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ヴィガノ大司教からPaix Liturgiqueへ:司教の皆さん、聖ピオ五世のミサを捧げてください。新しいミサの主な欠点の三つの重大な論点

2022年09月29日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教からPaix Liturgiqueへ:司教の皆さん、聖ピオ五世のミサを捧げてください。

トリエント・ミサの血管には福音の健康な血が流れていますが、新しい儀式には異端とこの世の精神に感染した血が流れている、と言えるでしょう。
今日の状況を考えると、私たちは、公会議後の出来事を、さらに大きな客観性をもって見ることができます。また、教区の召命および修道者の召命の危機から、信者の秘跡への参加の崩壊まで、「公会議の春」の結果が今、誰の目にも明らかであることもその理由です。
私は兄弟である司祭の皆さん全員に呼び掛けます。聖ピオ五世のミサを捧げてください。そして、司祭にしていけにえであるキリストに、皆さんの司祭としての霊魂に働きかけていただき、司祭としての役務に確固たる超自然の意味を与えていただくのです。

【英語】Viganò to Paix Liturgique: Bishops, Celebrate the Mass of St. Pius V.

【イタリア語】Viganò a Pax Liturgique: Vescovi, Celebrate la Messa di San Pio V.

Viganò to Paix Liturgique: Bishops, Celebrate the Mass of St. Pius V.

2022年9月14日

親愛なる「Stilum Curiae」(教皇庁のペン)の友人と敵の皆さん、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の「Pax Liturgique」(典礼の平和)とのインタビューを受け取りましたので、喜んで公開します。どうぞお読みください。

【訳者注】Pax Liturgique とは「典礼の平和」という意味の名前をもったカトリックの団体である。フランスで始まり、聖伝のミサを促進することをその団体の主な目的としている。この記事の題名は、ブログStilum Curiaeに掲載された通り、司教たちよ、という呼びかけを付けた。本文中にはヴィガノ大司教は司教だけではなく、司祭たちに一般に呼びかけている。

§§§

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教とのインタビュー
Paix Liturgique
2022年9月13日(火)

【問1(Paix Liturgique)】大司教様、第二バチカン公会議の後、典礼の問題がこれほど緊急の重要問題であるのはなぜでしょうか。

【カルロ・マリア・ヴィガノ大司教】典礼の問題は非常に重要です。なぜなら、ミサという神聖な行為の中には、典礼を捧げる教会の教理、道徳、霊性、規律があるからです。したがって、ちょうどカトリックのミサが、カトリックの教導権を完全かつ一貫して表現したものであるように、改革された典礼(ノブス・オルド【新しいミサ】)は、公会議の逸脱を表現したものです。実際、その典礼は、第二バチカン公会議のテキストの持つ曖昧さや言葉遣いがなくても、異端的な本質を明らかにし、また裏付けています。例えるならば、トリエント・ミサの血管には福音の健康な血が流れていますが、新しい儀式には異端とこの世の精神に感染した血が流れている、と言えるでしょう。

【問2】典礼にそれほど深く関心を持っていない教皇フランシスコが、二つの典礼形式、新しい形式と古い形式は、二つの異なる教会論を反映している、と言う場合、少なくとも本当の問題を提起しているという良い面があるのではないのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】これはまさに私が今申し上げたことであり、(1968年に)オッタヴィアーニ、バッチ両枢機卿が「Breve esame critico」(批判的研究)で糾弾し、またルフェーブル大司教が多くの介入で糾弾し、また他の司教たちや典礼学者たちによっても糾弾されてきたことです。あなたが単一の儀式の「二つの典礼形式」とお呼びになったものは、実際には二つの異なる儀式であり、一方は完全にカトリック的であり、もう一方はカトリックの真理について沈黙し、プロテスタント的かつ近代主義的な母体の誤謬をほのめかしているものです。この点で、ベルゴリオは完全に正しいのです。第二バチカン公会議とその異端的発展を受け入れる者は、それらの誤謬が聖伝の典礼に表現されているのを見つけることはできません。聖伝の典礼は、信仰告白における明確さのため、ノブス・オルドを考案した人々の「mens」(考え方あるいは物の見方)を非難し否定するものなのです。

【問3】聖伝の典礼を攻撃するいくつかの文書が、この一年間に相次いで出されました。それは、「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes、2021年7月16日)に始まり、「ドゥビアへの応答」(2021年12月4日にアーサー・ロシュ典礼秘跡省長官によって発表されました)、そして使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」(Desiderio Desideravi、2022年6月29日)です。聖伝に対して試みられた攻撃は失敗した、古代の典礼が死ぬことはないだろう、という希望を、私たちはまだ持つことができるでしょうか。

【ヴィガノ大司教】私たちが陥ってはならない第一の欺瞞は、統治の行為と教導権の行為を破壊転覆的に利用することによって欺かれることです。今回の場合、信仰における兄弟たちを固めるために公布されたのではなく、むしろ彼らを信仰から離れさせるために公布された諸文書がありますが、これらはベネディクト十六世の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)と明らかに矛盾しています。この自発教令は、信仰から離れさせるのではなく、トリエント典礼への完全な権利を認めています。第二に、キリストの教会への憎しみでいっぱいになった権威主義的な暴君の行き過ぎた行いが、最も穏健な人々の目をも開かせ、その人々に、第二バチカン公会議の詐欺全体がトリエント・ミサによって表現された諸真理への嫌悪に基づいていることを示しています。しかし、公式の言説は、典礼改革は翻訳することで信者にこの真理をさらに分かりやすくすることだけを意味していると主張しています。


【問4】「トラディティオーニス・クストーデス」の適用される方法は、国や司教によってかなり異なります。教皇の文書を承認したところもありますが、実際には、そういった教区では何も変わっていません。特にイタリアでは、フランシスコの後継者となるのが誰であれ、この抑圧的な路線を維持することはできないだろうという感じはないのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】教会は、自分の気まぐれを臣民に押し付けることのできる、いかなる上位の権威からも自由であるような絶対君主に支配された社会ではありません。教会のかしらはキリストであり、キリストは教会の唯一の真の王にして主であり、ローマ教皇は、使徒のかしらの後継者であるのと同じく、キリストの代理者です。キリストの代理権を濫用し、さらに、異端の教理を提案したり異端の教理を参考にした規範を押し付けたりすることによって自らの身を使徒継承の外に置くことは、かしらであるキリストとキリストの神秘体である教会との間にあるこの本質的なつながりを消失させます。実際、教皇の代理権は、教会に対する絶対的、即時的、直接的な権限のすべての特権を享受しますが、それは、常に、「霊魂の救い」(salus animarum)という、その代理権の主要目的に適合する範囲に対して「のみ」であり、聖伝に従い、私たちの主へ忠実であるときだけです。さらに、この権限の行使において、教皇は、この目的についての非常に具体的な限度内で、常に地位に応じた特別な恩寵を享受します。これらの恩寵は、キリストと教会に反する行為をする場合には、何の効果もありません。このため、ベルゴリオの怒り狂った試みは、たとえ暴力的で破壊的であっても、否応なく破たんする運命にあり、いつか確実に無効と宣言されるでしょう。

【問5】この状況に動揺している平信徒に対して、どうするようにお勧めになりますか。

【ヴィガノ大司教】信者は神秘体の生ける肢体であり、それゆえ、その目に見える権威がキリストから受けた命令に則って行動し立法することを要求する生来の権利を持っています。この地上の権威が、御摂理の許しを得て、キリストのみ旨に反して行動し立法するとき、信者がまず理解しなければならないのは、この試練は、(まさに、信者が位階階級に従順で、自分たちに対して行われた詐欺に気がついていなかったために)信者が圧倒され、多くの信者が何十年にもわたって逸脱と偽善を誠実に信奉してきた後に、信者の目を開かせるために御摂理がお許しになった手段であるということです。信者がこのことを理解したとき、次のことに気づくでしょう。すなわち、自分たちが宝を奪われており、奪ったのは、その宝を保管し将来の世代に伝えていかなければならなかった人々であり、その人々は、その宝の価値を下げて悪質な偽物に置き換え、その後でその宝を隠した、ということです。その時点で、信者は天主の御稜威に対して、試練の時を短くしてくださるよう、また、キリストに従い、キリストに属し、キリストを愛し、キリストに完全な礼拝を捧げる最高牧者を教会に与えてくださるよう懇願することになるでしょう。

【問6】教区司祭は、聖伝の典礼に反対するローマの対策の標的かつ主要な犠牲者であるように思われますが、大司教様は、彼らにどのような助言をなさいますか。

【ヴィガノ大司教】公会議に先立つ数十年間、教会の指導者たちは、近代主義の侵入者たちによる扇動に代表される脅威が増大しているのを、よく認識していました。このため、ピオ十二世は、権力を集中させなければなりませんでしたが、彼の決定は、たとえ理解できるとしても、教会における権威が何を命令しようとも議論の余地はない、という考えを聖職者に植え付ける結果となりました。一方、教理が私たちに教えているのは、いかなる命令も無批判に受け入れることは隷属であり、真の従順ではない、ということです。クーデターを実行した者たちは、第二バチカン公会議当時、司教たちや司祭たちが受けたこのやり方によって強められ、この従順を利用して、それまでは決して考えられなかったようなことを押し付けるようになりました。同時に、公会議後の教え込みの仕事と、少数の反対者を容赦なく粛清することが、残りの仕事となったのです。

今日の状況を考えると、私たちは、公会議後の出来事を、さらに大きな客観性をもって見ることができます。また、教区の召命および修道者の召命の危機から、信者の秘跡への参加の崩壊まで、「公会議の春」の結果が今、誰の目にも明らかであることもその理由です。ベネディクト十六世による古いミサの自由化は、多くの司祭に真の典礼という貴重な宝を発見させました。彼らは、それ以前は、その宝を全く知らなかったのですが、そのミサにおいて司式司祭を「もう一人のキリスト」(alter Christus)とし、密接に変容させるという司祭職の犠牲的次元を再発見したのです。この恩寵の「奇跡」を体験した人々は、もはやそれを手放そうとはしません。ですから、私は兄弟である司祭の皆さん全員に呼び掛けます。聖ピオ五世のミサを捧げてください。そして、司祭にしていけにえであるキリストに、皆さんの司祭としての霊魂に働きかけていただき、司祭としての役務に確固たる超自然の意味を与えていただくのです。

こういった司祭の皆さんに対する私の助言は、あまりにも長い間続いてきた一連の濫用を前にして、抵抗し、堅固さを示すことです。そうすれば、使徒継承のミサをブニーニの考案したミサと同じレベルに置くことは不可能であることを理解していただけるでしょう。なぜなら、前者では、天主に栄光を捧げ霊魂を救うために、真理が明白に肯定されていますが、後者では、この世の精神を喜ばせ、霊魂を誤謬と罪の中に置き去りにするために、真理が不正に沈黙させられ、しばしば否定されているからです。このことを理解すれば、二つの儀式の間の選択(の迷い)は起こるはずがありません。なぜなら、愛徳に生かされた理性と信仰が、どちらが天主のみ旨に合致し、どちらが合致していないかを、私たちに教えてくれるからです。主を愛する霊魂は妥協を許すことはなく、天主なる浄配に忠実であり続けるために自分の命を捧げることを厭わないからです。

【問7】この危機を利用して、将来の教皇に対して、「スンモールム・ポンティフィクム」に戻るのではなく、聖伝の典礼に完全な自由を与えるよう求めるべきだと考える人々もいるようですが。そんなことが可能なのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】聖伝の典礼は、その由緒ある古さ、聖ピオ五世の教書「クオ・プリームム」(Quo Primum)、そして二千年にわたる教会による批准によって、すでに法律上(de iure)は完全な自由と完全な権利を享受しています。この自由が行使されないのは、その権威の起源であり究極の目的である天主への従順ではなく、隷属の罪によって教会の権威のいかなる決定にも無批判に従順である姿を示してきた天主の役務者の「賢明」によるものです。聖伝の典礼の完全な自由が事実上(de fact)も回復されることは確実でしょうが、この回復と同時に、天主の民の教理的、道徳的、典礼的解体の起源であることを十分に証明してきた新しい典礼を廃止することが必要でしょう。公会議の誤解と誤謬が断罪され、それとともに、そのカルト的な表現も断罪される時が来るでしょう。

【問8】新しいミサの主な欠点は何だと思われますか。

【ヴィガノ大司教】言及しなければならない三つの重大な論点があると思います。それらはカトリックの典礼を理解するという単一の問題から起こったものです。

新しい典礼の第一の欠点は、それが官僚の持つ冷笑的な冷徹さによって作成されたことです。一方、本物の典礼は、何世紀にもわたって有機的に発展し、いわば、あらゆる時代のウイルスと戦うために、免疫システムを適応させてきた調和の取れた体(corpus)なのです。大人の体(body)を無理やり子どものころに戻すことで、「本来の素朴さを回復させる」ことができると信じることは、不自然な作業であって、このことは、教会を敵【悪魔】の攻撃に対してさらに脆弱にするという意向だけを持ってこの道を歩んできた者どもの故意を明らかにしています。そして、この詐欺を企てた者どもが誰であれ彼らが非常によく承知していたことは、あらゆる身振り、あらゆる儀式、あらゆる言葉で、その誤謬を非難し、否認しているそのミサを排除することによってのみ、自らの誤謬を伝えることができる、ということです。最も異常で冒涜的な逸脱に完全な自由を与えるためのテントやキャンバスのような役割を果たすように設計されたこの典礼の「奇形物」(monstrum)を誕生させた者には、善意はありません。

第二の欠陥は、ノブス・オルドが、古い典礼を翻訳しただけのものだとされて、教会に提示されて押し付けられているという欺瞞に代表されるものです。公会議の教父たちは、「典礼憲章」(Sacrosanctum Concilium)において、ミサの朗読と教訓の部を俗語に翻訳することを認め、典文はそのままにしてラテン語で唱え、小声で発することを規定しました(こちら)(こちら)。
「(典礼憲章)実行委員会」(Consilium ad exsequendam)によって私たちのために準備されたものは、1549年のクランマーの「共通祈祷書」からそのままコピーされたように思われる儀式であり、その作者のイデオロギー的アプローチに完全に一致しています。

第三の欠陥は、主要な礼拝の対象である聖三位一体に対して、意図的に代替物を置いたことです。つまり、聖三位一体は、司式司祭とともに集う集会に置き換えられたのです。このことが今や、典礼全体を回転させる支点であり、また聖なる行為の基準点となっています。司祭を「集会の座長」とみなし、即興を奨励するために神聖さを喪失させ、犠牲の祭壇を歓談のテーブルに置き換えたのです。これらはすべて、キリストの十字架上の犠牲が血を流さない形で御父に捧げられるというミサの本質を否定する教理上の誤謬から来る帰結です。

嘘と詐欺から生まれた儀式は、一人の近代主義のフリーメーソン員【ブニーニ】によって考案され、二千年の儀式を廃止することによって無理やり押し付けられたものであり、その具体的なポイントをすべて分析する価値さえありません。ただ取り消されるべきものなのです。

【問9】教皇はなぜ、米国の司教団にこれほど敵意を抱いているのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】ベルゴリオは、米国の司教団に対してだけでなく、特に米国の信者に対しても敵意を抱いています。その理由は、この国のメンタリティーにあります。この国は基本的にはリベラルですが、まさに異なった異質な宗教と文化が共存しているため、保守派や聖伝主義者にも発言権が与えられており、彼らは実際、数的に重要で熱心で献身的な構成員となっています。米国の小教区、運動、聖伝グループは、トリエント典礼と不可欠なカトリックの教理が、どれほど信者に再発見され、高く評価される対象になっているかを示しています。一方、モンティーニの典礼が行われている教会は、信者や召命を失いつつあり、また過小評価されてはならないことですが、財政支援も失いつつあるのです。

社会的な汚名を被らずに、トリエント・ミサに「堂々と」行くことができるという素朴な可能性は、ベルゴリオにとっては聞いたことのないもの、受け入れられないものなのです。なぜなら、いわゆる「聖伝という選択肢」の成功の証拠が、進歩主義者の側の何十年にもわたる宣言や自己検閲を台無しにするからです。何千人もの信者、若者、子どものいる家族が古いミサに集まり、一貫して洗礼を受けて生きているのを見ることは、聖職者や自称カトリック政治家の金銭的・性的スキャンダルが教会を空っぽにし、世俗社会での信頼を失う一方で、医療分野では、まさにその治療を受けなかった人々が健康を享受しているために、その治療の効果がないことを証明する迷惑な「対照群」【臨床試験で比較のために新しい治療を受けないグループ。受けるのは治療群】を構成するのです。ちょうど実験的な遺伝子血清のワクチン接種が、副作用や死亡が接種者だけに影響を与えることを人々に見せないようにするために、すべての人に押し付けられなければならないように、典礼の状況においても、第二バチカン公会議という近代主義の集団ワクチン接種の失敗を示すグループや共同体が存在してはならないのです。

米国の一部の司教たちが聖伝の共同体に対して歓迎し、温かい開放性を見せていること、また政治に携わるカトリック信者の道徳的一貫性を求めて介入していることは、ベルゴリオを激怒させ、衝動的な行動と抑制を欠いた反応を起こさせました。それによって、彼の悪意と、「パレーシア」[parresia](「大胆に真実を述べること」)や、あわれみ、包括性への訴えが、完全に欺瞞であることが明らかになりました。一方、「分裂させるものではなく一致させるものを求める」、「壁をつくるのではなく橋を架ける」とのエキュメニカルな訴えを何十年も続けてきた後で、新たに誕生したロシュ枢機卿による告発――彼は総督(satrap)【教皇フランシスコ】に忠実であることから(2022年8月27日に開かれた最近の枢機卿会で)赤い帽子を与えられたばかりです――、ロシュが聖伝のカトリック信者を「プロテスタント」と定義した告発ですが、私にはこの告発が根本的な偽善を明らかにしていると思えます。なぜなら、カトリック教会は今やプロテスタントに開かれており、彼らは高位聖職者や枢機卿の前であっても聖体拝領(communicatio in sacris)を認められているのに、聖伝のカトリック信者は近代主義者によって破門された「ヴィランディ」(vitandi)、つまり避けるべき人々として扱われているからです。典礼の問題に関する最近の制限の提案者たち(その全員がベルゴリオの使者です)の知的不誠実さについての評価は、いわば人間的側面から出発するだけでも、どうしようもなく否定的になることは明らかだと私には思われます。彼らは誠実な人間ではありませんし、対話相手の理由づけを理解しようともしません。彼らは冷酷な権威主義や、ファリザイ派の形式主義、そして虚偽と嘘への傾きを示しており、公平な解決の前提とはなり得ません。

【問10】ワシントン、シカゴ、アーリントン【テキサス州】、サバンナ【ジョージア州】。なぜこれら四つの(米国の)教区の司教は聖伝のミサに対して宣戦布告をしたのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】これらの教区は、サンディエゴとニューアークは言うまでもなく、確かにワシントンとシカゴは、ベルゴリオのマジック・サークルとマカリックのラベンダー・マフィアの一部である司教たちによって管理されています。彼らの相互の共犯関係、スキャンダルを隠蔽するための行動、ディープ・ステートや民主党との関係は、彼らを昇進させ、彼らの声明と破滅的な統治行為を承認するベルゴリオの側で彼らが尊重されていることのまとめとなる重要なものなのです。

【問11】一見まとまりのないようなこれらの決定(パチャママ、レース【教皇がレース飾りのついた祭服に反対していること】と聖伝の典礼に反対する戦争、道徳的問題に対する後退など)の背後には、正確で一貫した戦略や計画の実行があるとお考えでしょうか。

【ヴィガノ大司教】聖伝のカトリック信者に対するこの容赦なき戦争行為には、戦略と戦術があること、また、その戦争行為が、キリストの教会を破壊し、それをエキュメニカルでグローバリズム的で背教的な偽物に置き換えるために、何十年もかけて考案された計画に沿ったものであることは明らかです。彼らが何の目的もなく、組織化することもなく行動していると考えるのは愚かなことです。2013年のコンクラーベのベルゴリオの選出も計画されていました。ジョン・ポデスタとヒラリー・クリントンが交わした電子メールの中で、進歩的な教皇が、教理と道徳を新世界秩序のイデオロギーに隷属させることで修正するという「教会の春」を推し進める必要性について述べていたことを忘れてはならないでしょう。ベネディクト十六世に対する行動は、彼を辞任に追い込むために計画されていました。公会議での革新主義者たちの破壊転覆的な働きは計画されていました。ベルゴリオに忠実な進歩主義者たちの行動は、シノドスで、教皇庁の部署の会議で、枢機卿会で計画されていました。一方、キリストと教会の敵どもの背後には、サタンが常に、その陰謀、欺瞞、嘘とともに隠れています。

【問12】教会の将来をどのように見ておられますか。

【ヴィガノ大司教】短期的には、教会は、ベルゴリオとその腐敗した仲間の小グループが引き起こした災難に対処しなければならなくなると思います。この「教皇職」の損害は計り知れないもので、今や素朴な人々にさえ理解されており、「信仰の感覚」(sensus fidei)によって現在の位階階級が教会と絶対的に不適合であることが明らかにされています。世俗の領域において見られる政治階級と市民の間の緊張と対立は、教会当局者と信者の間のますます深まっている緊張と対立を、鏡のように映し出しています。

しかし、長期的には、教会は、まさにこの深刻な信仰の危機から、これまで天主とマンモン、キリストとベリアル、聖ピオ五世とベルゴリオを一緒にしてきた本質的にリベラルな態度を決定的に捨て去って、自らを刷新し清める原動力を見いだすと私は信じています。私たちは、聖職者たちの妥協の意思や凡庸さ、位階階級の人間への敬いや臆病さを頼りに、「至聖所」(sancta sanctorum)にまで潜入することができた敵【悪魔】の、形が崩れた身の毛もよだつような顔を目の当たりにしました。私たちの目の前には、眠りから目覚めつつあり、進行中の歴史的な戦いを理解している非常に多くの善き司祭、修道者、信者の聖性と謙遜があります。同時に、私たちは、キリストの権威の真の管理者であると自らを提示しながら、逆にその権威を狡猾にも簒奪し、暴力をもって行使する人々の腐敗、不正直、不道徳、天主への反逆を目の当たりにしています。子どもでさえも、どちらの側につき、誰の言うことを聞き、誰から離れておくべきかを理解しています。ですから、私たちの主のみ言葉は、今日でも変わることなく有効なのです。「あなたたちが悔い改めて、子どものようにならないなら、天の国には入れぬ」(マテオ18章3節)。

 


今日、主は涙を流してエルサレムについて訴えています。「もしもこの訪問の時を知っていたならば、助かったのに。」しかしエルサレムはその涙を無視しました。

2022年09月28日 | お説教・霊的講話

2022年8月7日(主日)聖霊降臨後第十主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

お知らせがあります。8月15日は聖母の被昇天です。8月15日は月曜日ですが、主日のようにミサがあります。
日本では残念ながらそうではないのですけれども、世界中で8月15日聖母の被昇天は守るべき祝日となっています。できるだけミサに与るようになさって下さい。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は先週の主日の続き、聖霊の七つの賜物の最後、最上位の賜物である「上智」の賜物について黙想しましょう。

人となった永遠の知恵、私たちの主イエズス・キリストが私たちに対して知恵の言葉を仰って、今日の福音で仰っておられる主の御言葉を一緒に黙想して、遷善の決心を立てることに致しましょう。

聖霊の七つの賜物、それは「主への畏れ」「孝愛」それから「知識」「剛毅」「賢慮」「聡明」「上智」の七つで、聖書によると、「知恵の始まりは、主への畏れから始まるのである」と言っています。

私たちは主を畏れる、主に対して罪を犯さないように、主を悲しませることを恐れる、主への畏れ、畏敬の賜物から黙想を始めて、遂に「上智」の賜物にと到達しました。

「上智」は、別の言葉では「知恵」とも訳されています。「知恵」というのは、最も深い原因にまで辿り着いて物事を見る、ということです。

例えば医療の元でいうと、誰かが「歯が痛い」と言ったら、「もしかしたら、歯が黒くなっているから、歯が腐ったんじゃないか」と昔の人は思ったかもしれません。

しかし、もっと深い原因は何かというと、「実は、歯にはバイ菌が付いていて、その細菌が歯のエナメル質を溶かして、神経にまで行って、そして歯神経を腐らせて、あるいは…」等と説明をすることができるかもしれません。「最もその深い原因は何か、そこを解決すれば、実は虫歯は治る」と歯医者さんは言うかもしれません。

しかし医学に限らず、一体、人間は何でここに存在しているのか?一体私たちのここにいる理由は何なのか?その原因は何なのか?一体何の為に?ということを深く追求すれば追求するほど、私たちは究極の原因に辿り着きます。それが、その原因にまで辿り着くように考えることが「知恵」ということであって、知恵を愛するということです。

知恵の深い人は、究極の原因、つまり最高の善である天主にまで辿り着きます。そして全てを天主において見て、それにおいて全ての問題を解決しようとします。これこそ知恵のある、本当の知恵のある人です。もしもその目的を間違ってしまったとしたら、それは本当の知恵ではありません。偽物であって、本当の解決にはならないからです。

ですから、真に知恵のある人は、全てを天主において、真の本当の原因である本当の善において解決しようとするので、本当の秩序を生み出すことができます。「本当の秩序」というのは、これこそが「平和」のことです。

さて、私たちの主は、第二のモーゼと言われています。何故なら前兆であったモーゼを主イエズスが完成させたからです。

モーゼはシナイの山に登って、そして天主から教えを受けて、それをまた山から降って人々に伝えました。その時モーゼの顔は、天主の光を輝かせて反射させて、とても見ることができないほどだった、と旧約聖書には書いてあります。

ところが、天から降った永遠の知恵であるイエズス・キリストは、人となって、私たちに御自分の本当の知恵を伝えようとされました。そして主がなさったことは、山に登ったまま人々に教えたことです。山上の垂訓です。

「心の貧しい人は幸いである。天の国は彼らのものだからである。」
「柔和な人は幸いである。彼らは地を譲り受けるであろうから。」
「泣く人は幸いである。彼らは慰めを受けるであろうから。」
「正義に飢え乾く人は幸いである。彼らは飽かされるであろうから。」
「憐れみのある人は幸いである。彼らも憐みを受けるであろうから。」
「心の清い人は幸いである。彼らは天主を見るであろうから。」
「平和をつくる人は幸いである。彼らは天主の子らと呼ばれるであろうから。」
「正義の為に迫害される人は幸いである。天の国は彼らのものだからである。」

永遠の知恵であるイエズス・キリストは、山上の垂訓で至福八端を教えました。この最初の七つの至福は、聖霊の七つの賜物とピタリと一致して、対応しています。

主は永遠の知恵を以って、「平和をもたらす者は幸いである。彼らは天主の子と呼ばれるであろうから」と言われます。

つまり「永遠の知恵であるイエズスを持つ人、上智の賜物を持つ人こそが、平和をつくる者であって、彼らこそ天主の子と呼ばれるであろう」ということを伝えています。

では今日、私たちに、永遠の知恵は福音で何を仰っているでしょうか? イエズス様は、今日の福音では涙を流されています。

光は闇に輝いたのですが、闇はこれを受けようとしなかったからです。イエズス・キリスト、永遠の知恵は、天主の御言葉は、全てを創って、その元に来て、永遠の知恵を伝えようとしたのです。

しかし“エルサレム”「平和のヴィジョン」と訳されるこの街は、イエズス・キリストを受け入れようとしませんでした。その代わりにイエズス・キリストを除外しようと、殺害しようとさえしました。

そこで、本当の平和をもたらすイエズス・キリストを受け入れないのであれば、一体その結果、その結論として、その論理的な結論として何が起こるかということを、エルサレムは体験しなければなりませんでした。

そのことを御存知であったが故に、イエズス様は今日は涙を流されます。もしも、平和をもたらすはずのことを気が付いて知っているならば。この訪れの時を活用したならば。この御恵みを受け取って、それを利用したならば。しかし、彼らはそうしなかった。だからそれの論理的な結果が待っているだろう。恐ろしいものが待っているだろう、と仰いました。

今日、私たちにも、主は同じことを仰っています。もしも私たちが主を拒むなら、エルサレムに類する不幸な結果が待っているだろうということです。たとえば、ロシアとウクライナの衝突がエスカレートするかもしれません。核戦争なのかもしれません。全世界の共産化なのかもしれません。恐ろしいことです。不幸なことです。

では、今日は私たちはどのようにすれば良いでしょうか?

私たちには可能性が残されています、私たちには多くの希望があります、なぜかというと、私たちは主を受け入れることができるからです。

エルサレム、これは都市ですが、しかしそれと同時に、私たちの霊魂のことでもあります。私たちの霊魂が主を受け入れるか受け入れないか、私たちにはまだその可能性が残されています。エルサレムはまた私たちの隣人たちのことでもあります。私たちの愛する祖国のことでもあります。この世界のことでもあります。まだ、可能性が残されています。

アブラハムの時代には、アブラハムは天主にこう交渉しました。「もしもこの街に、ソドマとゴモラに50人の義人がいたら、その50人の為に、どうぞこの街を容赦してあげて下さい。」

すると天主は、「その50人の為に、私はこの街を罰しはしない。」つまり、エルサレムのような崩壊から免れるだろう、ということです。アブラハムは10人まで値引きを試みました。「もしも義人が10人いたら、この街は滅ぼさない。」しかし、それ以上の値引きはアブラハムはしませんでした。

私たちもですから同じように、義人がどこかで天主に祈っておられることでしょう。「主よ、この全世界をご覧下さい。もしも10人の義人がいたならば、どうぞこの世界を滅びから救って下さい」と。

私たちは、この10人の中に入ることができるように、お祈り致しましょう。そしてできる限り、私たちに憐れみを乞い求めて、更にもっと多くの人が主の憐れみに値することができることとなりますように、お祈りしましょう。これが10人でなくて、20人であれば、30人であれば、もっと効果があります。

一体、その為にはどうしたら良いでしょうか?

ファチマのマリア様は私たちにこう仰いました。
「天主はこの地上に、汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでいる。もしもそうすれば、世界には平和がやって来る」と。

ですから私たちも、できる限り聖母の汚れなき御心に対する信心を実践致しましょう。初土の信心を行ないましょう。そしてマリア様の汚れなき御心への信心を良くする為に、聖母の被昇天のミサに与るようになさって下さい。8月22日の聖母の汚れなき御心の祝日に与るようになさって下さい。また主日にはミサに与って、聖伝のミサに与って、聖母の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為に、御聖体を拝領なさって下さい。

そして私たちだけでなく、私たちの家族や隣人や知っている人々に、ぜひ聖伝のミサのことを、汚れなき御心への信心のことを、そして今この世が、この世界が直面している危機のことを伝えてあげて下さい。この世界が今までの通りにそのまま行くか行かないかは、私たちがマリア様に対する信心をするかしないかにかかっています。

今日、主は涙を流してエルサレムについて訴えています。「もしもこの訪問の時を知っていたならば、助かったのに。」しかしエルサレムはその涙を無視しました。この訴えを無視しました。そしてイエズス・キリストをあくまでも排除しようと殺害しようとしました。

私たちは彼らを真似してはなりません。何とかして、イエズス様のその涙に耳を傾けて、そして何とかしてこの世の為に、この世界の多くの方々の為にも、この世に迫り来る危険をストップをかけなければなりません。その為には、ほんの少しの人数が集まれば良いはずです。より多くの人数が集まれば集まるほど良いはずです。

ですから、どうぞ愛する兄弟の皆さん、この8月は是非、マリア様の汚れなき御心への信心の為によく時間を使うようになさって下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖なる山に登ったイエズス・キリストは、第二のモーゼとして、モーゼの前兆の現実として変容された。イエズス・キリストこそが旧約の影である脱出を実現される方。

2022年09月28日 | お説教・霊的講話

2022年8月6日(初土)イエズス・キリストの御変容のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は初土曜日ですけれども、同時に主の御変容の祝日です。そこで御変容のミサを捧げています。主の御変容の黙想を致しましょう。

皆さんもご存知の通り、イエズスは、十二の使徒たちの中から特に三人を選びました。使徒の頭である聖ペトロ、そしてヤコボとヨハネ兄弟の三人を選んで、高い聖なる山に登りました。その出来事、その時に起こったことについては、聖ペトロは一生忘れることがなく、その情景を生き生きと思い出して、晩年に手紙の中で書いています。

今日の書簡の中で読まれた聖ペトロの手紙がそれです。作り話ではない、本当のイエズス・キリストの力と、その聖なる現存について私たちは話している。私は見たその目撃証人だ。天から聖なる御父の声を、私はこの耳で聞いた。この目で見た、と書いています。

イエズスの御顔は太陽のように輝き、そして御服は雪のように真っ白になっていた、輝いた。その美しい様子を書いています。すると、主の栄光が、雲のような栄光の光がイエズスを覆い、そしてその雲の中から厳かな御父の声が響き渡ります。これは、私の愛する子である。彼に聞け。彼の言うことを聞け、と。

この話は史実は、イエズスが旧約の時代に、前兆を完成させるものとして来た、ということを如実に表しています。

旧約時代には、この来たるべき御変容の前兆として、例えばモーゼがシナイの山に登って、天主の十戒をヤーウェから受けたという前兆があります。その時にモーゼは、司祭の代表であるアーロンと、そしてモーゼの弟子である二人の兄弟ナダブとアビウの二人を連れて、聖なる山に、シナイ山に登ります。モーゼはそこで40日間断食をして、そしてその断食の後に10日後に、エジプトを脱出して50日目、そして断食をした40日目に、シナイ山の山頂で、大自然の天変地異の中で、主の栄光が山を覆い、もうこの世の終わりとも思われるような、恐ろしい大自然の現象の中で、ヤーウェの声を聞きます。そして主の十戒の石板を頂きます。

その時に、モーゼは主の栄光の光が輝いていたので、顔に輝いていたので、頭からは光線のようなものが二つ出ていて、そして人々はモーゼの顔を直視することができなかった。だからモーゼは顔の前に覆いを置かなければならないほどであった。あまりにも光線がすごかった、とあります。

しかし、やはり聖なる山に登ったイエズス・キリストは、第二のモーゼとして、モーゼの前兆の現実として、本物の姿として、輝きを反射したのみならず、御自分が天主の御子であるその輝きを、太陽のように輝き出しました。太陽のように輝いたということは、直接あまりにも眩しくて見ることができないほどの輝きであったということです。そしてその服さえも真っ白に輝いていて、光に満ちていました。

モーゼがアーロンと、そしてその弟子の二人の兄弟を伴ったように、イエズスも使徒の代表であるペトロと、二人の兄弟ヤコボとヨハネを伴いました。イエズス様も40日間断食をしましたが、そしてモーゼと同時に現れる、預言者の代表エリアも40日断食をした人でした。モーゼはシナイ山に、そしてエリアもホレブの山シナイ山に登って、主の御言葉を聞いた方でした。モーゼは死にましたが、エリアは火の車に乗って天に上げられて、生きてイエズスの前に現れました。

聖ルカの福音によると、日本語訳にはこうあります。「モーゼとエリアは、イエズスの"御死去"について話されていた。」この「御死去」というのは、ラテン語では“exitus”となっていて、このどこからか「出ること」“Exit”という意味です。ギリシャ語では、“ἔξοδος : exodos”となっていて、ちょうどモーゼがエジプトを脱出するとき、その「脱出」と同じ言葉を使っています。つまり、聖書を読んだ人は、「モーゼとエリアは、イエズスの"脱出"について、イエズスが私たちを、この死のエジプトの国から、約束の地まで導いて脱出させてくれることについて話していた、と書かれていることを読んでいました。

イエズス・キリストこそが、旧約の影である脱出を、本物の来たるべき脱出を実現されるものとして、御変容されました。

一体、その脱出の目的地はどこなのでしょうか?私たちは悪魔の奴隷状態から解放されて、一体どこに向かうのでしょうか?洗礼という紅海を渡って、そしてマンナに養われて、第二のモーゼであるイエズス様の導きで向かって、一体どこに向かうのでしょうか?

旧約では、エルサレムに向かって人々は行きましたが、私たちの究極の目的はどこなのでしょうか?

それは、天のエルサレムであって、私たちがイエズス・キリストの兄弟、天主の養子と養女となることです。つまり、天主御父がイエズス・キリストを、「これは私の愛する子」と言われたと同じように、私たちも天主の愛する子供となって、天の遺産相続に辿り着くということです。

今日の御変容は、私たちに起こるべき変容の前兆として、イエズス様がまず御自分を見せました。旧約の完成ですが、また私たちに起こるべきものの前兆として、イエズス様が御自分の御変容をお見せになりました。私たちも、同じようになります。

では、このイエズス様の神秘の中に深く入ることに致しましょう。イエズス・キリストこそが、真の救い主、真の救世主、預言されたメシア、この方以外には私たちに本当の栄光と本当の幸せを下さる方はいらっしゃいません。

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様も、旧約で預言されていた多くの前兆の成就です。マリア様の汚れなき御心の御取り次ぎによって、私たちも究極の目的地、永遠の至福に辿り着くことができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


大天使聖ミカエルがルチフェルに勝利した理由:謙遜

2022年09月27日 | お説教・霊的講話

大天使聖ミカエルの謙遜についての説教

ドモルネ神父

はじめに

9月29日には、大天使聖ミカエルの祝日をお祝いします。聖ミカエルは、マリアの汚れなき御心に次ぐ、日本の守護聖人ですから、私たちには、聖ミカエルに対して特別な注目をし、特別な信心を行う義務があります。

1.大天使聖ミカエルがルチフェルに勝利した理由:謙遜

大天使聖ミカエルは、ルチフェルと反乱の天使たちに勝利したことで、最も有名です。黙示録では、次のことが私たちに啓示されています。「そうして天に大いなる戦いが始まった。ミカエルとその使いたちは竜と戦い、竜とその使いたちも戦ったが、しかし竜は負けて、天に彼らのいるところがなくなった」(黙示録12章7-8節)。そのため、聖ミカエルは、ルチフェルに打ち勝つ力強い戦士として描かれることが、よくあります。しかし、もっと正確なのは、聖ミカエルを、ルチフェルを踏み砕く小さな子どもとして描いている御絵です。それはなぜでしょうか。聖ミカエルの祝日のミサの福音で、教会は私たちに、私たちの主の、次のみ言葉を読ませます。イエズスは、ご自分のもとに一人の子どもを呼び寄せられ、使徒たちの真ん中に立たせて、こう言われました。「だれでもこの子どものようにへりくだる人が、天の国でいちばん偉い人である」(マテオ18章4節)。聖ミカエルは、天主の御前で最も謙遜であった天使であり、その力と栄光は、すべて彼の謙遜から来ているのです。もう少し詳しく説明しましょう。

2.天使たちの試練

天主は、すべての天使たちをお造りになり、また彼らをすべて、善きものとしてお造りになりました。しかし、天主は天使たちに、すぐに天国の幸福をお与えになったわけではありません。天使たちは、天主への愛を証明することで、その幸福をいただくのに値する者とならなければなりませんでした。さて、天主を愛することは、天主の掟を守ることによって証明されます(ヨハネ15章14節参照)。ですから、天主は天使たちに、ある掟を課されましたが、その掟の正確な内容は、私たちには明らかにされていません。しかし、天主が天使たちに、天使たちには理解することのできない、ある神秘を明かされたことは確かです。そして、天主は天使たちに、その神秘を信じ、それに服従することをお求めになりました。それが天主のみ旨だったからです。

3.ルチフェルの高慢

この試練に直面して、天使たちの中で最も美しいものであったルチフェルは、高慢から、反乱を起こしました。ルチフェルは、自分が理解できないものを信じてそれに服従することを、受け入れませんでした。ルチフェルは、この神秘と、その他すべてのものを理解する力を、天主が自分に与えることを望んだのです。言い換えれば、ルチフェルは、天主が、自分を天主と等しいものにすることを望んだのです。預言者エゼキエルの次の言葉は、聖伝によれば、ルチフェルに対する天主のみ言葉であると理解されています。「私は守護の輝かしいケルブのように、おまえを置いた。…おまえは自分が造られた日から、その中に罪が見つかるまでは、完全なものだった。…おまえの心は自分の美しさにおごり、その栄華のために、知恵を失った。私は、おまえを地に倒した。…私は、おまえの中から火を噴かせた。その火はおまえを焼き尽くした」(エゼキエル28章14-18節)。ルチフェルは、高慢から、天主に敵対しました。ですから、彼の高慢は、この一文にまとめられます:「私は仕えない」(エレミア2章20節参照)。

4.聖ミカエルの謙遜

ルチフェルの高慢の対極に、大天使聖ミカエルの謙遜があります。天主が天使たちに示された神秘と掟に直面したとき、聖ミカエルが、最も完璧に服従した天使でした。聖ミカエルは、自分が、創造主に依存する被造物であるという状態を、完全に認識していました。聖ミカエルは、本来自分のものではない卓越性を、自分が持っているかのように振る舞おうとはせず、自分自身の限界と、天主の超越性を認めました。聖ミカエルは、自らを、完全に天主のみ旨に委ねたのです。言い換えれば、聖ミカエルは、天主の御前に完全に謙遜であることを選んだのです。ですから、この完全な謙遜の行いが、まさに彼の名前となったのです。「ミカエル」とは、ヘブライ語で、「だれが天主のごとき者か」という意味です。

5.ルチフェルと聖ミカエルの戦い

聖ミカエルとルチフェルの戦いは、ルチフェルの「私は仕えない」と、聖ミカエルの「だれが天主のごとき者か」との戦いです。ルチフェルは、このように言いました。「私が理解できないことは、信じたくない。天主に、私を他の者より劣った者としてほしくない。他の者に仕えたり、従ったりしたくない。私は、天主のような者になりたい」。それに対して、聖ミカエルは、このように答えました。「だれが天主のごとき者か。あなたは、天主と等しい者になるなどと、なにをうそぶくのか。あなたを偉くさせているのは、いったいだれなのか。あなたの持っているもので、もらわなかったものがあるか。もらったのなら、なぜもらわなかったもののように誇るのか(コリント前書4章7節)。天主のみが、すべての賜物を与えられ、み旨のままに、おのおのに分け与えられるのである(コリント前書12章11節)。栄光と誉れと力は天主のものである。それは天主がすべてのものを創造なさったからであり、天主のみ旨によって、すべてのものは創造されたのである(黙示録4章11節)」。

天主は、この謙遜の行いに対して、直ちに聖ミカエルに報われました。聖ミカエルを、すべての天使の上に上げられ、ルチフェルとすべての反乱の天使たちを倒す力を、彼にお与えになったのです。こうして、聖ミカエルの勝利がもたらされたのです。それは、聖母の次のお言葉の通りです。「天主は、おごる思いの人々を散らし、権力者をその座から下ろし、低い人々を高め(られます)」(ルカ1章51-52節)。

結論

親愛なる信者の皆さん、聖ミカエルの強さは、彼の謙遜にあります。謙遜の徳は、自分が卓越しようという、歪んだ欲望を抑えることにあります。具体的に言えば、謙遜であるということは、次のようなことです。自分が天主に依存していることを認識すること、天主の法に従うこと、天主の正当な代理者を尊敬し、彼に従うこと、困難なときに落胆しないこと、自分の過ちを認め、赦しを請い、忍耐強く罰を受けること、イエズス・キリストの助けなしには、自分は何も善いことができないことを認めること、他人が自分よりもいかに優れているかを認め、それゆえに、自分自身よりも他人に配慮すること、です。

謙遜は、高慢なルチフェルに打ち勝って天国に行くために、必要な聖徳です。聖アントニオは、あるとき、地上全体が数多くの網で覆われ、その網で、悪魔たちが多くの霊魂を捕らえ、地獄に引きずり込んでいるのを見ました。聖人はおびえて、こう叫びました。「主よ、だれが、これほど数多くの網から逃れることができるのでしょうか」。「謙遜な者である」というのが、天主のお答えでした…。

謙遜で力ある聖ミカエルが、私たちの模範、守護者、そして天国への導き手となってくださいますように。

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結婚についての説教:結婚の三つの善、すなわち、子ども、忠実、秘跡

2022年09月27日 | お説教・霊的講話

結婚についての説教:結婚の三つの善、すなわち、子ども、忠実、秘跡

ドモルネ神父

はじめに

ヨゼフとマリア、今日、あなたがたお二人は、結婚されます。お二人は、結婚の三つの善、すなわち、子ども、忠実、秘跡を受けることになります。この三つの善は、お二人の人生を変えるものです。そのことを説明しましょう。

1.子ども

結婚とは、第一に、一人の男性と一人の女性との間の契約です。この契約は、他のあらゆる契約と同様に、特定の目的のために行われるものです。さて、私たちが結婚する主な目的は、子どもをもうけ、育てることです。天主は、アダムとエワを創造された後、二人を結婚で結ばれ、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記1章28節)という掟を与えられました。今日、天主は、あなたがたお二人、ヨゼフとマリアを、新しい人間の創造における、正当な恊働者とされるのです。つまり、お二人が子どもたちの肉体をつくり、天主がその子どもたちの不滅の霊魂を創造されるのです。

天主は、お二人に、大きな責任を与えられます。天主は、新しく生まれる子どもたちに永遠の幸福の可能性を与えることを、少なくとも部分的には、お二人に依存するようになさるのです。寛大であってください。利己的な理由で、子どもを欲しがらなかったり、子どもの数を制限したりする夫婦にならないでください。大天使ラファエルが、結婚について、若いトビアに語った言葉を思い出してください。「あなたは主への畏れをもって、欲望よりも、むしろ子らへの愛のために、娘に近寄るだろう。それは、あなたの子らの上に、アブラハムのすえの祝福を得るためである」(トビア6章22節)。

子どもを育てること、20から25年にわたって子どもの面倒を見ることは、長く困難な仕事です。しかし、両親が子どもたちに、真理を学び、本当に良いものを愛し、自らの自由を正しく使って正しいものを選ぶことを教え、また子どもたちの弱点を矯正して、子どもたちの良い部分を強化するのを助けることは、何と素晴らしいことでしょうか。両親が、自分たちの最良の部分を子どもたちに伝え、そうすることによって、肉体的にだけでなく、精神的にも、子どもたちのうちに自分自身を継続させてゆくというのは、何と素晴らしいことでしょうか。これこそが、教育の大きな課題であり、その仕事の難しさであると同時に、多くの喜びの源でもあるのです。

2.忠実、あるいは相互の助け合い

結婚の第二の善は、「忠実」と呼ばれるものです。これは、配偶者が互いに忠実に行う、相互の助け合いを意味します。天主はこう言われました。「人間が一人きりでいるのはよくない。私は、彼に似合った助け手を造って与えよう」(創世記2章18節)。また、伝道の書では、聖霊がこう言っておられます。「一人きりより、二人でいる方がよい。二人一緒という有利な点があるのだから。どちらかが倒れても、片方がそれを助け上げる。一人きりで倒れたら、不幸なことだ、助け上げてくれる人がいないのだから…そして、一人の場合は倒されても、二人でなら、抵抗できる。三本よりの綱は、簡単には切れない」(伝道4章9-12節)。

ヨゼフとマリア、あなたがたお二人が結婚されるのは、この地上での生活の間、天主の掟を守れるよう互いを助け合うため、そしてそれによって、死んだ後、天国に行けるようになるためです。二人の間の結び付きは、友情の愛に基づいていなければなりません。友情の愛とは、友人の善を、それが自分のためであるかのように、それを望み、そのために働くことです。結婚とは、二人の間の友情を育むために築く、新しい土台のようなものです。これから、二人は、この友情を築き上げ、それをますます強め、より質の高いもの、より聖なるものとしてゆくのです。

確かに、二人の結婚生活には、個人的な困難、家庭的な困難、仕事上の困難など、さまざまな困難が待ち受けているでしょう。しかし、二人は、それらすべての困難に対して、しっかり力を合わせ、一緒に立ち向かうことによって、それを克服するだけでなく、それらの困難が、二人のお互いへの愛を強める機会となることでしょう。自分たちの結婚を成功させるという意志を持ってください。お互いへの友情を育み、成聖の恩寵によって愛徳を自分の霊魂の中に保ち、その愛徳を損なうような言葉や、態度や、行動を、注意深く避けるようにしてください。

3.秘跡

結婚の第三の善は、婚姻の秘跡です。実際、キリスト教徒の結婚は契約であるだけでなく、秘跡でもあります。秘跡とは何でしょうか。秘跡とは、私たちの霊魂の中に恩寵を生み、あるいは増やすために、私たちの主イエズス・キリストが制定された、外的なしるしです。結婚はしるしです。では、何のしるしなのでしょうか。結婚は、私たちの主イエズス・キリストと、イエズス・キリストの教会の間の、神秘的な結び付きのしるしです。ヨゼフとマリア、キリストとその教会の間の結び付きと関係が、あなたがたお二人の結び付きと関係の模範です。

キリストが、ご自分の教会のためにご自身を捧げられたように、ヨゼフ、あなたはマリアとあなたがたの子どもたちのために、自分を捧げなければなりません。私たちの主イエズスは、ご自分の教会のリーダーであり、ご自分の教会に天主の神秘を教えられ、ご自分の教会を天国に導かれ、ご自分の教会の救いのために十字架上で亡くなられ、ミサを通してご自分の犠牲を継続なさっています。同様に、ヨゼフ、あなたは家族のリーダーであり、家族の宗教教育の面倒を見、信仰の実践において家族を導き、家族が天国へ行けるように、あらゆる手段を尽くして助けなければなりません。あなたは自分を犠牲にし、家族のために死ぬ覚悟を持つところまで、妻と子どもたちを愛さなければなりません。

教会がキリストに自分を捧げるように、マリア、あなたは、ヨゼフに自分を捧げなければなりません。教会はキリストを愛し、キリストが愛されることを望みます。教会は、地上におけるキリストの王権の拡大のために働きます。キリストの栄光が教会の栄光であり、教会の最大の喜びは、人々を、キリストを通して、天主の子とすることです。同様に、マリア、あなたは、夫が責任を持つことについて、夫を助け、支えなければなりません。あなたの夫の栄光が、あなた自身の栄光です。あなたは夫を愛し、夫が他の人々、特にあなたがたの子どもたちから愛されるようにしなければなりません。あなたの最大の喜びは、あなたの夫のために子どもたちを生むこと、そして、夫と協力して、子どもたちを、この世においても、永遠においても、天主の子とすることです。

結論

締めくくりに当たって、ただ、こう申し上げたいと思います。ヨゼフとマリア、私たちの主イエズスは、婚姻の秘跡を通して、今日、そしてお二人の結婚生活の間中、自分の子どもたちを教育し、お互いへの愛を育み、そして、キリストとキリストの教会の結び付きを示すにふさわしい者となるために必要なあらゆる恩寵を、お二人に与えてくださいます。私たちの主イエズスは、いつもお二人のそばにいらっしゃいます。お二人は、私たちの主イエズスと、主イエズスが最も愛される御母を、お二人の新しい家庭の王、および元后としてください。

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カトリック聖伝のミサ報告 聖ピオ十世会 Traditional Latin Mass SSPX Japan

2022年09月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2022年9月25日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計115人でした。大阪では27人、名古屋では24人(子供たちは3人)でした。東京でも名古屋でも新しい方々が来られて大変幸福でした。

9月23日には、婚姻の秘跡によって新しいカトリックの家庭が生まれました。全てのお恵みを天主に感謝いたします。婚姻のミサに来られた方は、子供達も入れて合計68人でした。

【報告】【2022年9月23日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the marriage mass in Tokyo today. The total number of attendees at the mass was 68 including children.

M: 32 (incl. 6 children)
F: 36 (incl. 9 children)
Total: 68 (incl. 15 children)

【報告】【2022年9月25日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 115 including children.

09:00 mass
M: 23 (incl. 3 children)
F: 28 (incl. 5 children)
Total: 51 (incl. 8 children)

11:30 mass
M: 27 (incl. 6 children)
F: 41 (incl. 5 children)
Total: 68 (incl. 11 children)

Total of 2 masses (excl. 4 people who participated in multiple masses)
M: 47 (incl. 9 children)
F: 68 (incl. 10 children)
Total: 115 (incl. 19 children)


[水腫]の霊的な意味|悪魔でさえ情欲の罪を軽蔑します。本当の改悛の心がなく「どうせ告解するから」と同じ罪を平気で犯し続けるのは・・・

2022年09月24日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年9月25日は聖霊降臨後第16主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第16主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


ヴィガノ大司教の童貞聖マリアの七つの御悲しみの祝日についての黙想

2022年09月23日 | カトリックとは

ヴィガノ大司教の童貞聖マリアの七つの御悲しみの祝日についての黙想

2022年9月15日(木)

VIGANÒ MEDITATION On the Feast of the Seven Dolors of the Blessed Virgin Mary

カルロ・マリア・ヴィガノ

Iuxta crucem tecum stare
Et me tibi sociare
in planctu desidero.
われ十字架の側(かたわら)に御身と立ちて、相共に歎かんことを望む。

教会が、御悲しみの至聖なる童貞マリアの七つの御悲しみをお祝いするこの荘厳な日、私の黙想は、聖画において聖母の汚れなき御心を貫く七つの剣で象徴される「七つの御悲しみ」について考察します。私は、聖母がその母にして元后である教会で起こっている出来事に関連して、その御悲しみを観想したいと思います。しかし、これだけではありません。聖母は教会のかたどりであり、私たちが天主の御母について語ることはすべて、何らかの形で小羊の花嫁【教会】にも適用され得るのです。このことは、両者の凱旋と栄光だけでなく、両者の悲しみとキリストの贖いにおけるご受難への参加にも当てはまります。

I. 聖母、神殿でシメオンの預言を聞き給う

「この子は、イスラエルの多くの人が、あるいは倒れあるいは立ち上がるために、逆らいのしるしとして立つ人です。そうして、多くの人のひそかな思いが明らかにされるのです。あなたの心も、剣で貫かれるでしょう」(ルカ2章34-35節)。これはシメオンが聖母に語った言葉ですが、その言葉の中には、天主なる救い主の贖いのご受難と、至聖なる御母の共贖があります。しかし、この言葉は、「多くの人が、あるいは倒れあるいは立ち上がるために、逆らいのしるし」である教会にも当てはまります。教会もまた、「キリストの苦しみの欠けたところ」(コロサイ1章24節)、新しいイスラエル、「異邦人を照らす光」(lumen ad revelationem gentium)、山の上にある町、新しいエルザレムにおいて、神秘体に参加しているのです。

このため、教会の子である私たちも、小羊の花嫁、すなわち、「異邦人の元后」(Domina gentium)となる運命にある教会が、闇の中を歩む者たちによって永遠のみ言葉【キリスト】のように拒絶されてカルワリオを昇るのを見て、私たちの心が貫かれるのを感じるのです。「世はそれを認めなかった」(et mundus eum non cognovit)(ヨハネ1章10節)、「その人々は受け入れなかった」(et sui eum non receperunt)(ヨハネ1章11節)。そして、天主の御母が、私たちの主が取りやめようとは望まれなかった辱めを免れられたとしても、それにもかかわらず、神秘体は、そのかしらがそうであったように、新しい最高法院(サンヘドリン)によって鞭打たれ、辱められるのがふさわしいのです。

Quis est homo, qui non fleret,
Matrem Christi si videret
in tanto supplicio?
キリストの御母のかく悩み給えるを見て、たれか涙を注がざる者あらん。

II. エジプトへの逃避

ヘロデの迫害を前にして、聖母と聖ヨゼフは、幼子イエズスを救うためにエジプトへと逃避されます。ヘロデの殺人的な怒りから主を守り、隠すために、お二人は家も活動も、親族も友人もすべて捨てられます。御子の命が脅かされるのを目の当たりになさった聖母の御悲しみを想像してみましょう。異国の地、異教徒の中に追放の身となり、妻と幼子イエズスだけになった聖ヨゼフの心配を想像してみましょう。

私たちも、迫害されたキリスト信者と同じように、主が犠牲を永続される手段である司祭職と聖なるミサとを守るために、追放・逃避を余儀なくされ、家と愛する人たちから離れなければならないという、千の未知に直面しなければなりません。私たちは教会、修道院、神学校からでさえも逃げ出さなければならないことにさえ気づきます。なぜなら、新しいヘロデは自分を非難する「逆らいのしるし」を排除しようとし、それをエキュメニカルかつエコロジカルで汎神論の人類教で置き換えようとしているからです。キリストのいないキリスト教、超自然の霊魂のない司祭職、犠牲でないミサです。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心を貫くこの剣は、私たちの心をも貫くのです。しかし、エジプトへの逃避が比較的短かったように、私たちの逃避もまた短くて済むでしょう。私たちは、天使が、聖ヨゼフに告げた言葉を私たちに繰り返すのを待っています。「起きよ。子どもとその母を連れて、イスラエルの地に帰れ。子どもの命を奪おうとした者どもは死んだ」(マテオ2章19-20節)。

Tui Nati vulnerati,
tam dignati pro me pati,
pœnas mecum divide
わがためにかく傷つけられ、苦しみ給いたる御子の苦痛を、われに分かち給え。

III. 私たちの主の神殿での発見(主を見失う)

過越祭をお祝いするためにエルザレムに行かれた聖母と聖ヨゼフは、巡礼団に加わって家に向かわれますが、イエズスが自分たちとも親族とも一緒におられないことに気づかれます。三日間捜してエルザレムに戻ると、イエズスが、神殿で律法の学者たちと一緒におられ、旧約聖書のメシア預言を解き明かそうと熱中して、ご自分のことを啓示なさっているのを発見されます。マリアとヨゼフは、大天使ガブリエルが、「それは偉大な方で、いと高きものの子と言われます。また、その子は、主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その国は終わることがない」(ルカ1章32-33節)と告げたお方を失った恐怖で、どれほど苦悩なさったことでしょうか。神殿で少年イエズスを発見なさった時のお二人の喜びは大きかったに違いありませんが、「いつも彼らに従った」(subditus illis)(ルカ2章51節)はずの御子が、ご自分たちのそばにおられなかった苦悩の三日の間、本当にぞっとするような恐怖にさいなまれたことでしょう。このような非常に人間的で真正な反応を前にして、私たちは、自分の罪のせいでイエズスを失い、イエズスご自身の召命に従わずに自分の霊魂の住居(すまい)を汚して不潔なもので満たしたために、イエズスが私たちから離れていかれるとき、私たちの態度はどうあるべきかを自問すべきです。

教会が置かれている現状を見てみましょう。教会の中に入って、現存のしるしであるご聖櫃の近くで燃える赤いランプをむなしく探すとき、マグダラのマリアの言葉(ヨハネ20章13節)を繰り返す尊者ピオ十二世の「預言」[1]の言葉とともに、「彼らが主をどこに持って行ったのか分からないのです」と、私たちは自問することができるでしょう。

改革された典礼の儀式に参加して気が付くことは、「集会の司会者」が高められていたり、信者の祈りを読み上げる神殿の熱狂者の役割があったり、ベールをかぶらない修道女が尊大にご聖体を配ったりしていることです。しかし、ご聖櫃のベールの下に現存なさっているご托身された天主、王の中の王、天主なる贖い主に対しては、ふさわしい場所もなく、中心に置かれることもなく、注意を払われることもないのを見るとき、「彼らが主をどこに持って行ったのか分からないのです」と、私たちは自問します。

昨日まで古代の儀式による典礼の挙行が保証されていた教会に入るとき、その代わりにプロテスタントのテーブルや、空っぽのご聖櫃の前に置かれた司式司祭の椅子があるのを見て、「彼らが主をどこに持って行ったのか分からないのです」と、私たちは自問します。「私たちは心配してあなたを捜していたのですよ」(ルカ2章48節)。

では、主はどこにおられるのでしょうか。主は神殿におられます。小さな隠れ家のような教会に、個人の礼拝堂に、屋根裏や納屋に設置された仮設の祭壇に。私たちの主が好んで留まられるところ、それは、主のみ言葉に心と精神を開いて主によって癒やされるがままにする人々と共に、また、私たちが主を見ることを阻むような霊魂の盲目を癒されるがままにする人々と共におられるのです。「なぜ私を捜したのですか。私が私の父のことに従事すべきだと知らなかったのですか」(ルカ2章49節)。私たちが、主を見つけられず、苦悩と絶望に浸っているとき、私たちは自分のこれまでの足取りをたどり、主が私たちを待っておられるところを探さなければなりません。

Fac, ut ardeat cor meum
in amando Christum Deum,
ut sibi complaceam.
わが心をして、天主たるキリストを愛する火に燃えしめ、一(いつ)にその御心に適わしめ給え。

IV. 聖母、十字架を担われるイエズスに出会い給う

V. 聖母、十字架のふもとにただずみ給う

VI. 聖母、イエズスの十字架刑と死を目撃し給う

聖母と教会には、もう一つの悲しみがあります。それは、私たちの主が鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架を担われ、侮辱され、叩かれ、唾をかけられるのを見ることです。一方には悲しみの人、他方には「悲しみの御母」(Mater Dolorosa)。御母は、「なれかし」(Fiat)以来用心深く守られてきた御子のご神性について知っておられるがゆえに、帝国権力の臆病な共犯者である大司祭と律法学士に扇動されたご自分の民によって、ユダヤ人の王が殺されるのを(聖母が)ご覧になるとき、その御心は引き裂かれるのです。「その子は、主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その国は終わることがない」(ルカ1章32-33節)。

ダヴィドの王座を見てください。ヤコブの家の国を見てください。御父は、アダムの罪によって壊された秩序を回復させ、私たちの先祖の無限の過ちを償うために、聖霊の愛のうちに、御子という供え物を受け入れてくださいます。Regnavit a ligno Deus(天主は木から統治し給うた)と、私たちは聖歌Vexilla Regis(王の御旗は)で歌います。茨の冠をかぶせられ給うたキリストが統治しておられるのは、まさに十字架からなのです。

しかし、民の過ちと罪を象徴的に負わされた贖罪の身代わりの山羊が軽蔑の対象となり、エルザレムの城壁の外で死ぬように送り出されたとすれば、世の罪を自ら負われて、ご自身の御血でその罪を洗い流すために、エルザレムの城壁の外にあるカルワリオ山の上で死なれることがないとすれば、その身代わりの山羊をただの前表に過ぎないものとされるお方を、ほかにどんな運命が待ち受けていたというのでしょうか。【死のほかにあるはずがありません。】天主の御母は、ご自分の御子が辱めを受けて死に至らしめられるのをご覧になった御悲しみにより、「共贖者」という称号を得られました。「このように、彼女は苦しみにより、死にゆく御子と共にほとんど死んだかのようになり、このように、人間の救いのために、彼女は御子に対する母としての権利を放棄し、天主の正義をなだめるために、御子をいけにえとして捧げたのです。その結果、彼女は、キリストとともに人類を贖ったと正しく言うことができるのです」(教皇ベネディクト十五世、使徒的書簡「インテル・ソダリチア」[Inter Sodalicia])。

聖母と聖ヨハネとともに、まさに十字架のふもとで始まった教会も、主のご受難を観想する中で、大きな悲しみを味わわなければなりませんでした。

天主の恩寵によって洗礼を受けて教会の息子や娘になった私たちも、ご聖体にましますイエズスが、ご自身の役務者によってどのように扱われておられるかを見て、心を貫かれています。何故なら主は、「積極的な参加」(actuosa participatio)の自己中心的な人々とエキュメニカルな対話の狂信者たちとを見えなくさせる邪魔な客として扱われているからです。

私たちは、位階階級の最高指導者たちが、キリストの神性、秘跡におけるキリストの現存、聖なる犠牲の四つの目的【礼拝、感謝、祈願、償い】、そして永遠の救いのための教会の必要性を否定するのを聞くとき、心が引き裂かれるのを感じます。なぜなら、これらの誤謬、これらの異端、これらの愚かな嘘の中に私たちが読み取るものは、キリストの敵どもに対する臆病さや不愉快な卑屈さだけでなく、キリストが制定なさった目的に反して、簒奪した行政権を維持するために、世俗の権威に頼ろうとさえする最高法院(サンヘドリン)の、同じ悲痛で偽善的な態度だからです。教会の権威が倒錯していることは、あたかも息子が母親の姦淫や父親の裏切りを目撃するかのように、存在し得る最も残酷で悲痛なものなのです。

Cujus animam gementem,
contristatam et dolentem
pertransivit gladius.
歎き憂い悲しめるその御魂は、鋭き刃もて貫かれ給えり。

VII. 聖母、十字架から降ろされしイエズスの御体を両腕に受け給う

いと高き御者の御子をご胎内に宿され、天使の聖歌隊に囲まれながら、みすぼらしいまぐさ桶に御子をお生みになった聖母は、今や汚れなきいけにえの保護者として、救い主の亡骸を御腕に受けなければなりません。赤ん坊のとき、そして少年のときに何度も胸に抱かれた御子の成人した御体を抱かれるときの、聖母の深い沈黙の痛みはいかばかりだったでしょうか。すべての使徒が逃げ去った後も、信仰を持ち続けておられた聖母にとって、命が全く去った主の手足は、さらに重く感じられることでしょう。ロレトの連祷の祈りで私たちが唱える「きずなき御母」(Mater intemerata)、この御母は、恐れを知らず、御子のためなら何でもされる覚悟をお持ちです。

新秩序という地獄の世界は、この御母を、消すことのできない憎しみをもって憎んでいます。この御母に、天主への愛のため、天主への愛から来る隣人への愛のために御自らをいけにえとする覚悟をお持ちである、無敵の愛徳の力を見ているからです。この背教の世界は、母性のイメージそのものを堕落させ、子どもの命を守るべき者を冷酷な殺人者にすることによって、「きずなき御母」を取り消そうとし、罪、慎みのなさ、不純さで、「いと潔き御母」(Meter purissima)を崩壊させ、女性らしさを醜くさせて、その品位を落とすことで、すべての女性から「愛すべき御母」(Mater amabilis)を思い起こさせるものを取り去ろうとしているのです。

今日、教会は、世俗化したメンタリティーに服従させられて、また童貞性を忌み嫌い、夫婦の聖性をあざ笑い、家族を解体し、男女の平等に対する歪んだ権利を主張する、反抗的な女性を高めることで、御悲しみの聖母とともに苦しんでいます。今日、位階階級は、至聖なるマリアの凱旋について沈黙し、代わりにパチャママという卑劣な地獄の偶像において母なる大地を崇拝しています。そのわけは、聖母と教会はサタンの最大の敵であり、聖母と教会はユダヤ人を恐れて高間の家に集まっている小さな群れの守護者であるからです。

私たちは、私たちのこれらの苦しみをお捧げし、それを教会と、御悲しみの聖母なる至聖なるマリアの御苦しみと一つにし、ちょうど三日目に、番兵が眠っているときに教会のかしらが復活なさったように、キリストの神秘体である教会の凱旋を目撃する特権を私たちに与えてくださるよう、天主の御稜威に請い願いましょう。そうなれば、私たちは、御悲しみの聖母が再び元后の衣をまとわれ、永遠のマグニフィカトを唱えられるのを、見ることになるでしょう。

Fac me cruce custodiri
morte Christi praemuniri,
confoveri gratia.
われをして十字架によりて守まれ、キリストの死によりて保護され、恩寵によりて恵まれるようになし給え。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年9月15日
童貞聖マリアの七つの御悲しみの祝日

[1] http://www.itreamoribianchi-araldidelvangelo.com/fatima-verra-un-giorno-la-profezia-ritrovata-di-pio-xii/

 

Méditation en la fête des Sept Douleurs de la Bienheureuse Vierge Marie, par Mgr Viganò

En ce jour solennel, où l’Église célèbre la Bienheureuse Vierge Marie des Douleurs, ma méditation aura pour objet les Sept Douleurs

medias-presse.info

 

 


聖母はシメオンの預言のためにイエズスのご受難といけにえのあらゆる恐怖を常に先取りして生きなければならなかった。聖母は、謙虚かつ寛大に天主のみ旨を受け入れられた

2022年09月23日 | お説教・霊的講話

聖母の第一の御悲しみについての説教

ドモルネ神父

はじめに

この前の木曜日には、童貞聖マリアの七つの御悲しみの祝日をお祝いしました。この七つの御悲しみとは、聖なる人シメオンの預言、エジプトへの逃避、エルザレムの神殿でのイエズスの喪失、十字架を担ってカルワリオへ歩いていかれるイエズスとの出会い、十字架刑、イエズスの十字架降下、イエズスの埋葬です。聖母は、そのご生涯において、7回以上の苦しみを味わわれました。しかし、7という数字は、完全や完成を意味する神聖な数字です。ですから、教会はこの七つの主要な御悲しみを選び、それらを通して、マリアのすべての苦しみをたたえるようにしたのです。今日は、この七つの御悲しみのうち、第一の御悲しみについて、少しお話しします。

1.第一の御悲しみ:聖なる人シメオンの預言

聖母の第一の御悲しみは、聖なる人シメオンの預言です。イエズスのご誕生後、マリアとヨゼフは、モーゼの律法に従って、エルザレムの神殿に行かれ、そこでイエズスを奉献なさいました。お二人は、聖なる人シメオンにお会いになり、シメオンは、幼きイエズスを腕に抱いて、こう言いました。「この子は、イスラエルの多くの人が、あるいは倒れ、あるいは立ち上がるために、逆らいのしるしとして立つ人です」。また、マリアに、こう付け加えて言いました。「あなたの心も、剣(つるぎ)で貫かれるでしょう」(ルカ2章34-35節)。

この預言が、なぜ、童貞聖マリアにとって、大きな苦しみの原因となったのでしょうか? なぜなら、それ以来、マリアは、この預言のために、ご自分の子であるイエズスのご受難といけにえのあらゆる恐怖を、常に、先取りして思い描きながら、生きてゆかねばならなくなったからです。聖母は、救い主の御苦しみについての聖書の預言をよくご存じでした。マリアは、愛らしいご自分の子を見るたびに、その御子がご受難のひどい拷問を受けておられるのを、ご覧になっていたのです。マリアの母としての御心は、常に悲しみで引き裂かれていたのです。このことは、皆さんのうちで母親である方々には、簡単にご理解いただけると思います。

この御悲しみの中で、聖母は、どのような態度を取られたでしょうか? 聖母は、謙虚かつ寛大に、天主のみ旨を受け入れられました。世の贖いのために天主が選ばれた道は、苦しみの道です。聖母は、この道を歩むことを受け入れられました。エルザレムの神殿で、またご生涯を通じて、聖母は、お告げの日に言われたことを、繰り返しておられました。「われは主のつかいめなり。仰せのごとくわれになれかし」(ルカ1章38節)。聖母は、天主への愛から、私たちの主イエズスへの愛から、そして私たち全員への愛から、そうなさったのです。

2.キリスト教徒の苦しみ

地上の生活での苦しみを受け入れるという、そのような覚悟を、私たちももたなければなりません。キリスト教徒であるということは、苦しみを通して、贖いのみわざに参加することです。私たちの主は、聖パウロについて、こう言われました。「私の名のために、どれほど苦しまねばならぬかを、私は彼に教えよう」(使徒行録9章16節)。そして、聖パウロは後に、聖ティモテオにこう言いました。「キリスト・イエズスにおいて敬虔に生きようとする者は、しいたげられる」(ティモテオ後書3章12節)。これは、私たち一人一人に当てはまることです。私たちは、この現実を寛大に受け入れなければなりませんし、この現実を恐れてはなりません。なぜなら、キリスト教徒の苦しみ、つまり、私たちの主や聖母と同じ精神で受ける苦しみは、私たちを押しつぶすどころか、私たちを高貴な者とするからです。この苦しみは、私たちの中に、天主と隣人への真の愛を育んでくれます。この苦しみは、私たちを高慢と利己主義から、自由にしてくれます。この苦しみは、私たちを罪から、そして地獄から、自由にしてくれます。この苦しみは、私たちが、天国という永遠の報いを得られるようにしてくれるのです。

キリスト教徒であるということは、天主のご計画に従って、自分の人生における苦しみを受け入れることを意味します。また、キリスト教徒であるということは、個人の生活や家庭生活から、キリスト教の理想と相容れないすべての事、快適さ、態度、人間関係を排除することを意味します。ですから、キリスト教徒であるということは、真の自己否定を意味します。それは、ある程度の苦しみをもたらすかもしれませんが、その自己否定が、永遠という、素晴らしい実を結ぶのです。私たちの主のみ言葉を思い出してください。「私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、妻、子、土地を捨てる者は、みなその百倍のものを受け、永遠の命を受け継ぐであろう」(マテオ19章29節)。

3.幸福の幻想

私たちの主イエズスと聖母は、私たちがお二人に従ってカルワリオへ行き、そこから永遠の幸福に至るよう、招いておられます。その反対に、サタンと、イエズス・キリストのこの世の敵は、私たちがイエズスとイエズスの十字架を拒絶し、苦しみから逃れ、自分の欲しいものを何でも手に入れるよう、煽(あお)り立てます。彼らは、快楽や富や人間的な栄光を通して、私たちに幸福を約束するのです。これは幻想であり、これに屈する人々は、永遠の不幸に陥ります。この真理をよく表しているのが、次の物語です。

聖ウルフラムは、7世紀の司教で、ヨーロッパ北部の使徒でした。当時、この国の支配者だったラドボド公は、異教徒で、偶像を崇拝していました。しかし、聖ウルフラムの説教によって、彼はその信仰を揺るがされ、キリスト教徒になろうと考えました。その時、悪魔が、彼の改宗を止めようとしました。悪魔は、額に宝石の冠をつけ、金で編んだ豪華な衣服に身を包んで、夢の中で、ラドボド公の前に現れました。悪魔は、彼にこう言いました。「人間の中で最も強い者よ、おまえを誘惑して、おまえの先祖たちが崇拝していた神々を捨てさせようとまでしたのは誰だ?おまえの先祖たちの宗教に、忠実であり続けよ。そうすれば、おまえは最も立派な宮殿を手に入れるであろう。キリスト教徒たちも、おまえに、永遠の光の宮殿を約束する。しかし、それを見せるよう、彼らに頼んでみよ!...彼らは、それをおまえに見せることができないであろう。その反対に、おまえのしもべの一人を、キリスト教徒の一人と一緒に送れば、私自身が案内人となり、おまえのために用意したものを、彼らに見せてやろう」。ラドボド公は、目を覚ますと、すぐに聖ウルフラムを呼びだし、その夢のことを話しました。聖ウルフラムはすぐに、悪魔がこの君主の改宗を阻むために策略を巡らせていることを理解しました。そこで聖ウルフラムは、この危険な幻想を信じないで、急いで洗礼を受けるようにと勧めました。しかし、ラドボド公は、悪魔が提案したように、つまり、すぐに天国を垣間見させてもらうように頼むのだと言って、ゆずりませんでした。司教は、ラドボド公があまりに頑なであるのを見て、他の異教徒たちも同じようにだまされることを恐れて、ラドボド公のしもべと一緒に助祭を送り、サタンの約束を確認させることに同意したのです。

町の門で、二人の使者が一人の男を見つけると、その男は、二人にこう言いました。「では、おいでください。ラドボドの先祖たちの神がラドボドのために用意した宮殿をお見せしましょう」。二人が長い間歩くと、二人の前に広々とした立派な大通りが現れました。その大通りの先には、宝石を敷き詰めた大きな中庭がありました。そこから二人は、豪華な家具や装飾品で飾られている、大理石と金でできた宮殿に入りました。一番豪華な部屋には、その輝きと富においてすべてを凌駕するような玉座がありました。案内人は二人の使者に、「ご覧ください。これが、ラドボドの神が死後に与えてくださる住居です」と告げました。助祭は、最初はこの光景に大いに驚きましたが、こう言ったのです。「もし、これらのものが全能の天主のものであるならば、永遠に立ち続けますように。しかし、もし、悪魔のものであるならば、消え去りますように」。そして、助祭は十字架のしるしをしました。するとたちまち、悪魔に他ならない案内人は姿を消し、黄金の宮殿は泥の塊と化しました。助祭とラドボド公のしもべは、自分たちだけが沼の真ん中にいることに気づき、大変な苦労の末、そこから抜け出しました。その後、自分たちの町に戻るのに、三日間歩かなければなりませんでした。二人が町に到着すると、ラドボド公は、洗礼を受けることなく、突然倒れ、亡くなったことを告げられました。これが、彼の不信仰に対する正当な罰だったのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、サタンとこの世が約束する幸福は、私たちがそこから抜け出せなくなって死んでしまう、悪臭を放つ泥の沼のようなものです。私たちの本当の幸福は天国にあり、天国への道は、十字架につけられた私たちの主イエズスです。私たちの主イエズスの御苦しみにあずかることは、キリスト教徒の人生に必要なことのひとつです。天主の御摂理が私たちの人生においてご計画なさった苦しみを、私たちが寛大に受け入れられるよう、御悲しみの聖母が助けてくださいますように。これらの苦しみは、私たちを滅ぼすためではなく、私たちを完成させるため、私たちの永遠の救いのためのものなのです。

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カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の声明:ベルギーの同性愛カップルの「祝福」について

2022年09月22日 | カトリック・ニュースなど

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の声明:ベルギーの同性愛カップルの「祝福」について

DECLARATION of His Excellency Carlo Maria Viganò regarding the “blessings” of homosexual couples celebrated in Belgium

カルロ・マリア・ヴィガノ

霊魂の救いとキリストの教会の名誉に対する大いなるつまずきとして、ベルギー司教協議会は、カトリックの教導権の不変の教えに堂々と違反している同性愛者の結合を「祝福」するための儀式を承認し、発表しました。教導権は、このような結合は「本質的に倒錯している」とみなしており、そのようなものを祝福してはならないばかりか、むしろ自然の道徳律に反するものとして非難しなければなりません。この冒涜的な儀式の思想的基盤は、「すべての人は、性的指向にかかわらず、その尊厳において尊重され、配慮をもって扱われるべきである」と述べる「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)の微妙に欺瞞的な言葉に示されています。

ベルゴリオのセクトが行う教理的・道徳的解体のプロセスは、それが信者の間に引き起こす混乱と、その結果生じる霊魂への計り知れない損害を顧みることなく、とどまるところを知らないペースで続いています。

今や全く疑いの余地なく明白なのは、牧者としての権力と権威を濫用し、キリストが教会に聖なる位階階級を制定された目的とは正反対の目的のためにそれを利用するこれらの異端者たちの逸脱を、福音の教えと調和させることが絶対に不可能であるということです。

そして、それ以上に明白なのは、(これまでの)役割の逆転という倒錯が起きていることです。つまり、ローマに座している者が、カトリックの教理に反する非正統的な原則を打ち立てる仕事をし、各教区にいる彼の共犯者たちが、この世の精神に従うために道徳律を弱めるという地獄の試みにおいて、つまずきを与えるようにその原則を適用するという役割を担っているのです。

位階階級の一部の代表者たちの恥ずべき行き過ぎた行為は、トップからの故意で意図的な計画に由来するものです。その計画とは、「シノドスの道」によって反乱を起こした司教団を、信仰と道徳についての誤謬を広める上で自律させようと望むものであり、また権威主義を利用して、忠実な司教たちがキリストの真理を宣べ伝えることを妨げようとするものです。

2022年9月21日
使徒福音史家聖マテオ
九月の四季の斎日の水曜日


ヴィガノ大司教の「第1回世界中絶反対の日」へのメッセージ

2022年09月21日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教の「第1回世界中絶反対の日」へのメッセージ

2022年9月8日(木)

VIGANÒ'S MESSAGE For the First World Day against Abortion

カルロ・マリア・ヴィガノ

中絶によって胎児殺しをしてはならない。また嬰児殺しをしてはならない。――ディダケー(十二使徒の教訓)V, 2

キリスト教の社会的領域における主な歴史的功績の一つは、中絶および新生児遺棄という恐ろしい罪を根絶したことです。この罪は、異教徒の世界では容認され、道徳的に受け入れられてさえいたものです。カトリックの考えでは、生命の尊重というものは、それが自然法に完全に一致していることから来ているのであって、人間は一人一人、天主を讃美し、天主の掟に従って天国で永遠の至福を得るために創造されたという意識が、この自然法に加わります。ですから、中絶によって子どもを殺すことは、十戒の第五戒に対する非常に重大な違反であり、犠牲者が罪がなく無防備であり、子どもを全力で守るべき両親の同意によって虐殺される(私たちは虐殺について話していますから虐殺とはっきりと言います)という事実によって、さらに憎むべきものとなっています。そのため、キリスト教社会は、広まっていた罪を排除し、受胎から自然死までの生命の尊重と保護がどれほど不可侵の原則であるかを示しました。

フランス革命に始まる近代社会は、教導権が教えている教理的・道徳的真理に反抗するだけでなく、自らを「世俗的」、つまり本質的に反宗教的、反キリスト教的と宣言するために、社会から天主を追放した後、実定法と自然法の間の超越的結合を断ち切りました。

民族や国家の法を規定していた第一原理がいったん存在をやめるならば、個人や社会が自然法に反する規範――中絶や離婚を自由意志の行使として合法化し、それの犯罪としての結果も道徳的な結果もなくする――を採用することを禁じるものは何もなくなってしまいます。

すべての権威が属する天主――omnis potestas a Deo(すべての権威は天主から)――からではなく、大衆の同意から権威が由来する統治システムは、この理由だけでも、共通善(bonum commune)に反すると考えるべきです。なぜなら、誤った概念の自由の行使を許し、個人と社会に対するキリストの主権を認めないことで、その統治システムは、自らを正当化している目的と実際には対立しているからです。

しかし、悪のために行動するときにいつも起こるように、中絶の支持者でさえ、この恐ろしい罪を何とか「もっと受け入れやすい」(more palatable)ようにし、ほとんど起こらないものの、それでも道徳的に容認できないシナリオによって正当化しようとしました。それは、レイプされる女性のケース、不道徳な老人に誘惑される少女のケース、そしていわゆる「オヴァートンの窓」を移動させるのに役立つあらゆる理論的なケースです。罪のない人間に対する数十年にわたる大虐殺――イタリアだけでも600万人以上の子どもたちが天からの正義を求めて叫んでいます――は、中絶を合法化するために使われた正当化が口実に過ぎないことを証明しました。しかし、現実には、嬰児殺しはほとんど常に冷笑主義、利己主義、無知によって動機づけられていることを見るのは悲しいものです。冷笑主義とは、自分の個人的な利益のために人を殺すことに頼るという無関心さによるものであり、利己主義とは、中絶をする人々が他の人間の権利よりも自分の意志が優先すると決めるからであり、無知とは、子どもを胎内から切り裂いて取り出すために子どもが実際に受ける苦痛や、その経験によって母親自身がどれだけトラウマを負うことになるかを、ほとんど誰も知らないからです。

冷笑主義、利己主義、無知は、道徳的感覚の欠如に集約され、それは、カトリックの位階階級が、まるでほとんどそうせざるを得ないかのように、このひどい罪に直面している際に取る敗北主義的態度によって悪化させられています。

ヨハネ・パウロ二世の時代には、このような黙認は考えられなかったことでしょう。このポーランド人教皇は、異端の哲学の影響を受けてはいましたが、それでも自然法についての容赦のない誇り高き擁護者だったのですから。ホルヘ・マリオ・ベルゴリオが率いる現在の教会チームは、神学分野での異端や道徳分野での金銭的・性的スキャンダルという混乱をはるかに超えて、新マルサス主義的アジェンダ(行動計画)や、現代社会のいわゆる「獲得物」、例えば離婚、中絶、安楽死、避妊、同性愛、LGBTQ+イデオロギー、ジェンダー論、未成年者のホルモン発達阻害【性同一性障害治療】の最も熱心な推進者になっていると、私たちは認識すべきです。

最近、テレビ番組の中で教皇庁生命科学アカデミー会長が必死に宣言したことは、信者だけでなく、善の守備隊として、真理の導き手として、教会に期待することができるはずだと思っている信者でない人にも、当然のことながらつまずきになるという印象を与えています。パリアの言葉に感じ取れるのは、悪を陳腐なものだとする考えです。言い換えれば、「つまずきの石」になりたくない、野蛮と異教の時代に戻った世界で自分を「逆らいのしるし」としたくないという冷笑的な願望です。また、ベルゴリオの最高法院(サンヘドリン)による世俗的権力への恭順です。さらには、人間を絶滅させるべき寄生虫とみなす新マルサス主義の妄信的な原理に基づく新世界秩序を形成するにあたって――権力者を喜ばせることで――自らの地位を得たいと願う人々の鈍感な卑屈さです。パリアは、自分が灰色の官僚であることを明らかにし、サイコ・パンデミックの物語(ナラティブ)でまさにそうしたように、自分が発言・承認するよう求められていることが首尾一貫していないことを理解しようとさえもせず、ベルゴリオの新しい方針、つまりグローバリズムのイデオロギー、トランスヒューマニズム、グレート・リセット、グリーン・ニューディール、アジェンダ2030を無批判に受け入れることに自らをとどめています。ベルゴリオと彼の色とりどり【虹色】のキャラバン隊にとっては、稀になされる中絶に反対する発言はメディアに強いインパクトを持ちますが、彼の本当の姿を見られないために、時には従わなければならない台本の一部であるように思えます。

現代社会が推進するあらゆるものと同様に、「妊娠の中断」や「性と生殖に関する健康」(reproductive health)と詐欺的に定義される中絶の推進もまた、深刻な利益相反と無縁ではないと言わなければなりません。なぜなら、この新しい市場を動かしているのは、中絶クリニックや製薬会社、研究所、化粧品メーカーの経済的利益ですから。このように、人を殺すという本質的な悪に加えて、薬やワクチン、クリームを作るために使われる運命にある中絶された胎児の無節操で有益な取引も存在します。私たちが知っているのは、例えば、新型コロナウイルス感染症用のいわゆるワクチンの製造者が認めているように、遺伝子血清を製造するために、最初の中絶した細胞株を「リフレッシュ」するために新しい中絶が継続的に引き起こされているということです。巨大製薬会社と、政府や医薬品庁にいるその使者たちの命令(diktats)に教理省がひれ伏すことは、ファイザーとモデルナに、実験的遺伝子血清を支持する権威ある証言を提供する代わりに、財政支援と資金提供という報酬を受けた位階階級の共謀姿勢を、容赦なく明らかにしています。

「第1回世界中絶反対の日」を今日開催することは、勇気ある選択です。なぜなら、それは生命と人間の運命についての水平的【天主を無視するので水平的】で功利的な考え方――バチカンの最高レベルがよそ者とは言えずに広めている考え方――に反対するアンチテーゼとして立っているからです。

彼らは常に時代遅れに見えることを恐れ、常に自分たちが流行の先端であることを示そうと望んでいるのです。それはトランスヒューマニズムを受け入れるというところまで行っています。ところがこのトランスヒューマニズムにおいて、人間と機械の融合とは、この思想を創作した者らの妄想の中で、天主に対する人間の復讐、創造主に対する被造物の復讐、生命の主に対する初めから殺人者である者【悪魔】の復讐を表すはずのものなのです。

皆さんの闘いは、存在論的に勝利する運命にあります。死と罪の文化は敗北し、贖い主であるキリストから永遠の裁きを受ける運命にあります。しかし、もし勝利が確かなものであるならば、皆さんの行動は決然としたものでなければならず、皆さんの社会的・政治的な取り組みは勇気あるものでなければなりません。

市民として、共同体の一員として、皆さんにはこの犯罪の恐ろしさ、前代未聞の残酷さ、イデオロギー的・経済的な利益のための冷笑的な搾取を知らしめる権利と義務があります。皆さんには、母親だけでなく父親に対しても、赤ちゃんは迷惑な障害物でもなければ、細胞組織の塊でもなく、二酸化炭素の生産者でもないことを思い出させる権利と義務があります。子どもは天主による被造物であり、愛され、次には創造主を愛し、創造主を讃美するように運命づけられています。そして、この無力な小さな者たちは、少なくとも、自分たちの母親や父親に拒否されずに、光の中に入るというチャンスを得る資格があるのです。

非難する人々におびえないでください。彼らは、皆さんに対して、(ダボス会議で言われているように)「食べるだけの役立たず」で地球を人口過剰にしたがっているとか、女性に母親になることを強制したがっているとか、自分の意見を共有しない人々に押し付けたがっているなどと言うでしょう。

中絶の権利は、中絶を望まない人々に対して中絶の義務を課すものではない、と異議を主張する人々に騙されないでください。これは、人間の生命を個人の選択に委ねるという詭弁ですが、真実は、誰も自分の子どもの生死を決定する権利を主張することはできないということです。なぜなら、その子どもは観念ではないからです。その子どもは、考えることもできれば無視することもできるような概念ではないからです。そうではなく、その子どもは人間であり、その子どもには名前があり、人生があり、親族があり、未来があります。洗礼によって天主との友情を再発見し、天主を愛し、天主に仕え、ついには天主から永遠を分けていただくことができるようになる人間です。

今日、そのご誕生をお祝いしており、その従姉のエリザベトを訪問なさったとき、エリザベトが胎内で洗者が躍るのを感じた至聖なる童貞女が、諸国がこの罪の恐ろしさを理解し、その統治者らができる限り早くその罪を違法とするよう、皆さんの中絶に対する闘いの遂行に必要な恩寵を天から懇願してくださいますように。無防備な子どもたちを、足並みを揃えた思想のモロク神にいけにえとして捧げ続ける限り、世界が平和を知ることはできません。

皆さんに心からの祝福をお送りします。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年9月8日
童貞聖マリアのご誕生


カトリック聖伝のミサ報告 聖ピオ十世会 Traditional Latin Mass SSPX Japan

2022年09月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計93人でした。大阪では25人でした。
今日は台風14号の影響でミサに与るのが困難になってしまった方々がおられたようです。ソウルではとても良いお天気でした。

明日はラサレットの聖母の御出現の日ですね。聖母よ、われらのために祈り給え!

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 93 including children.

09:00 mass
M: 20 (incl. 2 children)
F: 24 (incl. 4 children)
Total: 44 (incl. 6 children)

11:30 mass
M: 23 (incl. 4 children)
F: 30 (incl. 6 children)
Total: 53 (incl. 10 children)

Total of 2 masses (excl. 4 people who participated in multiple masses)
M: 40 (incl. 6 children)
F: 53 (incl. 10 children)
Total: 93 (incl. 16 children)

Photo Credit


人生は一回だけで,これを地獄に失っては取り返しがつかない。 永遠の命は十字架にのみ見出せます。

2022年09月18日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年9月18日は聖霊降臨後第15主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第15主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


【参考情報】ヴィガノ大司教「ルフェーブル大司教は、教会に対する素晴らしい忠誠心をもった聖なる人である」

2022年09月16日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ヴィガノ大司教「ルフェーブル大司教は、教会に対する素晴らしい忠誠心をもった聖なる人である」

ヴィガノ大司教は、ルフェーブル大司教による1988年の司教聖別について、「全時代のミサ【聖伝のミサ】を守るために不可欠なもの」だったと示唆した。

私たちが沈んでいる世俗的・教会的危機を、人間の手段で解決することは不可能です。人間はまず、天主にして王である私たちの主イエズス・キリストの前にひざまずかなければなりません。各国や各民族は、主の主権を認め、教会は、簒奪者たちが王から奪った王冠を、真っ先に王にお返ししなければなりません。私たちの心の中心に、そしてすべてのものの中心に、キリストを、アルファでありオメガであるお方を戻しましょう。まず天主の国とその正義を求めましょう。そうすれば、残りのものもすべて加えて、私たちに与えられるでしょう。

Abp. Viganò: Abp. Lefebvre not a ‘schismatic,’ but a ‘holy man’ with great ‘fidelity’ to the Church

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教

2022年8月29日(月)―米東部標準時夏時間午前11時56分

【編集者注】以下は、2022年8月14日にフランスで開催された夏季大学「チヴィタス」(CIVITAS)でヴィガノ大司教が行った講演の最後に行われた質疑応答です。講演の全文はこちらでご覧いただけます。

親愛なる友人の皆さん、今回、皆さんの夏季大学に参加する機会を与えてくださったことを大変うれしく思っております。チヴィタスの兵士の皆さん、会長のアラン・エスカーダさん、事務局長のレオン・ピエール・デュランさん、チャプレンのジョゼフ神父様、そしてレジスタンスのカプチン会士の皆さんに、心からご挨拶できることを大変光栄に思っております。

私たちの主イエズス・キリストの社会的統治の再確立のために戦い、メーソン寡頭政治やダボス・セクトと戦うことによって、チヴィタスは、ゴリアテに対するダヴィドのように、私が心から呼びかけた反グローバリズム同盟の戦いの中心に自らがいることが分かっているはずです。

フランスの例に続き、スイス、ベルギー、イタリア、カナダ、スペインでもチヴィタスが設立されたことを知って、ただただ喜ばしく、同じ取り組みが全世界に広がることが強く望まれると思っております。今こそ、世界中のカトリック信者が団結して、グローバリストの専制に対抗する共同戦線を形成する時です。

岩の上に建てられた家は、カトリック教会であり、キリスト教文明です。それはまた、聖レミギウスによってランスで洗礼を受け、フランク王クローヴィスの戴冠式の日に、玉座と祭壇の同盟で建てられたフランスです。

私たちの主イエズス・キリストの社会的統治以外に、天主と和解し、天主を敬う社会、また使徒たちから受け、聖なる教会によって何世紀にもわたって忠実に伝えられてきたカトリック信仰を公に告白する社会以外に、私たちの時代の悪に対する救済策はあり得ません。

これこそが真の反革命である。

親愛なる友人の皆さん、キリスト教を守り、私たちの主イエズス・キリストの社会的統治を推し進めるために、殉教者たちの模範を皆さんの心に留めてください。これらの殉教者たちは、教会と社会と人民の未来をその血で豊かにしました。平和の君なる王たるキリストが統治なさらないところには、公正で豊かな社会はあり得ません。キリストの平和は、キリストの御国においてのみ存在し得るからです。Pax Christi in Regno Christi.(キリストの御国のおけるキリストの平和)。

デュランさんが私に知らせてくださいました。皆さんが私に質問なさりたいことは承知しております。

【質問】大司教様、第二バチカン公会議は60年以上前に、典礼の破壊は50年前に、アッシジはほぼ30年前に起こりました。すべてが破壊され、忠実なカトリック信者が軽蔑され、不当に非難された60年間にわたる宗教と政治の大惨事の後、大司教様は80歳で、断固とした反公会議派になっておられます。なぜ今になって行動を起こされているのでしょうか。

【回答】

カトリック教会を苦しめている危機と現在の背教の深い原因に対する私の斬新的な認識の旅がどのようなものであったかは、すでに過去の介入において証言する機会を得ました。そのとき申し上げたように、私の仕事は聖座の外交官でした。(最初は若い書記官として、イラクとクウェートの教皇使節、次にロンドン、国務省、その後、欧州評議会のストラスブール代表部のトップとして、その次はナイジェリアの教皇大使として、その後、再び、国務省で教皇使節代理として、次にバチカン市国行政庁次官として、最後は駐米教皇大使として勤務しました)私の仕事――前述しましたように――聖座への奉仕は、私の時間と力のすべてを捧げて懸命に実行しようとしたため、私の時間を完全に奪ってしまい、教会で起こっていた出来事について深く考えることが事実上不可能になりました。

しかし、このことは、公会議後に導入された「新奇なもの」に対して、私が内心で強い当惑と批判を抱くことを妨げるものではありませんでした。私が考えているのは、特に、深刻な典礼の濫用、修道生活の危機、アッシジのパンテオン、十字軍の赦しを求める嘆かわしい要求、例えば二千年の聖年のときでした。また、ローマのグレゴリアン大学の若い学生として感じたことも思い起こしています。私は、これらすべてが、公会議が設定した新しい原則に由来するものであると感じていました。

しかし、ずっと後になって、当時のマカリック枢機卿と彼の同性愛ネットワーク全体の重大なスキャンダル、そしてベルゴリオのさらに深刻なスキャンダルに直面して、教理的腐敗と道徳的腐敗の本質的なつながり、また、教会で何十年も続いている危機の深い原因が、公会議革命によって生じたことが、私にとって明らかになったのです。

ですから、私は黙っていられなくなったのです。

この大惨事は最初から予見できました。しかし、これまで説明してきたように、私たちは、司祭職の養成、さらには外交官としての養成において、教皇とカトリックの位階階級全体が、私たちの主が教会に意図なさったものとは反対の目的のためにその権威を行使することで濫用するなど考えられないと思うように訓練されていたのです。私たちは、長上の権威を疑ってはいけないと教えられてきました。そして、このことは、まさに私たちの従順とキリストの教会への愛を利用して、ゆっくりと、一歩ずつ、特にエキュメニズムと信仰の自由に関して、聖なる教会が常に教えてきた教理とは異なる新しい教理を受け入れるように私たちを導いた人々によって利用されたのです。

さらに、教会においてディープ・チャーチが、教会組織の解体に向けて徐々に広がってきたように、世俗的領域においてもディープ・ステートが、専制的形態を持つ新世界秩序、世界経済フォーラム、アジェンダ2030に到達する段階的な浸透を通じて、私が同様の方法と呼びたい方法で拡大してきたのです。

この場合にも、こう問うことができるでしょう。「なぜ市民は、共通善のために奉仕すべき団体を破壊するために権力を握った扇動的な人々による国家の転覆に反抗しなかったのだろうか」。

多くの人はこう答えるでしょう。「私たちを不道徳なシステムの奴隷にしようという、彼らの倒錯した設計、彼らの計画など想像もつかなかった。彼らが民主主義や人民主権について語るとき、根本的に反キリスト教的な全体主義的権力に私たちを徐々に服従させようと望んでいるとは信じられなかった」と。

昨日、私が進行中の革命的プロセスの本質を理解していなかったという事実は、弁解の余地があると考えています。一方、今日、理解していないということは、無責任であり、世俗的なことでは世界クーデターの共犯者、教会的な領域では背教の共犯者になるのだと思います。

ですから、私たちよりもずっと前に、預言者の声で、世俗社会とカトリック教会の両方に対する脅威について警鐘を鳴らした人々に感謝しましょう。

【質問】大司教様、ありがとうございます。二つ目の質問をさせていただきます。ルフェーブル大司教と彼の闘い、特に最も議論を呼んだ1988年の司教聖別についてどう思われますか。

【回答】

私はルフェーブル大司教を、その忠実さと勇気に感嘆し、多くの感謝をもって見つめることしかできません。その勇気と忠実さは、多くの逆境や敵意、また近代化の思想に支配され、前例のない毛細管を破壊するほどのプロジェクトを支持するメーソンによって浸透された位階階級の側の執拗さに直面しても揺らぐことのないものであり、私たちは今日、その破壊の範囲を、その極端の結果で自覚しています。

ルフェーブル大司教は、離教者ではなく、聖なる人として、熱烈な宣教師にして信仰の告白者、聖伝や司祭職、カトリックのミサの熱心な擁護者としてみなされなければなりません。彼は、人間よりも天主に従うこと、近代主義の教理を受け入れるよりも聖伝を守り伝えることが正しいと考えたため、破門に至るまで、破門も含まれる厳しい制裁に身をさらしたのです。

彼の人生は、敬虔さ、犠牲の精神、義務感、良心の正しさ、そして偉大な内的一貫性によって特徴づけられています。彼の人生は、天主と教会に捧げられた人生であり、霊魂の奉仕、福音宣教、健全な教理の指導と説教、聖なる犠牲の挙行、そして司祭に召された若者の養成に捧げられた人生です。

使徒たち、教皇たち、諸公会議、聖なる信仰の博士たちによって私たちへと受け継がれ、殉教者たちがその血を流した信仰の堅固さを全面的に証しする人生です。

1988年の聖別を「行き過ぎた行為」と考える人もいますが、全時代のミサ【聖伝のミサ】を保護するために絶対に必要なものであると認識している人々もいます。

ルフェーブル大司教は、私たちが生きている時代の緊急性と、近年悪化していて、新たな重みを帯び、私たちが置かれている例外的な状態をさらに明白にしている劇的状況を把握していたのです。

不従順と言う人がいますが、私たちは忠実と言います!

マルセル・ルフェーブル大司教は、聖なる教会が常に実行し、教えてきたことを教え、実行し続けました。彼は自由主義、ミサと教会の典礼建築全体の破壊、司祭職や修道生活、キリスト教道徳の破滅に反対しました。

繰り返します。不従順と言う人がいますが、私たちは忠実と言います。

【質問】大司教様、ありがとうございました。最後の質問です。その後、大司教様の最後のお言葉をいただきたいと思います。大司教様、大司教様がおっしゃった反グローバリズム同盟のプロジェクトについて、また、具体的にはどのようにすれば参加できるのかについて、手短に説明していただけますか。

【回答】

反グローバリズム同盟は、私が昨年11月に立ち上げた呼びかけであり、歴史における今の時期に、全人類に重くのしかかる非常に深刻で前例のない脅威を意識したものです。また、非人間的で反キリスト教的な新世界秩序を確立するために、非常に強力なエリートによって画策された世界規模のクーデターに対抗するために、あらゆる場所で抵抗戦線を構築することが緊急の課題であることも認識したものです。

私は、一つの運動の指導者になるとか、その運動の組織を引き継ごうというそぶりを見せたことは一度もありません。種まく人のように、私は四方八方に種をまき、その種が賢明に集められ、実を結ぶようにしました。私には、その発芽の状態を推し量ることはできません。

現在の状況は、各国のレベルでも、国際的な場面でも、非常に流動的で、陰鬱で、読み解くのが困難です。私たちはただ、心の中で待ち受けている出来事に備え、天からの天主のご介入を願わなければならないということを知っているだけです。

ただ一つ確かなことは、私たちが沈んでいる世俗的・教会的危機を、人間の手段で解決することは不可能だということです。人間はまず、天主にして王である私たちの主イエズス・キリストの前にひざまずかなければなりません。各国や各民族は、主の主権を認め、教会は、簒奪者たちが王から奪った王冠を、真っ先に王にお返ししなければなりません。私たちの心の中心に、そしてすべてのものの中心に、キリストを、アルファでありオメガであるお方を戻しましょう。まず天主の国とその正義を求めましょう。そうすれば、残りのものもすべて加えて、私たちに与えられるでしょう。

【デュラン氏】大司教様、ありがとうございます。少し残念なのは、会場の人々と、本物の司教が話しかけてくださり、教会の永遠の真理を再び語ってくださったのを彼らが聞いた喜びを、大司教様にご覧いただけなかったことです。ここにいるカプチン会士、アブリエのドミニコ会士、そして私たちと一緒に来ているモーガン神父に代わって、改めてお礼を申し上げます。大司教様、今までありがとうございました。最後にもう一度、私たちのためにしてくださったことすべてに、個人的にお礼を申し上げます。

【ヴィガノ大司教】

親愛なるデュランさん、私も非常に残念なのは、フランスの第一の保護聖人である童貞聖マリアの被昇天祭の前夜に、皆さんが集まって、童貞聖マリアに感謝を捧げ、共に祈っておられるこの幸せな機会に、皆さんのお姿を拝見できず、とりわけ皆さんとご一緒できなかったことを大変残念に思っております。ですから、私たちの希望の祈りを新たにし、私たちのまなざしを天のものへと向けましょう。地獄の竜の頭を足で踏み砕く太陽をまとった婦人、童貞聖マリアの母としてのご保護と御取り次ぎに支えられれば、私たちはさらに強い力と勇気、そして謙虚さと信頼をもって、この世の戦いに耐え抜くことができるのです。ですから、私は喜んで皆さんを祝福します。Benedicat vos omnipotens Deus Pater et Filius et Spiritus Sanctus.(全能の天主が皆さんを祝福し給わんことを。聖父と聖子と聖霊との御名によりて。)アーメン。

 


【参考情報】ヴィガノ大司教「グローバリストの教理は本質的に『悪魔的』である。私たちはキリスト教世界を『再構築』しなければならない」

2022年09月16日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ヴィガノ大司教「グローバリストの教理は本質的に『悪魔的』である。私たちはキリスト教世界を『再構築』しなければならない」

「グレート・リセット擁護派から真実を期待してはいけません。なぜなら、キリストのいないところに真理はあり得ず、私たちは、彼らがどれほど私たちの主を憎んでいるかを知っているからです」

Abp. Viganò: Globalist doctrine is essentially ‘satanic’; we must ‘rebuild’ Christendom

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教

2022年8月29日(月)―米東部標準時夏時間午前11時56分

【編集者注】以下は、2022年8月14日にフランスで開催された夏季大学「チヴィタス」(CIVITAS)でヴィガノ大司教によって行われた講演のテキストです。大司教の質疑応答は、こちらの別記事に掲載されています。

「グローバリストの教理は本質的に『悪魔的』である。私たちはキリスト教世界を『再構築』しなければならない」

人間が行動するとき、目的を考慮して行動します。人間の行動、人間が行うことは、道徳的に良いことも悪いことも、ある目的のための手段を表しています。行動は意志から生じ、思考から生まれ、思考は知性の行いです。私たちが行うことは、私たちが何者であるか(記憶、知性、意志というすべての能力)によって決定されます。スコラ学はこの概念を、次の三つの単語で完璧に要約しています。agere sequitur esse.(行動は存在に従う。)

誰も目的なしに行動することはありません。ですから、2年以上前から私たちの目の前で起こっていることでさえ、いわば、形相を与える原理としての最初の考えがあることを想定させる、一連の同時に起こる付随的な(concomitant)原因の結果です。そして、その取られた行動を正当化するために私たちに提示された理由が合理的でないことに気づくとき、その理由は「口実」、つまり口に出せない真実を隠すために利用される偽りの理由である、ということを意味します。

これは、悪しき者【悪魔】のやり方です。私たちを誘惑するとき、彼は、自分が私たちの友人であると信じさせ、自分が私たちの善について気にかけていると信じさせるために嘘をつくのです。悪魔は、催し広場の行商人【日本風に言えば、祭りや縁日の出店業者】のように、奇跡的な発見物、幸福と富の万能薬を差し出しますが、それは私たちの不死の霊魂と引き換えに、です。しかし、このことは、詐欺師のように、もちろんそう言うのを省きます。せいぜい契約の条項に小さな字で書く程度です。

サタンは、すべてが嘘です。「あなたの天主は重い戒律であなたを抑圧する」という前提が嘘です。「あなたは自分の欲しいものを決め、手に入れることができる」という約束が偽りです。ですから、サタンの手先どもが新世界秩序のディストピアを確立しようと準備しているときも、すべてが嘘です。

グレート・リセットの陰謀家たちが、自分たちの最終的な目標が何であるかを明確に語ることは期待できませんから――それは口に出せない犯罪的なものであるからです――、それでも、彼らの行動を突き動かす原理を知り、それを彼ら自身の言葉で裏付けることによって、彼らの行動を導く「心」(mens)、つまり考えを再構築することができます。ですから、その理由が「口実」に過ぎないことを理解することもできます。しかし、その「口実」は、それが提示されているように、悪意と計画性を証明しています。なぜなら、もし彼らの計画が誠実で善いものであるならば、彼らは非論理的かつ支離滅裂な言い訳でごまかす必要はないはずであるからです。

しかし、このグレート・リセットとは何なのでしょうか。それは、現在の経済・社会システムを崩壊に至らせる「第四次産業革命」の強制的な押し付けであり、全体的な貧困化と人口の大幅な減少を通じて、不死と世界支配を熱望するエリートの手中に権力を集中させるものです。彼らは私たちを、箱の中に閉じ込められ、ネットワークに常時接続された個性のない塊のような部品あるいは奴隷に貶めようと考えているのです。

グレート・リセットを通じて、彼らは西洋のキリスト教社会を消し去って、中国の独裁国家をモデルにした自由主義・共産主義の共同統治(synarchy)を確立しようとしているのです。カトリックの価値観に少しでも影響を受けた社会には、金融権力集団や新世界秩序のエリートの居場所はありません。しかし、このことによって、彼らのキリスト教社会に対する反発が、単に経済的・政治的な動機に基づくものだと、私たちが信じるようになってはなりません。

現実には、この憎しみの引き金となるものは、地球の最も遠い片隅にさえ、グローバリストのディストピアに代わり得る世界が存在するかもしれないということです。それは、雇用主が従業員に誠実に賃金を支払い、国家が市民に妥当な税金を課し、慈善団体が無償で思惑なしに奉仕し、子どもの純真さが尊重され、LGBTQ+のプロパガンダが許されない世界です。イエズス・キリストの社会的統治が可能であるだけでなく、共通善と天主の栄光のために運営される最良の社会形態であることが示される世界です。

比較対象が存在するだけで、グローバリストの欺瞞が強く否定され、その恐ろしさと失敗が証明されます。都市封鎖の必要性についての嘘は、都市封鎖が取られなかったところでは、閉店命令や夜間外出禁止令が出されたところよりも重病の事例が少なかったという証拠によって否定されています。遺伝子血清の有効性に関する嘘は、複数回ワクチン接種を受けた人々の再感染、重篤な副反応、突然死の事例によって否定されています。「主権を持つ人民」や侵すことのできない人権という嘘は、司法の沈黙の中で、不条理なルール、違憲の規範、差別的な法律によって否定されてきています。

全時代のミサ【聖伝のミサ】との比較という点であっても、モンティーニ【教皇パウロ六世】の偽物のミサを好むことは不可能です。この理由で、ベルゴリオの教会は、全時代のミサの挙行を妨げ、信者をそのミサから遠ざけておこうと望むのです。この恐怖を私たちに押し付けるために、彼らは欺瞞に頼ってきており、信者に対しては、使徒継承のミサは理解できない、信者がその意味をよりよく理解できるように翻訳して簡略化しなければならない、と告げたのです。しかし、これは嘘でした。もし彼らが、自分たちの目的はプロテスタントの異端者たちが掲げたものとまったく同じであること、つまりカトリック教会の心を破壊することだ、と説明していたならば、私たちは投石器を片手に彼らを追いかけていたことでしょう。

グローバリストの世界では、比較することは許されません。グローバリストの世界は、この「排他性」を要求し、それを主張するのが自分自身でないならば、すぐさま恐怖で糾弾するのです。グローバリストの世界は、姦淫して異端となった聖職者らの共犯によって、教会の現世的権力を引き裂き、ダボス会議やブリュッセル【EU本部】から宣言する教義に絶対的かつ非合理的に服従することを要求するのです。グローバリストの世界は、言論と報道の自由をたたえ、それらに惜しみなく資金を提供しますが、反対意見も真実も許すことはなく、それらにたどり着けないように、見えないようにしようとするのです。

また、グローバリストの世界には、その思想、哲学、信仰の偉大さを裏付けるために見せるべき過去がありません。逆に言えば、グローバリストの世界は、歴史を改ざんし、過去を消し去り、新しい世代から過去を排除することによって生きるのです。シャルトル大聖堂の前で、キリストと聖人の像を認識することができる人が誰もいないようにするのです。その聖なる礼拝堂に、天使がフランス国王を聖別するために運んだ聖油の容器(ampulla)が保管されていることを誰も知らないようにするのです。彼らの行いを知ることも、彼らの墓を見つけることも、カトリック諸国を偉大なものにした芸術と文学の宝を理解することも誰もできないようにするのです。「キャンセル文化」は、キリスト教文明の素晴らしさを前にすれば、グローバリズムの根本的な存在論的矛盾を明らかにします。

グローバリズムの世界には未来がありません。いや、むしろ、グローバリストが私たちに与えようとしている未来は、人間の心が考え得るうちで最も暗く、最も恐ろしいものです。グローバリズムが私たちに提示する未来は、偽りのものであり、実現不可能なものです。シュワブ【ダボス会議を主宰する世界経済フォーラムの創設者】や「アジェンダ2030」の推進者たちは、「私は家も持たず、何も所有せず、そして幸せです」と私たちを説得しようとしています。しかし、彼らの目的は、私たちを幸せにすることではなく、――もちろん、いつまでたってもそうなることはありません――私たちの家や財産を奪うことです。彼らが私たちに平和主義や軍縮について語るとき、それは彼らが平和を望んでいるためではなく、私たちを武装解除し、理想のない者とし、私たちが対応することなく侵略され、支配されるがままになるためです。歓迎と「包括性」を私たちに押し付けることで――インサイダーの語彙を採用していますが――、彼らは、私たちが他の文化や宗教の人々を本当に歓迎し、人々を統合することを望んでいるのではなく、社会の混乱とその結果として生じる伝統と信仰の消滅のための前提を作りたいと望んでいるのです。

彼らが私たちに「レジリエンス」(回復力)について語るとき、彼らが私たちに告げていることは、私たちを脅かす災難から私たちを守ることではなく、私たちが抵抗することなく災難を受け入れるのに甘んじなければならないということです。彼らが私たちを過激主義や原理主義だと非難するとき、それは、彼らが、高貴かつ聖なる理想を持つ信者や市民が、抵抗したり、反対運動を組織したり、反対意見を広めたりすることができると、知っているという理由だけからです。そして、彼らが、何の効果もないものの、多くの深刻で致命的な副作用を持つ遺伝子血清を私たちに大量に接種するとき、彼らがそうするのは、私たちの健康のためではなく、私たちのDNAを改変して私たちを慢性的な病人にし、免疫システムが永久に損なわれて、平均的な健康な人よりも短い寿命にするためです。そして、最近カルロ・アルベルト・ブルーサ弁護士が提訴した訴状で私たちの知るところとなったように、私たちの肉体に自己組織化グラフェン・ナノ構造体を注入し、軍隊を含めた私たちの位置情報を取得可能にすることです。

グレート・リセット擁護派から真実を期待してはいけません。なぜなら、キリストのおられないところに真理はあり得ず、私たちは、彼らがどれほど私たちの主を憎んでいるかを知っているからです。その憎しみは隠すことができず、彼らは、欧州のイベントの落成式(スイスのゴッタルド鉄道トンネルの落成式やロンドン五輪、ごく最近ではバーミンガムでのコモンウェルスゲームの開会式を考えてみてください)で、クリスマスをお祝いせず、子どもたちにキリスト教名を使わないようにとの「勧告」で、その憎しみを見せています。彼らの憎しみは、妊娠中絶を「人権」として理論化し、その残虐性を「リプロダクティブ・ヘルス」(性と生殖に関する健康)という偽善的な表現で隠すとき、殺人的なものとなります。なぜなら、彼らが憎むのは生命であって、人間に彼らが永遠に失ってしまった天主のかたどりと似姿を見るからです。

このかたどりと似姿は、私たちが考えるよりずっと深遠なものです。それは、記憶(御父)、知性(御子)、意志(聖霊)という天主の三つのペルソナに対応する能力を持つ、人間の三位一体的な次元から成り立っているからです。そして、至聖なる三位一体においては、聖霊が、御父と御子から発出する愛であるように、人間においては、意志が、過去の物事の記憶と、現在の物事の理解から生じる能力です。現代世界の地獄のような転覆状態の中で、人間は自分の記憶、歴史、伝統を奪われています(「キャンセル文化」を見てください、また、私たちの過去の行為を偽造したり歪曲したりして、それらの歪曲された過去に対して「赦し」を乞うていることを見てください)、また批判的判断を表明できずにいます(サイコ・パンデミックが生み出す認知的不協和を考えて見てください)、自分の意志を知性に従属させて統制できないでいます(押し付けられた悪や私たちから奪われた善に対応できないことを考えてください)。これらは偶然ではありません。

現代社会は、民主主義に関する作り話を持っており、私たちに対して、誰にでも平等な権利が与えられるべきであるという事実に疑問を持たないという条件をみたすなら、私たちはカトリック信者でありうる、おそらく聖伝主義のカトリック信者でさえもありうる、と考えるように教えています。

私たちは他人の考えを尊重しなければならない、と彼らは言います。しかし、形而上学的な領域、天主の永遠性においては、善と悪の間のこの戦いは世俗的でもエキュメニカルでもありません。それは現実のものであり、配備された軍隊のように、「天主の国」(Civitas Dei)の軍隊と「悪魔の国」(civitas diaboli)の軍隊があります。天国の天使と地獄の背教の霊とは、第二バチカン公会議の平和主義とは何の関係もありません。彼らは、敵からできるだけ多くの霊魂を奪い取るための戦いを行っています。私たちのために取り次いでくださる聖人たちは、回勅「フラテリ・トゥッティ」を読んでいませんし、聖ミカエルの天秤は、異端的なイエズス会士の「ケースバイケースの道徳」や「状況倫理」、あるいはシノドスの道の司牧的な歪みを測るように調整されてはいません。

政治的に正しく(politically correct)あること、つまり、母親の胎内にいる無防備な人間を引き裂いたり、老人や病人を眠っている間に窒息させたりすることを躊躇しない人々の傷つきやすい良心を、私たちの信念がかき乱すかもしれないと常に恐れることをやめましょう。

私たちは、口にすべきではない恥ずべき事柄――悪徳の常態化から最も卑劣な違反行為に至るまで――を前にして、沈黙することがあまりにも多すぎました。しかし、カトリック信者として、私たちは、無神論者がいるとしても、天主が生きておられ真実であること、そして、リベラル派がいるとしても、キリストが私たちの創造主、贖い主として、私たちに対する主権者の称号を行使しておられることを知っておかなければなりません。

もし私たちが、この「現実」を納得しないとすれば、この現実を完全に認識している敵の行動を理解することさえできないでしょう。もし私たちが、この現実を納得しないとすれば、私たちの言葉と行動によって目を開き、恩寵に従うようになるかもしれない人々に対して、信頼できる模範を示すことはできないでしょう。自らが告白することを好まない人々を信じるのは難しいことです。それはちょうど、無慈悲な振る舞いによって自らの空疎な言葉を否定する近代主義者を信用するのが難しいのと同じです。地球を救うためにバッタやゴキブリを食べるよう私たちに要求する一方で、自分たちは高価な神戸牛を食べたり、ディーゼル車を捨てるよう私たちに要求する一方で、自分たちはプライベートジェットで移動したりする(世界経済フォーラムのときのダボスには、何百機もあります)人々を信じることは不可能です。

私たちは、この現実主義と客観性という次元を再発見しなければなりません。これらは、彼らが、私たちから一歩一歩失わせ、あるいは私たちに恥じるように教えてきたものです。私たちは、「キリストの兵士」(milites Christi)であり、私たちの背中を打ったり、私たちを臆病にも脱走させようとしたりする敵と戦うように召されています。なぜなら、敵は、私たちが公に戦うとき、私たちの背後には、「戦列を整えし軍勢のごとく恐るべきお方」(terribilis ut castrorum acies ordinata)である無原罪の童貞女がおられるのを知っているからです。敵【悪魔】がこの世のすべての母の中で最も憎むこの母、敵が結婚の神聖さと家庭の聖徳を攻撃することで中傷するこの小羊の妻【黙示録21章9節】、敵が女性らしさを醜くしたり卑猥なパロディにしたりすることで辱めるこの婦人です。

グローバリズムの教理は本質的に悪魔的なものです。なぜなら、それはサタンの反乱を最も直接的かつ容赦なく、社会的かつ世界規模で適用したものであるからです。私たちがグローバリズムのうちに見いだすのは、ヒュブリス(hybris)【ギリシャ語で傲慢】、天に対する反抗です。それは、古典的な文明(まだ異教徒だったものの、時が満ちるとキリストのメッセージの到来を運命づけられていました)が賢明にも烙印を押したもの、私たちをルチフェルの反逆に立ち戻らせるものです。「ヒュブリス」、すなわち自らを天主のごとき者と信じ、天主の属性を簒奪する人々の愚かな傲慢は、今日の科学に対して、善に奉仕するという召命を否定させ、その召命を、新秩序への奉仕に置き換えさせて、過去には考えられなかったことを、つまり、人間と機械の間の乖離、人間の心と人工知能との間の乖離をなくすことを、技術的進歩によって成し遂げようとしているのです。

したがって、トランスヒューマニズムが「アジェンダ2030」の重要なポイントの一つであることは驚くには当たりません。

被造物を手に入れて、天主のみがその恩寵とともに降り立ち給う意識の聖域をあえて改変しようとする、この狂気の計画の背後にあるものは、言い換えれば、「人間をより効率的にする」ために人間を侵害しようとする、この計画の背後にあるのものは、またもや、教理的な逸脱、天主の真理に反する嘘です。嘘が存在するのです。不死の人間を作るというのは、ある人々が言うように、地獄の錯乱状態を技術的に再現することであり、その根底には、人間の中にある原罪の結果を消し去ることができるという厚かましさがあります。アダムの罪が死と病気をもたらしたのに対し、トランスヒューマニズムの欺瞞は不死と健康を約束します。アダムの罪が知性の弱体化と意志の悪への傾きをもたらしたのに対し、機械人間という詐欺は、知識へのアクセスと自分自身の法があり得ることを約束します。罪が労働による疲労や戦争、疫病を引き起こしたのに対し、グローバリストのディストピアはベーシック・インカムや平和、あらゆる病気の予防を約束します。

しかし、死、病気、知性の衰え、意志の悪への傾き、労働による疲労、戦争、疫病は、すべての人類がその先祖において、天主の御稜威に背くことによって引き起こした無限の違反に対する正当な罰です。この不従順には何の結果【天罰】もないと自らを欺いている人は、自らの堕落を受け入れようとはしませんし、「われら人間のため、われらの救いのために」(propter nos homines et propter nostram salutem)地上に来られ、私たちをサタンのくびきから贖うために十字架上で亡くなられたイエズス・キリストの贖いのみわざを認めようともしません。

これこそ、社会と教会の危機を見るための真の神学的視点です。トランスヒューマニズムの妄想が目的としているのは、スポーツ選手の走りを速くしたり、兵士の狙いをより正確にしたりすることではありません。人間の霊魂を打った後、人間の肉体を堕落させることです。サタンは敗北に甘んじることはありません。このことは、もっと恐ろしいことです。なぜなら、その敗北において、ルチフェルの「私は仕えない」(Non serviam)の高慢さに対比して、私たちの主の永遠の御父への従順さが輝きを放ったからです。ですから、天主が恩寵という方法を通して霊魂に触れ、彼らを御自身のもとに連れ戻し、永遠の生命に回復させることに成功なさるとすれば、サタンは今、肉体を攻撃し、創造主のみわざを汚し、人間を醜く変貌させているところです。サタンの破壊的な働きは、被造物の他の部分にも及んでおり、天主の壮麗さに匹敵すると言い張るような忌まわしい結果をもたらしているのです。

善と悪の戦いは、そのようなものであり、アダムの創造以来、人間もその戦いの中にあり、どちらの側につくべきかの選択をするよう呼ばれているのです。なぜなら、中立とはすでに、敗北にふさわしい者たち【悪魔】との同盟であるからです。私たちは、新世界秩序の敵がどれほど強力であるか、その敵の組織がどんなものかを知っています。また、何がその敵を動かし、その敵が何を達成したいのかも知っています。しかし、まさにこの理由にために、私たちは、その敵の勝利は見かけだけで、失敗する運命にあることを知っており、また、十字架につけられたお方がすでに勝利なさったこの戦争において、私たちの義務は、まず第一に、主流の情報が私たちにのみ込ませる嘘に対して目を開くことによって、どちらの側につくかを選んで戦うことだということを知っています。

天主に対抗してルチフェル側につくことを意図的に選ぶ悪人たちがいるかもしれないと理解することは、進行中の巨大なクーデターに抵抗するつもりならば、私たちが取らなければならない最初のステップです。これらの者たちは、ある意味でサタンの「神秘体」であり、世界に悪を広め、キリストの名を消すために行動します。それはちょうど、教会であるキリストの神秘体が、諸聖人の通功の中で恩寵を広め、天主の御名をたたえるために行動するのと同じです。再び、「天主の国」と「悪魔の国」です。

もしもパンデミックの緊急事態を扱ったのが、冷笑的に皆殺しをしようとする者たちではなく、たんなる無能な者たちにすぎないのだと、私たちが信じるならば、私たちは完全に間違った方向に進んでいます。また、私たちの指導者たちが、この犯罪者、簒奪者、破壊者のエリートのおかげでキャリアを積んでいるにもかかわらず、エリートに従属していないと信じるならば、同じことです。

キリスト教国の臣民にとっては、天主の掟に従って生きることが当たり前だった時代がありましたが、その掟では中絶、離婚、同性愛、高利貸しが禁じられていました。その世界は、陰謀家たちのゆっくりとした忍耐強い働きのせいで、天主からも人民からも正統性が得られていない権力が支配するこの世界――まだ完全には彼らのものではありません――に取って代わられたのです。ですから、これらの権力は、以前は奨励され、報われていたことをすべて妨げ、禁止され、罰せられていたことを奨励するのです。

「天主の国」にキリストが君臨しているのなら、「悪魔の国」に君臨しているのは反キリスト以外に誰がいるでしょうか。ですから、「秩序ある共和国」(bene ordinata respublica)では、真、善、美が天主の完全なところの神学的な表現であるのなら、グローバリストの共和国では、偽、悪、醜がその完全なところの最も明白な表れです。それだけに、その表れたものは、一般的な規範、国家の法律、人が従わなければならない道徳的な戒律とならざるを得ません。この場合でも、注意を払っていれば、別の欺瞞が再び提案されます。すなわち、教皇主義者の迷信によって正当化される支配者や聖職者の専制は、革命社会から決定的に消し去られ、理性の女神の保護のもとにある人民の政府へと取って代わられます。今日、私たちが目の当たりにしているのは、国家の支配者や教会の牧者という役割の否定と裏切りとで一体となった、グローバリストのレヴィアタンやベルゴリオの最高法院(サンヘドリン)が、どれほど専制的であるかということです。

親愛なる友人の皆さん、皆さんの仕事は、他の多くの国々の多くの善意ある人々と同様に、神聖で非常に重要なものです。それは、再建、復興、啓蒙という仕事です。「悪魔の国」の信奉者がやり方を知っていること、つまり、破壊し、解体し、瓦礫を積み上げることしかできないこととは、まさに正反対です。ですから、再建するためには、土台から再出発しなければなりません。その土台とは、キリストを礎石、要石として置いている社会的建造物の土台です。

この異常で堕落した世代には未来がないということを忘れてはなりません。その世代は、自らの盲目、不妊症、生む能力の欠如の犠牲者です。なぜなら、生命を与えることは天主のみわざであって、このことは、肉体の生命にも霊魂の生命にも当てはまるからであり、その一方、悪魔は、死とともに、天主という究極にして最高の目的から引き裂かれた霊魂の持つ鈍い絶望しか与えることができないからです。

確信してください。新世界秩序は勝つことはありません。世界の人口を5億人にまで減らそうとするその破滅的な猛威は勝つことはありません。生まれていない生命と死にゆく生命に対する憎悪は勝つことはありません。彼の暴虐の計画は勝つことはありません。なぜなら、私たちは、善を奪われたときにこそ、私たちから奪われたものの価値を悟り、戦い、抵抗する決意と力を見いだすからです。

また、今やこの世のしもべであるカトリックの位階階級を苦しめている背教も勝つことはありません。私たちの教会にはびこる不和と誤謬の種を蒔く者たちは、自分たちが60年前に公会議の春という偽りの約束で占拠した司教座聖堂や教会、修道院や神学校を空っぽにしたまま、容赦なく死に絶えます。なぜなら、すべての背後には、常に嘘つき【悪魔】の詐欺と悪意が存在するからです。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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