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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2016年秋田巡礼のアンケート結果

2017年04月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

いよいよ、今年も秋田巡礼が数日後となりました。

大変遅くなりましたが、昨年2016年の長崎・秋田巡礼のアンケートの集計結果をご報告します。

秋田巡礼です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

皆様のコメントはこちら → 記事:2016年長崎巡礼のアンケートコメントをご紹介します
皆様のコメントはこちら → 記事:2016年秋田巡礼のアンケートコメントをご紹介します



2016年長崎巡礼のアンケート集計結果

2017年04月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

いよいよ、今年も秋田巡礼が数日後となりました。

大変遅くなりましたが、昨年2016年の長崎・秋田巡礼のアンケートの集計結果をご報告します。

まずは、長崎巡礼です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

皆様のコメントはこちら → 記事:2016年長崎巡礼のアンケートコメントをご紹介します
皆様のコメントはこちら → 記事:2016年秋田巡礼のアンケートコメントをご紹介します




マテオによる聖福音の日本語の朗読録音ファイルのご紹介

2017年04月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

改めて私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

今回は、マテオによる聖福音の日本語の朗読録音ファイルをご紹介いたします。これは愛する兄弟姉妹の皆様のしもべが約十年ほど前に新約聖書を全て朗読して録音した時のものです。

もしも好評であれば、準備ができ次第、愛する兄弟姉妹の皆様に新約聖書の録音ファイルを、さらにご紹介していきたいと思っています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


マテオによる聖福音の朗読


マテオによる聖福音 第一章
マテオによる聖福音 第二章
マテオによる聖福音 第三章
マテオによる聖福音 第四章
マテオによる聖福音 第五章
マテオによる聖福音 第六章
マテオによる聖福音 第七章
マテオによる聖福音 第八章
マテオによる聖福音 第九章
マテオによる聖福音 第一〇章
マテオによる聖福音 第一一章
マテオによる聖福音 第一二章
マテオによる聖福音 第一三章
マテオによる聖福音 第一四章
マテオによる聖福音 第一五章
マテオによる聖福音 第一六章
マテオによる聖福音 第一七章
マテオによる聖福音 第一八章
マテオによる聖福音 第一九章
マテオによる聖福音 第二〇章
マテオによる聖福音 第二一章
マテオによる聖福音 第二二章
マテオによる聖福音 第二三章
マテオによる聖福音 第二四章
マテオによる聖福音 第二五章
マテオによる聖福音 第二六章
マテオによる聖福音 第二七章
マテオによる聖福音 第二八章


復活祭に、なぜ私たちはこんなに喜んでいるのか、この喜びの動機は、その理由は何か?

2017年04月28日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年4月16日(主)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2017年4月16日(主日) 復活祭のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2017年4月16日、私たちの主イエズス・キリストの復活の主日、大祝日をお祝いしています。

今日このミサでは、特別の祝日ですので、序誦はより荘厳の序誦を歌いたいと思っています。

今日、御聖体拝領の後の感謝の祈りの後に、いつもの終課のお祈りをします。もしも時間がある方は終課を一緒に歌っていって下さい。

明日は朝の6時30分から復活の月曜日のミサがあります。

来月は秋田の巡礼の直後、初金・初土にここでミサがあります。シュテーリン神父様と一緒に参ります。



「お前たちが探している、十字架に付けられたキリストは復活した。もはやここにはいない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は私たちの主イエズス様の、イエズス・キリストの御復活の大祝日で、教会は喜びに満たされています。1年の中で復活祭ほど喜びに、荘厳な喜びに満ちた日はありません。

ではこの復活祭に、一体なぜ私たちはこんなに喜んでいるのか、この喜びの動機は、その理由は何なのかを黙想する事に致しましょう。

この喜びの動機を黙想した後に、では一体私たちはこれからどんな遷善の決心を立てるべきか、これからどうやって、今日の復活祭の後からはどうやって生活していかなければならないか、本当の喜びを生き続ける為にどうしなければならないのかを黙想する事にしましょう。

第1の点は、私たちの喜びの動機です。

教会は既に、お告げの祈りをアレルヤの祈りに変えました、「天の元后喜び給え、アレルヤ。」今まで歌われていなかった、「主に讃美」という“アレルヤ”という言葉も使い出しました。そしてこの喜びに満ちたミサを捧げています。今までは紫の覆いで被されていた栄光の十字架も、聖金曜日に荘厳に取ったばかりでなく、教会は、聖金曜日のあの苦しみから一転して、喜びと栄光に満ちたミサを捧げています。

一体何故なのでしょうか?

何故ならば、イエズス・キリストは、十字架に付けられた私たちが探しているイエズス・キリストは、本当に復活したからです。これは疑いのない歴史的な事実です、真理です。

何故そういう事が言えるのでしょうか?

イエズス・キリスト様はまず鞭打たれました。聖金曜日に大量の血を流して、残酷な拷問を受けました。もしもイエズス様が普通の人だったら、たとえ体力があった男だったとしても、もうそこで、十字架に付けられる前に鞭打たれただけで力尽くし、息絶えだえにしてもう息を引き取っていた事に違いありません。しかしイエズス様は天主の力を以て十字架を、重い十字架を担ぎました。茨の冠を被せられながら、傷だらけの体で、血をボタボタと垂らしながら歩みました。何も食べていませんでした。力はほとんど尽きていました。何度も十字架の重さに耐えずして倒れてしまいました。脳震盪を起こしていたかもしれません。しかしイエズス様は十字架を担い、カルワリオの上に磔にされました、釘付けにされました。3時間に渡る十字架での飢え、渇きと、苦しみと、痛みの中に、イエズス様は遂に息を引き取りました。

普通の人でしたら、その前にとっくに体力を尽くしてしまって死んでいた事でしょう。イエズス様はその最後の最後まで、その苦しみを耐え忍びました。それは聖書が全て成就する為でした。イエズス様の、天主の子羊の骨は1本も折られませんでした。

このように、イエズス様が確かに亡くなったという事は、ローマの兵士が確認しています。心臓が槍で貫かれました。心臓がパカリと開いて、そこから水と血が出ました。もはや死亡したという事です。そして母親が見ている前で、母親がそのイエズス様の亡骸を抱いて、確かに亡くなったという事を確認します。そして墓に葬られました。

これ以後、普通の人でしたらガバリと起き上がって歩き出す事はありません。イエズス様は新しい墓に葬られて、大きな石をその蓋に付けられました。一人ではとても動かす事ができない物でした。

イエズス様だけではありません。ユダヤの最高の当局が、イエズス様の墓を守る為に最高の警備を行っていました。ローマの兵士を付けていました。その当時は、ユダヤの宗教の最高の権威もそれを警戒していました。

過ぎ越しの夜というのは満月の夜で、一年の内に一番夜が明るい日でした。その日に誰も、密かに何かを仕業をするという事は一切できません。しかもイエズス様が十字架に付けられて亡くなったその夕方、ユダヤ人たちは過ぎ越しの子羊を屠り、そしてその安息日に入る為に全ての仕事を終えていました。イエズス様の葬りさえも完壁にする事もできなかったほどでした。全ては早々と進められて、そして安息日、聖土曜日には誰も動かずにひっそりとしていました。

弟子たちはといえば、「もはやこれで師を、指導者を失った。あれほど力がある方だったのに。しかしもうこれで万事休すだ。こんな事があってはもう何もできない。」散り散りばらばらになり、そして使徒たちはイエズス様を捨てて、隠れて、ひっそりとがっくりとして恐れおののいていました。

「イエズス様は必ず復活するだろう」と「必ず復活する」と確信していたのはただ唯一、マリア様だけでした。この女性一人で一体何ができたでしょうか。しかしマリア様は、イエズス様が復活する事を知り、それを信じていました。

他の人は、全世界は暗闇の中にいました。イエズス・キリストの復活などを思う人も考える人もいませんでした。「全てはこれで終わった。もうイエズス・キリストというのはこれでもう亡き者となった。」ユダヤ当局もローマ当局も、そして民衆も、皆そう信じ込んでいました。

その時に、イエズス・キリスト様は御自分の力で、御一人で、天主の力を以て、墓を砕きよみがえり、そしてまず御母マリア様の元に現われました、「確かに復活した。」

今日復活の主日、1週間の最初のこの朝まだきに、婦人たちがイエズス様にまだし残してしまった葬りの、その香油を没薬を何とかしようと墓に行ったときに、墓は空っぽでした。ローマ兵もいませんでした。

天使を見ました。「イエズス・キリストは、お前たちが今探しているイエズス・キリスト、十字架に付けれたイエズス・キリストは復活した。もうここにはいない。さぁ行け、弟子たちに告げなさい。」

イエズス・キリスト様は真に復活したが為に、そしてそれを見たが為に、弟子たちは信じました。その反対ではありません。イエズス様が復活するだろうと思っていたから、その信仰があったからそういうふうに誤解したのではありません。事実は全くその反対です。

イエズス様が復活したのを見たので、その手に触ったので、イエズス様に、復活したイエズス様に食べ物を与えてそれを食べるの見たので、何度も、復活されてその事実を確認したので、あれほど信じなかった弟子たちも、あれほど無信仰だった逃げていた弟子たちも、力を持って勇気を持って、「確かに、イエズス・キリストこそ真の天主だ」と信じたのでした。

本当ならばユダヤ当局もローマ当局も、「これでイエズス・キリストの話は一切終わりだ」と思ったその瞬間、歴史が全く逆の方に動いたのでした。イエズス・キリストこそが歴史の中心になったのです。

つまりこの世は2つに分かれるという事です。イエズス・キリストが真に復活して、本当の天主であり、この世の創り主であり、真の救世主であるという事実を認めるか、或いはあくまでも拒否するか、この2つに分かれてしまったのです。

拒否しようとしている人たちは、何とかしてそれを無きものにしようとして最大の力を尽くしますが、まさにそのイエズス・キリストを亡き者としようとして、しようとすればするほど、イエズス・キリストが真の天主であったという証拠になってしまったのです。

悪意がそれが大きければ大きいほど、それが却ってイエズス・キリストが真の天主であるという事を証拠立てる、もう疑い得ないしるしとなってしまいました。ローマ兵士にしても、槍で貫かれた事にしても、鞭打ちにしても、全てがそうです。イエズス・キリストを亡き者に、反対した者が却って、イエズス・キリストの利益となったという事です。

遂には全世界は、「イエズス・キリストこそが真の救い主である。」ローマ帝国の回心、或いはヨーロッパの回心が続きました。

イエズス様のこの真の信仰は、私たちの心にも伝わりました。愛する兄弟の皆さん、私たちが求めているイエズス・キリストは、十字架に付けられたイエズス・キリストは、今日、今朝、本当に復活しました。これは歴史の事実です。誰もこれを否定する事ができません。否定しようとすれば否定しようとするほど、ますますそれが本当であると証明されてしまうからです。

ですから私たちの喜びと、私たちの幸せと、私たちの今のこの喜び踊りたいというこの歓喜は、真実に基づいていると言わなければなりません。

この世の中では色々な喜びありますが、多くは薄っぺらい約束や、或いは儚い一時的な喜びに過ぎません。しかし教会が私たちに伝えようとする喜びは、本当の喜びであって、決して消え失うせる事ができない、永遠に続く、無限の終わりのない、限りのない喜びを私たちに伝えようとしています。

十字架の、聖金曜日のあのイエズス様の辱しめ、苦しみ、痛み、死刑は、今や無限の喜びと、歓喜と、幸せに変わりました。永遠の命によって、死の苦しみと、辱しめと、痛み、悲しみは飲み込まれてしまいました。

教会はですから、「この1年の中に、この復活祭こそ最も荘厳に、最も喜びを込めて祝おう」と私たちに招いています。

特に今回皆さんに黙想を提案したいのは、「イエズス様に反対しよう」と悪意を持っていたとしても、全世界がそれを、イエズス・キリストに反対していたとしても、「イエズス様にとって全く何の影響も及ぼさない」という事です。

2017年4月16日の日本に住む私たちにとって全く同じです。私たちの周囲は、イエズス・キリストの無い平和、イエズス・キリストの無い社会、イエズス・キリストの無い喜び、イエズス・キリストを排除した世界を作ろうとしているかもしれません。イエズス・キリストを私たちの中からなるべく取り除こうと、殺させてしまおうと思っているかもしれません。その為にマスメディアはイエズス・キリストの無い話しをたくさんします。映画もそうです。或いは学校でもそうかもしれません。或いは政府もそうかもしれません。或いは国際社会がそうかもしれません。しかしイエズス・キリストは、たとえ全世界がイエズス様の復活を否定したとしても、最後には勝利者となります。イエズス・キリスト様は最後には、どうしても「イエズス・キリストこそが私たちの救い主であって、天主であって、贖い主である」という事を認めざるを得なくなるようにされます。

それはイエズス様にとって簡単な事です。たとえイエズス様が全くこの世から無くなったと見えたとしても、アッというすぐその瞬間に、すぐ翌日に、あっという間に状況が変わる事があります。

それは私たちについても同じです。私たちはもしかしたら、「カトリック信者である、聖伝のカトリック信仰を守っている」と、或いはイエズス・キリストの為にはこれをする事ができない、或いは、という為に、もしかしたら世間体や、或いは「他の人から何を言われるか」と、もしかしたら恐れおののいているかもしれません。

何も心配しないでください。たとえ全世界が、マスメディアが、インターネットが、国際社会が、イエズス様を否定したとしても、私たちは何も恐れる必要はありません。イエズス様は必ず勝利者となるからです。イエズス様の反対したという事で一時的には勝利を収めたと見えたとしても、却ってそれがやっかいものになって、却ってそれが辱しめの元となる事でしょう。「あぁ、あの時、みんなと一緒になってああしなければ良かった」と後悔するに違いありません。「イエズス様と留まっていれば良かった、イエズス様を何で反対してしまったのだろうか」と。

愛する兄弟の皆さん、では私たちは今日どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?それは3つあります。

1つは、「イエズス様が真に天主である」という事を確認する事です。「私たちの本当の救い主であって、この方以外私たちを救う方はいない。イエズス・キリスト以外に救世主、真の天主はいない。イエズス・キリストだけが私たちに、永遠の命と救いを与える事ができる」という事です。天主の御父の永遠の昔からの計画はこれです、「全てを、イエズス・キリストの元に集める。」イエズス・キリストのいない世界は有り得ません。ですからそれを確認するという事です。

第2は、「私たちはイエズス・キリスト様を信じる。信者だ」と言いつつも、残念ながら何度イエズス様を侮辱してきた事でしょうか。イエズス様を罪を犯す事によって否んでしまった事でしょうか。或いは世間体によって、或いは臆病によって、或いは卑怯によって、或いは怠慢によって、或いは私たちの弱さによって、イエズス様を却って、「十字架に付けよ!十字架に付けよ!」と言ってしまったのではないでしょうか。或いはそのような事を言っている人たちに対して、私たちは何もする事なく口を閉ざしていただけかもしれません。私たちはイエズス様を前に、どれほど悲しみを与えてしまった事でしょうか。

しかしそのような私たちに対してでさえも、今日イエズス様は、「同じ栄光を与えよう」と、あの「同じ無限の喜びを与えよう」と、今日復活されました。イエズス様が復活されたのはまさに、この私たちを慰め、私たちに喜びを与える為だけです。その為にのみ復活されました。

見て下さい、たとえ使徒と選ばれたとしても、イエズス様を裏切ったユダと、たとえ泥棒を繰り返して、本当に罪を犯したが為に十字架に付けられたディスマスの運命の違いを。イエズス様を皆の前で認めて、そしてイエズス様に祈り、自分の苦しみを償いとして捧げたこのディスマスには、永遠の喜びが与えられました。「汝、今日我と共に楽園にあらん」と。ですから私たちもイエズス様の元に駆け馳せましょう。イエズス様の喜びに与る御恵みを乞い求めましょう。そして決してイエズス様を離れる事がないように、その御恵みを乞い求めましょう。弱い私たちですけれども、その御恵みを乞い求めましょう。

第3には、その為に、私たちがイエズス様の復活の喜びを確実に得る為に、イエズス様を決して離れる事がない為に、秘密があります。マリア様です。マリア様こそ、聖ヨハネをして自分と共に居るように、他の弟子たちには与えられなかったものをマリア様によって与えられました。マリア様が居たがこそ、マリア様のおかげで、聖ヨハネはたとえどのような者であったとしても、十字架の足もとに留まる事ができました。

ですから私たちも、私たちの苦しみ、或いは辛い事、或いはどのような他の人たちから受けるような悪意があったとしても、悲しみや苦しみをマリア様と共にこれを捧げる事に致しましょう。「もうこれで万事休すだ。もう私たちにはもう何もできない。もう本当に悪い嫌がらせをされて、本当にもうこれ以外どうしようもない」というその時に、イエズス様はアッという間にそれを私たちの喜びの源とする事ができます。イエズス様と共に居るならば、マリア様と共に居るならば。

その喜びを今日、教会は私たちに伝えようとしています、「決して落胆する事がないように。私たちにはあまりにも多くの希望する理由と、喜ぶ理由がある。だから私たちはこのイエズス様の栄光の喜びの中に入ろう」と教会は招いています。私たちはこのミサを続けて、教会と共に、マリア様と共に、イエズス様の復活の喜びに入る事に致しましょう。

「お前たちが探している、十字架に付けられたナザレトのイエズスは復活した。もうここにはいない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2017年4月16-17日の聖伝のミサの報告(続き):聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年04月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

次のようなご報告をいただきましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

5月には、シュテーリン神父様が来日されます。特に、秋田巡礼を一緒にされ、その後大阪と東京でミサをされます。シュテーリン神父様はファチマの聖母について、その重要性について、お話をされます。

どうぞ、この5月のシュテーリン神父様のミサ聖祭には多くの方々に来ていただきたいと願っています。特別の機会です。

シュテーリン神父様から、生の声で、ミサ聖祭でファチマの聖母についてのお話を聞いて下さい。聖伝のミサで、ファチマの聖母を敬って下さい!

多くの皆様が聖伝のミサに与ることが出来るように、どうぞ特別の取り計らいなさいますように、お願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ご復活の主日に聖伝の御ミサに与ることができ光栄です!
神父様のお説教で、あらためてご復活の喜びについて黙想することができました。
聖主のご受難の一つひとつの出来事は、その全てが予め予言者や旧約聖書を通して知らされており、天の神の御計画通りだったこと。
その日がユダヤ人にとって過ぎ越しの日で、キリストは人々の罪の贖いのための子羊として屠られたということ。
このこと全ては、季節の最も明るい日のうちに行われたということでした。
天主の御業を、最大限の明るさでわたしたちに『見よ』と示したように感じました。
逃れた弟子たちは恐れと悲しみと失望の暗闇の中にあり、
復活することを明言していたが誰もそれを信じるものはなかったと。
しかし、聖書の預言は成就され三日目に天主は自らの御力で復活されました。
決して認めたくない、信じたくない人々が策を講じて亡きものとしたことが、逆に認めざるをえないきっかけを作ったのだということでした。
現代はイエズス・キリストを拒否しキリストの無い喜びを作ろうとしている。
マスコミが、社会が、全世界がキリストを否定してもご復活がそうであったようにキリスト・イエズスは必ず勝利するということ。
まるでもうキリストは死んだ、と思われたその次の瞬間、救いが現れるのだとおっしゃいました。
また、どんなことが起こったとしてもすべては全知全能の天主様が許されたことで意味のある事。
この大切なことを改めて心に深く刻もうと思いました。
この世は、事実を事実として認めるか、拒否するかの二つに分かれると神父様はおっしゃいました。
主イエズス・キリストがご自身を与え尽くして建てられた教会は無限の喜びを伝え与えて下さいます。
この喜びは天主キリストの死という極限の暗闇を飲み込むほどのものであるということでした。
これこそが『喜びの動機』なのでしょうか。
十字架上で許され改心と救霊の恵みに与った善き盗賊のように真の救い主を認め、救霊を求めること。
そこには秘訣があると神父様はおっしゃいました。
それこそが死の間際に私どもに天主様が与えてくださった最高の宝、御母聖母マリア様。
天主イエズス・キリスト様に常に習い、わたしたちの苦しみをすべて捧げつくすこと。
それを支えて助けてくださる御方がいることを本当に幸せだと感じました。
デオ・グラチアス!!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

フォルティン神父様が大阪で挙げて下さった御ミサの報告をお送りいたします。
4月24(月)殉教者聖フィデリス、25(火)福音史家聖マルコ、26日(水)教皇殉教者聖クレトと聖マルチェリノ
三日間を通して、22人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!!

月曜日と火曜日には、御ミサ後に神父様とご一緒に終課も唱えました。
Te lucis , In manus の御復活節のトーンには喜ばしい雰囲気が溢れていて、最初はたどたどしかった信徒も段々と慣れて、上手に歌えるようになったと思います。日本の聖母の汚れなき御心聖堂で終課が出来ることはとても嬉しいことです。

火曜日には御ミサ前に、フォルティン神父様が紫のカッパをおつけになって祈願祭の諸聖人の連祷をグレゴリオ聖歌で先唱して下さいました。
フォルティン神父様の澄んだ美しい歌声には深い祈りが感じられ、皆大絶賛でした。
ファチマ100周年の今年、神父様と一緒に教会の祈りとして祈願祭の連祷を唱えることが出来た事は大きな意味があるように思います。

ご親切で謙遜なフォルティン神父様を、天主様が報いてくださいますように、
マリア様がお守りくださいますようにお祈りいたします。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

マリア様と共に居たからこそ十字架のもとに立ち留まる事ができた聖ヨハネ様に倣って、私たちも、天主様がお許しになられた送られた苦しみを、十字架を、イエズス様とマリア様の聖心の愛の動機、天主を愛する愛、聖父を愛する為に霊魂を救うという聖なる喜び、希望を以て、堪忍、忍耐してお捧げする事ができますように!

かなりご報告が遅くなってしまったのですが、小野田神父様が福音史家聖ヨハネ様の公教要理の時に、「聖ヨハネの福音書には、側近の者でしか知ることのできない、イエズス様の細かい様子や心の動きを書いている部分があるので、是非探してみて下さい」という事を仰って下さったので、探してみました。

◎ラザロの復活

「イエズスは、彼女がすすり泣き、ともに来たユダヤ人たちも泣いているのを見て感動し、心を騒がせられ、『彼をどこに納めたのか』と言われた。」(11:33)

「イエズスは涙を流された。」(11:35)

「その中のある人は、『あの盲人の目をあけた人でも、彼が死なぬようにはできなかったのだろうか』と言った。イエズスはまた感動された。」(11:37)

◎最後の晩餐

「過越の祭の前に、イエズスはこの世から父のもとに移る時が来たのを知り、この世にいるご自分の人々を愛し、彼らに限りなく愛を示された。」(13:1)

「イエズスはこう話してから、心中憂いながら、『まことにまことに私は言う。あなたたちの一人が私をわたすだろう』と宣言された。」(13:21)

確かに、ラザロの復活の奇跡の話も、近くで見た者でしか分からないようなイエズス様の様子が記してありますし、最後の晩餐の話も、他の福音史家はイエズス様が仰った事のみを書いていますが、ヨハネ福音書にはイエズス様の細かな心の動きが書いてありました。

《分からなかったところ》
もし、公教要理の時に仰って下さっていて、私が聞き漏らしていただけなら本当に申し訳ないのですが、どうして聖ヨハネ様は「鷹」で例えられたのでしょうか?
今までの傾向から、それぞれの福音史家の第1章がどのような話で始まっているかによって表わされているような感じなのですが、ヨハネ様の第1章を読んでも何故鷹なのかが分かりませんでした、、、(;_;)
お手数ですが、またお時間ありますときに御指導をよろしくお願い致しますm(_ _)m

デオ・グラチアス!アレルヤ!

【お返事】
聖ヨハネは「鷲」(aquila, aigle, eagle, αετός, 독수리, 鹰)に例えられています。(中国語では、鷲も鷹も「鷹」と言うそうです。)何故なら、鷲は鳥の中で一番天高く舞い上がることが出来る一つですが、聖ヨハネの福音はその最初から、天高く舞い上がり天主の観想に入るからです。

「はじめにみことばがあった。みことばは天主とともにあった。みことばは天主であった。かれは、はじめに天主とともにあり、万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。かれに生命があり、生命は人の光であった。光はやみに輝いたが、やみはかれを悟らなかった。」

「すべての人をてらすまことの光は、この世に来ようとしていた。かれは世にあり、世はかれによってつくられたが、世はかれを知らなかった。かれは、ご自分の家に来られたが、その人々はうけいれなかった。しかし、かれをうけいれた人々には、みな、天主の子となれる能力をさずけた。そのみ名を信じるすべての人たち、それは、血統ではなく、肉体の意志ではなく、人の意志ではなく、ただ天主によって生まれた人々である。」

「みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。私たちは、その栄光を見た。それは、おんひとり子としておん父からうけられた栄光であって、かれは、恩寵と真理とにみちておられた。」

「そうだ、私たちは、そのみちあふれるところから、恩寵に次ぐ恩寵をうけた。なぜなら、律法はモイゼを通じて与えられたが、恩寵と真理とは、イエズス・キリストによって私たちの上に来たからである。天主を見た人は一人もいない。おん父のふところにおいでになるおん独子の天主が、これをお示しになった。」


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

フォルティン神父様が大阪で3日間も御ミサを御捧げ下さるようになってとても嬉しく思います!マリア様は早速5月分の御ミサをお返しして下さいました!天主様に感謝!マリア様の汚れなき御心に感謝!ヨゼフ様に感謝!

ブログの御説教の記事に、宝石の付いた十字架の写真をアップして下さってありがとうございます!あの素晴らしい十字架を見ると、なるほど確かに、栄光の十字架を隠すために、勝利のしるしである十字架を隠すために、御受難節には紫の布を被せるのだという意味がよく分かりました!

残念ながら最近ではあのような宝石で飾られた十字架自体があまり見られませんので、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂の十字架は宝石で飾られていてきれいだなぁと思います!(o^^o)

私たちを慰め、私たちに喜びを与えるが為に復活して下さったイエズス様を、もうこれからは決して離れることがないように、私たちの苦しみ、或いは辛い事、或いはどのような他の人たちから受けるような悪意があったとしても、悲しみや苦しみを、マリア様と共に、これをお捧げする事ができますように!教会と共に、マリア様と共に、イエズス様の復活の喜びに入る事ができますように!

デオ・グラチアス!アレルヤ!

「ファチマのアヴェ・マリア」  (続き) その3

2017年04月25日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「ファチマのアヴェ・マリア」の聖歌の記事の続きです。

「カトリック聖歌集」に掲載されている歌詞の続きで、さらに新しい歌詞の提案もいただきました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

追加の歌詞は、27番から32番です。

聖歌の歌詞のよいアイデアがありましたらもっともっと知らせて下さい。投稿をお待ちしております!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ファティマのアヴェ・マリア

1 ああうるわし 若葉ゆれて 光りの君 立たせ給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

2 幼子たち 招き給い 神の秘密 ささやきたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

3 おんみこそは 愛の極み 我らの母 慕いまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

4 ロザリオもて 平和祈れ 罪に泣けと 諭させたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

5 おおマリアよ み手をのべて 世の行末(ゆくすえ)照らし給え
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

6 ああ懐かし 空のかなた 導きてよ 愛のみ母
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

【続き】

7 世の罪にて 悲しみ給う 主を慰め 奉らん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

8 我が天主よ われは信じ あがめのぞみ 愛しまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

9 おおイエズス 愛するため 我が苦しみ 捧げまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

10 汚れの無き 御心こそ 我が避難所(のがれば) 天(あめ)への道
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

11 茨刺(いばらさ)さる 母の御心(こころ) 慰めたい、償いたい
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

12 母の心 愛するなら 我が救いを 保証し給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

13 「初土(はつど)毎(ごと)に 五回続け ロザリオもて お勤めせよ」
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

14 主と聖母の 計り知れぬ 功徳により 祈りまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

15 御聖体を 全ての罪の 償いとて 捧げまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

16 み主と母の 御心により 世の回心 願いまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

17 あまたの人 地獄の中 幼子らに みせさせたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

18 雨の中を 民は集う 奇跡を見に 祈るために
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

19 秋の空に 踊る太陽 色とりどり 染まる大地
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

20 人知れずに 子供ヤシンタ 病(やまい)の身を 捧げ逝けり
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

21 罪に痛む 主の姿を 見て祈るは フランシスコ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

22 ルチアは地で 母の御心 知らせるため 選ばれたり
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

23 「聖母に会い この目で見た 間違いない 嘘はつけぬ」
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

24 優し母の 御心(みこころ)こそ あまねく世の 救いとなれ!
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

25 我が日の本(ひのもと) 平和求む 主の御母(みはは)よ 祈り給え
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

26 信じまつる 崇めまつる 望みまつる 愛しまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

27 苦しみもて 罪償い 我ら全て 捧げまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

28 我が御母の 御手によりて 主の玉座の 花とならん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

29 ロザリオもて 祈るならば 解決せぬ ことはあらじ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

30 天主に付き、地獄仇し、われら臨む 霊のいくさ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

31 汚れのなき 御心もて 主と聖母に 御栄えあれ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

32 インマクラータの 凱旋(かちほこり)を 待ちて祈る アヴェ・マリアぞ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

紫の布におおわれた十字架で表される、「対比」と「一致」とは?

2017年04月24日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年4月8日(土)に大阪で捧げた受難節の平日のミサのお説教をご紹介いたします。

ここでは、2つのコントラストについて黙想しました。イエズスの悲しみと喜びです。
何故なら、ファリザイ人や司祭長たちの盲目さ頑なさと一般民衆や子供らの大歓迎とをイエズス様はご覧になるからです。

これは、イエズスの苦しみと栄光につながります。何故なら、イエズス様は「地に落ちて死ぬならば、多くの実を結ぶ」と言い、ご自分の苦しみと栄光について語るからです。

これは、聖金曜日と復活の主日につながります。何故なら、十字架の苦しみを通して復活の栄光と救いと贖いの実りをもたらすからです。イエズス様は言います。「もしも人の子があげられるならば、私の元に全てを引き寄せよう」と。

これは受難週の紫の布に被されている十字架、しかし宝石の黄金の貴重な十字架につながります。何故なら、聖金曜日と復活の主日は二つで一つだからです。

これは、聖母の御悲しみと聖母の喜びとにつながります。何故なら、マリア様の七つの御悲しみは同時に、その御心の奥底にあった聖なる愛、聖なる信仰、聖なる希望と平和と喜びがあったからです。

では、弱い私たちは、どうすれば良いのでしょうか? 相応しくない私たち、力の無い弱い私たちは?どうしたら弱さが力となり、苦しみを栄光へとつなげることが出来るでしょうか? 使徒聖ヨハネに倣いましょう!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2017年4月8日(土)受難節の平日のミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心教会にようこそ。今日は2017年4月8日、受難の節の土曜日のミサをしております。

明日は枝の主日という特別の日で、大きな荘厳な主日になっています。レネー神父様が夕方の18時からここで御ミサをして下さいます。

枝の主日のこの準備の為に、今日御ミサの後の公教要理の時には、その典礼について皆さんと一緒に黙想したいと思っています。一緒に聖歌の練習したり、その意味を黙想したいと思っています、どうぞいらして下さい。

来週の主日は復活祭です。復活祭にも夕方の18時からここでミサがあります、どうぞいらして下さい。

聖金曜日はこの来週の金曜日は、カトリック教会によると大小斎を守らなければならない日です。21歳から59歳までの健康な男女の方々は、どうぞイエズス様の御受難に合わせて大小斎を捧げて下さい。小斎は14歳以上の方は全て守らなければなりません、健康な方はどうぞ守って下さい。



「私が上にあげられる時、全ての人を私の元に引き寄せよう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日のミサでは教会は、私たちが明日の典礼と、それから聖週間、イエズス様の御受難について深く理解するように、その中に深く入るようにと招いています。今日私は、是非、3つのポイントを黙想する事を提案します。

1つは、指定巡礼教会。今日はラテラノ門にある聖ヨハネ教会です。

次に、イエズス様のその御受難の、 御受難に向かおうとするその心構え、一体何の為に、一体どうやってイエズス様は御受難に向かおうとされたのか、

そして最後に、この聖ヨハネ教会とイエズス様を結ぶ第3のポイントとして、マリア様について黙想して、

そして最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

今日の指定巡礼教会は聖ヨハネ、使徒聖ヨハネ教会です。これはちょうど1週間前の今日、聖ヨハネの福音について黙想した時に、「実は聖ヨハネが、エフェゾからドミティアヌス 皇帝によってローマに呼び出されて、そして燃えたぎるぐつぐつとしている油の窯の中に入れられた。しかしそれにもかかわらず、怪我ひとつせずにそこから出てきた」という事を知りました。ちょうどその聖ヨハネが燃えたぎる油の中に入れられて、そして殉教をする、命を落とさなかったけれども拷問を受けた、その場所に建てられたのがこの聖ヨハネ教会です。

ちょうどこれを以って、「イエズス様の十字架の足もとに留まった弟子、唯一の弟子聖ヨハネの元に私たちは行こう。聖ヨハネと共にイエズス・キリストの十字架のもとに留まろう。そしてイエズス様と共に、聖ヨハネのようにたとえ命を失わないとしても、イエズス様の為に油を、燃えたぎる油を受けて、そのような苦しみを受けても、イエズス様の為にこれを捧げよう。そしてイエズス様の御受難に私たちの苦しみを合わせてお捧げしよう」と教会は私たちを招待しています。ですから聖ヨハネと一緒にイエズス様の十字架の足もとに立ち、イエズス様の心の中に深く入って行く事にしましょう。

第2のポイントで、教会はその「典礼の読誦を見て、イエズス様の心を深く知るように」まず言います。昨日の金曜日と受難の金曜日と同じ入祭誦、或いは昇階誦、或いは聖体拝領の詩篇が唱えられます、歌われます。「私」と一人称になっているのは、これはイエズス様が私たちに語っているのです。イエズス様の心を聖心を、聖霊が詩篇を通して私たちに語っているので、「その中に、その聖心をよく知るように」と招いています。

イエズス様の心の中に入る手段として、次に教会が私たちに提案するのは、預言者エレミヤです。受難の金曜日にも同じくエレミヤが出ましたけれども、エレミヤは民の、ユダヤ人たちの罪を回心する為に送られて説教するにもかかわらず、救いの為に送られたにもかかわらず、却ってエレミヤは迫害を受け、苦しみを受けます。そしてこのエレミヤを亡き者にしようと企む人々の事が、今日エレミヤの中で読まれます。ちょうど今日読まれたエレミヤの預言がイエズス様において、そしてイエズス様を迫害するしようとする人々において成就するのを、私たちは目を見張る思いで読みました。

イエズス様のその聖心の中に深くエレミヤを通して入らされた私たちは、遂に福音を通して、イエズス様のその聖心を聞かせようと、聖心からの叫びを聞かせようとします。天の聖父からの叫びを聞かせようとします。

見て下さい。ラザロを生き返らせた、もう腐って腐って臭くて臭くてたまらなかったはずの、腐敗したラザロをイエズス様がたった一言、「ラザロ、起きて来なさい。外に出て来なさい」と言う事によって生き返らせたイエズス様を信じる反対に、多くの人々がイエズス様の方に行ってしまうのを見て、イエズス様のみならずラザロさえも殺そうと決意しました。

聖アウグスティヌスは言っています、「何と愚かな事だろうか。たとえラザロを殺害したとしても、ラザロをイエズス様が復活させたという事は消す事ができない、無きものにする事ができない。ラザロを復活させた方がたとえ殺されたとしても、御自身を復活する事ができないとでも思っていたのだろうか」と。

聖アウグスティヌスは言っています、「そんなに盲目にならずに、イエズス様の事を素直に『メシアだ』と見るべきではなかったのか。救う為に送られたイエズス・キリストを、『まさにこの方こそ私たちを救うべきメシアだ』と素直に受け入れるべきではなかったのか。」

そのファリザイ人や司祭長たちの盲目さ、頑なさをまず福音は私たちに語るのです。

その直後に、何という対照でしょうか、何という大きな隔たりでしょうか、その対極にあるのは一般民衆でした。素直にイエズス様がなさった奇跡、ラザロの復活を見た、目撃した人々でした。彼らは、「イエズス様こそが主の聖名によって来る御方だ!ダヴィドの子だ、ホザンナ!」と「イスラエルの王だ!」と大歓迎をしました。

イエズス様はこのその2つの両極を見て、同時に、この群衆が御自分の事を「メシアだ」と見て、自分の方にやって来るのを見て、きっとお喜びになった事でしょう。何という喜びであったでしょうか。彼らは救い主を救い主と認めて、自分が救われようとされる、イエズス様の目的はこれで達成される。

それと同時に、イエズス様は頑なな司祭長たちを見てどれほどお悲しみになった事でしょうか。彼らがイエズス様の為に企んでいる恐ろしい死、或いは苦しみ、或いは辱しめ、冒瀆、冒辱などを考えると、どれほど心には悲しみに満ちておられたでしょうか。

この2つのコントラストがイエズス様にはありました。もしも一粒の麦が落ちて死ななければ、それはそのまま残るけれども、もしも地に落ちて死ぬならば、多くの実を結ぶ。悲しみと喜び。

イエズス様は御自分が「地に落ちて実を結ぶ為の一粒の麦となろう」と思われました。「十字架の苦しみを通して復活の栄光を、そして救いと贖いの実りをもたらそう」と思われました。

イエズス様は言葉を続けます、「もしも人の子があげられるならば、私の元に全てを引き寄せよう」と。

「悲しみ」と「喜び」、「苦しみ」と「栄光」、これが2つ重なっています。聖金曜日を通して、復活の主日に至ろうと。

その事を考えると、イエズス様の一目見ただけでは、悲しみや苦しみ、十字架の苦しみがあるにもかかわらず、その内には、天主聖父を求めるその愛徳と、霊魂を救おうとするその愛、私たちに対する愛が隠されている事が分かります。

ちょうど「私たちの十字架が紫の布に、喪に服すように被されているけれども、しかしたとえ被されたとしても、十字架は十字架として、栄光の十字架としてそのまま留まる。宝石に散りばめられた、黄金と、銀と、最も貴重な救いの手段として、栄光の元として残る」と「この2つが重なっている」という事が分かります。

イエズス様は今日、聖書学者の研究によれば、弟子たちと共に居たエフレムという砂漠の所から、数日間居た後に、今日エリコに来られて、エリコから明日エルサレムに登ろうとされます。エリコという街を聞くと、私たちは有名なザケオの話を思い出します。ザケオは背の小さい者だったのですけれども、イエズス様を見ようとして木の上に登りました。その事に気が付いたイエズス様は、「ザケオ、早く降りて来なさい。今日私はお前の家に行く」と、ザケオの家に救いが来ました。

イエズス様が今日エリコに来られたので、私たちもザケオのようにイエズス様を拝見しようとイエズス様の方に、イエズス様の十字架の木に登る事に致しましょう。イエズス様と同じく私たちの苦しみをお捧げする事に致しましょう。イエズス様は私たちの家に留まって下さるに違いありません。

イエズス様は明日、エリコからエルサレムに行きます。そして大歓迎を群集から受けて、また盲目の人を、エルサレムでは盲目の人を治したりもします。この治したが為にユダヤ人から更に反感を受けるのですが、夕方にはベタニアの家に行きます。ベタニアの家に行って、マルタとアリアそしてラザロからの歓迎を受けます。マリアは貴重な香油をイエズス様の足に塗って、そしてその匂いは部屋中に広がった、それを見たユダは決定的にイエズス様に反感を起こして、「何でこんな事をさせるのか」とイエズス様を離れる事になります。私たちもそのイエズス様に愛の香油を塗りましょう。

この黙想を終わる前に是非、イエズス様と、十字架に架かろうとするイエズス様と、イエズス様の十字架の足もとに留まったヨハネの隣に居た、もう一人の重要な方を黙想する事に致しましょう。

イエズス様がもしも私たちの為に、私たちを愛するが為に、私たちの贖いの為に十字架に付けられたとしたら、それに最もよく一致しているのは、聖ヨハネよりももっとよく一致していたのは、罪無く苦しみを受けて、やはり十字架に留まった、汚れなき御母マリア様でした。

イエズス様の聖心の苦しみ、張り裂ける思いの、この愛の火に満ちた聖心と同じ心を持っていたのが、マリア様の汚れなき御心でした。天主様は、このイエズス様とマリア様のこの2人が恐ろしい残酷なやり方で苦しむのをお許しになり、それをお望みになりました。

イエズス様のその苦しみを理解する為には、私たちはマリア様の御心をよく理解しなければなりません。何故かというと、2人のこの聖心は、この2つの聖心の中には同じ聖霊の火で燃えていたからです。

イエズス様の聖心には、聖霊の火が燃えていました。聖父を愛する火が燃えていました。三位一体のその愛の火が燃えていました。イエズス様の聖心の中で燃えていた、聖父の栄光を求めるその愛の火。

すると聖父もそれに応えて、今日福音の中で声を聞かせます、「私は栄光をお前に与えたが、更にもっと栄光を与えよう」と。イエズス様は「この声を聞かせたのは、それは多くの人が信じる為であった」と聖ヨハネは証言します。

聖父の為に燃えるこの愛は、イエズス様の御受難の第1の動機である聖父への愛は、それと同時に、「多くの霊魂を聖父の元に引き寄せたい」という動機に繋がります。私たちを憐れんで、聖父の元に呼び寄せるという動機に繋がります。それがイエズス様の私たちに対する憐れみの聖心の動機です。

これと全く同じ心を、マリア様が持っていました。聖霊の浄配として、聖父への愛、天主三位一体への愛に燃えるマリア様は同時に、罪人である私たちをも、「聖心の方に持って行きたい」と思っていました。そこでイエズス様によって贖われた最初の霊魂である、完璧に贖われた霊魂である罪の無い霊魂であるマリア様は、「聖父への愛に私たちを全て引き寄せたい、持って行きたい」と思っています。

こうして見ると、イエズス様の一つの落ちる粒、十字架に上げられた、「上げられよう、そして私の元に引き寄せ、そして聖父の元に連れて行こう」とするその愛は、マリア様と共に分かたれていたという事がよく分かります。イエズス様は憐れみに満ちた御方であって、マリア様はその憐れみを共にして、イエズス様と同じ苦しみと、同じ愛を持った方であるからです。

イエズス様は確かに十字架の上で亡くなりましたが、マリア様は同じような苦しみを、残酷な苦しみを受けつつも生き残ります。マリア様はたとえ命を失わなかったとしても、ほとんど命を絶えてしまうかのように、息絶えてしまうかのように苦しまれました。マリア様は十字架の足もとで、ご自分の全てをイエズス様と共に聖父に捧げられたからです、「霊魂を救おう」と「イエズス様と共に霊魂を救おう」とされたからです。

マリア様の事は特に、イエズス様と共に「憐れみの御母」「殉教者の元后」と私たちが言っている通りです。

もしもマリア様が十字架のもとにこうやって佇む事ができたとしたら、これはまさにイエズス様と同じ心を持っていたからでしか有り得ません。つまり、ただマリア様の心には悲しみ、苦々しい悲しみ、「自分の子供が、自分の財産が、自分の思いが、これで打ち砕かれた。だからもう駄目だ、もう絶望だ。もう、あぁもぅ」という悲しみではありませんでした。マリア様の心を動かしていたのは、マリア様が立ち佇んでいたのは、イエズス様と同じく、天主を愛する愛があったからです。そうでなければ、とてもマリア様はそこにいる事ができませんでした。「天主聖父を愛そう。そして天主聖父を愛するが為に、霊魂への憐れみと、霊魂を救おう」というその愛があったからです。イエズス・キリストへの信仰と、復活への希望があったからです。「イエズス様と共に聖父に栄光を与えて、そして霊魂を救う事ができる」というその喜びがあったからです。

ですからマリア様の苦しみ、外見上の苦しみの心の奥底には、やはりイエズス様の心の奥底にあった、平和と、「天主の御父の御旨を果たしている」「霊魂を救う」という喜びと、平安な気持ちがありました。聖なる希望、聖なる喜びがありました。

ですからこそマリア様は、イエズス様と共に立ち留まり、それをお捧げする事ができたのです。これがマリア様の御悲しみの秘密でした。マリア様の七つの御悲しみ、マリア様とイエズス様の悲しみを、苦しみを黙想するというのは、単なるセンチメンタルな、単なる感傷的なものではありません。「私たちの罪の為にこれほど苦しまれたそのイエズス様の深い動機を、愛の動機を、愛徳の動機を察するがあまり、私たちも自分の罪を償わなければならない。私たちも苦しんで、イエズス様とマリア様に倣って苦しまなければならない。そして私たちが苦しむ事を、天主が許したその送られた苦しみを、十字架を、イエズス様とマリア様と共に喜んで、平和の内に聖なる喜びをもって、堪忍、忍耐する事を私たちが真似るように」と招いているのです。

ちょうどマリア様の御心も、この紫の布で被された黄金と銀と宝石で散りばめられた貴重な十字架のようです。悲しみのように見えるけれども、その奥底には聖なる愛、聖なる信仰、聖なる希望と、平和と喜びで満たされていた。だからこそ、この苦しみを捧げる事ができたからです。

愛する兄弟の皆さん、ですから今日は、イエズス様の十字架の足もとに、聖ヨハネとマリア様と共に一緒に立ち佇む事に致しましょう。この佇む事ができる為には、同じ心を持っていなければなりません。聖なる愛と、イエズス様の為に何かする事ができるという喜び。願わくはマリア様が、悲しみのマリア様が、聖ヨハネが、私たちにそれを取り次いで下さいますように。そしてイエズス様が私たちに、いつもその十字架の近くにいる事を許して下さいますように、私たちが、弱い私たちが十字架から逃げてしまわないように、マリア様を通して力を下さいますように。相応しくない私たちですけれども、力の無い弱い私たちですけれども、御助けを以ってそれをする事ができますように、イエズス様とマリア様と共にする事ができますように、ヨハネに倣う事ができるように、今日は霊的に聖ヨハネの指定巡礼教会に共に行く事に致しましょう。

「もしも人の子が上にあげられるなら、全ての人を私の元に引き寄せよう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

御受難節に十字架を紫の布でおおい隠すのは何故か?

2017年04月23日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年4月2日(主)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年4月2日(主日) 御受難の第1主日のミサ
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年4月2日、御受難の主日、第1主日のミサをしています。

14時30分から公教要理の話の続きをしたいと思っています。今日は聖ヨハネの福音書について、聖ヨハネという人が本当に書いたのか、一体どういう人だったのか、何でその事が分かるのか、一体他の福音書と比べたらどんな違いがあるのだろうか、どんな特徴があるのだろうか、という事についてお話したいと思っています。

16時からは晩課があります。

来週の4月9日もここで10時30分から枝の主日のミサがあります。いらして下さい。

それから来週もう一度皆さんにこの事を申し上げる予定ですけれども、日本の公教会の規定によれば、日本には大小斎を守る日が2日あって、1つは四旬節の最初の灰の水曜日、それからもう1つは聖金曜日です。あと10日の後には聖金曜日があります。大小斎を20歳以上59歳までの方は守るようになさって下さい。14歳以上の方は亡くなるまで、お年をいくら召されても小斎を守らなければなりません。

また公教会の規定によると、少なくともカトリック信者は1年に1度、御聖体拝領をする義務があります、また復活祭の頃に聖体拝領をするという規定があります。どうぞ復活祭の時に聖体拝領をするようになさって下さい。また告解の義務も1年に1度ありますので、この復活祭の義務をよく果たす為にも告解をなさって下さい。ちなみに大阪では復活祭のミサが夕方の18時からあります。



「天主からの者は、天主の言葉を聞く。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は多くの方が、たくさん新しい方がここにいらして下さって本当に嬉しく思います。

今日この御ミサの中で黙想を提案したいと思っています。それは、今日読んだ福音書と書簡書、それから指定巡礼教会というのは一体どんな関係があるのだろうか?何で受難節の最初にこのような書簡を読むのだろうか?一体この受難節というのは一体何なのだろうか?一体何が今までの四旬節と、その今までと変わった、何でこの2週間受難節というのがあるのだろうか?その目的とは何なのか?

一体何を教会は私たちに何を求めていて、一体何を私たちがするように求められているのか?何をするように招かれているのか?一体私たちはこの1週間に、また復活祭までの2週間に何をしなければならないのか?という事を黙想する事を提案します。

そして最後に遷善の決心を立てる事に致しましょう。

まず今日初めて来られた方でも、このミサの会場に入って来ると、「あれ、何だ?何で紫の布が被せられている。十字架に布が被せられている?あれ、何かこの2つの所に紫の布が被っている。」と思うかもしれません。

はい、この紫の布が被っているのが十字架像で、そしてこの両脇の祭壇にあるのはイエズス様とマリア様の御影なのです。これは典礼の古代からの習慣に従って、この「復活祭の2週間前から、受難のこの主日から被せるように、隠すように」と規定があります。

「え?何で被すのですか?まぁイエズス様とかマリア様のこの御像を隠すというのは、まぁ気を散らさないように、イエズス様の御受難を思うという、思う事が雑念が入らないように被す、というのは理解できるけれども、何で十字架像まで被せちゃったのですか?」

非常に尤もな疑問です。何故かというと、教会は紫の布を被す事によって、「これから主が、私たちの主が私たちの為に受難をされる、苦難を受けられる。だから私たちはその喪に服さなければならない」という事を教えたいと思っているのです。

ですから教会のこのミサの時にはいつも、毎週いつも与っている方は気付かれたかもしれませんけれども、この階段祈祷文というものが一部省略されているのです。或いはグロリアというのが省略されます。これは全く死者ミサと葬儀ミサと同じ形をとっています。喪に服しているという事を意味します。

では、一体何で十字架像まで被せてしまうのですか?

何故かというと、古代、十字架というのは宝石で飾られていたからです。宝石が深く組み込まれていて、最も貴重な純金の、或いは銀の、或いはプラチナ、或いはダイヤモンド、ルビー、サファイア、もう貴重な大きな宝石をたくさん付けて、それはもう豪華で、栄光で、「この十字架こそ最も私たちの大切なものだ」というその象徴だったので、その栄光を隠す為に、教会は紫の布を被すように命令しました。何故かというと、教会は確かに四旬節に入りますけれども、四旬節というのは実は勝利の日である、勝利の為の日々である、準備の日々である、という事を教会はよく知っていたからです。





四旬節の第1主日に私たちは黙想しました、「イエズス様が40日間の断食の後にサタンから誘惑を受けてサタンを退けた。」

第3主日には、「悪魔は強いけれども、私は更に強い、私こそが勝利者だ。霊魂たちを悪魔の手から奪って、これを天国に持って行く勝利者だ。」

そして来週、私たちの王は勝利者として、教会の中に棕櫚の勝利の枝を持って入場します。「王たるキリスト、万歳!」という聖歌を歌いながら、私たちもここに入ります。そしてこの勝利を祝って後に、復活祭に来るのです。

ですからその復活祭まで、この栄光の勝利のしるしであるこの十字架は少し隠して、「イエズス様の苦難を、イエズス様の苦悩を黙想しようではないか」と招いているのです。

じゃあ一体何で福音はこのイエズス様の事を読むのでしょうか?

はい、イエズス様は今から受難の期節に入って受難節に入って、これから大司祭として、最高の司祭として、新約の司祭として至聖所に入り、そしていけにえを捧げて、霊魂の為に御自分の血をもってその教会の中に入る、という事を、「今から受難に入る」という事をここで福音では読もうとするのです。

ですからイエズス様は既にユダヤ人から、敵対するユダヤ人から囲まれて、何か言葉尻をつかもうと、或いはイエズス様を非難しようと狙っている人たちに囲まれている場面が読まれます。

しかしイエズス様はそのような敵に囲まれながらも、荘厳に威厳を持って立って宣言されます、「一体誰が私を罪に告発する事ができるだろうか。私は本当に言う、真に真に私は言う、私の言葉を守る者は死を味わない。アブラハムがあった前に私は居る」など、最高の司祭として、天主としての、真の天主、真の人である大司祭イエズス・キリストが今からいけにえを捧げようとして、ユダヤ人たちに立ち向かうその姿が描かれます。

「これからイエズス様は受難に向かって行くのだ」と言うのです。ですからこそ聖パウロもそれに倣って今日は、「大司祭イエズス・キリストは、旧約の司祭たちのように動物の血ではなく、御自分の血をもって至聖所に、天の最も高い至聖所に一人で入られて、そして贖いを完成させられた。今からこの贖いのいけにえの儀式が始まる。」

ちょうど3月25日には御告げの祝日でしたけれども、イエズス様はマリア様の胎内という香部屋で、大司祭の服を人間の服をまとって、そして「遂に、今からいけにえを捧げる時が来た、至聖所に入るその時が来た」とパウロは私たちに予告しています。

ですからこそ教会は、今日聖ペトロ大聖堂を、バチカンの丘の聖ペトロ大聖堂を指定巡礼教会に選びました。

何故かというと、「12使徒の中で、聖ペトロこそ最高大司祭イエズス・キリストの代理者であって、この聖ペトロ大聖堂に集まる事によって集う事によって、今から荘厳ないけにえの時期が、受難の時期が始まるのだ」と、求道者そして公の悔悛者、或いは信徒の人たちにそれを伝えようとしました。

「2週間後に復活祭が来る。」イエズス様は既に福音の中で仰っているのです、「アブラハムは私の日を見て、すなわち復活の日を見て喜んだ、既に」と。「私たちも既にイエズス様の復活を喜ぶ時が来た。2週間後だ。」

しかし教会はよく知っていました、「十字架こそが勝利の道である」という事を。「イエズス様は最終の勝利者であって、王の王であって、十字架という玉座に君臨し給う、十字架の木をもって統治し給う王の王である」という事をよく知っていました。

「最高の司祭であって、その十字架のいけにえを捧げる事によって贖いを完成させられた」という事を知っていました。ですから「この十字架こそが私たちにとって最も大切な宝であって、宝石であって、金銀よりも勝る、この地上の全ての黄金と比べても、それもこの地上の黄金が財宝が全く塵芥に等しい宝物である」という事よく知っていたのです。

ですから教会はこれほど十字架を飾って、これを隠さなければならないほど、その十字架のイエズス様のいけにえの価値を分かっていました。そして今日逆説的に、「だから私たちも、このイエズス様の宝に与る為に、復活の喜びに与る為に、このイエズス様と共に統治者となる為に、王となる為に、さぁ私たちも一緒に、私たちの日常の生活を十字架として捧げよう。私たちの義務を、苦しみを、十字架として捧げよう。イエズス様の苦しみを少し考えてみよう。確かに十字架はものすごい宝だ。その宝の影にどれほどの苦しみがあったかを考えよう」と招いています。

ですから今週の金曜日には、七つの御悲しみのマリア様の特別の記念もなされます。どれほどこの十字架という宝の陰に、イエズス様の苦しみがあっただろうか、と黙想するためです。

では私たちは一体今日、どのような遷善の決心を取らなければならないでしょうか?

まず1つは、教会がよく理解したように、私たちも十字架の価値をよく理解しなければなりません。「十字架」というのは、「あぁ、嫌だ」ではなく、まさに私たちの宝の詰まった宝庫なのです。私たちを豊かにさせ、私たちを幸せにして、私たちに統治権を与える、天国への鍵を与える、全ての宝の源、祝福の源であるという事です。王の道こそ十字架の道です。

第2に、この十字架のこの価値は、そのイエズス様の大司祭としての価値に隠されていました。聖ペトロは言います、「お前たちは大司祭の民である。」

残念ながら近代主義の人たちがこの言葉を、或いはプロテスタントの人がこの言葉をおかしく解釈して、「だから、大司祭の民だから、平信徒も一緒にミサの中で聖書を読んだり、或いは聖体を配ったり、或いは司祭と一緒にこう…」

そうではなくて、教会が教えていたのは、「私たちが大司祭の民であるという事は、イエズス・キリストと共に、私たちの日常の生活をいけにえとして捧げる事ができる、私たちの苦しみは永遠の価値を持たせる事ができる、キリストと共に居る事によって、捧げる事によって、私たちの人生、儚い人生が永遠の宝となる。だからその犠牲をいけにえを捧げる事ができる、司祭職に参与できる、キリストの司祭職に参与できるのだ。特にミサに与る事によって参与できるのだ、御聖体を拝領する事によって与る事ができるのだ」と教えているのです。

何と素晴らしい事でしょうか。私たちの嫌な事、いじめられた事、或いは病気、苦しみ、或いは失敗、事故、或いは辛い出来事、悲しみが、永遠の価値を持つ宝になるとは、一体どれほどの喜びでしょうか。何という栄光ある司祭の民でしょうか。

第3に、教会の精神に従って、来たる金曜日が、この受難節にマリア様の事を考えさせる教会の精神に従って、私たちも今年のこの受難節中にはファチマのマリア様を考えましょう。ファチマのマリア様も同じ事を仰っていました、「いけにえと償いを捧げなさい」と。「そうする事によって多くの霊魂を救う事ができる、この世界に平和をもたらす事ができる。私たちのする祈りと犠牲によって、政治家よりももっと大きな平和の為の行為ができる」という事を私たちは知らされました。

ですから特にマリア様に、汚れなき御心のマリア様に、私たちのイエズス様の御受難の黙想と、祈りと犠牲を捧げる事に致しましょう。

「天主からの者は、天主の言葉を聞く。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

十字架を金銀・宝石で飾った理由とは、その起源とは?

2017年04月22日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年4月1日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年4月1日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心教会にようこそ。

今日は2017年4月1日、四旬節の第4主日の後の土曜日で、4月の初土曜日のミサをしています。このミサは聖母の汚れなき御心の随意ミサです。

このミサが終わりましたら、感謝の祈りの後の公教要理で、福音書のお話の続きをしたいと思っています。今日は聖ヨハネの福音書という、4つの福音書の最後の福音について、一体誰が書いたのか、どういう人だったのか、どこで生まれて、どうやって亡くなって、いつ頃、誰の為に書いたのかという事を皆さんにお話したいと持っています。もしよろしかったらいらして下さい。


「私を見出す者は命を見出し、そして主から救いを汲み取るだろう。」

聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は四旬節の、特にこれから明日から御受難節という復活祭の前の特別の2週間に入ろうとしています。

それでこのミサが終わると、典礼によると十字架には紫の布が被せられて、それは聖金曜日の十字架の礼拝式という時までずっと被されたままでいます。それから御像も、ステンドグラスはそうではないのですけれども、御像も紫の布が被せられます。イエズス様の御像とかマリア様とか、天使、ヨゼフ様、ありとあらゆる御像は紫の布をすっぽりと被せられて、これは復活祭の徹夜のミサの時に、天使の歌ったグロリアの声が聞こえるまで、そのまま私たちの目から姿を消します。

一体何故そんな事をするのだろうか?一体教会は私たちにどんな事を望んでいるのだろうか?

そしてその教会の心の中に、その望みを果たす為に、一体どんな手段が、どうしたら良いのだろうか?実はその一番良いのが、実はマリア様の汚れなき御心に対する信心だ、という事を黙想して、

では今日は遷善の決心を立てる事に致しましょう。


まず、「一体何で十字架に紫の布を被せるんだろう?」

実はこれは、「教会がこれから喪に服す」という意味があります。イエズス様の御受難を思って、イエズス様が、イエズス・キリスト様が私たちの為にどれほど不当な扱いを受けて、苦しまれて、十字架を担わされて、釘付けにせられて、そして全く罪が無かったにもかかわらず極悪人として、私たちの罪の償いの為に十字架の上で命をお捧げになった、御自分の御血潮を全て流された、私たちの罪の償いの為だった、その喪に服す為なのです。

明日のミサからちょうど、お葬式のミサと同じように葬儀ミサと同じように、入祭誦の時にはグロリアを省略したり、やはりお葬式のミサのように、司祭が手を洗う“Lavabo”の時にもグロリアが無かったり、或いは階段祈祷の詩篇“Judica me”というものがやはりお葬式のミサのように無かったり、何かお葬式のミサに与るような感じで、ミサが明日から進められます。

そればかりでなく、教会は私たちに喪服を着るかのように、十字架と諸聖人の像には紫の布を被せます。諸聖人の像に紫の布を被せて喪に服すというのは、「あぁ、きっとそれは諸聖人の事ではなくて、イエズス様の事を考えるようにという事なんだなぁ」という事が分かりますが、では一体なぜ十字架にさえも、これから黙想しようとするその十字架にさえも布を被せてしまうのでしょうか?

実はそれは深いわけがあります。何故かというと、教会はその古代から、「十字架というのは勝利の手段である、勝利のしるしである。悪魔に対する勝利、この世に対する勝利、そして自分自身に対する勝利のしるしである。栄光のしるしである」という事を深く自覚してきました。「私たちがもしも贖われた、救いを得たとしたら、この十字架によってのみ、これを通してのみであった。」どれほど十字架というものが大切なのかという事を深く知っていました。

そこで教会は、その十字架を非常に大切にして、金や銀や或いはプラチナとか、ものすごい貴重な貴金属で十字架を作ったり、純金の十字架に更にそれに貴重な宝石、とても高価な石や、その他極めて高価な飾りを装飾を付けて、もうその光眩く輝かしい勝利のしるしとして十字架を飾っていました。中にはもうこれ以上考えられないというような宝石、貴重な物が、ダイヤモンド、ルビー、サファイアはもちろん、もう想像を絶するような宝が十字架の上に散りばめられて、それに深く組み込まれていました。





王のしるしとして相応しいのは、黄金と金と銀とそして宝石でした。そのきれいに飾られた黄金のしるしである十字架を、教会は今からその栄光のしるしを隠して、イエズス様の御受難に集中しよう、諸聖人や天使たちの姿を隠して、イエズス様の私たちに対する苦しみを今から深く黙想しよう、という事を意図して、私たちを招く為に、御受難へと招く為に、十字架にこうやって覆いをしようと考えたのでした。

今日はですから、今イエズス様やマリア様、或いは十字架の輝きを見る最後の日なのです。

イエズス様は御父から委ねられた霊魂たちを救う為に、天国に導く為に、天国の栄光を与える為に、これから戦いに、苦しみの中に入ろうとしています。イエズス様の唯一の動機は、私たちを愛する、私たちを救いたい、その為であればどんな犠牲もどんな苦しみも厭わない、ただそれだけでした。

典礼によれば、四旬節には3つの段階があります。

第1の、四旬節の第1主日は、イエズス様が砂漠で悪魔と戦うのですけれども、悪魔から誘惑を受けて、それを退けます。防御の時です。

第3主日には、イエズス様は悪魔と比べたら、「悪魔は強いかもしれないけれども、私は更に強い。より強い者がこの攻撃に来た。霊魂を奪いに来た。」

そして来週、この枝の主日では、イエズス様は私たちの霊魂を救う為にやって来た王として、本当の征服者としてこの世の勝利者として、枝の主日を祝います。

そして更にその後に復活祭が待っています。

こうする事によって教会は、イエズス様の本当のこの御受難の意味は、霊魂を勝ち取る為の勝利者としての姿を見せようとしています。

教会はそうする事によって私たちに何を求めているかというと、ただ2000年前に、「あぁ、イエズス・キリスト様といわれる救い主が私たちの為に、あぁ十字架の上に架かって血を流された。そういう話があった、めでたしめでたし」ではなくて、「実はイエズス・キリスト様が永遠の天主であり、時と時間を超えたこの世の創造主であり、この全世界を創った真の天主、この人となったこの天主が今、2017年4月1日、今私たちの為にその苦しみを受けて、それをミサという形で私たちの為に捧げて下さっている。

今このイエズス様の苦しみは、神秘体、イエズス様の神秘体、カトリック教会として捧げられている。

そして私たちもその一部であって、その典礼を通してミサを通して、私たちはイエズス様の苦しみに参与している、勝利に参与する」という事を表そうとしています。

もしも四旬節の時に私たちが大小斎を捧げるとしたら、それはイエズス様が仰ったその言葉に倣う為です。「花婿が取り去られた時には、花嫁は断食をするだろう、その時は断食をするだろう。」

花婿が取り去られる時が今来ようとしています。ですから、「四旬節には断食をしよう」と教会は決心しました。

では、そのイエズス・キリスト様のその十字架に参与するというのは、私たちがキリストの神秘体として苦しみに与って、その勝利にも与るというのはどうやってなされるのでしょうか?

それは2つの方法があります。

1つは、成聖の恩寵によって、イエズス・キリスト様の神秘体の一部となる事です。これは洗礼によってなされます。洗礼を受ける事によって私たちは、キリストの神秘体の一部となるからです。ですから教会はカトリック教会は、この四旬節の時に特に洗礼志願者の方々の為にお祈りを捧げて、その洗礼志願者の方々がより良い準備をして、復活の徹夜祭の時に洗礼式を受けて、キリストの神秘体の一部となり、イエズス様の御苦しみに与り、そして勝利に与る事ができるようにと準備しました。

また第2のより深い一致の手段としては、御聖体による一致があります。御聖体というのは、イエズス・キリスト様の御体を、本当の体を、マリア様の御胎内に宿ったその同じイエズス・キリスト様の御体を、私たちが御聖体によって拝領する事です。イエズス様と一つの体となる事です。この御聖体によって私たちはますます、イエズス様の御苦難と復活に与る事になります。

教会は公の悔悛者の為に、彼らが聖木曜日にもう一度罪を赦されて、御聖体拝領をする事ができるように準備をしてきました。こうする事によってイエズス様の御受難は、ただ単に2000年前のただのお話ではなく、歴史的な事実としてだけでなく、現在、私たちと一緒に、私たちもそれに参与する、それと一つとなって、それを生きる者となるのです。

ですから教会は、イエズス様の苦しみを、「幸せな御受難」「これによって喜びが私たちの世界に入って来たものだ」として、御受難を却って喜ぼうとするのです。私たちの救いと贖いの手段として、これを非常に喜んで記念をします。勝利のしるし、栄光のしるしとして、宝石を散りばめて、これを「最も大切なものだ」、これを「厭い嫌うものではなくて、もうこんなものは嫌だ、これから避けようとするのではなくて、却ってこれをますます愛そう」と、これを「大切にしよう」と、全ての神経を集中させてこれを飾ろうとしました。

これが教会の信心であって、愛の姿であって、そしてこの宝石を散りばめられた十字架の起源でした。「この十字架に私たちは与るのだ。栄光の十字架に与るのだ。救いの手段の一部となりたい」と教会はいつも思っていました。

ですから聖パウロの言葉が私たちの教会にはこだましています、「私はキリスト共に十字架に付けられた。もはや生きるのは私ではなく、キリストが私において生きる。天主の御子は人の子は、私を愛して十字架に自分を、私の為に十字架に付けられた、その身を渡された。イエズス・キリストと私は一つとなった。その栄光の十字架と私は一つである」と思っていました。

では、私たちはどうやったらその十字架の神秘の中に深く入って、教会と一緒にイエズス様の御受難を祝う事ができるでしょうか?喜びをもってその御受難を黙想する事ができるでしょうか?

ともすると私たちは、「十字架」というのは「嫌だ」、「辛い」、「何か避けたい」、辛い事があると、もうすぐにもう何とかしてこれから避けて、これを怒ったり或いはしてしまう。どうしたら良いのでしょうか。

マリア様は私たちにこう言います、「私を見出す者は命を見出し、そして主から救いを汲み取る。」イエズス様も預言者の口を通して言うではないですか、「もしも渇く者があったら、私から飲め。」

私たちはですから、この御受難の中に入る為に、マリア様に行く事に致しましょう、汚れなき御心に行く事に致しましょう。何故かというと、マリア様こそ教会の深い精神をよく知っていたからです。十字架の意味をよく知っていたからです。苦しみの価値をよく知っていたからです。

「十字架というのは私たちにとって宝石であって、とても貴重な宝物であって、十字架にこそ命があって、救いがあって、贖いがあって、これを通してのみ私たちは本当の命と、本当の幸せと、本当の価値のある宝を得る事ができる」とよくご存知だったからです。

もしも、私たちが洗礼のお恵みを受けてイエズス・キリストの神秘体の一部となり、イエズス様の御体を御聖体として受ける事ができるとしたら、これはますます十字架の宝を得る為です。

ところでこの事を一番良くやったのは、マリア様の汚れなき御心ではなかったでしょうか。何故かというと、私たちは洗礼を受けて三位一体聖霊の御恵みを受けますけれども、聖霊が私たちの霊魂に入りますけれども、三位一体が私たちに住まいますけれども、マリア様はその最初の御受胎の瞬間から、聖霊の神殿となり、聖霊といつも一致していました。マリア様こそ完壁な、教会のキリストの神秘体の一部として聖霊と一致していた御方だからです。

そればかりか、マリア様はイエズス様を御体の中に御胎内に宿した方です。私たちは司祭の手から御聖体を受けますけれども、マリア様は天使の言葉を受けて、御胎内の中にイエズス様を宿されました。イエズス様を宿された時のマリア様の愛と信心はどれほどだった事でしょうか。どれほどの礼拝をもって、イエズス様を御胎内に宿された事でしょうか。

それにひきかえ私たちは、御聖体拝領する時、どれほどイエズス様の事を礼拝し、感謝し、イエズス様に私たちの苦しみや生涯を、日常の務めをいけにえとして捧げているでしょうか。それとも気を散らしたり、雑念だったり、或いは「お昼に何を食べようか」とか、或いは「これから何をしようか」などと考えて、イエズス様の事を全く忘れていた事がどれほど多くあった事でしょうか。

これを考えると、教会の中に精神に深く入る為には、マリア様の御心に学ぶのが一番だと分かります。どうぞこの今日初土の信心の1とつして、「マリア様の汚れなき御心に対して冒される罪を償う為に御聖体拝領をする」というのがあります。マリア様と共に、マリア様の精神で、初土の信心をなさって下さい。そうする事によって私たちはますます、教会の典礼の精神の中に深く入る事ができます。罪の償いと、十字架の価値の意味が深く分かるようになります。

では今日は、マリア様の汚れなき御心の御助けによって、この聖週間、御受難節の中に深く入る事ができるようにお祈り致しましょう。

「私を見出す者は命を見出し、主から救いを汲み取る事だろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。

大阪での特別ミサの予定です(フォルティン神父様)

2017年04月22日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フォルティン神父様が「休暇」を取られ、飛行機の乗り換えの都合で大阪に立ち寄ることになりました。
 そこで次のミサが追加になる予定です。

4月24日(月曜日)午後6時:ミサ聖祭
4月25日(火曜日)午後6時:ミサ聖祭
4月26日(水曜日)午前6時:ミサ聖祭

 もしも来ることが出来る方々がおられるなら幸いです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Ave Maria Immaculata!

My dear Brethren,

Fr. Peter Fortin needs to make a stop-over at Osaka for his Holiday-missions. Thus I am happy to inform you that there will be Masses celebrated by him on the following days in Osaka:

April 24 at 6:00 pm.
April 25 at 6:00 pm.
April 26 at 6:00 AM.

I will be very glad if this information interests you and if many of you can attend these Masses.

God bless you.

Fr Onoda



ロザリオの十字軍)2017年4月20日現在、日本からロザリオ13,828環、犠牲48,889回が報告されました。

2017年04月21日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年 4月 20日現在、

日本から今までの総計で、ロザリオ13,828環、犠牲 48,889回が報告されております。天主様に感謝!愛する兄弟姉妹の皆様のご協力に感謝します。

マニラからは、ロザリオ152,631環、犠牲41,071回が報告されています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
2月 ロザリオ345環
3月 ロザリオ204環
よろしくお願いします。

【報告】
ロザリオ十字軍 (パウロとカタリナ)

1月13日から3月20日までのロザリオは2人合わせて《642 環》でした。
聖伝の御ミサは2000年前のカルワリオの再現です。
2000年前の聖主の御受難を目の前にして私達はどの様に振る舞えたでしょうか。
人間の救霊の為に自らを生贄とされた聖主にどの様に報いたら良いのでしょうか。
そんな事を黙想しながらロザリオを唱え夫婦でどんな小さな事も犠牲と償いとして天国にお捧げする努力をしていきたいと思います。
カルワリオの祭壇に無償の小さな犠牲を捧げた2人の兄弟姉妹が聖主の大きな聖寵を受け聖母のマントに包まれた事に僕達も見習いたいと思います。

【報告】
ロザリオ十字軍報告 (フィロメナ)

+Ave Maria! Immaculata!
ロザリオ十字軍のご報告です。
3月20日までの分です。
アンデレ、ロザリオ168環、犠牲62回。
フィロメナ、ロザリオ119環、犠牲80回。
聖母の汚れなき聖心よ我等のために祈り給え。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!!♪♪

遅くなりました!3月分の聖なるロザリオの十字軍の!!♪♪皆様からの嬉しい御協力の御報告を致します!♪

色々たくさん、御礼がありますのですが!♪遅くなりましたので、御報告を致します!♪m(_ _)m

            聖なるロザリオ!!♪♪ 犠牲

シスター         93 環          
ヨゼフ マリア      58 環        0回
アンナ           30環       200 回 
マリア・ルチア        3環         7回
マリア・クリスティーナ   30環       620 回
マリア           31環       310 回
バルナバ         88 環       310 回
アリア・ローザ     105 環       620 回
ヨゼフ・パウロ       93環         0 回       
マリア・ヨハネ      114環       371 回
マリア           90環        186回
マリア           93環        465回          
          計 828 環       3089回 

以上です♪ どうぞ宜しく御願い致します♪

私達のために!非常な御受難を御受け下さいました!!!天主イエズス・キリスト様!!!♪♪♪

聖なるロザリオの聖母マリア様!!♪♪

聖会の保護者なる聖ヨゼフ様!!♪♪

デオ・グラチアス!!!♪♪♪

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんにちは。
遅くなりましたが、3月のロザリオ十字軍の報告です。

ロザリオ 123環
犠牲 401回

3月は 聖ヨゼフのノヴェナを 毎日お捧げできましたので、聖ヨゼフ様にお助けいただいた おかげと感謝いたしました。

聖マリアの汚れなき御心のうちに。
アレルヤ!


【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

3月のロザリオ十字軍のご報告をさせていただきます。
大変遅くなりまして、申し訳ありません(>_<)

6人で
ロザリオ:302環
犠牲:748回
お捧げいたしました。

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファティマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。

「ファチマのアヴェ・マリア」  (続き) その2

2017年04月20日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「ファチマのアヴェ・マリア」の聖歌の記事の続きです。

「カトリック聖歌集」に掲載されている歌詞の続きで、さらに新しい歌詞の提案もいただきました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。追加の歌詞は、ゴチックにしてみました。

聖歌の歌詞のよいアイデアがありましたら是非知らせて下さい。投稿をお待ちしております!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ファティマのアヴェマリア

1 ああうるわし 若葉ゆれて 光りの君 立たせ給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

2 幼子たち 招き給い 神の秘密 ささやきたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

3 おんみこそは 愛の極み 我らの母 慕いまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

4 ロザリオもて 平和祈れ 罪に泣けと 諭させたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

5 おおマリアよ み手をのべて 世の行末(ゆくすえ)照らし給え
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

6 ああ懐かし 空のかなた 導きてよ 愛のみ母
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

【続き】

7 世の罪にて 悲しみ給う 主を慰め 奉らん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

8 我が天主よ われは信じ あがめのぞみ 愛しまつらん
アヴェ~アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

9 おおイエズス 愛するため 我が苦しみ 捧げまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

10 汚れの無き 御心こそ 我が避難所(のがれば) 天(あめ)への道
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

11 茨刺(いばらさ)さる 母の御心(こころ) 慰めたい、償いたい
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

12 母の心 愛するなら 我が救いを 保証し給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

13 「初土ごとに 五回続け ロザリオもて お勤めせよ」
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア


14 主と聖母の 計り知れぬ 功徳により 祈りまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

15 御聖体を 全ての罪の 償いとて 捧げまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

16 み主と母の 御心により 世の回心 願いまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

17 あまたの人 地獄の中 幼子らに みせさせたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

18 雨の中を 民は集う 奇跡を見に 祈るために
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

19 秋の空に 踊る太陽 色とりどり 染まる大地
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

20 人知れずに 子供ヤシンタ 病(やまい)の身を 捧げ逝けり
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

21 罪に痛む 主の姿を 見て祈るは フランシスコ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

22 ルチアは地で 母の御心 知らせるため 選ばれたり
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

23 「聖母に会い この目で見た 間違いない 嘘はつけぬ」
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア


24 優しき母の 御心こそ あまねく世の 救いとなれ!
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

25 我が日の本(ひのもと) 平和求む 主の御母(みはは)よ 祈り給え
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

26 信じまつる 崇めまつる 望みまつる 愛しまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

2017年4月16-17日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年04月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

日本で復活祭のミサをすることができたのは、今年で2回目です。今年は大阪の新しい御聖堂「聖母の汚れなき御心」で初めての復活祭でした。

きれいに飾られた聖堂の、まばゆく輝く十字架と祭壇、そこで私たちの主イエズス・キリストの御復活を荘厳に祝うことが出来て、大変幸せでした。

フィリピンでは何百人もの方々が告解し、千名以上の方々が私たちの教会を訪問しましたが、大阪の復活祭も多くの方々が告解し、聖伝のミサに与り、イースター・エッグの祝別や、愛する兄弟姉妹の皆様がお持ち寄って下さったお菓子をいただいたり、最後には復活の主日の終課を歌って終わり、幸福でした。

次のようなご報告をいただきましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

御ミサの報告をお送りいたします。

4月16日 御復活の主日には、26名の方々が、
翌、17日 ご復活後の月曜日には9名の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

ご復活の大祝日に大阪で荘厳な喜びに満ちた御ミサに与る事が出来て、本当に感謝と幸福でいっぱいでした。
夜の御ミサだったにもかかわらずご両親と一緒に与られていた小さなお子さんや赤ちゃんがぐずりもせず長い時間をじっとしておられたのを見て、感心しました。

お説教では御復活の喜びの理由を黙想しました。
イエズス様が真の天主、真の救い主であり、 私たちに永遠の生命を与える方であるという事を認め、
そしてそれを信じるキリスト者である事を宣言し、二度とイエズス様をお悲しませする罪を犯さず、
決してイエズス様を離れない。そのために聖ヨハネのようにマリア様とともに留まる。ということを決心しました。
「決してイエズス様を離れない」という事はただ、十字架の印をし、家に十字架を掛けていることだけではなく、「十字架にかかっているイエズス様を離れない」「イエズス様を愛するために自分の十字架から逃げない」という事ではないかと思いました。
この四旬節を通して、カトリックのシンボルはただの十字架ではなく、イエズス様がおられる十字架で、そこに私たちの幸福の全てがある事を今まで以上に 深く学んだように思います。今年は四旬節をマリア様のみこころと一緒に過ごすこと、マリア様に助けていただいて四旬節を過ごそうと決心していたので、マリア様のお助けで何とか例年より四旬節を真剣に過ごせたと思います。
とはいえ、私のような弱い、貧しいどうしようもない人間はまだまだマリア様のお助けがなければ、いの一番に十字架から逆の方向へ全速力で速攻走って逃げるに決まっているので、四旬節に限らず、マリア様の汚れなき御心にしがみついて、よいカトリック信者になりたいと思います。

聖週間の典礼は、ただ与っている信徒でさえ疲れてくたくたになってしまうプログラムですのに、韓国で聖週間、夜中のミサ、ご復活の御ミサの苛酷な聖務を終えた後に日本にまで来て下さった神父様はどれ程お疲れだったことでしょうか?天主様の特別のお恵みがなければきっとできない事だと思います。
日本を特別に愛して下さる小野田神父様のお働きに天主様が報いてくださいますように!インマクラータが特別のお恵みをお与えくださいますように!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

トマス小野田神父様、

主の御復活おめでとうございます。
御ミサには預かれませんでしたが、
一言お祝い申し上げます。
秋田での再会を期して。。。

デオ・グラシアス!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

昨日と今日と、御復活祭の大祝日の御ミサ、御復活の月曜日の御ミサ、終課など色々ありがとうございました!!

今年も日本で復活祭の御ミサが捧げられてとても嬉しいです!小野田神父様の御説教でも御復活の力強さがひしひしと伝わってきました!韓国で御復活の徹夜祭もなされた直後に日本にお越し頂いて、本当にお疲れだったと思いますが、全くそれを感じさせない多くの犠牲をありがとうございます!m(_ _)m

御聖堂では、しばらく被されていた紫の布が外されて、十字架像、イエズス様とマリア様の御像、天使たち、きれいに飾られたお花たちがステンドグラスからの光に照らされているのを見て、「あぁ、きれいだな」と、とても大きな御復活の喜びに満たされました。

デオ・グラチアス!アレルヤ!

ジョルジュは決して混乱したカトリック教徒ではなかった。

2017年04月17日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

ソウルでは復活の徹夜祭で、Exultet jam Angelica turba caelorum! 「天の天使たちの群れよ、すでに喜び踊らんことを、天主の神秘らよ、喜び踊らんことを、かくも偉大な王の勝利のために救いのラッパを響かせんことを!」と歌い、ミサ聖祭をささげました。

聖ピオ十世会のインテリジェンス・サービスのDiciの面白い文章「教会がどうなってしまったのかよく分かっていたカトリック信者のこの30年間の道のり」を日本語に翻訳してくださった方がおられます。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

フランス語原文:Itinéraire d’un catholique non perplexe

英語訳:Journey of a Catholic who is not confused

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


「教会がどうなってしまったのかよく分かっていたカトリック信者ジョルジュのこの30年間の道のり」

1976年の8月下旬、ジョルジュはフランスのリル市でミサに行きました。このミサで、マルセル・ルフェーブル大司教の聖伝のための戦いが始まったことが、全世界に告げ知らされたのです。ジョルジュの主任司祭はジョルジュにこう脅しの言葉をかけました。「君は禁止されたミサを挙げている反乱分子の司教に従っているのだぞ。」

1988年、ジョルジュはエコンで行なわれた司教の聖別式に行きました。ジョルジュは既にこの主任司祭のミサに行くのを辞めていたのですが、その主任司祭はジョルジュにこう警告しました。「君たちはみんな離教者だ、君も、君の司教たちもだ。」

ジョルジュがパリのサン・ニコラ・ド・シャルドネ教会で結婚式を挙げた時は、ジョルジュの主任司祭はジョルジュに、「君は結婚していない」と確信を持って言いました。

ジョルジュはいつもはこのサン・ニコラ・ド・シャルドネ教会で司祭に告解をしていたのですが、ジョルジュの主任司祭は彼にこう言ったのです。「君がソーシャル・ワーカーの女性に会いにいっても同じことだ。なぜならあの司祭はソーシャル・ワーカーと同様に、罪を赦すことができないからだ。」

2007年、ジョルジュは、聖伝のミサが決して廃止されたことはなかったこと、そして自分が30年間禁止されたミサに与っていたのではなかったことを知りました。2009年、ジョルジュの主任司祭からの痛烈な批判にもかかわらず、ジョルジュの子供たちが堅振を受けた司教は破門されはしませんでした。

2015年、ジョルジュの告解を聞く司祭の告解は有効であり、ジョルジュはそれを疑ったことはありませんでしたが、この事実を聞いてジョルジュの主任司祭は安心するに違いありませんし、ひょっとしたら、主任司祭自身が安心してサン・ニコラ教会に告解をしに来るかもしれません。

今月、ジョルジュは自分の婚姻の秘蹟を有効に執り行ってくれた司祭が、もう一度ジョルジュの婚姻の秘跡をやり直す必要がないことを知りました。これできっとジョルジュの主任司祭も、数十年遅れながら、ジョルジュの結婚をお祝いすることができるでしょう。

ジョルジュは決して混乱したカトリック教徒ではありませんでした。今、ジョルジュは確信しています。あらゆる批判にもかかわらず、自分自身の受けたものを伝えてくださったルフェーブル大司教に従うことは正しかったのだと。

アラン・ロラン神父



参考資料
「聖ピオ十世会の信徒たちの婚姻に関するエクレジア・デイ委員会の手紙について」 聖ピオ十世会本部の報道発表

Analyse de la Lettre de la Commission pontificale Ecclesia Dei sur les mariages des fidèles de la Fraternité Saint-Pie X

Letter of the Pontifical Commission “Ecclesia Dei” to the Ordinaries of the Episcopal Conferences concerned on the faculties for the celebration of marriages of the faithful of the Society Saint Pius X

Your Eminence,

Your Excellency,

As you are aware, for some time various meetings and other initiatives have been ongoing in order to bring the Society of St. Pius X into full communion. Recently, the Holy Father decided, for example, to grant all priests of said Society the faculty to validly administer the Sacrament of Penance to the faithful (Letter Misericordia et misera, n.12), such as to ensure the validity and liceity of the Sacrament and allay any concerns on the part of the faithful.

Following the same pastoral outlook which seeks to reassure the conscience of the faithful, despite the objective persistence of the canonical irregularity in which for the time being the Society of St. Pius X finds itself, the Holy Father, following a proposal by the Congregation for the Doctrine of the Faith and the Pontifical Commission Ecclesia Dei, has decided to authorize Local Ordinaries the possibility to grant faculties for the celebration of marriages of faithful who follow the pastoral activity of the Society, according to the following provisions.

Insofar as possible, the Local Ordinary is to grant the delegation to assist at the marriage to a priest of the Diocese (or in any event, to a fully regular priest), such that the priest may receive the consent of the parties during the marriage rite, followed, in keeping with the liturgy of the Vetus ordo, by the celebration of Mass, which may be celebrated by a priest of the Society.

Where the above is not possible, or if there are no priests in the Diocese able to receive the consent of the parties, the Ordinary may grant the necessary faculties to the priest of the Society who is also to celebrate the Holy Mass, reminding him of the duty to forward the relevant documents to the Diocesan Curia as soon as possible.

Certain that in this way any uneasiness of conscience on the part of the faithful who adhere to the Society of St. Pius X as well as any uncertainty regarding the validity of the sacrament of marriage may be alleviated, and at the same time that the process towards full institutional regularization may be facilitated, this Dicastery relies on Your cooperation.

The Sovereign Pontiff Francis, at the Audience granted to the undersigned Cardinal President of the Pontifical Commission Ecclesia Dei on 24 March 2017, confirmed his approval of the present letter and ordered its publication.

Rome, from the Offices of the Congregation for the Doctrine of the Faith, 27 March 2017.

Gerhard Card. L. Müller

President

+ Guido Pozzo

Secretary
Titular Archbishop of Bagnoregio

Le Pape autorise la FSSPX à célébrer des mariages licites et valides
New pastoral provisions for Sacrament of Marriage for SSPX
Mgr Pozzo: le dialogue avec la Fraternité Saint-Pie X se poursuit


2017年4月7日-10日の聖伝のミサの報告(続きその2):聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年04月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日、聖木曜日の「主の晩餐の夕のミサ」をソウルで捧げました。跣足式の「ウビ・カリタス」を聖歌隊が歌い、とても感動的でした。

「ウビ・カリタス」の歌詞と日本語訳をご紹介します。「カトリック教会の祈りとしらべ」さんからの日本語訳です。

UBI caritas et amor, Deus ibi est.
Congregavit nos in unum Christi amor.
Exultemus, et in ipso iucundemur.
Timeamus, et amemus Deum vivum.
Et ex corde diligamus nos sincero.

愛徳と愛のあるところ、そこに天主まします。
キリストの愛は、我らを一つに集め給えり。
主において、われら喜びかつ踊らん。
生ける天主を、われら畏れ愛さん。
われらは互いに心から真心込めて愛しあわん。


UBI caritas et amor, Deus ibi est.
Simul ergo cum in unum congregamur:
Ne nos mente dividamur, caveamus.
Cessent iurgia maligna, cessent lites.
Et in medio nostri sit Christus Deus.

愛徳と愛のあるところ、そこに天主まします。
故にわれらはいつでも一つに集まらん。
心によりて分裂するをわれらは避けん。
悪しき論争を止め、諍いを止めん。
願わくは、われらの内に天主キリストのましますことを。

UBI caritas et amor, Deus ibi est.
Simul quoque cum beatis videamus,
Glorianter vultum tuum, Christe Deus:
Gaudium quod est immensum, atque probum,
Saecula per infinita saeculorum. Amen.

愛徳と愛のあるところ、そこに天主まします。
至福の聖人らとともにわれらは見奉らん。
天主なるキリストよ、御身の栄光ある御顔を。
計り知れなき、かつ善き喜びを。
代々に限りなく至るまで。
アーメン。

韓国語の訳は、聖ピオ十世会韓国のウェブ・サイトからです。

UBI caritas et amor, Deus ibi est.
Congregavit nos in unum Christi amor.
Exultemus, et in ipso iucundemur.
Timeamus, et amemus Deum vivum.
Et ex corde diligamus nos sincero.

애덕과 사랑이 있는 곳에 천주 계시도다.
그리스도의 사랑이 우리를 한데 모았으니
우리는 저의 안에 용약하고 기뻐할지로다.
생활하신 천주를 두려워하고 사랑하며
진실한 마음으로 서로 사랑할지어다.

UBI caritas et amor, Deus ibi est.
Simul ergo cum in unum congregamur:
Ne nos mente dividamur, caveamus.
Cessent iurgia maligna, cessent lites.
Et in medio nostri sit Christus Deus.

애덕과 사랑이 있는 곳에 천주 계시도다.
이에 우리는 한데 모였으니
영신이 나누일까 조심할지로다.
악한 쟁론과 시비가 없어지고
우리 천주 그리스도 우리 가운데 계시지어다.

UBI caritas et amor, Deus ibi est.
Simul quoque cum beatis videamus,
Glorianter vultum tuum, Christe Deus:
Gaudium quod est immensum, atque probum,
Saecula per infinita saeculorum. Amen.

애덕과 사랑이 있는 곳에 천주 계시도다.
우리 천주 그리스도여 우리도 복된 자들과 한가지로
영광중에 있는 네 얼굴을 뵈오리니
이는 무한하고 거룩한 기쁨이로다.
무궁세에 이르도록 하소서 아멘.

この聖歌を私も小さな声で歌いながら、北朝鮮や中国や韓国また日本やアメリカ合衆国のことを思い、祈りました。

願わくは、キリストの愛が、私たちを一つに集め、平和が訪れますように!
真の主においてのみ、私たちは、本当に喜ぶことが出来るのですから。
何故なら、真の生ける天主を、私たちが共に畏れ愛するのですから。
そうして初めて、互いの心からの国家の友情が出来る、と。

ファチマの聖母よ、私たちを憐れみ給え!
ふさわしくない身なれど、願わくは、戦争から私たちを守り給え!

聖金曜日、私たちの主イエズス・キリストは、ご自分の御体を私たちに与えた後、ご自分の御血を全て私たちに与えようとされます。十字架で聖父に祈った言葉を黙想します。
「聖父よ、彼らを赦し給え! 彼らはそのなすところを知らざればなり!」

主よ、我らを赦し給え!我らに平和を与え給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
4月7日(初金)御受難の週の金曜日のミサには12人、
4月8日 (土) 御受難の週の土曜日のミサには13人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日の御ミサは、聖母の七つの御悲しみの記念も兼ねていました。
お説教でイエズス様の御悲しみについて黙想したことがずっと頭からはなれませんでした。
この日の聖体降福式ではこの日の聖体降福式ではそのことを考えました。
イエズス様の外面的な御苦しみを黙想する事が多かったですが、イエズス様の心の悲しみという言葉には息がつまる思いがします。
聖福音では、福音史家のヨハネが大司祭カヤファが「一人の人が死んで全国民が滅びないのは益あることだ」と言ったことが、
彼が悪人であったとしても、妬みがあったとしても、天主のみ摂理によって言われた予言であったことは大きな神秘だと思います。
今日自分のまわり、世界で起こっている理不尽で、不正で、悪意の仕業でも、天主がゆるされたことであるのだから私もイエズス様に倣ってこれを耐えなければならないのだと理解しました。

土曜日のお説教では、イエズス様とマリア様の聖心には聖霊の愛の火が、天主御父への火が燃え、それゆえに人々を天主のもとへよび、引き寄せようとされるのだという事がよくわかりました。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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