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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会 日本における3月の聖伝のミサ報告(その2)SSPX Japan Traditional Latin Mass

2016年03月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖週間に入っております。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 先日の3月13日の主日と14日の月曜日には、大阪でレネー神父様が聖伝のミサを捧げてくださいました。

 3月18日には、愛する兄弟姉妹の皆様のしもべが、大阪で聖伝のミサを捧げ、ミサの後には十字架の道行きを皆さんとしました。

 3月19日の聖ヨゼフの祝日には、新しい聖ヨゼフの祭服を着けて、聖ヨゼフのミサを捧げその後、聖ピオ十世会を聖ヨゼフに対する奉献を更新しました。ミサ聖祭は歌ミサで、大阪の聖歌隊の皆さんが大変すばらしく歌ってくださいました。特に Te, Joseph, celebrent agmina caelitum は、ミサを捧げながら聞いていて大変美しく思いました。

 聖ヨゼフ様のお言葉は、聖書に載っていませんが、イエズス様についての深い神秘をご存じだったに違いありません。マリア様の挨拶の言葉を聞くやいなや、聖エリザベトが聖霊によって聖母マリアが天主の御母であることを知ったのなら、マリア様の挨拶の言葉で、胎内にいた洗者聖ヨハネが罪から清められたのなら、老シメオンが救い主を是非一目見てから死にたいと祈り求めていたのなら、女預言者であるアンナが祈りと断食をして何年も救い主を待ち望んでいたのなら、マリア様のお声をいつも聞き、イエズス様と毎日暮らしていた聖ヨゼフは、どれほど恵まれていたことでしょうか!グァダルーペの聖母マリア様の歌声を聞いたフアン・ディエゴはその声はとても美しかったと証言しています。ルルドの聖ベルナデッタも、秋田のシスター笹川も、聖母マリア様の天使のような天上の美しい声に感動しています。聖母マリア様は、聖ヨゼフのために、私たちの知らない天主様の神秘の歌をお作りになりお歌いになったことでしょう!「我が魂、主をあがめ奉る!マニフィカット!」は、私たちは知っています。しかし、聖霊はもっと多くのもっと美しい歌の数々を息吹いて聖家族だけが知る歌をマリア様がお歌いになったことでしょう!アシジの聖フランシスコは、天使の歌を一度だけ聴いたことがあります。そのとき、喜びのあまり死んでしまうと思うほどでした。聖ヨゼフは、天使の元后なる聖母マリア様の歌声を聞きどれほど幸せだったことでしょうか!いつも目には涙をたたえ、心は天にまであげられていたことでしょう。

 ミサ聖祭の帰りがけに、いったい何故聖ヨゼフはマリア様のようにイエズス・キリストの受難を共にしなかったのか?という質問を受けました。無原罪の聖母と聖ヨゼフ、イエズス・キリストが、いわば地上の三位一体として共に苦しむこともあり得たのに、何故そうならなかったのか? そうしたら聖ヨゼフの功徳はますます高まったのではないか?と。

 これは大変鋭い質問だと思いました。私の考えでは、もしも聖ヨゼフがまだご存命だったら、イエズス様は聖母を聖ヨハネに(そして私たちに)与えることをしなかっただろうから、聖母マリア様を私たちに御母としてくださるためにも、聖ヨゼフは御受難の前にお亡くなりになったのでしょう。また、イエズス様と聖母マリア様との御手の内に亡くなった聖ヨゼフを、私たちにとって聖なる死の守護者とするために、イエズス様の生きている間にお亡くなりになったのでしょう。こうすることによって、イエズス様は聖ヨゼフをも私たちのために与えることができるようになるからです。

 私たちにとって究極の目的はあくまでも救霊でありますが、それをよりよく助ける手段として、聖ピオ十世会の司祭が日本に常駐し、聖伝のミサが毎日のように日本で捧げられ、いつでも秘蹟を受けることができるように、日本に聖ピオ十世会の教会が与えられるように聖ヨゼフ様に祈ります。

 東京では、枝の主日の聖伝のミサを捧げることができました。例年のように御受難の朗読をグレゴリオ聖歌で歌いました。

 午後は、皆で(十五,六名ほどで)十字架の道行きを行いました。道行きの前に例年のようにすこし御受難の黙想をしました。最後には約十名ほどで、晩課をグレゴリオ聖歌で歌い、終了しました。

 3月21日の月曜日も東京でミサ聖祭を捧げました。七名の方々が聖伝のミサに与ることができました。

 復活の主日には、午後6時から大阪でミサ聖祭がある予定です。愛する兄弟姉妹の皆様を歓迎いたします。

 聖伝のミサに与っている方でこれが良かったということがありましたら、一言御ミサの感想を私に教えてくださいね。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告・大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

御ミサの報告をお送りいたします。

3月13日(ご受難の主日) には13名の方々が、
翌 14日(ご受難の主日後の月曜日)には9名の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

13日の御ミサのお説教では 天主の十戒 第一戒(第二部)「礼拝」 についてお話頂きました。
天主様に向けられるべき最高の敬意が天主様にではなく、人間やその他の被造物に向けられているのを見ると悲しくなります。
ミサ聖祭に与ることはレネー神父様の仰るように「教会のまさに中心であり、天国の永遠の中で礼拝するための準備」であるのですから今後も出来るだけこの崇高な犠牲に与ってマリア様と一緒に最高の礼拝を『天主様にお捧しようと思います。

御ミサ後の公教要理では、 天主の十戒  第一戒(最後)と第二戒 についてお話頂きました。
旧約時代には聖書に書かれた天主の御名『ヤーウェ』をユダヤ人たちは『アドナイ』読むほどその御名を聖とし、簡単には口にしないよう敬意をはらっていたこと感心しました。「オーマイー〇ー!!」などとすぐ口にする現代人を彼らが見たらどんなに怒ったでしょうか。

私達の中にイエズス様がおいでになり、信仰と愛によって私達の思い、言葉、行い、愛情をイエズス様に一致させることが出来ますように、マリア様に自分の心をいつもきれいに出来るよう助けて頂きたいと思います。


【報告・大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

御ミサの報告をお送りいたします。

3月18日(ご受難の主日後の金曜日 悲しみの聖母の記念 聖チリロの記念)には11人が、
翌 19 日(聖マリアの浄配 聖ヨゼフの祝日)にも11人の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!!

18日のお説教ではマリア様を通して御受難の神秘を黙想いたしました。
ゲッセマ二の園から、ポンシオ・ピラトの館、十字架の道行き、磔、御死去、人類に対する愛ゆえに苦しみという言葉では足らないような、御苦しみを受けられました。
そしていつもその御苦しみにその汚れの無い御心を合わせて天主に捧げておられたマリア様を黙想しながらいつしかイエズス様の御受難の中にどっぷりと自分を置くことが出来ました。自分が今まで犯した罪がどれ程イエズス様とマリア様をお苦しめしたかを想像すると、申し訳なさで辛く辛く悲しく悲しくなりました。なぜこれほどまでに簡単に罪を犯したり、イエズス様の御受難を忘れて生活出来たりするのかと自分が嫌になります。毎日祈っている聖モンフォールの奉献の祈りの如く、 マリア様がこの惨めな私の全てを、イエズス様にお捧下さって天国へお導きくださいますように。

19日はお説教に続いて公教要理でも聖ヨゼフ様のその聖徳と偉大さについてお話頂きました。
聖ブリジッタへの啓示によれば、ヨゼフ様の口癖が「天主のみ旨を果たす事が出来ますように」であった。マリア様の模範に最も熱心に従われた方であったヨゼフ様が、イエズス様とマリア様をお慰めしたい、お会いししたいと願う私達を助けてくださるよう「Ite ad JOSEPH」ですね。

【報告・大阪】
+Ave Maria! Immaculata!

大阪でのミッションをありがとうございました。

この度は特に、日本で聖ヨゼフ様の大祝日の御ミサを捧げてくださり天主様に感謝!聖母マリア様に感謝!聖ヨゼフ様に感謝!
小野田神父様に感謝!申し上げます。
御受難の金曜日には「悲しみの聖母」について、土曜日には「聖ヨゼフ様」についてお説教くださり、たくさん黙想することができました。

ひとえに私たち小羊(日本の信徒)が、少しでも天主様をお愛しすようになるためなら、体力も気力も睡眠時間も、貴重なお時間も注ぎつくしてくださる小野田神父様にどんなに御礼を申し上げても、足りません。天主様が大いに小野田神父様に報いてくださいますように!

シュテーリン神父様のM.I.のお手紙のとおりに、毎朝、目が覚めたときに、自分は何者であるか?インマクラータの騎士である。
自分と隣人の救霊のために、インマクラータに全てをお捧げする騎士である。
と思い出すと、不思議に力が湧いてきます(^_^;)
最高の礼拝であり、祈りであり、償いであり、感謝であり、天主様に光栄を帰する「御ミサ」に隣人の代表として、隣人の回心と救霊のためにも与っています。

小野田神父様の、今年のお正月のお説教が心に刻まれていて、御聖体拝領で、毎日の霊的聖体拝領で、
「至聖なるイエズス様の聖心をお与えくださいまして、聖母を愛させたまえ。聖母に仕えしめたまえ。、聖母に全てを捧げさせたまえ。」
とお祈りしております。

とうとう聖週間となりました。
イエズス様の聖心を思い、少しでもイエズス様の聖心に一致して、御受難を黙想したいと思います。
毎日のほんの小さな困難や犠牲も、イエズス様の聖心にお捧げしようと思います。
悲しみに満ちた聖母の汚れ無き御心を思い、マリア様にお助けいただいて、その小さな十字架を汚れ無き御心を通してお捧げしようと思います。

至聖なるイエズス様の聖心よ、我らをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。
無原罪の聖母よ、小野田神父様を護りたまえ。


【報告・東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 13人(内、子供1人)
女: 21人(内、子供1人)
計: 34人(内、子供2人)

主の御受難 -肉体と霊魂の苦しみ-

2016年03月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖週間の聖月曜日となりました。主の御受難について黙想することにいたしましょう。

2005年の「十字架の道行」での黙想です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2005年3月20日午後 十字架の道行
小野田神父


今日はこうやって皆さんと一緒に、イエズス様の歩まれた『十字架の道行』ができるのを嬉しく思います。このすばらしいお祈りと黙想が、四旬節中だけではなく、いつでも頻繁に唱えたり黙想したりすることができれば、何と良いことでしょうか。
『道行』を始める前に、少し背景を解説したいと思います。皆さんもお祈りの時にはこれらのポイントを押さえながら黙想するようになさって下さい。そして、イエズス様はすべての苦しみと艱難とを私達のために受け取って下さった、これはすべて私のためだったということをよく考えるようになさって下さい。そしてこの『十字架の道行』の時に、できれば、イエズス様の御苦しみに同情する涙、私達の罪を痛悔する涙を求めることに致しましょう。

まず、肉体の受けた苦しみを黙想します。

十字架というのは皆さんもご存じのとおり、古代においては最も痛々しく残酷な刑であると考えられました。
イギリスでカトリックが迫害された宗教改革の時代があって、カトリック信者が紐で十字架に付けられ吊るされたのですけれども、手と足はロープで縛られただけだったそうです。それでも、何時間と十字架に架かった後ではもう信者達は死んだようにぐったりとしてしまったということです。実際このように張り付けられるだけでも、ものすごい残酷な拷問なのだそうです。


イエズス様はロープで付けられたのではなく、釘を打たれました。
よく、イエズス様の御絵などには手の平に釘の痕がありますけれども、ラテン語の「手(manus)」という言葉の範囲には手の付け根も含まれるそうです。おそらく医学的にも、聖骸布のイエズス様もそうなのですけれども、手の平に釘を刺したのでは体の重みを皮膚が支えきれずに張り裂けて体が落ちてしまうので、手首のちょうど骨の間を釘刺したと言われています。聖骸布もそうなっています。
しかもここはちょうど神経の集まっているところですので、よく膝をポンと叩くと下の足がピクンとするように、ちょうど同じような手を動かす神経が手首の中に入っているそうです。それなので、ここを異物が貫き通すということは、ものすごい神経の痛みや痺れを催すということです。そしてこの両手に釘打たれたことによって神経は拷問状態になっていました。

聖ユスティヌスによると、古代には十字架に、座るようなところがあったのだそうです。体の重みを支えることができないので。聖ユスティヌスによると、イエズス様の十字架にもちょっと出っ張ったところがあって、それで体を支えたみたいです。
ところが聖十字架の聖遺物には、また古代の教父達の証言によれば、イエズス様の身体を支えた足は、足台がなかったのだそうです。イエズス様は直接、十字架に足台なく釘付けられたそうです。ですから体の重みは足の釘にかかってしまって、これはとてつもない痛みを足に与えていました。

ちょうど皆さんもこのような姿勢をとってしばらくいると感じると思いますが、血の流れが良くなくて、手からの血は体に流れ、そして息をするのも、肺を動かすためには肋骨を上下させなければならないので、それも動きにくくなって血液の循環が非常に悪くなったということと、あと、息をするのが非常に困難になったということで、窒息感をイエズス様は味わったに違いありません。
そのような状態になると、医学的には頭に上がる血圧が高まるのだそうです。それで体がむくんでしまって、おそらくそれによってイエズス様の茨の冠はますます痛みを増加させたと考えられます。

イエズス様はその時、服を着ていたわけではなく裸でしたので、冷たい風にそのまま晒されていました。今、3月でも少し外を歩けば寒いのですけれども、ちょうどイエズス様が十字架に架けられた12時から3時の間は太陽が光を失っていましたから、おそらく風は冷たく、イエズス様を温めるものは何もなく、全身は傷を負っていましたからその傷による熱と寒さによって、発熱した時に感じるような悪寒を全身に感じられたはずです。
さらにイエズス様は体中から血を流しておられましたから、水分は失っていました。そのために非常に鋭い喉の渇きを感じられたはずです。
前日から一睡もさせてもらえなかったので疲労は極度に達し、気絶する直前であったと思われます。

イエズス様はこうやって釘付けにさせられました。

私達のために釘付けにされたイエズス様をどうぞもう一度よくご覧になって下さい。これは私達を愛するがために釘付けにさせられ、そして私達を愛するためにご自分の御血をすべて流されました。

もし私達がイエズス様の御受難、肉体の苦しみをよく考えれば考えるほど、イエズス様の愛に感動せずにはいられなくなります。イエズス様のこの苦しみを考えれば考えるほど、私達が完全な罪の痛悔、今後罪を犯さないというこの痛悔を持たずにはいられなくなります。
そしてイエズス様が私達を愛するがためにこのような極度の痛みを甘受されたのならば、私達も十字架をイエズス・キリスト様のために甘受せずにはいられなくなります。イエズス様の十字架の苦しみを考えれば考えるほど、そのことを私達の心に刻み付ければ刻み付けるほど、もはや私達はこの世の罪深い喜びや楽しみのために罪を犯すことはできなくなってしまいます。


では、イエズス様の受けた肉体の苦しみの次に、イエズス様の受けた屈辱を考えてみます。

日本民族は非常に誇り高い民族ですから、たとえ私達はいかなる苦しみを負おうとも、肉体の困難を負おうとも、名誉を傷付けられることは非常に嫌います。私達は自分の名誉に関しては非常に敏感ですが、イエズス様は私達よりもはるかに名誉のある方です。そしてこのイエズス様がどれほどの屈辱を味わったかを少し黙想します。

イエズス様の血は天主の御血で非常に高貴な血が流れています。マリア様の御胎内にいらっしゃる間から、その罪の汚れない血が流れていました。しかしイエズス様が鞭打たれ血を流される時に、この罪のない血は罪に汚れたこの地に滴り落ちたのでした。イエズス様はこの地を浄めるために、この屈辱を受け入れたのでした。

それよりももっとイエズス様の屈辱だったのは、この十字架の死というのはあまりにも残酷であって、ローマ市民、ローマの一般自由民は、ローマ人の特権として、いかなる罪を犯したとしても、どんなにものすごい悪をしでかしたとしても、十字架の刑だけは受けることがありませんでした。自由民だからです。
十字架に付けられるのは奴隷以外にはありませんでした。それほど残酷で凶暴な刑でした。
イエズス様は、この世を創られ、この世に太陽を光らせ、私達に雨を降らせ、そして食べ物を与える大恩人であるにも拘らず、私達からものを盗んで人を殺す極悪人として十字架に付けられたのでした。奴隷として十字架に付けられたのでした。

イエズス様が受けた屈辱は、自分の身を守るべき、最もプライバシーを守る、最も敏感なプライバシーを守るはずの衣服さえも剥ぎ取られてしまったということです。しかもこれは更衣室で剥ぎ取られたのではなく、皆の前で公然と辱めを受けて衣服を剥ぎ取られたのでした。

そればかりではありませんでした。イエズス様はありとあらゆる冒涜の言葉を聞きました。野次を飛ばされました。嘲りを受けました。しかもありとあらゆる階級の人々から。通りがかりの人から、司祭長から、あるいはローマ兵から、一緒に十字架に付けられた左にいた盗賊からも言われました。

まず、左にいた盗賊は「お前は本当に天主の子ならば十字架から下りてみろ。そして俺たちを救ってみろ」と言いました。
道を通った人も言いました。今日もマテオ(枝の主日の聖福音:マテオ26ノ36-75、27ノ1-60)で読んだのですけれども、「なんだ、お前は天主の神殿を壊して三日で建て直せると言った者ではないか。それなら自分を救ってみろ。お前が天主の子なら十字架から下りてみろ」と。

「ここから下りてみろ」という言葉は、これはイエズス様は、実はこれと同じことを四十日間を過ごした砂漠で悪魔から聞いたのでした。悪魔は神殿の高いところに連れて行って、「もしお前が天主の子なら、ここから身を投げてみろ。そうしたら天主はあなたの足が傷付かないように支えるだろう」と。実際、「十字架から下りてみろ」と言う声は、非常に悪魔的な声だったのです。

こうやってイエズス様は釘で手足を貫かれたばかりでなく、鋭い毒のような言葉をもって突き刺されたのでした。

大司祭達も同じことを言います。大司祭達は通りがかりの人よりももっと言い方が残酷なのです。なぜかと言うと通りがかりの人達はイエズス様に向かって「おい、お前が天主の子なら十字架から下りてみろ、そして自分を救ってみろ」と話しかけたのですが、大司祭達はイエズス様を見ようともせずに「彼は多くの人を救った。だからもし天主が彼を望むならば天主を来させよ、そして彼を救えば良い」と三人称で言っているのでした。

「もし彼が下りたら私達は信じよう」と言いますが、でもこれは、まったく心にもない発言でした。
なぜならイエズス様が十字架に付けられたその数日前に、イエズス様はラザロを命令によって死から甦らせたこともありました。
そしてこの十字架に付けられた三日後にはイエズス様ご自身が、ご自分の力によって墓から甦るのです。

しかしそれを見ても彼等は信じようとしませんでした。もし本当にイエズス様が十字架から下りたら一体彼等は何をしたでしょうか。
ある教父はこう言います。おそらく彼等はイエズス様に近寄って、自分の拳でイエズス様を殴り殺してしまっただろうと。天主が彼を救えば良い、彼は自分で十字架を下りれば良い、そうしたら私達は信じよう…、まったくの嘘、まったくの偽善に過ぎませんでした。

なぜでしょうか。この司祭長達ユデア人にとって、実は聖金曜日の午後3時というのは、ちょうどその時から旧約のいけにえである子羊を屠らなければならない時間でした。しかしそれを、その重大な義務をほっぽらかしてイエズス様のほうに来て野次を飛ばしていたのでした。実際、旧約の過ぎ去るべき前表の子羊よりも、この司祭長達は本当の天主の子羊の屠りのために十字架のところに来ていたのです。
そして彼等は十字架の神秘というものを全然わかっていませんでした。十字架が私達を救うことができるということを理解できなかったのです。これは私達にも、キリストに学ぶ者にもあてはまることなのです。

私達がもし苦しみや十字架に遭うと、どうやってそれを受けるでしょうか。

もしかしたら私達は友達から笑われ、「ああ、なんだお前はラテン語のミサに与っているのか。聖伝のミサに与っているのか」などと嘲りや嘲笑を受けるかも知れません。あるいは私達がカトリックの信仰を持つがために、この世の人達は私達を理解できないかも知れません。「なぜあなたの家庭には子供がそんなに多いのですか。お金もないくせに。責任を考えなさい、責任を取りなさい」「あなたはどうして流行を追わないのですか。今の流行はミニスカートです」「あなたはなぜ十字架の印をするのですか」…。

そのような嘲りと笑いが来る時、もしかしたら私達は「ああ、このような十字架から下りて、皆と一緒に、友達になりたい。そして自分をここから救いたい」という誘惑に駆られるかも知れません。
しかし私達が十字架から下りたそのとたんに、私達を今まで嘲笑った人達は却って私達を殴り殺してしまうかも知れません。その流行によって、悪い模範によって、道徳によって。

私達は新しい奇蹟、新しいイエズス様への奇蹟を求めるのではなく、イエズス様の行いに倣わなければなりません。

イエズス様がどうやって彼等の嘲りと冒涜に反応したかと言うと、それは十字架に留まることでした。

彼等は言うかも知れません。「お前が十字架から下りたら、私達は信じよう」「あなたがそのような十字架から下りたら私もカトリックになろう」と。
つまり、もし私達がイエズス・キリストの十字架を語らなかったら、私達がもしこの肉と罪を十字架に付けて新しい命を生きなければならないということを語らなかったら。私達が自分に死ななければならない、天主に生きなければならないということを語らなかったら。あるいは私達が自己犠牲をしなければならないという十字架の言葉を語らなかったら、彼等はカトリックになると言うかも知れません。
「十字架から下りてみろ、そうしたら私達もあなたを信じる」

でもそうなってしまっては、それはイエズス様の福音ではないのです。
なぜならばイエズス様は十字架にそのまま残ることによって、十字架の上でそのままご自分の命を捧げることを通して、そして御復活によって死を滅ぼすことによって、本当の十字架の意味を私達に教えて下さったからです。

キリストの答えはこうです。「私達は十字架に留まらなければならない。そしてそれによって新しい命へと行かなければならない」

ではイエズス様は、霊魂にはどのような苦しみを受けたでしょうか。

イエズス様はまず、天と地から打ち捨てられたという感じがしました。それを実感しました。

まずイエルザレム入城の時に、歓迎してくれたイエルザレムの住民達は却ってイエズス様を「十字架に付けよ」と言うほうに回りました。市民から捨てられました。また、イエズス様が最も愛していた弟子達からも打ち捨てられました。ヨルダン川で洗礼を受けた時には天が開いて、天から御父の声が聞こえました。しかし今回は、十字架の上ではそのような天からの声も聞こえません。

四十日の砂漠での断食、あるいはゲツセマニの園での祈りの時には、その後に天使達がイエズス様を慰めに現れました。が、十字架の上ではそのような天使達もありません。一人、右にいた盗賊が回心した以外、全世界はイエズス様に叛乱しているようです。

私達はこのようなイエズス様に、少なくとも私達がここにいるということを申し上げましょう。私達は金輪際、イエズス様を悲しませるような罪を犯すことあるまじ、少なくとも私達は小さな遷膳の決心と痛悔の念をもって、イエズス様をお慰め致しましょう。

イエズス様の霊魂の悲しみのもう一つは、聖書が成就しないのではないかという恐れがあったことです。
それは、イエズス様が服を剥ぎ取られてしまった時に、彼等はそれを最初、裂こうとしたからです。しかし実際にイエズス様が着ていた服が継ぎ目のないものだったので、彼等はさいころを振って分けることにしました。そして彼等ローマの兵士達はさいころに従ってそれを分配したのでした。
教父達によると私達はここから一つローマ兵に倣わなければならないことがあると言われます。イエズス様の着ていた継ぎ目のない服というのは、愛徳のシンボルだと言います。愛は一つにまとめるからです。

ところで誰かが亡くなった時に、その相続問題で兄弟姉妹親族の者が、非常に争うのではないでしょうか。残念ながらサンティ神父様が亡くなった時にもその遺品の配分のために揉め事がフィリピンであったようです。

しかし、私達はこの継ぎ目のない衣という愛徳を、決して遺産相続のために切り取ってしまってはなりません。ちぎってしまってはなりません。

では、イエズス様の十字架の道行を黙想する前に、今からする前に、イエズス様が亡くなった、御死去の直前と直後に何が起こったか、ちょっとだけかいつまんでみることにします。
なぜならばこの『十字架の道行』には、そのことがパッと通り過ぎるだけだからです。

まず、イエズス様が亡くなる直前には、太陽が光を失いました。
この、太陽が光を失ったということは、これは普通の自然現象ではありませんでした。なぜかと言うと、日蝕が起こるのは新月の時であって、満月の時は日蝕が起こり得ないからです。でもちょうどこの聖金曜日は満月の時でしたから、本来ならば日蝕は起き得ない日でした。
しかし全自然はイエズス様の御死去を弔うために、そしてそれに同情するために光を失ったのでした。

イエズス様がクリスマスにお生まれになった時には、夜は光で輝かされ、光で充ち満ちた夜となりました。しかしイエズス様が死を迎えたこの聖金曜日には全地上は光を失い暗闇に包まれてしまったのでした。
十字架でのこの苦しみが終わったその時に、天主の正義は満足されたので、そして罪の赦しが完成されたので、もう一度太陽は輝きを取り戻します。

イエズス様が亡くなった時には、まず、神殿の幕が二つに、上から下まで裂けました。この神殿の幕は、至聖所と普通の所を分けていた頃で、この至聖所には司祭だけが入ることができるものでした。

なぜ神殿の幕が裂けてしまったのでしょうか。
これは旧約時代が終わりを告げた、旧約のいけにえがもう意味を為さなくなったということを意味しています。そしてモイゼの細かい規定は廃止され、新しいイエズス・キリストの新約の時代が始まりを告げたのでした。
またちょうどこの旧約時代には、大司祭達が何か不正義や天主に対する冒涜や、憤りなどがあると自分の祭服を二つにちぎって怒ったという記事がよくありますけれども、イエルザレムの神殿も、天主の子が不正義によって殺されたということで、自ら祭服である神殿の幕を二つに引き裂いてしまったのでした。これが第一に起こったことでした。

第二に起こったのは、地震があったことでした。地が震ったことでした。

第三に起こったのは、岩が裂けたことでした。

第四に起こったのは、墓が開いたことでした。そして墓が開いて復活の後に死者達は蘇ってイエズス・キリストが天主であることを証言したのであります。
イエズス・キリスト様がリンボに下って、古聖所にいる霊魂達を天国に引き上げるまでは、彼等は甦ることがありませんでした。しかしイエズス様の御復活の後には、彼等は暫くの間、もう一度生命が与えられたのでした。

これらのことを見て特に神殿の幕が裂けたこと、あるいは地震、あるいは岩が裂けたこと、墓が開いたことなどで、聖母はイエズス・キリストが真に天主の子であったということをますますはっきりと確信したのでした。

しかし多くの人にとっては、このような奇蹟はまったくの無駄でした。彼等はそれを見ても一つも心を動かしませんでした。そしてもう一度同じように、あたかも何事もなかったかのように罪の生活を続け、偽善の生活を続けたばかりでした。

天主は私達に時として自然の災害、不幸、死、隣人の死、あるいは地震や戦争や飢饉、津波などを私達に送ってそれを徴として、私達に痛悔するようにと呼びかけているのですけれども、残念なことに多くの人達はそれに「ああ、びっくりした」としても、もう一度罪の生活に戻って行くのです。

しかしその多くの無関心の中にも回心したローマ兵はいました。
たとえばイエズス様を見ていたローマの兵はこう言いました。「実に彼は天主の子であった。実に彼は義人であった」そして彼は罪を痛悔しつつ家に帰って行ったとあります。
実際、このローマの兵、聖伝によるとロンジウスという名前だそうですが、片目は実は失明していたそうですけれども、イエズス様の脇に槍を刺したその時に、そこから出る水と血を浴びて、それによってもう一度目が見えるようになった、そして霊魂ももう一度目が見えるようになった。そしてキリスト教信者になったと言われています。

では私達も天主様に立ち戻らなければなりません。

太陽はそのために暗まなければなりません。
これはどういうことかと言うと、教父達によれば、私達がまだこの世の罪に対する楽しみを明るい日で見ているうちは罪を改心できないから、何らか私達はこの地上の罪への愛着を暗闇に葬り去らなければならない、もはやこの世の罪深い楽しみや喜びは私達にとって闇の彼方へと追いやらなければならない、その意味で、太陽は光を失わなければならない。
その次に地震が起こったように、私達は心から罪に対する恐れと嫌悪感を抱かなければならない。
イエズス様が亡くなった時に岩が割れたように、私達の堅い岩のような心も割れて改心しなければならない。
墓が開いたように、私達は心を開いて告白して罪を改心しなければならない。

そしてイエズス・キリストと共に新しい生命に復活しなければなりません。

ではこれから、一緒に『十字架の道行』を唱えましょう。

本来なら『十字架の道行』の御絵があると良いのですけれども、今日はこの行列用十字架を先頭に、少しこの周りを回りましょう。
祈祷書をお持ちの方は107ページです。

長崎の二十六聖人 聖アルフォンソ・リゴリ著「殉教者たちの勝利」より

2016年03月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖アルフォンソ・リゴリ著「殉教者たちの勝利」より、一部を抜粋して紹介します。。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

長崎の二十六聖人 
聖アルフォンソ・リゴリ著「殉教者たちの勝利」より、(一部を抜粋)


 1627年、ウルバノ8世によって列福された26人の殉教者(聖パウロ三木及びその伴侶たち)は、1862年6月8日、聖霊降臨の祝日に、世界各地から集まった約300名の司教たちの臨席のもと、ピオ9世によって列聖されました。彼らの祝日は、その犠牲をまっとうした2月5日と定められています。

 1582年、権力の座に登った太閤秀吉は、初め宣教師たちに対して好意的であったものの、4、5年後には彼らに対して非常な不信感と憎悪を抱くようになり、日本全体にキリスト教を禁止する発令を出した。だがそれ以上過激になることはなかった。数年の間、秀吉はあらゆる宗教的表明を禁じたことで満足しており、信仰はひそかに宣伝され続けていた。

 1596年12月9日、まことの天主のしもべたちへの反感をふたたび掻き立てられた秀吉は、フランシスコ会士たちが活動していた京都や大阪の奉行たちに、司祭たちを捕縛すること、教会に足しげく出入りしている信者たちの名簿を作るすることを命じた。フランシスコ会の長上、ペトロ・バプチスタ神父は、当時、会の修道者たちに次のような手紙をしたためている。「教会の扉の前に捕り手たちが置かれた最初の日、信者たちは一晩中、告解と祈りをして過ごしました。私たちは翌日処刑されるだろうと知らされていたからです。私は愛するすべての兄弟たちに、あたかも臨終の時であるかのように聖体を授けました。それから、刑場に連れて行かれるまでの間、一人一人に身につけるための十字架を与えました。イエズス・キリストのために死ぬのだという彼らが示してみせた大いなる熱情のために、私の心は慰めで満たされました。死刑に処せられるという知らせが広まると、大勢の人々が各地から加わって来ました。『私どもはいつかは死ななければならないのです』と、彼らは言いました。『天主様の栄光のために死ぬことこそが私どもの願いのすべてであり、そのようなお恵みを賜るよう祈っています。善き天主よりこのお恵みを得られるようお助けくださいませ』」

 人々に目撃されたこの素晴らしい模範の数々の中から、いくつかの例を引用する。

 太閤の天下統一のために尽力した名高い大名、高山右近は、信仰を捨てることを拒否したために、六年間流浪の日々を送った。大名としての身分を捨て、領地を失い、右近の老いた父、妻、家臣を含む家族らも同じ憂き目を見た。だが、イエズス・キリストのために苦しむことができるのは幸せなことだ彼らは考えていた。キリシタン迫害の知らせを聞くと、右近はそのすぐれた人徳と友情のために彼を庇護してくれていた加賀の領主に別れを告げた。加賀の領主は、奉行は右近を処罰の対象として考えてはいないと断言したが、気高い右近は「恐れながら、この世において私が喜びとする最大の幸福は、私が告白する信仰のために死ぬことです」と答えた。彼はただちに都へと出発した。

 玄以法印(前田玄以)の二人の息子も熱意に溢れていた。玄以は異教徒で秀吉の側近であり、二人の息子が洗礼を受けた事実を知らずにいた。ユスト高山右近よりも身分は低かった。

 20才になる上の息子の名はパウロ左近(前田秀以)といった。彼は秀吉に取り立てられ、都から離れた場所にある砦の司令官であった。司教たちと同じく司祭たちが捕縛されたこと、全信者たちが死刑に処せられることを聞いて、彼はすぐに二人の使者を、一人は都へ、一人は大阪へと遣わした。自らも真理をあかしするためにであった。その間、殉教を耐えるもっとも優れた手段について考えていた。彼は初め、都で公に自分の姿を見せることを考えていたが、いつもの身なりをしていたのでは誰もあえて自分を捕まえようとはしないだろうと心配した。彼は髪を切り、修道者の格好をして、8人の忠実な信者のしもべたちとともに都に行こうと決心した。8人のうちの一人は、気持ちが定まらない様子を見せた。彼はつい最近洗礼を受けたばかりだったからである。

 パウロ左近は彼に他の者たちと一緒に行かないよう助言したが、彼は寛大にもこう答えた。「殿、私はアニマの永遠の救いに価値があるとよく知っています。殉教はそのための最短の道なのですから、私はそれを選びます。もはや私は足の下に踏む塵よりも自分の命を重んじることはありますまい」この答えに満足した若き領主は自分の部屋に入ると、ひざまずいて、天主の愛のために死ぬにふさわしい者にしてくださるようにと熱烈に祈った。それから、両親に手紙を書き、自分が信者であることを伝え、信仰のために死ぬ決意を固めた。彼はこの意向で総告解をし、死の備えをした。

 彼の弟の名前はコンスタンティノといった。彼はいとこの一人ミゲル(ミカエル)とともに都に到着し、そこで重大な知らせを耳にした。彼は「おお、我らはまさしく殉教者になるためにここに来たのだ」と叫んだ。すぐに両親のいる伏見に行き、自分は信者であると宣言した。息子を寵愛していた前田玄以は驚愕した。彼をそばに呼び寄せ「だが息子よ、太閤殿下がすべてのキリシタンを殺せと私に命じたら、私はお前もともに殺さなければならないのだぞ」と言った。コンスタンティノは「父上、私は信者であるとあなたに宣言しました。それは死から逃れるためではなく、父上のなすべき義務を正しく実行できるためにです。私は天主に不従順であるよりも処刑人の手にかかる覚悟ができています。たとえそれが父上であってもです。父上は、ただ太閤殿下のお気に召すためだけに私が地獄に落ちることをお望みにはならないでしょう」と答えた。玄以法印は心痛の種となったこのことを妻に話すと、二人は深い悲しみに沈んだ。ミゲルは悲しんでいるおばに偶然鉢合わせした。彼女は甥に、息子が死に急ぐのをなんとかしてやめさせてくれるよう、あらゆる手を尽くしてくれることを頼み込んだ。にも関わらず、二人は殉教者たちの名簿に自分たちの名前が書き込まれる機会を得るため、都へと舞い戻った。

 その頃、別の二人の男たちが信仰のために命を犠牲にするため都にやって来た。彼らは望むものが得られなかったので、友人たちに、来るべき時が来たら知らせてくれるよう懇願していた。

 豊後の人、アンドレア小笠原のことにも触れておこう。彼は、前章で語った聖なるジョラン(大友義統)が殉教したのち、彼が身につけていた十字架を夜中に外して自分の首にかけた人だった。それ以来、彼は年老いた父と妻、子とともに大阪に隠れ住んだ。この勇敢な人は、死刑の宣告を受けたキリシタンたちの名簿が作られていると知ると、雄々しくも自らの死の準備をするだけでなく、6ヶ月前に洗礼を受けたばかりの80歳になる父親にも死の覚悟をさせた。アンドレアの父は生涯を通じて恐るべき武士であり、頑健であった。アンドレアは父に、殉教の棕櫚の枝は武器によるのではなく、謙遜と忍耐によって得られるのだと教えて励ました。

「だが、武士の名誉にかけて、おめおめと殺されることなどできようか?」と老いた侍は叫んだ。アンドレアは、父のこの誇り高さはキリシタンの教えについて熟知していないことから来ていると知って、こう言った。「愛する父上、父上の武勇すぐれていることには多くの証があります。父上がご自分の命を守らずにイエズス・キリストのために与えるならば、誰も父上を臆病者と非難する者はいないでしょう。しかし、父上がこのような振る舞いを好まないなら、少なくともしばらくの間、国許に帰られて下さい。そこでなら父上の命と名誉を保てるでしょう」だが、老いた侍はさらに激昂して、自分にはそんな卑怯なことはできない、それは最初の申し出である死よりも悪いことだ、そんなことをしたら、命惜しさに逃げたのだと思われるだろうと答えた。しかしながら、自分の目的は別の方法で保てたのだとアンドレアは理解した。この老いた善人は、感情を昂らせて、アンドレアの妻の部屋に入っていったからである。彼は、息子の嫁が晴れ着を着て立ち働いているのを見た。家臣たちがロザリオや十字架、聖遺物箱を自分たちが殉教する日のために用意していることも見てとった。これはなんのためかと問うと、彼らは喜びにあふれて、イエズス・キリストのために死ぬ準備をしているところだと教えた。この短い言葉と態度が、彼の心に感動を呼び起こした。彼は世間の理(ことわり)を放棄して、ロザリオを取り上げ、皆とともに死にたいと言った。

 今度はまた、都の寛大なキリシタン女性たちのことも見てみよう。迫害が公に始まったことを知ったため、彼女たちは殉教の時に常に備えていようと、マリアという女性の家に集っていた。各自、婚礼の時の衣装を用意していて、それはつまり、死に臨んで身につけるためのものだった。ある非常に身分の高い女性は、法によってこの一件に関して死を免れさせられてしまうかもしれないと恐れ、皆とともに死ぬためにひそかにマリアの家に赴いた。マリアは養女として引き取ったガラシャという十歳の娘と暮らしていた。マリアは、十字架刑に処せられるのを避けるため、ガラシャに父の家に戻るよう説き伏せようとした。だが娘は断固として言った。「いいえ、私は母上さまとともに死にます。私はキリシタンでございます。何も怖がりはしません。母上さまがともにいてくださる限り、私は死を恐れません」マリアは、愛しい娘の口から出た、天主の恩寵から来るこのような言葉を聞いておおいに慰められた。集まった中の一人の女性が、端然と同胞たちに言った。「私は死の覚悟ができております。しかし、もしも死ぬ時のさまを見て私が怖気づくのを見たならば、どうぞ処刑人たちの前に私をむりやりにでも引き据えてくださいませ。私が皆さまとともに殉教の冠を分かち合えないことがないようにでございます」

 すべてのキリシタンは十字架にはりつけにされるだろうと信じられていた時の彼らの心情はこのようなものであった。だが天主は、彼らのほとんどに関してはその善意のみで満足した。都の奉行(石田三成)は異教徒であったが、太閤が彼に下した残忍な命令を軽くしようと力を尽くし、ようやく死刑囚の数を24人にまで減らすことができた。太閤は彼らの鼻と耳を削ぐよう命じたが、代官はただ左の耳を切り落とすだけでよいとした。これは1597年1月3日、都の大通り(一条戻り橋)で行われた。捕らえられた24人は8つの牛車に乗せられた。列の先頭には役人が札を掲げており、そこには禁制のキリシタンの教えを説いたからという理由で彼らは死刑を宣告されたのだと書かれていた。都じゅうの人々は、この犯罪者に仕立て上げられた人々の慎ましさ、美しさ、そして喜んですらいる様子を見て感動の涙を流した。彼らの謙遜は勝利へと変わったのだ。キリシタンたちの多くは、彼らとともに死ねるよう、仲間の一人に加えてもらえるよう役人に願うことすらしたが、この願いは聞き入れられなかった。殉教者たちは牢に戻った時、幸いな死が自分たちを待ち受けていることを喜び、天にも昇る心地で互いに抱擁しあった。この様子は番人たちを仰天させ、思わずこう言った。「こんな侮辱の数々と拷問のまっただ中にいるというのに大喜びするとは、どんな類の連中だろうか?」

 翌1月4日、彼らは処刑地の長崎に送られるために荷馬車用の馬に乗せられた。そこに到着するまで一ヶ月かかった。大坂と堺を通り抜ける間、彼らは都で群衆の前で晒し者にされた。だが彼らの敵が期待したものとはまったく逆の効果をもたらした。この長い旅の中で、寒さという季節の厳しさが聖なる殉教者たちの苦しみをさらに増した。彼らに付き従う信者たちの群は瞬く間に膨れ上がっていき、至るところで同情と尊敬のしるしを与えていった。ペトロ助四郎とフランシスコ吉という二人の熱心なキリシタンは24人についていくのをやめず、彼らの必要なものを援助するための不屈の勇気を持っていた。二人の信仰と愛徳は寛大に報いられた。護衛人たちは二人が何も無礼なことをしないのを見て、囚人たちの一人に加えることに決め、名簿に名前を書き入れたからである。こうして殉教者たちの数は26人に増えた。

 2月4日、26人は長崎に到着した。翌日、町の近くにある丘に連れて行かれた。そこには処刑道具が準備されていた。彼らのカルワリオとなるべき十字架を見た時、この勇気ある信仰の精鋭たちは喜びのために躍り上がった。おのおの、自分がはりつけにされる場所へと急ぎ近づいた。彼らの手足と胴体は縄で十字架に縛りつけられ、この国の慣習にのっとって、首には鉄の首輪がはめられた。それから十字架はいっせいに持ち上げられ、大地に突き立てられた。全員は横に順々に並ばされ、彼らの顔は長崎の町の方向、南へと向けられた。ペトロ・バプチスタ神父はベネディクトゥスの賛歌を静かに歌い、仲間たちはその歌声に声を合わせた。ほどなくして、めいめいは二本の槍で両脇から突き刺され、槍は彼らの胸と肩を貫いて交差した。この瞬間、丘を取り囲んでいたおびただしい信者たちは「イエズス、マリア」と口々に叫び、監視人たちを押しのけて、殉教者たちの血潮を布に集めるため、また彼らの衣服をもらい受けようと処刑地になだれ込んだ。殉教者たちの体を天からの光が照らし出し、たくさんの星が西阪の丘から見えて、それは長いこと続いたそうである。

 この栄光あるキリストのつわものたちの一人一人について多くの興味深い話を語ることができるが、ここでは省略せねばならない。だが、もっとも年若い3人に関することを伝えずおくことはできない。つまり、およそ14歳のトマス小崎、13最の長崎のアントニオ、そして11歳のルドビコ茨木である。彼らはフランシスコ会が司牧する教会で常に侍者として仕えており、囚人たちの名簿が公に出る前に逃げることもできた。だが彼らは殉教の棕櫚の枝だけを熱烈に望んでいた。3人は耳を削ぎ落とされて都大路を引き回された時、同じ牛車に乗せられていた。後ろ手に縛り上げられたこの3人の信仰の証人たちは、明るく落ち着いた表情で、染み透るような声で、パーテル・ノステルとアヴェ・マリアを歌い始めた。この光景はあらゆる人々の心を打った。

 トマス小崎は26人の殉教者の一人、ミゲル小崎の息子である。父親は殉教の決心を固めたので、自分の財産をすべて息子に譲ると手紙をしたためた。だが聖なる少年はすぐに父親に会いに来て、父が天国で得ようとしている宝から自分を取り除けて、地上の財を残していくなどということは正しくないと自分の意思を表明した。そして自分は父とともに死ぬ決心だと宣言した。トマス小崎もまた父とともに天国に行くという幸福を得、その頭を同じ殉教の冠が取り囲んだ。

 長崎生まれのアントニオは、両親の激しい諌めと説得をこうむった。両親はキリシタンで、愛する息子がはりつけにされることがわかった時、自然的愛情に打ち負かされて、涙ながらに息子を引きとめようとした。若きつわものは言った。「では、あなた方は、わずか一瞬しか続かない生命を保つために、私が永遠の生命を失ったほうがよいというのですか? おお! そのような話と不平を述べて私を誘惑しないで下さい。私はイエズス・キリストのために死ぬ覚悟ができています」こう語ってから、彼は両親のもとを去り、この出来事に深く感動した役人の助命の申し出も拒否して、処刑人たちに身を委ねた。十字架が突き立てられると、彼は自分の横にペトロ・バプチスタ神父がいるのに気づいた。ベネディクトゥスを歌った後、アントニオはバプチスタ神父に詩編の「すべての民よ、主をほめ讃えよ Laudate Pueri Dominum」を歌ってくれるよう願った。だが聖なる司祭は深い瞑想のうちに心を奪われて返事をしなかったので、アントニオは一人で歌い出し、彼が天国で永遠に歌い続けるであろうグローリア・パトリの部分まで続けた。この瞬間、彼の心臓は槍で貫かれた。

 小さなルドビコ茨木は、わずか数日前に洗礼を受けたばかりで、少しも挫けた様子を見せなかった。役人たちは初め、彼の名前を名簿に書き入れるのを拒んだ。だが泣きながら懇願したので、名簿に名前を書き入れてもらえることができた。彼の顔は喜びに光輝き、都の大通りにいるすべての人々を惹きつけ、群衆たちを感動させた。長崎奉行の代理人である、この死刑執行の責任者は、ルドビコがキリスト教の教えを棄てさえすれば、彼を解放してやろうとした。ルドビコは答えた。「そのような条件で、生き延びたいとは思いません。なぜならこの短い惨めな命のために永遠の幸福と命を失ってしまうからです」彼は、自分の十字架を見つけるやいなや、まるで自分にとってもっとも大切なものを見つけたかのように駆け寄って抱擁したと言われる。彼は天使のような雰囲気を漂わせて、アントニオの隣で死んだ。この先、子どもたちが勝ち得た、他の素晴らしい勝利の数々を見ることになるだろう。

 26名の名前と身分を記しておく。
 6人のフランシスコ会修道者、すなわち、3名の司祭。
 ペトロ・バプチスタ神父、52歳。マルチノ・デ・アギレあるいはアセンシオン、30歳。フランシスコ・ブランコ、30歳──3人ともスペイン人である。
 修道士、フェリペ・デ・ヘススあるいはラス・カサス、23歳、メキシコ生まれ。二人の平修士、フランシスコ・デ・サン・ミゲル、54歳、スペイン人。ゴンザロ・ガルシア、25歳、ポルトガル人の両親よりインドで生まれた。

 処刑に向かう前、在俗フランシスコ会に入会した17人の日本人は次の通り。
 ミゲル小崎とその息子トマス小崎、14歳。
 長崎のアントニオ、13歳。
 パウロ茨木とその弟、レオ烏丸。二人の甥、ルドビコ茨木、11歳。
 パウロ鈴木。
 京都の医師フランシスコ、46歳。
 コスメ竹屋。
 トマス談義者。
 ボナベントゥラ。
 ガブリエル、 19歳。
 絹屋のヨハネ。
 ヨアキム榊原、40歳。
 マチアス、同じ洗礼名の者の身代わりになった。
 フランシスコ吉。
 ペトロ助四郎。
 日本人のイエズス会士3名、すなわち、パウロ三木神父、33歳。二人の修練者、五島のヨハネ、19歳。ディエゴ喜斎、64歳。二人は殉教の当日に誓願を立てた。
 3名のイエズス会士たちは、死刑の対象には含まれていなかったが、秀吉は彼らが都にいたので捕縛させ、迫害を命じた石田三成の反対を押し切って、フランシスコ会士たちの仲間に加えた。

※参考書籍
 日本二十六聖人殉教記 ルイス・フロイス著・結城了悟訳
 二十六聖人と長崎物語 結城了悟著


天主の全知全能について 『巡礼指定聖堂』について

2016年03月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨年の3月の公教要理をご紹介します。。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2015年3月7日 小野田神父様 公教要理(大阪)
「天主の全知全能について」


天主について、天主の全知全能について話をします。

公教要理 14ページ22番、「天主のおできにならない事がありますか。」

22.天主のおできならぬ事がありますか。
天主のおできにならぬ事はありません。之を天主の全能と申します。


「何事も天主には能わざる所あらじ」(ルカ1:37)(詩113-3)
尚天主は万徳を具え給い、たとえば至って聖(イザヤ6:3、黙4:8)至って真(マテオ24:35、民23:19)至って善(創18:26、ヨハネ3:16)至って美、至って義(ローマ2:6)また罪人には至って大なる御憐み(エゼキエル33:11、ルカ15:18)を有し給う御方であります。


はい。天主様は、お望みなる事は全ておできになります。この天使もマリア様に、「天主には、何事も天主にはできない事がない。」と、お答えられました。ですから、天主様はお望みのままに全てをなさいますが、でも天主様は、法則があります。自分で確かに、こう何でも、こう奇跡でも起こして、何でもパッとする事ができますが、しかし必ず、「道具を使う」という、必ず「何か道具を使って、御自分の御旨を果たそうとする」という法則があります、というのが天主様の普通のやり方です。

例えば、天主様が直接マリア様にお告げをする事ができたにもかかわらず、天使を送る、とか、或いは、天主様は私たちを直接無から一人一人を生み出す事ができる、育てる事ができるにもかかわらず、父と母を使って、この創造の業をできるようにして、私たちを司り給う、とかです。

天主は、全能であるにもかかわらず、その全能が、あまりにも全能なので、私たちをさえも使って、道具として使って、自分の思い通りにする事ができるほど全能の方です。

例えば、私が非常に有能な画家であれば、このペンがどのようなペンであっても、素晴らしい絵を描く事ができます。もしも、このペンの特徴に従って、それに従って、それに一番合うようなやり方で絵を完成させる事ができます。その材料、或いは道具がどのようなものであるに従っても、うまくできます。天主様は非常に全能なので、その道具が、どのようにボロの道具でも、最高の絵を、或いは音楽を、或いは最高の御業をする事ができます。

しかも、この私たちのような、自由意志を持っているものを使って、自分のお望みの仕事を果たす事ができます。もちろん、私たちが天主様に忠実であれば忠実であるほど、より「主の御旨を果たそう」と一生懸命すればするほど、たくさんの主の御旨を果たす事ができます。この道具が、良ければ良いほど、バイオリンも、良いバイオリンであればあるほど、良い音出す事ができます。もちろん、こう壊れたようなバイオリンでも、天主様はもちろん芸術的なものを奏でる事ができますけれども、しかし良ければ良いほど、良いものが出ます。私たちが寛大であればあるほど、より多くの救霊の業が出来ます。

天主様は、その全能を使って、聖なる、聖にして、真実であって、善であって美、義、憐れみの業を行い給います。ですから、天主様が全て何でも望む事を、全ての善い事、全ての義を、全ての聖なる事をする事ができる、という事は、それに反対の事は、例えば病気であるとか、悪であるとか、悪意とか、或いは全てこれに反する事は、例え天主に矛盾する事にあるので、それは完全ではなく、不完全な事なので、天主様はなさる事ができません。でもこれは、天主の全能に反対する事ではありません。

また「天主の全能」と言っても、自己矛盾をする事はできません。天主様が同時に、「善」であって「悪」であるとか、「はい」であって「いいえ」であるとか、同時に同じ観点から同じ意味において、自分を矛盾する事はもちろんできません。それはしかし、全ての善と、美と、真理、真実は全て、望みのままにできます。

天主の全能については、ご質問がありますか?

質問者Tさん「病気は、天主様から来ない?」

天主様は、病気を、私たちが病気になる事をお許しになります。或いは、天主様がもちろん病気を送る事もあります。でも、もしも私たちに苦しみや、そのような病気を送るとしたら、何かそれを超えるような、善があるからです。

例えば、聖ジェンマ・ガルガーニという方は病気で、本当は御受難会に入りたかったのですけども入る事ができませんでした。しかし病気だったおかげで、却って御受難会のシスターよりも、もっとご受難を黙想する聖なる女性なりました。

これは病気ではないのですけれども、聖イグナチオは、兵士で、騎士で、この戦争の途中で、このフランスとスペインが戦っていた時に、そのフランス軍からの攻撃で、足を大砲で、足を負傷して、ベッドで寝ていました。ベッドで退屈だったので、「キリストに倣いて」と「聖人伝」を読んで、「これだ。僕もこうなりたい、私もこうなりたい、このように聖人のようになりたい、キリストの為に戦うんだ。」と言って回心しました。その怪我を通して、もしも怪我がなかったら、イエズス会はありませんでした。イエズス会がなかったら、聖フランシスコ・ザビエルもありませんし。

質問者Kさん「怪我は治ったのですか?」

はい怪我は治ったというか、一応びっこだったのです、一生びっこで。でもその怪我のおかげで回心しました。

或いはその怪我の為に、霊的に善を受けたという人が、きっとたくさんいると思います。

癩病の人が、永井博士の本を読んで、感動して、「あぁ、私は癩病だという事で、妻も失って、今こう隔離されて、何かもう絶望していたけれども、『いや、そうじゃないんだ。』という事が分かった。」という事で、永井先生に手紙をこう書いたら、永井博士が俳句を書いて、ちょっと覚えていないのですけれども、その「癩病は、来世の福楽を望む事、我らに教えけり。」とか何かそういう、却って病気の為に回心した、とか、イエズス様を知ったとか。

例えばシスター笹川も、盲腸で入院していた時に、その神父様がやってきて、公教要理を聞いて、カトリックになったそうです。

ですから、病気も確かに辛いのですけれども、それさえも天主様はお使いになって、私たちに霊的なより良い多くの善を与えてくれます。

質問者Kさん「永井隆記念館はどこにありますか?」

長崎にあります。

質問者Tさん「精神的な病気とか認知症とかを、天主様はお望みにならないような気がしますけれども、どうでしょうか?認知症とか。」

認知症。もしかしたら、認知症はもしかしたら天主様の御旨によれば治るかもしれませんが、しかし何かの特別な御摂理があって、或いは私たちが、過去の罪を思い出して苦しまないように、安らかに主の御元に行く事ができるように、お計らい下さっているのかもしれませんし、或いは罪をこれ以上犯さないように、取り計らって下さっているのかもしれません。でも主の、イエズス様の御旨のままに。

コルベ神父様がニエポカラヌフにいた時に、枢機卿様が視察に来たのだそうです。このほんの10年か20年の間に、修道士たちが600人とか800とか1000人近くになっている。ものすごい。お金もないし、何もない。それで枢機卿様に、「これが私たちの御聖堂です。」「この粗末な、これが私たちの修道士の部屋です。この粗末なベッドと。」「これが、私たちの宝の部屋です。」と言って、ちょっと離れた所に家を見せたのです。「ここに、私たちの宝が詰まっています。」と言って開けたら、病気の修道士たちがたくさん休んでいたそうです。

もしも私たちがお捧げすれば、それはものすごい宝となります。ただ「あ~苦しい、苦しい」と言って、文句を言っているだけでは、何か宝も使われずに、そのままになってしまいます。天主様は、私たちのこれらを使って、私たちの善を、救霊を為そうとなさっています。

では、30分の時間が来てしまいました。次回は、三位一体について話をしましょう。

質問者Gさん「すいません、時間がないのに、お許し下さい。あの、毎日四旬節はミサ典書を読んでいるのですけれども、ミサ典書の、ミサの前の一番最初の説明のところに、『巡礼指定聖堂』というのがたくさん書かれていまして、毎日それが変わっていて、それは何か意味があるのでしょうか?」

はい、もしも私の記憶が正しければ、ローマにある特別の四十三教会があるのですけれども、教皇様がそこの教会に行ってミサを捧げる、と。指定されたその御聖堂、教会があって、そこで教皇様がミサを捧げた、という事です。

『巡礼指定聖堂』のことを「ステーション教会」、「Station Churchs」、Ecclesiae stationales と言って、そこで指定された教会で公式にそのミサをする、という伝統がありました。何故そういう風になったのかとか、起源が何なのかというと、古代ローマでは、特に四旬節を聖化するために、毎日、信徒共同体が一カ所に集まって「巡礼指定教会」(ステイション・チャーチ)まで行列で行きました。この習慣は、ローマのみならずイェルサレムやコンスタンチノープルでもあったそうです。おそらく司教様と一緒に詩篇を唱え、諸聖人の連祷や聖歌を歌いながら、祈りながら、歩いて指定された教会まで行列で巡礼するのです。

西暦400年頃からこの習慣が公式化し、教皇大聖グレゴリオが西暦600年頃ほとんどを確定しました。

George Weigel によれば、元々は、ローマの信徒たちが殉教者のお墓を皆で訪問してそこでミサ聖祭を捧げたことに由来すると言います。殉教者のお墓の上に教会が建てられて、それが巡礼指定教会として成立したとのことです。ですから statio の正確な意味は、教会の建物のことではなく、その場所に葬られている殉教者です。そこで元来は、たとえば「巡礼指定地:聖ラウレンチオ」であって、「巡礼指定教会:聖ラウレンチオ大聖堂」ではありませんでした。

これは、四旬節だけでなく、主要な祝日にもそうでした。


質問者Tさん「今もですか?」

今では廃れてしまってそうではありませんが、聖伝によればそうです。14世紀にはこの習慣は廃れてしまいまったそうです。しかしミサ典書には巡礼指定教会の名前がその後もずっとつけられていました。

ただし、1959年の灰の水曜日には、教皇ヨハネ二十三世は聖伝によるとその日の巡礼指定教会である聖サビナ教会に言ってミサ聖祭を捧げたと記録があります。パウロ六世も1967年に巡礼指定教会の聖エウゼビオ教会に行ったそうです。

質問者Gさん「ありがとうございました。」

典礼の重要な目的「四旬節」 聖ピオ十世会 ネリー神父様

2016年03月17日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会の総長第二補佐であるネリー神父様は、3月11日と12日の二日間を大阪で、そして3月13日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げてくださいました。
その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年3月13日 四旬節第4主日
ネリー神父様 御説教 
同時通訳:小野田圭志神父


[小野田神父]
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年3月6日、四旬節第4主日のミサをしております。今日は、聖ピオ十世会の総長様の第2補佐の神父様であるネリー神父様を迎えて、大変喜んでおります。今日は神父様のお話が14時半からこの同じ場所であります。もしよろしかったらいらして下さい。16時から晩課があります。明日は、ネリー神父様が第1のミサを、そして7時から第2のミサがあります。3月には、3月20日、ここで枝の主日のミサがあります。復活祭には、大阪でミサがあります。4月には第1主日と第3主日に2回ここでミサがあります。どうぞいらして下さい。

[ネリー神父様御説教]
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
典礼の重要な目的の1つは、私たちの霊魂を高く上げて、イエズス様の神秘を黙想させる、観想させる事にあります。

教会の中には有名な諺(ことわざ)があって、“Lex Orandi, Lex Credendi”これは、“祈りの法は、信仰の法”「祈る内容を、すなわち私たちは信じている」という事です。祈りは私たちに信仰を与え、信仰は私たちに神学の深みを与えてくれる、という事です。

古代教会では、信教がある前に典礼がありました。そこで、私たちが伝統的な聖伝の、伝統の典礼を守る事の大切さが理解できます。何故かというと、聖伝の典礼を守る事によって、聖伝の信仰、伝統的な信仰を守る事ができるようになるからです。もしも第二バチカン公会議の後に、典礼を変えなければならなかったとしたら、近代主義者が、典礼を変えなければならなかったとしたら、それは信仰が変わっていたからです。

私たちの霊魂をこの霊的な糧で養う為に、母なる公教会は私たちに、典礼暦を与えてくれました。そしてその典礼暦は2つの重要な部分に分かれます。私たちに関係する2つの主要な真理というのは、私たちの主イエズス・キリストの「御托身の玄義」と、私たちの主イエズス・キリストの「贖いの玄義」この2つです。

この神秘は、私たちが全て把握し尽くす事ができない真理ですけれども、しかし私たちは洗礼を受けたそのお恵みによって、この2つの神秘を知る事ができます。ですから私たちは、知的な暗闇の中にいるかのようで、しかしその中にも、暗闇の中にも真理の光を見ています。

私たちの母なる教会は、私たちがこの玄義を年ごとに、もう一度、何度も何度も生きるように求めています。そこで教会は私たちに、太祖の言葉や、使徒たちの言葉や、私たちの主イエズス・キリスト御自身の言葉を与えてくれます。

私たちの主の御托身の玄義を黙想する時には、その御降誕、主がお生まれになった事を黙想しますが、それと同時にこれは御公現でもあります。何故かというと、この幼子イエズス・キリストは、真の天主であり、真の人であり、その事が私たちに現れたからです。

御降誕の前の4週間は、教会は私たちに、旧約の時代の太祖たちが、「主よ、来たり給え、早く来たり給え、救いに来たり給え」という叫びを、私たちに典礼に与えています。

牧場の牧者たちが天使の声に導かれて、天主の招きに応じて、馬小屋に主を探しに行きます。或いは星に導かれて、東の博士たちが主を探しに1歩1歩進んで行きます。この天使たちの声、或いは光、星の光は何でしょうか?つまり、信仰の光を表しています。信仰の光によって、クリスマスの日には、御降誕のその日には、天主様の秣桶(まぐさおけ)に行って跪き、そして信仰告白をします。これは、私たちの五感によって、この生まれた赤子が、「真の人であり、真の天主である」という事を告白する為です。

もっとも偉大な神秘は、主の、私たちの主の贖いの神秘で、私たちの主の「死と御復活の神秘」です。そしてこれは2つの、二重の神秘が重なっています。この神秘を黙想させる為に、教会は私たちに9週間の準備をさせます。3週間の七旬節から始まる主日、そして4週間の四旬節の主日、そして2週間の受難の節です。

四旬節の最初の日から、教会は私たちに固有のミサを与えています。そしてこの固有のミサには、特別な書簡と特別の福音があって、言ってみれば私たちが一歩一歩、主の御受難へと歩みを進める事が出来るようになっています。それは、最も神聖な三日間、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日のこの3日 Triduum に準備させる為です。そしてこれは、この3日は、私たちに復活へと開かしてくれます。

そしてこの第4主日、今日の主日は、四旬節のこの私たちの準備している丁度中間にあって、私たちをして「喜ばせよう」と教会は思っています。それは何故なのでしょうか?説明いたします。

以前教会の掟、決まりによれば、四旬節の間の大小斎は非常に厳しいものでした。しかしそれにおいても今日だけは、私たちが喜ぶように求めています。教会は私たちに、「復活の喜びを既に私たちが味わう事ができるように」望んでいるからです。

四旬節の間には、「指定巡礼教会」という教会が1つ1つその日によって決まっているのですけども、今日の指定巡礼教会は、「エルサレムの聖十字架教会」なのです。その、この指定巡礼教会がエルサレムの聖十字架教会であるのは、2つの理由があります。

まず第1に、聖エレナ、コンスタンティノ大帝の母が、エルサレムから主の御受難の聖遺物を、たくさんローマに持ち運びました。そのうちの1つが、私たちの主の聖なる十字架の木で、罪の書かれた札と、そして釘などもあります。そしてそれを私たちが今日礼拝し、そして私たちが罪から解放されたという、その自由を味わう事が出来るようにする為です。

第2に「エルサレム」というのはつまり、「天国」の象徴であって、私たちの「復活」を意味します。私たちは主の神秘体ですから、将来私たちがどのようになるか、どのような復活を受けるか、という事を、私たちの主御自身の復活によって証拠を持っています。

これが、今日聖パウロが書簡で言う意味だったのです。書簡の中では2人の女性が出てきます。1人は自由の女性で、もう1人は奴隷の女です。自由の女性には子供がいて、つまりこれは私たちの事で、カトリック教会は私たちを命に産みました、天主の命に産みました。私たちは罪から解放された自由の子供たちであり、天主の子であり、復活の子であります。

今日の福音で、私たちの主がパンを増やします、奇跡的に増加させますが、これは、私たちに将来与えるべき御聖体の前兆でした。復活祭は以前から、太古から洗礼を受ける日であって、洗礼志願者たちはこの日に罪から解放されて洗礼を受けます。そしてそれと同時に、初聖体を受ける日でもありました。

今日の集祷文もまさにこれです。私たちが今日どのように、どのような事を考えなければいけないか、という事の要点が書かれています。私たちが「罪人である」という事を認め、そして「天主様からの助けを必要としている」という事を認め、私たちが謙遜になるという事です。

こうして教会は注意深く、私たちが、「御受難と復活の神秘を黙想する事ができるように」と導いているのです。このようにして教会は私たちを養い、この神秘に与る事が出来るようにしてくれるのです。

マリア様の霊魂は、とても観想的な、観想をいつも望んでいた霊魂でした。聖ルカの福音書によれば、マリア様は、「全ての事をこの御心に留めておいた」と書かれています。ですからマリア様、つまり教会の母であり、神秘体の母であるマリア様に、私たちにも、マリア様のこの観想を味わう気持ちを、味わう心を下さるようにお祈り致しましょう。

では今から、クレドを大きな声で歌いましょう。何故かというと、クレドこそ、私たちのカトリック信仰の表現であるからです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


天主の十戒 第一戒(の最後)と 第二戒 :聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年03月16日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が3月13日(主日)の御ミサの後にしてくださった、「天主の十戒」についての霊的講話をご紹介いたします。

 第4回目は、「第一戒(の最後)」と「第二戒」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年3月13日―大阪 霊的講話「第一戒(の最後)」と「第二戒」


親愛なる兄弟の皆さん、

前回私が説明しなかった礼拝の行為がもう一つあります。聖なるもの、特に秘蹟を正しく用いることです。まことの天主にしてまことの人間である私たちの主イエズス・キリストは、私たちの救いのために七つの秘蹟を制定されました。これら最も聖なる恩寵豊かな手段を敬虔に用いることは、まさしく私たちの主に、天主に確実に敬意を捧げることです。しかし、これらの手段を無視することは主の名誉をけがすことです。そのため教会は、秘蹟は救いに必要であると教えています。私たちの主イエズス・キリストご自身が、洗礼の必要性とご聖体の必要性を教えられました。「まことにまことに私は言う。水と霊とによって生まれぬ者は天の国に入れぬ」(ヨハネ3章5節)。「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない」(ヨハネ6章53節)。秘蹟を正しく用いること、特に告解と聖体拝領を頻繁に用いることは、天主に大きな敬意を捧げることであり、また私たちが大変豊かな恩寵をいただく源なのです。

しかし、秘蹟を乱用することは大変重い罪です。第一戒に反する汚聖の罪です。告解において、まだ告白していない大罪を隠すとき、汚聖が起こります。不幸なことに、汚聖が悪しき聖体拝領において今日頻繁に起こりますが、それは人々が良心に大罪を抱えたままご聖体を受けるときです。ほとんど告解に行かないまま、どのミサでも聖体拝領に行くことによって多くの人々が告解を無視することは、多くの汚聖へと扉を開くのです。手による聖体拝領も、大変多くの汚聖へと扉を開いてきています。手による聖体拝領では、私たちの主にふさわしい敬意を、私たちが主に負い目として持っている敬意を、主はお受けになりません。不幸なことに、この現代に起きている汚聖のもう一つの例は、聖職者や奉献された人による不純の罪です。これは、叙階の秘蹟の乱用、「奉献された人」のけがれです。

聖パウロは言います。「人は心で信じて義とせられ、言葉で宣言して救いを受ける」(ローマ10章10節)。内的な信仰は天主に敬意を捧げますが、外的な信仰の告白もまたそうです。殉教者たちは信仰を告白し、裁判官の前でさえ、その「信仰の告白」で堪え抜き、このために処刑されました。彼らは「信仰の証人」であり、信仰のために喜んで血を流すことによって、信仰の真理を証言しました。これがまさに、殉教者という言葉の意味です。これが第二戒の目的、つまり信仰を告白することによって天主に敬意を捧げることです。初期の教会においては、カトリック信仰のために逮捕され、裁判官のところに連れて行かれたカトリック信者がいました。彼らはキリストを告白し、キリストのために死ぬ覚悟をしました。でも投獄され(しばしば拷問を受け)ましたが、そこでは死なず、のちに釈放されました。これらの人々は「証聖者」と呼ばれました。なぜなら、公に信仰の告白をしたからです。のちに教会は、聖なる生活によってカトリック信仰を公に告白しても、殉教者として死ななかった聖人たちにも「証聖者」という称号を与えるようになりました。天主は真理です。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)。ですから、私たちは喜んで真理のために立ち上がり、私たちの主イエズス・キリストの真理を証言しなければなりません。これが天主に敬意を捧げることです。「人々の前で私の味方だと宣言する者を、私もまた天にいます父の前で味方だと宣言しよう。人々の前で私を否む者を、私もまた天にいます父の前で否む」(マテオ10章32-33節)。注意していただきたいのは、まことの殉教者は自殺をするのではなく、ましてや(イスラム教徒がするように)他の人々を殺すことはありません。彼らは、キリストのために迫害者によって処刑されるのです。

信仰の告白に反する罪は、冒涜であり、天主についての偽りのことを肯定し(あるいは天主についての真理を否定し)、天主を、特に御摂理を批判することです。私たちは、そのような冒涜を自ら行うことは絶対にしてはなりません! 何か理解していないことがあるなら、謙遜にそれについて祈り、そのことに詳しい誰かに助けを頼むべきです。天主は恩寵を謙遜な者に与えられます。大変多くの教義を否定し、自分だけの方法で天主のみ言葉を「再解釈」し、教義からまことの意味を実質的になくしてしまう異端者たちは、カトリック信仰を否定するとき、たとえ冒涜だと理解していなくても、実際は冒涜しているのです。キリストの神性の否定は、イスラム教徒だけでなくエホバの証人や他のグループによって行われていますが、これは冒涜です。しかしまた、ご聖体を否定することや、ご聖体におけるキリストの現存を否定することも冒涜です。これは、私たちに対する天主の愛の最も偉大なるしるしを否定すること、天主の愛を否定することです! これは冒涜です。同じことが、信仰の他の真理を否定することにも当てはまります。真理へ同意することを拒否するのは異端であり、第一戒に反します。公に否定することによってその拒否を告白することは冒涜であり、第二戒に反します。冒涜の典型的な例は、私たちの主が悪魔であるとファリザイ人が告発したことです。「あなたはサマリア人で悪魔に憑かれている! イエズスは、『私は悪魔に憑かれてはいない。私は私の父を尊んでいるのに、あなたたちは私を軽蔑している。私は自分の光栄を求めていないが、それを求めてそして裁かれる方がある』と言われた」(ヨハネ8章48-50節)。言い換えましょう。気を付けよ、あなたたちは天主の審判で、この冒涜の報告をしなければならなくなる。だから悔い改めよ。

私たちの言葉で天主に敬意を示す方法のひとつは、私たちが言うことの中に明らかになっていない真理がある場合、それが真理であることの証人を天主にお願いすることによってです。これが「誓い」です。例えば「反近代主義の誓い」があります。天主だけが心のうちをご存じであり、人が本当に信じていることをご存じです。この誓いをすることによって、私たちがまことの真理に執着し、近代主義者の誤謬を拒否することについて、天主に証人をお願いするのです。これは、天主の最高の知識とその正義に敬意を捧げることです。「誓い」という言葉の意味はこうです。「天主に私が言うことの証人になっていただくこと」。そのような真剣な言葉は、大変な注意をもって、ふさわしい理由があって、軽々しくない場合だけに使うべきです。反近代主義の誓いのように、正当に使われるなら、それは徳の行いです。しかし誤った方法で使われるなら、それは罪であり、重い罪です。まず第一に、偽りのことを誓うことによって、その罪を犯すことがあります。偽りの誓いをすることは、偽証という大変重い罪です。しかし、軽々しく誓うときも、その罪を犯すことがあります。すなわち、無価値なこと、本当に必要ではないことを誓うときです。これは「天主の名をみだりに呼ぶ」ことにあたります。また同じ罪が起こるのは、誰かが天主やイエズス、聖人たちの聖なる御名を、必要もなく、自分が言っていることに注意を払わず、聖なる御名に当然あるべき敬意を示さずに、会話の中で差し挟む場合です。天主の御名やイエズスの御名、聖人たちの名前を、目的もなく常に口に出す人々がいます。これは悪いこと、非常に悪いことです。たとえば敬虔な祈りにおいて正しく天主の聖なる御名を呼ぶことが天主に大いなる敬意を示すのに対して、ほとんど罵り言葉で天主の聖なる御名を不正に呼ぶことは、罪深いことであり、すべきではありません。これはまた、聖なることと関係のある言葉の使い方にも当てはまります。例えば、「hell(地獄)」という言葉ですが、「to have a hell of a good time(とても愉快な時を過ごす)」という表現のように、正しい文脈以外で常時それを使う人々がいます。主は福音書の中で、これを断固として非難しておられます。「私は言う、決して誓ってはならぬ。天を指して誓ってはならぬ、そこは天主の玉座である。地を指しても誓ってはならぬ、そこは天主の足台である。エルザレムを指しても誓ってはならぬ、そこは大王の都である。自分の頭を指しても誓ってはならぬ、あなたには一本の髪の毛さえ白くも黒くもできぬ。『はい』なら『はい』、『いいえ』なら『いいえ』とだけ言え。それ以上のことは悪魔から出る」(マテオ5章34-35節)。

旧約においては、敬虔なユダヤ人は、天主がモーゼに啓示なさった聖なる御名を決して口にしませんでした。その御名が聖書に書かれたとき、ユダヤ人は、「ヤーウェ/イェホヴァ」と読む代わりに「アドナイ」と読みました。その結果、紀元前二百年頃に聖書がギリシャ語(七十人訳)に翻訳されたとき、アドナイという言葉は「Kyrie―主」と翻訳されました。新約においては、使徒たちはこの習慣に従って、「すべての名にまさる名」(フィリッピ2章9-11節)を明らかに意図していながら、 イエズスを「主」と呼んでいました。

当然の敬意もなく、会話の中に聖なる御名や他の聖なる言葉を差し挟む悪い習慣のある人は誰であれ、その悪い習慣と強く闘い、そういう誤りをしたのに気付くたび、毎回祈りを唱えてそれを償わなければなりません。こうすることによって、その人は、きちんとした慎重さもなく口を通して「漏れ出る」その言葉の使い方に完全に同意した訳ではないことを保証するのです。しかし、その習慣と闘わないのなら、その人はその誤りに完全に同意したことになり、完全に大罪の状態になるのです。もし誠実にその習慣と闘うならば、そんな言葉が漏れ出たとしても、完全な同意を与えていないので小罪になるでしょう。即座に償いと祈りをすれば、それが聖なる御名への敬意、隣人への啓発になり、その人はこの悪い習慣に対する勝利を得るでしょう。

聖なる御名を呼ぶためのもう一つの良い方法は、天主に対して約束をするときです。これは「誓願」と呼ばれます。聖にして母なる教会は、三つの福音的誓願、いや三つの福音的勧告を守る誓願を、常に高く評価してきました。聖人の生涯には他の誓願もあります。「贖虜(しょくりょ)の聖母修道会(メルセス会)」の会員は、人質となった人を取り戻すために必要ならば、隣人の霊魂を救うのを助けるための聖なる取引をして、自らをイスラム教徒の奴隷として差し出す誓願をするのです。またイエズス会士は、教皇が依頼するどのような布教活動へも行くという、布教活動の誓願を立てます。会の初期には多くの聖なるイエズス会士が非常に困難な布教に行きました。カナダで殉教したブレブフの聖ヨハネのように。これは重要な問題ですから、司祭が前もってはっきりとした許可を与えていなければ、信者は誓願を立ててはならないと、教会は教えています。天主への正式な約束ではなくて、むしろ単なる「良い決心」と考えるべきです。

聖トマス・アクィナスは、誓願の善について、次のように説明します。「木を丸ごと誰かに与えることは、単に毎年その木の果物を与えることにまさる。木を丸ごと与えた者は、その木になる果物についての権利自体を放棄しているのだから、果物は木をもらった人のものである」。このように、三つの福音的誓願をたてた人は、もはや所有の権利を持たず、自分の意志の権利さえ持たないのです。その誓願をたてた男性あるいは女性は、全面的に私たちの主イエズス・キリストのものなのです。誓願はまた、約束したことを果たそうとする私たちの意志を強めてくれます。なぜなら、天主に敬意を捧げようと思うからであり、また私たちが約束を結んだキリストに対して罪を犯すことに聖なる恐れを抱くからです。特に従順の誓願を通じて、三つの功徳を獲得します。良い行いそれ自体(例えば祈りなど)の功徳、従順の功徳、そして誓願の功徳です! しかし、その誓願を守ることができなければ、一度に三重の罪を犯すことになります。義務それ自体が守れなかったこと、従順が守れなかったこと、誓願に反したことです。

私たちの主イエズス・キリストが私たちの中に生きておられるとき、信仰と愛徳によって、主は私たちの考えと愛情を主のそれらに一致させられます。そうすると私たちの言葉は私たちの主イエズス・キリストのみ言葉を繰り返すようになるはずですから、私たちの会話は良いものとなり、啓発的になるはずです。主は言われます。「良い人はその心の良い倉から良いものを出し、悪い人は悪い倉から悪いものを出す。口は心にあふれるものを言葉に出すからである」(ルカ6章45節)。主が私たちの心を、私たちの霊魂を統治なさっているのであれば、私たちの会話、私たちの言葉は聖なるものになるべきであって、品のないものであってはなりません。私たちは、良い、啓発的な話題について話すべきであって、世俗的なものについて話すべきではありません。第二戒は、天主の御名の使い方について私たちに直接義務を負わせますが、またより一般的に、私たちの話すことについても義務を負わせます。真のカトリック信者の会話は世俗的な人々の会話のようであってはなりません。そこには、主に対して罪を犯すようなものは何もあってはなりません。冒涜もなく、みだりにする誓いもなく、呪いもなく、汚い言葉もなく、人を傷つける言葉も、他のそのようなものもあってはなりません。それどころか、聖ヤコボが言うように、聖なるもので、けがれのないものでなければなりません。「あなたたちの中に賢明なそして経験のある人がいるだろうか。その人はよい生活(会話)をし、知識と柔和をもってその業を行っていることを示せ。…上からの知恵はまず清いもの、そして平和な寛容な謙譲なもの、あわれみとよい実に満ち、人を差別せず、偽らないものである」(ヤコボ3章13-17節)。

私たちの主イエズス・キリストは、御父のみ言葉、愛を呼吸する完全なみ言葉、すべてに超えた天主の愛と隣人への愛です。主が地上に来られたとき、主のみ言葉は「恩寵のみ言葉」でした。「人々はみなイエズスをそれと認め、その口から出た優雅なみ言葉に感嘆し」(ルカ4章22節)た。私たちの主イエズス・キリストが私たちの中に生きておられるとき、私たちの会話は主にふさわしいものになります。聖パウロがティトにこう言うように。「あなた自身がよい行いの模範となれ。教えにあたっては廉正と威厳、とがのない健全な言葉を示せ。私たちについて反対者に悪口(あっこう)を言わせず、自ら恥じ入らせるためである」(ティト2章7-8節)。「あなたたちが言葉と行いをもってすることはすべて、キリストによって、父なる天主に感謝しつつ、主イエズスのみ名によって行え」(コロサイ3章17節)。

天主に敬意を捧げるため、私たちの主イエズス・キリストに敬意を捧げるために私たちの口を使いましょう。まことのカトリック信者の口にのぼることがそぐわないような言葉を、私たちは一言も言わないようにしましょう。このことは、子どもたちの教育にも役立ちます。どんな悪い言葉も決して使うことのないよう、敬意のないまま天主の御名を決して使うことのないよう、両親が気を付けていれば、子どもたちは良い友達と悪い友達を会話によって簡単に区別するでしょう。良くない話をする人々を自然に嫌うようになるでしょう。子どもが家庭で覚えなかった言葉を使ったとき、それが家庭で覚えたものでないことが十分にわかっていれば、両親が「どこでその言葉を覚えたの?」と言えば、子どもはすぐに、そのような言葉を使う人々を避けるべきだということが分かるでしょう。

童貞聖マリアが、私たちが常に良きかつ聖なる話をするよう、その模範と祈りによって、お助けくださいますように! 聖福音において、聖母は常に話を非常に控えておられ、言われる言葉は少なかったものの、知恵に満ちていました。聖母が多くお話しになった唯一のときは、マグニフィカトで天主を讃美するためでした。聖母は天主の御名の聖性という感覚に満ちておられ、こう歌われました。「けだし全能にてまします御者、われに大事をなし給いたればなり。聖なるかな、その御名」(ルカ1章49節)。

天主の聖なる御名が、イエズスの聖なる御名が永遠に祝されますように! アーメン!

天主の十戒 第一戒(第二部)「礼拝」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年03月15日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

 第3回目は、第一戒(第二部)「礼拝」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年3月13日(主日)―大阪 お説教「第一戒について(第二部)-礼拝- 」


親愛なる兄弟の皆さん、

前回、私たちは第一戒について必要とされる内的な条件を見ました。第一戒は命の掟であって、まず、私たちの主イエズス・キリストが信仰、希望、愛の徳によって統治されている内的な命を通して、私たちが全面的に天主のために生きることを義務付けています。イエズスは、真理、道、命として、私たちの心を照らす真理、天国への道、愛の命、永遠の命の始まりとして、私たちの中にまことに生きておられるのです。

しかし、人間は天使ではありません。人間には霊魂だけでなく、体もあります。人間は内的に生きていることを、外的にも表すべきです。人間は、体を使っても天主に奉仕すべきです。それは、礼拝によって行われます。聖トマス・アクィナスは、それを「宗教の徳」と呼んでいます。その徳によって私たちは天主を敬うのです。誰かを敬うということは、何を意味するのでしょうか? それは、「誰かの優越性を、誰かが優れていることを証言すること」を意味します。このように、礼拝は天主の最高の優越性を証言することです。アジアの人々は、尊敬や敬意という感覚を持っています。ですから、アジアの人々が、天主だけのための最高の尊敬である礼拝という感覚を持つのは簡単なのです。

聖トマス・アクィナスの助けを借りて、より明確にその概念を理解することは良いことです。聖書からはっきり言えることは、「敬意」は、天主だけに向けられるのではなく、被造物にも向けられることがあることです。まさに第四戒が、「汝の父母を敬え」と命じています。天主に向けられるのは「最高の敬意」です。聖トマスによる敬意の定義の助けを借りれば、これを簡単に理解することができます。敬意は、誰かの優越性についての証言です。さて、天主だけに属する最高の優越性、絶対的な優越性があり、私たちはそれを礼拝によって証言するのです。被造物には、他の被造物に対する相対的な優越性をもっているものがあります。従って、両親は子どもたちに対して相対的な優越性を持っており、これが、子どもたちが両親を敬う義務を負っている基礎となっています。同様に聖人たちは、普通の信者に対して相対的な優越性を持っており、それが、私たちがこのあと見るように、聖人に与えられる(敬意である)崇敬の基礎です。それゆえに、聖人を崇敬することは大変正当なものであり、いや、それは義務なのです。それが天主の礼拝を損なうことは決してありません。なぜなら、私たちは聖人たちに対しては「相対的崇敬」を捧げるだけであり、天主に対しては最高の崇敬、つまり礼拝を捧げるからです! 気を付けていただきたいのは、聖母には、他のすべての聖人にはまさりますが、天主の下にある特別な地位があるということです。聖母に対して私たちは、「hyperdulia」つまり「特別崇敬」をするのであって、礼拝をするのではありません。また、芸術家の芸術品を尊重することは間違いなく、芸術家の優越性に敬意を払うために非常に良い方法です。聖人たちは天主の芸術品です。天主は、聖人たちを聖なるものとされました。天主は英雄的な段階にまで聖人たちに聖性を与えられました。従って、聖人たちを崇敬することによって、私たちは、聖化する方を、天主を、三位一体を、そのような美しい聖人を作ったお方に大いなる敬意を示すのです。聖人に敬意を払うことを拒否する者は、天主に敬意を払うことはなく、事実、天主を傷つけるのです。確かに、絵を褒めることを拒否する者たちは、事実、その画家を傷つけるのです!

人間のレベルでは、私たちが敬意を払う隣人の優越性には四つの種類があります。知の優越性、徳の優越性、権威の優越性、生まれの優越性です。いくつかの例を見てみましょう。例えば知の優越性については、偉大な研究を成し遂げた人々に対して、私たちは「医師」または「教授」という適切な称号を与えることで敬意を払います。偉大な科学者たちの発見については、私たちはノーベル賞を与えることで敬意を払います。もっと低いレベルでは、各クラスで最も成績の良い学生に対して、学年の終わりに学校で「賞」を与えるという習慣がありました。これは、特定の学生たちが、他の学生たちに対して知の面で相対的な優越性を持っていることを公に認めることです。教会においては、聖トマス・アクィナスや聖アウグスティヌスのように、特定の聖人たちが「教会博士」という称号を持っていますが、それは、私たちの主イエズス・キリストの教理について、彼らが広くて深い知識を持っていたからです。

徳の優越性については、例えば、偉大な勇気を示した兵士たちに勲章を与えることによって、私たちは彼らに敬意を払います。また、例えば、他人の命を救ったり守ったりする偉大な勇気を示した消防士や警察官に勲章を与えることによっても行われます。これは、「功労章」の形を取ることもあります。教会においては通常、聖人たちに捧げられる崇敬は、彼らをすべての信者の模範とさせた「英雄的徳」についての証明なのです。

権威の優越性においては、例えば王、行政当局、軍当局に敬意を払います。聖ペトロは、「王を尊べ」(ペトロ第一2章17節)とさえ言って、私たちがそうするよう命じています。聖パウロは言います。「すべての人に与えねばならぬものを与えよ。貢を払うべき人には貢を、税を払うべき人には税を、恐れるべく人には恐れを、尊ぶべき人には尊敬を与えよ」(ローマ13章7節)。注意していただきたいのは、税金や貢物を支払うことは行政当局などに敬意を払うことの一部であることです。教会においては、教皇や司教、司祭を敬うとともに、お互いを聖霊の神殿として敬い合います。「すべての人を敬い、兄弟たちを愛」(ペトロ第一2章17節)せ。「兄弟愛をもって愛し合い、互いに競って尊敬し合え」(ローマ12章10節)。

最後の種類の敬意を理解することはさらに困難ですが、またさらに重要でもあります。私たちの両親は、常に最も知識がある人物というわけではなく、常に最も徳がある人物というわけでもなく、常に最も権威があるというわけでもありません。子どもたちが小さいときは、両親は彼らに対する権威を持っていますが、彼らが大人になって自分たちの家族を持つようになると、もはやそうではありません。しかし、大人であっても、両親に「敬意」という借りがあるため、両親が老齢になると助けなければなりません。なぜでしょうか? 聖トマス・アクィナスは、両親は子どもたちに対して「生まれの優越性」を持っているからだ、と説明します。子どもたちは、命とその他の多くの善を両親から受けました。命は最も基本的な善であり、それがなければ他の善は役に立たないのですから、このために子どもたちは両親にずっと借りがあるのです。もし子どもたちが両親から受けたすべての善のリストを作ったとしたら、非常に長いものになってしまうでしょう! また、良い両親であればあるほど、そのリストは長くなるでしょう。よくあることですが、自分が両親にどれほど多くの借りがあるかを理解するのは、長い年月がたってからなのです。時には、それを理解するのは両親が亡くなったあとでさえあるのです。子どもたちは、どうしたらそれほどの贈り物に返礼することができるでしょうか? 命と等しいものは何でしょうか? 聖トマスは、そのような領域においては、私たちは受けたものほど多くを返すことは決してできない、と説明します。借りはずっと大きいのですから。そのような領域において私たちにできる最善のことは、両親を敬うことによって両親の優越性を認めることです。

両親に払うべき敬意はまた、同じ理由で私たちが多くのものを受けたすべての人々にも払われるべきです。彼らは、教師、恩人であり、また司祭です、司祭は「霊的な父」であり、私たちに無限の価値のある宝であるご聖体、私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性を与えてくださいます。そのため、私たちは彼らにも敬意を払うのです。

しかし、これら四つすべての領域において、天主は他のすべてに対して無限に上位を占めておられます。天主だけが、絶対かつ最高の知を持っておられます。すべての被造物についての知識だけでなく、すべての被造物を超えて、天主ご自身についての最高の知識を持っておられます。また、天主だけが、すべての善と、すべての有徳な行いの第一の原因であり、すべての善の最高の基準です。天主の行われたすべてのことは、最高の知恵、善、慈悲と正義、親切と秩序をもってなされました。そのため、徳についての最高の敬意は、天主だけに対して捧げられるべきです。他のすべての有徳な行いは、この最高の模範(である天主)に倣い、第一の善である天主によって動かされているに過ぎません。天主は、すべての被造物に対する最高の権威を持っておられ、聖パウロが言うように、すべての権限は天主から来ています(ローマ13章1節)。ですから、このことからも、天主だけに対して最高の敬意が捧げられるべきです。最後に、天主はすべての善の第一の原因であり、私たちがこれまで受けたすべての善の源です。天主は私たち全員に共通の恩人です。他のすべての恩人は、自分たちが受けた善を伝達しただけであり、私たちの両親は、私たちに自分たちが受けた命を伝達しただけです。天主だけが、命と他のすべての善のまさに作者であるお方です。従って、天主だけに最高の敬意が捧げられるべきです。そして、その最高の敬意が礼拝と呼ばれているのです。

従って、私たちは、礼拝というものは、天主の最高の優越性についての黙想から出て来ることがわかります。それには、称讃という感覚、天主の完全性の前で畏怖するという感覚が含まれています。聖ミカエルのように、私たちは叫びます。「たれか天主に如(し)くものあらん?」。誰もいません! 天主と比べられる者など誰もいません。天主は、他のすべてのものに比べ無限に上位におられ、無限に優れたお方です。礼拝は、その称讃から出て来るのです。小さな比較をするならば、サーカスにおいては、高い位置で強く張られたロープのうえを歩くといったような難しいことをしている人たちを見ます。その間、私たちは息をのみ、それが終わるとみんなで称讃の拍手をします。この称讃という感覚によって、天主の無限の完全性のゆえに私たちはどれほど天主を讃美しなければならないか、ということについて、非常に小さいながらも理解が得られます。

敬意は優越性に払われるべきです。なぜなら、私たちは私たちの知を優越したものについての知識で満たすべきであって、知るのに絶対的に無益なもの、「トリビア(つまらないこと)」で満たすべきではないからです! 優越したものを証言することによって、その敬意のおかげで、他の人々がそれを知り、それを「讃美」するようになります。このように、天主を礼拝することは天主を讃美することです。それは、私たちが天主の寛大さにお応えするためのささやかな方法です。

なくてはならない最も重要な礼拝は、前回説明したように、信仰、希望、愛の徳によって行われる内的な礼拝です。これらの三つの徳は、直接天主を対象としているため、対神徳と呼ばれます。私たちは天主を信じ、天主に希望し、天主を愛します。これは確実に天主に敬意を示しています。しかし、天主ご自身を対象とせず、天主への敬意を対象とする別の徳があります。つまり、天主が優れていることを私たちが直接証言する行為です。これが宗教の徳です。宗教の徳は、私たちが天主を礼拝する徳です。信仰、希望、愛は、それ自体で優れた徳です。しかし、宗教の徳は、それらに近接していることから、非常に重要な徳です。なぜなら、宗教の目的は私たちを天主に関係づけるからです。ですから、私たちと隣人との関係を目的とするあらゆる徳よりも優れているのです。

聖トマス・アクゥナスは、内的礼拝には他に二つの行いがあると説明しています。祈りと信心です。「祈り」というまさにその言葉で、皆さんは、各信者の生活の中でそれがいかに重要かということを認識します! しかし、ここで祈りについて完全に説明をしようとし始めるなら、大変時間がかかってしまうでしょう。天主の第一戒が、私たちに祈ることを義務付けていることを覚えておくだけにしておきましょう。私たちの主イエズス・キリストご自身が言われました。「うまずたゆまず祈れ」(ルカ18章1節)。また聖パウロも私たちに命じています。「絶えず祈れ」(テサロニケ前書5章17節)。さて、聖トマスは信心を、天主に敬意を示し、天主に敬意を示すためあらゆる行いを捧げようとする意志の迅速さ、と定義しています。聖パウロは言います。「何事をするにもすべて天主の光栄のために行え」(コリント前書10章31節)。従って、ミサに遅れるのは確実に信心が不足しており、祈りに消極的であるのも信心が不足しています。

外的な宗教の行いはたくさんあります。その行いによって、私たちは天主に敬意を示します。第一は讃美です。天主の優越性を語ること、天主の栄光を歌うことです。これは、修道士や修道女、司祭によって聖務日課において行われているものです。古くからの聖伝に従って、多くの場合は詩篇を用いて、すべての司祭が毎週唱えます。注意していただきたいのは、近代主義者はその聖伝を台無しにし、今や詩篇を唱えるのは月に一回だけであり、その上、彼らが望ましくないと判断した特定の詩篇の節を禁止していることです。彼らは聖霊を咎めたのです!

私たちはまた、他の方法によっても言葉で天主に敬意を示します。誓願と誓約です。次回以降、第二戒について話すとき、私たちはそれを見ることになります。天主に敬意を表するため、宗教の徳を実践するために生涯を捧げる人々がいます。そのため、彼らは「religious(修道者)」と呼ばれます。修道士と修道女が「修道者」です。彼らは通常、三つの福音的勧告を守る「宗教的誓願」を立てます。

私たちは、体の行いによって天主に敬意を示すことができます。ひれ伏すことや、ひざまずくこと、などです。これらの行いが最高の敬意を意味するとき、「礼拝」と呼ばれます。従って、私たちは私たちの主イエズス・キリストを礼拝するために、聖体拝領で主をひざまずいて受けます。それは、まことの主の現存の下での信仰告白です。しかし、それ以前に、私たちは当然捧げるべき礼拝を主に捧げているだけなのです!

聖トマスは、天主に自分の生涯を捧げた人々、愛徳のわざに自分を捧げた人々を助けるために、十分の一税という天主への敬意のための捧げものをすることによっても、私たちは天主に敬意を示すことができる、と言っています。

異なる状況下では、同じ行いが単なる敬意を示すに過ぎず、最高の敬意の意味ではないことがあるので注意してください。ですから、聖書の中には、偉大な聖人たちが他の人の前にひれ伏している場面があります。これは礼拝ではなく、もっと低いレベルの敬意です。アブラハムがそうする場面や、ヨゼフの兄弟たちが彼の前でひれ伏す場面もあります。ダビデがサウルの前でひれ伏すところもあります(列王記上24章9節)。教会では、子どもたちが堅振を受けるために司教の足元でひざまずきます。従って、私たちは、顕示されたご聖体にまします私たちの主に香を捧げますが、また、司祭や下級聖職者、さらに侍者とすべての信者にさえ、香を捧げるのです。最初の献香は礼拝行為であり、他の献香は敬意を示す行為です。天主が第一の位置を保つだけでなく、私たちも「互いに競って尊敬し合え」(ローマ12章10節)と義務付けている聖書(の言葉)を実現させるのです。

さて、敬意を示す外的な行為の中には、天主のために留保されているものが一つあります。これは被造物には決してなされないものであって、それは犠牲です。私たちは天主を讃美し、より低いレベルですが聖人たちを讃美することができます。私たちは天主に祈り、異なってはいますが聖人たちにも祈ることができます。私たちは天主に犠牲を捧げますが、ここで違うのは、被造物には決して犠牲を捧げてはいけません! 犠牲は最高の敬意を示す行為であって、天主に留保された礼拝に固有の行為です。礼拝の最高の行為は、私たちの主イエズス・キリストの犠牲、私たちの救いのために主が十字架の上で御父にお捧げになった犠牲、御体と御血の犠牲であり、そこでは主が大司祭であり、かつ「いけにえ」であるのです。ですから、主が教会にこの最も聖なる犠牲を与えられたため、これは教会の犠牲、つまり、司祭の聖役を通して十字架の犠牲を捧げることそのものであるミサの聖なる犠牲となったのです。

さて、礼拝に反する罪は偶像崇拝と呼ばれます。天主のための礼拝、特に犠牲が被造物に捧げられることです。これは非常に重い罪であり、この罪のために天主は、旧約のヘブライ人や、異教徒の国々を、最も厳しく罰せられました。「私以外のどんなものも天主とするな」(脱出[出エジプト]20章3節)。そして天主は、詳細にわたって、あらゆる逃げ道をふさぎ、あらゆる種類の偶像の建造を禁じられました。「刻んだ像をつくってはならぬ、高く天にあるもの、低く地にあるもの、地の下にあるもの、水の中にあるもの、どんな像をもつくってはならぬ」(脱出20章4節)。

さて、プロテスタントは、聖書も正しい礼拝も理解していないため、第一戒を二つに分け、第一戒の第二の句が第二戒であると言い張り、いかなる像をつくることも禁じられているかのようにしています。それが本当であったなら、天主は、モーゼに青銅のヘビ(荒野[民数記]21章8節)をつくるよう命じられることはなかったでしょうし、契約の櫃の上に二位の天使、ケルビム(脱出25章18節)をつくるよう命じられることもなかったでしょう。実際、さきほど述べたように天主は「刻んだ像」について語られたあとすぐ、続けて説明されます。「その像の前にひれ伏してはならぬ。それらを礼拝してはならぬ。おまえの天主なる主、私は、力ある、ねたみ深い天主である」(脱出20章5節)。ですから、彫像や画像をつくるのを禁じられているのは、「それらを拝むため」であることは明らかです。しかし、それらを拝むためでなければ、禁じられていません。ちょうど、二位のケルビムも青銅のヘビも拝むためでなかったように! 実際、後になってエゼキア王の統治下でヘブライ人は青銅の蛇を礼拝し始め、この信心深い王はそれを粉々に破壊するよう命じました(列王記下18章4節)。青銅の蛇が主の救いのしるし、十字架につけられたキリストのしるしとして使われていた間は、それに何の問題もありませんでした。それはヘブライ人のために非常に有益でさえありました。しかし、その像が礼拝されだすやいなや、それは破壊されなければなりませんでした。

知恵の霊からくる聖人たちの知恵に恵まれた教会は、天国の実際の姿のしるしとして、聖画や聖像を正しく使うことを認可しました。聖画は天国への窓のようなものです。窓を見るとき、人はガラスに注意を払うのではなく、むしろガラスの向こうに見えているものを見ます。同様に、私たちが聖画を見るとき、私たちの思考や感情はすべて、私たちの主イエズス・キリストと天の聖人たちに向けられます。同様に、母親が自分の子どもたちの写真を見るとき、母親の愛情は子どもたちに向けられているのであり、写真の印画紙に向けられてはいません。母親はその写真が好きだと言うかもしれませんが、その愛は子どもたちに向けられているのであり、その写真の画像そのものに向けられてはいません。このことは非常に明白です。これを否定するのは、悪しき心から来ています。すべての聖画と聖像を破壊した「聖像破壊主義者」と呼ばれる異端者がかつていました。教会は、この異端を強く拒否しました。聖画や聖像、十字架像を持つことは良いことです。家の各部屋の主要な位置や、家の中の小さな「教会の内陣」のような場所に、どれかを設置するよう強く勧められています。その内陣のようなところは、家族の祈りのためにみんなが毎日集まるところで、すてきな十字架像や聖画で飾られているのです。しかしながら、誰かがその聖画自体を礼拝し始めてしまい、その聖画が示す人物への信心をもたなくなるなら、偶像崇拝になってしまうでしょう。カトリックという宗教はすべてが天に向かっています。この世のものには執着しないのです。

私たちが地上で礼拝する唯一のものは、ご聖体にまします私たちの主イエズス・キリストご自身です。なぜなら、主は天主であり、まことの天主よりのまことの天主であり、御父と等しいお方であって、それゆえに、私たちが礼拝するのに値するお方であるからです。東方の賢者たちが主を礼拝した(マテオ2章11節)ように、また、主が癒やされた盲人が主を礼拝した(ヨハネ9章38節)ようにです。私たちの主イエズス・キリストを礼拝するのを拒否することは、非常に重大な罪です。

実際には天主でない「神々」を礼拝することは、唯一のまことの天主が存在するのですから、仏陀であれ他のインドの神々であれ他の偽りの神々であれ、そういうものを礼拝することは非常に重大な罪です。偶像崇拝は、単にまことの天主について無知であるだけではありません。まことの天主ではない誰かとか何かに敬意を示したり礼拝したりすることです。ですから、それは最も理性に反しています! 私たち人間の理性には、これがいかに間違っているのかが簡単に分かります。ヒンドゥー教の神々やエジプトの神々、ギリシャやローマの異教の神々などすべての神話に対する信仰を、いったいどのようにしたら持つことができますか? イスラムでさえ、信仰を持つ価値はありません。ムハンマドは、アッラーが彼に啓示したと主張していますが、彼は自分の受けた啓示が天主に起源を持つことを決して証明していません。奇蹟もなく、預言もなく、何もありません。あるものと言えば剣(つるぎ)だけです! それはむしろ、悪魔に起源を持つことの証明でしょう。

唯一のまことの天主を偽りの神々と同じレベルに置くこと、これは1986年にアッシジで行われ、この恥ずべき例ののちも最も高い地位の人々によって何回にもわたって行われてきましたが、私たちの主イエズス・キリストを偽りの神々と同等とみなすこともまた、第一戒に反する非常に重大な罪です。天主は非常に明確に言われます。「私以外どんなものも天主とするな」(脱出20章3節)。偽りの神々を、唯一のまことの天主と等しいレベルに、私たちの主イエズス・キリストと等しいレベルに置くことは、誰にも許されません。教皇がそれを行うとき、第一戒に反する重大な罪を行うとき、それは非常に重大な恥ずべき行いです。

偽りの神々への礼拝は、第一戒に反しています。まことの天主への誤った礼拝も、第一戒に反しています。これは、現代のユダヤ人と異端者に起きていることです。旧約の天主はいとも聖なる三位一体であり、実際に唯一のまことの天主です。しかし、旧約の礼拝はすべて、ご托身に向けられており、私たちの主イエズス・キリストに向けられています。主の来臨の準備だったのです。主が来られたとき主を拒否して、主が来られなかったかのようにメシアの来臨を待ち望むことは、旧約そのものに忠実ではありません。私たちの主はファリザイ人に言われました。「あなたたちは聖書を探り、その中で永遠の命を得ようと思っている。その聖書は私を証明している」(ヨハネ5章39節)。「父のみ前にあなたたちを訴えるのが私だと思ってはならぬ。訴えるのはあなたたちの頼みとしているモーゼである。もしあなたたちがモーゼを信じるなら、私をも信じるだろう。モーゼの記したのは私のことだからである。あなたたちはモーゼの書を信じないのに、どうして私の言葉を信じるだろうか」(ヨハネ5章45-47節)。

まことの天主への誤った礼拝はまた、異端者の中にも見られます。その理由は第一に、彼らが一致を愛する愛徳、私たちの主イエズス・キリストが建てられた教会の一致を愛する愛徳に基づくまことの礼拝を行わないからです。もう一つの理由は、彼らのほとんどが礼拝そのものを歪めているからです。ルターはミサに我慢することができませんでした。ルターは、非常に暴力的な方法で、ミサの聖なる犠牲に反対しました。しかし、ミサの聖なる犠牲は、新約のまことの礼拝の最高の行いなのです!

親愛なる兄弟の皆さん、少し長くなりましたが、礼拝は非常に重要な義務であり、そのため、礼拝が何であるかをよく理解することは非常に重要です。天主の最高の優越性を証言することです。礼拝は、信仰、希望、愛という内的礼拝によって、特に祈りと信心業によって実践されますが、また讃美(声に出す祈り=口祷)によって、礼拝によって、十分の一税によって、そして何にもまして、教会のまさに中心であり天国の永遠の命の中で礼拝するための準備である、ミサの聖なる犠牲によって、外的に実践されます。十字架上の犠牲と非常に密接に一致しておられた童貞聖マリアが、私たちが天主を礼拝し、私たちの主イエズス・キリストを可能な限り天主にふさわしい方法で礼拝するのを助けてくださいますように。そして、それによって、私たちが天国に行くことができますように。アーメン。

初土曜日にマリア様がご要求されている、ほんの少しのこと。聖ピオ十世会 ネリー神父様

2016年03月14日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年3月5日(初土)、大阪の聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年3月5日 初土曜日 聖母の汚れなき御心の随意ミサ
ネリー神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父




聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん、昨日のように今朝は、マリア様の御要求に応える為に、私たちはここに集まっています。昨日私たちがしたように、今日は私たちは、マリア様の御心を慰める為に、そしてイエズス様の聖心をも慰める為に集いました。

ファチマのマリア様の御出現の重要さ、そしてマリア様のメッセージの重要さは、私たちは今強調するまでもありません。私たちがこのメッセージを受けるか、どのように受けるかに従って、この世界に戦争が起こるか、或いは世界に平和が訪れるかが決まります。

マリア様はシスタールチアに現れて、そして茨の冠に被せられている御自分の御心を見せて、人類の冒涜によって貫かれているこの御心を私たちにお見せになりました。ちょうど17世紀にイエズス様が要求したように、マリア様も私たちに、慰めとそして償いを要求しました。マリア様は私たちにたくさんの事を御要求なさいませんでした。何故かというと、既に御自分がその大部分の重荷を自分に取って、自分が受け取られたからです。私たちがするのはそれにほんの少し参与する事、それに与る事です。



マリア様は、償いの意向を持って償いの意思を持って、毎月初土曜日に、ほんの少しの事を4つの事をする事だけを御要求になりました。マリア様が御要求なさった事は、まず悔悛の秘跡、告解の秘跡を受ける事、そしてそれは第2の条件で第2の御要求である御聖体拝領を良くする事ができる為です。そして第2に、御聖体拝領をする事。そして次に、ロザリオを、今朝私たちがミサの前にしましたように1環唱える事、玄義を黙想しながら唱える事。そして最後に、15分間、ロザリオの玄義のどれかをいくつかを黙想しながら、マリア様と共に時を過ごす事、これです。

聖母の連祷を唱える時に私たちは、マリア様がどれほど私たちの為に御苦しみなった御母であるか、という事を示す為に、「殉教者の元后」という言い方でマリア様をお呼びします。マリア様が御告げを受けて、「我になれかし。“フィアット”」と仰った時に、天主の御旨を果たそう、果たす為に全てお捧げなさった時にマリア様は、イエズス様と共に贖いを果たす共贖者となりました。そしてマリア様の苦しみが始まったのです。

マリア様は天主様の御旨を果たさなければならない事をよく知っていました。そして天主の御旨を果たす事をいつも観想、黙想していました。そしてその天主様の御旨がいつ、どうやって明らかにされるか、それの事は詳しくはお知りにならなかったのですけれども、しかしそれが明らかにされた時には、御旨をしっかり果たそう、といつも覚悟しておられました。そこでマリア様は、「Mater Dolorosa“悲しみの聖母”」そしてイエズス様の贖いの業の協力者となりました。

私は皆さんにご質問してもよろしいでしょうか?マリア様は一体どうして、その御生涯にこれほどの苦しみを耐える事ができたのでしょうか?

それは、私たちに対する、人類に対する愛があまりにも熱烈で、あまりにも大きかったからです。マリア様は贖いの業を、イエズス様と共に成し遂げる事を望みました。そこでこの苦しみを全て耐え忍ぶ事ができたのです。マリア様の耐えた色々な苦しみの中に特に抜きん出ているのが、「7つの御悲しみ」であって、私たちは特別に、マリア様の7つの御悲しみに対する信心を実践します。その7つの御悲しみのロザリオさえもあって、その7つの御悲しみを黙想する事が簡単に、黙想する事ができるように作られています。



第1の御悲しみは御苦しみは、マリア様がイエズス様をお抱きになって、聖ヨゼフと神殿にイエズス様をお捧げに最初に行く時に、シメオンがそのマリア様がイエズス様をお連れになっているのを見て、「あなたの心も剣で差し貫かれるだろう。」と預言した事です。その時にマリア様は、御自分がどれほど苦しまなければならないかという、御自分の使命のビジョンが、その事がよくお分かりになりました。それと同時に、それを耐え忍ぶ事ができるお恵みも、聖寵をも頂きました。



第2は、エジプトへの避難です。ヨゼフ様は、天使からのお告げで、「ヘロデがイエズス様の命を狙っているので、聖家族の頭として、イエズス様を安全な所に避難しなければならない。ベトレヘムからすぐにエジプトに逃げなければならない。」という使命を受けます。そしてマリア様はヨゼフ様に従って、母として子供を連れて、ヨゼフ様に従うのですけれども、マリア様はどれほど、この子供の命に対して恐れを感じていたでしょうか。何も、ほとんど何も持たずにどうやって旅をするのか、その備蓄もなく、すぐに旅立たなければなりませんでした。



第3は、イエズス様が神殿で見失われた事です。毎年のようにイエズス様を連れて、ヨゼフ様とマリア様はエルサレムの神殿に行きますけれども、イエズス様が12歳の時に、イエズス様は神殿にお残りなりました。ナザレトに帰る道すがら、イエズス様がいない事が分かると、三日間、ヨゼフ様とマリア様はイエズス様を探しました。ついに三日後、神殿で律法学者と博士たちと話しておられるイエズス様を見て、マリア様は、「一体何故このような事をしたのですか?」と聞くと、「私が、私の聖父の事をしなければならない、という事を知らなかったのですか?」というイエズス様のなさったお答えが、マリア様には理解できませんでした、と福音には書いてあります。



第4の苦しみは、十字架の道行の道すがら、マリア様がイエズス様とお会いに、お出会いになった事です。イエズス様は茨の冠を押し被せられ、そして鞭で打たれて、そしてそのみすぼらしい姿で十字架を一生懸命担いでおられるところをマリア様は見ました。聖伝によると、マリア様それを見て、気を失われた、と言われています。そこでその場所に、マリア様がそのあまりにもそのショックを受けたその場所に、聖ヘレナが教会を建てました。マリア様のその苦しみを記念する為の教会です。



第5の御悲しみは、今しがた私が読んだ聖福音、聖ヨハネによる聖福音のところで、マリア様が十字架の足元にお佇みになり、そしてイエズス様の最後の息を引き取るのをご覧になるところです。イエズス様がその十字架の上でマリア様に、ヨハネを子供として、そしてヨハネを通して私たち全てを、マリア様の御子として与えられました。そしてヨハネにマリア様を母として、私たちの母としてお与えになりました。マリア様御自身の御子イエズスは、そしてその十字架の上で亡くなります。



第6は、マリア様が、息を引き取られた私たちの主イエズス・キリストの御体を、御自分の胸に引き取られた時です。そしてマリア様は、そのイエズス様をまじまじとご覧になって、御血の気の無い、命の無い御体をご覧になって、母として苦しまれた事です。



第7そして最後は、イエズス様をお墓に葬られた時です。イエズス様がもう息の無い、命の無い体をお墓に埋葬された時に、マリア様は、イエズス様が復活してまたもう一度お会いになるだろうという事を、信仰によって知ってはいました。しかしそれと同時に、イエズス様の葬りをした、という事は母にとって大きな苦しみでした。



しかし私たちの言わなければならない事は、マリア様はこれらよりももっと苦しまれている事があります。それはなぜか何故かというと、多くの霊魂たちが、これにもかかわらず毎日のように失われているという事。これほど私たちの為にしているにもかかわらず、人類は、マリア様とイエズス様を冒瀆し、恩義にも感じず、忘恩であり、マリア様はそれらの冷たい心を見て、更に悲しんでおられます。何故かというと、御自分のなさった御苦しみがすべて無駄になってしまう、という事をご覧になるからです。

ですから私たちは、この苦しみのマリア様をお慰めする為に、そして人類の忘恩と冒瀆を償う為に、祈りと犠牲を以って、マリア様に今お祈りを捧げています、犠牲を捧げています。それは私たちの参与によって、私たちの祈りと犠牲が捧げられる事によって、できるだけ多くの霊魂がイエズス様の元に、マリア様を通して、戻る事ができる為です。

私たちはマリア様のこの呼びかけに、この御願いに寛大に応える事に致しましょう。私たちが最後の堅忍の徳を得る事ができるように、マリア様とイエズス様を遂には天国で永遠に見て、マリア様と天国の福楽を楽しむ事ができるように、私たちの要求された事をしっかりと果たす事ができるようにお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

初金曜日にイエズスの至聖なる聖心が要求なさることとは 聖ピオ十世会 ネリー神父様

2016年03月11日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年3月4日(初金)大阪での聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年3月4日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
ネリー神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父




聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する友人の皆さん、皆さん今日は私たちは、このミサの会場に集まって来て、ミサに与っています。そしてこれは、初金曜日にイエズスの至聖なる聖心の要求に応える為です。聖心は私たちに、人類の忘恩と冒涜を償う為に、そしてそれに償いを果たす為に、そして聖心を慰める為に、特別のこのような信心を求めました。私はぜひ皆さんが、将来早くここの、イエズス様の聖心をふさわしく礼拝する事ができるような場所を日本に、そして特にこの大阪に見つける事ができるように願っています。

多くの人々は、「天主様」というものを、私たちをただ罰する為だけの厳しい裁判者であって、何か非常に意地の悪い方のように変に想像しています。ところが、聖書を開いて、旧約聖書や新約聖書を読んでみると、天主様というのは却って、私たちにとって非常に良い方であって、憐れみ深い方である、というのがよく分かります。私たちはもちろん、天主様を畏怖する心を全く取ってしまってはいけません。しかし私たちの心からは、隷属的な、「罰を恐れるが為の恐れ」を取り除かなければなりません。私たちの心にあるのは、愛に満ちた、「天主を傷つける事を恐れる、愛に満ちた恐れ」であって、それは私たちが天主の代理者である、私たちの父母や両親に対して持つ、その敬愛の畏怖と敬意と同じです。

ところで、聖務日課を開いて詩篇を唱える時に、私たちは何度も何度も1日に、「天主様の憐れみ」という言葉、「憐れみ深い天主」という言葉を読みます。天主様は時々、私たちの心の頑なさの為に罰を与える事がありますが、しかしその後にもすぐに、その罰した後にも、天主様は私たちに大きな愛を、憐れみを示して下さいます。

新約聖書では、人となった天主、天主の御言葉は、私たちにもっとその憐れみと愛を私たちに示して下さいます。私たちは心から、悪い恐れ、隷属的な恐れを取り除き、却ってその代わりに愛に満たされなければなりません。フランス語では Bon Dieu、「良き天主様」と、天主にこの「良い方」という事を付けます。このここで私たちは、天主様がどれほど良い方であるかという事を表したいと思っているのです。

聖書では、新約聖書では、私たちの主が私たちに対して、どれほど愛と憐れみを持っているか、という事はたくさんのお話や、その実際になさった事でも分かります。例えば、見失った子羊を、羊を探す、99匹を置いて探す牧者の例え、或いは放蕩息子の例え、或いは失ったドラクマを探して家中を掃き散らす婦人の例え、これはイエズス様の罪人に対する憐れみの例えです。

或いはイエズス様がなさった事は、例えば悪魔を人々の中から追い出したり、或いはラザロの亡くなったのを見て涙を流したり、エルサレムを見て、そのエルサレムの運命について涙を流したりした事、これはイエズス様の憐れみと愛を示さずに一体何なのでしょうか?

イエズス様はそれだけではありません。その愛は実際にも現れました。「自分の友の為に、自分の命を与えるほどの大きな愛はない。」と仰って、イエズス様はそれをまさに実行しました。十字架の上で私たちに命を与え尽くしました。十字架の上を見て下さい。十字架の上のイエズス様を見て下さい。イエズス様は両手を広げて、そして心も開いて、そして私たちを招いています。私たちがその中に飛び込むように招いています。

このイエズスの聖心に対する信心というのは、聖伝と聖書に基づいています、新しいものではありません。しかし17世紀ごろ、天主に対する人類の愛はますます冷え切ってしまっていたので、聖心はそれをまた燃やす為に、特別の啓示をなさいました。イエズス様は以前にも、例えば特別に選ばれた霊魂たちに、聖ジェルトルードや聖メヒティルトなどの修道女たちに、御自分の聖心を現した事がありますが、17世紀にはもっと多くの人々にこれを現しました。それは、ジャンセニズムという異端に対するイエズス様の答えでした。

ジャンセニズムによれば、「天国に行くのは、選ばれた者だけであって、そしてその救われる者は非常に狭まれている」という事を厳しく強調しましたが、しかしイエズス様は、全ての人の霊魂の為に亡くなったのであって、もしも天国に行けないのは、天主様がそれを狭めたのではなくて、人間の過失によって、天国に行けないのである。イエズス様は、私たちが全て天国に行く事を望んでおられる、ただそれを私たちが拒むのが故に問題である処を、ジャンセニズムの人たちは、「天主様が既にもう、憐れみも愛も狭めているのだ」と異端を述べたからです。

イエズス様は、パレ・ル・モニアルという所で聖女マルガリタ・マリア・アラコックに現れて、御自分の聖心を現して、今日私たちが実践している信心を教えてくれました。その信心というのは、9ヶ月の間、月の最初の金曜日に、告解の秘跡を受けて、そしてミサに与って、御聖体拝領をし、もしもできるならば聖時間を行う。そして御聖体、顕示されている御聖体の前で罪の償いをする、まず私たちの罪と、隣人の罪の償いをする。私たちは、天主を愛するが為に隣人を愛します。そして天主への愛と隣人への愛は切り離す事ができません。ですから、「罪の償いをする、隣人の為に罪の償いをする」という事は、「天主を愛する」という事につながります。




私たちがこの信心を実践したその報いとして、イエズス様は12の特別なお恵みを約束して下さいました。その12の内でも特別に私たちにとって大切なのは、イエズス様が私たちの日常生活において、いつも傍にいて下さり、特に最後の瞬間には、痛悔の恵みと悔悛の恵みを与えて下さり、聖なる死を迎えるお恵みを与えて下さるという、恵みの中でも特別な恵みを私たちに約束して下さいました。

もしも私たちが天主を愛するならば、私たちの地上での生活は聖なる生活とならなければなりません。そして天主様を愛するが故に、天主様に多くの霊魂たちを連れて行かなければなりません。天主様は御自分が知られ、愛されるのを望んでおられます。私たちを愛している、という事が知られるのを望んでいます。ですから私たちは、天主様のその望みを叶えてあげなければなりません。私たちが、天主を愛するが為に良き生活をして、隣人に対して親切であり、そして良き模範を示す事によって、天主様の愛が知られ、天主様へと彼らを導く事ができるように、天主様は望んでおられます。イエズス様は、十字架の上で、「私は渇く。」と言いました。何に渇いているのでしょうか?「多くの霊魂たちを欲しい。」と渇いています。

その為の最高の、最善の手段というのが「ミサ聖祭」です。ミサ聖祭によって私たちは、最高の栄光を天主様に与える事ができますし、私たちが救霊の為に働く事ができる最高の力を、お恵みを与えて下さいます。何故かというと、ミサの生贄、ミサの生贄というのは、十字架の生贄と全く同じ無限の価値を持っているからです。

私たちが今からする事がまさにこのミサ聖祭です。十字架の生贄をもう一度再現する事です。この十字架の生贄であるミサを捧げる事によって、私たちは日常の試練や苦難を担い続ける事ができるように、特別のお恵みを求めましょう。天主の愛というのはつまり、私たちに十字架や、或いは苦しみを送って下さる事ですけれども、しかしこれは何故かというと、私たちを浄め、私たちをますますイエズス様へと、イエズス様に従う事ができるようにしてくれるからです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ヨイトカツゲの唄

2016年03月09日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 最近、ふと「ヨイトマケの唄」の替え歌を作りました。「十字架ヨイトマケの唄」、「ヨイトカツゲの唄」です。

 この唄は、退職された高校の物理の先生が、30年以上も前に同窓会か何かで歌ってくださったときに初めて聞きました。その後、忘れていたのですが、数日前、ソウルで夜、誰かが道で、韓国の御通夜のようなときに歌うような節で演歌のような歌を歌っていたのが聞こえてきました。その時、そのメロディーからふと「ヨイトマケ」という言葉が浮かんできました。私は物理が大好きで、その先生が退職されるのはとても残念でした。何でも田舎のご両親の農家の後を継がなければならないとのことでした。先生の歌ってくれた歌も、先生らしい汗水流して一生懸命働く歌でした。苦労して育ててくれた母に感謝する歌でした。

 今、インターネットで検索すると、この歌は以前は「放送禁止」となっていたそうです。「土方」「ヤクザ」などが差別語に当たるとされたからだそうです。

 YouTubeの動画の中でも、島津亜矢さんのものは、歌唱力もあり感動的です。そこで、ふと、替え歌「ヨイトカツゲの唄」が頭に浮かんできました。そこで、それを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。島津亜矢さんが、歌っていると想像して、お聞きください。

 皆さんも、イエズス様に捧げる替え歌がありましたら、ご紹介ください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ヨイトカツゲの唄

"御父のためなら エンヤコラ
マリアさまのためなら エンヤコラ
もひとつおまけに エンヤコラ"

今も聞こえる ヨイトカツゲの唄
今も聞こえる あのかけ声が
仕事の合間の ひるやすみ
ロザリオつまぐり 目を閉じりゃ
聞こえてくるよ あの唄が
救い主の あの唄が
憐れみの天主の あの唄が

仕事場で、学校で、
つらい思いして 親切をして
理解されずに 意地悪されて
くやし涙に くれながら
泣いて行ったその 教会で
イエズスさまの 十字架を見た
イエズスさまの 道行きを見た

茨のかむりで 泥にまみれて
日に灼けながら 御血を流して
罪人にまじって 十字架を担ぎ
天にむかって 声をあげて
力の限りに 祈ってた
イエズスさまの 十字架を見た
イエズスさまの 道行きを見た

愚痴を言おう 恨みをいおうと
息をはずませ 教会にきたが
イエズスさまの姿 見たときに
泣いた涙も 忘れはて
帰って行ったよ 自分の持ち場に
我慢するよと 云いながら
忍耐するよと 云いながら

今から二〇〇〇年前の カルワリオ
人の罪の償いに むち打たれ
頭にゃ茨の冠 かぶせられ
罪の赦しを 祈りつつ
十字架の上で 亡くなった
イエズスさまのおかげで 救われる
イエズスさまのおかげで 救われる

何度か僕も 罪を犯したが
やくざな道は ふまずにすんだ
どんなきれいな 言葉よりも
どんな立派な 本よりも
僕をはげまし 慰めた
イエズスさまの十字架こそ 世界一
イエズスさまの十字架こそ 世の希望

今も聞こえる ヨイトカツゲの唄
今も聞こえる あの子守唄
"御父のためなら エンヤコラ
霊魂のためなら エンヤコラ!"

https://www.youtube.com/watch?v=agcAWUaUjLg

聖ピオ十世会 日本における3月の聖伝のミサ報告(その1)SSPX Japan Traditional Latin Mass

2016年03月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 3月の初金曜日、初土曜日は大阪で、第一主日は東京で聖伝のミサを捧げることができました。今回はネリー神父様をお迎えして、とても有意義な時を過ごすことができ、天主様に感謝します。大阪では、初金曜日にともに御聖体の前で礼拝をして聖時間を過ごしました。

 ネリー神父様は、これで来日が三回目です。前回は、2014年11月でした。
2014年11月16日 東京 ネリー神父様の説教
2014年11月ネリー神父様の大阪での講話
2014年11月16日(日)  ネリ神父様霊的講話(東京)

 個人的には、自分と一緒に叙階を受けた同僚の司祭たちや、神学校時代に同窓生であった先輩後輩の司祭たちが、今、世界中で活躍しているという話を伺い、大変うれしく思いました。

 東京ではネリー神父様が「レターレの主日」のミサを捧げてくださり、ミサの書簡と福音との共通のテーマ、天国の喜び、罪が赦され自由となった子供の喜び、天国での天主との一致の前兆である御聖体礼拝と拝領の喜び、天主の家である天国に行く喜びについて黙想できました。特に東京では47名の方々が聖伝のミサに与ることができ、天主様に感謝します。

 東京では午後の講話に20名ほどの方々が参加され、そのうちのほとんどの方々が晩課にも与ることができました。晩課も多くの方々が大変うまくグレゴリオ聖歌を歌って捧げることができました。天主様に感謝します。

 ネリー神父様は、大阪や東京の午後の講話でアルゼンチン時代からフランシスコ教皇様が聖ピオ十世会をどれほどよく知って、聖ピオ十世会に対して好意的であるかと言うことについて、具体的な例をもって情報を与えてくれました。天主様の御摂理の、慮りの深さに感慨深い思いをしました。

 ローマから公式に訪問を命じられた、シュナイダー司教様(Bishop Shneider)、スイスのクール(Chur)【フランス語ではクワール Coire】司教区のウォンダー司教様(Vitus Huonder)、オプス・デイのアリエタ司教様(Bishop Arrieta)などが聖ピオ十世会の神学校や修道院を訪問して聖ピオ十世会の司祭たちを自由に第二バチカン公会議の問題点や新しいミサの問題点を議論していることを興味深く伺いました。

 今回、来日してくださったネリー神父様に感謝します。

 ネリー神父様は、月曜日に早朝のミサ聖祭を一番に捧げた後、私の捧げた7時のミサにあずかってから空港に向かわれ、スイスの本部に戻られました。月曜日は朝早かったにもかかわらず7名の方々がミサ聖祭に与ることができました。

 最近、ブログ秋田日記のテレジアさんが、「SSPXの聖伝ミサをお薦めいたします」という記事で、聖ピオ十世会のトリエントミサにいらっしゃるように、心からお薦めいたします、とお書きになってくださり、感謝します。聖ピオ十世会の提供する有効な良い御ミサに与り、霊的な糧を受けて恵みに満たされることは、今、私たちにとって本当に必要なことだと多くの方々が認識してくださり天主様に感謝します。そのような認識がますます容易に広がるために、ローマが聖ピオ十世会のことを積極的に肯定することが霊魂の救いにつながると思います。難しい話を理解できない一般の普通の方々のために。

 ネリー神父様のお言葉を秋田日記のテレジアさんが次のように引用しています。「聖ピオ十世会(SSPX)が良いと感じていても、バチカンが反対していると思って、心配で来れない人たちが沢山いるでしょう。その人たちが安心して来て秘跡に与れるように、皆の救いのため」と。非カトリック的なことがまかり通り、今までカトリック教会が信じて行ってきたことが否定されているとは、全くおかしな時代です。ローマの一言は助けになると思います。

 アタナシウス・シュナイダー司教様のインタビューで、言われた

聖ピオ十世司祭兄弟会を恐れる人々は、究極的には、恒久のカトリック真理とそれが道徳と典礼の領域に求めることとを恐れている、

私たちは聖ピオ十世会のカトリック司祭たちと信徒たちの生活と仕事を、現代における教会のための賜であると、しかも、教会内部における、現行の一般的な信仰の危機、道徳と典礼の危機の巨大さを治癒するために天主の御摂理がお使いになる道具の一つであるとさえ考えなければならない、

というお言葉をより多くの方々が理解しつつあることを天主様に感謝します。


 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
またお痩せになった神父様が心配ですが、イエズス様に沢山の犠牲をお捧げしていらっしゃるお姿に倣って残りの四旬節を過ごそうと思います。
御ミサの報告をお送りいたします。

この度は、聖ピオ十世会の総長様第二補佐でいらっしゃるネリ神父様が小野田神父様とご一緒に来日下さり、御ミサを捧げて下さいました。
ネリ神父様には大変お優しい、慈父の印象を受けました。小野田神父様と話されているお姿にも、そのお気遣いと愛徳の深さが溢れていらっしゃいました。
平信徒の私達にまで別れ際には握手をして下さり、恐縮いたしました。

大阪での御ミサの報告です。

3月4日(初金曜日)
四旬節第三主日後の金曜日の読誦ミサ
至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ(歌ミサ)にはそれぞれ16名の方々が、
3月5日(初土曜日)
四旬節第三主日後の土曜日の読誦ミサ
聖母の汚れなき御心の随意ミサ(読誦ミサ)にはそれぞれ15名の方々が預かり、御聖体拝領する御恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日はイエズス様の聖心への信心について、土曜日はマリア様の汚れなき御心への信心について、ネリ神父様からお説教を頂きました。

◎金曜日のお説教の内容を簡単に申し上げますと

『私達は罰を恐れて隷属的に天主様を恐れるのではなく、孝子として天主を愛するが故に畏怖の心で天主を恐れなければならない。天主はだた罰を与える恐ろしい方ではなく、愛と憐みに溢れた方であることを知らなければならない。
天主がいかに善き方で、憐み深い方であるかは 99匹を置いて見失った一匹の羊を探す善き牧者の話、放蕩息子のたとえ、失ったドラクマ貨を探すひとの話、エルザレムの運命を見て涙されるイエズス様などなど、福音書から簡単に知ることができる。

マルガリタ・マリア・アラコックを通して多くの人に伝えられた聖心の信心の内容はイエズス様に対する人類の忘恩の償いとして
●9か月間の初金曜日に告解し、
●ミサに与り御聖体拝領をし、
●出来れば聖時間を過ごして御聖体の前で自分と隣人のために罪の償いをする。
そしてその報いとして12の御恵みを頂くことができ、その中でもイエズス様がいつもそばにいて下さるという恵み、そして人生の最後の時に改悛と聖なる死を迎えるという特別の御恵みを頂くことができる。

ミサ聖祭をとおして、最高の栄光を天主に捧げ、霊魂を救うために祈るなら、天主様は日々の苦難と試練に打ち勝つ力を必ず私達にお与えくださる。』

お説教を拝聴し終えて、イエズス様が私達を愛するためにご自分を十字架上で最後の御血の一滴まで捧げられた愛を思い、十字架上から「われ渇く」と多くの霊魂を求めて渇かれることを思うとき、どうして自分隣人の救霊のために何かしたいと思わないでいられるでしょうか。日本で捧げられる御ミサに一回でも多く与って、イエズス様の尊い十字架の犠牲に今の自分の小さな十字架をマリア様を通して一緒にお捧して霊魂のジュースをイエズス様にお飲ませしたいと思いました。

◎土曜日のお説教で
「私達は今日、マリア様の御要求にお答えするためここに集まっています。マリア様とイエズス様の聖心をお慰めするために集まっています。」
とお説教の冒頭でネリ神父様が仰ったとき、自分たちがここに集まることが出来たお恵みの大きさと使命というか責任の重大さにハッとしました。

人類の冒瀆によっていばらで貫かれた御心をルチアにお見せになったマリア様は、七つの御悲しみの信心にあるように多くの御苦しみをイエズス様とともに人類を愛するために最後まで共に耐え忍ばれました。それにもかかわらず、毎日のように失われていく霊魂をご覧になってさらに苦しみ続けておられるマリア様に同情と感謝の心でいっぱいになります。
マリア様が十字架を担うイエズス様と御会いになった時の御苦しみ、十字架の元に立たれて御子の死をご覧になった時の御苦しみを黙想しながらネリ神父様も涙を流されておいでのようでした。この玄義が心から離れず、初土曜の信心の15分の黙想も、就寝してからもずっとこの事を考えていました。

初土曜の信心を通してマリア様を出来る限りお慰めするために必要な御恵みを御ミサを通してこいねがいました。

◎土曜日の御ミサの後、ネリ神父様に以下の3つの質問にお答えいただくという形でお話頂きました。

1、世界中の聖ピオ十世会の状況と発展について教えてください。
2、今のカトリック教会の状況とローマの状況を教えてください。
3、2016年1月17日にガラレタ司教様がフランスのバイイでされた講話についてご存知の事を教えてください。

世界中の聖ピオ十世会が大きく発展しているお話や、アフリカなどで多くの回心があることなどをお聞きし、それと同時に司祭の数が不足しておられることも知りました。
教会や修道院があるところでも常駐司祭がまだ与えられない島や何か月に一度しかミサがないところがある中、日本は毎月、何度も神父様方がいらっしゃって下さる事に特別の御恵みを感じ、感謝いたしました。
将来、すべての修道会が聖伝に戻って本当のカトリック教会が復活する事を祈り、それまで聖ピオ十世会をマリア様が守り、お助け下さいますよう一層お祈りいたします。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは!(*^∀^*)

この度はネリー神父様もおいで下さり、御ミサ、御講話などをして下さり本当に感謝いたします!
ネリー神父様が、アジアの視察で、フィリピンとそして日本を選んで下さった事をとても嬉しく思います、デオ・グラチアス!!
初金の御聖体降福式もいつもとても嬉しいです!(o^▽^o)ありがとうございます

ネリー神父様がマリア様の7つの御悲しみを1つ1つ詳しく説明してくださり、四旬節中は特に、マリア様の7つの御悲しみも黙想しようと思いました。

デオ・グラチアス!

【報告】
小野田神父様
遅くなりましたがミサの報告をお送りいたします。

金曜日の御説教でネリー神父様は、イエズス様の御心の信心についてお話してくださり、御ミサにどれだけのお恵みがあって、私達にとってすごく大切で素晴らしいものかを教えてくださいました。私は御ミサの御聖体変化の時に、イエズス様の十字架上での苦しみ、私達への御憐れみがどれほどか!を黙想するようにしていますが、今回の御説教を聞いてイエズス様の人間に対する御憐れみ、愛情を深く感じることができ、天主様に対して感謝の気持ちいっぱいで黙想することができました。
その後の、御聖体降福式では、たくさん賛美の聖歌を歌ったはずなのに、時間が短く感じ御聖体のイエズス様とたくさんお話し充実した時間を過ごすことができました。
お忙しいスケジュールの中、日本に訪問してくださったネリー神父様に心から感謝致します!


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 15人(内、子供3人)
女: 32人(内、子供5人)
計: 47人(内、子供8人)


「主の御受難とミサ聖祭」ー聖イグナチオによる6つの観点からの黙想(その2)ーシュテーリン神父様

2016年03月06日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 四旬節もますます深まっています。シュテーリン神父様のなさった講話に従って、「主の御受難」という非常に大切な事を黙想するために、私たちは「ミサ聖祭」に目を向けましょう。

 イエズス様が苦しんだ場所に自分の身を置いて下さい。私たちは十字架の元に行きましょう。 私たちが望むものを乞い求めましょう。私の罪の為に、主は御受難に赴かれるので、悲しみと憂いと恥じらいを願いましょう。イエズス様の苦しみと共に苦しむ恵みを求めましょう。ベロニカのように、ファチマの子供達のように、「私は何とかイエズス様を、イエズス様に慰めを与えたい。何か、イエズス様に何かしたい」と思いましょう。

聖イグナチオは、イエズス様の御受難の色々な場面を6つの観点から黙想するように求めています。ところで、ミサ聖祭は、カルワリオの犠牲と全く同一です。イエズス様は、私たちの霊魂の為、霊魂の救いの為に、この犠牲を捧げられました。
ミサについても、6つの観点から黙想する事ができます。

第一に見ることです。皆さんは、ミサ聖祭で「司祭」を見ます。しかし表面的な人間の姿を見ないで下さい。、そうではなくて、この人間が代表している最高の大司祭であるイエズス・キリストを、その中に認めて下さい。
信仰の目を開くと、祭壇の周りに、多くの他の人々も見出します。祭壇はカルワリオです。私たちの主の十字架の下に立つのは「聖母」です。マリア様は、ミサのその度ごとに現存しています。十字架の下に立ち留まります。聖母マリアは、私たち全てを、ご自分のマントの中に隠してくれます。ご自分の愛する子供たちである私たちに、イエズス様の全ての傷を見せてくれます。私たちは、悲しみに満ちたマリア様と共にミサに与りましょう。いつもマリア様と共に、イエズス様の全ての傷を黙想しましょう。
マリア様は、この1つの1つの傷の深い意味を、これらの傷が一体どこで、どうやって、どういう理由で付けられたか、という事を深く説明してくれるでしょう。
もしもマリア様のこの目をご覧になり、そしてマリア様からの鞭打ちの説明を聞くならば、もう私たちは、「肉における罪を犯そう」という気にはならないでしょう。
カルワリオには、目には見えませんでしたが、全ての「天使たち」がいました。よく芸術家たちが、画家たちが、カルワリオの様子を描写して描いていますが、非常にしばしば、天使たちがそのイエズス様の御手や御足の下にカリスを持って、御血を受け止めているのが分かります。ミサに与りながら、「ミサの周りに天の天使たちの大群」を見て下さい。ミサというのは、この司祭と侍者と、そして数名の人が後ろに座って見ているだけのものではありません。ミサ聖祭とは、時と空間を超えて続けられるカルワリオの犠牲です。



第2は、彼らが言っている「言葉」を聞いて下さい。
ミサの中の多くの祈りは、マリア様の言葉として理解する事ができます。マリア様が、御子イエズス様の御受難を黙想する。そのマリア様の子供である私たちがカルワリオにいるのをご覧になって、「おお、子らよ」という言葉、また、十字架にかかるイエズス様の優しい御言葉を私たちは聞くでしょう。
特に司祭が、御聖体変化の、聖変化の言葉を発する時に、イエズス様の言葉としてはっきり聞くでしょう。司祭が聖変化の言葉を発する時に、天主様がこの全世界を創った時よりも更に偉大な奇跡が起こります。単にパンを御体に変え、ブドウ酒を御血に変えるだけではありません。そればかりでなく、この聖変化の言葉によって、司祭は、イエズス・キリストのカルワリオの生贄をもう一度再現させ、その御傷をもう一度現存させるからです。

第3で、「何をしているか」を見て下さい。
司祭が、ホスチアやカリスを祝別している時の動作を見てください。ミサの色々な儀式の仕草を見て下さい。祭壇に接吻する、或いは手を挙げる、など。これらは、イエズス様の行った行動のシンボルであり、表現です。イエズス様は、皆さんを祝福します。イエズス様は、御自分の心を聖心を、皆さんに与えます。イエズス様は、皆さんの心に光を与えます。このミサの時にイエズス様は、皆さんを連れて、そのパテナの上に置いて、聖父に捧げます。イエズス様は皆さんの元にいて、皆さんはイエズス様の元にいて、イエズス様は皆さんの中に入り、皆さんはイエズス様の中に入って、共に聖父を礼拝して感謝し、そして生贄を捧げます。私たちはイエズス様に同じ苦しみを苦しみ、同情の心を持って、同じ情を持って、そしてイエズス様に近付かなければなりません。



黙想の時には、「イエズス様が目の前に在る」という事を考え、2000年前あった事を考えます。しかしミサでは、皆さんの目の前に、現前に、今、正に、イエズス様が本当に犠牲を捧げておられるのです。マリア様と同じところに、イエズス様のすぐそばで皆さんは今います。そればかりでなく御聖体拝領でイエズス様をお受けすると、イエズス・キリストは皆さんの心にいらっしゃり、全ての犠牲、苦しみは、皆さんの中で行われるのです。
皆さん、御聖体拝領で、イエズス様が皆さんの胸におられる時に、皆さんの手で、イエズス様の御傷を触れて下さい。御聖体拝領の後に、マリア様と共に、イエズス様の御頭に深く刺さっている茨を1つ1つ丁寧にそっと取り除いて、釘を取り除いて、傷をきれいに拭いて、丁寧に拭き取り、傷を洗って、血を洗って、イエズス様を慰めて下さい。何という深い感謝でしょうか。

 第4の点は「イエズス様が人として苦しむのを望まれた」という事です。ミサ聖祭に与りながら、イエズス様が私たちの目の前で、悪人どもの手によって、叩かれ、殴られ、蹴られ、もてあそばれたことを考えてください。私の目の前で、イエズス・キリストが天主の子羊として屠られています。イエズス様に近付いて、イエズス様の受難を、自分のことのように感じてください。イエズス様は私たちに眼差しを向けて、私たちをご覧になっています。イエズス様が言う言葉を聞いて下さい。「これは、お前の為だ。」と。御受難は私たちの心に染み通らなければなりません。十字架の犠牲であるミサ聖祭は、私たちの心を変えなければなりません。


第5のポイントは、「天主が苦しんでいる」という事です。これら全てを苦しむ事できるというのは、実は、天主であるからです、全能の天主であるからです。この全世界を創造した偉大なる天主だからこそ、苦しむ事ができました。ホスチアのようなこんなに小さな所に留まる事ができるのは、全能だったからです。


第6のポイントは、イエズス様の全ての御苦難、このミサは、皆私の為ということです。その全ての傷は、私の為です。御血一滴一滴は全て、流された一滴一滴は全て、私の為。イエズス様のその屈辱、この小さなホスチアの中に留まり、全く忘れられ、隠されて、そして小さなこのみそぼらしい御聖櫃の中に在し給うイエズス様、これは全て私の為です。これら全てを、この全ての苦しみの極みを、私の為に、私の罪の為に全て受けたのです。全ての苦しみを、「私」の為に、「私の罪」の為に、受けたのです。「私は、主の為に何を苦しまなければならないか。」を是非考えて下さい。

 イエズス様の御受難をシエナのカタリナが黙想している時に、イエズス様がシエナのカタリナに現れて、こう仰いました、「おぉ、娘よ。例え全世界でたったお前1人しかいなかったとしても、私は、私の受けた全ての苦しみを、お前1人の為だけに受けよう、受けたい。」

 これら6つの点を考慮しながら、ミサ聖祭の色々な場面を黙想して下さい。ミサに与りながら適用させて黙想して下さい。「ミサ」は「カルワリオの犠牲の再現である」という事を考えて、「イエズス様、私は御身の為に一体何をしたら良いでしょうか?」と、尋ねて下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


「主の御受難」ー聖イグナチオによる6つの観点からの黙想(その1)ーシュテーリン神父様

2016年03月04日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年8月14日、聖イグナチオの霊操による黙想会のシュテーリン神父様の講話の中から、ピックアップして、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

シュテーリン神父様の講話より

 私たちの主イエズス・キリストの御受難の黙想は、私たちを聖化する為に最も大切な手段です。全ての聖人たちは、イエズス様の御受難を黙想するのに大変熱心で、そうする事によって聖人となりました。天国に行く道というのは十字架の道で、私たちは日々、十字架を担っていかなければならないからです。十字架の性質というのは、私たちを痛めつける、私たちはそれによって苦しむ、という事です。困難な事があると、私たちは落胆したり、がっかりします。そして一人ぼっちになったり、戦いをしなければならない所を疲れてしまったり、意気消沈してしまいます。でも、十字架に架けられたイエズス様を見ると、私たちには勇気が湧いてきます。その目には、私たちをご覧になる目は愛に満ちています。そしてその数え切れない傷は、私たちの為でした。イエズス様の御傷を黙想するだけで、それを眺めるだけで、私たちに力を与えてくれます。

「イエズス様、御身は私を救う為に、永遠の火から救う為にこれほど苦しんで下さいました。私の負債を全て支払い、私の罪の為にこうやって支払って下さいました。それなのに、私は御身から頂いた小さな十字架を担う事ができないのでしょうか?」

 ですから、イエズス様の御受難は頻繁に黙想なさってください。もしもイエズス様の御受難を黙想しないならば、今日立てた決心をそのまま実行する力は頂けないでしょう。

 聖イグナチオは私たちに、今からイエズス様の御受難を黙想するように提案します。そして第3部、霊操の第3部、聖イグナチオは、「第3章」と言いますけれども、3部では、190番からその受難の黙想が始まります。

 いつものように準備の祈りから黙想を始めて下さい。

 イエズス様が苦しんだその場所に、皆さん、御自分を置いて下さい、身を置いて下さい。今晩は皆さん一緒に、イエズス様の苦しんだゲッセマニの園に行きましょう。「ゲッセマニの園」というのは、オリーブ山という、橄欖山のふもとにあって、色んな庭が庭園があったのですけれども、その内の1つが「ゲッセマニの園」です。

 ゲッセマニの園は日中は美しいのですけれども、夜は真っ暗で何も見えずに、冷たく物悲しい様子をしています。あたかも動植物も、イエズス様の苦しみを、御受難を見て、目撃しているかのようです。

 私たちはでは、望むものを乞いましょう。ここでは、悲しみと憂いと恥じらいを願います。何故かというと、私の罪の為に、主は御受難に赴かれるからです。その一番大切なのは、イエズス様の苦しみと共に苦しむ、イエズス様に同情する、という事です。イエズス様と共に苦しむ、という事です。

 最初、私たちが黙想会をする時に、イエズス様は苦しみとか悲しみの涙を求めました。何故かというと、私を愛して下さるイエズス様を悲しませた、罪によって悲しませた、という事を、最初は悲しみました。「イエズス様はそんなに親切で優しいにもかかわらず、私はイエズス様に本当に悪態をつきました。だからもう、そのようにイエズス様を悲しませたくはありません。」という悲しみです。「イエズス様、御身の愛する聖心を悲しませた事を辛く思います。」「聖母よ、御身は悲しみの涙を流しています。何故かというと、この御身の子供である私が、その主人、主であり、王を忘れ去って、それを侮辱したからです。私は御身の涙にそう感動を覚えました。私の主をもはや傷付け、罪を犯す事がないように助けて下さい。」

 ここでは、ちょうどベロニカがやったように、「私は何とかイエズス様を、イエズス様に慰めを与えたい。何か、イエズス様に何かしたい。」と思います。

 これから色々な御受難の場面を見ますが、その内に6つの点を適用させて下さい、6つの観点から見て下さい。

 今晩は2つの場面を提案します。1つは、「イエズス様がゲッセマニの園にて苦悩をする所」そして第2には「イエズス様がゲッセマニの園にて逮捕される所」です。

 では、このどんな観点から観想するかというその点を見ていきます。第1はまず、「登場人物を見る」という事です。

 では例えば、ゲッセマニについては、11の弟子たちを見ます。何故かというと、ユダはもう既にいなくなっているからです。まずユダは、イスカリオトのユダは、イエズス様を裏切る為にそこを離れて、大司祭の方へ向かいます。イスカリオトのユダの顔を見て下さい、もう破滅へと向かう弟子の顔です。それから大司祭アンナ、カイファの、イエズス様に対する憎しみの顔を見て下さい、ファリザイ人たちの顔を見て下さい。ちょうど悪魔の様な形相をしている彼らです。そしてユダがやって来て、イエズス様を、「もう逮捕できる」という情報を漏らすと、彼らは喜びに踊ります。残酷で、そして礼儀を知らない、粗雑な大司祭たちのしもべ達や兵士たちが、イエズス様を逮捕しようとやって来ます。彼らの顔や態度を見て下さい。

 ゲッセマニでは、使徒たちはもう疲れ切ってしまって、何もよく分かっていないようです。11人はイエズス様を見て、「一体何が起こるのだろうか。」と恐れているようです。すると、その間にイエズス様がいらっしゃいます。イエズス様の素晴らしい御姿をご覧ください。今から起こる事が何であるかを、詳しくよく知っています。恐るべきことが起こりつつあるというのに、イエズス様は平安を保ちます。柔和で、謙遜で、そして親切です。そしてまた、悲しくもあります。

 第2は、「彼らの言っている事」を聞いて下さい。

 この晩に、ファリザイ人や、或いはアンナ、カイファたちが叫んだり、喚いたり、轟々としている態度を聞いて下さい。

 使徒たちはもう疲れ果てて、もう、すぐ寝てしまいます。

 イエズス様は何て仰るでしょうか?イエズス様の御言葉と、普通の人々の言葉とは、全く天と地の差があります。イエズス様が仰った一言は、全世界の非常に知恵のある人々が書いた、或いは書いた本、或いは言った言葉のものを全て集めた図書館よりも、もっと価値があります。何故なら、天主様の御言葉だからです。イエズス様が何か仰ったとしたら、それは私の為にそう仰って下さっています。良く聞いて下さい、イエズス様はこう私たちに言っています、「私の魂は、死なんばかりに悲しい。私と共に留まって祈れ。」私に、私の心に、イエズス様はそう仰っています。

 皆さん、「御聖櫃におられるイエズス様は、私に何の言葉も仰っていない。」と不平を言わないで下さい。イエズス様が福音の中で語った事は、みな私たちに語られた事だからです。イエズス様は今、皆さんに語りかけています。

 第3は、「彼らが何をしているか」その「行動」を見て、利益を得て下さい。

 イエズス様がなさった行動の1つ1つを辿って下さい。どうやってゲッセマニに歩いて行かれたのか。どうやってこう跪いてお祈りされたのか、また額ずいて、頭を地面に付けてお祈りしていた事か。そして苦しみと悩みのあまり、全身からは血の汗をタラタラと流しておられる様子。

 天使が送られて、御父から送られて、カリス、杯をイエズス様の御血を取る為に、受ける為に持っている様子。しかし、このゲッセマニの天使は、イエズス様に何かと言って慰めを与えるわけではありませんでした。ただ杯で血を受け取るだけでした。この杯、このカリスは、天主の御旨のシンボルでした。

「あぁ、聖父よ、もしもできる事なら、この杯を私から遠ざけて下さい。しかし私の意志ではなく、御身の御旨がなされますように。」御父はイエズス様に訴えます、「この杯を飲み干せ。終わりまで飲み干せ。」

 ここまでは、今までやった黙想、観想と同じです。この御受難の観想には、第4・第5・第6の3つの点が加わっています。

 第4の点です。「イエズス様が人として苦しんだ、或いは苦しむのを望まれた」という事を考えて、私も嘆いて悲しみ、涙する事を始める、そうする事を努める、という事です。できるだけ努めて、嘆いて、悲しみ、涙する、という事はどういう事でしょうか?

 皆さんが愛している誰か、皆さんのご両親、皆さんの子供、皆さんのお友達、皆さんの配偶者。そして誰かが、その皆さんが愛しているその人を誰かが取って、取り去ってしまって、そしてその皆さんと、その皆さんが愛している人の間にはガラスが入って、ほんのすぐ前に、その自分の愛している人がいるのですけれども、ガラスがあるのでそこに行く事はできません。

 すると、皆さんが愛しているその方が、誰かによって殴られ、そして傷付けられ、髪をむしられ、そして拷問の道具で拷問を受けている、というのを目の当たりにしている。そして地面に投げつけ、叩きつけ、そして起き上がらせて、また叩きつける。そしてこの皆さんの愛している誰かが、もう痛みのあまり、こう苦しんで、嘆き、涙にむせんでいるのを見ている。

 もし、そういうのを目前にしたら、もう悲しみのあまり、死に入ってしまうほどの悲しみを覚えます。「何とかして助けたい。」何とかして、こう自分の体が代わりにこう受けても、何とかその人と代わりたい。そして、その自分の愛している人が叩かれるのを見ると、自分が叩かれているかのように痛い。もしも本当にこの人を愛しているのならば、自分があたかもこれを、自分がそれを受けているよりも、その2倍に苦しむのではなのでしょうか?これが、マリア様の苦しみでした。

 皆さんこの観想していながら、イエズス様が目の前で悪人どもの手によって、叩かれ、殴られ、蹴られ、もてあそばれ、御血は顔から滴り出て吹きだしていて、皆さんの顔にもかかっている。そういうのをご覧になるのです。そして御受難の史実が、皆さんの目の前で行われて、非常に近くに行われています。どこかで行われた、昔々の、その何かお話ではありません。私の目の前で、それが行われています。それを聞いて、それを感じています。

 これが、要点の第4です。もちろん、この第4が何故重要かというと、私たちはともすると、この快楽なイスに座りながら、あたかも映画を見ているような、このきれいな、しかし残酷な場面を、ただ単に眺めているだけ、に終わってしまうかもしれません。しかし今回は、イエズス様に近付いて、イエズス様のそれを、自分でかのように感じているのです。

 イエズス様は目を開けて、その苦しみのあまり、痛さを耐えているその眼差しで、皆さんをご覧になっています。イエズス様が何か仰っているのを聞いて下さい、何かこう息絶え絶えに、何か皆さんに「これは、お前の為だ。」と、言っているようではないですか。

 そしてその、そんなに近い、間近で見ている御受難が、私たちの心に染み通らなければなりません。そしてこの御受難が、私たちの心を変えなければなりません。

 つぎに要点の第5です。

 「御神性が隠れている、御神性が自らを隠しておられる」という事を考えて下さい。もちろんイエズス様は真の天主ですから、あっという間に敵を粉々に打ち砕いて、自分は何もない、何も怪我をしない、という事もできたにもかかわらず、それをなさらず、却って、なされるがままに苦しみを受けていた、という事です。これはどういう事を意味するのでしょうか?「御神性が隠れている」

 これは、「誰が、こんなに苦しんでいるか」という事を私たちに理解させてくれます。イエズス様の御受難と御死去というのは、他の人々の、どのような人であれ、死と苦難と殉教や死とは、「苦」の次元が違います。全然違うものです。

 イエズス様は、「全能」です。もう望めば、そのイエズス様を殺そう、或いは害を与えようとする人々を、あっという間に無に帰す事さえもできます。聖ペトロにイエズス様はそうはっきりと仰います、「ペトロよ、お前は知らないのか、もしも私が聖父に願えば、天の大軍、天使たちを私に送って、一瞬の間に敵たちを滅ぼし尽くしてしまう事ができるという事を知らないのか。」

 イエズス様は、「天主」としては苦しむ事はできません。イエズス様は、「人間」として苦しんだのです。何の意味でしょうか?

 私たちは人間ですから、普通の人間ですから、もしも苦しむとしたら、それを、「受ける」のみです。もしも誰かが頭をガーンと打てば、私たちはそれを拷問と受けて、その受けた後にそれをジクジクと感じるでしょう。そしてもしもバンバンバンバン打ち続ければ、私たちは気を失ってしまって、気絶してしまって、もう痛みを感じません。私たちの神経はあまり強くないので、あまりにも続ければ、そのまま気絶してしまって、それで終わりです。

 でもイエズス様は、最も強い者の、更に強い方でした。イエズス様には原罪がないので、全ては完璧に機能していました。そして天主のペルソナによって、人間性が維持されていました。ですからイエズス様は、ほぼ無限に苦しみを受け続ける事ができました。

 もしも誰かが、茨の冠をイエズス様に押し冠らせたとしたら、イエズス様は、「その苦しみを受ける」という事に同意しなければなりませんでした。天主として、「彼らがそういう行動をする事」を許さなければなりませんでした。そしてその恐るべき御受難と苦しみを、最初から最後まで、全ての神経の最も敏感な所で、それを最高の程度で感じなければなりませんでした。

 イエズス様は、気絶する事もなければ、気を失う事もなければ、最初から最後まで、ずっと意識を最高の内に高めて、それを苦しんでいました。そしてその1つ1つが、どれほど恐ろしい、どれほど痛みを与えるか、という事を前もってよく知っていました。人間本性が、天主のペルソナによって支えられているので、イエズス様の苦しみは、無限に苦しむ事ができる苦しみでした。

 イエズス様が鞭打たれた時。強いローマ兵士が、力の強い筋肉隆々な男が、5、6回私たちの肉体に鞭を打てば、私たちは、あまりの痛さに死んでしまう事でしょう。これは科学的に証明されているのですけれども、イエズス様の御身体には、170回以上の鞭が打たれました。科学的な証拠とはどういう事でしょうか?トリノの聖骸布が、イエズス様の身体を包んで、そこに傷が残っています。現代科学の、最も崇高な科学技術の機械で分析してみると、この聖骸布が包んだ男の身体が、一体何回鞭で打たれたか、という事も正確に数える事ができるからです。

 普通の人だったら5、6回打たれただけで、痛さのあまり死んでしまうのに、イエズス様は、170回打ち続けられた、その打ち続けられた後の皮膚は一体、どのようにボコボコになっていた事でしょうか。

 もしも皆さんが、茨の冠の、茨のこのような1つでも頭に刺されたら、あまりの痛さにもう死んでしまう事でしょう。イエズス様は、1本のみならず、たくさんの茨が付いた冠を頭に押し冠らせられて、それをしかもギュウギュウと、それを叩かれて付けられました。

 皆さんがもしも、釘を腕に刺し貫かれたら、おそらく1分も生きていられないでしょう。

 これは1つ、2つではなくて、みな全てまとめて、イエズス様は苦しまれました。信じられないほどの苦しみです。これは、イエズス様が何かするとしたら、それは最後の極みまでなさるのです。

 そこで、第6の要点にいきます。

 そしてイエズス様が、これら全てを、この全ての苦しみの極みを、私の為に、私の罪の為に全て受けた、という事を黙想して下さい。「私は、主の為に何を苦しまなければならないか。」を是非考えて下さい。ここでよく注意して下さい。主は、「私たち」の罪の為にとは書いてありません。これは、全ての苦しみを、「私」の為に、「私の罪」の為に、受けた。

 イエズス様の御受難をシエナのカタリナが黙想している時に、イエズス様がシエナのカタリナに現れて、こう仰いました、「おぉ、娘よ。例え全世界でたったお前1人しかいなかったとしても、私は、私の受けた全ての苦しみを、お前1人の為だけに受けよう、受けたい。」

 そして、この6つの点を考慮しながら、色んな場面を黙想して下さい。

 ご自宅で、イエズス様の御受難を黙想して下さい。

 第1は、マテオ26章36節から46節から、それから、ルカの22章29節から46節です。

 御受難の具体的な状況について、皆さんもしかしたらご存知ないかもしれませんけれども、申し上げます。ゲッセマニでは何が起こったのでしょうか?

 イエズス様はゲッセマニに行って、そして震えて、そして祈ります。この「苦悩」とは、何を苦悩したのでしょうか?イエズス様は2つのビジョンを見ました。

 まず最初は、イエズス様がお1人で祈っていると、この世の全ての罪を一緒に見ました。もしも皆さんが、この汚物を、大海の様な汚物を、ものすごい量を皆さんが飲み干さなければいけなかったとしたら、イエズス様は、1つの罪を見て、それ以上の嫌悪感を抱きます。私たち1人が、普通10万回の、或いは20万回の罪を犯すと言われています。その20万回汚物を飲まされ、それはあなたの、皆さんの罪です。そして私の罪です。私たちのその罪です。そしてそれが、全世界の人々の罪。そしてこの世の始めから終わりまでの、ありとあらゆる恐ろしい罪。そしてその恐るべき、嫌悪すべきその罪の大群が、イエズス様を押しつぶしたのです。

 この時イエズス様がご覧になった罪のビジョンというのは、こう私たちの想像をはるかに超えるものです。「聖父よ、もしもできるならば、このカリスを私から遠ざけて下さい。もうこれは、もうあまりにも多すぎます。」1つの罪の恐ろしさでも、それだけでもひどいのに、何億何兆の多くの罪が襲って来ます。しかし、イエズス様は言葉を続けて、「私の思いではなく意志ではなく、御身の御旨がなされますように。」

 そして唯一、人生の中でただ1回、イエズス様は慰めを天主御父に求めます。しかしイエズス様には与えられませんでした。何故かというと、その慰めを求めて、弟子たちの方に行くのですけれども、彼らは寝ていたからです。そして弟子たちをこう起こして、「おぉ、寝ていたのか。起きて、目覚めて祈れ。霊は起きているが、肉は弱い。」そしてまた、ゲッセマニの園での祈りを続けます。そして、第2のビジョンを見ます。

 イエズス様が支払わなければならない罪について見ます。つまり、イエズス様が苦しまなければならない全ての詳細の内容を、ビジョンで見ます。肉体的な苦しみだけではありませんでした。釘付け、或いは茨の冠、或いは鞭打ち、もちろんそれはそうです。その詳しい、細かい内容も、イエズス様はご覧になります。そして同時にイエズス様は、捨てられた、天主から捨てられた、という事も感じます。霊魂の苦しみも見ます。

 イエズス・キリストがその時に、私たちの為に、霊的にどれほどの苦しみを受けたのか、という事は私たちは想像ができません。イエズス様が肉体上苦しんだのは、私たちは黙想する事ができます。しかし、肉体上苦しんだ全てを合わせても、イエズス様が苦しんだ1%にもなりません。イエズス様の苦悩、その苦しみはあまりにも大きなものだったので、その苦悩のあまり、御血が肉を通して、皮膚を通して、タラタラと滴り出てきました。
 もしも何か突然、恐ろしい何か恐れに捕われたとしたら、冷たい汗が出てきます。恐れるあまり、冷たい汗が出るのです、冷や汗が出ます。もっと恐れると、皮膚のこの毛穴がもっと開いて、もしも更にもっと恐ろしい事があると、あまりの恐ろしさに、心臓がおかしくなってしまって、そして気絶してしまいます。イエズス様は、そのような気絶はありませんでした。そして、あまりにも恐れに、毛穴が開いて開いて開いて、遂には、御血さえも流れ出てしまいました。

 「このカリスを飲み干せ。」

 そして、その時にユダが、イスカリオトのユダがやって来ます。この第2の場面、イエズス様の逮捕はこの続きです、マテオとルカの続きです。

 イエズス様が逮捕された、捕まえられた、捕えられた、というのは、非常にユニークな、特別、特徴のある事件でした。その裏切られたその「やり方」です。イスカリオトのユダは、「あ、あそこだ!あそこにいるから逮捕しろ!」と言う事もできました。でもユダは、「あれだ!」とは言わずに、別の方法で、「あれを捕まえよ」というサインを出します。それは「接吻」で、接吻をする事によって、「これを捕まえよ」と言ったのです。「愛情のしるし」が、「裏切りのしるし」となりました。そしてこの最も恐るべき裏切りの真っ最中に、イエズス様は、ユダを回心させようと努力します。でもユダはそれを望みませんでした。ユダは回心しようとせず、自殺します。

 そのイエズス様が捕われ逮捕された時に、武装した筋肉隆々の兵士たちが200名以上、武器を持って、武装してやって来ました。そしてイエズス様を捕まえるのです。イエズス様は言います、「誰を探しているのか?」「ナザレトのイエズスを探している。」「私だ。」その言葉を聞いて、兵士たちは皆倒れてしまいます。イエズス様が御自分が天主である、という事を見せると、もう彼らは何もする事ができずに倒れてしまうばかりです。イエズス様はこの状況を支配している主でした。イエズス様が同意しなければ何も起こりません。でもイエズス様は、自分の力を見せつける為ではなく、私の為に苦しむ為にやって来ました。そこでイエズス様は、逮捕されるままに。

 別の事が起こります。ペトロは何も理解しませんでした。そしてイエズス様を何とかして守ろうと、剣を取って、剣で斬り付けます。そしてその大司祭のしもべであるマルコスを殺そうとして、こう頭から剣をオオッと下ろすのですけれども、しもべは顔をちょっと、体をよけるので、耳をスパッと切り落とします。イエズス様は、「おぉ、ペトロや。あぁ、やったなあ、お前俺を守ってくれたのか。」と、言う事もできたかもしれません。でもイエズス様は、ペトロを叱ります、「私は、聖父の与えた杯を飲み干さなければならない。」そしてイエズス様は、その切り落ちたそのしもべの耳を取って、その自分の敵の耳を奇跡的に治します。

 イエズス様の御受難を、詳細に詳しく見ていくと、私たちが今まで考えてもみなかった事が分かります。そして色んな場面で、御受難の場面で、この6つの要点を1つ1つ適用させると、その1つ1つが私たちの心深くに、大きな感動を呼び起こします。そしてこの黙想会のある時に、このイグナチオのやっている通りに、この6つの要点を1つ1つ適用させて黙想した事があります。そしてその時に分かった事は、「あぁ、イエズス様、私は御身に、『御身を愛し奉る』と、何度言った事でしょうか。しかし実際は、本当は愛していなかったという事が分かりました。御身が私の為にこれほどまでやって下さったという事を、私は理解できていませんでした。私こそが、御身の苦しみの原因だったという事を理解できていませんでした。御身を何とかしてお慰めして、何とかして近づけさせて、何とか御身と共にいたい、という事さえも考えませんでした。過去、御身の教えて下さった真理や、御身の教えは、とっても退屈なものでしかすぎませんでした。イエズス様、御身の聖なる御受難と御死去を以って私の心を変えて下さい。御身の聖心に燃える愛の炎で、私を燃え尽くして下さい。」

 晩、眠りに就く時に、このイエズス様のゲッセマニの園での苦しみ、或いはまた翌日の朝ミサに与りながら、イエズス様が捕えられた事、逮捕された時の事、裏切られた時の事などを黙想して下さい。

2016年3月には聖ピオ十世会の総長第二補佐であるネリー神父様が来日されます。

2016年03月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会の総長第二補佐であるネリー神父様が来日され、

 来る3月4日、5日には、大阪で、

 3月6日、7日には、東京で、

聖伝のミサを捧げてくださいます。ミサ聖祭が増えた日付について、以下にご紹介します。

【大阪】昨年4月よりミサの場所が変更になりました!
大阪コロナホテル(アクセス
大阪府大阪市東淀川区西淡路1丁目3番21号 (JR新大阪駅の東口より徒歩3分)
「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」 (月によって会場の部屋が異なりますので、入り口に貼り出されてある案内をご覧ください。)

   3月4日(初金)四旬節の平日(3級)紫 
           午後4時    ロザリオ及び告解 
          (四旬節の金曜日は、十字架の道行きをする予定でしたが今回はロザリオをします)
           午後4時30分 ミサ聖祭 (小野田神父)
           午後5時半   ミサ聖祭 (ネリー神父様)
           午後7時から  御聖体顕示式 聖時間

   3月5日(初土)四旬節の平日(3級)紫
           午前09時    ミサ聖祭
           午前09時30分 ロザリオ及び告解
           午前10時半   ミサ聖祭 (ネリー神父様)

           正午12時頃   霊的講話 (ネリー神父様)

 
【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

   3月 6日(主)四旬節第4主日(1級)バラ色(或いは紫)
           午前09時  ミサ聖祭 (小野田神父)
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭 (ネリー神父様)
           午後02時半 霊的講話 (ネリー神父様)
           午後04時  主日の第二晩課 (グレゴリオ聖歌による)


   3月 7日(月)四旬節の平日(3級)紫
           午前6時30分 ミサ聖祭
           午前7時    ミサ聖祭


愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世会デ・ガラレタ司教:教皇フランシスコは聖ピオ十世会を一方的に承認するだろう

2016年03月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

デ・ガラレタ司教様は、フランスのヴェルサイユ近郊のバイイ(Bailly)というところで講話をしました。2016年1月17日、司教様は教会における現状を描写し、ローマと聖ピオ十世会との関係が現状どうなっているかを話されました。司教様は、2009年から2011年まで、ローマとの教義上の議論を進める間、聖ピオ十世会の神学委員会の責任者をつとめた方で、これは講話の中での重要な部分で、DICIによって書き起こされたものです。その概要をご紹介します。

 概要は、次の通りです。

信仰の危機は悪化している

ローマにおいて、「第二バチカン公会議の原則に含まれている全ての結論を導き出そうとする意志」が見える。ローマ当局によれば、エキュメニズム、信教の自由、司教団主義という公会議の主要なイデオロギーはすでに確立されている。今度は、道徳の番だ。真理については進化した、今度は、道徳についても進化しなければならない。人間の生命、道徳、法も変わらなければならない、と。しかし、現行の、公式の教会内部で、それに対する反発が起こっている。これは、底の深い反応で、彼らは底辺に、教義上の問題、信仰の問題があることを理解しだしている。彼らはまた、公会議と公会議後の教導職に問題があることにも気づき出した。彼らは、これらの誤謬を拡散している教会当局に対して行動を起こし、そして反対する必要があること、それは聖伝との完全な断絶に反対するためであることを、自問し理解しはじめている。枢機卿たち、司教たち、司祭たち、信徒たち、とても良い方向に、堅固に動き始めているのを見ている。

ローマからの教義と教会法上の二重の提案

2015年の夏に教理聖省が、聖ピオ十世会が属人区となる提案をしてきた。総長は、ローマからの二つの文書を聖ピオ十世会の管区長らや神学者たち、司教たちに送って、それらを分析し、意見を述べることを求めた。教義上の宣言については、もはやラッツィンガー枢機卿の求めた信仰宣言ではなく、ピオ四世の信仰宣言、つまりトリエント公会議の信仰宣言だった。以前の宣言には、信教の自由に関する段落があったが、今回はそれが削除されていた。エキュメニズムも削除されていた。新しいミサについては、典型版による、ラテン語原文の版による、新しい秘蹟と新しいミサの有効性、これは聖ピオ十世会が常に認めてきたこと、を認めることを求めていた。

総長は、ローマからの提案に、聖ピオ十世会を今あるがままに認めてほしいと答えた。教理聖省のこの提案に答える前に、私たちがどのようなものであり、どのように行動し、何を説教し、何をしており、何をせず、何をする準備がないか、を非常に明確に、徹底的に、説明する、と。しかし、ローマ当局は、少なくとも漠然と、少なくとも原理において、第二バチカン公会議とその誤謬を私たちが受け入れるように意図している。すくなくとも、実践において、教会法上の提案においてそれがあると思われる。

私たちは、ローマとの同意の可能性を、絶対的および理論的なやり方で拒否するのではない。それが、私たちを、自称「レジスタンス」と呼ぶ人々から区別する。自称レジスタンスにとって、ローマとの同意の可能性を認めることができないというのが原則、教義問題となっている。しかし、これは私たちの立場ではない。それはルフェーブル大司教の立場ではなかった。ルフェーブル大司教はローマとの同意のためのプロトコールを締結した。プロトコールを反故にした後でも、「私たちの保護のために、私たちの生き残りのために、必要な条件が無かったから」と説明した。彼らは、第二バチカン公会議に私たちを呼び寄せようとしているので、私たちに聖伝を与えたくないので、条件が存在しない、と。司教聖別後、ルフェーブル大司教は「私は同意するためのプロトコールを締結したが、信仰に反することは何も無かったから、そうした」と言っていた。私たち聖ピオ十世会は、この同じ線を辿る。


聖ピオ十世会を一方的に承認する?

教皇は、私たちがカトリックである、聖ピオ十世会がカトリックである、自分は聖ピオ十世会を決して排斥しない、聖ピオ十世会を正常化しなければならない、と繰り返し言っている。

教皇は、すでにこの道を開始している。もしも教理聖省が、自分に反対するのを見るなら、教皇は教義・理論・実践など全てを飛び越えて、聖ピオ十世会の承認を自分自身でやろうとするだろう。

教皇はすでにそれを始めている。それをし続けるだろう。これは私がそう望むことだからそう言うのではない。そう予見されることを単に述べるだけだ。教皇は、教会法的なというよりは、事実上のこととして、聖ピオ十世会を一方的に承認するだろう。このような事実上の承認は、良い有益な効果がある。使徒職が大きく広がるだろう。特別な効果を持つだろう。ただし、同時にこれには、2つのリスクが存在すると思える。内部的な分裂を引き起こすリスクと、特定の状況下で私たちの説教が条件付けられるリスクだ。そこで、知恵と特別の賢明さ、堅固さ、明白さ、が必要だ。

 天主への超自然的な信頼の徳が必要だ。もしも御摂理がこれを私たちに送るのなら、天主は同時に私たちに必要な恵みを与えてくださる。困難を克服し、我々が必要とする、対処に必要な恵みを与えてくださる。もしも明晰な考えを持っているのなら、善のために訳に立つだろう。もしも、そのような場合、万が一御摂理がそれを私たちに求めた場合、そのような推測をすると、私たちには善を置くなうための必要な恵みが与えられるだろう。天主様は、私たちを決して拒否しないし、私たちに、信仰と良い戦いとにおいて堅忍する必要な手段を常に与えてくださるだろう。

天主の摂理への信頼と、リスクへの恐怖

次のような反論があるだろう。「その場合にはリスクがある」と。生活の中には多くのリスクがある。戦争にはさらに多くのリスクがある。私たちは信仰の戦いを戦っている。戦争だ。しかし、天主の御摂理に信頼する。イエズスの教会に対する愛に全面的に信頼する。私たちはパニックしてはならない。そうしても何も変わらない。私たちは、残された自由の領域を活用する必要がある。敵が後退するなら、私たちは前進しなければならない。リスクがあるからという理由で、家に引きこもっていてはならない。私たちは慎重に行動しなければならない。勇気が必要だ。何よりも、私たちは天主に信頼する必要がある。天主のための戦いだ。私たちの信頼は天主と聖母マリアとにある。


個人的に、私は聖ピオ十世会や聖伝の将来については、全く心配していない。しかし、世界と社会、かつてカトリックであった国々の将来、公式のカトリック教会の将来について、私は心配し、悲観的になる。物事は最悪の事態に発展していることを予見している。はるかに絶望的、極端な状況に至ったとき、天主の御摂理の介入があるだろう。私たちの主は、常に歴史の主である。福音は私たちの頭の髪の一本でさえ、天主の許しなしに落ちないとある。私たちは平和を保つべきだ。何があろうと動揺してはならない。落ち着いた状態であれば、私たちは客観的現実に従って、公正な判断を保ち、バランスのとれた、カトリック的な、キリスト教的な、聖なる態度を保つことができる。それこそが、ルフェーブル大司教が私たちに伝えてくださった知恵であり、カトリックの態度だ。私たちは、どのような事態に直面しても、これらの線に沿って歩み続けることができる。

概要終わり


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


英語訳は、次にあります。
Bishop de Galarreta: "I think the pope will lean towards a one-sided recognition."

原文はフランス語です。 Mgr de Galarreta : « Je pense que le pape va aller dans le sens d'une reconnaissance unilatérale. »

The crisis of the Faith worsens and arouses public reactions

In the first part of his conference, Bishop de Galarreta explained that “a will to draw all of the consequences contained in the principles of Vatican Council II” is developing in Rome. Now that the conciliar ideas of ecumenism, religious liberty and collegiality are established, according to the Roman authorities, it is morality’s turn to be infected with a form of evolutionism: “It is already the case with dogma and with the truth (according to the progressivists); it is already the case with ecumenism, religious liberty, collegiality, the whole liberal revolutionary spirit… so why not morality, too? In the end, it was incoherent not to apply evolution to morality, too;” it, too, is called to adapt to “man’s life, habits, laws, and the evolution of things…”

Nonetheless, the Argentinian prelate recognized that in the face of this disaster, there is a reaction: “Now we are starting to see reactions in the actual, official Church. And deep reactions, for some do realize that there is a doctrinal problem, a problem of faith. They realize that there is also a problem in the conciliar and post-conciliar magisterium. They are starting to ask questions and, this is very important, they understand that to oppose this complete rupture with Tradition, they have to react and necessarily oppose the authorities who diffuse these errors. So we see cardinals, bishops, priests and laymen beginning to react, and in the right way, even in an excellent way, sometimes very firmly.”

A double proposal from Rome: Doctrinal and canonical

Bishop de Galarreta then related that in the summer of 2015 the Congregation for the Doctrine of the Faith proposed a personal prelature along with a doctrinal declaration. And he explained that the “Superior General sent both Roman texts to all the major superiors and to some theologians of the Society, as well as to the bishops, so they could analyze them and give him our opinion.”

About the doctrinal declaration, the Argentinian bishop admitted: “What we see in the doctrinal declaration is that there is no longer Cardinal Ratzinger’s profession of faith. The Roman authorities ask us to make Pius IV’s profession of faith, that is, the profession of faith of the Council of Trent. Also, in the previous profession, there was a paragraph on religious liberty. They have suppressed this requirement. Ecumenism has been removed. On the Mass they had asked us to recognize the validity and the legitimacy. Now they ask us to recognize the validity of the new sacraments and the new Mass according to the typical edition, the original Latin edition. The Society has always recognized this. You see, they are taking away their conditions in an effort to succeed.”

Then Bishop de Galarreta explained that the Superior General thought it important to answer the Roman offer to recognize the Society “as it is” with a preliminary answer that was anything but vague: “Bishop Fellay told us, ‘before answering this proposal from the Congregation of the Faith, I am going to write them an exhaustive explanation to make it very clear how we are and how we act, what we preach, what we do, what we do not do, and what we are not ready to do’,” – in order to find out if the Society really is accepted “as it is”.

The Argentinian prelate then voiced his reservations for a profound doctrinal reason: “They still wish above all to make us accept, if only vaguely, if only in principle, Vatican Council II and its errors.” And he added that this Roman desire can be seen on the practical level in the canonical proposal: “There is always, in one way or another, a submission to the Roman dicasteries or to the bishops.” Which leads him to declare that personally, he would refuse the Roman proposals: “For me, an agreement with today’s Rome is out of the question.” He added that this is a prudential refusal, dictated by the circumstances – in the absence of the necessary warrantees for the life of the Society – and he was careful to distinguish himself from those who make this refusal an absolute.

“We do not refuse, you see, in an absolute and theoretical way the possibility of an agreement with Rome. That is what distinguishes us from the ‘Resistance’. For them it is a principle. It is a doctrinal question: ‘You cannot admit the possibility of an agreement with Rome without being liberal.’ Such is not our position. It is important to repeat it: it was not Archbishop Lefebvre’s position. He signed a protocol for an agreement with Rome. And at that time, even when he broke it off after the protocol, the Archbishop said: ‘it is because the necessary conditions for our protection, for our survival, are not there.’ Because they wish to deceive us, because they do not wish to give us Tradition, because they wish to bring us over to Vatican II. It is because the conditions are not there. He said, ‘If they had granted me the conditions, the conditions I had requested, I would have signed.’ Archbishop Lefebvre said that after the consecration of the bishops. And he explained, ‘If I signed a protocol for an agreement, it was because there was nothing against the faith.’ Neither in the contents, nor in the act of signing. This is obvious. So we continue along these lines.”

Towards a unilateral recognition of the Society?

In the second part of his conference, and beyond the proposals of the Congregation for the Doctrine of the Faith, Bishop de Galarreta publicly confided that he thinks the pope may soon confer a status on the Society of St. Pius X:

“I think, and this is the other aspect of things, that this pope who tells anyone who will listen that we are Catholic, who says and repeats that the Society is Catholic, that we are Catholic, will never condemn us, and that he wants our ‘case’ taken care of. I think– and he has already started down this path – that when he sees that we cannot agree with the Congregation of the Faith, I think that he will overreach any doctrinal, theoretical, practical condition, or any condition whatsoever… He is going to take his own steps towards recognizing the Society. He has already begun; he is simply going to continue. And I am not saying what I desire but what I foresee. I foresee, I think that the pope will lean towards a one-sided recognition of the Society, and that by acts rather than by a legal or canonical approach.”

Bishop de Galarreta admitted that “this de facto recognition would have a good, a beneficial effect: it is a rather extraordinary apostolic opening, and it would have an extraordinary effect.” But he adds that there would then be two risks: that of creating an internal division and that of conditioning our preaching in certain circumstances. And he wondered: “It would take an extraordinary wisdom and prudence, a very great firmness and clarity. Are we capable of this?”

The Argentinian prelate answered by asking his audience to keep a supernatural confidence in the face of these eventualities: “If that is what Providence sends us, then we will have the necessary graces to overcome the difficulties and deal with them as we should, but of course, only to the extent that it is not produced by our will but imposed upon us. If our ideas are clear, we can always take advantage of it and draw the good from it. But in this hypothetical case, – I am giving you my opinion based on conjectures, right? – in this case I think we will have the necessary graces to persevere and do the good we must do in our Holy Mother the Church. God will never deny us or stop giving us the means to persevere in the faith and in the good fight, if we always remain in the faith, in hope, in charity, in the strong confession of the faith, in our daily sanctification.”

Fear of risks and trust in Divine Providence

And he concluded after raising an objection: “So you are going to tell me: ‘In these cases there is a risk!’ – Yes, of course. In life there are many risks; in war there are even more. We are at war. So it will be as God wishes. But I have trust in Providence; I have complete trust in the love of Our Lord Jesus Christ for His Holy Church. So as long as we do not seek it, even if it happens, I think we must not panic. Nothing changes. It is the same fight that goes on, the same lines. We must simply take advantage of these areas of freedom that are left to us. In a war, if the enemy abandons the trenches, we have to take them over; if the enemy falls back, we must go forward. You don’t stay home because there are risks. We must act prudently, and we must take courage. And above all, we must have trust in God. It is the fight for God. Our trust is in Him and in the Blessed Virgin Mary.

“Personally I am not at all worried about the future of the Society or Tradition; however, for the future of society, of our nations that were once Catholic and even of the official Church, yes, I am worried and pessimistic. We can foresee that things are evolving for the worst. And it is when we are coming to a much more desperate, extreme situation that Divine Providence intervenes; God, who always uses divine means, intervenes. Our Lord is always the master of events and of history. And not only in general, but also in particular. So if the Gospel tells us that not one hair of our head falls, that all the hairs on our head are counted, that not a sparrow falls without the permission of God, I think we must remain peaceful. That is how we maintain an equitable judgment on objective realities and preserve an attitude that is not only balanced, but also Catholic, Christian and holy. That is the wisdom Archbishop Lefebvre passed on to us, this Catholic attitude. We can certainly continue along these lines in the present situation of the Holy Church today, and in the face of all the eventualities that will soon present themselves.”
(source: FSSPX/MG – DICI no.331 dated Feb. 26, 2016)


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