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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「初金曜日」と「雪の聖母」の関係性とは?

2016年08月31日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年8月5日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年8月5日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
(雪の聖母の大聖堂の奉献の祝日)

小野田神父説教


聖母の汚れ無き御心教会にようこそ。今日は2016年8月5日、雪の聖母の祝日、初金、月の最初の金曜日の御ミサをしています。このミサが終わった直後に、1時間の聖時間を御聖体の前で行います。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は初金で雪の聖母の祝日ですから、この初金と雪の聖母の関係を少し見て、イエズス様は御自分の信心をするのにどういう方法でそれをするのを望んでいらっしゃるのかを黙想したいと思います。
すると実は、イエズス様は御自分の信心を、「マリア様の汚れ無き御心を通して私たちにしてもらいたい」という事が分かります。そこで私たちはこの8月の決心を、遷善の決心を取る事に致しましょう。

第1のポイントは、「イエズス様は私たちに何を望んでいるか」という事です。このイエズス様が何を望んでいるかという事に従って、私たちが信心を実行する事は非常に大切です。何故かというと私たちは、自分の思い通りに「これが良いだろう」というよりは、実は、一番良い方法を望んでいるというのをやればやるほどもっと効果があるからです。

今日の「雪の聖母」というのも本当に不思議な話がありました。当時ローマで教皇様はリベリウスという教皇様でした。その時にローマの貴族で大金持ちの方がいて、ところが旦那さんも貴族の奥さんも信心深い方だったのですけれども、子供に恵まれませんでした。「この財産を一体どうしたら良いか。マリア様のお望みの通りに使いたい。」という事をこの2人は夫婦で祈っていました。

「一番マリア様のお望みの方が良い、イエズス様がお望みの方が良い」という事でお祈りしていると、8月に夢を見たのです。それはどういう夢かというと、夫婦揃って夢を見ました、同じ夢を見ました。それはマリア様が、「あなたの祈りと願いは聞き入れられた。あなたたちの望みが良いものであるという事が聞き入れられた。そこで私が示す所に教会を建ててほしい。」と言われたのです。、「その私が示す、私はそこに雪を降らしてその場所を示そう。」

ローマの8月はとても暑くて、雪など降るわけがありません。実際、その夫婦が朝起きてこういう夢を見ると、「私も見た。」「あぁ、これは不思議だ。」実際にローマの所に雪が降ったのです。降ってそのまま溶けずに、真夏でも溶けずに残っていました。その事を教皇リベリウスに言うと、「実は私も同じ夢を見た。」と言って、「マリア様が確かにこれは望んでいる、御旨はこうだ。」という事で、今、聖マリア大聖堂と言われている真っ白い教会がありますが、「雪の聖母の教会」とも言われ、ローマで美しい教会が建っています。

それと同じようにイエズス様も、イエズス様を慰める霊魂を、イエズス様と一緒に苦しみを捧げる霊魂を探しておられました、が、あまり見つける事ができませんでした。今日の奉献文のミサの祈りに、イエズス様の嘆きが書かれています、「私はそういう霊魂を待っていたけれども、現れなかった。私を慰める者を探したけれどもいなかった。」

でもイエズス様はそういう霊魂を、極めて素晴らしい霊魂を1人見つけました。それがマリア様です。イエズス様の霊魂は茨に囲まれています。何故かというと、十字架の苦しみを受けて罪の償いを捧げた霊魂だからです。イエズス様の霊魂は火に、愛の火に燃えています。これは、「人類を救おう」という熱に燃えた聖心でした。これと同じ霊魂が、御心が、実はたった1つ見つけました。それがマリア様の御心です。これはマリア様の御心はファチマで、このようにご自分の御心をマリア様は私たちに見せてくれました。イエズス様と同じ茨の冠に被せられて、愛の炎に燃える、イエズス様の聖心と全く同じ霊魂でした。

マリア様は、今から99年前の7月13日にこう仰ったのです、子供たちに向かってこう仰ったのです、「イエズス様は、マリア様の汚れ無き御心に対する信心を確立する事を望んでおられる。」と。「もしも1人でもその願いを聞くならば、」ちょうどこのローマの貴族のように「その御旨の通りにするならば、そうしたら多くの霊魂は天国に行くだろう。もしもそうならば、この地上に平和がやって来るだろう。もしもそうでないならば、多くの霊魂が失われてしまう、地獄に落ちてしまう。そればかりでなくて、ロシアは自分の誤謬を、間違いを全世界に広めて、戦争を起こすように挑発するだろうし、飢饉が起こるだろうし、食べ物が無くなるだろうし、教会に対する迫害が起こるだろう。」と警告しました。そればかりでなく、「多くの良い人たちが殉教するだろう。国々は無くなって、消滅してしまう国々もあるだろう。」とさえも言っています。何か夢物語かのような、今この平和の時代には考えられないような事かもしれません。しかし2000年の6月29日にバチカンは、マリア様のファチマの第3の秘密と言われるものを、ルチアが見たビジョンを発表しました。

それによるとルチアは、白い服を着た教皇様と思われる司教様が屍の上を歩いて行って、多くの司教様たち、神父様たち、修道者、修道女、或いは色んな階級の色んな様々な平信徒の男女の方々が、次々と殉教していくのを見て、多くの人々が殉教していく。遂に教皇様もそのような屍を渡り通って行くのだけれども、最後にはこの大きなコルクで出来たような十字架の木の下に銃殺されて、そこで倒れてしまう。天使たちが二位の天使たちが、多くの殉教者たちのその血をかき集めて、天主様に行こうとする霊魂たちにそれを振りかけていて、その償いの為に振りかけているのを見ているのです。

これもまた、何か今の時代では考えられないような事かもしれませんけれども、実は1週間前に、何かそれを予告するような事が起こりました。フランスのノルマンディーで、神父様が朝9時半のミサをしているその最中に、シスター2人とミサに与っている2人の信徒の方と神父様5人がいると、いきなりISの信奉者のテロリストが2人若い男性がやって来て、ミサに与っているミサをしている神父様たちを人質にして、彼らを跪かせて、まず神父様の首を切って殺害しました。その殺害の前にはシャハダというイスラム教の信仰告白をして、これはアラビア語でこの特別な言葉があって、これを言うか言わないかによって、イスラム教を信じるか信じないか、イスラム教であるかないかというその区別ができる、その文句があるのですけれども、それを言って殺害したのです。平信徒にも手をかけました。シスターがその時にその隙を見て逃げて警察に通報したので、警察がすぐやって来てその事件はそれで終わりましたが、神父様はそれでもミサの途中でそうやって殺害されました。

これで終わりではありません、これはおそらく、終わりの、この今から始まる悲劇の最初の第1歩が開幕したように思われます。最初の1ページが今開かれ、それが開かれたような感じがします。これからそのような話を私たちは残念ながらたくさん聞かなければならないかもしれません。

でも既に今から100年前に、それを防ぐ方法をマリア様は教えて下さいました。それは、「マリア様の汚れ無き御心への信心、イエズス様と全く同じ御心に対する信心をして下さい」という事でした。実はシスタールチアがその事を報告し、その事を「こういう事を聞きました。」と言った時に、ある神父様が批判的に、「何でマリア様は、イエズス様と全く同じ事を言うのか、これは嘘ではないか。」ルチアは、「マリア様がこう言ったので、もう私にはどうする事もできない。」というほど、マリア様の御心に対する信心と、マリア様の御心は、イエズス様と瓜二つのものでした。

では今2016年の8月、この時代に生きてる私たちにとって、一体どんな決心をしなければならないのでしょうか?

是非、イエズス様の聖心を慰める為にも、多くの霊魂を救う為にも、マリア様の御心に対する信心をなさって下さい。それは非常に簡単です。マリア様に対してお祈りをして、特に犠牲を捧げる時に、「イエズス様、これはイエズス様を愛する為です。カトリック教会の為です。マリア様の御心に対して犯される罪を償う為です。」と言ってそれを捧げれば良いのです。マリア様の御心を通してイエズス様をお慰めしようとすれば、それで良いのです。

そういうわけでフェレー司教様は、「ロザリオの十字軍を8月15日から起動させよう」と発表されました。第1の目標は意向は、「マリア様の汚れなき御心に対する信心をこの地上に確立させる」という意向です。第2には、「マリア様の御心の凱旋を早くする、早める」という意向。第3は、「マリア様の御心の意向に従って、ロシアを教皇様が全ての司教様たちと一緒にマリア様の御心に奉献する」、最後に、「聖ピオ十世会とその全ての信徒の方々、また聖伝の修道会が全て、マリア様の御心によって特別に守られる」という事です。

どうぞこの御心への信心をますます熱心になさって下さい。8月15日から始まるロザリオの十字軍を是非、特に今回は特別の熱意を持ってなさって下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


O cor Jesu, fons amoris おおイエズスの聖心よ、愛の泉よ、

2016年08月29日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

O cor Jesu の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


O cor Jesu, fons amoris,
caritatis victima,
vocibus te iam sonoris
laudent cordis intima.

Tu perenni gratiarum
rore mentes irrigas,
crucis lignum tu amarum
haustu dulci mitigas.
Amen.

--------------------

おお、イエズスの聖心よ、愛の泉よ、
愛徳のいけにえよ、
御身を心の響きの声で親密に人々が讃美せんことを。

御身は、聖寵のとこしえの露で心を灌漑し給う、
御身は、十字架の苦い木を、甘い飲み物に和らげ給う。
アメン

聖イグナチオの祈りにインスピレーションを受けた歌「オ・イエズ」

2016年08月27日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

光明社発「公教聖歌集」517番には、オ・イエズという歌があります。
これは聖フランシスコ・ザベリオの作った詩ではなく、聖イグナチオの祈りの内容を詩の形式にしたもので、
聖フランシスコ・ザベリオの詩に似せて作ってあります。

オ・イエズ・・・公教聖歌集 [517番]

O Jesu, ego amo Te,
Nam prior Tu amasti me,
En libertate privo me,
Ut vinctus sponte sequar Te.

ああイエズスよ、我は御身を愛し奉る。
そは御身こそが先に我を愛し給えばなり。
見よ、我は自由を放棄し奉る。
御身の捕虜となりて御身に自由に従わんため。

O Jesu, in Te confido,
quia Tu redemisti me,
En totum Tibi trado me,
Ut solus regnes super me.

ああイエズスよ、我は御身に信頼し奉る。
そは御身こそが我を贖い給えばなり。
見よ、我が全てを御身に委ね奉る。
御身のみが我を統治し給わんため。


これはここで、歌われています。
https://www.youtube.com/watch?v=yYhfQwxnYw0

またここにもあります。



Cantata “Wind to Tomorrow”
《明日的風》清唱劇松下 耕
7:40 ぐらいの所から歌われます。

2番以降は別の歌詞もあります。これは、聖フランシスコ・ザベリオの歌をまねて、
次の「聖イグナチオの祈り」にインスピレーションを受けた歌です。

Suscipe, Domine, universam meam libertatem.
Accipe memoriam, intellectum, atque voluntatem omnem.
Quidquid habeo vel possideo mihi largitus es; id tibi totum restituo,
ac tuae prorsus voluntati trado gubernandum.
Amorem tui solum cum gratia tua mihi dones,
et dives sum satis, nec aliud quidquam ultra posco. Amen.

「主よ、願わくはわが自由を受け入れ給え。
わが記憶、わが智恵またわが意思をことごとく受け入れ給え。
わが持てるものはみな主の賜物なり。
我は全てを主に帰し、主の御旨のままに捧げ奉る。
ただ主の聖寵と共に主の御愛を我に与え給え。
さらば我は満ち足りて、他の何物もあえて願わじ。」


DEUS EGO AMO TE. 【日本語訳】

ああ天主よ、我は御身を愛し奉る。
御身が我を先に愛したが故に。
見よ、我は自由を放棄し奉る。
自らすすんで繋がれて御身に従って行くために。

願わくは記憶が、何も思い出さないことを、
御身の栄光についての他は。
願わくは知性が何も味わわないことを、
御身を理解するため以外は。

私は何も望まないと宣言する
御身が望むことを知ること以外は。
御身の賜物によって私のものとなった全ては
ここの私の捧げによって御身のものなり。

私は御身から全てを受けた、受け取り給え。
御身がそれらに望むことを、命じ給え。
御身のご存じの通り、お望みの通り、統治し給え。
御身が愛する方であると知るが故に。

愛だけによって私に与え給え。
私も御身を愛することが出来るように、
これ[この愛]を与えるなら、御身は全てを与え給う。
何故なら、その他のものは、夢だから。


DEUS EGO AMO TE. 【ラテン語】

O Deus ego amo te,
Nam prior tu amasti me,
En libertate privo me
Ut sponte vinctus sequar te.

Nil suggerat memoria,
Nisi de tua gloria,
Nil intellectus sapiat,
Praeterquam ut te capiat.

Protestor nihil velle me
Nisi quod sciam velle te;
Quae dono tuo mea sunt,
Haec dono meo tua sunt.

A te accepi, recipe.
Quid iis velis, praecipe ;
Guberna sicut scis, et vis,
Nam scio quod amator sis.

Amore solo dona me,
Ut ego quoque amem te;
Haec dando dabis omnia.
Nam cetera sunt somnia.


ところで以前ご紹介した、聖フランシスコ・ザベリオの祈り O Deus, ego amo te ああ天主よ、我は御身を愛し奉るの歌は、Catholic Encyclopedia の「O Deus Ego Amo Te」の項によると、元々はスペイン語の次の歌だったと主張しています。
しかし、このスペイン語の歌はアビラの聖テレジアによるとされたりしています。

No me mueve, mi Dios, para quererte,
el cielo que me tienes prometido;
ni me mueve el infierno tan temido
para dejar por eso de ofenderte.

Tú me mueves, Señor, muéveme al verte
clavado en una Cruz y escarnecido;
muéveme el ver tu cuerpo tan herido;
muévenme tus afrentas y tu muerte.

Muéveme, en fin, tu amor, y en tal manera,
que aunque no hubiera cielo, yo te amara,
y aunque no hubiera infierno, te temiera.

No me tienes que dar porque te quiera;
pues aunque lo que espero no esperara,
lo mismo que te quiero, te quisiera.


私自身は、以前ご紹介した、聖フランシスコ・ザベリオの祈り O Deus, ego amo te ああ天主よ、我は御身を愛し奉るの歌は、聖フランシスコ・ザベリオ自身によるものだと考えています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年8月19-22日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2016年08月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

8月の第3主日の前後のミサ聖祭のご報告をご紹介します。

8月19日は聖ヨハネ・ユードの祝日でした。そこで、聖ヨハネ・ユードに基づいて、聖母の汚れなき御心について黙想しました。聖ヨハネ・ユードは、聖母の汚れなき御心は、青空、天のようだ、茨の中に咲き出るヤマユリのようだ、太陽のようだ、地球の中心だ大洋の大海原だ、等々、と言っています。日本の聖ピオ十世会の最初の聖堂は、聖母の汚れなき御心に捧げられていますので、とりわけこの聖人を祝うのをうれしく思いました。

8月21日は、東京で聖伝のミサを捧げました。38名の方々が聖伝のミサに与ることが出来ました。天主様に感謝!
午後は、大阪でもそうだったのですが、(1)前回の聖霊の12の実りの復習、(2)聖霊の七つの賜物、(3)七つの賜物と至福八端との関係、について黙想しました。

聖霊の12の実りについては、覚えやすいように、聖トマス・アクィナスの説明の順序に従いました。

ラテン語を日本語に訳すときの用語ですが、私の逡巡で、大阪と東京とでは少し違いが生じてしまいました。それは、bonitas と、begninitas との訳語です。どちらも、良い、という意味なので、どう訳し分けるか、で違いが出てしまいました。
聖トマス・アクィナスによれば、bonitas は心の内面の善良さ、begninitas は外に行為として現れた善良さです。そこで、大阪では、bonitas を親切心・親切とし、begninitas を善良、としました。
しかし、「親切」というと行為における良さを連想しやすいので、東京では、bonitas を善良とし、begninitas を仁慈、としてみました。東京での訳はバルバロ神父様の訳の用語も考慮してそうしました。

8月22日は、聖母の汚れなき御心の祝日で日本の主要の守護の聖人の祝日です。東京では、朝の7時から予定通りミサを行いました。8名の方々が参加できました。ところで、本来なら、その日はフィリピンに戻らなければならなかったのですが、飛行場に行ってみると、台風9号のために、私の乗る予定の飛行機が欠航になってしまいました! 聖ピオ十世会の司祭として23年になりますが、飛行機が欠航になることは初めてです。翌日にミサをすべき祭壇が常設してある大阪に行くことにし、8月22日には急遽、大阪でも来られる方々に連絡して夕方の6時頃からミサ聖祭を捧げることになりました!
ロザリオを唱え、聖母の汚れなき御心の晩課を歌い、聖母の汚れなき御心の歌ミサをお捧げしました。9名の方々が聖伝のミサに与ることが出来ました。天主様に感謝!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

私達の大切な小野田神父様こんばんは。
大阪での御ミサの報告をお送りいたします。

8月19日(金) 聖ヨハネ・ユード の御ミサには10人の方々が
8月20日(土) 大修院長教会博士聖ベルナルド の御ミサには14人の方々がミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日のお説教では聖ヨハネ・ユードのイエズス様とマリア様の聖心に対する信心について黙想いたしました。
イエズス様の聖心が御父に次いで最高の愛の対象とされたマリア様に、この世で従われる事を最善として選ばれたので、
私達もイエズス様の神秘体の一部として、その同じ精神をもたなければならないことがよくわかりました。
聖母黙想会で黙想したと同じくイエズス様に倣ってマリア様の奴隷になるために全てをマリア様にお捧する事を一瞬一瞬思い出せるようにイエズス様にお願い致しました。

土曜日のお説教では、聖ベルナルドが言った「天主に対する愛があれば『甘い』しかない」という言葉と、
「天主のいない天国よりも、天主とともにいられる苦しみのほうがよい」が心に残りました。
教会の危機の時代に聖ベルナルドがされた偉大な功績の裏にはマリア様への深い信心があったことには納得しました。
聖ベルナルドに感化されてか、跪いて御聖体を拝領するのを待っているときから御聖体からあふれる蜜の甘さを感じたように思いました。
退堂の聖歌で聖ベルナルドの祈りを歌えてとても良かったと思います。v(^^♪

土曜日のお説教のあと、聖ベルナルドが言った「天主の甘さ」について考えていました。
奉献文の後、「Jesu dulcis memoria 」を歌いながら、歌詞がこの日のお説教にピッタリだなあと感心してしまいました。ミサ前にどの曲を歌おうか、マリア様にご相談してこの曲を選んだのですが、きっと小野田神父様も、マリア様に「お説教で何を言いましょうか?」とご相談なさったのでマリア様はその内容をご存知だったのですね。(^^♪


公教要理では、聖霊の12の実りの復習をし、
そのあと聖霊の七つの賜物の説明、そして七つの賜物と至福八端の関係について勉強いたしました。

聖霊の賜物は、敬畏→考愛→知識→剛毅→賢慮→聡明→上智 というふうに順番にできるものだと伺いましたが、
それぞれの賜物がどういうふうに順を追って関係しているのか、また、順番は必ずその順番でしか敬畏から上智にたどり着くことができないのかをもう少し知りたいと思いました。

【お返事】
マリア様は、すごいですね。何をお望みか尋ねると最高の答を下さいますね。
聖ベルナルドは、Ubi autem amor est, labor non est, sed sapor. と言いました。
「愛」 amor があるところには「つらい」 labor ではなく、「あまい」 sapor がある、と訳してみました。
聖アウグスティヌスも似たようなことを言っています。

Qui amat, non laborat.
Omnis enim labor non amantibus gravis est,
solum amor est, quod nomen difficultatis erubescit.
Amemus et nos Christum
et facile videbitur omne difficile.

愛する人は、つらくない。
全てのつらさは、愛さない人々にとっては、重い。
愛だけが「難しい」の言葉を赤面させる。
私たちもキリストを愛そう。そうすれば全ての難しいことが易しいことに見えるだろう。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

私たちの大切な小野田神父様!

昨日、今日と御ミサ、そして堅振式の準備の勉強会など色々ありがとうございました!!
黙想会が終わってすぐにフィリピンに戻られて、そしてまたすぐに日本にお帰り下さり、本当にお疲れなのではと思うのですが、私たち日本信者の為に尽力して下さり本当に感謝致します!!m(_ _)m

公教要理では前回の続きから聖霊の12の実りについて、また聖霊の7つの賜が至福八端に繋がっていることを勉強させて頂き、少し前回の分も含めてレポートさせて頂きます!(^O^)/
すみません、たくさん書いたので、もし間違っていたり、読みにくかったり、簡略化した方が良い所がありましたら修正して頂ければと思いますm(_ _)m

[分かった事]
・聖霊の12の実りと、聖霊の7つの賜は違うのか?
---聖霊の12の実りとは、実り(ラテン語ではfructus、英語ではfruit《フルーツ》)と言って、聖霊の7つの賜が影響を及ぼした後の結果である、という事が分かりました。

聖霊の12の実りとは、
1.愛(caritas)
2.よろこび(gaudium)
3.平和(pax)
4.忍耐(patientia)
5.堅忍(longanimitas)
6.親切(bonitas)
7.善良(begninitas)
8.柔和(mansuetudo)
9.誠実(fides)
10.慎み(modestia)
11.節制(continentia)
12.貞潔(castitas)
であり、最初の1~5が「善そのもの」、6~9が「隣人への善」、10~12が「体の善」
という事が分かりました!12個もあると何か大変だなあと思いそうですが、最初の「1.愛」があれば、それ以降のものは自然と連結して繋がっているのだなと思いました。
この実りを得るために、聖霊の七つの賜を頂ける堅振の秘跡は何と重要であるかという事も実感致しました!

そしてその聖霊の7つの賜とは、
・上智(sapientia)…・天主を味わせる(sapio)・原因にさかのぼって判断→(その結果)天主を頂点に秩序立てる。本当の平和ができる。平和とは、秩序における穏やかさのこと。
・聡明(intelligentia)…天主の神秘の中に深く入り込む→天主の玄義を知性で「見る」→天主を「見る」ことが出来るように心を清めてくれる。
・賢慮(consilium)…聖霊からのアドバイス、助言、イエズス様の御言葉をきく。イエズス様は特に「互いに愛し合え」と新しい掟を与えた。→あわれみ
・剛毅(fortitudo)…意思を強める(天主の御旨を果たしたい)→天主の聖旨を糧として望み渇く
・知識(scientia)…被造物に関する知識。被造物は天主に至る手段であって、究極の目的ではない→被造物が多くの罪の機会となっていると理解する
・孝愛(pietas)…天主を御父として見る、子供として。隣人を兄弟として考える→柔和
・敬畏(timor Domini)…《上級の怖れ》罪を犯すことによって主を悲しませる、妻/子の怖れ。《下級の怖れ》自分の罰を怖れる、奴隷的な怖れ。→罪の機会から離脱する

そしてまず敬畏の賜を頂くことによって、そこから上智の賜へと繋がっているということも分かりました!

そして聖霊の7つの賜が8つの至福八端に繋がっているということも分かりました!

至福八端(マテオ5章2節~9節)☆下から完成される
8.正義のために迫害される人は幸せである。天の国は彼らのものだからである。←この8番目は全てをまとめて付けられた。
7.平和のためにはたらく人は幸せである。彼らは天主の子らと呼ばれるであろうから。←天主を頂点に秩序立てる(上智)
6.心の清い人は幸せである。彼らは天主を見るであろうから。←天主の玄義を知性で「見る」(聡明)
5.あわれみのある人は幸せである。彼らもあわれみを受けるであろうから。←「互いに愛し合え」というイエズス様の掟に従えというアドバイス「あわれみ」(賢慮)
4.正義にうえかわく人は幸せである。彼らは飽かされるであろうから。←天主の聖旨を糧として望み渇く(剛毅)
3.悲しむ人(泣く人)は幸せである。彼らは慰めを受けるであろうから。←被造物が多くの罪の機会となっている(知識)
2.柔和な人は幸せである。彼らは地を譲り受けるであろうから。←天主を父とすると、隣人が愛する兄弟姉妹となる。同じ家族の一員に対してなら柔和となりうる。(孝愛)
1.心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものだからである。←被造物から愛着を絶って、罪の機会から離脱する(敬畏)
   ↓
謙遜な人、被造物から離脱

たくさん説明して下さってありがとうございます!堅振を受ける姉にもこれをよく勉強してもらおうと思います!(^_^)

[分からなかったこと]
また何が分からないのか分かっていない状態ですが、あわれみが特に賢慮の賜の結果に結びついているという所が不思議な感じです。
おそらく今日のお勉強の詳しい内容が神との親しさシリーズ(4)愛の実践と聖霊のP253~P341の部分にも書いてあるかと思いますので、また読んでいきたいと思います。

今日は御ミサのあと、ロザリオの十字軍が始まったので、御聖堂で皆さんと一緒にまたロザリオを一環唱えました!
そしてその後、来月ティシェ・ド・マルレ司教様がいらっしゃるのでSANCTE PIE DECIMEのポリフォニーを練習しました!(^O^)/

デオ・グラチアス!


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供1人)
女: 24人(内、子供3人)
計: 38人(内、子供4人)


【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様

ありがとうございました!
今日の公教要理の時間はいつにも増して感動的でした。天主様はお優しいだけでなく
完璧な方で、そして、しかしやはり本当にお優しいので、
まさにその甘美さに感動して涙が出てしまいそうでした。

カトリック要理は学べばいつも感嘆と感動の連続です。
でもこれは何も特別な感情などではなく、この教えを教えるべき人々が
カトリック教会の伝統を守って伝え教えて行ったならば、世のもっと多くの人々も
このような感動を覚えることができたはずなのに・・・と思うと悔しくてなりません。
マリア様の汚れなき御心により頼み、さらなる犠牲とお祈りが必要だと改めて感じました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日の御ミサのレポートをお送りいたします。

今日の御ミサでこれだ!と分かった点 

 ・マムモンとはお金のことだということ。
  (「お金の奴隷」などという表現は現代の世間でもよく使うと思うのですが
  マンモンとはお金のことだと聞き、2000年の時が経っても国が違っても
  悪は悪で変わらないのだ、と思いました。)

 ・昔は、悪は悪・罪は罪と判断されていたが、私たちの生きる現代はさらに悪く2つの罠が置かれていること。
  1つは、罪はもう罪ではない、悪はもう悪ではない、敵はもういない、悪魔なんていない
  「敵はいない」という罠であり、もう1つは「イエズス様に従っているつもりでもこの世に従っている」罠。
  例えば、詰まるところ自分の利益のために、イエズス様を道具とする偽善的な態度に陥るといったことである。

よく分からなかった点
  今回はよく分からなかった点はありませんでした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

明日の御ミサでお会いできますことを楽しみにしております。
聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈りたまえ!



【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

私達の大切な小野田神父様こんばんは。

今日、聖母の汚れなき御心の大祝日に、思いもよらず大阪の聖堂で御ミサを捧げて頂くお恵みを与えられたことに感謝でいっぱいです!!
天主様に感謝、インマクラータに感謝いたします。

今日は9名の方々が御ミサに与り、御聖体拝領のお恵みを頂きました。御ミサ前には、ロザリオと晩課を捧げ、御ミサ後には聖母の連祷と聖母の汚れなき御心に日本を捧げる祈りを唱える事ができました。デオ・グラチアス!

小野田神父様には、大阪→東京→大阪と、新幹線で行ったり来たりという大きな犠牲を払って頂いてしまいました。(;_;)
小野田神父様にも感謝します!マリア様が小野田神父様に誰よりも大きなご褒美を下さることとお察しします。

お説教の中で、聖母の汚れなき御心に捧げられた大阪の小さな聖堂を、マリア様が気に入ってくださっているとお聞きして、とてもうれしくなりました。
もっともっとマリア様をお喜ばせするようにいつもマリア様と一緒に全てが出来るようにしたいと思います。



【報告】【大阪】
JMJ アヴェ・マリア!
小野田神父様
こんにちは!
19日20日の大阪の御ミサでは、黙想会後だったためか、周りが騒がしかったとしても御ミサに深く与ることができ、イエズス様とマリア様に深く祈りを捧げることができました。
2日間とも素晴らしいお説教を聞くことができ、よい黙想をする事ができました。
聖ベルナルド様は偉大な聖人で、「天主様のいない天国よりも 天主様とともにいる苦しみの中のほうがいい」という言葉が特に印象に残っていて、苦い苦い十字架の木もイエズス様によって蜜のような甘い甘い物に変えてしまうお恵みを聖ベルナルド様はよくご存知だからこのような事を仰ったのかな、と個人的目線から黙想したりし、私の心にぐさっと響いた部分でした。そして"イエズス様はマリア様を通してお生まれになったので、天主様はマリア様を通してお恵みを与えようと望まれている"という教えに、今まで以上にもっともっとマリア様の近くにマリア様のそばに行きたい!と思うようになりました。退堂の聖歌で歌ったあわれみのきさいはタイミングがピッタリでこれもまた、感謝感謝でした(*^-^*)

ひとつ気になったことは、公教要理の時間に七つの賜のお話で、賜を頂くには段階があると聞き、その段階を踏まないことには上智や、聡明、賢慮などの賜を頂くことはできないのか?段階を踏まずに、ぱっと上智の賜を頂くことはできないのか?と疑問に思いました(*^-^*)
また神父様にお聞きしようと思います。

その上、22日の聖母マリアの汚れ無き御心の御ミサに与ることができて本当に嬉しかったです。日本は"聖母マリアの汚れ無き御心"に奉献されているし、日本の保護者ですし、さらに大阪のお御堂は"聖母マリアの汚れ無き御心聖堂"です!!その御聖堂で与るお恵みを頂き、本当にマリア様のお力は偉大で、マリア様のお優しくて憐れみ深い愛をひしひしと感じました。

しかし猛暑のためとハードスケジュールのため、神父様が倒れてしまうのではないかととても心配でした。小野田神父様ありがとうございました。・:・(*´ー`*人)
大阪信徒のためにたくさんのお恵みを贈ってくださり、私達の御母聖マリア様を通して、天主様に感謝致します!!

その時マリアは立って、急いでユダの町を通って走り、エリザベトの家に行き、彼女に挨拶した。-マリア様の御訪問の黙想-

2016年08月25日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年7月2日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年7月2日 初土曜日 童貞聖マリアのご訪問のミサ 
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年7月2日、マリア様のご訪問の祝日を祝っています。

今日この御ミサの後に、いつもの通り公教要理の勉強があります。今回は「希望の徳」について、皆さんと復習をしたいと思っています。希望には、希望のしすぎがあるのか、或いは無いのか。希望とは一体、何を希望して、希望の反対は何なのか等、皆さんと一緒に考えていきたいと思っています。

7月はレネー神父様のご予定で少しイレギュラーになっております。次のミサは来週の金・土、それからレネー神父様の主日は、その2週間後の主日です。どうぞお間違えのないようになさってください。つまり7月の15日の主日がレネー神父様で、7月の8日・9日、金・土と私がもう一回この次に、第3週の主日がレネー神父様となっています。どうぞお間違えのないようになさってください。

8月はマリア様の聖グリニョン・ド・モンフォールによる黙想会があります。その為に40人ほどの場所を確保しているのですけれども、まだ残念ながら20人にも足りていません。そこで是非多くの皆さんにですね参加して頂き、お友達や親戚の方や知っている方を是非誘って頂き、特別な機会ですので参加するように仰って下さい。この今まで参加した事がなかった方でも、参加するように是非お願い致します。


「その時マリアは立って、急いでユダの町を通って走り、エリザベトの家に行き、彼女に挨拶した。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はマリア様のご訪問の祝日です。このご訪問の祝日には色々な黙想のポイントがありますが、特に今回は、マリア様が天主の御母となって御告げを受けて、最初になさった、その最初に起こした行動が、ご訪問だった、聖エリザベトを訪問された、という事を黙想する事を提案します。

一体、マリア様とは一体どなたなのか。聖エリザベトとはどのような方、どのような状況に置かれているのか。マリア様が聖エリザベトを訪問した時起こった、何がどの様な奇跡が起こったのか。マリア様はそれで一体何をなさろうとしたのか。それでは、そのような事は2000年前に起こった事だけで、私たちには関係がないのか、あるのか、など。もしも関係があるのであれば、私たちにマリア様はどのような事をなさろうとしているのか。では、私たちはそのようなマリア様に対してどうしなければならないのか、など黙想したいと思います。

最初のポイントは、マリア様が御告げを受けて、大天使聖ガブリエルから、「恵みに聖寵に満ち溢れた者よ、あなたに挨拶します。天主は御身と共にまします。」と挨拶を受けました。マリア様はもちろん、天主様からの特別の選びによって、御母聖アンナの体内に宿るその御受胎の最初の瞬間から、聖寵に充ち満ちの方でした、無原罪の御宿りでした。しかし一体、聖ガブリエルが、「聖寵に充ち満てる御方、あなたに挨拶します。」と言った時、一体これは何を意味したのでしょうか?

これは、マリア様はもちろん罪の無い御方で、聖寵の充ち満ちを受けたのですけれども、更に今までなかったやり方で、より多くの聖寵の充ち満ちを受けるだろう。しかも今までは天主三位一体という事が、「天主は唯一の御方だ」という事しか私たちに知らされていなかったけれども、これからは「三位一体」という天主の最も内面的な秘密について、マリア様を通して明かされる、「天主御子が人となる」という事を意味していました。マリア様がその充満を更に受ける、という意味の挨拶でした。

「天主の御母となる」という特別の地位と、特別の称号、特別のお恵みを受けました。その御マリア様が、「はい、私は主の婢女です。仰せの如く我になれかし。」と、それに同意を致します。聖トマス・アクィナスによれば、「これは天主の本性と、人類人間の本性とが結合するその瞬間だったので、この結合にはあたかも婚姻であるかのような一致が見られ、ですから人類の代表としてマリア様は、その結合に同意の言葉をしなければならなかった。」と言っています。マリア様は全人類を代表して、ご自分の名前において、全人類の名前においても、「仰せの如く我になれかし。」と仰ったのでした。

この天主の御母となったマリア様はすぐに立って、今まで石女であった、人々から軽蔑されていた聖エリザベトを訪問します。この前シュテーリン神父様のお説教の時に黙想の時に、「なるほど。」と思った事がこれでした。

聖エリザベトは老人になって、母となる事ができませんでした、子供がありませんでした。これはユダヤの女性にとっては大きな屈辱でした。「きっとエリザベトは罪を犯した女に違いない。」と思われていたかもしれません。「何か呪いを受けた女かもしれない。」と思われていたかもしれません。「母親になる事ができないという事は、一体何という不名誉な事だろうか。天主からの祝福を受けていない証拠だ。」と思われたに違いありません、軽蔑されたに違いありません。しかもその夫ザカリアも、司祭として神殿に入って、お祈りを捧げて香を焚こうとする時に、それからその夕の祈りが終わって出てくれば、啞になって来たではありませんか、天主からの罰を受けて。「きっとザカリアもエリザベトも本当に罪深い人たちだったろう。」と人々の目から見られたかもしれません。実際は、主の前に歩く、聖なる人々であったにも関わらず。

この人々から疎外された、人々から全く小さなものとして見られていた者たちに、老人に、マリア様はすぐ立ち上がって、「あぁ、エリザベトが今身ごもっている。助けに行かなければならない。」と、すぐに奉仕に出かけたのでした。何というマリア様のご謙遜。何という愛徳でしょうか。マリア様は全人類の救いの為に、人類を代表して、「はい。」と言ったのみならず、「天主の御母である」という地位にもかかわらず、聖エリザベトの奉仕の為に、あたかも奴隷であるかのように、召使いであるかのように、女中であるかのように働く為に行ったのでした。

ここにマリア様の2つの役割が見えるのではないでしょうか。1つは、「天主の御母となる、全人類の救霊の為に働かれるマリア様」と同時に、「肉体の弱さも、人間の持つ条件の惨めさをも助けたいと思う、愛徳のマリア様」この2つは実際、マリア様において全く一致しているのです。

マリア様がイエズス様を体内に宿しつつ、「急いで」と聖書には書かれていますが、山を通って、何日間かの旅を危険な旅をして、聖エリザベトの家に訪問した時に、挨拶をします、「こんにちは。」

すると聖エリザベトはマリア様の声を聞くと、体内の子供が喜び踊るのを感じました。皆さんもご存知の通り、洗者聖ヨハネはその時に罪を、原罪の汚れを赦されたのでした。聖エリザベトは聖霊に満たされて、マリア様が天主の御母であるという事を知ります。「一体なぜ主の御母が、私に来る事になったのでしょうか!天主の言葉を信じたあなたは何と幸いであるか!」と、聖エリザベトは全てを知っていました。

マリア様がなさった最初の奇跡がこれでした。霊的な奇跡であって、洗者聖ヨハネの罪を赦す事でした。マリア様が天主の御母となったのはまさにこの事でした。私たちを天国に連れて行くという事でした。罪の赦しを与えるという事でした。天国への道標と天国へと導く道となる事でした。マリア様は天主の御母となったその最初の瞬間から、これを実践されました。

そればかりでありません。マリア様は聖エリザベトのあたかも女中であるかのように、身の周りの世話をして、肉体労働もされました、奉仕もしました。マリア様のこの私たちの「霊的な」のみならず、「物質的な肉体的な」事さえも心配してくださる、という事は、その第二の奇跡に、最初の奇跡に、第二の物体的な奇跡に表れています。それがカナの婚宴でした。

「この人たちにぶどう酒がありません。」と。霊魂の救いとぶどう酒と一体何の関係があるでしょうか。婚宴で人々がお酒を飲んで、楽しむか楽しまないかが一体何の関わりがあるでしょうか。しかしマリア様はその事をも心配しておられたのでした。「年を取った聖エリザベトがきっと苦しんでいるだろう。」という事を心配されたように、「あぁ、お酒がなくてこのきっと新郎新婦もきっと恥ずかしい思いをするだろう。何とかしてあげたい。」その為にイエズス様にお願いして、奇跡さえも起こすのです。「婦人よ、私の時はまだ来ていない。」それでもマリア様の介入で奇跡が行われました。

このご訪問を見ると、マリア様の私たちの母としての愛情がよく伝わってきます。ある神学者の話によると、「天主の御母としてマリア様は、天主から全てを受け取り、人類の母として霊的な母として、私たちに全てを与える。天主から受けた全てを、マリア様は全て与える。」

第一のエヴァ、全ての人類の肉体的な母であるエヴァは、アダムをそそのかして罪を犯しました。アダムをそそのかして「罪を犯すように」と誘いました。呪われた蛇の、堕天使の言葉を信じて、天主から「取っていけない」と言われた木の実を取って、それを食べてしまいました。そこで天主はその時に「お前と女の間に敵対を置く。」と宣言をしました。

第二のエヴァはこれと、第一のエヴァと全く反対をいって、その第一のアダムとエヴァの罪の償いを果たすべき御方でした。大天使聖ガブリエルの言葉を信じて、「全てその通りこの身になる」という事を信じて、その身に起こる事を全て受け取る事を望みました。天主の御旨が果たされる事だけを望みました。マリア様が望んだ事は、「主の御旨を果たす。主の婢女の事をする。」という事でした。そうやって、第二のアダムを十字架の木の上に付ける事に同意しました、釘付けする事を同意しました。第二のアダムとエヴァは2人で、十字架の木の下におりました。ちょうどそれが、第一のアダムとエヴァが禁断の木の実の下において、罪を犯したその反対でした。

罪の償いをした時に天主は、この時は第二のアダムすなわち天主がこう言いました、「女よ、汝の子ここにあり。」人類に向かって、聖ヨハネを通して全人類に向かって、「汝の母ここにあり。」と宣言されました。マリア様が私たちの母として私たちに、単に救い主の母となるという事を人類を代表して宣言したのみならず、ただ単にこの1人の老人、或いは1つの婚礼のカップルの為に心配したのみならず、マリア様は全人類の救いと、その全ての事について心を砕く母として宣言されました。

第二のエヴァの役割はこれです。贖われた全ての者たちの母として、特別の役割を果たすという事です。幼きイエズスの聖テレジアが、「私は全ての天国を、この地上に善をもたらす為に使いましょう。」と言ったのであれば、マリア様はどれほどの心を以て私たちに善を果たそうと、善をなそうと心を配って心を砕いている事でしょうか。

マリア様はちょうど聖エリザベトになさったように、私たちにもイエズス様を以て訪問されます。もしも私たちがお恵みを受ける事ができるとしたら、イエズス様からのお恵みを受ける事ができるとしたら、それはマリア様が運んで下さるからです。マリア様は私たちの救霊のみならず、全ての事について気を配って下さいます。

では私たちは今日、一体どのような決心をすれば良いでしょうか?

マリア様のご訪問を受けて、マリア様に、「天主の御母が私たちを訪問して下さるとは何という事でしょうか!」マリア様の御愛を受け止める事を提案致します。

それと同時に、マリア様がなさっている事を私たちも真似る事を提案します。洗者聖ヨハネはマリア様を通して、マリア様の御取り次ぎによって罪を赦された後も、祈りと犠牲の、償いの生活をしました。「私は小さくなり、イエズス・キリストが大きくならなければならない。」と仰っていました。私たちも聖ヨハネにならって、ますます私たちが小さくなり、イエズス・キリストが私たちに於いてますます大きくなりますように。マリア様の御取り次ぎを乞い求めましょう。

またマリア様は私たちに、1つ命令をしました、「あの人の言う事を何でもしなさい。」そうして初めてカナでの奇跡が起こりました。この言葉は私たちにいつも有効です。マリア様が私たちに言うのはこの事です、「イエズス様の仰る事を全てしなさい。」イエズス様はこう仰ったではないでしょうか?「主の御旨を果たす者は全て私の母であり、私の兄弟である。」「私の母はどこにいるのか?主の御旨を果たす者がそうだ。」と。

マリア様は、主の御旨を全て果たしました。主の御旨を完璧に果たした方が天主の御母聖母マリア様です。マリア様はそれと同じ事を私たちに命令しています、「このイエズス様の仰る事を全てなさりなさい。」と。その時に私たちは奇跡を起こす事ができます。マリア様の御取り次ぎによって、奇跡が起こります。

では今日のこのご訪問の祝日において、初土曜日において、マリア様の御心の中に深く入る事に致しましょう。マリア様のご訪問を受ける事に致しましょう。


「マリアは立って、急いでユダの街を通ってエリザベトの家に行き、その彼女に挨拶をした。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2016年8月5-8日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2016年08月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

8月の第1主日の前後のミサ聖祭と聖母黙想会のご報告を紹介いたします。
8月7日の主日には、東京では 42人の方々がミサに参列しました。
今回は、ミサの後の公教要理で、大阪と東京では聖霊の12の実りについて黙想しました。

日本で初めての聖グリニョン・ド・モンフォールの聖母黙想会では、31名の方々が参加しました。天主様に感謝! 指導して下さったシュテーリン神父様には深く感謝します。
8月15日に、日本で初めて聖母行列をすることもできました。天主様に感謝!
聖フランシスコ・ザベリオが日本に到着した8月15日に、私がミサ聖祭を捧げることが出来たのは、去年に引き続き今年で二回目でした。天主様に感謝!

では、愛する兄弟姉妹の皆様からのご報告をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

8月の初金、初土の御ミサの報告をお送りいたします。

8月5日(初金・雪の聖母の大聖堂の奉献)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサには16名が、
8月6日(初土)わが主の御変容の祝日のミサには14名が御ミサに与り、御聖体拝領する御恵みを頂きました。 デオグラチアス!

初金曜日には御ミサのあと、御聖体降福式があり、御聖体にましますイエズス様と聖時間を過ごすことが出来、幸せでした。

金曜日のお説教ではイエズス様が、私たちに聖心に対するどのような信心を望んでおられるかを黙想いたしました。
イエズス様は、マリア様の御心への信心を通してイエズス様の聖心をお慰めする事を望んでおられることがよくわかりました。

土曜日のお説教。イエズス様は御変容の奇跡を通して、ご受難を受けられて辱められ、傷つけられ、嘲られてもご自分が約束の救い主であり、教会のかしらである事を弟子たちに前もって教えられ、苦しみの後に受ける報いはイエズス様と同じように光り輝く姿である事を告げられました。
イエズス様がご受難を受けられたように、イエズス様の神秘体の花嫁である教会も受難をうけ、ファチマのヴィジョンで聖母がルチアにお見せになった教会の殉教の時が始まっていることは恐ろしい事だと思います。だからこそ私たちはマリア様の汚れなき御心に馳せより、御変容を信じようとしないリベラリズムに抗ってイエズス様のご神性をマリア様のようにしっかりはっきり宣言したいと思います。

【報告】
公教要理の報告
アヴェ・マリア・インマクラータ!

土曜日の御ミサの後の公教要理では、聖霊の12の実りについて勉強いたしました。
聖霊の「賜物」と「実り」の違いがはっきりわかりました。
聖霊の賜物は聖霊が私達に無償でお与えくださる恵みであり、
聖霊の実りとは、その賜物を使って出来た結果(実り)であります。

ウルガダ訳聖書では12の実りが訳されているけれども
バルバロ訳では9しか訳されていない原因もわかりました。

よくわからなかったのは、実りの中の「誠実」と「善良」、「慎み」と「貞潔」の違いです。日本語だとバルバロ神父様がご苦労なさったように、意味が重なっている部分がありますね。
英語の本を読むときにもよく混同してしまいます。

黙示録に出てくる12の実りですが、
11章の22節ではなく、
22章の2節にでているようです。(^.^)/


【お返事】
聖霊の12の実りは、ブルガタ訳では、次の通りです。
caritas, gaudium, pax, patientia, benignitas, bonitas, longanimitas, mansuetudo, fides, modestia, continentia, castitas.

ところが、ギリシア語ではこれが次の九つしかありません。
αγαπη, χαρα, ειρηνη, μακροθυμια, χρηστοτης, αγαθωσυνη, πιστις, πραοτης, εγκρατεια.

そこで、バルバロ神父様も九つしか訳してありません。

caritas, αγαπη,
gaudium, χαρα,
pax, ειρηνη,
patientia, μακροθυμια,
benignitas, χρηστοτης,
bonitas, αγαθωσυνη,
longanimitas, (対応なし)
mansuetudo, πραοτης,
fides, πιστις,
modestia, (対応なし)
continentia, εγκρατεια.
castitas (対応なし)

これらの聖霊の実りに反するような法は存在しません。


【報告】
​アヴェ・マリア・インマクラータ!

昨日一昨日と、初金・初土(イエズス様の御変容)の御ミサ、御聖体降福式、聖霊の12の実りについての勉強会など色々ありがとうございました!!(*^▽^*)

ファチマ100周年を良く準備する事ができますように、特にマリア様の汚れなき御心に捧げられた御聖堂を頂いた者として、8月15日からのロザリオの十字軍を頑張りたいと思います!!o(`ω´ )oまたその直前に聖母黙想会にも与る御恵みを頂くことができましたので、マリア様の御心の中に深く入って行くことができますように、私のためにもお祈りをお願い致しますm(_ _)m

公教要理に書いてある善業の「断食」と「施し」は、その言葉のままの意味しか今まであまり捉えていませんでしたが、第7主日の御ミサの小野田神父様の御説教を聞いて、その深い意味を知ることができました!ありがとうございます!

時間を超えて、場所を超えて、イエズス様といつも一致していることを自覚して、マリア様が私たちに仰って下さった、イエズス様の仰ることを何でも、イエズス様の御旨をいつも果たすことができますように!!
私のためにもお祈りをお願い致しますm(_ _)m

デオ・グラチアス!

【報告】【聖母黙想会】
+Ave Maria Immaculata

親愛なるトマス小野田神父様
この度は黙想会に与らせていただき、有難うございました。
無事に家に帰り、マリア様、天主様の豊かなお恵みを得られたことに感謝いたします。
シュテーリン神父様、トマス小野田神父様、アジアの聖ピオ十世会のため、お祈りしています。

【報告】【聖母黙想会】
+ Ave Maria Immaculata!
トマス小野田圭志神父様
聖母黙想会におけるご指導をありがとうございました!
最終日には聖母行列も行なってくださリ、読誦ミサと歌ミサ、聖時間、聖体降福式、ロザリオ、その他種々の祈りに加えて
聖母被昇天の大祝日に、大阪の街をマリア様を讃えながら歩いたことは稀有なお恵みです。
このお恵みに応えて、己を捨てマリア様のみ旨に従うよう、マリア様と化してしまうように自ら祈り求め、マリア様への全き奉献、従属に努めたいと思います。
自分の力では何一つ善を行なうことができません。すべての聖寵の仲介者なるマリア様への完全なる奉献を実行し、マリア様によって、マリア様と共に、マリア様のうちに、マリア様のために生きることができますように。そしてイエズス様をマリア様によって完璧に愛し、主のために死ぬことができますように。 
シュテーリン神父様とトマス小野田神父様の沢山の犠牲とご奉仕に感謝いたします。


【報告】【聖母黙想会】
黙想会ご指導ありがとうございました
今回の黙想会に参加するように勧めてくださり、ありがとうございました。
お恵みを確かにいただきましたので、神父様のご指示に間違いはありませんでした。
日本のコミュニティのため、神父様のミッションのためたくさん祈ります!

【報告】【聖母黙想会】
+ Ave Maria Immaculata!
トマス小野田圭志神父様
私のためにお祈りをありがとうございます。
聖ヨゼフ様より奇蹟のお恵みをいただきましたのでご報告をさせていただきます。
「聖ヨゼフ様の油」を聖母黙想会初日に(まだ沈黙を命じられていない時に)マリアさんよりいただきました。
私は頸椎がちょっと悪くて首が疲労しやすく、こわばりが生じます。いただいた聖ヨゼフ様の油を黙想会期間中毎晩首に塗って休みました。翌日の日中ずっと首の疲労がなく、ごミサや聖時間、ロザリオの祈り、そして講話の時も普通に過ごすことができました。
仕事に行く朝のことです。脈打つようなガーンガーンという頭痛がありました。首を酷使するとこうなるのです。これはいつもすぐには直りません。大体翌日まで続きます。その日は辛い状況の中仕事をしなければならないことが目に見えていました。
私は聖ヨゼフ様の油を首に塗って出かけることにしました(聖ヨゼフ様の紐〈帯〉ももちろん身に着けています)。
首に聖ヨゼフ様の油を塗るや、何だか楽になったような気がしました。そしてその日は頭痛も消えて普通に仕事をすることができました。聖ヨゼフ様がお助けくださったのです。童貞聖マリアの浄配聖ヨゼフは讃美せられさせ給え!


天の国は、畑に隠された宝物を見つけたものと例える事ができる。

2016年08月23日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年7月8日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年7月8日(金) 寡婦聖エリザベト女王のミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心教会にようこそ。今日は2016年7月8日、聖エリザベトの祝日を祝っています。

「天の国は、畑に隠された宝物を見つけたものと例える事ができる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖エリザベトの祝日で、福音書では天の国の例えとして、畑に埋められた、古代文明の残した価値の宝の山を見つけた人の話を、例えとして出されています。

ヨーロッパでは或いはおそらくパレスチナでは、古代のどこかの王様、或いはどこかの皇帝が、或いは金持ちが密かに隠しておいた、或いは何かの事でそこに埋められてしまったものすごい宝が時々出てきました。(きっとノアの箱舟の前の時代のものなのでしょう。)今でも出てくる事があるそうです。その宝はもうお金ではもう値が付けられないもので、そのような宝の山を見つけた人は、その畑にそれがあるというのを知ると、それをこっそり隠しておいて、「この畑を買いたい。この畑を買う為だったらもう全財産をなげうってでも絶対買いたい。特にそこの宝がある所だけは買いたい。」と思って、「その為だったら持ってる物を全てなげうっても、どんな犠牲もいとわない。何故ならば、それとは比較にならないほどの巨大な利益が待っているからだ。」

ちょうど天国もそれと同じだ。天国を得る為に、その福音の為にイエズス様の教えの為に、イエズス様の私たちに下さる永遠の命、永遠の宝と比べれば、この地上の事を一切なげうって交換してもまだそれに足りない。

今日祝日を祝う聖エリザベトもやはり、このイエズス様の宝をよく知った方でした。聖エリザベトは1271年にポルトガルに、ルシタニアという所で、昔の名前でルシタニアという所で生まれ、後にルシタニアの、つまりポルトガルの女王となります。12歳の時にポルトガルの王ディオニシウスの嫁になるのですけれども、その生まれた時から非常に美しく、信心深く、敬虔で、とても素晴らしい女性だったという事です。結婚してからは、王の為に全力を尽くして、それに奉仕して、王を喜ばせようとしていました。しかしもちろん祈りを、王の前に必ず天主様を第一に奉仕し、その次に夫である王に奉仕しました。

女王として毎日必ずミサに与っていたそうです。その信心は非常に深く、愛徳も深く、多くの貧しい人を助けたり、或いは修道院に寄付をしたり、教会を建てる為に援助をしたり、多くの愛徳の業を尽くしました。特にお祈りには非常に熱心でした。たとえ王様はその王妃エリザベトを非常に嬉しく思い、とても良い女王だと思っていましたが、しかし必ずしも聖エリザベトのように熱心ではありませんでした。特に不潔の罪を犯していたようです。しかし聖エリザベトは非常に熱心で、この王の為に祈り、熱心にポルトガルの為にもお祈りをしました。

ポルトガルといえば、本当に日本に最初に来たのはポルトガル人で、種子島にやって来ましたし、聖フランシスコ・ザヴェリオもリスボンに行かれていましたし、天正遣欧使節もリスボンに到着しましたし、最初にできた辞書はポルトガル語と日本語の辞書でしたし、当時のキリシタンたちはポルトガル語をペラペラ、ラテン語とポルトガル語をペラペラ話していましたし、今でも多くの日本とブラジルの間には関係があるので、ポルトガル語をたくさん話す方が日本に来ていますが、そのポルトガルの偉大な女王として、聖エリサベトは尽くしていました。特に平和を、貴族の間の対立や何か違いを、非常に愛徳を以て平和をもたらして、平和の女王だったとの事です。

王であるディオニシウスが亡くなっても数年間、寡婦として祈りと犠牲と苦行の生活をして、今でもその遺体は腐敗せずに残っています。特にフランシスコ会第3会員として最後は生涯を終えたので、今ではクララ修道会、リスボンのクララ修道会にその遺体が腐敗せずに残っているとの事です。

聖エリサベトが一番大切にした、宝とみなしたものは何だったでしょうか?それはミサでした。毎日ミサに与っていました。どんなに忙しくてもどんな事があっても、どんなにでもミサに与っていました。聖エリザベトにとってミサとは、お恵みと、祝福と、平和をもたらす源泉であり、源だったからです。その事を聖エリサベトはよく分かっていました。ミサでお祈りすると必ず、祝福がその答えとして返ってきたからです。

そのある時には、非常に有名な話なので皆さんこういう話をもう聞かれたかもしれません。ある時には、聖エリサベトにいつも忠実に仕えていた敬虔な召使いがいました。その召使いは、意地の悪い召使いからの妬みを買って、このいつも聖エリサベト女王と仲が良いこの召使いを「滅ぼしてやろう」と罠がかけられました。王様に意地の悪い召使いが言って、「王様、エリザベト女王様とあの召使いはどうも仲が怪しいです。」と疑いをかけました。その意地の悪い召使いの讒言、嘘の悪口を聞いて、王様ディオニシウスは非常に怒り、「そのような召使いは生かしておけない」という事で、森の中に竈を轟々と燃え立たせて、「今から召使いを送るから、召使いが、『王様の命令は実行されましたか?』と聞いたら、それがその男だから、彼はすぐにこの竈で焼いてしまわなければならない。よろしいか。」「はい、分りました王様。」森の中にその召使いを焼く竈を準備させたのです。

王様は、何も知らされてなかったこの良い忠実な召使いを呼んで、「おい、来なさい。いいか、森に行ったら竈があるから、彼らにこうやって聞きなさい、『王様の命令は実行されましたか?』」「はい、分かりました王様。そう致します。」と言って行くのです。それを陰で意地の悪いのが、「しめしめ。」と、「早くこれがいなくなれば良いのに。」というのを見ていました。

忠実な、聖エリサベトにいつも忠実なしもべは、聖エリサベトの真似をしていました。つまりお祈りが好きで、ミサに与るのが好きでした。ちょうど森の所に行こうとすると教会の鐘が鳴って、「ミサだ。」ミサの時間が始まりました。そこで「ミサだから。」という事で、教会の中に入って、ミサに与ってお祈りをしてから、王様の命令の方に行きました。

しかしこの良いしもべが教会でミサに与っている間、意地の悪かったしもべは、「早くあの男が処刑される事を」と言って、もう待ち遠しくて待ち遠しくて、どうなったかどうなったか 、という事で、どうしても待ってはいられませんでした。そこで、「どうなったか、どうなったか 、」と言ってその後を追って行って、竈に着くのです。竈に着いて、「おい、王様の命令は実行されたか!?」するとその男が捕えられて、すぐ焼ける竈に投げ込まれて、処刑されてしまいました。

ミサが終わって、何も知らずに森に行って、王様から言われた通りにそのしもべはそこにいた役人たちに聞くのです、「王様の命令は実行されましたか?」「はい、実行されました!ご覧下さい!」「あぁ!」と、何か自分の知っていたしもべが処刑されているのを見ました。

それでその事を見て、王様にその事を報告すると王様は、「えぇ!?何でこんな事が起こったのか!?この男を処刑するつもりが、別の男が処刑された!」という事で、王様は「一体何の事か!」という事でよく調べてみると、実はこの忠実なしもべは何ら罪もない無実であって、却ってこの意地の悪かったのが嘘をついて、非常に勤務の態度の悪かった、他にも問題があった召使いだという事が分かってきたのでした。女王様の疑いもきれいに晴れて、王様は本当にこの女王様を更に愛した、という事実が残っています。そういう事が伝えられています。

王様はこの時に、「これは天主の御摂理によって全てそれが起こったのだ。ミサがどれほど偉大であるかという事が分かった。」との事です。

何故ミサはそれほど偉大なのでしょうか?それはミサは、超自然の運河であって、超自然のお恵みの元である、お恵みの泉である、十字架のカルワリオへの門であるからです。カルワリオに行く事ができる為のタイムマシンであって、超自然の玄関であって、そこを通ってカルワリオまで行って、その十字架の犠牲に与る事ができる、超自然の装置であるからです。

ミサに与ると私たちは、2000年前にイエズス様が十字架の上で流されたその御血、その十字架の場所にいるのと全く同じ事がこの身に起こるからです。イエズス様は時を超えて場所を超えて、十字架の上から私たち、2016年7月8日の私たちを御覧になっています、「ミサに来たか。カルワリオのいけにえに来たか。」と私たちの事を御覧になっています。

「さぁ、この十字架の苦しみの中の恵みを全て受け取りなさい。この御血潮の無限の功徳を受け取りなさい。祝福を与えよう。どんなお恵みが欲しいのか。求めよ、祈れ、探せ、全てお前たちに与えよう。」と言って、両手を広げて私たちに全てを与えようとして待っておられます。そのまさにその現場に私たちが行く事ができる装置で、特別の超自然の行いであるからです。装置というのはおかしな言い方ですけれども、その特別な場所であるからです。

ですからヨーロッパのキリスト教文明は全て、十字架のこの祭壇の周りに立てられました。平和はこの十字架のいけにえの下にそこから広がりました。発展と、人々の間の信頼と、その分かち合いと喜びは、このいけにえ十字架から来ました。そこから赦しと祝福と喜びがやって来ました、その上に立てられました。これこそがこの地上において、永遠の命における祝福の元だったのです。

ですから聖エリザベトは、どのような事をしても、どんなに難しい事があっても、「このミサにだけは与りたい。ミサが第一だ。」と思っていました。このしもべもそうでした、「王様の命令をするけれども、ミサの方が好きだ。」

では私たちも、聖エリザベトの御取り次ぎによって、特に日本と関連の深いポルトガルの女王様でしたから、私たちの為にもよくお祈りして下さるに違いありません。私たちがこのミサをますます愛してそれに与る事ができますように。天主様のお恵みによって、この聖伝のミサを、イエズス様のいけにえである十字架のいけにえの再現であるミサを、多くの方々がその価値を理解して、日本中に世界中にこのミサが捧げられますように、お祈り致しましょう。

「天の国は、畑に隠された宝と例えられる。」

聖父の聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


木は、その実りによって知らされる。

2016年08月21日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年7月3日(主)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年7月3日 聖霊降臨後第7主日のミサ 
小野田神父説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年7月3日、聖霊降臨後第7主日のミサをしております。

今日は嬉しいニュースがいくつかあります。

1つは、今日皆さんの前でステファノ・ロムワルドさんが条件付きで洗礼を受けて、プロテスタントからカトリックへと回心しました。どうぞステファノ・ロムワルドさんの為にたくさんお祈り下さい。9月の司教様がいらっしゃった時に、堅振の秘跡を受ける予定です。

もう一つの嬉しいニュースは、ポールさんとソレーンさんの赤ちゃんが、昨日朝生まれました。女の子でジャンヌちゃんです。赤ちゃんのお母さんも元気だという事です。どうぞお祈り下さい。

この6月から昨日までにかけて、聖ピオ十世会では19名の新しい司祭、と21名の新しい助祭が叙階されました。どうぞこの新司祭たちの為に、新しい助祭たちの為にお祈り下さい。

今日のこの御ミサの後に、14時半から公教要理の時に今回は「愛徳について」、16時からは主日の第2晩課、明日は朝の7時からミサがあります。この7月はちょっとイレギュラーになっておりまして、2回目のミサは次の第2主日です。7月10日にやはりここでミサがあります、どうぞいらして下さい。8月には聖グリニョン・ド・モンフォールによる聖母の黙想会がありますので、是非いらして下さい。


「木は、その実りによって知らされる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様は、「偽りの預言者に気を付けよ。彼らの実を見てそれを木を判断せよ。悪い木は悪い実を、良い木は良い実を結ぶから、ただ、『主よ、主よ、』と口先だけで言っている者が、天の国に入るのではない。実りをもたらしたもの、天主の御旨を果たした者だけが、天の国に入るのだ。」というお話をしていました。よく私たちはこの、「実りによって木を判断せよ。」という事からよく、このイエズス様の話は、どうやったら正しい宗教と間違いの教えを区別する事ができるか、カトリック教会の生み出した聖徳、聖人たちの数々、奇跡の数々、或いは殉教者、童貞女童貞など、多くの聖徳を示してそのカトリック教会の実りを示したり、或いは聖伝の教えの実りを示したり、その木の良さについて話す事がよくありますけれども、今回は、聖パウロの書簡を見ると、やはり実りについて言っているのではないでしょうか、「あなたたちは罪の肢体であって、その罪の実りは『死』だ。しかし善の実りは『永遠の命』だ。」

そこで今回は皆さんに、この「実り」というのは何なのか。一体人間の実りというのは何なのか、人間を木に例えると、「実り」というのは何なのか。それでこの良い実りをもたらすには一体どうしたら良いのだろうか。良い実りをもたらす秘訣は秘密は何なのか。それでその実りをもたらす原理を考察すると、このちょうど7月のイエズス様のいと尊き御血の聖なる月の信心にピタリと合っているテーマが現れてきます。イエズス様と、イエズス様に一致している、イエズス様の御血を受けているという事です、御血の功徳を受けているという事です。そこで今回は最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。良い実りを受ける為の遷善の決心を立てましょう。

では、「実り」というのはどういう事でしょうか?まず木を考えて、それを人間にあてはめます。

「木に実がなる」というのは、これが木が成長して成長して植物が成長して、その大体最後に成長の過程の最後に、この実りを付けます、実を付けます。この実には大体普通、私たちが特にラテン語で「fructus」と言う時には、甘い、英語で特に、「fruits“フルーツ”」と言う時には、甘い何かがあります。ただの実りというか果物であって、甘い甘みがあります。それでその実は木から生まれた実であって、その甘い実りを人間がそれを収穫します。

その事を人間に当てはめると、人間の、人間から生み出されるものがやはり実りであって、人間がそれから収穫する何かが実りと言われます。

ところで、植物でもそうですけれども、畑にあるもの、或いは木から出たもの全てが全て収穫されるわけでありません。収穫されるのはそれが私たちに利益のあるもの、私たちに喜びを与えてくれるもの、或いは何かそれを採ろうという意図があったものを収穫します。

人間の場合もやはり、人間の行動がもしもそれが自分の意図に適っていれば、「あぁ、満足した。嬉しい、これができて嬉しい。」と思います。ですから何らかの人間の行動で嬉しいと思ったり、喜びがあったものが、それが人間の行動の実りとなります。人間がそれをもともとそうしようと思った事です。究極の目的というのは聖パウロの言うように、「人間の最後、究極の目的であり、永遠の命」です。これこそが私たちが求めている甘美な実りであって、それこそを求めています。

ではどうやったらこれが良い実りとなるのでしょうか?聖パウロが、やはり言っているように、罪の実りと正義の実りがあります。天主に反するものと天主に沿うものがあります。これはどういう事かというと、イエズス・キリストに結ばれているか結ばれてないかによって、それが良い実りとなるか悪い実りとなるかの違いがあります。イエズス様は言います、「『主よ、主よ、』と言うだけの者でなく、主の御旨を果たす者が天の国に入る。」と。ここではイエズス様は言います、「信仰だけではなくて、更に愛徳を持って主の御旨を果たした者が天国に入る。」と。

これはイエズス様は別のところで、10人の乙女について話をします。5人の賢い乙女と5人の愚かな乙女です。5人の賢い乙女は油と灯を持っていました、ランプだけでは駄目だったのです、油を持っていてからこそ、花婿が来た時に花婿と一緒に入る事ができました。しかしランプだけを持って油の準備をしなかった者、つまり信仰だけを持って愛徳のなかった者は、イエズス様から花婿から、「私はお前たちの事を知らない。」と言われるに違いありません。

何故、では信仰と愛が必要なのでしょうか?イエズス様はこう仰います、「私は葡萄の木であって、あなたたちはその枝だ。もしも私に付いていなければ、あなたたちは何も実を結ぶ事ができない。私に留まれ。」私たちがイエズス様に、信仰と愛徳を持って愛を持って留まっていない限り、最高の実りである天国に行くという事はその実りは結ぶ事ができないのです。しかしイエズス様と結ばれているのであれば、私たちがどのような小さな者であっても、もうこの世では馬鹿にするような小さな者であっても、それは関係ありません。大切なのは、イエズス・キリストに繋がっているかどうかです。大切なのは、天主の目にどのように映っているかどうかです。大切なのは、私たちがイエズス・キリストの為に、イエズス・キリストと繋がって、イエズス・キリストの為に、イエズス・キリストを愛するが為に、この仕事を、小さな事をするかしないかによります。

これはどういう事でしょうか?これは、「意向によって、同じ行為が意味が違ってしまう」という事です。例えばイエズス様に対して接吻するという事はとても良い事のように思います。しかしイスカリオトのユダは、イエズス様に裏切りの為に接吻をしました。つまり同じ行為であっても、その意味が全く違うのであって、実りも違うという事です。

イエズス様に繋がれば繋がるほど、それは聖霊にも繋がります。ですから聖パウロは、私たちはイエズス様と繋がる限り聖霊を受けるので、「聖霊の実り」という事についても話しています。

では良い行いというものはどういう事があるでしょうか?公教要理によれば、主に良い業には3つがあるといます。1つは「祈り」であって、もう1つは「断食」で、もう1つは「施し」であるという事です。

「祈り」というのは、ただ朝のお祈りだけではありません。私たちの心を天主にあげる全てが祈りです。例えばミサ聖祭に与る。或いは秘跡に与るなどです。これはどういう事かというと、イエズス様は私たちを、イエズス様の幹に接ぎ木されたという事です。私たちの中に特に洗礼の秘跡の後には、イエズス様の命が入っているという事です。私たちがイエズス・キリストの神秘体の一部となって、その命を生きている、共に生きているという事です。これは信仰と愛によってこれが達成されます。

しかもこれは私たちの三次元の場所によって制限されるものでありません。この私たちがイエズス様と一体になっているという事は、時を超える事です。ですから例えば洗礼の秘跡を受ける時に私たちは、イエズス様の御血潮を受けて、イエズス・キリストと共に葬られ罪に葬られ、イエズス・キリストと共に復活する事になります。私たちがミサ聖祭に与る時には、2000年の場所と時を超えて、ちょうどカルワリオのふもとにいる事になります。全く同じ霊的な価値を持つ事になります。丁度イエズス・キリスト様が皆さんの事をカルワリオの十字架の上でご覧になっている、その事が今起きています。

2000年前にもしもゲッセマニの園でイエズス様が苦しんだとしたら、それは2000年後の今の、2016年7月3日の今の私たちが犯す罪を、裏切りを見て苦しまれているのです。

もしもイエズス様がこのゲッセマニで慰めを受けるとしたら、私たちの愛や犠牲や償いを見て、イエズス様に対してなされる祈りを見て、イエズス様はゲッセマニのその時に慰めを受けられるのです。

十字架に付けられながら、時を超えて今の私たちをご覧になっています。今の私たちに十字架の上からお恵みを与えようとされています。現代の言葉で言えば、例えばタイムマシンとか、或いはワープするとか、或いは何かこうSFの専門用語があるかもしれません。しかし時を越えた永遠の天主に於いてはその事ができるのです。

「断食」についても同じです。断食というのはただ単に私たちがご飯を食べない、1食減らすだけではありません。私たちが好奇心を放棄して、或いは禁じられた情欲を制限したり、或いは無駄なおしゃべりをやめたり、或いは無駄なインターネットのチャットをやめたりとか、或いはしても許されるような事だけれども、どうしてもしなければならない事ではないというものは、イエズス様の為に断食する、それを放棄する、などという事によって、イエズス様はそれを非常に、イエズス様の為になされた事であれば非常にそれを喜ばしく思います。

それを例えば、イエズス様が鞭打たれた時に、御体から御血潮がタラタラと流された時に、その私たちが罪を放棄した、罪をやめた、罪を犯さなかった、という事によって、より少なく鞭打ちの痛みを感じられるのです。

私たちがイエズス様の為に屈辱を、侮辱を忍耐した、嘲りを捧げた、という時には、茨の冠を被せられたイエズス様は、それだけより少なく苦しみを感じます。

2000年の時間と場所を越えた一致があるのです。神秘体の一致があります。

「施し」についても同じです。施しというのは教会に献金をするだけではありません。そうではなくて、「隣人の為に、私たちの持てる愛徳を施す。」これが施しです。イエズス様は言いました、「私の為に、この最も小さな者に為すものは、私に対して為す事だ。」パウロは叱られました、パウルは昔サウロという名前でキリスト教徒を迫害していた時がありました、「サウロ、サウロ、お前なぜ、お前は私を迫害するのか。」

では今日はどのような遷善の決心を立てれば良いでしょうか?

「私たちはイエズス様といつも一致している」という事を自覚する、まず自覚する事を提案します。これは朝起きた時に、私たちが一日の全てを捧げる、イエズス様の為に、苦しみと小さな仕事を捧げる、全てを捧げる、受けるべき受ける事ができるような全ての贖宥を受ける、のみならず、私たちがイエズス様と共にいる、という事を自覚する事を提案します。私たちが罪を犯せば犯すほど、イエズス様を実はそれだけ苦しめてしまう。しかし私たちがイエズス様の為に苦しめば、祈りを捧げれば、イエズス様はそれだけ喜ばれる、今喜ばれる、その時を超えて喜ばれる、という事を提案します。

第二は、この私たちの聖徳の実りの為に、聖徳の原理であるイエズス様と共に繋がるのみならず、このイエズス様の為に全ての日常生活を捧げる、特に苦しみと祈りを捧げる、という事を提案します。特にカトリック教会の為にお捧げ下さい。今、苦しみ、受難を苦しむ教会の為にお捧げ下さい。

最後に、マリア様こそが、全き最高の実りをもたらした御方でした。御胎内の実りもそうですし、その御胎内の実りを十字架に付けた、禁断の実りを、禁断の木の実を取ってしまった罪の償いをした、この十字架の実りであるイエズス・キリスト、またミサ聖祭の実りであるイエズス・キリストを生み出した方であり、そのご生涯は全て、天主の御旨に適ったものでした。マリア様は言います、1つだけ私たちに、そのカナの召使いを通して私たちに言います、「彼の言う事を何でもしなさい。」そうした時に、私たちは水のようなものですけれども、ぶどう酒の、最高のぶどう酒を生み出す事ができるような、良い実りをもたらす事ができるに違いありません。

今日は皆さん日本語が分かる方だけですので、今日は日本語だけで終わりたいと思います。

「木は、その実によって知られる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


ファチマの聖母のメッセージの「核心」、「一番大切なもの」は何なのか。

2016年08月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年7月9日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年7月9日(土) 聖母の土曜日のミサ 
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心教会にようこそ。今日は2016年7月9日、聖母の土曜日のミサをしています。

このミサの後に前回の公教要理の続きを、今回は「愛徳について」お話ししたいと思っています。愛徳とは何か、愛徳は何を対象として、何を愛するのか。それで愛徳の行為とは何か、愛徳の実りとは何かについて、皆さんで話をしていきましょう。

フェレー司教様が、この来たる8月15日から来年の8月22日まで、1年と1週間の間、新しいロザリオの十字軍を起動させました。今回はこの1年の間に、1200万環のロザリオをマリア様に、特にファチマのマリア様に捧げたいとの事です。マリア様の汚れなき御心の勝利の、また教皇様が全世界の司教様たちと一致して、マリア様の御心にロシアを奉献しますように、それから特別に聖ピオ十世会が守られますように、という意向を以て、これを祈りと犠牲を捧げて下さいとの事です。特に犠牲は、小さな犠牲を5000万捧げようと呼びかけておられます。どうぞ来たる8月15日から来年の8月22日まで、寛大なご協力をお願い致します。詳しくはまた帰って皆さんにこの記録ができるようにしたいと思っています。

来月8月には初金・初土にミサがあり、10日から15日まで黙想会があります。その次に第3主日の前の金曜・土曜もこのミサがあります。特にこの黙想会はとても大切な、ファチマ100周年を記念する準備する黙想会です。どうぞ皆さんいらして下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、来たる7月13日は、マリア様がファチマで子供たちに「ファチマの秘密」と言われているものを教えてくれたとても大切な日です。そこでファチマの秘密は一体何なのか、という事を黙想する事を提案します。

一体マリア様は子供たちに何を見せてくれたのか。ファチマのメッセージの核心、一番大切なのは何なのか。もしもそれをしないと私たちに、或いは私たちの社会に、或いはカトリック教会に何が起こってしまうのか。それが起こらないように何をしたら良いのか。私たちはマリア様のファチマのメッセージを実践する為に、ファチマ100周年を記念する為にどうしなければならないのかを、何か良い遷善の決心を立てる事に致しましょう。

7月13日にマリア様は子供たちに、地獄のビジョンを見せて下さいました。そのビジョンはあまりにも恐ろしく、子供たちは、「おそらくマリア様が助けて下さらなかったならば、数秒の事だけで息絶えてしまったに違いない。」と言っています。この地獄のビジョンを見せた後にマリア様は、「あなた達は、地獄に落ちる多くの霊魂たちを見ました。このこれを救う為に天主は、この地上に私の汚れなき御心に対する信心を確立する事を望んでいます。」と仰いました。まさにファチマのメッセージの核心はここにあります。

このファチマのマリア様の「汚れなき御心の信心を望んでいる」というのは、実は7月に秘密の中で仰っただけではありませんでした。実は既に1ヶ月前から、6月13日に、マリア様はその事を仰っていました。ですから7月13日のメッセージを深く理解する為にも、その1ヶ月前のマリア様の言葉もよく聞いて下さい。

6月13日、子供たちは2回目にマリア様の、ファチマのマリア様を見ます。ルチアはいつものようにこう言いました、「あなた様は私に何を望みますか?」するとマリア様は答えて、「私は、あなたたちがここに来月の13日も来る事を望みます。それからロザリオを毎日唱える事を望みます。あなたが読む事ができるように、勉強する事を望みます。後に、私が一体何を望むかを教えてあげましょう。」と言いました。次にルチアは頼まれていた事をマリア様に伝えます、「ある病気の人を治してほしい。」という事です。するとマリア様は、「この人はもしも回心するなら、罪を捨てるなら、回心するなら今年中に良くなるでしょう。」霊魂の癒しと肉身の癒しが非常に密接に繋がっている、という事を教えてくれます。

ルチアはマリア様がとても美しい方なので、天国から来た方であるという事を5月に聞いていたので、「私たちを天国に連れて行って下さい。」とすぐ切り出します。するとマリア様は、「はい。私はすぐにジャシンタとフランシスコを連れて行きましょう。でもあなたは少しの間ここに残っていなければなりません。イエズス様があなたを使って、私が崇敬され愛されるように、という事に使う事を望んでいるからです。イエズス様はこの地上に、私の汚れなき御心への信心が確立する事を望んでいます。」と6月に既に仰いました。

6月では更にこう言うのです、「もしもこの信心を実践する人がいれば、それを受け入れる人がいるならば、それが誰であってもどんな人でも、私は救いを約束します。これらの霊魂は天主様にとって非常に大切な霊魂となるでしょう。ちょうど私によって植えられて置かれた、天主様の御稜威の玉座を飾る為に私によって置かれた花のようになるでしょう。花のように大切なものと、天主にとって大切なものとなるでしょう。」と言いました。

ここでマリア様は、「聖母の御心、汚れなき御心に対する信心を、どれほどイエズス様がお望みなっているか」という事をはっきりと言われます。何故かというと、「この信心を実践する霊魂たちは、天主様の祭壇を飾る綺麗な、マリア様によって植えられ生け花とされた綺麗な花となって、天主にとってとても大切なものとなるでしょう。」と言っておられるからです。この私たちの教会の祭壇の綺麗な花を見て下さい。赤いバラと白い小さな花で、この花があるとこの天主様の祭壇がどれほど飾られて、どれほど綺麗にどれほど華やかになる事でしょうか。私たちもマリア様によって選ばれた天主様の祭壇を飾る為に置かれた花となって、天主様は私たちの事を非常に大切に思って下さるというようになる、というのです。

マリア様は、もっとすごい事を言われます、「私はこの救いを約束します。」と。私たちの救霊を約束できるのは天主様しかいません。マリア様は天主様の力を以て約束します。聖パウロでさえも、「私は自分の救いを恐れおののき思って達成しようとしている。」でもマリア様は、「約束します。」聖ベルナデッタにも言いました、「私はこの地上ではあなたの幸せを約束しませんけれども、来世では約束します。」マリア様は私たちの救いを必ず守ってくれます、約束してくれます。マリア様はその約束を破る事は決してありません。必ず救われるという事を保証してくれます。天国に行けるという事を確約してくれます。マリア様にとって詐欺はありません。必ずそれを実行されます。

そればかりでありません。マリア様はそれを、私たちが更に天主様の一番近くに行って、一番近くの一番花の綺麗なものとなるように、救われるだけではなく、「高い聖徳」までも約束されています。天主様にとってどれほど快い者となるか。天主様にとって大切で愛おしい者になるか。ものすごい聖徳にまで到達する事を保証して下さいます。「汚れなき御心を実践する者には、皆そうだ。」と言います。

するとルチアはその言葉を聞いて、特にジャシンタとフランシスコが先に天国に行って、自分はこの地上にいるというのを、一人ぼっち残されるというのを聞いてちょっと、「私はここに残らなければならないのですか?」と聞きます。ちょっと心配になったのでしょう。するとマリア様は、「いいえ、私の娘よ。あなたは1人ではありません。たくさん苦しんでいますか?がっかりしないで下さい。私は決してあなたを見放しません。決して見放しません。」と言います。「私の汚れなき御心があなたの避難所となるでしょう。天国に天主様へと導く道となるでしょう。」と約束します。決して見放さない、汚れなき御心がどんな危険からも守ってくれる避難所となる、という事を。

先月、大和くんが行方不明になって日本中で大騒ぎしましたけれども、自衛隊の施設の中に入っていて、水を飲んだり寒さを凌いでいて助かった、という話を聞きましたが、マリア様の中に入る者はどんな遭難者であれどんなのであれ、温かく、安全に守られる避難所を見出します。そればかりでなく、「たとえ道を迷ったような者であれ、天国に行く、天主様へ行く道となる。」とマリア様は仰って下さっています。

その時にマリア様はもう一度5月のように手を開いて、両手を開いて、子供たちを光の中で包みます。「ちょうどその光は、天主様の中に溶け込んで、入り込んでいるかのような眩やかしい光だった。」と言っています。ルチアの言うには、「ジャシンタとフランシスコの方は光が上の方に行って、ルチアの方は地上の方に行っていた向かっていた。」と言います。こうジャシンタとフランシスコは早く天国へ導かれる、記憶せられるという事だったのでしょう。しかしルチアには別の使命が残っている、という事を仰りたかったのだと思います。

するとマリア様は手の上に、手の平の前にご自分の御心をご覧になります、右の手にです。その右の手にあった御心は茨の冠で被せられた、棘が刺さっていた、というのをルチアは見ています。ちょうど書簡側にあるマリア様の汚れなき御心(の御影)が茨の冠でいっぱいであったというのと、そのまさにそれをご覧になります。ルチアはすぐに分かりました、「このこれが人類によって、人類の犯した罪によって冒辱を受けている、屈辱を受けている、苦しまれているマリア様の汚れなき御心である」という事を。「誰か、マリア様に対して犯される罪を償う為に、償いを求めている御心である」という事が理解できました。このマリア様の御心は、人類を愛する御心、私たちの為に苦しんでおられる母の御心であり、同時に償いを求めている御心でした。

7月13日にマリア様は、「この御心への信心を、天主様がこの地上で確立するという事を望んでいる。」という事を言われます。「もしもそうするならば、多くの霊魂が救われるでしょう。さもなければ、多くの霊魂は滅んでしまう。」そればかりではありません。このマリア様はこの私たちに攻め寄っている一番の危険について、つまり永遠の至福を、天国を失ってしまうというものすごい大損害について、この危険について私たちに警告しています。もしも私たちがこの聖母の汚れなき御心への信心を実践しないならば、多くの霊魂たちが、私たちの霊魂さえも滅んでしまう危険がある。

まさにここに、私たちの最も大切な宝があります。それを勝ち取る為でしたら全てをなげうってでもしなければならない「天国の宝」があります。イエズス様の御受難、イエズス様が人となって、天主が人となって私たちの地上に、私たちの間に住まわれたという事も、御受難を受けた事も、カトリック教会を立てられた事も、7つの秘跡を制定された事も、ミサ聖祭を世の終わりまで残るいけにえとして捧げた事も、御聖体の秘跡を制定した事も、カトリック司祭職を作った事も、悔悛の秘跡を告解の秘跡を制定した事も、やはりこの「救霊の為」でした。日本全国で多くの何十万という方々が殉教した。そのこれも「永遠の命の為」でした。多くの方が、たとえそれが王の妃であっても、その王様と結婚するのを放棄して、従順に謙遜に貞潔に生活をしたい、という救霊を確保したいとしたのも、修道生活を送りたい、償いの生活を送りたい、というのも、この「永遠の命の為」でした。聖エリザベトがポルトガルの聖エリザベトが毎日ミサに与ったのも、貧しい人に奉仕したのも、「イエズス様を愛し、多くの霊魂を天国に導く為」でした。

昨日ミサが終わった後で、皆さんとちょっとしたお喋りをしながら、「やっぱりカトリック信者は償いをしてなんぼや。カトリック信者の価値はここにある。」まさにキリスト教の核心を言った事で、まさにそこでありました。しかもこの私たちはその「償いをしてなんぼ」のその償いの負い目を、イエズス様に払わなければなりません、その負債を払わなければなりません。イエズス様に私たちの償いを払わなければならないのですけれども、もっとまけてくれる方法があります。マリア様の汚れなき御心への信心です。この信心はとても優しくて、とても快くて、これをする事によって、特別に天主様によって愛された者になる、私たちの償いがもっと価値のあるものになる、という事が保証されています。

マリア様は天主様のこの御旨を私たちに伝えてくれました、「天主は、私の汚れなき御心に対する信心をこの地上に確立するという事を望んでいる。」

マリア様はこう仰るのです、7月13日に、「罪人たちの為に、自分をいけにえとして捧げなさい。そう償いをする時にいけにえを捧げる時にいつもこう言いなさい、特に犠牲を捧げる時にこう言いなさい、『あぁイエズス様、これはあなたを愛する為、罪人の回心の為、御身の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為です。マリア様、このこれを御身の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為に捧げます。』」ルチアはフランシスコはジャシンタは、これを何度も何度も何度も何度も唱えました。マリア様は言います、「これをたくさん唱えなさい、特に犠牲をする時にたくさん唱えなさい、『イエズス様、これは御身を愛する為です。罪人の回心の為です。マリア様に対して犯される罪を償う為です。』またロザリオを唱えた時に、『あぁイエズスよ、我らの罪を赦し給え。我らを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂、殊に主の御憐みを最も必要とする霊魂を天国へ導き給え。』というのを1連の後に唱えなさい。」と仰いました。

では私たちはどのような決心を立てたら良いでしょうか?

私たちの救霊という最も大切な大事業を、人生の大事業を達成する為に、天国は天はマリア様を通して、非常に簡単な道を私たちに教えてくれたという事です。それが「マリア様の汚れなき御心に対する信心」であるという事です。これを私たちも実践する事に致しましょう。ロザリオを罪人の回心の為に、世界の平和の為に、カトリック教会の為にお捧げ致しましょう。私たちは祈りと犠牲をお捧げ致しましょう。マリア様の御心に対して犯される罪を償う為にお捧げ致しましょう。ロザリオの十字軍をたくさん、皆さんからのたくさんロザリオを唱えて下さい。ではこのマリア様の御心の信心がますます私たちに深まりますように、特にこのそれに捧げられたこの私たちの御聖堂で与る私たちにとって、それが深まりますように、お祈りしていきましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


キリスト教の国家は、黒いアフリカを星(イスラム)に委ねるのか?

2016年08月18日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ルフェーブル大司教様がピオ十二世教皇様の教皇使節として今から57年前に次のような記事を書いておられました。

「キリスト教の国家は、黒いアフリカを星(イスラム)に委ねるのか?」(ルフェーブル大司教1959年11月2日)

Les États chrétiens vont-ils livrer l’Afrique noire à l’Étoile ? (Le Devoir, 2 novembre 1959)

L’Afrique, longtemps a été considérée comme un continent sans intérêt ; pays insalubres et inhabités ; pays aux grandes endémies : paludisme, sommeil, fièvre jaune, dysenterie amibienne ; pays des immenses déserts et de la forêt impénétrable. Non seulement ceux qui y étaient nés, mais ceux qui s’y rendaient, étaient considérés comme des déclassés, les derniers dans le genre humain.
Or aujourd’hui, ce continent apparaît comme l’enjeu le plus considérable des grandes puissances. En quelques décennies, cette Afrique vouée à l’oubli devient la grande vedette. Il faudrait des livres pour rechercher et expliquer toutes les causes de ce changement, car elles sont nombreuses. On aperçoit surtout les plus sensibles : le développement inouï des communications (routières, ferroviaires, aériennes), les aménagements portuaires, la croissance spectaculaire des grandes cités. À côté de cette progression technique, il ne faut pas oublier les ferments idéologiques : les progrès de la culture dus en grande partie aux missionnaires, et, en conséquence, la possibilité pour les nouvelles générations de s’assimiler tout ce que l’esprit peut désirer, connaître… Hélas ! le bon et le mauvais. Le champ est ouvert à toutes les propagandes qui portent rapidement des fruits.

Un « 1789 » africain
Journaux, revues, illustrés, émissaires et propagandistes pénètrent partout. La surenchère des partis politiques a promis la liberté, l’égalité, les finances ; on a lancé des phrases qui portent à la révolution ; le droit des peuples à disposer d’eux-mêmes, le droit à l’indépendance. En même temps, une sorte de mauvaise conscience gagnait les dirigeants de la Métropole, et un nouveau « 1789 », cette fois africain, se préparait.
Nous y sommes, nous vivons le drame déjà sanglant dans de nombreuses parties de l’Afrique, et il est bien téméraire de dire que cette tragédie est terminée. Où va-t-on ? Il est bien malaisé de le dire. Les dirigeants eux-mêmes des gouvernements se le demandent.
On peut cependant examiner certaines influences, certaines orientations, et conclure par quelques pronostics.

Il est une influence méthodiquement poursuivie, entretenue, organisée : c’est celle du communisme. Les moyens et les méthodes sont connus : ils sont toujours les mêmes :
– Une mystique : l’indépendance totale et la démocratie populaire.
– Un objectif séduisant, comme méthode : le Parti populaire unique

Tout pour le Parti, tout par le Parti, Rien en dehors du Parti

Avec une persévérance et une organisation qui ne peuvent être que soutenues par les partis communistes étrangers, l’influence communiste existe partout.
À Madagascar, les dernières élections municipales l’ont prouvé par la victoire communiste à Tananarive. Le président Tsiranana le dit clairement dans un magistral discours récent. Au Cameroun, l’UPC (Union des Populations camerounaises) reçoit des armes de Guinée et entretient la révolution et l’émeute. Dans les pays de l’Entente, la fermeté des gouvernements s’efforce d’empêcher les développements du communisme. Le Mali est plus menacé. Ce sont en effet les pays les plus proches de l’indépendance totale qui sont les plus suivis et les plus vulnérables, parce que davantage laissés à eux-mêmes.
La mainmise de la Russie ou de la Chine sur l’Afrique devient de jour en jour une réalité !

Chose inattendue pour ceux qui connaissent mal l’islam : ce sont les pays à majorité musulmane qui se détachent le plus rapidement de l’Occident et font appel aux méthodes communistes, assez semblables à celles de l’islam : fanatisme, collectivisme, esclavage vis-à-vis des faibles, sont la tradition de l’islam. Ainsi la Guinée, le Soudan, le Niger et le Tchad étaient – et ne sont pas loin encore – de cette orientation. Le Soudan est déjà organisé intérieurement selon les méthodes d’esprit marxiste. Le Niger et le Tchad doivent d’être demeurés dans la Communauté à une action conjuguée de partis minoritaires puissants et de l’Administration française.

Par contre, les pays à influence profondément chrétienne résistent mieux au communisme et demeurent fortement attachés à l’Occident et à son humanisme. Les pays du golfe de Guinée et de l’Équateur sont nettement orientés vers des solutions d’association avec des pays occidentaux et avec la France spécialement.
Le Sénégal offre un cas très particulier et plein d’inconnu, mais sympathique. Cette vieille colonie française, intégrée à la France politiquement (elle avait ses députés depuis de nombreuses décades) voudrait sentimentalement lui rester liée, mais l’influence du Soudan, le poids des tendances islamiques la poussent vers l’indépendance. Il faut ajouter l’exemple de la Guinée et un certain sentiment de supériorité sur les autres pays. La sagesse sénégalaise l’emportera peut-être, sinon en peu de temps, le communisme régnera de Dakar à Gao, et la guerre d’Algérie pourrait bien continuer quelques années de plus.
L’attitude des pays qui ont gardé, malgré bien des restrictions, la civilisation chrétienne pour base du droit privé, public, national et international, devrait être unanime : soutenir tous les gouvernements qui ont adopté comme base de leurs Constitutions des principes qui sauvegardent la nature spiritualiste de l’homme et, en conséquence, ses libertés fondamentales, et manifester ouvertement à ceux qui ont opté pour une conception matérialiste de l’homme et son esclavage vis-à-vis du Parti soidisant populaire, une désapprobation effective dans les paroles et dans les actes. Toute faiblesse dans ce domaine est une aide très efficace pour l’extension du communisme à toute l’Afrique. Il faut être aveugle pour ne pas se rendre compte de cette évidence.

Le mythe de la démocratie libérale
D’autre part – et c’est le drame actuel de tous les gouvernements bien pensants –, le mythe de la démocratie libérale, contraire aux principes du droit naturel, qui fait déjà le malheur des nations occidentales, risque de miner ces jeunes États. Ils ne pourront résister à l’exercice des libertés anti-naturelles qui accordent les mêmes droits au bien et au mal, au citoyen bienfaisant et au citoyen malfaisant.
Il est temps de comprendre que ces États doivent avoir une autorité forte pour défendre la vraie liberté et interdire les fauteurs de désordre. L’autorité et la vraie liberté sont complémentaires et non contraires. Nous jetterions dans le communisme ces jeunes gouvernements si nous exigions d’eux une démocratie qui est synonyme de démagogie et d’anarchie.
Ainsi les pays chrétiens, et surtout catholiques, ont à manifester une option nette et encourageante pour tous ces États et gouvernements bien intentionnés, et non les suivre dans n’importe quelle aventure.
En nos pays africains, on est plus sensible à l’idéologie religieuse spiritualiste, à l’amitié entre les peuples, aux relations courtoises et dignes, qu’à une aide financière. C’est le fait des pays habitués à vivre de peu, mais très susceptibles dans leur susceptibilité et très ouverts aux réalités spirituelles. Les pays chrétiens auraient tort de négliger cet aspect culturel et religieux qui est leur meilleur ambassadeur. Ne venir qu’après des crédits serait une erreur profonde. D’autres promettront davantage.
Il est une aide précieuse que paraissent souhaiter nos nouveaux gouvernants, c’est une coopération technique dans tous les domaines des activités ministérielles. On peut, dès à présent, qualifier les gouvernements d’après leurs techniciens, selon que ceux-ci sont des hommes de grande valeur technique, et surtout morale, ou que, hélas ! ils ne sont que des aventuriers corrompus et corrupteurs. Heureux les gouvernants qui ont su faire un choix. La discrétion ne me permet pas de préciser davantage, mais les exemples sont nombreux et instructifs.
Un certain nombre de gouvernements retrouvent le vrai visage religieux de l’Afrique, et au grand scandale de nos maçons de l’Éducation nationale, ont explicitement fait appel à Dieu dans leurs Constitutions. On peut affirmer que, comme le Gabon, les autres gouvernements – à l’exception de la Guinée – traiteraient sur le même pied l’enseignement libre et l’enseignement public, s’ils en avaient les finances. Déjà certains ont pris des mesures favorables à l’enseignement religieux dans les écoles publiques : grande leçon pour la France.
En définitive, quoi qu’on dise et quoi qu’on pense, la réalité est aveuglante : il faut choisir pour le message de Fatima ou pour l’enfer dès ici-bas. On voudrait ne pas voir, on voile tant qu’on peut cette réalité par des sourires, des congrès, des discours. Les hommes d’État n’osent pas encore en parler ouvertement, même les catholiques – à part quelques exceptions qu’on néglige – mais il faudra bien un jour qu’ils choisissent entre l’Étoile et la Croix, entre l’enfer terrestre ou le ciel préparé ici-bas. Le choix est en train de se faire en Afrique.

Repris dans France Catholique du 18 décembre 1959

「三つの福音的勧告」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年08月16日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「三つの福音的勧告」の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年8月14日 聖霊降臨後第十三主日 韓国でのお説教
三つの福音的勧告

親愛なる兄弟の皆さん、

この主日の祈りの中で、私たちは信仰、希望、愛の徳を請い求めます。それらは、私たちが今年初めから見てきた十戒のうちの第一戒が対象とするものです。しかし皆さんは、教会が教えていることを、聖トマス・アクィナスによって知る必要があります。それは、キリスト教的完徳のためにはこの愛徳の掟を守ることが必要不可欠である、ということです。「すべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力をあげて、主なる天主を愛せよ」(マルコ12章30節)。

聖トマスは、この掟の守るレベルを三つに区別しました。実際、天主は無限に愛すべきお方ですから、人は常に天主をもっと愛するよう努めることができたはずですが、決して十分に愛することはできなかったように見えます。その本当のところは、天主が愛すべきお方であるようふさわしく愛するのは天主だけであるということです。天主の善は無限ですから、天主を十分愛することができるのは無限の愛だけです。天主だけが無限に愛することがおできになります。しかし、私たちが可能な限り天主を愛するとき、私たちは天主をお喜ばせするこの「礼拝の犠牲」を天主に捧げます。天国においては、聖人たちは絶え間なく「心を尽くして、霊魂を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして」まことに天主を愛しています。これは最高の段階の愛徳であり、聖人たちを天主においてまことに喜ばせ、何とかして無限に幸せにするのです。なぜなら、彼らは無限の善において完全に喜ぶからです。

地上においては、キリスト教的完徳は私たちが可能な限り天主を愛することにあり、これにはいくつかの段階があります。最初の段階は、私たちを天主から離すようなことをすべて絶対に避けること、すなわち罪をすべて避けることです。大罪は愛徳と相容れません。大罪は創造主より被造物を好むことであり、究極の目的を被造物(金銭、快楽、権力など)に置くことです。これはすべて、天主を愛することと相容れません。このことから、霊的命の最初の段階は、「清められた命」と呼ばれており、これは大罪を絶対に避けようと努めるときであって、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、過去の罪の償いをするのです。

次の段階は、最初の段階を含みますが、愛のために天主をお喜ばせしようとして、徳の実践にもっと焦点を当てます。それは「照らされた命」と呼ばれており、これはご托身になった天主の御子である私たちの主イエズス・キリストを通して、至聖なる三位一体をもっともっと知ろうと努めるときです。

最後の段階は、その前の二つの段階を含みますが、愛徳そのものにもっともっと焦点を当てます。個々の行為に愛徳を置けばおくほど、動機はもっと純粋になります。天主をお喜ばせすることを、天主をお喜ばせする方法で、天主をお喜ばせするという目的のために、行うのです。愛と天主との一致が命の主な焦点になりますから、それは「一致の命」と呼ばれています。地上におけるキリスト教的命の最高のレベルであり、天主との「霊的な婚姻」へと至ります。

さて、これは人生のあらゆる方法で、みんなが実践できます。しかし、私たちの主イエズス・キリストの模範にもっと近づこうとして、三つの福音的勧告によってその模範に従うのを選ぶ人々がおり、彼らはこの愛徳のキリスト教的完徳にもっと良く、もっと早く到達しようと努めます。彼らは、そんな宗教的完徳に到達して、それを生きることを自分の本分にします。それゆえに、これらは「修道者」、つまり修道士、修道女と呼ばれています。通常彼らは、誓いによって、これらの福音的勧告を実践するよう義務付けられています。清貧、貞潔、従順という三つの誓いです。

注意していただきたいのは、福音的勧告の実践は司祭(そしてすべての聖職者)の義務の一つなのですが、これにはずっと高いレベルの理由があることです。彼らがミサの聖なる犠牲を捧げ、十字架の聖なる犠牲の再現を捧げるので、叙階の日に司教が彼らに命じたように、彼らが「自分たちが行うことに倣わ」なければならないのです。このことから、彼らは十字架上で清貧だったイエズスとともに清貧でなければならず、十字架上で快楽から離れたイエズスとともに貞潔でなければならず、十字架上で従順だったイエズスとともに従順でなければなりません。

ですから、きょう私はこれらの三つの福音的勧告についてさらに詳しく説明したいと思います。天主は人間に掟をお与えになりましたが、それらはすべて天国へ行くために従わなければならないものです。私はこれまで、何回かにわたってその掟のことを長々と説明してきましたし、皆さんも覚えていらっしゃると思います。しかし、ご自分の模範と教えによって、私たちの主イエズス・キリストは私たちに、さらに完全な命を生きるために、これらの掟を超えたもの、三つの勧告をお与えになりました。これらは三つの福音的勧告と呼ばれています。すなわち、清貧の勧告、貞潔の勧告、従順の勧告です。

第一に、私たちの主は清貧の勧告を生きられました。主は貧しい家庭に、徳に満ちてはいるもののこの世のものには貧しい、素朴な大工の家庭に来られました。まるでこれでは十分ではないかのように、主はさらに貧しい状況で、ベツレヘムのうまやでお生まれになることを計画されました。その後、主はナザレトで貧しく生きられました。主がその町を訪れたとき、ナザレトのファリザイ人が主をさげすむほどの貧しさでした。主は「きつねには穴があり、空の鳥にはねぐらがあるが、人の子には枕するところもない」(マテオ8章20節)と言われました。そして最後には、主は亡くなられました。衣服とすべてをはぎ取られて、十字架上で、最も低く最もあわれな捨てられた者に、奴隷に用意された死へと。

私たちの主イエズス・キリストはまた、聖福音で非常にはっきりと清貧をお勧めになります。「もし完全になりたいなら、持ち物を売りに行き、貧しい人々に施しをせよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい」(マテオ19章21節)。まことのキリスト教徒はすべて、イエズスが言われるように、お金への執着から離れなければなりません。「何を食べ、何を飲み、何を着ようかと心配するな」(マテオ6章31節)。主は皆に「だから、まず天主の国とその正義を求めよ。そうすれば、それらのものも加えて与えられる」(マテオ6章33節)と教えられます。しかし、この心から離れることだけでは、福音的完全に十分ではありません。私たちの主は、すべてのものから効果的に離れることを肯定的にお勧めになります。ですから私たちは、初期のキリスト教徒たちが主の勧告に寛大に従っていたのを見ます。「彼らは自分たちの資産と持ち物を売り、おのおの必要に応じてそれを分け」(使徒行録2章45節)ました。「誰も自分の持ち物を自分のものだと言わず、すべての物を共有していた」(使徒行録4章32節)。

この勧告は、修道士や修道女によって何世紀にもわたって続けられてきており、彼らは自分の所有物を捨てるのです。修道院ではすべてのものは共有であり、何であっても誰も自分の物だとは言いません。ですから、彼らは世のあらゆる虚栄から離れて、世のあらゆる過剰なものから離れて生きているのです。修道院に入る前に何をしていたのかは考慮されません。金持ちであれ貧乏人であれ、いったん修道院に入れば、その人は同じ清貧を分かち合うのです。

聖人たちの中には、この清貧の勧めの素晴らしいお手本があります。例えば、四世紀の終わりから五世紀の初めを生きた聖パウリノは、元老院議員を出すことのできる一族のローマ貴族で、フランス南部の人でした。彼は回心し、ボルドーの司教聖デルフィノによって洗礼を授けられました。そしてその所有する非常に広大な土地を売り、自分のすべての財産を貧しい人に分け与えました。その後、彼とかれの妻(最初の妻 聖テラシア)はイタリアでそれぞれ修道生活に入りました。のちに彼はノラの司教になり、蛮族によって連れ去られた一人のやもめの息子を買い取るため、自らを奴隷として売ろうとさえしました!

私たちの生きている現代世界は、福音的清貧のお手本を、富から完全に離脱したお手本を必要としています。実際、富への愛着は現代世界における罪の大きな原因の一つです。現代の技術をもってすれば、使える富は非常に増加し、これが以前の時代には勝るものがなかったようなものへの渇望を引き起こしてきたのです。しかし、福音的清貧の実践によって、修道士や修道女や聖職者は、物質的なものに対して霊的なものが、一時的なものに対して永遠のものが、造られたものに対して天主の善が、はるかに優れた価値を持つということを証明しています。

私たちの主は御自ら、童貞であることの勧めを実践なさいました。主は結婚なさいませんでした。さらに、主は童貞からお生まれになりました。これは人類の歴史において唯一です。天主は、童貞を奉献することへの尊重を示すために、童貞から生まれるというこの偉大なる奇蹟を行われました。しかし、主は十字架上でこの世の快楽からの完全な離脱を実践されました! 童貞を奉献することは旧約においては知られませんでしたが、キリストが来られるやいなや、フィリッポの四人の娘のように、そんな奉献された童貞がたくさんいました(使徒行録21章8-9節)。

さて、聖トマス・アクィナスが教会の聖伝全体によって教えているのは、すべての選ばれた者への共通の報い以上に、童貞者や殉教者、教会博士には特別の報いがあるということです。これら三種類の聖人は、彼らの特別な功徳に対する特別な「冠」を獲得します。ですから、聖母が聖マキシミリアノ・コルベに出現されたとき、聖母は聖コルベに白い冠と赤い冠を、童貞の冠と殉教の冠を示されました。

キリストは、使徒たちに「母の胎から去勢者として生まれた人があれば、他人の手で去勢された人もあり、また天の国のためにみずから去勢した人もある。これを理解できる者は理解せよ」(マテオ19章12節)と言いながら、この勧告を教えられました。聖パウロは、この素晴らしい主の教えを、コリント人に対して、童貞であることに「現にあるがままにとどまる」(コリント前書7章26-27節)よう忠告する書簡を書きながら繰り返しました。聖パウロは、この勧告にいくつかの動機を与えます。1)「体において試練」(コリント前書7章28節)がないようにするため、2)自分を過ぎ去るものに愛着させないようにする(コリント前書7章29-31節)ため、3)この世での心配から自由になる(コリント前書7章32節)ため、4)完全に天主に奉献され「専念する」ため、つまり「独身の人はどうして主を喜ばせようかと主のことを気遣」(コリント前書7章32節)うようになるため、です。童貞を奉献することは「ひたすら主に仕える力」(コリント前書7章35節)を与えます。聖パウロは、結婚は良いものだが、童貞を奉献することはさらに良いもの(コリント前書7章36-38節)だと結びます。

「童貞を奉献することはさらに良いものだ」というこの教えは、聖人、教会博士、聖なる教皇の全員によって何世紀もの間、繰り返されてきました。この教えを拒否することは、異端者のしるしであり、悪しきカトリック信者のしるしです。こんにち、私たちは、童貞を奉献することの優越性を認めることを拒否する人々のことを耳にします。しかし、私たちは全時代の信仰、カトリックの信仰を守らねばなりません。トレント公会議はこのことを信仰の教義と定めました。「結婚生活を童貞生活または独身生活の上に置くべきであると言い、童貞または独身でいることは結婚生活よりも良く聖であることを否定する者は排斥される」(トレント公会議24総会10条)

私たちの生きている現代世界は、これまで以上に童貞を奉献することというこの手本を必要としています。実際、現代世界はあらゆる種類の不潔な行為、最も卑しむべき腐敗した不自然な行為にさえふけっており、そして妊娠中絶のような最も罪深い行為へと至らせているのです。奉献された童貞たちの生き方という手本それ自体によって、彼らは、私たちの腐敗した世界の中で私たちの主イエズス・キリストの恩寵の力を教えています。彼らは普通の信者にとって素晴らしい励ましであり、もし天主が最も高い段階の貞潔を実践する修道士、修道女、良き司祭を助けることがおできになるなら、結婚している信者がその結婚に忠実であるよう、また未婚の若い信者が結婚前に純潔を守るよう、どれほど多く助けることがおできになるか、ということを教えています。実際、童貞性は、自分をキリストに奉献しようと思った人々のためのものであるだけでなく、良き聖なる忠実な結婚のためにも必要とされる準備なのです。

私たちの主はまた、従順の勧告も実践なさいました。主は子どもとしての従順に生きるために、赤ん坊として生まれることをお選びになりました。主は「二人に従われた」(ルカ2章51節)。主はマリアとヨゼフに従順でした。主はエルザレムに留まっておられたときでさえ、それは天の御父への従順からでした。主の人生のすべてで、主は御父に従順でした。実際、主は言われました。「私を遣わされたお方は、私とともにましまし、常にみ旨にかなうことを行う私を、ひとりにしてはおかれぬ」(ヨハネ8章29節)。ですから本当に最後のとき、「死ぬまで、十字架上に死ぬまで自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)のです。

私たちの主は、「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々の自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)と言われたとき、従順の勧告を教えられました。主について行くということは、主に従順であることを意味します。使徒たちが主とともにいた道は、完全な従順によって、初期のキリスト教徒たちが使徒たちとともにいた道であり、初期のキリスト教徒たちが司教とともにいた道です。このキリスト教徒たちの完徳は、砂漠の教父たちの実践の中で続けられ、その後は修道院の実践の中で続けられました。

ここで再び、私たちの生きている現代世界は従順の手本を本当に必要としています。実際、身勝手、利己主義、非依存の精神がこんにちでは広がっているため、多くの人がその中にある悪を見ることさえしないのです。現代世界はあらゆる権威を拒否し、最終的には天主の権威を拒否しています。現代世界は「私はもうお仕えしない(エレミア2章20節)、私は従わない!」と叫んでいるのです。でも、この自己中心以上に聖化に反するものはありません。実際、聖化するということは、むしろ天主を中心にすること、キリストを中心にすることなのです!

この三つの福音的勧告は、キリスト教的完徳と密接に結び付いていますが、その理由はそれらが完全な愛徳へ向かう途中の障害物を取り除くからです。これらの障害物はお金への愛着、快楽への愛着、自己への愛着から来るのです。これらのものへの度が過ぎる愛着が罪の根っこなのです。これらの障害物を取り除くことによって、三つの福音的勧告の実践が霊魂を自由にして「天主の掟の道を走り、天主は私の心を広くされる」(詩篇118章32節)のです。

私たちの主イエズス・キリストは、完全な犠牲として十字架上でご自分をお捧げになったとき、これら三つの福音的勧告の最高の模範をお示しになったのですから、ミサの聖なる犠牲が修道生活の中心にあるのははっきりしています。これこそが、ミサの聖なる犠牲こそが、すべての修道士、修道女、さらに司祭に至るまで、自分の生活の状態の恩寵を刷新し、追い求めるその聖性という目標に到達するための恩寵を獲得する場なのです。実際、すべてをはぎ取られて、下着に至るまではぎ取られて十字架につけられたイエズスほど、(清貧で)富から離れた人が誰かいるでしょうか? 十字架にくぎ付けにされたイエズスほど、貞潔で快楽から離れた人が誰かいるでしょうか? 「死ぬまで、十字架上に死ぬまで従われた」(フィリッピ2章8節)イエズスほど、従順な人が誰かいるでしょうか?

典礼改革における悲劇は、新しいミサがこの犠牲的性格を脇に追いやってしまったことです。近代主義者たちは十字架を好まないのです。彼らは犠牲という概念を好まないのです。ですからその結果は、ほとんどすべての修道会の召命の恐ろしいほどの減少となってしまったのです。まことの刷新がやって来るのは、聖伝のミサに立ち戻ることによってでしょう。

親愛なる兄弟の皆さん、私たちは召命のためにもっと祈る必要があります。天主の栄光のため、自らの霊魂の救いのため、教会と多くの霊魂に大きな利益をもたらすため、これら三つの福音的勧告を実践することによって、心からキリスト教的完徳を追い求める多くの良きかつ聖なる司祭、修道士、修道女の召命がたくさんありますように。

これら三つの勧告を実践することにおいて、キリストの次に最も偉大な模範である童貞聖マリアが、この恩寵を得させてくださいますように! アーメン。

多くの祈りと犠牲を聖母の汚れなき御心への信心の実践として捧げて下さい。聖ピオ十世会-ロザリオの十字軍 (今年の8月15日から来年の8月22日)

2016年08月16日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先月の7月26日、ノルマンディーの小教区教会の司祭、ジャック・アメル神父様がいわゆるIS(イスラム「国」)の2名によって殺害されました。ミサの最中に、アメル神父様、2名の修道女、2名の信徒らを捕らえ、教会内で司祭の喉を切り裂きました。犯人は、カトリック教会に行って、イエズス・キリストの司祭の殺害をしようと決意していました。普通の家の中に入ったのではありません。レストランに入ったのではありません。カトリック教会で、カトリック司祭と修道女とを人質にしました。テロリストたちは、自分のやっている行為の意味を説明してから殺害しています。キリスト教に対する憎しみであり、カトリックに対する憎しみを表明しています。

聖ピオ十世会フランス管区長のブシャクール神父様の声明文(この日本語訳は後に別途ここにアップする予定です)によれば、この殺害はシャハーダ(イスラム教の信仰告白)と同時に行われました。シャハーダとは、証言という意味のアラビア語で、これを行うには「アッラーの他に神はなし、ムハンマドはアッラーの預言者(使徒)である」という意味をアラビア語で言います。これは、普通の言葉ではなく、イスラムの中心的な5つの柱の第1で、これを発言するか否かでイスラムであるか否かが区別されます。これは、天主が三位一体であるというキリスト教の教義に対立するためにあります。つまり、アメル神父様の殺害は、イスラム教が関わり、キリスト教の信仰に対する憎しみ(odium Fidei)があります。


ルフェーブル大司教は、アフリカにおいてピオ十二世を代表する教皇使節として、アフリカの様子を詳しく観察分析していました。

1956年、ローマのフランス人神学校で、ルフェーブル大司教はアフリカの状況について講話をしています。それによると、

●エジプトのカイロで改革主義、純正主義的、汎アラブ主義が広められている。エル・アザール大学で学んだアフリカ各国の学生たちは自国に戻ると、「イスラム教寺院であるモスクの中で、西欧と宣教師たちに対する戦いを説教している」。

●エチオピアの首都で行われたアジス・アベバ会議は『共産化するためにイスラム化すべきだ』と結論づけている。

●ティスラン枢機卿が言った通り『イスラム教が共産主義に対する城壁だと考える人々は完全に間違っている。』」

さらに、1959年11月2日には、ルフェーブル大司教はカナダの新聞にこう記事を投稿しました。

ロシアと中国はますますアフリカを手中に収めている。(La mainmise de la Russie ou de la Chine sur l’Afrique devient de jour en jour une réalité !)

「イスラム教徒が過半数であるこれらの国々は、西洋諸国からすぐさまに離れ、(……)狂信的言動、集産主義、弱いものを奴隷にするといった、共産主義の手段に訴えている。これらはイスラムの伝統である。」
(Chose inattendue pour ceux qui connaissent mal l’islam : ce sont les pays à majorité musulmane qui se détachent le plus rapidement de l’Occident et font appel aux méthodes communistes, assez semblables à celles de l’islam : fanatisme, collectivisme, esclavage vis-à-vis des faibles, sont la tradition de l’islam.)

イスラムには、共産主義が浸透しやすく、この両者において「狂信的言動、集産主義、奴隷化」という親和性があるように思われます。ファチマの聖母が言うとおりです。

ファチマの聖母マリアは、私たちに既に99年前の7月13日にこう警告していました。

もし人が聖母マリアの要求を聞かないならば「ロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とを促進するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。いろいろな国々は無くなってしまうでしょう」と。

Se não, espalhará seus erros pelo mundo, promovendo guerras e perseguições à Igreja. Os bons serão martirizados, o Santo Padre terá muito que sofrer, várias nações serão aniquiladas.

 よく聞いて下さい。聖母の汚れなき御心はこう言います。「いろいろな国々は無くなってしまうでしょう」と。várias nações serão aniquiladas. 様々な国々は、無と化してしまうでしょう、と。

 もし人が聖母マリアの要求を聞かないならば「ロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とを促進するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。いろいろな国々は無くなってしまうでしょう」と。

2000年6月にバチカンが発表した「ファチマ第3の秘密」によると

教皇様や、司教様たち、神父様たち、修道士、修道女達、そして様々な階級と職種の平信徒の人々(男性、女性)も次々にそこで死んでいく場面を見ています。二位の天使たちは、殉教者達の血を集めて、その血を天主へと道を進む霊魂たちに振りかけていました。それが実現するのが間近ではないかと危惧します。

以下ルチアの見たヴィジョンを引用します。

(引用開始)

J.M.J.
ファチマのコヴァ・ダ・イリアで1917年7月13日に啓示された秘密の第3部

天主よ、私は御身への従順のためにこれを書きます。御身はレイリアの司教様と、いとも聖なる御身の御母にして私の母なる聖母マリアとを通して、私にそうすることを命じ給います。

私がすでに説明した2つの部分の後で、聖母マリアの左の少し上に、私たちは、左手に炎の剣を持つ一位の天使を見ました。この剣はこの世を火で焼くことができるかのように見える炎を出して燃えていました。が、これらの炎は聖母マリアがその右の手からこの天使へと向けて輝き出す輝きに触れて消されてしまいました。天使は、右の手で地上を指し示しながら大きな声で叫びました。「償い!償い!償い!」

そして私たちは巨大な光を見ましたがそれは天主様でした。(人々が鏡の前に立つと、自分の姿が鏡に映されるような様子と何かにていることです。)白い服を着た一人の司教様、(私たちはこの司教様は教皇様であるという印象を受けました)、その他の司教様たち、神父様たち、男性、女性、修道者たちが山の上に登っています。その頂上には、樹の皮の付いたコルクの樹の幹を荒く切り倒して作った大きな十字架がありました。そこに辿り着く前に、教皇様は、苦しみと悲しみとで半分震えて半分躊躇する足取りで、半分崩壊した巨大な都市を通り抜け、その途上で出会った死体の霊魂らのために祈っていました。山の頂上に到着すると、大きな十字架の元にひざまずき、彼に向けて弾丸と矢を放った一軍の兵士たちによって殺害されてしまいました。そして同じように、その他の司教様たち、司祭たち、修道士、修道女達、そして様々な階級と職種の平信徒の人々も次々にそこで死んでいきました。十字架の二つの腕の下にいた二位の天使たちは、殉教者達の血を集めて水晶で出来た灌水器に入れて手に持ち、それで聖水のように天主へと道を進む霊魂たちに振りかけていました。
トゥイ、1944年1月3日

(引用終わり)
アメル神父様の殉教は、このヴィジョンの実現の第一歩だったのでしょうか?


そこで、今年の8月15日から来年の8月22日までのロザリオの十字軍は、今の私たちにとって大変大切です。次の4つの意向のために祈り、犠牲を捧げて下さい
(1)この世界に聖母の汚れなき御心への信心を確立するため
(2)聖母の汚れなき御心の凱旋のため、
(3)教皇がカトリックの全ての司教たちを一緒にロシアを聖母の汚れなき御心に奉献するため、
(4)聖母マリアが聖ピオ十世会とその全ての会員たち、聖伝の全ての修道会らを保護して下さるため、

です。

特に最初の意向のために、私たちは次のことをしましょう。
 あ)一人で、あるいは家族で、毎日ロザリオを唱えること。
 い)5つの初土曜日に償いの聖体拝領の信心を行い、聖母の汚れなき御心に対して犯される罪を償うという精神で日々の犠牲を増やすこと。
 う)不思議のメダイを身につけ、それを周りの人々に配布すること。
 え)自分の家庭を聖母の汚れなき御心に奉献すること。


今回のロザリオの十字軍ではフェレー司教様は目標として、1200万環のロザリオと、5000万の小さい犠牲とからなる花束をファチマの聖母マリア様に捧げることを設定しました。

そこで、愛する兄弟姉妹の皆様、多くの祈りと犠牲を聖母の汚れなき御心への信心の実践として捧げて下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



聖フランシスコ・ザベリオの祈り O Deus, ego amo te ああ天主よ、我は御身を愛し奉る。

2016年08月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

「聖フランシスコ・ザベリオの祈り」をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父

【ラテン語】
O Deus, ego amo te,
Nec amo te, ut salves me,
Aut, quia non amantes te
Æterno punis igne.

Tu, tu, mi Jesu, totum me
Amplexus es in cruce;
Tuliste clavos, lanceam,
Multamque ignominiam,

Innumeros dolores,
Sudores, et angores,
Et mortem, et hæc propter me,
Ac pro me peccatore.

Cur igitur non amem te,
O Jesu amantissime,
Non, ut in cœlo salves me,
Aut ne æternum damnes me,

Nec præmii ullius spe;
Sed sicut tu amasti me?
Sic amo et amabo te,
Solum quia Rex meus es,
Et solum, quia Deus es.

【日本語】
 ああ天主よ、我は御身を愛し奉る。
 御身を愛し奉るは、我が救われるためではなく、
 御身を愛さない者たちが
 永遠の火で罰されるからでもない。

 ああイエズスよ、御身は、我を全て
 十字架にて抱き給うた。
 釘と槍と多くの辱めを

 無数の苦しみを
 汗と苦悩と
 死とを、これら全てを私のために
 罪人なる私のために受け給うた。

 然して、御身を愛さざること如何にしてあり得るや、
 ああ、いとも愛するイエズスよ、
 永遠に呪われないためでもなく、
 天国にて救われるためでもなく、

 如何なる報いも希望するからでもなく、
 御身が御身が我を愛した如く、
 我も御身を愛し奉り、愛し奉らん、
 ただ御身が我が王なるが故に、
 また御身が天主なるが故だけに。

 (聖フランシスコ・ザベリオ +1552)

聖マキシミリアノ・コルベの取り次ぎを得るための祈り(8/5-8/13のノベナ)

2016年08月01日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

8月14日は聖マキシミリアノ・コルベの帰天された祝日です。

聖マキシミリアノ・コルベの取り次ぎを得るための祈り(8月5~13日のノベナ)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父



 聖マキシミリアノ・コルベの取り次ぎを得るための祈り(8月5~13日のノベナ)

 天主よ、御身は御身のしもべ、聖マキシミリアノ・マリアの心を、

 霊魂の救いを求める熱意と隣人への愛で、また、無原罪の聖母への熱意で満たし給えり。

 願わくは聖人のおん取り次ぎにより、天主の光栄のため且つ霊魂の救いのために働き、

 死に至るまでますます御身の聖子われらの主イエズス・キリストに似通った者となるようにさせ給え。

 聖霊との一致のうちに、御身とともに世々に生き且つ治め給う聖子によりて願い奉る。アーメン。



英語版
 PRAYER TO OBTAIN THE INTERCESSION OF SAINT MAXIMILIAN KOLBE (Novena from 5 - 13 August)


 O God, Thou hast filled the heart of Thy Servant, St. Maximilian Maria,

 with zeal for the salvation of souls, with love of neighbor and with fervent devotion to the Immaculata.

 Grant us, though his intercession, the grace to work for the honor of God

 and the salvation of souls and to be conformed increasingly until death to Thy Son,

 Our Lord Jesus Christ, Who lives and reigns with Thee in the unity of the Holy Ghost,

 from eternity to eternity. Amen.

 Militia Immaculatae Father Director's Letter No 2

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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