Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

カトリック教会では大晦日にテ・デウム Te Deum を歌います。元旦には Veni Creator Spiritus を歌います。

2014年12月30日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 明日の12月31日には、天主に感謝する Te Deum を歌うことによって全贖宥を得ることが出来ます。以下YouTubeをご紹介いたします。もっとも有名なシンプル・トーンです。




 愛する兄弟姉妹の皆様もどうぞお歌い下さい。

Te Deum laudamus: te Dominum confitemur.
Te aeternum Patrem omnis terra veneratur.
Tibi omnes Angeli; tibi caeli et universae Potestates;
Tibi Cherubim et Seraphim incessabili voce proclamant:
Sanctus, Sanctus, Sanctus, Dominus Deus Sabaoth.
Pleni sunt caeli et terra maiestatis gloriae tuae.
Te gloriosus Apostolorum chorus,
Te Prophetarum laudabilis numerus,
Te Martyrum candidatus laudat exercitus.
Te per orbem terrarum sancta confitetur Ecclesia,
Patrem immensae maiestatis:
Venerandum tuum verum et unicum Filium;
Sanctum quoque Paraclitum Spiritum.
Tu Rex gloriae, Christe.
Tu Patris sempiternus es Filius.
Tu ad liberandum suscepturus hominem, non horruisti Virginis uterum.
Tu, devicto mortis aculeo, aperuisti credentibus regna caelorum.
Tu ad dexteram Dei sedes, in gloria Patris.
Iudex crederis esse venturus.
Te ergo quaesumus, tuis famulis subveni: quos pretioso sanguine redemisti.
Aeterna fac cum sanctis tuis in gloria numerari.

V. Salvum fac populum tuum, Domine, et benedic hereditati tuae.
R. Et rege eos, et extolle illos usque in aeternum.

V. Per singulos dies benedicimus te.
R. Et laudamus nomen tuum in saeculum, et in saeculum saeculi.

V. Dignare, Domine, die isto sine peccato nos custodire.
R. Miserere nostri, Domine, miserere nostri.

V. Fiat misericordia tua, Domine, super nos, quemadmodum speravimus in te.
R. In te, Domine, speravi: non confundar in aeternum.

日本公教会祈祷文より日本語訳です。

天主にまします御身(おんみ)をわれらたたえ、主にまします御身を讃美し奉る。
永遠(えいえん)の御父(おんちち)よ、全地は御身を拝みまつる。
すべての御使いら、天(あま)つ御国(みくに)の民、よろずの力ある者、ケルビムも、セラフィムも、絶間なく声高らかに御身がほぎ歌をうたいまつる。

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の天主、天も地も、御身の栄えと御霊威とに充ち満てりと。
ほまれにかがやく使徒のむれ、ほめたとうべき預言者のあつまり、潔(きよ)き殉教者の一軍、みなもろともに御身をたたえ、全地にあまねき聖会は、御身、限りなき御(み)いつの聖父(おんちち)を、いとたかき御身がまことの御独り子と、また慰め主なる聖霊と、ともに讃美し奉る。
御身、栄えの大君(おおぎみ)なるキリストよ、御身こそは、聖父(おんちち)のとこしえの聖子(おんこ)、世を救うために人とならんとて、おとめの胎をもいとわせ給わず、死のとげにうち勝ち、信ずる者のために天国を開き給えり。
御身こそは、御父の御栄(みさか)えのうちに、天主の右に坐(ざ)し、裁き主として来りますと信ぜられ給う。
願わくは、尊き御血(おんち)もてあがない給いししもべらをたすけ給え。
かれらをして諸聖人と共に、永遠の栄えのうちに数えらるるを得しめ給え。

主よ、御身の民を救い、御身の世継ぎを祝し、かれらを治め、永遠にいたるまで、かれらを高め給え。
われら、日々、御身に謝(しゃ)し、世世にいたるまで聖名(みな)をたたえ奉る。
主よ、今日(こんにち)われらを護(まも)りて、罪を犯さざらしめ給え。
われらをあわれみ給え、主よ、われらをあわれみ給え。
主よ、御身に依り頼みしわれらに、御あわれみをたれ給え。
主よ、われ御身に依り頼みたり、わが望みはとこしえに空(むな)しからまじ。


 つぎのYouTubeは、あまり知られていませんが、次が、荘厳トーンの Te Deum です。ソレムの修道院の録音です。




 1月1日(元旦)には、聖霊に対して Veni Creator Spritus を歌うことによってやはり全贖宥を受けることが出来ます。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。


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私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお喜びを申し上げます。

2014年12月25日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
Alma Redemptoris Mater, peccatorum miserere!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお喜びを申し上げます。

 全宇宙の創造主が人間となって、私たちのうちにお生まれになりました。数万光年の巨大な銀河を創り、星座を定め、植物と動物の世界を統治している全知全能永遠の天主が、人間となって今から2000年前にお生まれになりました。

 その昔、イザヤを通して天主はこう預言されました。"Deus ipse veniet et salvabit vos. tunc aperientur oculi caecorum et aures surdorum patebunt." (35章)天主自身が来られ、おまえたちを救いたもうだろう。その時、盲目らの目は開け、耳の聞けない者らの耳は開くだろう。死と地獄とに打ち勝つ天主が、天国の門を開くためにお生まれになりました。

 ベトレヘムの寒村に、「静けき真夜中」にお生まれになり、天主の御一人子、人間となった永遠の天主の御言葉は、み母の胸にやすらかに眠っておられます。まき場の夜空高くに、天主のみつかいのうた声がひびきます。天のいと高きところに天主に栄光あれ!と。天使たちは、牧場にいる羊飼いたちに、よき便り告げ、光にみちて天のみ使いらは、喜びあふれてほめ歌うたいます。天のいと高きところに天主に栄光あれ!地には善意の人々に平安あれ!と。み告げ受けて、羊かいは、群れ打ちおきて人間となった天主を礼拝しようと道をいそぎます。

 聖母マリアと聖ヨゼフとの後、ベトレヘムの羊飼いたちが、人となった天主を最初に礼拝する特権を受けます。そしてベトレヘム(その意味は「パンの家」)という地も、御聖体を制定すべく生まれた贖い主によって祝福されます。ベトレヘムの旅籠屋には救い主を受け入れる場所がありませんでした。しかし、ベトレヘムの羊飼いたちは違いました。

 ベトレヘムに天主がお生まれになって200年後、ユダヤ人が追い出され、異教徒らが入り込み、キリスト教は禁止され迫害を受けていましたが、オリゲネスは、ベトレヘムにはイエズス・キリストが生まれた洞窟が生まれた場所があること、信仰に反対する敵でさえキリスト者らが礼拝するイエズス・キリストが生まれた場所であることを認めていることを書き記しています。(ケルスス反駁1章51)339年には、聖ヘレナがベトレヘムに聖誕の教会を献堂し完成します。

 638年、イスラムによる占領により、ベトレヘムはイスラムの支配下に入ります。イスラムは聖地を500年支配し、キリスト者は迫害を受け、残念ながら多くは背教しました。ナザレトでさえもキリスト者がほぼいなくなり、さらに1009年に起きた迫害によって、聖地の至聖所はことごとく破壊されますが、ベトレヘムの聖誕のだけは奇跡的に免れました。第一次十字軍が到着したとき、キリスト教の町として留まったベトレヘムのキリスト者たちはこの解放者を大歓迎します。ベトレヘムは、20世紀まで人口の大部分がキリスト者としてとどまり、2014年のクリスマスもキリスト教の町として人となった天主を迎えています。最初の羊飼いたちの礼拝者と、最初の幼子の殉教者たちの後継者として。

 私たちもベトレヘムの洞窟を訪問しに行きましょう。ベトレヘムには、私たちが感嘆しなければならないものがあります。私たちが愛さなければならないものがあります。私たちがまねしなければならないものがあります。

 はい、ベトレヘムの洞窟には、私たちが感嘆しなければならないものがあります。天主が、馬小屋で眠っておられる! 天主が藁の上に寝ておられる! 天のいと高きところに玉座を持つ天主が、拒絶されて、貧しい羊飼いたちと動物らと友におられる!

 はい、ベトレヘムには、私たちが愛さなければならないものがあります。最高の善、無限の善である天主がそこにおられます。まずしい赤子として生まれることを選んだ天主が、そこにまします。恐るべき天主ではなく愛すべき天主として。

 ベトレヘムには、私たちがまねしなければならないものがあります。天の主、創造主、王の王が、私たちにその模範を持って教えておられます。「私は柔和で心の謙遜な者であるから、私に倣え」と。

 ベトレヘムの愛すべき幼きイエズス・キリストを礼拝し、お愛ししましょう。そして、イエズス・キリストを愛するが故に、私たちの隣人を愛しましょう。

 ベトレヘムの馬小屋に行きましょう! まぐさ桶で寒さに震え、私たちのために泣き、凍えておられる贖い主イエズス・キリストに感謝しましょう。私たちの主イエズス・キリストは、私たちに赦しを与えるために、私たちを待っておられます。さあ、すぐに、今すぐ、ベトレヘムに行きましょう。赦しを得るために。イエズス・キリストが私たちのために持っている計り知れない愛をいつも考えましょう。

 幼子が私たちのために生まれました。救い主が私たちのために生まれました。さあ、ベトレヘムに行って、天主なる幼子を礼拝しましょう。私たちも、私たちの受ける十字架と寒さと苦しみをイエズス・キリストのために捧げましょう。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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聖ピオ十世会の修道女たち──ルフェーブル大司教の霊的娘たち

2014年12月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
Alma Redemptoris Mater, peccatorum miserere!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会の修道女会について更に「聖ピオ十世会の修道女たち──ルフェーブル大司教の霊的娘たち」という記事をご紹介します。

 私たちの主イエズス・キリストの良き御降誕をお迎え下さい。12月25日には、大阪で聖伝のミサがあります。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

SSPX Sisters: Daughters of Archbishop Lefebvre
聖ピオ十世会の修道女たち──ルフェーブル大司教の霊的娘たち



二〇一一年五月十九日

 ご復活から八日目の日曜日(またの名を白衣の主日)の五月一日、聖ピオ十世修道女会は新修練女たちと彼女たちの誓願、そして誓願の更新のための毎年恒例の祭式を催しました。ミシガン州ブラワーヴィル(Browerville)にあるイエズスの聖心修練院での、このすばらしいイベントに先立って、アメリカ管区長ロスタン(Arnaud Rostand)神父様主宰の黙想会がありました。管区長様はそれに続く誓願式と祭式──特集記事として何枚か写真を載せておきます──をも司式してくださいました。



 同様の祭式が、フランス、リュフェック(Rufflec(Charente))にある修道女たちのサン・ミシェル・アン・ブレン(St. Michel-en-Brenne)本部修道院付属の、先日修復された中世風の美しい教会で、アルフォンソ・デ・ガラレタ司教様司式による壮麗な司教荘厳ミサとともに催されました。

 今年はまた、カンザス州セントメリーにあるセントメリー・カレッジとアカデミーに聖ピオ十世修道女会が到着して三十周年を記念しています。修道女たちはここで最も密接に関係した使徒職を実践しています。さらにその後、五十周年のお祝いを迎えることになるはずですが、さしあたって、世界中にさまざまな修道会の姿が広がっているのと同じように、聖ピオ十世修道女会の歴史、目的、生活を簡単にご紹介します。


"Tradidi quod et accepi──私は受け取ったものを伝えた"

 聖パウロのこの言葉を繰り返しながら、ルフェーブル大司教様はローマ・カトリック教会への忠誠を宣言することを望まれました。大司教様は、ミサと聖伝のためのご自分の戦いは、ご自分一人だけの十字軍でもなく、ご自分だけが説いてきた教義でもないということを明確にしていました。それどころか、天主の権利、霊魂、真理──信仰──こそが大司教様の関心でした。大司教様が伝えたものを受け取りながら、私たちは教会が守護者となっている光り輝く宝石のような教義の豊かさと聖性とに、本当に驚嘆しています。天主の用意された道に完全に歩みを合わせた一人の人物は、修道生活というとうとい宝をもその中に含ませていました。聖ピオ十世修道女会です。この会はルフェーブル大司教様によって創立された唯一の修道会ではありませんが、本会の呼称が暗示するように、司祭兄弟会の「姉妹会」を暗示しており、霊性と目的において対を成しています。

始まり

 一九七〇年、シャリエール司教は正式に聖ピオ十世司祭兄弟会の会則を承認しました。そこにルフェーブル大司教様が未来の修道女会について述べているのを読むことができます。しかしながら、この願望は三年近くの間、書面上にあるままでした。何が欠けていたのでしょうか? 修道女たちです! ですが、何事にもしかるべき時というものがあるのです!

 この三年の間、司祭たちと秘跡を求める声が世界中から上がっていました。結果として大司教様は息つく暇もないほど世界中を駆け巡ることとなりました。一九七三年二月、大司教様はオーストラリアのメルボルンに到着されました。そこで、修道生活で天主に身を捧げたいと熱望している十九歳の女性に出会います。入会志望者のジャニン・ワードは母国に入りたい会を見つけられず、あることを耳にしました──噂にすぎないとしても本当のことです!──訪問中のフランス人司教が修道会を創立するというのです。そこで彼女はとても単純に、志願者として受け入れてくれるよう懇願しました。大司教様はというと、この女性が自分に修道会の創立に着手するよう懇願しているのだと考えました。この二人の間に考えのずれがあったため、未来の志願者は旅行を計画しました。

 未来の修道女会の創立者と、その最初の霊的娘は何語で会話をしたのでしょうか? 英語でしょうか? フランス語でしょうか? 大司教様は彼女のアクセントを理解するのが困難で、彼女はひとこともフランス語を話せませんでした! 一九七三年九月になると、ジャニン・ワードは祖国を離れエコンへと出発しました。彼女が志願者にすぎないことを考えると驚くべきことです。他の修道女たちも、修道会もなかったのですから! しかしながら、あらゆる物事の監督者であるみ摂理は新しい志願者を見捨てませんでした。とはいえ、修道生活での養成ができるようになる前に、言葉の壁を壊さなければなりませんでした。大司教様はブルターニュのドミニコ会の共同体を見つけました。そこでは志願者と、すぐに続いてやってきた他の人々を温かく受け入れてくれました。その後、未来の修道女たちの修道者としての養成は自分には不可能だと確信していたため、大司教様は、宣教女であるご自分の妹、マリー・ガブリエル修母に援助を乞い求めました。



 マリー・ガブリエル修母は、四十年以上、聖霊修道女会で宣教事業に献身していました。霊魂たちのためにほがらかな熱心さに満たされて、彼女はアフリカ大陸で多くの時を過ごしました。

 一九七四年、マリー・ガブリエル修母はヨーロッパで病気療養中でした。愛するアフリカへ戻ることを待つ一方で、天主のみ摂理が別の方向を彼女に指し示しているのを見て取りました。そのしるし──教会内の危機、信仰の喪失が続き、彼女の修道会での修道者の精神が失われていること、衰えた健康、修道生活を伝えていくための助けの手を乞う彼女の兄のねばり強い要請──は徐々にはっきりしていきました。修道会への強い愛情にも関わらず、マリー・ガブリエル修母は大きな一歩を踏み出す決心をしました。聖ピオ十世修道女会の萌芽は彼女の母としての心へと取り入れられたのでした。

 最初の修練院はローマ近郊のアルバノに据えられました。そこでマリー・ガブリエル修母の指導のもと、ジャニンの志願期は、彼女の着衣式──一九七四年九月二十二日──まで続きました。これは新修道会のまことの誕生の日でした。二年後、一九七六年九月二十九日、初誓願が立てられました。儀式の間、お聖堂で十二名の修練女と八名の志願者たちの姿を数えるのはなんという喜びであったことか。マリー・ガブリエル修母は喜んで彼女の妹に手紙を書きました。「私はこの新しい修道会にますます愛着を感じるようになっていると認めます。み摂理がどれほど注意深く私どもを見守っていてくださるか、とてもよくわかるのですから」

 事実、天主はこの修道者共同体を祝福し続けてくださっています。一九七四年に創立されてから、二〇一〇年五月現在では、百五十名の立誓願修道女たちを数えるまでになりました。十ヶ国にある二十四の共同体には、四つの修練院(フランス、アルゼンチン、アメリカ、ドイツ)があります。本部修道院はフランスのSt. Michel-en-Brenneにあります。

共贖者なる聖母の修道女たち

 聖ピオ十世のご保護のもとに修道女たちを置き、信仰を何も分かつことなく保てますようにと聖人の守りを呼び求め、大司教様は、もう一つの美しい呼び名を彼女たちに与えました。すなわち「共贖者なる聖母の修道女たち」です。聖母こそ、大司教様が修道女たちの内的生活の模範、そして理想として提示した霊魂です。

 大司教様は会憲において「聖ピオ十世修道女会の霊性は、ミサの聖なる犠牲への献身を、まったき中心に置くことである」と説明されています。

 これこそ、聖ピオ十世会と「共贖者なる聖母の修道女たち」の創立の背後にあった意向です。カルワリオでのように、ミサ聖祭を捧げる祭壇には一人の司祭がいなければならず、この司祭の傍らには、ミサの聖なる犠牲にまったくその身を捧げた、共贖者の役割にまったくその身を捧げた、聖別された童貞女たちもいなければなりません。彼女たちはまた、そこで、祭壇の足元で、十字架の足元で、「共贖者なる聖母に従い、そのお姿のうちに」みずからをお捧げします。事実、ルフェーブル大司教様によってしるされた聖ピオ十世修道女会の深遠かつ際立った目的は、この共贖者としての生活、そして償いを愛することです。

 この目的は、みずからの聖化のため、使徒職の実りのために自分たちを捧げながら、聖ピオ十世会の司祭たちを霊的に支援する者になって欲しいとの、ルフェーブル大司教様の熱烈な望みに親密に結びついています。カルワリオにおいてすら、聖主はおひとりでご自分の犠牲を捧げようとは望まれず、聖母との一致と奉献を通して、聖母が世界を共に贖う者になって欲しいと強く望まれました。同じように、修道女たちは観想と犠牲によって、聖ピオ十世会の司祭たちのたゆまぬ活動と熱心な使徒職を支援するのです。

使徒職の霊魂

 聖ピオ十世修道女会は「半観想の」修道会です。つまり活動と観想の両方の一体化した「混合生活」を守っています。聖主ご自身、説教をなさり奇跡を起こし、その後、祈りに多くの時間を割ける孤独な場所へと退かれた、混合生活を送られました。修道会は使徒職の活動的事業を引き受ける一方で、その原則となる目的は、使徒職と修道者の聖霊の源なる、修道女たちの共贖者としての生活です。従って、修道女たちは通常の黙想に加え、ミサ、ロザリオ、そしてほとんどの修道会で唱える聖務日課など、修道女たちはご整体のみ前で礼拝の一時間を過ごします。すなわち、この一時間は教皇のため、司教たちのため、司祭たち、そして奉献された霊魂たちのための祈りに、特に、共贖者なる聖母に一致して、ご整体のうちにまします聖主に対して犯される侮辱を償うために捧げられています。

お召しの声

 聖ピオ十世修道女会の修道女たちの養成は、その他多くの修道会が要求する基本的なことと少しも変わりはありません。十八歳から三十歳までの、正しい意向に導かれ、共同体のさまざまな仕事に従事できる充分な健康を持っている女性ならば、修道会に入会できる可能性があります。まず初めに、少なくとも六ヶ月間の志願期が要求されます。この間、志願者は世間の多くのものに背を向け、みずからの召命を吟味し、修道生活の養成を受け、聖ピオ十世修道女会の霊性「愛徳の精神、祈りの精神、償いの精神、聖主の犠牲と自分自身の捧げを通して霊魂の救いを熱烈に望む精神(会憲)」を染み込ませることを探し求めます。

 この期間の終わりに、志願者は会の修道服をいただくことを願う許可を得ます。着衣式ののち、修練期が、修道者特有の生活が始まります。聖にして母なる教会は、少なくとも一年間の修練期を要求しており、二年目には修練女に会の霊性を深めることに没頭するよう奨励しています。これが聖ピオ十世修道女会の修練です。

修練女

「おお聖霊よ、我がうちに新しき心を作り給え。されば我、我がとうとき召命の霊と徳のうちに、休むことなく前へと進めるであろう」(着衣式中に唱えられる奉献の祈りより)

 修練女の生活、のちには誓願を立てた修道女としての生活は、内面的にも外面的にも非常に忙しいものです。修練女は超自然的生活を深めるため、日々それをもっと深めて生活するために働きます。修練女は聖パウロが言うように「新しい人間」、つまり天主のご意志を果たし、その栄光のために働けるよう、地上の物事から離脱し、天主へと向かう霊魂にならなければなりません。この変容は、聖堂にて沈黙のうちに、三位一体の天主のみこころを教えてくださる天主にてまします訪れの霊によってのみ、「経験から来る思索ではない、聖主の知識と愛」(ルフェーブル大司教)によってのみ、もたらされるのです。それにも関わらず、徳を得ようとの個人の(終生にわたる)努力もまた、最も必要なものです。修練長の母らしい指導のもとで、修練女はこの務めを勤勉に続けるのです。

 修練女には日々の家事仕事も与えられ、共同体の必要なものを満たせるよう「新しい仕事」を教えられます。後になって、彼女が任命されるさまざまな共同体でそれを生かすことになるでしょう。修練女は裁縫、料理、庭仕事、さまざまなメンテナンスの技術さえも習います。なによりもまず、修練女は信仰を熟知していなければなりません。この目的のため、修道院付き司祭によって、また数名の立誓願修道女たちによって教えられる、教義、典礼、護教論、教会史、修道生活などについての授業と霊的講話の時間があります。

 こういったことが、修練女の心と祈りの両方に不可欠な、滋養のある霊的食物を提供しながら、霊魂たちと一体化した修練女の未来の使徒職のためだけでなく、特に修練女自身の霊的かつ修道者としての生活の堅固な基礎となります。

 修練期はその上、共同体の喜びと試練に慣れていくための時です。「私たちは天主の教会において小さな家族を形成する」(会憲)この「家族生活」は修道女たちのすべての共同体にある規則です。すなわち、一人の総長(修母)によって、また総会によって治められる修道会ということです。各共同体は少なくとも三名の修道女で構成され、そのうちの一人がそこの長上になります。

天主へのまったき奉献

 見習いの二年間ののち、修練女は修道生活の義務と雄大さを理解しつつ、清貧、貞潔、従順の三つの誓願を立てることで、最後にはすべてのものに対し「はい」と答えます。この三誓願を通して、霊魂は彼女の持てるすべて、そして彼女の存在すべて──彼女の人格全体、彼女の持ち物すべてを天主にお捧げします。司教あるいは代理の司祭は修練女の指に指輪を置き、このように言います。「我はいと高きおん父のおん子、イエズス・キリストに汝をめとらす。ゆえに、この結婚の忠実の指輪、聖霊の封印を受けよ。汝が天主の浄配として生きんがために」この儀式は、祭壇の足元で、聖櫃の扉を開いた前で、ミサの奉献の時に行われます。イエズスの聖心そのものが新しい浄配を受け取るために開かれており、十字架の影で、生贄の祭壇で、互いを交換し合います。この三つの誓願は、教会の名のもとに受け取られ、天主に修道女を完全に奉献し、彼女が祈りと使徒職に完全に没頭できるよう、世間の財産と自分自身から離脱します。修道女は一年ごとに誓願を更新し、少なくとも十年間誓願を立て続けたのち、終生誓願を立てます。

 誓願を立てると、修道女は会の共同体の一つへ任命されます。ヨーロッパ、南北アメリカ、オーストラリアの修道院、あるいはどこかの宣教地で献身するよう呼ばれているのかも知れません。そこでは、共同体の使徒職の内容がどんなものであれ、修練院でのすべての霊操を保ちます。各自の能力に応じて、聖主イエズス・キリストの統治の拡大に協力するために必要なすべての恩寵を、そこから任命された場所に引き寄せるためにです。

刈入れは多けれども、働く者は少ない

 一般的方法では、修道女たちの使徒的活動には、司祭の使徒職を助け、完遂させるためという目的があります。

 修道女たちはどうやって司祭の使徒職を助けるのか? と問う人がいるかもしれません。聖主と使徒たちに従っていた聖母と聖なる婦人たちにならって、修道女たちは、洗濯、アイロンがけ、料理、家事などのような物質的心労から司祭たちを解放し、このようにして、司祭たちが勤めを成し遂げるために、彼らをもっと自由な状態にさせておくのです。

 修道女たちはミサ聖祭を中心とするすべてのもの、祭服の縫製から祭壇の準備、祭壇布やグレゴリオ聖歌を歌うことや教えることにまで献身しています。

 そして、司祭の使徒職を完遂させるためには? 各共同体や修道院で見つけられる家事に加え、修道女たちは教区や宣教地で修道者にふさわしい務めを引き受けます。すなわち、公教要理の時間に秘跡を受けるために子どもたちを準備すること、小学校で教えること、病人や老人を見舞うこと、などです。修道女たちのさまざまな仕事をよくよく見てみると、労働の分野の広大なことを改めて確認させられます。

 フランスの本部修道院は、一九八三年に大司教様から修道女たちに委ねられた仕事──「ファチマの聖母の通信教育カテキズム」を監督しています。信仰の知識と愛の次にあるものを渇望する霊魂はおおむね良いとしても、カトリック学校が欠けています。従って、通信教育による公教要理は、子どもたちのために深い宗教教育を探し求める家庭に教えの種を蒔くよう、特に定められています。三つの言語のバージョンがあり、何十年にも渡って、世界中の何千という霊魂たちに届けることに成功しています──ロシア国内にさえもです。公教要理の本はフランス語、英語、ドイツ語で書かれ、何百人もの霊魂たちに毎月送付されています。

 修道女たちは、小学校で司祭の使徒職をも果たします。校長としてであれ、公教要理の教師としてであれ、国内経済や宗教以外の科目を教えます。ヨーロッパのいくつかの学校での状況はこのようなものです。ベルギー(ブリュッセル)、スイス(ジュネーブとウィル)、フランス(ユニユー、マルセイユ、ボルドー)で、同じように、アルゼンチンのラ・レハ、オーストラリアのシドニー、アメリカのカンザス州のセントメリーとミシガン州のヴェネタにある聖ピオ十世会の学校で教えています。

 カンザス州のセントメリーでは、修道女たちは約五百名の子どもたち(小学校一年生から中学三年生まで)に公教要理を毎日教えています。

 教えることに加えて、信心会(マリアの子ども会のような)、サマーキャンプ(八ヶ国において伸びつつある修道女たちのための使徒職)、夏期講座(裁縫、料理、他の実践的技術の指導)を通して、修道女たちは、子どもたちや若い女性たちに教えと敬虔を身につけた堅固な基礎を築かせようと努力しつつ、キリスト教的徳を霊魂のうちに育んでいます。修道女たちはすべての共同体で、修道女たちは病人と老人たち──キリストの苦しむ会員たちを定期的に見舞います。これはフランスのル・ブレミアンの老人ホームで毎日行われています。そこでは、修道女たちは入居者を訪れ、秘跡を受けることと聖なる死を迎えるための準備ができるよう助けます。

 遠く離れた宣教地ではどうでしょうか? そこでも聖ピオ十世修道女会の修道女たちは、霊魂たちにキリストをもたらすことで宣教師たちを助けられるのです。例えば、ガボンの修道女たちは聖ピオ十世会ミッションに登録している子どもと大人に公教要理を教えている司祭たち、修道士たちを支援しています。修道女たちがそこで世話をする霊魂たちは数百名います。

 二〇〇九年以来、修道女たちの共同体がドミニカ共和国にあるイエズスの聖心修道院の司祭たちを支えています。修道女たちの主な務めの一つは、修道院付属の小学校で生徒たちに公教要理を教えることです。

 つまり、キリストの司祭たちを通してキリストにお仕えすることで、修道女たちは信者たちの霊的、肉体的に必要なことに献身しています。収穫の主が多くの寛大な働き手たちを送ってくださいますように。

「私が持っているものはなんでも与えましょう」(ルフェーブル大司教)

 二人の宣教師の娘なる修道女たちは、宣教師の霊の炎を持っています。すなわち、天主のうちに生き、天主に親密に結びつくことで、心において霊魂たちを天主に与え、すべての人々に天主を知らせ、愛させるのです。使徒職に呼ばれたのですから、労働の広大な畑の必要性と、信者たちの数え切れないほど多くの、さまざまな要求を満たすために、修道女たちは各自の異なる能力と才能を一致させ、熱心にみずからを与えています。修道女たちはこれらすべての仕事──ささやかで目立たないものであれ、もっと直接に使徒的なものであれ──を、同じ愛、同じ犠牲の精神で果たします。「修道女たちの生活に取るに足りないものなどない。万事が恩寵となり、修道女たちを聖化する」(会憲)

「修道生活は、ゆるやかに、非常にゆるやかに理解されていくものです。その美しさ、その実りを──なぜならその深遠さ、誠実さ、その目的の故にです……。修道生活とは、私たちが成し遂げる偉大なことではなく、私たちがあるべき姿であると理解します。新しい地平線が非常にゆるやかに見えてきます……そして、聖主は最良の部分を与えてくださったことで、私たちを甘やかしてくださったのだと、私たちにわかることはただこれだけです」(マリー・ガブリエル修母)

 このようなまことの修道者の霊魂は、みずからの召命への感謝にみちあふれており、その内省によって、本会の修道者たちは、みずからの召命の崇高さと謙遜と単純さのうちに、ふさわしく繰り返しています。

「この奉献と共贖者の霊性を終生生きる者たちは幸いなるかな! 彼女たちは天国の永福を勝ち取るため、最もすぐれた意向のうちに、この地上での巡礼の目的地に辿り着くだろう」(会憲)




この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。


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聖ピオ十世会ケニアにおける、イエズスとマリアの宣教修道女たちの着衣式と誓願式

2014年12月20日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
Alma Redemptoris Mater, peccatorum miserere!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 「ケニアの宣教修道女たちの着衣式と誓願式」についての記事をご紹介します。

原文はこちら

Taking of the habit and religious profession for the Missionary Sisters in Kenya
ケニアの宣教修道女たちの着衣式と誓願式


二〇一四年十二月五日

「御身の浄配になるとは、おお、イエズスよ、御身との契りによりて霊魂らの母になること」(幼きイエズスの聖テレジア)




 十一月二十一日──それは聖マリアの神殿奉献の祝日です。

 すでにして清らかなマリアを、神殿へ奉献するために導く聖ヨアキムと聖アンナのことを思い巡らすのは一つの喜びです。幼きマリアの心のうちには、天主よりの贈り物がすべてそろっていました。そしてこの最初の公の奉献は、いささかのひるみもなく、お告げの際のフィアットと十字架のみ足元へと続く、最初の一歩となったのです。
 私たちの創立者であるフェレー司教様は、この美しい祝日を私たちの儀式の日として選んで下さいました。こうして、昨日、二人の姉妹の着衣式と、一人の姉妹の初誓願に立ち会う喜びを得ました。ニクラス・フルーガー神父様がこの儀式を司式してくださり、私たちの毎年の黙想のために説教をしてくださるドミニク・ブルモー(Dominique Bourmaud)神父様、そして修道院付き司祭であるライナー・ベッヒャー(Rainer Becher)神父様が、同席してくださいました。

 二人のナイジェリア人志願者たちは、世間との分離を表す修道服、そして新しい人間になるために自分自身との分離を表す修道名を受け取りました。これこそまことに人生の新たなスタートであり、これに続く禁域である修練院での二年間は、天主なる子羊との永遠の契りのために私たちの霊魂を準備するためです。




 スイス人の修練女は初誓願を立てました。これは単純で、偉大な瞬間です。聖櫃は、一つの新たな霊魂を彼へと引き寄せるため、十字架上のイエズスの聖心のように開かれており、修練女は三年間の清貧、貞潔、従順の誓願を立てます。彼女はこの契りを封印する指輪を受け取ります。

 私たちの住む地域での天気はというと──儀式に先立って行われた黙想会の週は、雨季の始まりでした。儀式はどしゃぶりの中で行われるのではないかと心配していました。しかし、太陽の光が空を、そして私たちの心を照らし出してくれました。

 私たちは、奉献修道女たちに感謝します。とりわけ、修練院での毎日の修道生活のために、私たちを養成してくださっている院長様に感謝します。私たちの恩人の皆さまに、私たちのために祈ってくださっている方々に感謝します。み摂理のうちに私たちの小さな修道院を見守り、アフリカでの道のりをご自分へと導いてくださる天主様に感謝致します。

 マリア様の両親が神殿でマリア様をお捧げになったこの日、マリア様を満たされた自己奉献という同じ精神を、私たちの心のために童貞なるマリア様が勝ち得てくださいますように。デオ・グラツィアス!

 イエズスとマリアの一宣教修道女より
(source: sspx – DICI no.306 dated Dec. 5, 2014)


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ブラントミュラー枢機卿と、聖ピオ十世会ドイツ・ツァイツコーフェンの神学校で討論会

2014年12月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ネリー神父様がお話しして下さったとおり、12月5日には、聖ピオ十世会のドイツのツァイツコーフェンの神学校に、ブラントミュラー枢機卿様が訪問されて、公会議の権威についての、討論がありました。

 フェレー司教様とドイツ語を話す神父様達と、ブランミュラー枢機卿様とが、第二バチカン公会議についてインフォーマルな討論をしました。

 詳しくは、DICIの次の記事をどうぞ。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

On December 5, 2014, Cardinal Walter Brandmüller, president emeritus of the Pontifical Committee for Historical Sciences, met with Bishop Bernard Fellay, superior general of the Priestly Society of St. Pius X, accompanied by several priests. The meeting was held at the Herz Jesu Seminary of Zaitzkofen, in Bavaria.

This meeting was a follow up of the September 23, 2014 meeting in Rome, during which all had agreed to pursue the doctrinal discussions “in a larger and less formal context than that of the preceding meetings.” (see DICI no.302 Oct. 10, 2014). The theme was the Council and its magisterial authority.

The goal of these meetings is to make the Church’s authorities more aware of the Society and the works of Tradition, and at the same time to expose to them the serious objections and points of divergence that remain concerning Vatican Council II and its reforms. In this perspective, two more meetings are scheduled in the coming months, one at the Saint-Curé-d’Ars Seminary in Flavigny (France), and the other at St. Thomas Aquinas Seminary in Winona (USA).


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「私はあなたの母です」──グァダルーペの聖母

2014年12月17日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月12日は、グァダルーペの聖母の祝日でした。このグァダルーペの聖母に関する記事、『「私はあなたの母です」──グァダルーペの聖母』をご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

原文はこちら
I am your mother": Our Lady of Guadalupe
「私はあなたの母です」──グァダルーペの聖母


 細やかな心配りの善き母親として、幸いなる童貞マリアはその子らを守ってくださる。

 グァダルーペの聖母の祝日は、アメリカ合衆国では十二月十二日に祝われている。一五三一年十二月のファン・ディエゴへの聖母のご出現と、それに続いて起こったファン・ディエゴのティルマ(植物繊維で織られた荒布のマント)にくっきりと印された聖母の絵の奇跡を三級祝日として記念している。



 この奇跡の絵はアステカ族の象徴的な──あるいは記号的な──言語として、アステカ族の多くの階級に向けて語りかけた。だが、まず第一にこの絵が教えていることは、テペヤックの丘のおとめは何者であるかということ、「太陽をまとい、月を足の下に置き、頭には十二の星の冠をいただく」ことで示された、おとめのおん力である。この重大な象徴化は、ファン・ディエゴにナワトル語で与えられた名前──「Coatlaxopeuh コアトラショペ」──スペイン語で「グァダルーペ」と翻訳された──「蛇を踏み砕く者」という意味──で念入りに確認された。ここでは単に悪魔についてだけでなく、具体的にアステカの多神教について触れている。




 この目を見張る奇跡がもたらしたものは、数百名のメキシコの原住民たちによる、唯一のまことのカトリック信仰への回心という奇跡的出来事そのもの以外にはあり得ない。それまで、この地のさまざまな階級の人々は、 異教の中でも最も残虐な形をとったことで知られるアステカの宗教のもたらす災難(例えば一日に一万人以上の人身御供を新たな神殿に捧げる)に苦しんでいた。



 ティルマに描かれた肖像について述べるなら、聖母は慰めるような物腰と姿勢で、平和と静穏を内側から放ち、しかしながら穏やかな力強さでアステカの凶暴な血に飢えた神々を圧倒している。この異教の最も強力な二つの神々──太陽の神を遮り、月の神を足の下に置くことで鮮やかに立証してみせたのだ。



 アメリカ全土の霊魂たち(北、中央、南のどの領土に住んでいようともである──従って 『南北アメリカ大陸の元后(Empress of the Americas)』なる聖母の称号は妥当である)へのグァダルーペの聖母の面影に表された行き届いた心遣いは、聖母がファン・ディエゴに言われた「私に信頼なさい。私はあなたの母なのですから」という慰めとなる言葉に端的に表されていることを思う時、よりいっそう深く理解されることだろう。



「私はあなたの母です」

 次に述べるグァダルーペの聖母の言葉は、アントニオ・ヴァレリアノによってナワトル語で書かれた、このご出現と奇跡の数々についての十六世紀の歴史的記事、Nican Mopohua(報告書)からの引用である。これらの聖母のお言葉は、数日間に渡ってファン・ディエゴに語られた。読者の方々が、聖なるおん母の細やかな心配りの、慰めとなるメッセージに集中できるよう、歴史的背景は省略してある。




最初の御出現──十二月九日

「フアニート、愛するファン・ディエゴよ」

「フアニート、私の愛する子よ、どこに行くのですか?」

「次のことをよく知りなさい、そして理解なさい、私のいとも慎ましい子よ。私は終生童貞なる聖マリア、私たちの命の源、万物の創造主、天と地の主なるお方であるまことの天主の母です。私はここに一つのお聖堂を、急いで建ててくれることを希望します。私はそのお聖堂で私のすべての愛、慈悲の心、助けの手、守りを示し、与えましょう。なぜなら私はあなたのあわれみ深い母、あなたにとって、この地とこの地以外に住むすべての人々にとって、私を愛し、私に祈り、私に信頼するすべての人々にとってのあわれみ深い母だからです。私はそこで彼らの嘆きに耳を傾け、彼らのあらゆる惨めさ、苦痛、そして悲しみを癒します。そして、私の憐れみが求めることを成し遂げます。メキシコの司教の館へ行きなさい。そして、この平野に、私のために一つのお聖堂を立てて欲しいという大いなる望みを私が明らかにしていると、司教に告げなさい。あなたが見て、称賛したすべてのこと、あなたが聞いたことを正確に説明するのです。私があなたに大変感謝し、報いを与えることを確信しなさい。なぜなら私はあなたを幸福にし、私が託したものをあなたが勝ち取るための、あなたの努力と骨折りに対してふさわしい報いを与えます。さあ、あなたは私の命令を聞きましたね。私の慎ましい子よ、行って、あらゆる努力をするのです」




第二のご出現──十二月九日

「お聞きなさい、私の小さな子よ、あなたは次のことを理解しなければなりません。私には多くのしもべたちと使者たちがいます。私は彼らに私のメッセージを届け、私の願いを運ぶことを託さなければなりません。でも、そのためには、あなた自身が嘆願し、支援し、私の願いに応じるようにというあなたの仲立ちを通してこそ、正確に一つ一つが成し遂げられるのです。私の最も小さな子よ、真摯にあなたにお願いします。そして断固として命令します。明日、もう一度司教に会いに行きなさい。私の名によって行き、そして私が司教に要求している、一つのお聖堂の建設を始めなければならないという私の望みをそっくりそのまま知らせるのです。私、終生童貞なる聖マリア、天主の母が、じかにあなたを遣わすのだと、もう一度司教に伝えるのです」



第四のご出現──十二月十二日

「私の言うことを聞きなさい。そしてよく理解しなさい、私の小さな子よ。あなたを恐れさせ、悲嘆に暮れさせるものは何もありません。あなたの心を乱れさせないように。あの病や、その他のどんな病も苦痛も恐れてはなりません。あなたの母である私がここにいるではありませんか? あなたは私の保護のもとにいるのではありませんか? 私こそがあなたの健康の源ではありませんか? 私のマントのひだの内に幸せにもくるまれているではありませんか? 他に何を望むのですか? どんなことにも悲しまず、心を乱されてもなりません。あなたの伯父の病のことで苦しんではなりません。彼は今、そのために死ぬことはありません。今や彼は治ったのだと確信しなさい」

「私の大切な子よ、丘の頂上に登りなさい。あなたが私を見て、私があなたに命令を与えた場所です。そこでさまざまな花が咲いているのを見つけるでしょう。それらを摘んで集めてまとめなさい。そして私の前に持って来なさい」

「私の大切な小さな子よ、この色とりどりのばらの花は、司教のもとへと持っていく証拠でありしるしです。私の名のもとに司教に伝えなさい。司教はこの花によって私の望みを理解し、私の望みに応じなければならないでしょうと。あなたは私の大使です。あらゆる信頼にもっともふさわしい者です。あなたに厳正に命じます。司教の前でだけあなたのマントを広げ、あなたが運んでいるものをお見せなさい。あなたはすべてのことを上手に説明するでしょう。私があなたに丘の頂上に登って花を切り取るよう命じたこと、あなたが見て賛美したすべてのことを告げなさい。そうすれば、私が要求したお聖堂を立ててくれるようにとの目的とともに、司教の支援を得られるよう説得できるはずです」




 グァダルーペの聖母の奇跡の歴史的背景についてもっと知るためには、『ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)の征服記』というベルナル・ディアス(Bernal Diaz)による同時代の報告書を読むことをお勧めする。また『Black Robes in Paraguay(バラグワイの黒衣の宣教師たち)』では、イエズス会宣教師たちについて読める。この本は、宣教が大成功をおさめたため、政治的な危機を招き、その結果イエズス会が弾圧されたことを描いている。




 最後になるが、中央アメリカのエクアドルにある、あまり知られていないキトの聖母の奇跡の絵とメッセージについて、読者の方々は耳にしたことがあるだろうか? キトの聖母が「善き司祭たちを養成することで司祭職を擁護し──この(二十世紀)背教と不敬虔の波に断固として反対する一人の高位聖職者」について語っていた時、聖母はルフェーブル大司教と聖ピオ十世会のことに言及していたのだろうか? ルフェーブル大司教が一九八八年の司教聖別の説教で、次のように述べていたように。

「この預言が私について語っているとは言いますまい。皆さん一人一人が、ご自分で結論を引き出すことでしょう。この文章を読んだ時、私は呆然となりましたが、これらを否定することはできません。これらの言葉は、このご出現の保管庫に記録され、保管されているからです」



「蛇の頭を踏み砕く女」である聖母は、あらゆる異端と誤謬の破壊者でもある。この母としての守りという真理に励まされ、私たちは信頼をもってこの言葉とともに聖母に近づこう──グァダルーペの聖母よ、我らのために祈り給え!




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グァダルーペの聖母
グァダルーペの聖母(2)
グァダルーペの聖母(3)



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聖ピオ十世会の召命に関する情報

2014年12月16日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 私たちの主イエズス・キリストの御降誕が近づいてきました。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?
 聖ピオ十世会の召命に関する情報をご紹介します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

原文はこちら

SSPX vocational information
聖ピオ十世会の召命に関する情報



聖ピオ十世会を構成している修道者共同体をここに簡単に紹介します。アメリカで召命についてのコンタクトを取りたい方は、こちらをどうぞ。(日本の方は、どうぞ担当司祭である小野田神父にご連絡ください。)


聖ピオ十世会の創立者

 一九〇五年十一月二十九日、マルセル・ルフェーブル大司教様は、フランスはリール教区のトゥルクワンで生まれました。





 一九二九年九月二十一日司祭に叙階され、フランスでの教区で一年過ごしたのち、宣教師となっていた兄の熱烈な誘いにより、一九三一年に聖霊修道会の修練院に入会しました。

 一九三二年にガボンに派遣され、ダカールの司教代理に任命され、一九四七年九月十八日、司教に聖別されました。その後、一九五五年九月十五日、ダカールの大司教に着座しました。

 一九四八年から一九五九年までフランス語圏アフリカ諸国の教皇使節を務め、それから一九六二年にチュールの司教に指名されました。その同じ年に修道会の同僚司祭たちから聖霊修道会総長として選ばれ、公会議の教会によって始められたアジョルナメント(現代化)のために、総長職から退きました。

 ルフェーブル大司教様は聖ピオ十世会を創立し、一九七一年から一九八三年まで総長としての管理責任を引き受け、一九九一年三月二十五日、王たる司祭、イエズス・キリストの司祭職を受け取った記念の日、聖週間の月曜日に帰天するまで、賢明な助言で聖ピオ十世会を支え続けました。

聖ピオ十世会

 聖ピオ十世会は、第二バチカン公会議の後、教会の聖伝にのっとったまことの司祭になることを熱烈に望んでいた神学生たちの要請により誕生しました。その後、教区の教会の環境に従うなら、正真正銘の司祭であり続けることは不可能だという視点から、司祭兄弟会の構想は、在俗司祭とまったく同じ職務を全うしながら、司教たち(例えば教区に任命される修道会の司教)によって受け入れられ、司祭職を守るための最も適した解決法だと見なされるようになりました。

 一九七〇年十一月一日、聖ピオ十世会はスイス、フリブールのシャリエール司教によって正式に承認されました。その設立は聖職者聖省長官ライト枢機卿によって、翌年二月に好意的に認可されました。

 エコン神学校で成し遂げられた聖伝に基づく司祭職養成が知られるようになり、フランスの司教たちは、聖伝式に養成された若い司祭たちの到着をうとましく不愉快に思うようになりました。そこからローマに圧力がかかり、神学校の非合法な禁止処分(一九七五)と、聖ピオ十世会創立者に対するまったく合法的でない制裁措置(一九七六)を招く結果となりました。

 聖ピオ十世会は急成長を遂げ、現在(二〇〇〇年八月)では六五〇名以上の会員を含んでいます。そのうち四〇一名が司祭、一七〇名が神学生です。司祭たちは五大陸の三十ヶ国にある六つの神学校、約一二五の共同体と教会に散らばっています。

 メンツィンゲン総本部と総長の住居は同じであり、一九九四年以降、総長はベルナール・フェレー司教様であり(現在、二期目の総長職を務めています)、聖ピオ十世会の他の司祭たちが総長を支えています。聖ピオ十世会は、聖スルピス会やWhite Fathersなどのように、無誓願の共同生活を送る会です(つまり修道者の誓願を立てないということです。聖ピオ十世司祭兄弟会は在俗修道会であり、正式な禁域生活を送る修道会ではないからです)。

聖ピオ十世会の会員たち

 聖ピオ十世会会員は主に司祭たちで構成されていますが、修道士、修道女、奉献修道女、そして第三会会員として所属している会員たちがいます。

聖ピオ十世会の司祭職

 神学生たちと司祭たちは、一年間の霊的生活ののち、毎年十二月八日に公に誓約の宣言をし、十年間それを繰り返した会員たちは、終生誓約を求めることができます。

聖ピオ十世会の修道士

 聖ピオ十世会の修道士たちは、一年間の志願期と一年間の修練期ののち、司祭たちの使徒職への障害を取り除くために、さまざまな職務、つまり、公教要理のような使徒的事業や物質面の業務で司祭たちを助けます。彼らは修道誓願を立て、聖務日課を唱え、その他霊的義務を負っています。現在(二〇一〇年一月)、聖ピオ十世会には誓願を立てた修道士たちが一〇四名います。

聖ピオ十世会の修道女

 聖ピオ十世司祭兄弟会は、修道女たちの会とも協力しています。すなわち、ルフェーブル大司教様が、大司教様の妹、マリー・ガブリエル修母の協力のもと創立された聖ピオ十世修道女会です。修道女会は教会法上の自治権を有しており、修道女の総長(Mother Superior)をいただいていますが、聖ピオ十世会と親しく一致して働いています。

 六ヶ月の志願期と、二年間の修練期のち、さまざまな種類の仕事で司祭たちを支援します。小学校、公教要理、病者の訪問、香部屋の仕事、共同体の特に洗濯に関する家事業務、必要な場合は料理もします。修道女たちも司祭たち、修道士たちと聖務日課を唱え、毎日一時間の聖体礼拝の時間を持ちます。現在(二〇〇九年七月)では一五〇人の立誓願修道女たちが、本部修道院、四つの修練院、七つの学校、八つの修道院、神学校、黙想の家、老人ホーム、宣教地の十九の共同体に散らばっています。

聖ピオ十世会のイエズスとマリアの宣教修道女

 聖ピオ十世会は、最近になって、世界中の宣教地で聖ピオ十世会の使徒職を支援する宣教女たちの修道会を設立させました。このイエズスとマリアの宣教修道女会の外的な事業は、子どもたちと女性たちに公教要理を教え、学校では事務と経理の仕事を果たし、看護師や看護助手として医療支援を提供し、裁縫、家事、農業など、使徒職が要求することならなんでもするよう指示されています。

 十六歳から三十五歳までの女性たちに対して志願者の道が開かれており、志願期は一年間、続いて二年間の修練期、その後修道誓願を立てます。詳しくはこちらのページを読むか、問い合わせるかして下さい。

聖ピオ十世会の奉献修道女

 聖ピオ十世会は、第二バチカン公会議ののち、奉献生活を続けるための場所を改革されてしまったがために、それぞれの修道会を離れることを余儀なくされた修道女たちの求めに手を差し伸べることに賢明な理解を示しました。聖ピオ十世会はまた、修道生活に入る熱烈な望みを持ちながらも、一定の年齢を超えてしまったことや、未亡人であることが原因で修道会に受け入れられない女性たちのためにも居場所を差し出そうという望みを持っていました。この目的のために、聖ピオ十世会には、本会の司祭たちの権威のもと、本会の霊的環境で生活する奉献修道女たちも存在します。

 聖ピオ十世会の奉献修道女たちは、修道院、神学校、黙想の家や学校の司祭たちを、さまざまな仕事──家事、香部屋の管理、公教要理を教えること、事務や会計仕事から、料理──通して司祭たちを助けます。現在(二〇一〇一月)、世界中の聖ピオ十世会のさまざまな共同体には七十四名の奉献修道女たちがいます。

 修道女としての生活を送ったことがない場合、志願期の一年間と、それに続いて修練院で一年間を過ごします。共同体で一年間過ごしたのち、修練女たちは奉献女として入会を認められます。

聖ピオ十世会の第三会

 最後に、世間にとどまりつつ、聖ピオ十世会の霊的生活を共有したいと熱望する人々のために「第三会」が設立されました。聖ピオ十世会との彼らのつながりを通して、第三会会員たちは霊的恩恵のうちに分かち合い、彼らの祈りを通して会員たちを助け、その一方で自分自身の聖性を高めていこうと努力しています。

聖ピオ十世会の霊性


 聖ピオ十世会が打ち込んでいる霊性は、次のようにまとめあげることができます。「聖主イエズス・キリストによって打ち立てられたままの聖なる司祭職と司祭の使徒職を、教会の二千年の聖伝にのっとって続けること」です。ですが、この設立とこの聖伝は、司祭たちの存在理由は聖主の贖いの犠牲を永続させること、全世界の国々にその実りを施すことである、と教えています。聖主の刺し貫かれた聖心から教会と聖なる七つの秘跡が生まれ出で、これらを通して、ご自身の天主的生命を霊魂たちに伝え、その罪を洗います。こうしてミサの犠牲は教会の生命の不滅の源、信仰の偉大な神秘、啓示された全真理の統合体、あらゆる聖寵であると理解されています。生贄と秘跡、聖なるミサは主イエズス・キリストのまことの現存を私たちに間にもたらし、超自然の栄養を伝えるのです。

 この司祭の気高い役割こそ、聖ピオ十世会が永続させようと努力し続けてきたものであり、この役割はまた、私たちの霊魂、私たちの家庭、私たちの社会における聖主の統治の源泉であるとも意識しています。この「キリストにおいてすべてを復興させる」というモットーに対してこそ、聖ピオ十世会は、神学校、大学、教員たち、高校や中学校を通して、教会や黙想会、特に聖イグナチオの霊操が開かれる共同体を通して、使徒的宣教のまことの中心なる修道院を通して、そのすべての熱意を傾けています。この熱意を養うために、聖ピオ十世会は聖主イエズス・キリストの偉大な神秘(特に至聖なる聖心)である教会の典礼を、幸いなる童貞マリア(具体的には共贖者なる聖母)を、聖ヨゼフ(霊的、物質的事業での私たちの賢明な導き手)を、聖なる天使たち(あらゆる悪魔的影響に立ち向かう私たちの保護者)を、そして言うまでもなく、聖ピオ十世(私たちを信仰と聖性のうちに保ち、現代世界の誤謬と悪徳に反対させ続ける)を慕っています。


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先日、シュテーリン神父様から日本語の良い公教要理のウェブ・サイトのリンク先を尋ねられましたので、次をご紹介しました。愛する兄弟姉妹の皆様にもご紹介します。


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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか? こちらフィリピンでは強い台風(22号)が襲ってきましたが、フィリピンの国民は皆でお祈りを捧げていました。私たちの教会では大きな被害はなく、天主様に感謝しております。

 今日は、グァダルーペの聖母マリア様の祝日でした。フィリピンの第2の守護の聖人です。

 さて、今回は、聖ピオ十世会の修道女会(Sisters of the SSPX)と、聖ピオ十世会奉献修道女(オブレート・シスター)とを先日ご紹介しました。今回は、後者のオブレート・シスター(奉献修道女)たちについていろいろなご質問に対する回答をご紹介します。

 聖ピオ十世会の修道女会(Sisters of the SSPX)と、聖ピオ十世会奉献修道女(オブレート・シスターズ)とは、極めて似ています。ほとんどそっくりです。外的な区別の仕方は、聖ピオ十世会の修道女会のシスターたちは、丸い聖ピオ十世のメダイを胸にかけています。奉献修道女は、聖ベネディクトのメダイのついた十字架をかけています。後は、ほとんど区別がつきません。

 見た目よりも目に見えない違いと言えば、聖ピオ十世会の修道女会は、聖ピオ十世司祭兄弟会とは法的に別の修道会で、別の総長を戴いています。(現在は、マザー・マリー・オーガスティンです。)

 奉献修道女は、聖ピオ十世司祭兄弟会の一部を成しており、奉献修道女の総長はフェレー司教様です。

 このような違いはありますが、両者とも聖ピオ十世会の司祭の働いている教会や学校の近くに修道院を持って、私たちの主イエズス・キリストのために、霊魂の救いのために、祈りと労働とによって、教会の活動を大きく支えてくださっています。

 このような素晴らしいシスター達のために、愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世奉献修道女会(オブレート・シスターズ)に関する質問への回答


1.オブレートとはどういう意味でしょうか?

ラテン語の語源によれば、「oblata」とは捧げるという動詞から派生しています。oblateという言い回しは「捧げられたもの」表しています。この言葉は私たちの召命全体を要約し、表現しています。

事実、多くの修道会にある単なる名前以上のもの、オブレートという名前そのものの中に、みずからを完全な捧げものとせよという招きがあるのではないでしょうか?

これこそ、聖櫃の足元にひざまずき、共贖者なる聖母に一致して、天主なる生贄のご聖体とともに生贄として天主へみずからをお捧げるするその奉献の日に、すべての修練女が理解していなければならないことです。

「我は我が人格、我が人生、我が所有するすべて、我がすべてを、おお我が天主よ、御身のより大いなる栄光のため、我が霊魂の救いのため、すべての霊魂の救いのため、とりわけ司祭と未来の司祭の聖化のため、御身に捧げ奉る」

2. 奉献女と聖ピオ十世会の関係はどのようなものですか?

一九七三年、友人と恩人の皆様への手紙・第五号の中で、ルフェーブル大司教様は「聖ピオ十世会はいくつかのいろいろな共同体で構成されているのですか?」という質問を受けました。大司教様は「聖ピオ十世会は司祭と未来の司祭たち、それから補佐司教たち、奉献女たち、そしてまもなく、私たちの希望により[生まれるであろう]聖ピオ十世修道女会で構成されています……。最後に、天主のおん助けを当てにしつつ、聖ピオ十世会の霊的祝福を世間にいる平信者たちに広げようとしています」とお答えになりました。

一九八〇年、聖ピオ十世会の四つの共同体の中の一つとして大司教様が心に抱いていた第三会が誕生したことで、大司教様はご自分の事業の実現をご覧になることができました。

この事業から分かれた四つの枝を順に並べ上げていくとしたら、人間と物事を分類するにあたって常に必要な優先順位は、習慣として奉献修道女を三番目の共同体に位置づけます。一番目は司祭たち、修道士たち、神学生たち、二番目は聖ピオ十世修道女会、そして四番目は第三会です。

3, 創立者はどなたですか?

マルセル・ルフェーブル大司教様によって創立され、聖ピオ十世奉献修道女のこの共同体は一九七三年に誕生しました。

最初にエコンのドアを叩いたのは、不忠実になってしまった修道会を、良心上去らざるを得なくなったフランス人看護修道女、シスター・マリー・ベルナールでした。

同じような他の修道女たちがやって来るまで時間はかかりませんでした。こうして私たちの会は誕生しました。初めの頃の奉献修道女たちは、各自の修道会ときちんと話し合った結果、教会法的に義務から解放され、公会議後の崩壊から自分たちの修道生活を守ることを強く望んでいた修道女たちでした。

そう時間が経たないうちに、身分上の義務から自由になった熟年の人々や、聖ピオ十世会とコンタクトをとることで、また仕事を捧げることで、みずからを聖化することを強く望む人々が加わるようになりました。

現在でも教会内の危機は存続しており、新たなニーズを生み出しています。私たちは入会希望者の募集内容を変更する傾向にあります。つまり、新しい柔軟な仕組みを作ることで、召命を持つ他の人々が、与えられた才能を発揮できる場所を見つけられるようにすることです。

4. 独自のヒエラルキーがあるのですか?

いいえ、奉献修道女 (Oblates) にはヒエラルキーはありません。このことが、聖ピオ十世修道女会のような一般的な女子修道会と本会とを区別しています。聖ピオ十世修道女会 (Sisters of the SSPX) は、その呼称と霊性が聖ピオ十世会に強く結びついているにも関わらず、裁治権上は独立しています。

奉献修道女は、聖ピオ十世会の完全な一員として、本会の司祭や修道士のように、修道女たちの中から選ばれた総長をいただきません。聖ピオ十世会総長が、現在はベルナール・フェレー司教様が直接の私たちの総長です。聖ピオ十世会の求めに対する総長の自由な決定にお任せしつつ、総長の権威のもとに私たちは奉献の誓いをします。

それぞれの修道院では、そこの院長が奉献女たちの直接の長上です。

修道院内での奉献女のグループが三人以上であるなら、総長は院長と相談ののち、奉献女の長上を指名することがあります。

5. 修道女(nun)と奉献女はどう違うのですか?

一九八二年にルフェーブル大司教様によって書かれた私たちの会則の文字通りの言葉によれば、奉献修道女は「聖ピオ十世司祭兄弟会のように、(誓願ではなく)誓約(engagement, promise)」を立てます。

これはどういう意味ですか?

まず第一に、天主への捧げものと、ある人が本来の意味で自発的に自分の人生を捧げる行為と、その人の活動全体とを注意深く区別するべきです。

教会の歴史を辿ってみると、(定住と厳粛な誓願を伴う)一般的かつ伝統的な修道院生活の構想から、ごく最近の形式である「完徳の身分」に至るまでの発展を眺めることができます。

事実、時が経つにつれて、修道生活の伝統を何も放棄することなくその特権的位置を保っている、新しい修道者の共同体が、柔軟な組織作りの方法に従って次々と創設されています。外的様式──確かに非常に重要ではありますが必要不可欠なものではない──に捕らわれない、これら新しい修道生活の様式は、天主への完全奉献という生活の本質のみを保ち、教会によって受け入れられ承認されています。

ですから「厳密な意味での、教会法上の完徳の身分」──(荘厳誓願を立てるオルドと単律誓願を立てるコングレガツィオが属する)完徳の身分の完全なかたち──の傍らに、教会法は無誓願の共同生活を送る集団を「第二の教会法上の完徳の身分」であると定義しています。厳密な意味での教会法上の完徳の身分を構成する、法的に必要な本質──例えば、清貧、貞潔、従順の公式誓願など、いくつか欠けているものはありますが、それにも関わらずこれらの集団は完徳の生活の本質に属するその他の性質を有しています。

つまり、教会の規定によれば、これらの集団が厳密な意味での修道会でなく、その会員が聖職者でないにも関わらず、その集団は教会法の中に含まれ一致しているのです。

奉献女である私たちには、ルフェーブル大司教様が望まれたように、聖ピオ十世会と教会の中に明確に定義された場所があります。これは、例えば聖ヴィンセンシオ・ア・パウロが創設し、その明確な望みにより、教会法上の字義通りの意味では決して修道者ではなかった愛徳姉妹会によって、私たちのために用意された道ではなかったでしょうか?

6. 奉献修道女の霊性とは何ですか?

奉献女の霊性は、聖ピオ十世会の霊性です。聖ピオ十世会の霊性は教会の霊性そのものであり、教会の心臓は十字架の聖なる犠牲です。それは日々のミサ聖祭において祭壇上で新たに繰り返されています。

従って、ミサ聖祭は、私たちの霊性と修道生活の尽きることのない泉であります(会則)。

私たちの一日全体は、天主の子羊のおん血に浸され、十字架の足元でのそれぞれの奉献のままに釘づけられています。聖務日課──一時課、六時課、終課──、念禱、ロザリオ、霊的読書、そして個人の祈りを通してです。

「奉献女たちは十字架のみ足元に立つ共贖者なる聖母のように、聖主の犠牲にあずかることで幸福を得るだろう」(会則)

マリアの精神で十字架上のイエズスを観想すること──これこそが奉献女のまことの召命です。「奉献女は霊的生活の意向として、十字架上のイエズス・キリストのおん悲しみを自分のものとし、奉献女の保護者、共贖者なる聖母のお姿に一致して、特別のやり方で結びつけるだろう──霊魂の贖いのため、司祭たちの聖性のため、奉献女自身の聖化のためにである」(会則)

「司祭たちのため」──聖ピオ十世会会員の、その目的は司祭職であり、それに関係するすべてのこと──これこそ、何にもまして司祭たちのため、私たちが自らを聖なるものとしなければならない理由です。

事実、一九八一年四月十日、聖母の共同受難の祝日に、ルフェーブル大司教様がエコンの奉献修道女たちに呼びかけた際、奉献女の霊性について次のように説明されました。

「ですから、親愛なるシスターたちよ、司祭たちの助け手、あなた方の両手だけでなく、あなた方の霊魂、あなた方の精神でとともに司祭たちの助け手となりなさい。つまり、司祭職の、聖主イエズス・キリストの犠牲の、聖主の十字架の、聖主の統治の、聖主の愛を広げるための助け手です──こうして、あなた方は自分たちを特別なやり方で童貞マリアに一致させるのです」

「聖母のように、聖母の天主なるおん子に近づき、聖母の苦しみを自分のものとして苦しむでしょう。こうして、あなた方にできる限りで、み摂理が必要な恩寵を与えてくださる範囲で、霊魂の贖いに非常に効果的な方法で、同じく貢献するでしょう」

「そしてあなた方はこの方法で、司祭たちの司祭職に、より深遠に結びつけられるのです。あなた方が仕えるこの司祭たち、この神学生たちがまことの司祭になるよう、まことにもう一人のキリストになれるよう、彼らが聖主イエズス・キリストのご受難に、より深く、ますます完全な方法で一致するよう乞い願いなさい」

「それから、あなた方は至聖なる童貞マリアにこのことを乞い願うでしょう。聖主イエズス・キリストの統治を広げるために、あなた方の苦しみ、あなた方の犠牲をこの意向でお捧げしなさい」

教会内と司祭職の危機を迎えているこの時に、ルフェーブル大司教様が私たちの使命に含めることを望まれたもう一つの特別な、次のような意向があります。

「かつてないほどに、あまりにも多くの聖主に対する冒瀆、耐え難い遺棄が、特に天主に奉献された者たちによって犯されています。これこそ、私たちがあなた方に、あなた方の小さな試練、犠牲、困難、聖主があなた方にお許しになるが故に経験するすべての苦痛を、至聖なる童貞マリアのおん苦しみに一致して、これらすべての冒瀆を償うためにお捧げするようにと熱烈に勧める理由です」

私たちの霊性を要約するなら、あらゆることが私たちの奉献の誓い(Act of Oblation)の中で表現されていると言えるでしょう。従って、できるだけ頻繁にこの誓いを心の中で繰り返します。こうすることで、私たちはこれまで以上に実りある力強い生命を引き出すことになります。

7. 奉献女たちが送る生活はどのようなものですか?

使徒的役割と呼べるものかも知れません。奉献修道女は、聖母と聖なる婦人たちが聖主と使徒たちの傍らで果たした目立たない役割──天主のお望みによる──を、司祭たちの傍らで続けなければならないからです。

より柔軟な仕組みによる修道生活の枠組み内で(無誓願の共同生活を送る集団の特質──質問5を参照)、司祭たちの置かれる状況がどんなものであれ、私たちは彼らに仕えるために持ち場にいます。これは最も多様性に富んだ生活様式──会則の規定にはいかなる制限もありません──での活動的生活です。

8. 奉献女の共同体に入会するためには、誰にコンタクトを取るべきですか?

奉献修道女会に入会するためには、聖ピオ十世会の総長にコンタクトを取って下さい。

ですが、最初にご自分の管区の管区長に、その手続きを認めていただくことをお勧めします。

9. 奉献女になるために必要な能力は何ですか?

入会希望者の入会が認められるためには、彼女が共同体の助けになるか負担になるかを長上が判断しなければなりません。

奉献修道女は、聖ピオ十世会の事業に献身するので──例えば、神学校、修道院、あるいは学校であれ司祭たちを助けること──こういった観点から見てみますと、次のような能力が求められます。

 ─一般的なバランスのとれた性格。
 ─最低限の正しい判断力と常識。
 ─奉献女はあらゆる種類の状況に直面しなければならないので、円熟した、困難にも関わらずやり抜く強い意志を持っていなければならない。
 ─正常で、感情面で安定していることが特に必要。奉献女は仕事のために呼ばれ、従って司祭たちと接触することになるからである。
 ─共同生活に必要な社交性。

以上述べた適性を持っていることが、必ずしも召命があるしるしではないことを言っておきます。つまり、この能力を持っているすべての人々が修道生活へとことごとく召されているわけではありません。ですが、この能力を持ちあわせていない人は間違いなく召されてはいません。

奉献女会に加わるために、すでに修道会にいる状態での教会法上の障害が、必ずしも妨げにはならないことを同じく明記しておきます。それぞれのケースは総長の判断次第です。

すべての修道会と同じく、奉献女になるためにもっとも重要なことは、天主から呼ばれていること──つまり、召命があることです。

10. 特別な勉強や心構えを作っておくことが必要ですか? 年齢の下限と上限はありますか?

奉献女になるために求められる唯一の心構えは、聖伝に基づく純粋なキリスト教的生活です。

年齢には一定の決まりはありません……。会則によれば「聖ピオ十世修道女会に入会できない一定の年齢(三十歳以上)の者」が奉献女会への入会資格があてはまります。

ですが、入会志願者が聖ピオ十世修道女会に受け入れられることを妨げる、年齢以外の他の障害がある場合、例外が設けられます。

入会志願者が共同生活に順応でき、聖ピオ十世会への奉仕が可能な限り、年齢制限はありません。

11. 健康でなければなりませんか?

個々のケースによります。従順が呼び求めるそれぞれの能力に応じて、自分自身をお捧げし、お仕えすることができるよう、健康であることは間違いなく必要です。

ですが、虚弱であることや持病があったとしても、奉献女会に入会するための妨げになるとは限りません。

12. 修練院はいつ創設されたのですか?

一九九三年まで、入会志願者たちは私たちの修道院の一つ──特にフランスのビッチェの修道院──や、聖ピオ十世修道女会の修練院で養成されていました。修道女たちは私たちの修練女たちを養成してくれましたが、それは、続々と増えていく召命のために、奉献女の主な長上たちが自分たちの修練院──教会法上の厳密なものではなく、奉献修道女のための特別な養成ができる場所──が必要だと決定するまで続きました。

この計画は、一九九三年に、聖ピオ十世会総本部が、総長フランツ・シュミットバーガー神父様のもとで創設された時にメンツィンゲンで了承を得ました。

自分たちを捧げようという入会志願者たちが絶えずいたため、全員を収容するには総本部は小さすぎました。別のすみかを必要としました。

従って、フェレー司教様は一九九九年八月に、奉献修道女の修練院をスイスのエコンから二十五キロ離れたヴァレー州の小さな村、サルヴァンに移転させました。聖ピオ十世会はすでにそこに建物を所有しており、ルフェーブル大司教様がご存命中、男の子たちのための学校を開くつもりで購入したものでした。

13. 修練院での養成期間はどのようなものですか? この期間はどのように成り立っているのですか?

会則に述べられているように、修練は二年の期間、すなわち志願期の一年と修練院での一年で成り立っています。修練院での期間は着衣式ののちに始まります。(正確にいえば)着衣式は修練院への入会のしるしです──この期間は種まきに比較されるであろう訓練の時期です。

サルヴァンでの私たちの務めは何でしょうか?

実際のところ、私たちはなんでもやってみなければなりません。ほうき、芝刈り機、ペンキのはけ、そして電気ドリルの扱い方を学ばなければなりません! 経験不足のときはどこにいても、いろいろ工夫して試してみなければなりません! ですがこれが本質的なことではありません。

沈黙と孤独のうちに瞑想にふけることで、志願者と修練者は司祭たちの助け手となるための準備をします──助け手とは、前述したように、両手だけでなく、霊魂と精神とともにということです。

彼女たちは、活動生活の慌ただしさにはまだ巻き込まれずに、将来の生活の土台を組み立て、内的生活の秘密へと入り込みます──「天主へ奉献された者の『存在理由』」と会則に述べられているようにです。天主と一致したこの生活をいっそう深遠なものにしなければならないと、彼女たちは悟ります。なぜなら、もっと後になれば[修道院外へと出て行くことで]自分たちを守るものが減るからです。各々の状態に順応することで、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロが霊的娘たちに伝えた、次のような言葉を自分たちにあてはめます。

「……彼女たちが、修道院や共同の家(あるいは学校や小修道院)を持つことなく、禁域に住む修道女たちに比べて、世間の中へ出て、罪の機会へと身をさらす以上、彼女たちの禁域とは従順であり、格子は天主への畏れです。彼女たちは、修道院で誓願を立てたかの如くに、それと同じほどの徳を身につけていなければなりません。世間のただ中にいると気づくときはいつでも、修道院で孤独にあるまことの修道女たちのように、よりいっそう瞑想にふけり、よりいっそう貞潔な心と肉体を持ち、よりいっそう被造物に無関心になり、よりいっそう心を鍛えてふるまわなければなりません」

これが修練院での二年間の膨大な養成ブログラムです。長過ぎるということはありません!

奉献女たちはそれぞれのレベルに応じて、午前と午後の講座に従います。カトリック教義と教会史は修道院付き司祭に学びます。修練長は霊性と修道生活を教えます。

典礼についての発見は、典礼暦のリズムの中へと直接溶け込みます。エコンがすぐ近くにありますので、ミサに出席し、祝日の壮麗な儀式をよく理解できるようになります。

毎日の聖書朗読に加え、霊的読書は霊魂を養い、精神を強めます。

学んだことを吸収し、より深めることができるよう、奉献女は必要に応じて勉強時間を取ります。

この霊的な養成に加えて、修練女たちは修道院の家事の切り盛り、料理、裁縫、洗濯、そして香部屋の仕事の実践指導を受けます──つまり、修道院生活を成り立たせるすべてのことを学ぶのです。

さらにその上、毎日三十分のグレゴリオ聖歌の練習、二回のレクリエーション、美しいスイスの山々に月に一回ハイキングに行く習慣です。

さて、これで、私たちが「幼きイエズスの聖テレジア修練院」で送る生活の全体像をある程度は把握なさったことと思います。

修練院では正式にはフランス語が話されますが、あらゆる国籍の志願者の入会を認めています。最近では英語圏からの召命がさらに増えているため、フランス語と同時に英語での指導も行われています。さしあたり、み摂理がさまざまな言語の国々で修練院を開くことをお許しくださるのを私たちは待っています。

14. 奉献女は誓願を立てるのですか?

準備期間の終わりに、修練女は、公式誓願を立てるのではなく、誓約の行為によってみずからの立場を明らかにします。奉献女はこの行為で、天主なる生贄とともに自分をお捧げし、会則を忠実に守ること──特に従順、清貧、そして貞潔の特に関して会則が指示すること──を約束します。

年に一回の誓約を六年間更新したのち、奉献女は三年間の誓約の更新を求めることができます。九年後、終生の誓約を願うことができます。

誓約の更新は、九月十五日の七つのおん悲しみの聖母の祝日に行われます。

教会法上、聖ピオ十世会は(清貧、貞潔、従順という3つのの公式誓願を立てる)修道会ではないにせよ、奉献女は修道者的徳を実践するよう努力し、霊的指導者の同意を得て、私的誓願を立てることができます。(会則)

15. 奉献女が自分を奉献する使徒職はどのようなものですか?
会則は、各々の才能に応じて聖ピオ十世会の事業に献身するという目的以外のことを規定していませんので、奉献女の使徒職は事業の内容に沿ってさまざまです。

修練の終わりに、新奉献女は修道院、学校、あるいは神学校に派遣されます。

現在では、奉献女たちのたいへんさまざまな、たいへん慎ましい、時には人目につくことのないこういった生活の枠組みの中で、奉献女はその才能に応じてさまざまな種類に富んだ仕事に就くことができます。家事、裁縫、事務仕事、秘書業務、公教要理、幼稚園あるいは小学校で教えること、病人の看護などです。

修道院での使徒職のさまざまな分野ではあるゆることが可能ですし、総長は天主のより大いなる栄光のために、各奉献女が個人の能力を最も適切に伸ばせる場所を見つけてくださいます。

どこに派遣されようと、奉献修道女はみずからを「仕えるため」に与えたのだということを忘れてはなりません。

16. 奉献女の一日のスケジュールを教えて下さい。

6:00 a.m.  起床
6:30 a.m. 念禱に続いて共同の祈り(一時課あるいは讃課)
7:15 a.m. ミサ聖祭
8:00 a.m. 朝食、自由時間、部屋の掃除
9:00 a.m. 仕事
12:00 p.m. 仕事終了
12:15 p.m. 六時課
12:30 p.m. 昼食、レクリエーション、自由時間、霊的読書
3:00 p.m. 仕事
4:15 p.m. 休憩時間
4:30 p.m. 仕事
6:00 p.m. 自由時間
6:15 p.m. ロザリオまたはベネディクション
7:30 p.m. 夕食、レクリエーション
8:45 p.m. 終課、大沈黙


修練院で過ごす間は、修練の必要性に合わせてスケジュールを一部変更しなければなりません。

17. 奉献女の修道服は何を示しているのですか?

すべての修道服と同じように、奉献女の修道服は世間との分離、そして私たちが完全に天主のものであるという事実を示しています。

聖ピオ十世修道女会との区別をつけるために、ルフェーブル大司教様は、聖ピオ十世修道女会のヴェールは先がとがった形に、私たちのヴェールは弧を描く形に、そして聖ピオ十世修道女会のスカプラリオの襟元を四角い形に、私たちの襟元は丸い形にすると決定しました。

[聖ピオ十世修道女会のシスターたちが身につける]聖ピオ十世のメダイの代わりに、私たちは聖ベネディクトの十字架をいただき、身につけます。こうすることで、私たちは共贖者なる聖母と一致して、それぞれの奉献を生きるようにとの絶えざる招きを受けるのではないでしょうか? 私たちはオブラータ、捧げられた者です……。


***


※訳者より──本記事の翻訳にあたり、以下の書籍を参考にさせていただきました。
 ・サクラ・ヴィルジニタス 聖なる童貞性について(中央出版社/ピオ十二世回勅・今道瑤子訳)
 ・在俗修道会(ドン・ボスコ社/野原清)
 ・神の国の証人たち 修道生活の入門(中央出版社/P・カルパンティエ・山下房三郎訳)
 ・聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ(中央出版社/岳野慶作)
 ・お告げのマリア 長崎・女部屋の修道女たち(聖母文庫/小坂井澄)


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この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。


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사랑하올 형제 자매 여러분,
한국성비오10세회(SSPX)
웹 사이트를 소개합니다.
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毎年恒例の聖ピオ十世会公式秋田巡礼にご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。

先日、シュテーリン神父様から日本語の良い公教要理のウェブ・サイトのリンク先を尋ねられましたので、次をご紹介しました。愛する兄弟姉妹の皆様にもご紹介します。


公教要理図解(ワグネル訳)
カトリック中央協議会編集の公教要理(1958年)
聖ピオ十世 公教要理詳解
ローマ公教要理 【使徒信経の部】



聖ピオ十世会日本のためのカンパのお願い

2014年12月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
聖ピオ十世会が、日本で教会を持つことが出来るように、お祈りをお願いいたします。

皆様からのカンパやご援助はたとえ少額であっても大変貴重です。もしも出来ましたら、下記口座までお願いいたします。心から感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会日本の教会建設のためのカンパの送り先

一般社団法人日本聖ピオ十世会の銀行口座が開設されました。
御寄附や四旬節の献金、また教会維持費などのためにお使いくだされば幸いです。
愛する兄弟姉妹の皆様の暖かいご支援を感謝申し上げます。

銀行名:住信SBIネット銀行
金融機関コード(銀行コード):0038
支店名:法人第一支店
支店コード106
支店番号-口座番号:106-1951537
漢字氏名:一般社団法人日本聖ピオ十世会
カナ氏名:シヤ)ニホンセイピオジツセイカイ



2014年12月 大阪においてレネー神父様によるミサ聖祭のご報告 天主様に感謝!

2014年12月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2014年12月の初金曜日には、大阪においてレネー神父様がミサ聖祭を捧げて下さいました。16名の方々が聖伝のミサに与るお恵みを戴きました。天主様に感謝!レネー神父様のためのたくさんの霊的花束を心から感謝します。レネー神父様のような素晴らしい司祭が日本に来て下さっていることを天主様に感謝します。

 こちらマニラではネリ神父様が先ほど発たれてフランスに向かわれました。12月8日にはパリで過ごすとのことです。

 よき無原罪の御孕りの祝日をお迎え下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

12月の初金曜日の御ミサの報告です。12月5日 初金曜には、16人の方が御ミサに与るお恵みを頂きました。 デオグラチアス!!
お説教は、無原罪の御宿りの大祝日を三日後に控えて「無原罪の御宿り」についての大変素晴らしいものでした。(いつも素晴らしいですが・・・)

また、御ミサの後に、ちょうどこの日、5日にお誕生日を迎えられたレネー神父様にささやかながら誕生日ケーキと、ハッピーバースデー♪と、霊的花束をプレゼントして、乾杯をいたしました。ケーキを頂きながら、御休暇中のフランスでの90歳の神父様のお母様を 囲んでのご家族の写真などを見せて頂き短い時間でしたが大変幸せな時間を過ごすことができました。レネー神父様の満面の笑みと、「そんなにロウソクを立てないで!!」とのジョークで皆も大爆笑でした。
2015年の典礼カレンダーの12月には以前のレネー神父様のお説教が掲載されていますが、「フランソワ・レネー神父」 とご自分のお名前が書かれているところを嬉しそうに写真にとられていらっしゃいました。韓国語の次は、日本語を勉強しますと仰っていました。(*^▽^*)

大阪の信徒からレネー神父様にお渡しいたしました霊的花束は、以下のとおりです。
※この霊的花束には大阪の信徒の方だけでなく、遠くにお住まいの愛する兄弟姉妹も参加して下さいました。

ミサ聖祭参列 49回
御聖体拝領 47回
霊的聖体拝領 836回
十字架の道行き 117回
ロザリオ 1380本
小さき犠牲 310
イエズスの御名の連祷 124回
イエズスの聖心の連祷 39回
聖母の連祷 169回
聖ヨゼフの連祷 135回
ミサ聖祭(レネー神父様の為) 1回
司祭の為の祈り 128回
パドレ・ピオのチャプレット 44回
十字架上のイエズスに向かう祈り 40回



2014年12月5日(金)大阪の説教 無原罪の御宿りについて
Tota Pulchra es, Maria, et macula non est in te!
マリアよ、あなたはすべてが美しく、何のけがれもない


「愛する者よ、あなたはすべてが美しく、何のけがれもない」(雅歌4章ノ7節)。教会は、無原罪の御宿りの祝日の昇階誦に、この美しい言葉がある雅歌を歌います。あなたには傷も、しみも、罪あるものは何もない。あなたは美しい。すべてが美しい。メシアの愛する浄配とは誰か、メシアがそれほど褒めたたえるのは誰か。それは教会です。これについて聖パウロは書いています。「キリストが教会を愛し、そのために命を与えられた。キリストが命を捨てられたのは、水を注ぐことと、それに伴う言葉によって教会を清め聖とするためであり、またしみもしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清くけがれのない教会をご自分に差し出させるためであった」(エフェゾ5章25―27節)。けがれの ない、ということをラテン語では「インマクラータimmaculata」といいます。これは天の教会にとっては真実ですが、ここ地上の戦闘の教会にとってはまだ真実ではありません。地上では、善と悪が入り混じっており、主が福音の中で警告なさったように、畑には毒麦(マテオ13章30節)があり、麦打ち場にはもみ殻(マテオ3章12節)があり、網にかかったよいものと役に立たないもの(マテオ13章48節)があり、メシアの婚姻の宴に招かれた善い客と悪い客(マテオ22章10節)がいるのです。しかしながら、生涯の最初の瞬間から制限なしにこれらの言葉を適用できる方がいらっしゃるでしょうか?そうです、いらっしゃいます。童貞聖マリア様です。「マリアよ、あなたはすべてが美しく、何のけがれもなく」、原罪のけがれさえあり ません。

自然における天主のみわざを見るとき、私たちは時折、景色の美しさに圧倒されることがあります。雄大な日の出や日の入り、雪に覆われた山の木々が太陽の光で輝いている優美な景色、春に桜の木に花が咲く様子、色鮮やかな虹などです。天主が創造されたこれら驚くべきものの前にいると、私たちは時に言葉が出なくなります。その美しさを言い表す適切な言葉が見つかりません。沈思黙考し、そこにずっととどまりたくなるでしょう。しかし、物質的被造物における自然の美は、聖性の恩寵に輝く霊魂の霊的な美しさと比較できません。ですから、天主がご自分の御母とするために特別な愛と特別な気遣いで飾られた最も素晴らしい被造物である童貞聖マリアにお与えになった美しさを見るとき、私たちはど のように感じるのでしょうか。天主は聖マリアにあふれるほどの恩寵とあらゆる種類の徳を気前よくお与えになりましたが、それは聖マリアを聖人たちの賞賛の対象とするためだけでなく、天国の天使たちの賞賛の対象とするためでもあったのです。「マリアよ、あなたはすべてが美しい」

童貞聖マリアは天主という芸術家の傑作です。実際、天主は至高の美そのものであり、あらゆるまことの美しさの源です。天主のみわざには、驚くべき調和、均整、充満、芸術があります。天主は大きなものだけでなく、小さなものもすべて配置されました。巨大な山からごく小さな雪の結晶に至るまで、巨大な銀河からごく小さな粒子まで。聖ヒエロニモは言います。天主はそれぞれの被造物に分けてお与えになったものを、マリアにはすべてお与えになった、と。マリア様において、天主は恩寵をいくつかお与えになったのではなく、すべての恩寵をお与えになったのです。「めでたし、聖寵充ち満てる」。マリア様が聖寵に充ち満ちておられるのなら、罪はなく、無原罪なのです。

すべての光と美の源は天主の知恵であり、創られたのではない天主のみ言葉です。私たちの主イエズス・キリスト、まことの天主でありまことの人間である方は、この「光」です。聖ヨハネは書いています。「みことばには生命があり、生命は人の光であった。光は闇に輝いたが、闇はそれを悟らなかった。…すべての人を照らすまことの光は、まさにこの世に来るところであった。みことばは世にあり、世はみことばによって創られたが、世はそれを認めなかった。みことばはご自分の家に来られたが、その人々は受け入れなかった。しかし、その方を受け入れた人々にはみな天主の子となれる力を授けた。そのみ名を信じるすべての人たち、彼らは、血統(ちすじ)では なく、肉体の意志ではなく、人の意志ではなく、ただ天主によって生まれた人々である」(ヨハネ1章4―5、9―13節)。主は、御名を信じる者に天主の子となる恩寵をお与えになりました。しかし、天主の御母となるべく主がマリア様にお与えになった恩寵は、それに比べてどれほど多くのものでしょうか。世は光を受け入れませんでしたから、闇の中にあります。しかし、キリストを「受け入れた」人々は、「世の光」(エフェゾ5章8節)になります。とりわけ童貞聖マリアは全く拒むことなく他の誰よりも光を完全に受け入れました。マリア様は聖霊の働きによって、そのいとも聖なるご胎内に真っ先に主を受け入れた方です。つまり、父なる天主が御子を世にお与えになったのはマリア様を通してでし た。マリア様がお告げの際に「なれかし」によって最初にキリストを受け入れなかったとしたら、誰もキリストを受け入れることはなかったでしょう。ですから、教皇聖レオ一世は言います。マリアはご胎内に主を受け入れる前に、最初に心に主を受け入れたのです、と。このように、マリア様はキリストの光で満たされ、闇はまったくありません。しみもなく、けがれもなく、完全に純潔であり、無原罪なのです。

贖いの傑作として、マリア様をこのようにたたえることは、私たちにとって大変有益です。作品が美しければ美しいほど、作者がその作品よりもずっと高い者であることが分かります。天主の超越性は、その作品の美しさに表れています。その美しさは、自然においてだけでなく、童貞聖マリアの霊魂に注がれた恩寵のみわざにさらに多く表れています。このように聖母をたたえることで、聖三位一体の礼拝に至ります。聖三位一体の天主の本性(ほんせい)は、三つのペルソナがマリア様に対してなされた驚くべきことによって明らかだからです。私たちは童貞聖マリアを「特別崇敬」と呼ばれる特別な敬意をもってたたえています。この特別崇敬は、被造物に対し て与えられた最高の敬意です。しかし、私たちは聖三位一体を、「ラトリア(天主への礼拝)」と呼ばれる至高の敬意をもって礼拝しています。この敬意は至高者である天主に対してだけのものです。(光を映す)鏡で見るように無原罪の聖母を観想することで、光である天主の観想へと至るのです。「天主は光であって、少しの闇もない」(一ヨハネ1章5節)。私たちは光の王国に入ることを許されるその日を待ち望むのです。「実に、あなたには命の泉があり、その光において、われらは光を見る」(詩篇35章10節)

聖母は、ご自分のためにキリストを受け入れただけでなく、人類に、私たち一人一人にキリストをお与えになりました。聖母は光を受け入れただけでなく、キリストを映し出すよごれのない「鏡」であり、私たちのために光を映し出してくれます。天使は聖母に言いました。「あなたは天主のみ前に恩寵を得た」(ルカ1章30節)。また聖ベルナルドは述べています。「聖母が恩寵を獲得なさったのはご自分のためだけでなく、私たちのためでもあった」。私たちが天主の恩寵を得られるのは、聖母を通してなのです。

このように、聖母はすべての恩寵の仲介者ですが、特に純潔の恩寵と無垢の恩寵の仲介者です。聖母は完全に純潔であり、完全に無垢の方なのです。聖母は、霊魂たちのために純潔の恩寵と無垢の恩寵を獲得なさいます。(しかし、私たちにとって、それは決して完璧ではありません。偉大な聖人たちでさえ小罪がありました。)腐敗した現代世界にとって大変必要である一つの重要な真理があります。それは、天主が無垢の者を愛されるということです。そうです、天主は慈悲深く、両腕を開いて悔い改める罪びと、聖マリア・マグダレナのような人を受け入れてくださいます。しかし、十字架の下を見ると、聖マリア・マグダレナがいるだけでなく、聖母もいらっしゃるのが分かります。主は、痛悔女聖 マリア・マグダレナを愛されましたが、それ以上に無原罪の聖母を愛されました。無垢というものは、天主への敬意のため、注意して保たねばならない宝なのです。

無垢というものは、マリア様をまねることで保つことが可能です。特にマリア様の謙遜をまねることです。マリア様の謙遜の本質は、いつも天主に依り頼むことです。マリア様は、ご自分にある善きものはすべて天主から来ることをご存じであり、理解しておられました。「私の魂は主をあがめ、私の精神は、救い主である天主により喜び踊ります。主が卑しいはしために御目をとめられたからです。これからのち、代々の人々は私を幸いな女(ひと)とよぶでしょう。全能者が私に偉大なことをされたからです。そのみ名は清く…」(ルカ1章46―49節)。マリア様へなされた偉大なこと、マリア様は天主によってそれがなされたことをご存じでした。「なれかし」、つまり天主に「はい」と言うことによっ て、天主の恩寵に協力なさったのです。しかしマリア様は、この「なれかし」自体が天主の賜物だと分かっておられるのです。

聖母は無原罪であり、完全に純潔であるため、それに反することに対する恐れをもっておられます。あらゆる形態の罪、傲慢の罪、あらゆる種類の不純の罪、貪欲の罪、詐欺の罪、中傷の罪、悪口の罪、自己中心の罪、あらゆる罪全般に対する恐れをもっておられます。誤謬に対する恐れや嫌悪がなければ、本当に真理を愛しているとは言えません。罪に対する恐れをもっていなければ、本当に徳を愛しているとは言えません。天主は罪びとを愛されますが、罪を嫌われます。聖人たち、とりわけ聖母は罪びとを愛されますが、罪を嫌われます。罪びとに対する天主の御あわれみの本質は、正確に言えば、罪びとをその罪から救うこと、つまり罪びとを聖人に変えることなのです。罪を嫌うという気持ちを失 ってしまうこと、誤謬や悪への嫌悪を失ってしまうことは、この世の精神、リベラリズム(自由主義)の精神のしるしなのです。私たちを霊魂への悪徳から遠ざけるため、聖母が私たちに誤謬と罪に対する深い恐れをいだかせ続けてくださいますように!

教皇ピオ九世の説明によると、聖母が無原罪とされたのは、天主のみことばがご托身になる器としてふさわしくなるためです。実際、詩篇作者は歌いました。「いと高き者は、その住まいを聖化する」(詩篇45章5節)。モーゼが準備した幕屋、またその後ソロモンが建てた神殿を満たした雲のように、聖化する方である聖霊はマリアを影で覆いました(ルカ1章35節)。それは聖霊が、御父と御子と共に、御子の御托身を実現する幕屋を準備されるためでした。聖母が無原罪であるのは、天主の御母としてふさわしくなるため、処女懐胎の最初の瞬間から天主である私たちの主イエズス・キリストの御母としてふさわしくなるためです。しかし、主は贖い主として、そのいと尊き御血を流すことによって私た ちを救うために来られました。天主の小羊(ヨハネ1章29、36節)となるために来られました。さて、聖書で「無原罪[あるいは、けがれのない](immaculate)」という言葉を調べてみると、通常は犠牲のいけにえの必要条件として使われていることが分かります。小羊はけがれのないものでなければならない、というようにです。私たちの主イエズス・キリストは、ずば抜けてけがれのない小羊です。ですから、聖母が無原罪(けがれのない方)であるのは、キリストの犠牲においてキリストと一致するためなのです。聖母はまことに「彼に似合った助け手」(創世記2章18節)です。この創世記の一節はエバについて書かれたものですが、聖母は新しいエバであり、新しいアダムに似合った助け手なのです。

聖なるミサにおいて私たちの主イエズス・キリストの犠牲に参加すること以上に、私たちの霊魂を罪から遠ざけるために有効な薬はありません。ミサにおいて、私たちもけがれのない小羊であるキリストと共にいけにえとなるのです。ミサにおいて、決して聖母の純潔には到底及びませんが、私たちももっともっとけがれのない状態になるのです。私たちがご聖体拝領で受けるけがれのない小羊は、私たちの霊魂を清めてくださり、「私たちの良心を死のわざから清めて、生きる天主に奉仕させえないでしょうか?」(ヘブライ9章14節)。

原罪さえもなかったけがれのない童貞を通して、原罪と自罪によってけがされ、傷つけられた私たちの霊魂を癒やす恩寵を、きょう乞い求めましょう。この世の腐敗から霊魂を守るため、聖母の完全な純潔の模範にならうよう努める恩寵を乞い求めましょう。熱心に聖母信心を広めることのできる恩寵と、聖母の御助けによって、けがれのない小羊であるキリストの統治をもたらすことのできる恩寵を聖母に乞い求めましょう。

アーメン。


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この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。


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先日、シュテーリン神父様から日本語の良い公教要理のウェブ・サイトのリンク先を尋ねられましたので、次をご紹介しました。愛する兄弟姉妹の皆様にもご紹介します。


公教要理図解(ワグネル訳)
カトリック中央協議会編集の公教要理(1958年)
聖ピオ十世 公教要理詳解
ローマ公教要理 【使徒信経の部】



ローマ公教要理 第十二条 終わりなき生命(いのち)を信じ奉る

2014年12月03日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 トリエント公会議の公教要理(ローマ公教要理)の使徒信経の部 第十三章 第十二条 終わりなき生命(いのち)を信じ奉る の部分をご紹介します。

ローマ公教要理 【使徒信経の部】
序文 教会における司牧者の必要性と権威および役務について またキリスト教のおもな教義について
信仰と信経について
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます(続き)
第二条 われらの主、イエズス・キリストを信じます
第三条 聖霊によりて宿り、おとめマリアから生まれた
第四条 ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け十字架に付けられ、死んで葬られる
第五条 古聖所 ( Inferi ) に下り、三日目に死者の中から復活された
第六条 天に昇り全能の父なる神の右に座し
第七条 主は生ける人と死せる人とを裁くために来られる
第八条 聖霊を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その2)
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その3)
第十条 罪のゆるし
第十一条 体の復活




ローマ公教要理
Catechismus Romanus

トリエント公会議の決議により小教区主任司祭らのために
教皇ピオ五世の命によって出版された公教要理
Catechismus, ex decreto ss, concilii Tridentini ad parochos,
Pii V pont. max. jussu editus

【使徒信経の部】
第十三章
第十二条 終わりなき生命(いのち)を信じ奉る


1 この箇条の重要性

 私たちの案内人である使徒たちは、私たちの信仰の大要を含むこの信経を、永遠の生命に関する箇条で閉じ、それで終わるようにしている。実際、体の復活のあと信者たちが待つものは永遠の生命だけである。それはまた、このあらゆる善を備えた完全な幸福をいつも私たちの眼前におき、私たちの心と考えをすべてそこに定着させるためでもある。
 したがって、司牧者は信者たちを教えるに当たって、永遠の生命の報いを示してかれらの心をかき立て、どのような困難なこともキリスト者の名において耐え忍び、それらをよりたやすいもの、楽しいものとして受け取るべきことを教え、より速やかにそして身軽に天主に仕えるよう励まさなければならない。

2 終わりなき命とは何か

 さて、至福を示すために終わりなき命ということばが用いられているが、このことばには多くの玄義が秘められている。したがって、みながそれぞれの能力に応じて理解できるよう説明する必要がある。
終わりなき命ということばは、悪魔や罪人も生きる生命の永続性よりもむしろ聖人たちの望みを満たす、至福の永続性を意味している。永遠の生命を得るためにはどうすればよいかと主に尋ねた、あの福音書の律法学者も同じような意味にとっていた (ル10:25参照)。つまり、かれは完全な幸福を享受できる、ある場所に行くためには自分は何をすればよいかと尋ねたのである。聖書もまた多くの箇所にみられるように、このことばを今いった意味に用いている (マ19:29、25:46参照)。

3 終わりなき命は至福を示す

 完全な至福を終わりなき命と呼ぶのは、この至福が、永続しない、物質的で滅ぶべきものであるという考えを人々にもたせないためである。至福 ( Beatitudo ) ということば自体、必要なことを十分に表現しえないのである。さらに、むなしい知識に傲慢になり、感覚的なものを最高の善とする人々があるからしてなおさらである。そのようなものは古び滅びていく。至福には決して時間的な限界はない。これに反して、地上的なものは真の幸福とは非常に異なっており、この世のものを愛し望むものは、真の幸福から遠く離れている。聖書にも、「世と、世にあるものを愛するな。世を愛するなら、おん父の愛はその人のうちにはない」(ヨ①2:15) と書かれてあり、またその少しあとでは、「世と世の欲とは過ぎ去る」(ヨ①2:17) と言われている。
 したがって、司牧者は信者たちがこの世のものをうとんじ、また自分はこの世の住人ではなく旅人にすぎず(ペ①2:11参照) 、この世では至福は得られないことを会得するよう、以上の事柄を入念にかれらの心に刻み込むべきである。私たちはこの世においてすでに、「……幸福な希望と、偉大な天主であり、救い主であるイエズス・キリストの栄光のあらわれを待ちつつ、この世において思慮と正義と敬虔とをもって生きるために、不敬虔と世俗の欲望を捨てる……」(ティト2:12~13) ことによって、自分を希望による至福者にすることができる。しかし、自分を知恵者だと思い込んでいる多くの人々はこのことを理解せず、至福はこの世にあると考え、愚かなものになり大きな不幸に陥ったのである (ロ1:22参照)。
 さらに、永遠の生命ということばの意味から分かるように、誤って多くの人が主張したのとは反対に、一度得た至福を失うことは決してない。なぜなら幸福とは、何らの悪も含まないあらゆる善の集合だからである。また、至福は人間の望みを満たすものであるとするならば、必然的に永遠の生命でなくてはならない。実際、至福にある人は今もっている善を永遠に享受することを望む。ところが、その善の享受が永続的で確実なものでないならば当然、それを失うことを恐れひどく苦しむことであろう。

4 永遠の至福は人間の考えやことばでは表現し尽くせない

天国にいる聖人たちの幸福がどれほどのものであるか、それはかれらだけに分かることで、それ以外の人はだれも理解し尽くすことはできない。このことは、至福を示すために用いられることばそのものが教えている。私たちはあるものを示すために、ほかのものにも適用する名称を用いることがあるが、これはそれを明確に示しうる固有の名称がないことを表している。さて、私たちは至福を表現するに当たって、至福者たちだけにかかわることばよりも、むしろ永遠に生きるすべてのものにかかわる、より一般的なことばを用いる。このことは、固有のことばをもって至福の内容を完全に表明し尽くすためには、あまりに深くすぐれていることの証拠である。なるほど聖書には天主の国 (マ6:33参照)、キリストの国 (ヨ18:36参照)、天の国 (マ5:3、20参照)、天国 ( Paradisus ル23:43参照)、聖なる町、新しいイエルザレム (黙21:2参照)、父の家 (ヨ14:2参照) など、至福を示すための多くのことばがあるが、そのどれも至福を示すために十分でないことは明らかである。
したがって司牧者は自分に与えられた好機を逸することなく、終わりなき命ということばで表されている大きな報いを信者たちに示し、かれらに信心や正義、キリスト教のすべての務めを果たすよう勧めなければならない。
実際、生命は普通、私たちの本性が欲求する最大の善の一つに数えられる。したがって、至福を終わりなき命と呼んだのは、至福がこの最大の善であることを示すためである。この世の生命は、これほど惨めで取るに足りないもの、不幸に満ちたものであって、死と呼ばれるべきはずのものであるが、それでもこれほど愛され、またこれほど貴重で楽しいものはありえないとするならば、すべての悪を排除し、完全かつ絶対的にあらゆる善を享受させる永遠の生命を得るためには、どれほど熱心に努力すべきであろうか。

5 至福とは何か

 聖なる教父たちが教えているように、永遠の生命の幸福は、あらゆる悪から解放され、すべての善を享有することである。(1)
 悪からの解放について、聖書ははっきりと教え、黙示禄にはつぎのように書かれている。「かれらはふたたび飢えることなく、渇くことなく、太陽にも熱風にも悩まされない」(黙7:16)。「天主は人間の目の涙をすべてぬぐわれ、死ももうなく、悲しみも、叫びも、苦労もなくなる。前のものが過ぎ去ったからである」(黙21:4)。
 つぎに、聖人たちが享受するはかりしれない栄光、数限りない種類の健全な喜びや楽しみがある。私たちの知力では、その栄光の偉大さを把握することはできず、また私たちに示されることも決してなく、その喜びによって満たされ、心の望みをすべてかなえるためには、その至福つまり主の喜びの中に入る以外にない。

6 善人が享受するおもな善について

 聖アウグスティヌスが言っているように、享受する善や楽しみを数えあげるよりも、受ける悪を数えあげる方がたやすいように思われる。(2) しかし司牧者は信者たちをこの無限の幸福に駆り立てうる事柄を、簡単明瞭に説明するよう努力しなければならない。そのためには、権威ある教会の著作家たちがしている区別を取り入れるべきである。かれらは二種類の善に区別している。その一つは至福の本質を構成する善で、他の一つは至福の結果として生じる善である。そして、教える便宜上、前者を本質的善、後者を付帯的善と呼んでいる。

7 至福の本質的善について

 一般に本質的至福と呼ばれるまことの至福は、すべての善と完全さの泉であり原理である天主を見、その美をめでることにある。主キリストは、「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知ることであります」(ヨ17:3) とおおせられた。このことばを聖ヨハネはつぎのように注解しているように思われる。「愛するものたちよ、私たちはいま、天主の子である。のちにどうなるかは、まだ現れていないが、それが現れるとき、私たちは天主に似たものになることを知っている。私たちはかれをそのまま見るであろうから」(ヨ①3:2)。かれによると、至福は天主の本性と実体をそのまま見ることと、 私たち自身が天主のようになることの二つから成り立っている。つまり、天主を見る人々は自分自身の実体を保ちながらも、天主の形相に似た形相をもつようになり、人間というよりはむしろいわば神々になるのである。

8 至福者たちが天主の本性にあずかる方法

 なぜそのような変化が起こるのかは、つぎのように説明できる。物事はみな、あるいはその本質を把握することによって、あるいはそれを表象するものやそれに類似したものを把握することによって、知ることができる。ところが、天主と自分との類似をとおして天主の完全な認識を得させるほど、天主に似ているものは何もない。したがって、天主の本性や本質を知るためには、天主の本質そのものが私たちと一致するしかない。このことを聖パウロはこう言っている。「今私たちは、鏡を見るようにぼんやりと見ているが、しかし、その時には、顔と顔とを合わせて見るであろう」(コ①13:12)。
 聖アウグスティヌスは、鏡ということばを天主を知るための表象と解釈している。(3) 聖ディオニシウスも、低いものにみられる類似によって、より高いものを知ることはできない、と言っている。(4) 実際、ある物質的なもののもつ類似をもって、物質でないものの本質や実体を知ることはできない。あらゆる事柄の認識においてよくあるように、類似のもとになるものは、それによって示されるものよりも具象性が少なく、より霊的でなくてはならないからである。そして、ある被造物が天主ご自身と同じくらい純粋で霊的なものになることはありえないのであるから、どのような類似をもってしても天主の本質を完全に理解し尽くすことはできないのである。
 さらに、すべての被造物の完全さは限定されている。これに反して、天主は無限のお方であるので、いかなる被造物による類似も、かれの無限を表すことはできない。そのため、天主の実体を知るためにはただ一つの方法しかない。それは、天主の実体が私たちと一致し、あるすばらしい仕方で私たちの知性を高め、天主の本性をじかに見うるものにすることである。

9 栄光の光をもって天主を見る

 それは栄光の光によってなされる。そのとき、私たちはこの光によって照らされ、まことの光である天主をその光の中で見るであろう (詩26:10参照)。至福者たちは自分たちの前に現存される天主をいつも見ている。また、かれらはこの最大かつ最高のたまものによって天主の本性にあずかるものとされ、まことの完全な幸福を享受している。私たちもまた天主の慈悲によってその幸福を得られるというたしかな希望をもって、それを信じていかなければならない。コンスタンティノープル公会議はこのことをつぎのように決議している。「死者のよみがえりと来世の生命とを待ち望む」。(5)

10 至福における天主と人との一致

 これらのことは全く天主的なことで、いかなることば、考えをもってしても、説明することも把握することもできない。しかし、感覚的な物からたとえをひいて、この至福を説明することができる。たとえば、火に焼かれた鉄は火を吸収することによって、その実体は変わらないとはいえ、あるほかのものつまり火になったように見える。同じように、天国の栄光に入った人々は天主の愛に燃やされ、自分であることはやめないが、この世にいる人々とは非常に違ったものになる。それはちょうど灼熱した鉄が冷たい鉄と違っているようなものである。(6) したがって一言で言うと、私たちが本質的至福と呼んでいる最高絶対の至福は、天主を所有することにある。最高の善、完全さである天主を所有している人にとって、完全に幸福であるために欠けているものは何もないはずである。

11 至福における付帯的善について  

 この至福は、すべての聖人たちに共通の、ある飾りを伴っている。それらは人間の力の及ぶ範囲内にあるので、私たちの心をより激しく刺激し動かすのが常である。この飾りの中には、聖パウロがローマ人への書簡で述べている事柄も含まれている。「善を行うすべてのものに栄光と名誉と平和がある」(ロ2:10参照)。実際、聖人たちは栄光を帯びている。かれらは、本質的な至福と一体をなし、あるいは本質的にそれと分かつことのできない栄光のほかに、もう一つの栄光をもっている。それは、各自がほかの人のすぐれた尊厳をはっきりと認識することから来る栄光である。
 つぎに、主からしもべではなく友と呼ばれ (ヨ15:15参照)、兄弟 (ヨ20:17参照)、天主の子 (ヨ1:12参照) と呼ばれることはどれほど大きな名誉であろうか。私たちの救い主は、つぎのような愛と賞賛に溢れることばで選ばれた人々に呼びかけられる。「私の父に祝せられたものよ、来て、世のはじめからあなたたちのために準備されていた国をうけよ」(マ25:24)。私たちはこれを聞いて、まさに「天主よ、あなたの友はあまりの栄誉を受けた」(ヴルガタ訳 詩139:17) と叫ぶことであろう。
 さらに、主キリストは天の御父とその天使たちの前で聖人たちを賞賛されるであろう (マ10:32参照)。
 また、人間はみな自然に、自分の才能を評価してくれる有識者から賞賛されたいという共通の願望をもっている。さて、至福者は互いに最高の賞賛をもってたたえ合うのであるが、これによってかれらの栄光はどれほどいや増すことであろうか。

12 天国で受けるその他の善について
 
 聖人たちが栄光のうちに享受する喜びを数えあげればきりがなく、またその全部を思い浮かべることも不可能であろう。ところで信者たちは、たとえばそれが精神の知的な喜びであれ、あるいは体の完全な状態における喜びであれ、この地上で味わい、または期待される喜びはすべて天国での生活には満ち溢れていることを、確信すべきである。しかし、この喜びは聖パウロが明言しているように、目もまだ見ず、耳もまだ聞かず、人の心にまだ思い浮かばない (コ①2:9参照) ほど完全な仕方で与えられるのである。
たとえば以前、物質的で粗野であった体は、天国では死ぬことを免れ繊細で霊的な体になり、食物も必要としなくなる (コ①15:42~44参照)。
 また、霊魂は永遠の栄光という糧を楽しみ、それに飽かされるであろう。この糧は宴会から帰った主人がすべての人に与えるものである (ル12:35~37参照)。
 天国では豪華な衣装や華美な装飾など全く用をなさない。すべての人が不滅性と輝きを帯び、永遠の栄光の冠を受ける。それでもなおそのような衣装や装飾を願望するものがあるだろうか。
 また、人は広大で豪華な家をもつことを幸福の一つに教えるが、天主の輝きによってくまなく照らされた天の家ではどうであろうか。それ以上に広大で豪華な家を考えることができるであろうか。ダヴィドはこの住まいの美しさを思い浮かべ、そこに入ることを切望してこう言っている。「あなたの天幕は慕わしい、ああ万軍の主よ!私の魂は、主の門に恋い焦がれ、心と体は喜びにはずむ、生ける天主を迎えつつ」(詩84:2~3)。司牧者はすべての信者がこのような考えをもち、またこのように言うことができるように希望するだけでなく、そうなるように全力をあげて努力すべきである。

13 天国の聖人たちの報いは同一ではない

 主は、「私の父の家にはすみかが多い」(ヨ14:2) とおおせられたが、各自はそのすみかでそれぞれの功徳に従ってそれぞれ異なった報いを受ける。「実に吝(おし)んでまくものは少なく刈り取り、豊かにまく者は豊かに刈り取るであろう」(コ②9:6)。したがって、この至福を享受できるように信者たちを励ますだけでなく、さらにそれを得るための確実な方法は信仰と愛を身につけ、絶えず祈り、秘蹟にひんぱんに近づき、隣人に対する愛徳の実行にあることをしばしば教えるべきである。こうして、ご自分を愛する人々に至福の栄光を準備された天主の慈悲が行われ、預言書イザヤのつぎのことばが実現されるであろう。「私の民は平和の家にすむ。安らぎにみちたすまいに、わずらいのないところに」(イ32:18)。

訳注 (1)S. Augustinus, de Civ. Dei, lib. 22, cap. 30;
      S. Johannes Chrysostomus, ad Theod. lapsum;
      S. Anselmus, op. 2 ad Hugonemなど参照
(2) S. Augustinus, Sermo 64 de verb. Domini 参照
(3) S. Augustinus, de Civ. Dei, lib. 15 参照
(4) S. Dionysius, de div. nom. cap. 1
(5) Conc. Constantinopolitanum, Symbolum Constantinopolitanum, DS 150.


The Oblates of the Priestly Society of St Pius X 聖ピオ十世奉献修道女

2014年12月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会には、「聖ピオ十世奉献修道女」たちが含まれています。先日ご紹介した聖ピオ十世修道女会(Sisters of the Society of Saint Pius X)は、創立者を同じくするけれども、聖ピオ十世会とは別の修道会です。聖ピオ十世会の総長と、聖ピオ十世修道女会の総長(Mother General)とは別の方です。この二つの修道会は、ちょうど兄弟姉妹のような関係です。
 しかし、今回ご紹介する「聖ピオ十世奉献修道女」は、聖ピオ十世会の一部をなしています。
 元々は、すでに修道女であり、修道生活をしてきたシスターの方々が、聖伝のミサのもとで修道生活を送ることが出来るように、ルフェーブル大司教様に助けを求めて来たことに由来します。
 この記事を日本語に訳して下さった方に心から感謝します。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

女子修道会 第十九章

The Oblates of the Priestly Society of St Pius X
聖ピオ十世奉献修道女



オブレートとはどういう意味でしょうか?

 ラテン語の動詞「offere」に由来し、「捧げる」という意味です。「Oblatus, oblata」は捧げられたもののことであり、これを奉献といいます。

 「オブレート」という言葉は直接的には贈り物、捧げもの、生贄という考えを表しています。私たちがここで使う「オブレート」という言葉は、生贄を捧げるシスターのことです。厳密に言えば、「シスター」という言葉は通常、誓願を立てた者のことを言います。オブレートとは誓願を立てることなく自分自身をお捧げした者のことです。この言葉を文字通りに見てみるなら、「オブレート」はより生贄の側面を強調している一方で、「シスター」はもっと兄弟的愛徳に関係する言葉です。



 旧約聖書では「oblates」や「oblations」に何度も言及されています。これらは天主に捧げられたものでした。生贄であり、生贄にされた物体、生贄とされた犠牲者のことでした。「生贄」という言葉は行為へともっと注意を向けており、「捧げもの」という言葉は、捧げられたものへと、より注意を向けています。

 従って「oblate」という言葉は非常に美しい言葉であり、多くの事物を指し、天主へと自分自身を与える人生にとっての課程となる言葉です。これは、絶え間なく与えるという行為にある霊魂の状態である、と言えるでしょう。

入会、志願期、修練期、養成

 聖ピオ十世会は、厳密な教会法上の言葉の意味では、無誓願の共同生活を送る会であり、全会員は清貧、貞潔、従順の三つの福音的勧告を実践するよう努力しています。奉献修道女(オブレート)も同じく無誓願の共同生活を送り、聖ピオ十世会の司祭たちのように、会への誓約(engagement)を立てます。ですが、個人的に、あるいは霊的指導司祭の同意を得て、私的誓願を立てることもあります。

 多くの修道会にあるような、入会に際しての年齢制限はありません。奉献修道女会は、かつて所属していた会が第二バチカン公会議の改革によって破壊されつつある、あるいは破壊されてしまったことにもはや耐えられない修道女たちをも受け入れています。このような修道女たちは、一年間の見習い期間ののちに入会が認められます。



 修道生活を送ったことがない人々のためには、一年間の志願期があり、その後、着衣式を経て一年間の修練期に入ります。この二年の養成期間ののちに、奉献修道女は聖ピオ十世会でみずからを奉献する許可を願います。



 この二年間の間に、奉献女は祈りや手仕事に加えて、霊性、教会史、聖書、教義、公教要理、典礼やラテン語などのさまざまな科目の授業に出席します。霊魂を豊かにするための霊的講話も同様です。

歴史、発展

 ルフェーブル大司教様による一九七四年の創立以来、奉献修道女たちは今や五十名という予想以上の会員を得ています。二つの修練院があります。一つはフランス語圏の召命のためにスイス南部のヴァレー州サルヴァンに、もう一つはアメリカ、コネチカットにあります。



奉献女の霊性

 奉献女の霊性は、天主にすべてを捧げつつ十字架のみ足元に立たれた共贖者なる聖母に一致することです。この称号をいただく聖母は奉献女の保護者です。教父たちは、「婦人よ、あなたの子だ」という聖主のみことばにより、聖母は新しい使命を受け取ったのなら、「子よ、あなたの母だ」というみことばで、聖ヨハネは人類を表していると教えています。聖母の慎ましい生活と使徒的生活により、彼女はすべての者の母、とりわけおん子の司祭たちの母となられました。聖母の祈り、謙遜、単純さ、そして従順によって、奉献修道女たちはみずからの模範である共贖者なる聖母にならおうと努め、こうしてみずからの召命をまっとうするのです。



 次の言葉は、ルフェーブル大司教様が会則における奉献女の霊性をどのように説明しておられるかを示しています。「霊的生活は天主に捧げられた者たちの存在理由です。あたかも、一人一人の霊魂が主イエズス・キリストのおん血で洗われるかのようにです。マリアを通してイエズスの生命を生きながら、ミサ聖祭と秘跡による恩寵のうちに成長しながら、典礼と個人的祈りによる、イエズスとマリアに一致したすべての思いと仕事による、これこそがまことの奉献修道女の霊性です」



「奉献修道女は、霊的生活の意向として、共同受難の観想と、十字架上のイエズスのおん悲しみと保護者である共贖者なる聖母の似姿を付け加える。また、霊魂の贖いのため、司祭たちの聖化のため、みずからの聖化のために祈りを捧げる」(会則、point C, paragraphs 1, 2 and 3)



使徒職

 天主の花園には多くの花々があり、それぞれが独自の美しさと目的、天主の栄光を称える独特のやり方を持っています。観想修道会は、小さき群れのために祈っている聖にして母なる教会の燃料です。教育修道会は青少年の霊魂を養い、半観想修道会にはさまざまな使徒職があります。活動修道会は病人や貧しい人々の世話をします。では、奉献女のそれはどういうものでしょうか? 彼女たちの務めは何でしょうか?



 奉献修道女は、ちょうど聖ヨハネや使徒たちとともにおられた聖母のように、さまざまな方法で司祭たちを助けます。私たちのいるこのような困難な時代にあって攻撃されているものは聖なる司祭職と聖なるミサであり、奉献女が必要とされているのは、本質的にここなのです。まことの司祭職が存在しないなら、まことのミサもあり得ません。ですから、奉献女の召命がどれほど重要であるかは、言うまでもありません。

 奉献修道女の主な目的は、「すべてをキリストにおいて復興させる」という司祭たちの仕事を助けることです。



 このようにして、奉献修道女は、なによりもまず、最も重要な祈りによって支援します。祈りは霊的生活の基礎だからです。また、高齢者や病人たちの世話をするという愛徳のわざによっても支援します。学校で教えることで、黙想の家で働くことでも支援します。



 台所からタイプライターまで、香部屋から裁縫室まで、このような慎ましい仕事をすることでみずからをお捧げし、奉献女たちは霊魂たちを救う務めにある司祭たちを支え、司祭たちがその義務にいっそうみずからを捧げるために、日常の雑務から彼らを解放しているのです。



Novice Mistress
Noviciat Ste Thérèse
1922 Salvan (VS)
Switzerland

Telephone No. +41 27 761 2128



聖ピオ十世会が聖伝のミサを捧げるパリの「慰めの聖母」教会 Notre-Dame de Consolation

2014年12月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ネリー神父様からも伺ったのですが、昨年から、聖ピオ十世会フランス管区では、パリにある Notre-Dame de Consolation というすてきな教会で聖伝のミサを捧げることになったそうです。

 主日には、5回聖伝のミサが捧げられています。

 愛する兄弟姉妹の皆様もパリに行かれたときには、是非、サン・ニコラ・ド・シャルドネ教会はもちろんですが、「慰めの聖母」の教会にも足を運んで下さい!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


パリの地図です。






聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。


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사랑하올 형제 자매 여러분,
한국성비오10세회(SSPX)
웹 사이트를 소개합니다.
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毎年恒例の聖ピオ十世会公式秋田巡礼にご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。

先日、シュテーリン神父様から日本語の良い公教要理のウェブ・サイトのリンク先を尋ねられましたので、次をご紹介しました。愛する兄弟姉妹の皆様にもご紹介します。


公教要理図解(ワグネル訳)
カトリック中央協議会編集の公教要理(1958年)
聖ピオ十世 公教要理詳解

ローマ公教要理 【使徒信経の部】
序文 教会における司牧者の必要性と権威および役務について またキリスト教のおもな教義について
信仰と信経について
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます(続き)
第二条 われらの主、イエズス・キリストを信じます
第三条 聖霊によりて宿り、おとめマリアから生まれた
第四条 ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け十字架に付けられ、死んで葬られる
第五条 古聖所 ( Inferi ) に下り、三日目に死者の中から復活された
第六条 天に昇り全能の父なる神の右に座し
第七条 主は生ける人と死せる人とを裁くために来られる
第八条 聖霊を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その2)
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その3)
第十条 罪のゆるし
第十一条 体の復活



THE SISTERS OF SAINT PIUS X 聖ピオ十世修道女会

2014年12月01日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ルフェーブル大司教様が創立したのは、聖ピオ十世会という司祭兄弟会だけではありませんでした。「聖ピオ十世修道女会」というシスター達のための女子修道会も創立しました。

 愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。英語の原文を日本語に翻訳して下さった方に心から感謝します。

 12月の聖伝のミサの日付は変則的になっています。どうぞお間違えのないようにお願いいたします。もしも、お知り合いの方で連絡先をご存じの方々がいらっしゃいましたら、お手数ですが、念のためにスケジュールの確認をお知らせ下されば幸いに思います。

 善い待降節をお過ごし下さい。天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

女子修道会 第十八章

THE SISTERS OF SAINT PIUS X
聖ピオ十世修道女会




み摂理が植えたもう一つの花

 一人の少女が修道召命について考える時、たいへんよくあることですが、彼女のまなざしは、何世紀にも渡って受け継がれたいくつもの修道会へ、聖会が列聖した修道会の創立者たちへと自然と引きつけられます。アヴィラの聖テレジア、十字架の聖ヨハネ、聖ドミニコ、聖ベネディクト、アシジの聖フランシスコなどの聖人たちは、自分たちの霊的息子、娘たちに、聖性に達するための独特の教えを残しています。それは、各々の番が来た時に多くの列聖された聖人たちを輩出した特別の教えです。聖ピオ十世修道女会のような、見たところ無名で、ごく慎ましい、ちっぽけな使徒職の新しい修道会に対し、そのような一瞥が向けられることはほとんどないでしょう。



 教会にはなぜ、このような多様性に富んださまざまな修道会が存在するのでしょうか? 教会は、すべての花が固有の居場所と必要性を持つ、広大な花園であるからです。すみれは決してばらにはなり得ず、ばらは決して水仙にはなれません。なぜでしょうか? それぞれの花はみな違っているからです。天主の花園がこれほど美しいのはこのためです。ある修道会を別の修道会と区別するものは何でしょうか? その霊性です。霊性こそは、会員たちに命を吹き込む原動力であり、個々の修道会が、修道生活と会憲や会則に準じて宣誓される誓願をどのようにして保つかを決定する影響因子なのです。会員たちの人生にかぐわしい香水のように染み込むものは、創立者の霊性です。しかしながら、修道会の霊性を理解するためには、まず初めに、その創立の起源にまで遡らねばなりません。偉大な修道会のそれぞれの起源を辿ってみるなら、天主がご自分の教会にいくつかの教訓やカトリック信仰の教義的論点──教会の敵が信仰を弱らせ、教会全体を破壊しようとして、彼らによっておざなりにされ、疑問を投げかけられた信仰の教義──に光をもたらすという使命を持った霊魂たちを常に興してきたという、何世紀にも渡る事実に気づきます。



創立者たち

マルセル・ルフェーブル大司教

 教会は、特に第二バチカン公会議以来、史上かつてないほどの危機を経験していますが、天主は「善き司祭たちを養成し、司祭職を保持することで、この背教と不信の波に断固として立ちはだかる一人の高位聖職者」(十六世紀のキトの聖母のメッセージを参照)を起こしてくださいました。この高位聖職者とは、ほぼ間違いなく、聖ピオ十世修道女会の、そして聖ピオ十世司祭兄弟会の創立者でもあるマルセル・ルフェーブル大司教様のことです。



 ローマの神学生、教区司祭、修道者、ガボンの宣教師、神学生たちの校長、ダカールの大司教、教皇使節、聖霊修道会総長……。「ルフェーブル大司教が、自分の意志ではなく、み摂理によって成し遂げることのできた尺度での経験と情報を獲得することができた人々は、教会内には数えるほどしかいなかった」このような豊かな、あらゆる経験によって、天主は教会内に、教会のために、国際的司祭兄弟会と修道会を創立するために大司教様を準備なさったのです。



 み摂理に従って、事態はあるべき場所へと少しずつ落ち着き、一九七〇年十一月一日、聖ピオ十世会は正式に創立されました。それから四年も経たないうちに、修道女会の小さなグループも結成されました。

 その創立から、そして一九九一年の大司教様の死去まで、聖ピオ十世修道女会は、私たちの本部修道院への訪問をとても好まれた大司教様と頻繁にコンタクトを取っていました。本部修道院で、大司教様は霊的生活にある私たちを指導し、教会を愛することを教えてくださいました。大司教様のいくつもの徳の基盤であった謙遜と、最も頂点に掲げられていた愛徳の模範は、すべてが飾り気のない単純さ、堅固な信仰と穏やかな剛毅と一体化しており、大司教様のキリストに対する愛と擁護の精神を内側から放ち、私たちの奉献を完全に生きることで、お愛し申し上げる救い主のまねびへと私たちを駆り立てたのです。

マリー・ガブリエル修母

 マリー・ガブリエル修母様はルフェーブル一家の四番目の子どもで、ルフェーブル大司教様より一才半年下でした。聖霊修道女会への入会ののち、マリー・ガブリエル修母様は一九三〇年三月二十日に誓願を立てました。五十六年後、亡くなるわずか六ヶ月前、修母様はとても愛していた宣教女としての生活をなおも思い出しては懐かしみ、もう一度再開したがっておられました。彼女は世界一多様性に富んだ国、すなわち、西インド諸島のマルティニーク島やグアドループ島、カメルーン、セネガル、そして中央アフリカ共和国へと旅をされ、そこで百人以上の黒人の子どもたちに「in extremis 臨終の」洗礼を授け、彼らは今や天国での彼女の栄光の冠の飾りとなっています。疲れを知らぬ義務への献身とともに、修母様の天主と隣人への愛は、特に看護婦としての役目でバンギでのハンセン病患者たち世話をする時に表されました。謙遜が深く根を下ろしていたため、修道会内での重い責任について一切語りませんでした。彼女は総長補佐で、Visitorでした。ご自分にできるすべてのことにみずからを完全に捧げておられました。このようにして、修母様は美辞麗句によってではなく、祈りと同様に、行動における単純さによってご自分を天主への完全な捧げものとされ、それを生きたのでした。



 ルフェーブル大司教様が、聖ピオ十世修道女会の創立にあたって、修母様に助けに来てくれるかどうかお願いされた時、彼女はためらいましたが、変わらぬ熱意と生き生きとした情熱を武器にそれに応え、もう一度自分自身を完全な捧げものとしたのでした。修母様は、霊魂の救いと天主のより大いなる栄光のため、天主がお望みになったこの偉大なみわざの共同創立者である聖母のひな形でありました。

 マリー・ガブリエル修母様は私たち全員にとって修道生活の模範です。修母様は愛徳の徳について深い認識を持っておられ、その愛徳は彼女を気品のある礼儀正しい者としました。彼女にはいつも霊魂を慰め、両親たちや、問題や悩みを打ち明けることを必要とした人々の話に耳を傾ける時間がありました。あらゆる状況下で彼女は天主の愛に導かれ、彼女の第一の目的は霊魂のうちに天主の愛を広げていくことでした。



 そして修母様は、謙遜と日常の雑務と単純さへの愛、義務への愛を、修練女たちのうちに、どれほど叩き込んでくださったことか! 天主に自分自身を奉献することに限界をつけるなどと、修母様にはまったく理解不可能なことでした──修母様にとっては、すべてか無か、でしたから。高齢になってからも、庭仕事のやり方、限られたスペースを充分に生かして、わずかの労力で、皆のために充分な作物を生み出す方法を教えて下さいました。彼女は常に知恵に富み、強靭で、障害をものともしない熱意を持っておられました。裁縫室から庭仕事まで、鶏小屋からスクリュードライバー、ハンマーやのこぎりの扱い方まで、オルガン弾きから病室の仕事まで、修母様は熟練した腕を持っておられました。

 修母様の清貧への愛も深いものでした。宣教師として、清貧の徳を私たちに教えてくださいました。必要なものは要求し、それ以外のものは余計だと考えておられました。私たちに不平を呟くことなく仕事をするべきだと教えてくださいました。亡くなる時まで修母様の床頭台(ナイトテーブル)はトランクでした! 落胆や病、さまざまな試練に苦しみながら……修母様はそれらを非常に敏感に感じ取りながらも、決して不満をこぼさず、刺々しくなることもありませんでした。信仰の大いなる精神に活力を与えられて、まことにすべてを天主様にお捧げになりました。彼女の仕事は絶え間ない祈りでした。身分上の義務は修道生活において重要な位置を占めていたからです。これは天主のご意志の表明であり、天主のご意志を行うこと以上によりよく祈ることは彼女にはできませんでした。彼女の務めは、両親から受け継いだ深い信心により照らされ、その信心は一日一日、実りをもたらしていました。修母様は常にこう言っておられました。「ひとたび修道服をまとったなら、あなたの時間はもはやあなたのものではなく、教会のものなのです」と。

 修母様はとても明るくほがらかでした。彼女の善い心根、他者への気遣い、優しい繊細な性質は、生ける信仰から来ていました。修道生活についての講話で、好んで口にしていたことは「喜びと聖性──これは一体なのです」でした。



 ルフェーブル大司教様の妹、私たちの修道会の共同創立者であるマリー・ガブリエル修母様とは、このような方でした。

 聖ピオ十世修道女会の霊性を理解するためには、聖主が十字架にかけられたまさにその日のカルワリオに立ち戻らなければなりません。イエズスは残酷なまでに苦しまれました。ときおり、彼が眼を開けて下を見ると、最愛のおん母と、数名の聖なる婦人たち、そして忠実な司祭、聖ヨハネが十字架の下に立っているのをごらんになりました。彼らにまなざしを向けつつ、イエズスの臨終が近づきます。イエズスは最期のまなざしを聖母にお向けになり「婦人よ、これはあなたの子だ」と言われ、また聖ヨハネに向けて「子よ、これがあなたの母だ」と仰せになりました。こうして、聖主は、ご自分の聖心にとって最も大切な宝──カトリック司祭職をご自分のおん母に委ねられたのです。聖母は聖主から新しい使命を受け取りました。聖母の謙遜な隠れた生活によって、聖ヨハネと最初の司祭たちである他の使徒たちのために、聖母にはなすべき義務がありました。それは聖母が常におん子のためにしてきたことでした。そうです、聖母の祈りは彼らを助けたことでしょう。しかし、聖母には彼らの物質的苦労と使徒職における彼らの心配を取り除く義務もありました。聖母はおん子の司祭たちのうちにあるキリストにお仕えしなければならなかったのです。



 聖ピオ十世修道女会は、自分たちの居場所を十字架の足元に見いだします。その霊性は完全にミサ聖祭と、共贖者なる聖母という美しい称号のもとにある童貞マリアの霊魂を中心にしています。

「イエズスのおん血とおん母のおん涙はともに流れ出し、人類の贖いのため、ゴルゴタにおいて混ぜ合わされた」と、ドン・ゲランジェは言っています。



 聖主がゲッセマニの苦しみとご受難を耐え忍び、私たちの罪のための生贄をついに完成させた最初の聖金曜日以来、何世紀もの月日が過ぎ去りました。今日では、聖主はご受難とはりつけを、ご自分の神秘体において苦しまれています。そして司祭職とミサの聖なる生贄が攻撃されているが故に、聖主はもう一つの「花」を教会の花園にお植えになりました。この花は聖ピオ十世修道女会と呼ばれています。この花は実際のところまだまだ未熟ですが、しっかりと根を下ろしてから二十五年という年月が立ち、天主の恩寵を武器に、より大いなる天主の栄光に対して、いまなお満開の花を咲かせているのです。



 聖ピオ十世会の修道女は、時のある間、マリアの共同受難とけがれなき御心から来るあわれみの時を引き延ばしています。そして、イエズスが現代の霊魂たちのために耐え忍んでおられる苦悩に、よりいっそう特別に自分自身を一致させ──天主なる生贄と童貞マリアとともに自分自身を捧げることで、司祭たちのために祈ることで、司祭たちのうちにおられる聖主にお仕えすることで、一致させるのです。



「観想と活動の結合した生活」の修道会

 聖ピオ十世修道女会は「混合生活」、つまり、活動的と観想的生活の溶け込んだ修道会と呼ばれています。この修道女会は、教育修道会のような完全な活動会でもなく、カルメル会のような禁域生活を送る会でもありません。聖主ご自身が、説教をなさり奇跡を起こし、その後、祈りに多くの時間を割ける孤独な場所へと退かれた、混合生活を送られました。

 六ヶ月の志願期の終わりの次には、二年間の修練女としての生活が、着衣式とともに始まります。この二つのテスト段階を終えてからようやく、修道女たちは清貧、貞潔、従順による生活の誓いを立てるのです。これらを順守すると約束するのです。このような二年半の養成期間はただ祈りによるだけでは足りません。修練女たちは、霊的講話と同じく、教会史、聖書などのさまざまな科目の授業に出席します。また物質面での仕事、庭作りや家事などの雑務、食材を提供してくれる家畜や鶏の世話をします。



 誓願を立てたのち、修道女たちは聖ピオ十世会のさまざまな修道院に派遣されます。そこで、公教要理、病者の訪問、香部屋、小学校などのさまざまな司祭たちの使徒職を助け、達成させるのです。修練中に得た知識のおかげで、もっと多くのこと、すなわち、料理や掃除、洗濯などと同じく、祭壇のホスチア作り、司祭の祭服の修繕、オルガン演奏、聖歌を歌うこと、庭作りなどができるようになるでしょう。

 修道女たちは毎日、さまざまな意向で祈るため、一時間の聖体礼拝をします。例えば、教皇様のため、司教様たち、司祭たちのため、奉献された霊魂たちのため、そして特にご聖体のうちにまします聖主に対して犯される侮辱を償うためにです。事実、十字架上のキリストを観想し、まねることで、まことのキリスト者になり、修道生活にそのすべての価値と気高さを添えるのです。



 すべてのまことのキリスト者は、洗礼によって宣教師です。が、修道者的奉献によって、修道女たちは、王たるキリストの統治を広げるために働きつつ、一人一人の聖化を通して、使徒職を通して、完全に教会に捧げられます。祈りと霊的成長が洗礼を受けた霊魂たちの生活の中で最も重要な側面ならば、まして修道者にとってはそれ以上であり、外的活動によるよりも、聖主との一致した生活によって、それ以上にはるかに司祭たちの助け手である聖ピオ十世修道女会にとっては、特にそうであります。修道女の生活全体は、あらゆる恩寵の源であるミサ聖祭を中心にしたものです。従って、修道女の内的生活──さらに進んで、使徒的生活──は、まさしく主イエズス・キリストの生贄と、共購者なる聖母との一致から流れ出しています。

修道会の歴史と発展

 一九七〇年十一月一日は、スイスのフリブールにおける聖ピオ十世司祭兄弟会の教会法上の創立記念日です。教会の宣教のぶどう畑における重要人物、信仰の優れた守り手であるマルセル・ルフェーブル大司教様は、第二バチカン公会議の最中と終了ののち、主イエズス・キリストの司祭職へと召された青年たちを養成し、若い司祭たちがまことのミサ聖祭を続けるための神学校を作りました。



 これらの司祭たちのために祈り、犠牲を捧げるのは誰でしょうか? 司祭たちが彼らの義務にさらに自由に自らを与えられるよう、日常の雑事を引き受けるのは誰でしょうか? お聖堂や祭壇布や祭服を整えるのは誰でしょうか? 子どもたちに、天国へと導く信仰の真理と信仰への愛を植えつけながら公教要理を教えるのは誰でしょうか? 老人たちや病人たちを見舞うのは誰でしょうか?

 ルフェーブル大司教様はこのように説明されています。「男性のための共同体を創立するにあたってはまったく当たり前のことですが、司祭の仕事を容易にするために、また祈りによって彼らを支えるために、修道女による使徒職の助けを得られる可能性を探していました」

「けれども、私の妹、マリー・ガブリエル修母の存在がなかったなら、私は何事も引き受けるつもりはまったくありませんでした。というのは、修道女たちを養成しようとは思っていませんでしたから。神学生たちの養成には安心して取り組めると思っているのと同じくらい、修道女たちの養成は私の力量を超えることだと感じていました! 記憶の中にあるいくつものいろいろな状況の時のように、これは天主のみ摂理が舗装された道でした。これは志願者たちが名乗り出し始めた時になってようやくのことです。特にオーストラリア出身の志願者は多くの人々を驚かせましたが、これはまったくの事実なのです。私は最初に神学生たちと一緒にやったように、ほんのわずかのことをしただけでした。志願者たちを養成のためにPontcalecに派遣しました。妹の方はというと、ますます困難に直面するばかりでした。近代主義が妹の修道会にもゆっくりと忍び寄っていたからです。妹にとっては、自分で語っていたように、修道会を離れた人たちのように一歩を踏み出すことは困難でした。私は強く主張しなければなりませんでした。四十年に渡る修道者の共同体から去って、決別することは簡単なことではありません! 幸いなことに、妹は来てくれました。集まって来た志願者たちを彼女に委ねることができ、こうして聖ピオ十世修道女会が創立されたのです……」



 一九七四年九月、ルフェーブル大司教様は聖ピオ十世修道女会の最初の修道女に、聖なる修道服を与えました。修道女会の修練院は、三年に渡って永遠の都ローマの近くにありました。その後、一九七七年の秋に、フランス中央部の小さな村、Saint-Michel-en-Brenneに移されました。さらに志願者が増えるにつれ、小さな共同体は大きくなっていき、他の場所に修道院を建て始めることになりました。

一九七七年六月 ジュネーブ、スイス
一九七九年九月 Le Pointet, フランス(黙想の家)
一九八〇年六月 Unieux, フランス
一九八一年十月 ヨーロッバ以外の土地で最初の創立──セントメリー、カンザス(アメリカ)一九八二年八月 ディジョン、フランス
一九八二年十月 ブリュッセル、ベルギー
一九八四年九月 フランス語での手紙のやりとりによる公教要理の最初の年
一九八六年五月 アルゼンチン、ラ・レハにおいてスペイン語圏の修練院
一九八六年八月 ミシガン州アルマダ(アメリカ)において英語圏の修練院
一九八七年一月二十七日 私たちの愛するマリー・ガブリエル修母が本部修道院で娘たちに囲まれつつ帰天
一九八八年七月 一九八八年六月三十日の歴史的な四司教聖別の数日後、オーストラリア、シドニーにてキリスト信者の助けなるマリア修道院創設
一九八九年二月 スペイン語圏修練院がアルゼンチンのピラルに移転し、神学校の援助のためラ・レハの小さな共同体から退去
一九八九年八月 フランス、ディジョンの共同体がマルセイユに移転
一九八九年九月 フランス語圏修練院がリュフェックに移転するが、本部修道院と手紙による公教要理はSt.Michaelに留まる
一九九〇年十二月 英語圏修練院が(アメリカ)ミシガン州Browervilleに移転
一九九一年七月 フランス、Le Brémien──最初の老人介護施設
一九九二年八月 ドイツ、Göffingenにドイツ語圏修練院
一九九二年九月 フランス、Châteauroux近郊に聖ミカエル学校
一九九三年九月 ガボン、リーブルヴィルに最初のアフリカの巡回教会
一九九五年九月 アメリカとオーストラリアでの女の子のためのキャンプと同じく、フランスでの聖体十字軍と女の子のためのキャンプの責任を任される
一九九六年九月 フランス、ボルドー近郊ブルージュ
一九九七年六月 ローマ近郊アルバノに戻る
一九九八年九月 パリ近郊シュレンヌに、フランス管区修道院付き共同体
手紙のやりとりによる公教要理がBrowervilleの修道女たちによって英訳され、配布された最初の年



 一九九九年十一月、創立より二十五年を経た後、修道女会は、世界のさまざまな国々からの、一〇八名の立誓願修道女と十五名の修練女、十七名の志願者で構成されています。こうして、ちょうど聖ピオ十世司祭兄弟会のように、まことの国際的な会の性質を見せています。修道女たちは、四つの修練院を含む十九の修道院、七つの学校、八つの教会付属の修道院、一つの神学校、黙想の家、老人介護施設、宣教地、本部修道院に散らばっており、それぞれの場所で、天主なる聖主が使徒たちに委ねられた使命に協力しながら、祈り、働いています。「行け、諸国の民に教えよ……私は常におまえたちとともにいる」(マテオ28:19~20)


Rev. Mother Superior
Noviciat Notre-Dame de Compassion
F-36300 Ruffec le Château
France

Tel: [33] 2 54 37 83 49


Rev. Mother Superior
Sacred Heart Noviciate
540 W. 8th Street
Browerville, MN 56438
U.S.A.

Tel: [1] (320) 594 2944


Noviciado Santa-Teresita-del-Niño-Jesus
Los Robles del Monarca y Alem LA LONJA - Quinta La Margarita
Ruta 8, km 47,5
(1629) PILAR (Provincia de Buenos Aires)

次の記事も参考にして下さい。

聖ピオ十世の修道女会1

聖ピオ十世の修道女会2

聖ピオ十世の修道女会3


聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。


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사랑하올 형제 자매 여러분,
한국성비오10세회(SSPX)
웹 사이트를 소개합니다.
SSPX KOREA


毎年恒例の聖ピオ十世会公式秋田巡礼にご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。

先日、シュテーリン神父様から日本語の良い公教要理のウェブ・サイトのリンク先を尋ねられましたので、次をご紹介しました。愛する兄弟姉妹の皆様にもご紹介します。


公教要理図解(ワグネル訳)
カトリック中央協議会編集の公教要理(1958年)
聖ピオ十世 公教要理詳解

ローマ公教要理 【使徒信経の部】
序文 教会における司牧者の必要性と権威および役務について またキリスト教のおもな教義について
信仰と信経について
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます
第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます(続き)
第二条 われらの主、イエズス・キリストを信じます
第三条 聖霊によりて宿り、おとめマリアから生まれた
第四条 ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け十字架に付けられ、死んで葬られる
第五条 古聖所 ( Inferi ) に下り、三日目に死者の中から復活された
第六条 天に昇り全能の父なる神の右に座し
第七条 主は生ける人と死せる人とを裁くために来られる
第八条 聖霊を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その2)
第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(その3)
第十条 罪のゆるし
第十一条 体の復活


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】