト十六世は、「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の中で、聖伝のミサは決して禁止されていないと明確に述べ、こうして、勇気ある司祭と信者の正当性を証明しました。

しかし当時、多くの霊魂はひどく見捨てられたと感じていました。「子どもたちがパンを求めても、裂いて与える者はない」(哀歌4章4節)。「私の目は涙につぶれ、私のはらわたは煮えたぎり、民の娘の傷を見て、私の肝は地に注ぎ出される。彼らは『小麦とぶどう酒はどこにあるの』と尋ねる。彼らは、町の広場で弱りはて、母のふところの中で、息絶える」(哀歌2章11-12節)。

善きサマリア人のように、傷ついた霊魂に手を差し伸べた司祭たちは幸せです! 「あなたたちは、私が飢えていたとき食べさせ、渇いていたときに飲ませ、…病気だったときに見舞ってくれた…まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章35-40節)。

ルフェーブル大司教は、神学校で私たちにこう述べました。「私は、審判の日に私たちの主が私に対して、『おまえは、他の者たちと一緒に私の教会を破壊した!』と言われるのを聞きたくなかったのです。もし神学校を閉鎖していたなら、私は教会の破壊に加担することになったことでしょう」。教会が破壊されるのはあり得ませんが、このような新奇なものによって多くの霊魂が失われてしまったのです。

ですから大司教は仕事を継続しました。1976年には司祭叙階予定者が13人になりました。その後、彼に対する圧力は強まり、叙階を行わないよう促されました。国務長官代理のモンシニョール・ベネリは、大司教に対して教皇の名で6月25日付の書簡を書き、「公会議の教会への」忠実さを要求しました。この「公会議の教会」(conciliar church)という表現は、この書簡に由来するものです。ルフェーブル大司教はこう述べました。「その教会とは何でしょうか? 私は『公会議の教会』など知りません、私はカトリックですから!この表現が意味する現実とは何だったのでしょうか?それは間違いなく、カトリックの精神とは異質で、キリストの神秘体の中にいるウイルスのような新しい精神です。第二バチカン公会議のあらゆる新奇なものを、疑うことを知らないカトリック信者に押し付けようとするものでした」。

大司教は、1976年6月29日の叙階式の説教で、こう説明しています。「もし、客観的に言って、私たちにこれらの叙階を行わないよう求める人々を動かしている真の動機を探し求めるならば、…それは、彼らが全時代のミサを唱えることができるように、私たちがこれらの司祭を叙階しているからです…それははっきりしています、エコンとローマの間のすべてのドラマが、ミサの問題にかかっていることは明らかです…実際、ローマから派遣された、私たちに儀式の変更を求める人々の主張が、まさに私たちを怪訝に思わせています。そして、このミサの新しい典礼は、新しい信仰を表現しており、まさに私たちの信仰ではない信仰、カトリックの信仰ではない信仰だという確信を持っています。この新しいミサは、新しい信仰の、近代主義の信仰の象徴であり、表現であり、かたどりなのです。

いとも聖なる教会が、聖ピオ五世によって列聖された聖なるミサの典礼という、教会が私たちに与えたこの貴重な宝を何世紀にもわたって守ろうと望んだとすれば、それは決して目的がなかったわけではありませんでした。それは、このミサの中に、私たちの信仰全体、すなわちカトリック信仰全体が含まれているからです。至聖なる三位一体への信仰、私たちの主イエズス・キリストの神性への信仰、私たちの主イエズス・キリストの贖いへの信仰、私たちの罪の贖いのために流れ出た私たちの主イエズス・キリストの御血への信仰、ミサの聖なるいけにえから私たちにもたらされ、十字架から私たちにもたらされ、すべての秘跡を通して私たちにもたらされる超自然の聖寵への信仰です。

これこそ、私たちの信じているものです。これこそ、私たちが、全時代のミサの聖なるいけにえを捧げるときに信じているものです。これこそ、信仰の教訓であると同時に、私たちの信仰の源泉であり、私たちの信仰があらゆる方面から攻撃されているこの時代の私たちにとって欠くことのできないものです。私たちには、私たちの霊魂を聖霊と私たちの主イエズス・キリストの強さで本当に満たすために、この真のミサが、この全時代のミサが、この私たちの主イエズス・キリストのいけにえが必要なのです。

さて、新しい典礼は、私がそう言えるとすれば、カトリックの宗教とは別の概念、すなわち別の宗教を仮定していることは明らかです。ミサの聖なるいけにえを捧げるのは、もはや司祭ではなく、集会なのです。さて、これがプログラムの全体、つまり全プログラムです。今後、教会の権威に取って代わるのは集会でもあります…ゆっくりと、しかし確実に、プロテスタントのミサの概念が聖なる教会に導入されているところなのです」。

7.最初の制裁

当時のメディアは、ルフェーブル大司教の事件を大きく取り上げていました。メディアは大司教の破門を推し進めていたようですが、1976年7月22日に聖職停止の処分が下されただけでした。このこと自体が、ルフェーブル大司教を当時から離教者であったと告発する人々に反論するものです。それが本当であれば【離教者であれば】、その時に与えられた罰は意味がないものになってしまいます。

その罰について、ルフェーブル大司教は次のように述べています。「それは、聖なるミサを捧げ、秘跡を授け、聖別された場所で説教するという、すべての司祭、さらにはすべての司教に固有の権利を私から奪っています。つまり、私は新しいミサを捧げ、新しい秘跡を授け、新しい教理を説教することを禁じられているのです」。

大司教はこの罰に従いませんでしたが、その理由は、その罰が聖ピオ十世会の廃止を前提としていたものであり、廃止は手続きの欠陥のために無効だったからです(上記の2回の不服申し立てを参照)。さらに、大司教は、基本的な自然の正義が欠如していると述べました。つまり、法廷はなく、正確な告発はなく、弁護の権利はなく、第三者の利益を損なっていた、などです。しかし、根本的には、超自然のレベルにおいては、聖ピオ十世会に対して取られた措置を動機づけていたのは、大司教が教会の教理的・典礼的聖伝に愛着を持っていたことと、新奇なものに反対してそれらを拒絶していたことでした。そのため、まさにその根底において、これらの措置は法的に無効であり、したがって存在しなかったのです。

1976年の叙階式に関するすべての報道は、御摂理的なものでした。不変のカトリック信仰に愛着を覚える世界中の多くの信者や司祭が、大司教の模範によって大いに励まされました。以前は、彼らにとって非常に暗い状況でした。年配の司祭たちによって行われる聖伝のミサは、その司祭たちが死んでいなくなれば、その後どうなるのでしょうか? しかし、その後、一人の司教がいて、自分たちのためにミサを守ってくれることになる若い司祭たちを訓練してくれていることを、彼らは知ったのです! 大司教は、彼らに希望を与えたのです。ここで、クローヴィス・アレウイの証言をご紹介したいと思います。彼は、ニューカレドニアの奥地に住むカナック族(グアラウイ町)の族長です。彼は1976年にルフェーブル大司教のことを聞きましたが、彼の反応はこうでした。「あの司教のどこが間違っているんだろうか? 彼は聖伝のミサを唱えているのだから、良い司教に間違いない!」。その後、ヌメアの司教座聖堂でスキャンダルがあった後(1980年頃)、彼はエコンに償いのミサを求める手紙を書き、その手紙の最後にこう記しました。「あなたは聖伝のミサを唱える司祭を養成なさっています、あなたは私たちの希望です!」。その頃までに、ルフェーブル大司教は、世界中から召命を受け入れていました。私は1976年10月にエコンに入学しましたが、19カ国もの国籍の人々がいました。神学校は満員でした。

このように、ルフェーブル大司教が、断罪【破門】されたように思われるときでも活動を続けた根本的な理由は、カトリック信仰への忠実さでした。自分のために聖伝を守るだけでなく、教会の多くの霊魂が信仰を守るのを助けるためだったのです! 大司教はこう書いています。「隷属的で盲目的な従順によって、教会を破壊する彼らの仕事に私たちを協力させたがっていた人々のゲームに、どうして私たちが協力できるというのでしょうか?…したがって、私たちは、何があってもカトリックの司祭職を復興させる私たちの活動を継続させるという固い決心を立てました。教会、教皇、司教、そして信者に、これにまさる奉仕はできないと確信しています」。

8.真の従順と偽りの従順

三大対神徳である信仰、希望、愛は、過剰になることはあり得ません。人は、啓示された真理を固守しすぎることも、天主の御助けを信頼しすぎることも、天主を愛しすぎることもあり得ません。他のすべての徳は道徳的な徳であり、それらの徳は不足と過剰の間の適切な度合いにあります。剛毅の不足(弱さ)があったり、剛毅の過剰(暴力や軽率さ)があったりすることはあり得ます。このことは、特に従順の徳に当てはまります。真の従順の徳は、合法的な命令を実行しない不従順という不足と、違法な命令に従う隷属という過剰の間の適切な度合いにあります。隷属の典型例は、聖なる幼子を殺害した兵士たちです。

聖トマスは、この問題を明確に取り扱っています。「目下はすべてのことにおいて長上に従う義務があるか」。彼は明確に「いいえ!」と答えています。「こう書かれている(使徒行録5章29節)。『私たちは人よりも天主に従うべきである』。さて、時には、長上によって命じられたことが、天主に反することもある。それゆえ、すべてのことで長上に従うべきというわけではない」。そして、こう説明しています。「目下がすべてのことにおいて長上に従わなければならないとは限らない理由が二つある。第一に、さらに高い権力者の命令を理由にする場合。第二に、目下は、長上が自分を権限の下に置いている範囲以外のことをするように命じた場合。その時、長上に従う義務はない」。

さて、教会においては、すべての権威は、一つの目的にために、キリストから来ています。「主が滅ぼすためではなく建てるために私に賜うた権威」(コリント後書13章10節)、「聖徒たち、聖職の働きのためキリストの体を建てるために整え」(エフェゾ4章12節)るためです。これは、聖パウロの書簡の中で16回出てくるテーマです。さて、この建てること(edification)がどのようにもたらされるかは、それぞれの教皇の恣意的な気まぐれによるものではありません。それは、信仰によって建てること(エフェゾ4章29節)と愛によって建てること(エフェゾ4章16節)です。ブニーニがその通達で行っていたように、また現在、「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)が行っているように、聖伝のラテン語ミサを徹底的に破壊しようとする努力は、確かに「建てるため」ではなく、むしろ「滅ぼすため」であり、したがってそれは、いかに高いものであっても、キリストによって与えられた教会の権威の目的そのものに反しています。したがって、それは何の拘束力も持ちません。

聖ピオ十世会で行っていることは、何世紀にもわたって、すべての良き司祭が行うことを許されてきただけでなく、要求されてきたことです。教皇ベネディクト十六世の言葉で言えば、「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。わたしたちは皆、教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与えなければなりません」。

司祭がそれを行うことは、たとえ司教から禁じられているとしても、不従順ではありません。なぜなら、司教の権威が与えられているのは「滅ぼすためではな」いからです。司教が司祭を育成し、司祭を叙階することによって、ミサの将来に備えることは、たとえ教皇に禁じられているとしても(他にそれを行う司教がいない場合)、不従順ではありません。なぜなら、教皇の権威でさえ、キリストから来る目的があり、その目的は「滅ぼすためではなく建てるために」であるからです。

【参考】教皇ベネディクト十六世の全世界の司教への手紙-1970年の改革以前のローマ典礼の使用に関する「自発教令」の発表にあたって(カトリック中央協議会)

ルフェーブル大司教は、しばしばこう述べていました。「誰も私たちのカトリック信仰を弱めるよう命じることはできません!」。そうすることは、教会の権威の目的そのものに真っ向から反することになります。カトリックの信仰は、最新の公会議の神学者たちが気まぐれに作り上げて変更できるものではなく、むしろキリストと使徒たちに由来し、何世紀にもわたって私たちに伝えられてきたもの、つまりカトリックの聖伝なのです。

9.権威の所有と権威の行使

従順は、不足を避け、かつ過剰を避けるという同じ徳に属するものです。それゆえ、聖ピオ十世会の廃止に対するルフェーブル大司教の抵抗もまた、真の従順の徳の行為なのです。

特定の命令を遵守することは、権威の行使に応えるものです。もしある命令が悪であるならば、そのような命令は、権威の適切な行使というよりも権威の濫用であり、権威そのものは善のままです。それゆえ、そのような命令に抵抗することは、権威そのものへの服従、すなわち、権威から来るあらゆる正当な命令に従う意志の用意があることと共存することは、十分に可能です。

命令に従う場合であっても、自分の意志に従う者(それが自分を喜ばせるがゆえに)と、より高い権威への従順、究極的には天主への従順から、権威の濫用に抵抗しつつ、あらゆる正当な命令に従う用意のある者との間には、大きな違いがあります。前者は、従ったものの本当は従順ではなく、後者は、従わなかったものの本当は従順なのです。近代主義者たちがその変更に従ったのは、従順からではなく、この変更が自分たちの望むものであったからこそです。彼らは、本当は従順ではなかったのです。しかし、これらの変更に抵抗したルフェーブル大司教は、天主というより高い権威への従順から、権威の濫用に抵抗するという従順の徳を、まさに実践していたのです。大司教はこう言っていました。「サタンの熟練の技は、従順の名の下に、多くの人々を聖伝への不従順へと至らせることでした」。

10.教会との一致に必要なものとは何か?

すべてのカトリック神学者は、教皇の特定の命令に抵抗しても(たとえ正当な命令であっても)、教会との交わりを断ち切ることはないと認めています。聖トマスは、離教についての非常に正確な定義を与えています。「離教者とは、教皇に服従すること、かつ、教皇の至高性を認める教会の成員との交わりを保持することを拒否する者である」。服従を拒否することは、教皇の命令する権利を認めないことを意味します。ルフェーブル大司教は、そのこと【教皇の命令する権利を認めないこと】を完全に拒否しました。大司教は、実践上の命令(例えば、神学校を閉鎖すること)には疑問を呈しましたが、教皇の命令する権利には決して疑問を呈しませんでした。大司教は、権威の所有ではなく、権威の行使に疑問を呈し、いかなる正当な命令にも従うという意志の用意を常に維持していました。ピオ十二世の下でだけでなく、パウロ六世やヨハネ・パウロ二世の下でさえも、大司教の理想は「教皇に仕える」ことでした。ですから、1974年の宣言の中で、大司教はこう言っているのです。

「このため、私たちは、いかなる反抗心も皮肉も恨みもなく、時を超えた教導権を私たちの指針として、司祭を育成するという仕事を追求するのです。私たちは、聖なるカトリック教会、教皇、そして後世に対して、これ以上の奉仕をすることはできないと確信しています」。

これは離教者の言葉ではありません! 大司教の立場を特別なものにしているのは、第二バチカン公会議と公会議後の改革による教会の危機の中で、ローマ教皇庁と教皇自身によって推し進められている新しい方向性が存在する、ということです。それは、神学、典礼、カトリック以外の宗教との関係、この世との関係(キリストの社会的王権の否定。コロンビアなどの国に対して、カトリック国であるとする憲法の第一条を取り去るように求めたのは、教皇パウロ六世自身でした!)において、聖伝に反する方向性です。その新しい方向性は、公会議終了時の教皇パウロ六世の演説の中に、非常に明確に表れています。

「恐ろしい反聖職者的な実態を明らかにした世俗的な人間中心主義は、ある意味で公会議に反抗しています。"人間となった天主"の宗教は、『自らを天主とする人間』の宗教(なぜならこれも宗教のひとつですから)と出会いました。何が起こったのでしょうか。衝突でしょうか。紛争でしょうか。排斥でしょうか。これらが起こり得ました。しかし、これらはありませんでした。…限りない好感が公会議全体を侵略しました。人間の必要を発見し(そしてこの地上の子がますます自分を偉大とするに従って、この必要はますます大きくなるのです)それが私たちの公会議の注意をまったく奪い取りました。現代の人間中心主義者である皆さんも、少なくともこの功績を公会議に認めてください。あなた方は最高の諸現実の超越性を放棄していますが、私たちの新しい人間中心主義を認めることを知りなさい。私たちも、誰にもまして人間を礼拝するものなのです。」【参考】パウロ六世の言葉

パウロ六世が本当に善きサマリア人の精神を持っていたならば、現代人を礼拝するのではなく、治療したはずです。キリストの御血(善きサマリア人のぶどう酒が意味するもの)を、キリストのいけにえの御血を、人間の傷に注いで治療し、回心を促して教会に導いたはずですが、そうはしませんでした。その演説には、十字架については一言もないのです。

それゆえ、教会の聖伝の活動を継続して行うことで、ルフェーブル大司教は、いくつかの個々の濫用的な命令だけでなく、この新しい方向性全体に抵抗するようになりました。すると、ルフェーブル大司教の前に壁が立ちはだかりました。大司教の反論は――【新しく押し付けられている】新奇なものについては無視して――「従順」の名のもとに一蹴されたのです。ラッツィンガー枢機卿の要請で、大司教はローマに一セットの「疑問点」(Dubia)を提出しました。1987年、大司教は回答を受け取りましたが、それは基本的に全く回答になっておらず、ただ一つの主張つまり「従順」があっただけでした。ルフェーブル大司教の回答は単純で、教皇の権力に関する第一バチカン公会議の教義憲章を思い起こさせることでした。「聖霊がペトロの後継者に約束したのは、聖霊の啓示によって新しい教義を知らせるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を信心深く守り、忠実に説明するためである」。この聖霊の援助は、教皇の一つ一つの行為が信仰の遺産の忠実な説明であることを保証するという「自動的」なものではなく、教皇の協力を必要とします。ですから、教皇が新奇なものを推進するとき、それは聖霊の働きではありません。教皇ヨハネ・パウロ二世でさえ、第二バチカン公会議には新奇なものがあると認めているのです。

第二バチカン公会議と公会議後の改革がいかに新しいものであるかを、単に知らない人々がいます。これらの新奇なものは「連続性の中に」あって「連続性の解釈法」を推進する、と主張する人々もいます。しかし、真実は、時には直接的な矛盾があるものの、ほとんどの場合、完全な方向転換なのです。それは、「人間の方への」方向の転換、教皇パウロ六世自身が言ったように、すべてが人間中心となっており、このことは、新しい典礼の中に明白に現れています。

カトリックの聖伝への忠実さから、これらの新奇なものを拒絶することは、教会の交わりからの断絶でないのは確実です! もし断絶があるとすれば、それは方向を転換した人々の側、キリストの神秘体の中の霊魂たちに非常に大きな損害を与える新奇なものを導入した人々の側です。分裂は、忠実さの、全時代の信仰・全時代の典礼・諸聖人の模範への忠実さの結果ではありません。

11.教会の一致とは何か?

教会との交わりを、教皇への従順に矮小化する傾向のある人々がいます。これは確実に、カトリックの教理からかけ離れています。

聖トマスは神学大全の単一の問題で教会について語り、教会のかしらとしてのキリストを語っています(第III部 第8問題 第3項目 異論第2への回答を参照)。彼の教えによれば、教会の一致とは、キリストとの一致、キリストの神秘体の一致であり、また、それ【教会の一致】は成聖の聖寵(ここ地上では信仰、希望、愛、そして天国では栄光)によるものです。しかし、別の教会博士の聖ロベルト・ベラルミーノは、教会に関する代表作の中で、教会をこう定義しています。

「われわれの定義はこうである。二つの教会ではなく、唯一の教会があり、この唯一にして真の教会とは、同じキリスト教の信仰を告白し、同じ秘跡の交わりによって結びついた人間の集まりであり、正当な牧者たちの統治、特に地上でのキリストの唯一の代理人であるローマ教皇の統治の下にあるものである。したがって、この定義には三つの部分がある。つまり、真の信仰の告白、秘跡の交わり、正当な牧者であるローマ教皇への服従である」。

これら二人の聖人にして博士は、互いに対立するどころか、互いに補完し合っています。人間は肉体と霊魂から成り立っているため、内的な一致と外的な一致があります。それは、霊魂を一致させる肉体ではなく、肉体を一致させる霊魂であり、そのため、二つのレベルがあります。教会の内的な一致は、間違いなく、さらに重要であり、もう一つの一致の原因です。この内的な一致において、霊魂の生命そのものがあり、「愛に根ざし、愛に基を置くあなたたちの心に、信仰によってキリストが住まわれ」(エフェゾ3章17節)、「私は生きているが、…私を愛し、私のためにご自身をわたされた天主の子への信仰の中に生きている」」(ガラツィア2章20節)。天主への愛が私たちの隣人の上に溢れるように、キリストとの一致の絆は、キリストの神秘体のすべての成員に及ぶのです。

内的な信仰の徳が、いかに信仰の告白につながるかを容易に理解することができます。「『私は信じた。だから話した』と書き記されているとおり、私たちも同じ信仰の精神をもって信じ、そして話している」(コリント後書4章13節)。

内的な希望の徳は、祈り(つまり礼拝)につながり、また、天国へ行くための助けを得るための秘跡を受けること、つまり秘跡の交わりにつながります。

愛の徳は、従順につながります。「あなたたちは私を愛するなら、私の掟を守るだろう」(ヨハネ14章15節)。「私の掟を保ち、それを守る者こそ、私を愛する者である」(ヨハネ14章21節)。キリストへの従順は、天主の民を支配するためにキリストによって任命された人々への従順につながります。しかし、その従順は、聖ヨハネが書いているように、常に聖伝への忠実さの中にあります。「愛は掟に従って歩むことにある。あなたたちは初めから聞いたとおり、掟に従って歩まねばならぬ」(ヨハネ第二書1章6節)。「あなたたちは、初めから聞いたことにとどまれ。初めから聞いたことにとどまるなら、あなたたちは、御父と御子の中にとどまる」(ヨハネ第一書2章24節)。

信仰の優先順位に注目することは重要です。信仰は、まさに第一の内的な絆であり、唯一の真の信仰の表明は、第一の外的な絆です。教会の一致の中心としての教皇の重要性は、私たちの主イエズス・キリストが教皇に、兄弟たちを信仰において固める義務を与えたという、まさにその事実に由来します。信仰を二次的なものとして脇に置くことはできません。

したがって、三重の内的な絆は三重の外的な絆に対応し、内的な絆は外的な絆の源であり霊魂です。三つの内的な絆に三つの外的な絆を加えれば、教会の一致には六つの要素があることになります。この六つの要素のうち、最も重要なもの、それがなければ救いがないものは、愛なのです。天主への超自然の愛は天主への超自然の知識の後に来るため、信仰のない愛はあり得ませんが、愛のない信仰は死んでおり、救いのためには不十分です。また、愛のない外的な一致も、何の価値もありません(コリント前書13章1-3節)。「愛は完徳のかなめ【絆】である」(コロサイ3章14節)。

さて、いくつか要素が欠如していたらどうなるのでしょうか? 教会(凱旋の教会ではなく戦闘の教会)の内には義人と罪人が混在しているというのが(ドナトゥス派に対抗する)信仰の教義です。したがって、教会との絆を(完全に)断ち切ることなく、愛が欠如することさえあります。絆は確かに傷つき、不完全ですが、それでも残っています。また、水の洗礼がない場合、血の洗礼や望みの洗礼によって救われることがあるというのが教会の一致した教えであり、それらは秘跡でないにもかかわらず、教会との真の絆を生み出します(殉教者は超自然の愛の行いと信仰告白を所有しています。求道者も愛の中におり、洗礼を待つという教会への従順の行いを所有しています)。

聖ロベルト・ベラルミーノ自身、第三の要素である正当な牧者への服従が欠落している例を挙げています。

もしも受けた破門が不当であったなら、破門された人が、洗礼、信仰告白、正当な高位聖職者への服従を保持し、その結果、天主の友であり得ます、また、破門された者が赦免を受ける前に悔悛し、上記の三つ(洗礼、信仰告白、従順)を保持し直すこともあり、そうすれば、まだ破門されたままでも、教会にいることになります。このような人は、霊魂によって、すなわち欲求によって、教会にいるのであって――これが救いのためには十分である――、まだ体によって、つまり外的な交わりによって、教会にいる――これが固有の意味で言えば地上の目に見える教会の成員とする――のではない、と私は答えます。

実際、「正当な牧者への服従」には二つの側面があると考えるべきでしょう。それは、目下による長上の認識と長上による目下の認識です。前者は絶対に必要です。実際、教皇を最高位と認めることを拒否することは、聖トマスが説明しているように、まさに離教の罪です。しかし、後者は、目下ではなく、長上の過失によって欠けることがあります。典型的な例は、コーション司教による聖ジャンヌ・ダルクの破門です。目に見える形では、彼女は【神秘体の】外にいましたが、実際にはキリストの神秘体である教会と非常によく一致していたのです。

聖アウグスティヌスは「真の宗教について」(De vera religione)6.11の中でこう書いています。

「時には、天主の御摂理は、良き人々であっても、肉欲的な人々の側からの乱れや不和の発生によって、キリスト教共同体から追放されることを許すであろう。彼らが教会の平和のためにこのような侮辱や傷害を我慢するという無尽蔵の忍耐を示し、離教や異端という方法で新奇なことを企てないならば、彼らは私たちが天主に仕えるべき心からの忠誠と本物の愛を私たち全員に教えてくれるであろう。したがって、このような人々の意図は、嵐が鎮まれば、自分の帰るべき道を見つけるだろうことは確実である。しかし、もし、それが許されないならば(同じ嵐が続いているので、あるいは、彼らが戻ってきたらさらに野蛮な嵐が始まったりするので)、彼らは、扇動や問題を起こした人々の利益さえも喜んで考え続けるだろうし、自分自身の分離した団体集会を立ち上げるなどはせず、彼らが知っているカトリック教会で宣言されている同じ信仰を自分たちの証言によって擁護し、支援するのを続けるであろう。『隠れたことを見られる父』(マテオ6章4節)は、隠れてこれらの人々に冠を授けられるであろう。このような人々はめったに見られないが、それでも、その例は欠けることはない。実際、あなたたちが想像する以上にたくさんいる。このように、天主の御摂理は、霊魂を癒やすために、霊的な人々を確立するために、あらゆる種類の男女とその模範を利用する」。

もし彼らが「御父によって冠を授けられる」とすれば、それは彼らがキリストの神秘体の中にいるからです(そうでなければ、「教会の外に救いなし」[extra Ecclesiam nulla salus]を否定することになります)。彼らは内なる絆を持ち、第三の半分を除く外的な絆を持っています。彼らは、その長上によって認可を(不当に)拒否されているのです。

聖ピオ十世会については、私たちには、少なくとも最初の五つと、目下の長上への服従があることは明らかです。長上による目下の認可については、聖ピオ十世会全体について明確な宣言はありません。1988年の罰は、もしそれが有効ならば、せいぜい聖別した司教2人と聖別された司教4人に適用されるだけです。なぜなら、「不利なものは厳格に適用されるべし」(odibilia sunt restringenda)――不利な要素は厳格に解釈すべきであり、すべての人に適用されるものではないからです! 私が、もしそれが有効であったならと言うのは、教会法自体が、必要な場合、少なくとも主観的な場合には、自動的に罰せられることはないと言っているからです。ヨハネ・パウロ二世は特別な罰則を課したわけではなく、単に教会法が適用されると言っただけであるため、教会法を適用するなら罰則はないのです!

結論。聖ピオ十世会はカトリック教会の中にあります。私たちにとって欠如しているのは、正規の教会法上の立場ですが、その欠如は私たちの責任ではありません(私たちは確実に、聖ピオ十世会の元の見かけ上の廃止を決して望んでいませんでした)。私たちはその立場が修正されることを望んでいますが、信仰を犠牲にはしません。正規の教会法上の立場が欠如していることは、私たちを教会の外に追いやるものではありません。なぜなら、その立場の欠如は、権威を認めることの拒否を意味するわけではないからです。法は秩序を定め、秩序は善です。教会の使命は秩序あるものであるべきであり、それゆえ、それは教会法によって支配されているのです。今日、近代主義の嵐のために無秩序がありますが、それは教会と聖ピオ十世会の絆を壊すものではありません。

12.さらなる反論:要求される「教会法上の派遣(missio canonica)」についてはどうか?

私たちは皆、あらゆるレベルの聖職者において、教会の仕事が秩序正しく行われるように、教会法上の派遣(missio canonica)が必要であることを認めています。しかし、そのような missio (派遣・使命) にはさまざまな種類があります。

例えば、司教が助任司祭に告解を聴くことや特定の司祭としての仕事のために与える「ab homine 人からの」派遣(使命)があります。

「ab officio 職務からの」という派遣(使命)があります。例えば、司祭を主任司祭に任命することは、主任司祭のすべての義務とそれに必要な権限を含んでいます。これは、典型的な司教区の司教の使命です。ある司教区に司教を任命することで、教皇はその教区の羊たちの世話をする使命と、それに伴うすべての権限を与えます。教皇は、これらの権限の一部を制限する権利(例えば、留保された罪)を持っていますが、教区司教の職務と義務の本質そのものは教皇がつくったものではなく、むしろこれらの義務(完全な信仰を教える責任、聖伝に忠実な礼拝と秘跡を与えることなど)を確立したのは、私たちの主なのです。教皇は、教会の基本構造(constitution)を変更する権利を持ってはいません。

しかし、「a iure 法によって」の派遣(使命)と呼べるような場合も存在します。教会法が明確に想定しているのは、通常の裁治権または派遣(使命)を持たない司祭が、信者の何らかの必要性に直面していて、霊魂の救いが最高の法であるがために教会法が司祭に派遣(使命)を与えるという、ある種の場合です。なぜそれが可能なのでしょうか? (1)このような場合、裁治権は必要ないのでしょうか? あるいは、(2)法そのものが裁治権を与えるのでしょうか、あるいは、(3)教皇が教会法を認可することで裁治権を与えるのでしょうか、あるいは、(4)キリストがすべての仲介者を迂回して、御自ら裁治権を与えられるのでしょうか? 教会法自体は、このことがどのように起こるかについての問題を解決していませんが、間違いなく、裁治権が与えられる(これは、「ad casum その個々の特別な場合のため」という或る教会法上の派遣を意味します)と述べています。また、この裁治権または派遣(使命)は、教皇のパーソナルな行為なしに与えられることも明らかです。これはある人々が主張する、天主の法による規定として、教会法上の派遣のためには教皇の明確な意志が要求される、との説を論駁するものです。

この説明の中で、最高のものは第三のものと思われます。つまり、教会法を認可することにより、また、教皇として存在するという意志そのものにより、従って、それほど高められた身分に応じた義務を果たすという意志により、教皇は、そのような場合のための教会法上の派遣(missio canonica)と裁治権を与える、という説明です。教皇は、それぞれの場合を知る必要はなく、特定の場合に同意さえしないかもしれませんが、キリストの群れの善のために世話をするという義務は、霊魂の救いのために必要なものを与えるよう教皇に義務づけているため、教皇は、そのような教会法上の派遣を与えることを望んでいるとみなすことができます。例えば、ヴォイティワ枢機卿【後のヨハネ・パウロ二世】は、カザローリ枢機卿とチェコの共産主義政府との間の【チェコ人を司祭に叙階しないという】合意にもかかわらず、チェコの司祭たちを叙階したことが記録されています。このような場合、たとえ教皇パウロ六世が、これらの叙階を認可しなかったとしても、ヴォイティワ枢機卿は霊魂たちのために行動し、そのような教会法上の派遣を帯びていたのです。しかし、それは法の文言の中にあるのではなく、法の原理から出て来るものです。

実際、聖トマス・アクィナスは、賢明の徳には八つの「不可欠な部分」があると説明しています。そのうちの一つは「intellectus――知性」、つまり、行動を正しく導くために必要とする適切な原理を理解することです。神学校で、ルフェーブル大司教がこの原理を説明していたのを私は覚えています。大司教は、教会法の文言から、教会の法を導く原理を引き出し、何よりも霊魂の救い(salus animarum)が最高の法であると説明しました。

「あなたの言う状況は法の文言の中にはありません」と反論する人々もいます。しかし、教会の現在の状況は、公会議と公会議後の改革による新奇なものと新しい方針のために、新しい状況でもあります。教会の精神に忠実にとどまるためには、法の原理を考慮する必要があります。「文字は殺し、霊は生かす」(コリント後書3章6節)。教会の精神が善きサマリア人を模範としているのは確実であり、それは傷ついた霊魂たちの命のためです。

《追記》教会法の通常の文言の外に、教会法上の派遣(法的身分)または裁治権が存在し得ることは、教皇フランシスコが聖ピオ十世会に告解の裁治権を与えたというまさにその事実によって、簡単に証明できます。これは、通常の教会法には当てはまらない方法です!

13.婚姻裁判所とは何か?

聖ピオ十世会には、教会の裁判所はありません(教皇から委任された案件を除く)。婚姻裁判所とは、厳密には通常の裁判所ではありません。裁判所においては、裁判官は当事者に罰則やその他の義務を課す権限を持っていますが、そのような権限を持つためには、当事者に対する正規の権限を持つ必要性があるからです。しかし、結婚の裁判所は、単に客観的な真実についての問題を判断するのであって、いかなる罰則も新たな義務も課すことはありません。結婚の裁判所は、ある特定の婚姻の儀式が有効な婚姻だったか否かを判断するだけです。ここで、権威が判断の真実性【判断が正しいか否か】に影響を及ぼすのではなく、誰にそのような判断を下す責任があるかだけです。

聖ピオ十世会の婚姻裁判所をもたらしたものは、公会議後に婚姻無効の数が大幅に増加したことです。そのため、婚姻無効の判決を「カトリック的離婚」と呼ぶ人もいるほどでした。なぜ、このようなことが起こったのでしょうか? これらの婚姻無効の多くは、「あるべき慎重さに欠けていたため」という事由で許可されました。

教会法の条文の第1095条第2項にはこう書かれています。「(以下に掲げる者は、婚姻契約を締結する能力を有しない。)相互に授受さるべき婚姻上の本質的権利及び義務に関する判断力に重大な欠陥を有する者」。

しかし、この曖昧な「判断力に重大な欠陥」を広く適用すると、結婚が軽率であった場合、しばしば無効と判断されることになります。裁判官の中には、普通の夫婦が何年も結婚生活を続けてもほとんど達成できないような成熟度を、結婚前に実質的に要求した者もいました。その結果、多くの信者が混乱しました。結婚が離婚に終わって、「婚姻の無効判断を受ければいいんだよ!」と言われた人々もいました。しかし、彼らの良心はこれを疑問に思いました。彼らは、結婚したとき、結婚したかったからこそ、必要だったことを本当にしたんだということを思い出したのです。婚姻無効となった後に聖伝を知った人々の中には、再婚が有効かどうか疑問に思う人もいました。婚姻無効を受けたとき、彼らの良心は、それほど明確ではなかったのです。

今、困難な状況が要求している犠牲を払うためには、例えば、合法的な配偶者に捨てられた場合、確固とした確証が必要であり、疑いやためらいは、これらの犠牲を払う勇気を失わせがちです。多くの信者が、このような婚姻無効の問題に関して、地元の聖職者を信頼できなかったことに気づき、私たちのところにやって来て、こう尋ねました。「私の結婚は有効だったのでしょうか?」「私の婚姻無効は有効だったのでしょうか?」「私の再婚は有効なのでしょうか?」と。

そのような問題は、事実の問題にすぎません。司祭は、この問題について個人的な意見を述べることができますが、そのような意見はあまり重みを持たず、真の良心の平和を得るために必要な確証を確立したり、一人でいなければならない場合に必要な犠牲を払ったりするのに十分なものではありません。実際、常に、言いなるになる司祭を探すこともできます…常に見つけることも可能でしょう――しかし、その場合、良心は安心してはいられないでしょう。

通常の状況であれば、これは婚姻裁判所の目的そのものです。司教が裁判官を選ぶために取るべき、また裁判所が法の適切な予防措置に従うことを確実にすべき努力が、判決が信頼できるものであるという保証を提供します。しかし、先に説明したように、公会議後の多くの裁判官の新しい態度は、このような婚姻裁判所をもはや信頼できないものにしてしまいました。

多くの婚姻裁判所に信頼性がないことによって深く影響を受けた信者の必要を満たすことは、信者に対するいかなる権威をも主張することではなく、むしろ、善きサマリア人のように、傷ついた霊魂の世話をすることです。良い裁判官を注意深く選び、教会が伝統的に要求する通常のプロセスを提供することによって、私たちは、信者が良心の平和と、時には(配偶者に捨てられたときなど)犠牲の人生を送る勇気を見いだすことができる信頼ある判決を提供することができるのです。

14.ルフェーブル大司教を異端と告発する人々がいる

この告発はあまりに信じがたいため、最後に残しました。その告発の理由は、1989年に定められた信仰告白を拒否することにより、ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会は異端者になっているというものです。

このような告発をする人々は、深刻な信仰の危機があることに気づいていないように思えます。この危機においては、あらゆる教義が、非常に多くの現代の神学者によって再解釈され、それによって、しばしばその意味が完全に無となっています。たとえば、原罪の教義が、しばしば彼らの再解釈の標的となります。実際、彼らは進化論を信じているため、最初の男アダムと最初の女エワが存在したとは信じていません。彼らが原罪をどのように考えて解釈し直すのか、それは皆さんがお考えください。言うまでもなく、それは、聖パウロが教えたこと、そして聖パウロ以後のすべてのカトリックの聖伝とはほとんど関係ありません。聖伝は、「一人の人によって罪が世に入り、また罪によって死が世に入って、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に及んだように(一人の人によって救いが行われた)」(ローマ5章12節)。

このような信仰の危機は、第二バチカン公会議自体の中に見られる新奇なものと、公会議が取った新しい方向性に部分的に起因しているものです。ところでこの危機を考慮すると、新しい信仰告白の危険性は、その最後の段落の中にあります。明らかなことですが、信経を受け入れることと、不可謬の(ex-cathedra)の教導権の明確な教えと、通常および普遍的な教導権の明確な教えを扱う最初の二つのパラグラフを受け入れることには、何の問題もありません。しかし、この第三のパラグラフは、私たちが受け入れている普遍的で通常の教導権による非定義的な教理と、私たちが受け入れることのできない第二バチカン公会議による、公会議後の司教たちによる新奇なものを、「真正な」教導権という名前の下で一緒にしているのです。第三パラグラフは、このような教えを支配すべき基準、すなわち、聖伝との適合性をまったく考慮していません。

定義された教会の教導権は絶対的な同意を必要とし、定義されていない教導権は絶対的な同意を必要としません。それ【定義されていない教導権】が要求するのは宗教的な同意であり、これは絶対的ではありません。つまり、教えられた教義が新しく、過去の変わらない教理と対立する場合、同意を保留しなければならないという可能性を取り除くことはありません。

この新しい信仰告白は、第二バチカン公会議の新奇性という事実を基本的に無視しており、その新奇性があたかも完全にカトリック的であるかのように、すべての人にそれをのみ込ませようと望んでいます。

私たちがこの第三パラグラフの不正確さを拒否するのは、不変のカトリック信仰に対する真の忠実さからです。

15.最後のポイント:ルフェーブル大司教の行動を正当化するのに奇跡は必要か?

異論はこう言います。「役務者が特別な使命を持っていることを証明するために、教会は常に、その役務者に奇跡を起こすように要求してきた」。これは、例えばルルドやファチマにも当てはまります。ベルナデッタや3人の子どもたちは、幻視とメッセージを得ていると主張しました。教会当局は、正しく奇跡を求め、奇跡は両方のケースで現れ、その結果、幻視とメッセージの両方を本物だと認証しました。

しかし、これは普遍的な原理ではありません。例えば、確実に特別な使命を持っていた聖ジャンヌ・ダルクが、王子(dauphin)のもとに行ってオルレアンのための軍隊の派遣を求めたとき、王子は、彼女をポワチエ大学の神学博士たちに調べさせただけでした。その結果、彼女の信仰と道徳が健全であることが分かりました。博士たちが「天主が勝利を与えようとお望みであれば、兵士は必要ない」と問うたとき、彼女はただこう答えました。「兵士は戦い、天主が勝利を与え給う」と。歴史の流れを変えたオルレアンの勝利は奇跡ではなく、天主は通常の二次的な原因【兵士】を迂回されることなく、むしろ望ましい結果になるようにそれを動かされたのです。

しかし、ルフェーブル大司教の場合は全く違います。大司教には特別な使命はありませんでした。大司教は【エコンの】神学校に、自分に対して好意的だったり反対だったりして接触してきていた幻視者たちに引っかからなかった理由を説明してくれました。大司教の説明はこうです。「私たちの信仰は、天主である私たちの主イエズス・キリストの証言に基づいており、その教えは、カトリックの聖伝を通して忠実に伝えられることによって私たちに届くものです。私たちが天主と直接つながる必要があるとしてしまうのは、信仰についての間違った概念です。そうすることは、教会を迂回することになってしまい、結果として、私たちの主が確立されたことに反することになります。私たちが、私たちの主イエズス・キリストの賜物、教理、秘跡を受けるのは、教会において、何世紀にもわたる忠実な伝達を通じてなのです」と。

このように、大司教の摂理的使命は、まさに聖伝に忠実であるという使命でしたから、大司教がそれを奇跡で迂回しなかったのは適切でした(奇跡による迂回であったのならば。それは私たちにとってあまりにも簡単なことだったでしょう…)。

悲しみの聖母に対する祈り:めでたし、苦しみに充ち満てるマリア、十字架に付けられたもうた主御身とともにまします。

2023年02月21日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちがいつも唱えている「天使祝詞」Ave Maria にヒントを得た悲しみの聖母に対する祈りがあることを最近教えてもらいました。

普通の天使祝詞は次の通りです。

AVE MARIA, gratia plena, Dominus tecum. Benedicta tu in mulieribus, et benedictus fructus ventris tui, Iesus. Sancta Maria, Mater Dei, ora pro nobis peccatoribus, nunc, et in hora mortis nostrae. Amen.

【天使祝詞】めでたし、聖寵充ち満てるマリア、 主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン

これを普通の白い鍵盤だとすると、黒い鍵盤の単調のような、悲しみの聖母に対する祈りがあります。聖ボナヴェントゥーラが作ったと言われています。教皇ピオ九世は、1847年に100日の贖宥を与えました。

Ave Maria, doloribus plena! Crucifixus tecum: lacrymabilis Tu in mulieribus, et lacrimabilis fructus ventris tui Iesus. Sancta Maria, Mater Crucifixi: lacrymas impertire nobis crucifixoribus filii tui, nunc et in hora mortis nostrae. Amen.

めでたし、苦しみに充ち満てるマリア、十字架に付けられたもうた主御身とともにまします。
御身は女のうちにて涙せられ、御胎内の御子イエズスも涙せられたもう。十字架に付けられたもうた主の御母聖マリア、御子を十字架に付けるわれらのために、今も臨終のときも涙を祈り求め給え。アーメン。

明日は灰の水曜日です。良い四旬節をお過ごしください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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