Vidimus enim stellam ejus in oriente, et venimus adorare eum.
われわれは、その星を東に見たので、おがみにきた。
愛する兄弟姉妹の皆様、
主の御公現の祝日、おめでとうございます。
マテオによる聖福音(バルバロ訳)にはこうあります。
「イエズスは、へロデ王のとき、ユダヤのベトレヘムでお生まれになった。そのころ、東の国の博士たちが、イエルザレムに来て、「お生まれになったユダヤの王さまはどこにおいでになるのか。われわれは、その星がのぼるのを見たので、おがみにきた」とたずねた。」(マテオ2:1-2)
ラテン語では、Vidimus enim stellam ejus in oriente, et venimus adorare eum.
その直訳は「われわれは彼の星を東に見たので、彼をおがみにきた」です。
聖書のこの箇所を読むと、二年前(2021年1月13日)に設立された「暁の星の聖母の修道院」のことを自然に思い出します。
次のように理解したくなってしまいます。
Vidimus enim Stellam Matutinam ejus in Japonia, et venimus adorare eum.
「われわれは主の "暁の星" を日本に見たので、主をおがみにきた」と。
昨日の1月5日には修道院で朝7時15分のミサの時に、故ベネディクト十六世のためのレクイエム・ミサを捧げました。
ベネディクト十六世は、聖伝のミサが「決して廃止されたことがない」「その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない」「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続ける、それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえない」と発言しました。
そのことは、カトリック教会にとってもっとも有益なことでした。
「われわれは主の "暁の星" を日本に見たので、聖伝のミサで主をおがみにきた。」
私たちは東の国の博士たちと心を合わせて、次のように信仰宣言をします。
私(氏名)は聖なるローマ教会で使われている信経[すなわちニケア・コンスタンティノープル信経]に含まれることすべてと、その各部分を固く信じ、宣言します。すなわち、
我は、唯一の全能の聖父(ちち)なる天主、すなわち、天と地、見ゆるものと見えざるものの創り主を信じ奉る。また、天主の御一人子、唯一の主イエズス・キリストを。すなわち代々の前に聖父より生まれ、天主よりの天主、光よりの光、真の天主よりの真の天主、創られずして生まれ、聖父と同一実体なり、全ては主によりて創られたるなり。主は、我ら人間のため、又我らの救いのために天より下り、聖霊によりて御托身し給い、童貞マリアより、人となられ給うた。更には我らのためにポンシオ・ピラトの管下にて十字架に付けられ、苦しまれ、葬られ、聖書にありし如く三日目に蘇り、天に上がり、聖父の右に座し、生ける人と死せる人とを裁かんために栄光を伴って再び来たり給う。その主の御国は終わることなからん。
また、生命の与え主(ぬし)なる主なる聖霊を。聖霊は聖父と聖子とより発出し、聖父と聖子と共に礼拝され、共に栄光を受け給い、予言者を通して語り給いし。また、一、聖、公、使徒継承の教会を信じ奉る。我は唯一の罪の赦しのための洗礼を宣言し、死者の蘇りと来世の生命とを待ち望み奉る。アーメン。
私は、同じ教会の、使徒継承のおよび教会制定の聖伝、その他の規定と憲章を固く認め、受入れます。私は聖書を、聖にして母なる教会が今まで主張し、今も主張している意味に従って認めます。聖書の真の意味を決定し、解釈するのは教会の任務です。私は、教父たちの一致した意見以外の意味で、聖書を受入れたり、解釈したりすることを、決してしません。
全人類の救いのために、私たちの主イエズス・キリストが制定した新約の秘跡が七つであることを信じます。すなわち、洗礼、堅振、聖体、告解、終油、叙階、婚姻の七つがあり、すべての人にすべての秘跡が必要ではないけれども、聖寵を与えるものであることを信じます。洗礼、堅振、叙階を繰返して授けることは汚聖の罪であることを。上にあげた秘跡の荘厳な執行にあたって、カトリック教会が認めている儀式を受入れ、認めます。
原罪と義化について、トレント公会議において決議され、宣言された全体と各部分を信じ、受入れます。
ミサにおいて生者と死者のための真実で正しい宥(なだ)めのいけにえが、天主にささげられること。至聖なる聖体の秘跡の中に真実に、現実に、実体的に私たちの主イエズス・キリストの体と血が、その霊魂と神性とともに実在すること。パンの全実体が体に、ブド一酒の全実体が血に変化し、この変化をカトリック教会が全実体変化と呼んでいることを信じます。一つの形色のもとにキリストの全体と真の秘跡を受けることを信じます。
煉獄が存在し、そこに留められている霊魂らを信者の代祷によって助けることができると固く信じます。キリストとともに天国にいる聖人を尊敬し、彼らに祈りをささげるべきこと、また聖人は私たちのために天主に祈っていること、聖人の遺物を尊ぶべきことを信じます。キリストと終生童貞である天主の御母および他の聖人たちの像を持ち、保存すべきであり、それに対してふさわしい栄誉と崇敬をささげるべきであると強く主張します。贖宥の力がキリストによって教会に残され、それを活用することはキリスト信者にとって非常に有益であると確信します。
聖、カトリック、使徒継承のローマ教会は、すべてのキリスト教会の母であり、教師であることを承認します。使徒たちの頭である聖ぺトロの後継者であり、イエズス・キリストの代理者である教皇にまことの服従を誓います。
さらには、諸公会議、特に聖なるトレント公会議および第一バチカン公会議によって定義され宣言された聖なる規定(カノン)に含まれる、すべての伝えられた教え、特に教皇の首位権と不可謬権についての教えを、疑うことなく保持し、宣言します。同時に、これに反するすべての意見、および教会によって非難され、排斥され、呪われたすべての異端を、非難、排斥し、呪います。
これなしには誰も救われることがない、この真のカトリックの信仰を、今ここに、私は自発的に宣言し、真実に信じます。私(氏名)はこの信仰を、天主の助けによって、最後の息を引きとるまで、完全に、傷つけることなく堅く守り、宣言します。また私に従属する者および私がその責任を持つ者たちによって、これが信じられ、教えられ、公けに宣言される、全力を尽くすことを誓い、約束します。天主と天主の聖福音書が私を助けてくださるように。
我 (某) は、教会の無謬の教権によりて定義、確認、宣言されし事を、就中今の時代の謬説に直に反対せる主要なる教義を、悉く、一つ残らず堅く信じ、受け入れん。
先づ第一に、万物の原因且つ目的たる天主の存在は、結果より原因を知るが如く、理性の自然の光によりて「造られし物を通じ」(ローマ1・20参照)、即ち目に見ゆる被造物を通じ、確実に知り得る事、また故に証明可能たる事を、我は宣言す。
第二に、啓示の外的論証、即ち天主がなし給いし御業、とりわけ奇蹟と預言とは、キリスト教が天主に由来せん事のいとも確実なる徴しと自認し承認す。またこの同じ外的論証が、全ての世と全ての人間の知性に、今の世と今の世の人間の知性と雖も之にいと相応しきものたる事を、我は堅く信ず。
第三に、啓示されし御言葉の保護者かつ教師たる教会を、主が我らの内に住み給ひし時、真の歴史的キリスト御自身が、主御自ら直接に制定されし事、及びその同じ教会が使徒位階制度の頭たるペトロと、時の終りに至るまで全ての後継者らの上に建てられし事を、我は堅き信仰をもって信ず。
第四に、使徒達より、正統信仰の教父達を通じ、常に同じ意味及び解釈に従いて我らに至るまで伝えられし信仰の教義を、我は誠実に受け入れん。故に、教義が、教会が初めに保持せしものとは異なり、一の意味より他の意味へと進化すると説く異端説を、我は拒否す。同じく、キリストの花嫁たる教会に任され、これによって忠実に守らるべき天主の信仰の遺産を、人間の努力により徐々に形作られ将来に亘る無限の発展によりて完成さるべきとする謬説を、我は全て排斥す。
第五に、信仰が、心の欲求と意志の衝動との下で道徳的に未発達なる潜在意識の奥底より湧き出づる盲目的宗教感情にあらざる事、またかえって信仰とは聴覚を通じ外的に受けた真理に対する真なる知性の同意たる事、即ち我らの創造主且つ主たる位格的天主が曰い、証明し、啓示し給いし事を、最高の真理なる天主の権威の故に、我ら信じ奉る事を、我は最も確実に堅く信じ且つ誠実に宣言す。
更に、回勅「パシェンディ」および教令「ラメンタビリ」に含まるる全ての、特に所謂教義の歴史に関する排斥、宣言、規定に対し、我は尊敬の心持て服従し、且つ我が魂全てをもって、之を厳守す。
同じく、"教会によりて提示されし信仰が歴史と矛盾し得る" と主張する者達の誤謬、また "カトリック教義が今日理解されし意味において、カトリックの宗教のより真正なる起源と調和し得ざる" 旨主張する者達の誤謬を、我は拒絶す。
また、"信仰者の信仰に矛盾せる事を奉ずる事、若しくは教義をあからさまに否定せぬ限りにおいては教義が誤りたるないしは疑わしきものたるとの結論を導くべき前提を打ち立てる事があたかも歴史家には許さるるが如く、教養あるキリスト教徒は信者と歴史家のの双方の人格を持てり" と主張する者達の説を、我は排斥且つ拒絶す。
同じく、"教会の聖伝、信仰の類比、更には使徒座の規範を無視すると共に、理性主義者達の意見に従い、随意にまた大胆にも、原典批判をもってのみ唯一最高の規範とする聖書研究・解釈方法" を、我は拒絶す。
更には、先づ "カトリック聖伝の超自然的起源若しくは啓示されし真理を永久に保存せんが為天主の約束し給うた御助けに就いての先入観を捨てねばならぬ" との説、また "教父一人一人の著作は、その天主からの権威を打ち捨て、科学の諸原則のみに従い、通常世俗の文献を研究せん時に用うる判断の自由をもってこれを行うべき" との説を、我は排斥す。
最後に、"聖伝には神的なる点無しとの近代主義者達の謬説、或いは、より増して悪しき事には、聖伝に神的な点無しとの説を凡神論的意味において認め、共通の歴史事実に同化さるべき単なる純然たる事実、即ち人間がその働き、技能、才能によりキリスト及びキリストの使徒達によりて始められし学派を後世に継続したとの事実以外には何ものをも認めず" とする説を主張する近代主義者達の謬説には、我は全く反対する事を宣言す。
故に我は、使徒達に由来せし司教座の継承の内にあり、今もあり、また未来においても常にあり続くべき真理の確実なる徳能(カリスマ)に関する教父らの信仰を最も堅く守り、これを最後の息まで堅く守り抜かん。そは各時代の文化により良く似つかわしく見ゆる事が信ぜらるる為にあらず、むしろ初めより使徒達によりて説かれし不変の真理が、別様に信ぜられ或いは別様に理解さるる事決してあらざらんが為なり。
上述の全ての事を、忠実、完全、誠実に守り、教えるに当たりてもその他の業においても、話す言葉にても書く言葉にても、決してこれより離るる事なき様守り通さん事を、我は約束す。かく我約束し奉り、かく我誓い奉れば、願わくは、天主と天主の聖なる福音我を助け給え。
聖伝のミサ(トリエント・ミサ)にようこそ! - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
下は、同じ場所の板橋駅ですが、新盆唐線の板橋駅です。
台湾にも板橋駅があるそうです。
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
最近教えてもらった「ハンセン病患者村のステファノおじいさん」の話をご紹介いたします。今は引退したキム・ウンリョル神父が神学校時代に出会ったハンセン病患者の話です。韓国語はここを参考にしました。
ソロクドのステファノおじいさん
今は、全国のハンセン病患者村の多くは、なくなっていますが、一番有名なのがソロクド(小鹿島)です。【小鹿島は、朝鮮半島の南の端にある小さな島】
私は神学校の2つの休暇をソロクドで過ごしました。
大きなカバンの一つを持ってソロクドの坂道を登る何かがあるのですが、最初は本当に犬だと思いました。ところが近く行ってみると、手足が一つもないハンセン病患者でした。
おなかに、タイヤを半分に切ったものを当てて肘ではって進んでいるのです。
「おじさんはどこに行くのですか?」と言って顔を見たら、もっと醜かったのです。
顔に穴が大きく開いていたんです!鼻もなくなったて、かなり経っていました。
あの上にある聖堂に祈りに行くんだそうです。首にはロザリオをかけておられました。
ですから「おじさん、失礼にならないようでしたら、私がおんぶしてはいけないでしょうか?私は神学生なんです。」
そう言ったら、おじさんは、今日は天使に会ったありがとう、と言われました。
他の人は5分で行く距離を、この方はミミズのように這うので30~40分かかったんです。
しかも坂道に雪が来ると、一生懸命上がるおなかにあるタイヤがずっと滑ってしまうんです…。
彼の名前はステファノでした…
山の中腹に巡回聖堂がありましたが、今はなくなりました。
ある日、私も祈りをしようとその巡回聖堂に入ろうとしたのですが、聖堂の外で、ステファノのおじいさんが顔が血まみれになって祈っておられるのです。
「おじいさん、なぜ入らなかったのですか?」
何と言うことでしょう、ドアを開ける手があってはじめて、ドアを開けることができるのです。
別の時だったら、頭で数回ドアをノックすれば、中から誰かがドアを開けてくれたことでしょう。
ところがその日は寒すぎて、中で祈る人がいなかったんです。
その閉じたドアを頭でこじ開けようとして、頭が傷ついて、傷が開いて凍ってしまったのです。
そこで、聖堂の外で、ここが第一留、第二留、と言いながら一人でおなかで這って行きながら十字架の道行きをしてたんです。
「あらあら、おじいさん、私と一緒にしましょうよ。」
本当に赤ちゃんの体くらいしかないおじさんを抱きしめて一緒に道行きをしました…。
後で私が神父になって、ある日、ソロクドにおられるお姉さんから電話が来ました。
「ステファノおじいさんをご存知ですよね。」
「はい、よく知っています。」
「今、危篤なんです。なんども神父様と会いたいというのです。来てくださることはできますか?」
夜に車を運転してソロクドまで行きました。
「おじいさん、目を開いて、見てください。私、来ましたよ。なぜすぐに天国に行けず、苦しんでいらっしゃるのですか?もう天国に行ってもいいんですよ。」
そう言ったら、おじいさんが、小さな声で、聞いてみたいことがあるっていうんです。
「神父様、私は一生この体を持って生きてきました。ソロクドの岩で、自殺も5回も試みたのですが、しぶとい命で、天主様が生かしてくださったのです。でも私は、主を知った後、体が健康な人が羨ましくなくなりました。」
「ところで、ただうらやましいと思うことが一つあります。指が2本だけでもあれば、自分の手でロザリオ一度、つまぐってみれたのに!」
おじいさんは肘にゴムの糸を掛けて、木を口に挟んで、地面にロザリオを広げて、一つ一つ珠を拾うようにしながら祈っていました。自分には、指が5本も必要ないんだそうです。
一つは掛けて、一つはつまぐる指が、二本だけあれば足りるんだそうです。
そこでこう言うのです。「神父様、私が死んだら、主は、青年時代のように復活させてくださるんですか?神父様の口を通して確認したくて、死にきれませんでした。」
いつだったか、彼の光沢のある写真を見たことがありましたが、本当にハンサムで賢そうな青年でした。おじいさんは「じゃあ、安心して、いきます」というと、最後の祝福を受けて、私の胸で、子供が眠るように息を引き取りました。
一週間が過ぎたでしょうか。私は夢を見ました。花畑の真ん中にいました。瞬間的にここが天国だな!と思いました。考えました。いろいろな花々がありました。
ところが、向こうから誰が、音を立てながら飛び込むようにやって来るんです。近づくにつれてどこでお会いした方のようなんです。もう一度見てみると、あのモノクロ写真に写っていたステファノおじいさんの若かった時の姿なんです。
指ごとにロザリオを巻いて、私を抱きしめて「神父様、指が10本生えてきましたよ。」
皆様は、夢を見ながら泣いたことがありますか?
そのおじいさんを抱きしめて「本当にマリア様、私たちのおじいさんに指を10本も与えてくださったんですね!」「今では、おじいさんは指でロザリオもできますね!」
彼は天主様を知った後、息を引き取る時まで、イエズス・キリストというその方だけを仰ぎながら、一目も脇にそらさなかったのです。
たとえ身体は、獣のようでおなかで地面を這う、悲惨な姿をしていましたが、彼は聖人でした。
私がこの世に生きていながら尊敬する方の一人がまさにステファノのおじいさんです。
私も、その方の信仰を百分の事でも真似するとすれば、私も聖人の司祭になるでしょう。
.......
皆さん、ロザリオの珠をつまぐ手がありませんか?
聖堂の敷地を越える足がありませんか?
どれほど皆さんが恵みの中で富んでいるのかをご存知ないのです。
私たちが背負った重荷は、放棄することも捨てることもできません。
最後まで勇気を失わずに、希望を持って進めば、いつかは明るい光を見るようになります。
- キム・ウンリョル神父の話し-