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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ヴィガノ大司教:「今、私たちの周りで起こっていることを見ると、キリスト教社会を破壊した者たちによる"進歩と自由の約束"がいかに偽りか、新しいバベルの塔がいかに偽りかが分かりる」

2021年12月31日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教によるアメリカ国民へのメッセージ

Message to the American People by Archbishop Carlo Maria Viganò

  • キリストの社会的王権は、過去二世紀にわたってフリーメーソンが激しく抵抗してきた「キリスト教の秩序」(ordo Christianus)を生み出す原理でした。なぜなら、フリーメーソンが推し進める革命は混沌であり、無秩序であり、サタンの専制政治を押し付けるための天主の秩序に対する地獄の反逆であるからです。
  • 今、私たちの周りで起こっていることを見ると、キリスト教社会を破壊した者たちによってなされた進歩と自由の約束が、いかに偽りであったか、また、天主を無視するばかりか、天主に真っ向から対立して建てられた新しいバベルの塔という見込みが、いかに偽りであったかが分かります。
  • この問題は本質的に道徳的です。実際には、宗教的なのです。私たちは、個人の生活においてだけでなく、社会生活においても、天主を第一の場所に戻さなければなりません。私たちは、革命が私たちの主イエズス・キリストから引きはがした王冠を、主のもとに戻さなければなりません。そのためには、個人および社会が真の深い回心を起こすことが必要です。もし私たちが、キリストに属する国々、キリストに属さねばならない国々を、キリストの王国から排除し続けるなら、この世界規模の専制政治の終わりを望むことは絶対に不可能です。

2021年12月21日

マルコ・トサッティ

親愛なる「Stilum Curiae」の友人および敵の皆さん、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教はゲートウェイ・パンディット(The Gateway Pundit)でアメリカ国民へのメッセージを発表しました。お楽しみください。

アメリカ国民へのメッセージ

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教

2021年12月18日

親愛なるアメリカ国民の皆さん、友人の皆さん、

この2年間、国際的な巨大金融の利益の奴隷となった陰謀家たちのエリート集団によって、かねてから計画されていた世界規模のクーデターが世界中で実行されています。

このクーデターは、他の季節性インフルエンザのウイルスとほぼ同等の死亡率を持つウイルスを根拠に、有効な治療法を非合法化させて禁止し、明らかに効果がなく、しかも深刻で致命的な副作用の危険性を伴う実験的遺伝子血清を配布するという、緊急パンデミックによって可能になったのです。

私たちは皆、主流メディアがどれほど非常識なパンデミックの物語(ナラティブ)の支持に貢献したかについて、危機に瀕している私たちの利益について、そしてこれらの権力者集団の目標、すなわち世界人口の減少、生存者の慢性疾患化、市民の基本的権利と自然な自由を侵害する管理形態の押し付けについて知っています。

しかし、このグロテスクな茶番劇が始まって2年、戦争よりも多くの犠牲者を出し、社会構造、国民経済、法の支配の根幹を破壊しているにもかかわらず、各国の政策やいわゆるパンデミックへの対応には何の変化もないのです。

昨年、まだ多くの人がこの脅威の重大さを理解していなかった頃、私はいち早くこのクーデターを非難し、すぐに陰謀論者と決めつけられました。

今日、ますます多くの人々が目を開きつつあり、このパンデミックの緊急事態と「環境保護的(エコロジカルな)な緊急事態」が、世界経済フォーラム、国連、WHO、そして思想的に明らかに反人間的であり、これは明確に言うべきですが、反キリスト教的である、無数の組織や財団の集合が企てた犯罪計画の一部であることを人々は理解し始めています。

グレート・リセットの犯罪性を明確に裏付ける要素の一つは、さまざまな国家が完璧に同期して行動し、単一の指示のもとに単一の脚本が存在していることを実証していることです。

そして、治療の欠如、より多くの死者を出すために意図的に行われた間違った治療、都市封鎖とマスクの決定、実際には遺伝子血清であるいわゆる「ワクチン」の悪影響に関する陰謀的な沈黙、そして犯罪的な間違いの継続的な繰り返しが、すべて統治者と組織の共犯のおかげで可能であったことを見るのは、憂慮すべきことです。

政治家や宗教指導者、国民の代表者、科学者や医師、ジャーナリスト、メディアで働く人々は、文字通り国民や法律、憲法、そして最も基本的な倫理原則を裏切ってきました。

トランプ大統領に対する2020年の大統領選挙の不正選挙は、この世界規模の作戦にとって本質的なものであることを示しています。なぜなら、法の原則に反して違法な制限を課すためには、サイコ(心理)・パンデミックを支持し、その物語を支えてくれる米大統領を利用できることが必要であったからです。

ディープ・ステートの一部である民主党は、ディープ・チャーチがベルゴリオに自らの宣伝者を見いだしたように、システムの共犯者としてその任務を遂行しているのです。

最近の最高裁の判決や、ワクチン接種の義務が違憲とされたアメリカのいくつかの州の自主的な動きは、この犯罪計画が崩壊し、責任者が特定されて裁かれることに希望を与えています。アメリカでも全世界でも。

このような裏切り行為に至ることが、どうして可能だったのでしょうか。共通善を支持せずに、むしろ地獄のような死と奴隷のマシーンを育てるために、私たちを統治する者たちから、私たちが敵とみなされるようになったのは、どうしてなのでしょうか。

その答えは、今や明らかです。世界中で、変質させられた自由の概念の名の下に、私たちは社会と法律から天主を徐々に排除してきたからです。

私たちは、国家の法律が従うべき、あらゆる時代のあらゆる人間に有効な、永遠で超越的な原則が存在することを否定してきました。

私たちは、この絶対的な原則を、個人の恣意性、つまり、誰もが自分自身の立法者であるという原則に置き換えてきたのです。

放埓(ほうらつ)であり、自由放任である、この非常識な自由の名のもとに、私たちは天主の法と自然の法則を侵害するのを許し、母親の胎内の子どもを、まさに生まれる瞬間まで殺すことを合法化し、病棟で病人と老人を殺し、自然な家族と結婚を破壊し、悪徳と罪の権利を認め、社会の善より個人の逸脱を優先させたのです。

要するに、私たちは、人々の法律と社会生活に不可欠な基盤を構成する道徳秩序全体を破壊してしまったのです。

プラトンは、すでに紀元前4世紀、最後の著作「法律」の中でこれらのことを書き、アテネの政治危機の原因を、まさにこの永遠の原理と人間の法との間にある天主の秩序―コスモス―が破壊されたことにあるとしたのでした。

こういったギリシャ・ローマ世界の自然な道徳原理は、キリスト教にその成就を見いだし、西洋文明を超自然的な推進力を与えることで築いたのです。

キリスト教は、不正に対する最も強力な防御であり、強者が弱者を、暴力をふるう者が平和を愛する者を、悪人が善人を抑圧することに対する最も強力な砦です。なぜなら、キリスト教の道徳は、私たち一人ひとりに、市民としてかつ支配者として、私たちの行動について天主と隣人に対する説明責任を負わせるからです。

数日後に誕生をお祝いする天主の御子は、古代の傷を癒やすために、また不従順によって破壊された秩序を恩寵によって回復させるために、時と歴史の中でご托身になりました。

キリストの社会的王権は、過去二世紀にわたってフリーメーソンが激しく抵抗してきた「キリスト教の秩序」(ordo Christianus)を生み出す原理でした。なぜなら、フリーメーソンが推し進める革命は混沌であり、無秩序であり、サタンの専制政治を押し付けるための天主の秩序に対する地獄の反逆であるからです。

今、私たちの周りで起こっていることを見ると、キリスト教社会を破壊した者たちによってなされた進歩と自由の約束が、いかに偽りであったか、また、天主を無視するばかりか、天主に真っ向から対立して建てられた新しいバベルの塔という見込みが、いかに偽りであったかが分かります。

敵の地獄のような挑戦は、何世紀にもわたって変わることなく繰り返されていますが、それはどうしようもなく失敗する運命にあります。

この千年来の陰謀の陰にいる敵は常に同じであり、変わるのは、敵に協力する特定の個々人だけです。

親愛なるアメリカ人の兄弟姉妹の皆さん! 親愛なる愛国者の皆さん! 今が、アメリカ合衆国と全人類の未来にとって決定的な瞬間です。

しかし、パンデミックの緊急事態、地球温暖化やグリーン経済という茶番劇、そしてディープ・ステートの共犯を得てグレート・リセットが意図的に引き起こした経済危機は、すべてもっと深刻な問題の単なる結果に過ぎません。私たちがその問題を打ち破りたいのなら、そのことを深く理解することが不可欠です。

この問題は本質的に道徳的です。実際には、宗教的なのです。

私たちは、個人の生活においてだけでなく、社会生活においても、天主を第一の場所に戻さなければなりません。

私たちは、革命が私たちの主イエズス・キリストから引きはがした王冠を、主のもとに戻さなければなりません。そのためには、個人および社会が真の深い回心を起こすことが必要です。

なぜなら、もし私たちが、キリストに属し、キリストに属さねばならない国々をキリストの王国から排除し続けるなら、この世界規模の専制政治の終わりを望むことは絶対に不可能だからです。

そのため、「ロー対ウェード」を覆す運動も非常に重要な意味を持つのです。なぜなら、胎児の命の神聖さを尊重することが、「永遠の法」を反映するものとなるためには、実定法によって是認されなければならないからです。

皆さんは、正義への憧れに突き動かされており、それは正当で良い望みです。「正義に飢え渇く人は幸いである」と主は言われています(マテオ5章6節)。

しかし、この正義は、これが霊的な戦いだという認識に基づいていなければなりません。この霊的な戦いにおいては、超越的かつ永遠の基準 --- 異教徒の哲学者たちでさえ垣間見ていた、そして天主なる教師である天主の御子の啓示に成就を見いだした基準 --- を保持しながら、曖昧な言葉を使わず、妥協せず、立場をはっきりさせることが必要です。

今日私は、「反グローバリズム同盟」のための訴えを更新します。この訴えの目的はまさに、新世界秩序の奴隷となることを望まない人々の市民的、社会的、政治的行動を奮い立たせる、道徳的かつ霊的な再生の運動を構成することです。

国や地方レベルで、グレート・リセットに反対する方法を見いだすことができ、現在進行中のクーデターを糾弾するための調整を行う運動です。

なぜなら、私たちの敵が何者であり、その狙いと目的が何であるかを認識することで、私たちは、敵が追求しようとする犯罪行為を妨害し、敵を後退させることができるからです。

この点で、パンデミックの茶番劇とワクチン接種義務への反対は、皆さん一人一人が決意と勇気をもって行わなければなりません。

したがって、皆さんの行動は、新世界秩序とその反人間的かつ反キリスト的な母体の嘘と欺瞞を明るみに出す、真実のわざとならねばならないのです。

そしてこの点で、主に平信徒とすべての善意ある人々――それぞれが自分の持つ専門的・市民的役割において――が、今日の権力を握る人々による暴力的抑圧を正当化することのないよう、強固ながら平和的な抵抗をするために共に調整し組織しなければなりません。

アメリカの愛国者としてのアイデンティティーと、皆さんの人生を奮い立たせるべき信仰を誇りに思ってください。

祖国を愛し、仕事に誠実で、家族を守り健全な価値観で子どもを育て、老人を敬い、受胎から自然の終わりまで生命を守るという理由だけで劣等感を抱くことを、誰にも許してはなりません。

顔の見えない権力が天主の法を蔑ろにし、罪と悪を合法的で望ましいものとして提示し、正義と道徳を軽蔑し、自然な家族を破壊して最悪の倒錯を促進し、無防備で弱い被造物(人間)の死を計画し、自らの利益や権力の維持のために人類を搾取するというディストピア世界を宣伝する人々に、脅かされたり誘惑されたりしてはなりません。

偉大なフルトン・シーン大司教にふさわしい後継者となってください。私たちの主から受けた命令を裏切り、皆さんに不当な命令を課し、天主と人類に対する前代未聞の犯罪の証拠の前で沈黙を守る牧者たちの後には従わないでください。

この聖なるクリスマスが、飼い葉桶に横たわる王たる幼子を前に、皆さんの心を照らし、心を燃え立たせるものでありますように。

そして、天使らの九つの階級と三人の博士たちの賛辞が、羊飼いの素朴な礼拝と一つになったように、今日、天主の下の一つの国家であるアメリカ合衆国の道徳的再生に皆さんが参加することが、私たちの主の祝福を受け、皆さんを統治する人々を皆さんの周りに集めますように。アーメン。

天主が皆さんを祝福し、天主がアメリカ合衆国を祝福してくださいますように。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2021年12月18日


イエズス・キリストがこの地上に来られたのは、私たちのためです。イエズス・キリストがご聖体に現存しておられ、聖体拝領で御自分をお与えになるのは、私たちのためです。

2021年12月30日 | お説教・霊的講話

クリスマスとご聖体についての説教

ドモルネ神父 2021年12月25日

はじめに

今日、私たちはクリスマスをお祝いしています。今日、私はまた、幾人かの子どもたちに初聖体を授ける喜びを味います。この説教では、ご聖体が、いかにして、クリスマスの継続であるかについて、少し説明したいと思います。

1.天主は私たちと共におられる

クリスマスの日には、私たちの主イエズス・キリストがベトレヘムで誕生されたことをお祝いします。天主の御子であるイエズス・キリストは、人となられたのです。これが、ご托身の神秘です。父なる天主と、聖霊なる天主にまったく等しく、永遠、全能、全知、普遍の存在であり、天地の創造主であり、このお方なくしては何も存在しない、まことの天主である、子なる天主が、みずから、幼子となられたのです。聖ヨハネは、こう言っています。「み言葉は肉体となって、私たちのうちに住まわれた」(ヨハネ1章14節)。イエズス・キリストの別の名は、「エンマヌエル」で、これは「天主は私たちと共におられる」という意味です。

このエンマヌエルは、ベトレヘムでお生まれになりました。「ベトレヘム」という名は、「パンの家」という意味です。イエズス・キリストは、ベトレヘムでお生まれになることで、天主であるご自身が、ご聖体のパンにおいて、世の終わりまで私たちと共におられることを示されたのです。イエズスは、こう言われました。「私は、天から下った生きるパンである」(ヨハネ6章51節)。ご聖体は、パンとぶどう酒という外観の下に、御体、御血、ご霊魂、ご神性とともに、真に現存されるイエズス・キリストです。ご聖体、それは、人々の間に住み続けられる、イエズス・キリストです。またそれは、ご自分を増やし、全世界に、すべての国に、ご自身を現存させられる、イエズス・キリストです。ベトレヘムの飼い葉桶の中におられる幼子イエズスを前にすることも、ご聖体におけるイエズスを前にすることも、本質的には同じことです。

2.私たちを救うために

「イエズス」の御名は、「救い主」を意味します。子なる天主は、天主についての真理と私たちの存在の理由を、私たちに教えるために、この地上に来られました。主は、十字架上の御苦しみと死によって、私たちの罪を贖うために、来られました。主は、私たちを地獄から救い、私たちを天主の子とするために、来られました。聖ヨハネは、こう言っています。「その御名を受け入れた人々には、みな、天主の子となる力を授けた」(ヨハネ1章12節)。イエズスは、私たちに永遠の命を与えるために、来られました。

しかし、イエズスが私たち一人一人にこの永遠の命を与えてくださるのは、ご聖体と聖体拝領を通してなのです。「このパンを食べる者は永遠に生きる。そして私の与えるパンは、世の命のために渡される私の肉である」(ヨハネ6章52節)。イエズスは、私たちを救うために、私たちの中に来てくださいます。イエズスは、私たちが天主をよりよく知ることができるように、私たちの知性を照らしてくださいます。イエズスは、私たちが自分の罪を心から痛悔して、償いをするように、助けてくださいます。イエズスは、私たちが何よりも天主を愛し、隣人を自分のように愛することができるように、助けてくださいます。

3.主が私たちを愛しておられるから

子なる天主は、ご自分を、ベトレヘムの飼い葉桶の中の幼子とされました。全能者であるお方が、みずから、謙遜で、弱きものとなり、すべての幼子と同じように、完全に他の人々に依存する者となられたのです。イエズスは、ご自分の食べ物、衣服、必要な世話のすべてを、御母である童貞聖マリアに依存することを、望まれたのです。何という、へりくだりでしょうか。

ご聖体において、子なる天主は、パンとぶどう酒という非常に謙遜な外見の下に、御自分を隠しておられます。主は、御自分を、単なる物のように、完全に司祭の手にお委ねになるのです。何という、さらなるへりくだりでしょうか。

イエズスが、これほどまでにご自分を低くなさったのは、私たちへの愛のためです。ですから、私たちは、あたかも自分が特別な存在であるかのように、自分自身を高く評価しないように、心がけましょう。天主は私たちを必要とされず、私たちがいなくても、完全に幸せでいらっしゃるのです。天主は私たちを無償で愛し、私たちに無償で善を施し、私たちに無償で永遠の幸せを分け与えてくださるのです。

4.人々の歓迎

親愛なる信者の皆さん、天主の御子がベトレヘムでお生まれになったとき、ほとんどの人は、この人類史上最大の出来事に無関心のままでした。イエルザレムの住民たちは、そのことを知らされていたにもかかわらず、動こうともしませんでした。同じように、今日、大多数の人々は、イエズスがご聖体に本当に現存しておられるという事実を、全く気にかけていません。異教徒だけでなく、多くの悪いキリスト教徒もそうです。イエズスは、このことをすべて、あらかじめ知っておられました。しかし、そのような無関心にもかかわらず、イエズスは、ベトレヘムでお生まれになることを決心され、ご聖体に本当に現存することを決心されたのです。それは、何のためでしょうか?

イエズスがベトレヘムでお生まれになったとき、ヘロデ王と少数の悪人たちは、あらゆる手段で、イエズスを殺そうと試みました。同じように、現代では、サタンの手先となって、悪魔的な怒りをもって、ご聖体のイエズスを攻撃する人々がいます。彼らはご聖体に対して、冒涜を行い、説教で述べることもできないような忌まわしい行為をします。イエズスは、これらのことをすべて、あらかじめ知っておられました。しかし、これらの犯罪にもかかわらず、イエズスは、ベトレヘムでお生まれになることを決心され、ご聖体に本当に現存することを決心されたのです。それは、何のためでしょうか?

最後に、イエズスがベトレヘムでお生まれになったとき、イエズスを自分たちの天主、自分たちの王、自分たちの救い主として、愛をもってお迎えした、謙遜で信仰深い、数少ない人々がいました。すなわち、童貞聖マリア、聖ヨゼフ、羊飼いたち、そして三人の博士たちです。同じように、今日、ご聖体のイエズスに信仰と愛をもって祈り、イエズスを自分たちの天主、自分たちの王、自分たちの救い主として礼拝し、聖体拝領において、イエズスを受ける人たちがいます。

イエズスが、多くの無関心と多くの凌辱を受けることを受け入れられたのは、この人たちのためです。イエズスがベトレヘムでお生まれになったのは、この人たちのためです。イエズスが、ご聖体において御自分をお与えになるのは、この人たちのためです。

結論1

親愛なる信者の皆さん、私たちは、童貞聖マリア、聖ヨゼフ、羊飼いたち、そして三人の博士たちのグループの一員となりましょう。このクリスマスの日、信仰と信頼と感謝と愛をもって、イエズスのもとへ行きましょう。イエズス・キリストがこの地上に来られたのは、私たちのためです。イエズス・キリストがご聖体に現存しておられるのは、私たちのためです。イエズス・キリストが聖体拝領で御自分をお与えになるのは、私たちのためです。

結論2

初聖体をうける子どもの皆さん、皆さんは、このあと、初めて、ホスチアのなかのイエズスさまを、受けることになります。イエズスさまは、天主です。イエズスさまは、皆さんをつくってくれたお方です。イエズスさまがいなかったら、皆さんは、ここにいません。イエズスさまは、皆さんを地獄から助け出してくれるお方です。イエズスさまがいなかったら、皆さんは地獄に行ってしまいます。イエズスさまが、皆さんの中に来てくれるのは、イエズスさまが、皆さんを愛しているからです。イエズスさまが来てくれるのは、皆さんが悪魔にまけないように、皆さんを強くするため、皆さんが天主さまの掟を守るのを助けてくれるため、皆さんが何よりも天主さまを愛すのを助けてくれるため、それから、皆さんを、命と終わりのない幸せに連れて行ってくれるためです。ですから、このミサの間、皆さんがカテキズムのクラスで勉強したように、イエズスさまを、一番素晴らしくお迎えすることができるように、よく準備してください。


聖母は、イエズスをご胎内にお迎えになり、イエズスのご意志に同意され、そして、童貞の栄光をいささかも失うことなく、天主の御母となられた

2021年12月30日 | お説教・霊的講話

私たちの主イエズス・キリストの処女降誕についての説教

ドモルネ神父 2021年12月26日

はじめに

クリスマスの前の先週の主日には、イエズスが、童貞聖マリアのご胎内に、処女懐胎されたことについてお話ししました。今まさに、私たちはクリスマスをお祝いしていますから、今日はイエズスの処女降誕についてお話ししたいと思います。

1.処女降誕

イエズスの処女降誕とは、イエズスが、童貞聖マリアのご胎内から、童貞の封印を破ることなく、出て来られたことを意味します。マリアは、完全に童貞のままで、イエズスをお生みになったのです。教会の教父たちは、私たちがこの現実を理解するのをたすけるために、いくつかのたとえを用います。イエズスは、ご復活の時、石を取り除くことなく、墓から出て来られたように、あるいはまた、戸がすべて閉ざされていた高間に入られたように、マリアの封印されたご胎内から出て来られたのです。イエズスは、水晶を壊すことなく通り抜ける一筋の太陽光のように、マリアのご胎内から出て来られたのです。教会の教父たちは、次のたとえも用いました。「子なる天主は、聖母のご胎内に入られ、その後、鏡を壊すことなく、それに当たって反射する一筋の光のように、聖母のご胎内から出て来られたのである」と。

2.生みの苦しみではなく、崇高な喜びがあった

処女降誕の結果として、マリアに、生みの苦しみはありませんでした。聖トマス・アクィナスは、次のように言っています。「生みの苦しみは、子どもが胎内から出てくるときに通る身体器官が歪むことによって、引き起こされる。しかし、幼子イエズスは、マリアの封印されたご胎内から出て来られたのである。マリアの身体器官には、何の害も加えられていない。そのため、この出産には苦しみはなく、肉体的な傷もなかったのである」(神学大全第3部a第35質問a第6項)。その反対に、聖母は、人となられた天主がこの世にお生まれになるがゆえに、崇高な喜びに満たされていたのです。

3.この啓示の源泉

処女降誕は、自然には、あり得ません。自然の法則に従って胎内から出てくる子どもは、童貞の封印を必ず破ることになります。ですから、このご降誕は、奇跡だったのです。私たちは、どうして、そのことを知っているのでしょうか? それは、この奇跡を起こされた天主が、それを、私たちに啓示されたからです。では、その啓示は、どこにあるのでしょうか? それは、いつものように、聖書と聖伝にあります。聖書の中で、預言者イザヤは、こう言っています。「処女(おとめ)が身ごもり、一人の男の子を生む」(イザヤ7章14節)。これは明らかに、ある童貞の女性が、童貞のまま男の子を生むことを意味しています。そうでなければ、このような預言は無意味です。聖マテオと聖ルカは、各々の福音において、このイザヤの預言を、マリアとイエズスに、はっきりとあてはめています。さらに、聖ルカによれば、童貞聖マリアは、自ら、「初子(ういご)を生んだので、布に包んで、まぐさ桶に子を横たえた」(ルカ2章7節)のです。これは、イエズスのご誕生の際に産婆がいなかったこと、また、マリアが生みの苦しみに悩まされなかったことを示しています。

イエズスの処女降誕の啓示は、また、聖伝、すなわち、イエズスが使徒たちに教えられ、それが、教皇たちや司教たちによって、歴史を通じて忠実に伝えられてきた教えにも、見いだすことができます。たとえば、すでに390年に、教皇シリキウスは、童貞聖マリアについて、こう書いています。「この方は、ご自分のご胎内に子を宿した童貞であり、また、童貞として子を生んだお方である」。教会の歴史を通して、教皇たちや諸公会議は、常に同じことを教えてきました。

4.妥当性

私たちは、啓示によって、イエズスの処女降誕のことを知っています。しかし、それをよく考えてみると、イエズスが、このような形でお生まれになったことが、いかに適切であったかが分かります。それは、聖三位一体において、イエズスがどのようなお方であるかに、合致するのです。イエズスは、天主のみ言葉でいらっしゃいます。イエズスは、父なる天主に、何の変化もお与えになることなく、父なる天主からお生まれになりました。それは、ある考えが、頭自体を変化させることなく、その頭から出てくるのに、少し似ています。ですから、童貞に何の変化もお与えになることなく、童貞からこの世にお生まれになることが、適切だったのです。

また、処女降誕によって、イエズスは、両親を敬うことの良い模範を、私たちに示してくださいました。実際、処女降誕によって、イエズスは、ご自分の御母に、童貞の栄光と母の尊厳を、同時に持つことを、お許しになったのです。

結論

イエズスの処女降誕についてのこれらの考察から、どのような結論を導き出すことができるでしょうか? 三つの結論を、導き出しましょう。

第一の結論は、私たちが、私たちの主イエズス・キリストを自分の霊魂の中にお迎えし、主に身を任せることによって、何も失うものはない、ということです。それどころか、私たちの聖性と栄光が増すのです。聖母は、イエズスをご胎内にお迎えになり、イエズスのご意志に同意され、そして、童貞の栄光をいささかも失うことなく、天主の御母となられたのです。

第二の結論は、私たちは、両親を敬い、愛さなければならないということです。イエズスは、そのことを言葉で教えてくださっただけでなく、ご自分の御母を非常に思いやる行動でも、それを教えてくださったのです。

第三の結論は、私たちは、童貞聖マリアを特別に敬い、愛さなければならないということです。天主の御子であるイエズス・キリストが、処女降誕という特権をお与えになることによって、マリアを特別に敬われたのですから、イエズスは当然、私たちが、特別な信心をもって御母を敬うことを、期待しておられるのです。


天主の御子イエズス・キリストは、童貞に御托身された。その御母の童貞性を保つために唯一無二の奇跡を行われた。天主は童貞性を喜ばれる。

2021年12月30日 | お説教・霊的講話

私たちの主イエズスの処女懐胎についての説教

ドモルネ神父 2021年12月19日

はじめに

今日は、待降節の最後の主日です。あと6日で、クリスマス、つまりキリストのご降誕をお祝いすることになります。私たちの主イエズス・キリストが、童貞聖マリアに処女懐胎されたことについて考えてみましょう。

1.カトリックの教義

イエズスの処女懐胎とは、童貞聖マリアが、男の種を介さず、かつ自らの童貞性を失うことなく、そのご胎内に、イエズス・キリストをやどされたことを意味します。これは明らかに奇跡、つまり自然法則の外で、天主の御力によって実現したみわざです。天主は、その創造の御力によって、通常は男の種が子を受胎させるところ、男の種の助けなしに、しかも童貞性の封印を解くことなく、童貞マリアのご胎内で、それを実現されたのです。童貞マリアの側では、自然の秩序は、完全に尊重されました。ですから、マリアは、完全に童貞のままで、まことにイエズス・キリストの御母となられたのです。

2.教義の源泉

私たちは、どのようにして、この奇跡のことを知っているのでしょうか? それは、天主が啓示されたからです。この啓示は、聖書と聖伝にあります。聖書では、預言者イザヤが、次のような言葉で、イエズスの処女懐胎を告知しました。「見よ、処女(おとめ)が身ごもり、一人の子を生み、それをエンマヌエルと呼ぶだろう」(イザヤ7章14節)。私たちは、この奇跡を、イエズス・キリストが使徒たちに教えられ、それが今日に至るまで、教皇たちや司教たちによって継承されてきた、聖伝からも、知っています。例えば、649年のラテラノ公会議は、イエズスの処女懐胎を宣言し、これに反することを言う者を断罪しました。

3.この教義の理性的妥当性[神学大全第3部a第28問題a第1項参照]

イエズスの処女懐胎は、天主によって決定され、実現されたものです。これについて考えてみると、この決定には、天主の知恵が垣間見られます。第一に、イエズスの処女懐胎によって、父なる天主だけが、イエズス・キリストの御父という称号と尊厳を、保持することがおできになります。もしイエズスに人間の父親がいたとすれば、イエズス・キリストについての父性の共有のようなものが、存在することになったでしょう。それは、不適切です。イエズス・キリストは、御子なる天主です。イエズス・キリストは、唯一の父を持っておられ、それは父なる天主です。

第二に、イエズスの処女懐胎によって、イエズスが、原罪とのいかなる接触をも避けられることが、可能になりました。実際、原罪は、アダムからそのすべての子孫に、自然の出産によって、継承されてゆくものです。イエズス・キリストは、男の種の助けなしに処女懐胎されたことにより、原罪の継承の法則を免れられたのです。

第三に、天主の御力によるイエズスの処女懐胎は、私たちに、御托身の目的を思い起こさせます。イエズスは、私たちを、天主の子としてもう一度生まれさせるために、この地上に来られました。しかし、私たちは、「血統(ちすじ)ではなく、肉体の意志ではなく、人の意志ではなく、ただ天主によって」(ヨハネ1章13節)、つまり、天主の御力によって、もう一度生まれるのです。マリアにおけるキリストの処女懐胎は、教会における私たちの霊的な新生のモデルなのです。

4.童貞性(処女性)

天主の御子イエズス・キリストは、童貞に、御托身されました。そして、その御母の童貞性を保つために、本当に唯一無二の奇跡を行われました。このことは、天主がいかに童貞性を喜ばれるかを示しています。奉献された童貞性とは、本質的に、肉の快楽を、たとえそれが婚姻内では合法的であるとしても、天主に、生涯にわたって、犠牲として捧げることを意味します。それは、何のためでしょうか? より完全に、天主のものとなるためです。実際、聖パウロはこう言っています。「独身の人はどうして主を喜ばせようかと、主のことを気づかい、結婚した人は、どうして妻を喜ばせようかと、世のことを気づかい、心が二つに分かれる。結婚していない女と処女は、体と心を聖とするために、主のことを気づかい、結婚している者は、どうして夫を喜ばせようかと、世のことを気づかう」(コリント前書7章32-34節)。

すべての人が、奉献された童貞性に召されるわけではありませんが、すべての人は、童貞性を尊敬しなければなりません。イエズス・キリストは一生童貞で、聖母は一生童貞で、聖ヨゼフは一生童貞で、洗者聖ヨハネは一生童貞で、愛された使徒ヨハネも一生童貞でした。童貞たちは、いわば、私たちの主イエズスのボディガードとなっているのです。黙示録では、童貞たちは、「小羊の行くところにどこにでもついて行く」(黙示録14章4節)と言われています。

すべての人が、奉献された童貞性に召されるわけではありませんが、すべての人は、もし天主がお召しになるなら、子どもたちがそのような完徳に達するのを助けるべきです。悪魔やこの世のキリストの敵は、奉献された童貞性の特別な価値を、よく知っています。ですから、彼らは、それを破壊するため、またその進展を妨げるために、あらゆることをします。彼らは、写真、映画、雑誌、マンガ、アニメ、悪い手本や、学校での倒錯した教育を通して、幼い子どもたちにたいして、肉の情欲を呼び覚まそうとするのです。彼らは、童貞である人々を嘲笑します。彼らは、肉の快楽を経験することが、成熟のしるしであるかのように見せかけます。実際は、その逆なのです。自分の情欲を抑え、天主への愛のために、自分自身を犠牲にする人は、自分の情欲に支配される人よりも、ずっと強く、ずっと成熟した人なのです。

結論

子どもたちの両親や、子どもたちに責任を持つ皆さんには、このような倒錯から、子どもたちを守る義務があります。では、どのようにすればよいでしょうか? 貞潔の徳を損なうものをすべて、家庭から追放することによってです。家でも外でも、子どもたちの服装の慎み深さに目を配ることによってです。皆さんの子どもたちが、悪い友達と一緒に出かけないようにすることによってです。子どもたちに、真実のもの、美しいもの、善いものを選び、偽りのもの、醜いもの、悪いものを拒絶するように、教えることによってです。最後に、これも重要なことですが、犠牲の精神を、子どもたちに教えることによってです。奉献された童貞性は、自分自身と、家族を持つという自然な欲求を犠牲にすることであり、また肉の情欲との全面的な戦いでもあるのです。もし子どもが、日常生活のささいなことで自分を犠牲にすることを最初に学ばなければ、このような栄光ある自己犠牲と、天主への愛のための戦いを実践することができないことは、明らかです。

童貞にして母なる聖母が、その童貞のマントで皆さんの家族を覆い、あらゆる不純さから、皆さんを守ってくださいますように。


洗者聖ヨハネの謙遜:聖ヨハネにとって最も大切なことは、人々が、自分ではなく、イエズス・キリストのもとに行くことだった。

2021年12月29日 | お説教・霊的講話

洗者聖ヨハネの謙遜についての説教

ドモルネ神父

はじめに

待降節の典礼で、教会は、特に洗者聖ヨハネを取り上げます。聖ヨハネは、救い主の先駆者でした。聖ヨハネは、その説教と模範によって、救い主の到来を準備しました。今日の福音で、聖ヨハネは、私たちに謙遜の模範を示しています。童貞聖マリアは、マグニフィカトのなかで、「天主はおごる人々を散らされる」と言われました。ですから、救い主の到来のお祝いを実りあるものとし、クリスマスのすべての恩寵を受けたいのであれば、私たちは高慢と戦い、謙遜の徳を実践しなければなりません。

1.高慢の誘惑一般

高慢とは、自分の優越性を過度に望むことであり、自分を、本当の自分よりも、より偉く見せたいという望みです。高慢はルチフェルの罪です。高慢は、人間、特に聖性を追求する人間に対する、ルチフェルのお気に入りの武器です。ルチフェルは、この武器をアダムに対して使って、成功しました。またルチフェルは砂漠で、私たちの主イエズスに対して、この武器を使いましたが、失敗しました。ルチフェルは、ユダヤの宗教指導者たちが洗者聖ヨハネに使者を送ったときにも、聖ヨハネに対して、この武器を使ったのです。

2.高慢の第一の誘惑

洗者聖ヨハネに対する高慢の第一の誘惑は、自分にはない尊厳を、聖ヨハネに受け入れさせようとするものでした。この誘惑は、ユダヤ人たちの次の質問にありました。「あなたは誰ですか?」。この質問は、暗黙の答えをもとめており、実際には、「あなたはメシアですか?」という意味でした。ユダヤ人たちは、洗者聖ヨハネの尊厳に、感銘を受けていました。その尊厳とは、高貴な生まれ、質素な暮らし、この世のものの軽蔑、砂漠での生活、人々の間での人気でした。そのため、ユダヤ人たちは、聖ヨハネを待望のメシアとして認めよう、と申し出たのです。

洗者聖ヨハネは、この質問の意味と、その中に含まれている誘惑を、よく理解していました。そこで聖ヨハネは、すぐにその誘惑を拒絶しました。「ヨハネは次のように証明した。彼は否定することなく、『私はキリストではない』と宣言した」(ヨハネ1章20節)。聖ヨハネ・クリゾストモは、これについて、こう言っています。「忠実なしもべの義務は、自分の主人から栄光を奪わないことだけでなく、自分自身に差し出されたものを拒むことでもある」。

3.高慢の第二の誘惑

洗者聖ヨハネに対する高慢の第二の誘惑は、曖昧な称号で、彼をおだてることでした。この誘惑は、ユダヤ人たちの次の質問にありました。「あなたはエリアですか?」。私たちの主イエズスは、洗者ヨハネがエリアの精神と力を持っていたため、彼はエリアである、と言われました(ルカ1章17節)。しかし、ユダヤ人たちが話していたのは、本物の預言者エリアが地上に戻ってくることについてだったのです。

次の質問にも、同じ誘惑があります。「あなたはあの預言者ですか?」(ヨハネ1章21節)。洗者聖ヨハネは、預言者であり、預言者よりも優れた人でした(マテオ11章9節)。しかし、ユダヤ人たちが話していたのは、モーゼが死ぬ前に告知した預言者、つまり、メシアのことだったのです。

そのため、この誘惑は、「エリア」という名前と、「預言者」という称号の曖昧さを利用して、洗者聖ヨハネに、人々の間で、自分自身を、より高貴な者だと思わせよう、とさせるものでした。聖ヨハネは、その罠を理解していました。聖ヨハネは、謙遜と、明確で単純な真理への愛のゆえに、これらの曖昧さを利用して自分をおだてようとする人々に、素っ気なく、「いいえ」と 答えたのです。

4.高慢の第三の誘惑

洗者聖ヨハネに対する高慢の第三の誘惑は、彼を、自己満足に浸らせることでした。この誘惑は、ユダヤ人たちの次の質問にありました。「あなたはだれですか?私たちを遣いによこした人々に何か返事をもっていかしてください。あなたは自分を何者だと言われるのですか?」(ヨハネ1章22節)。

洗者聖ヨハネは、この罠を理解し、真摯で深い謙遜によって、その罠を見事にくじきました。「預言者イザヤの言っている『主の道を正しくせよと荒野に叫ぶ者の声』とは私のことである」(ヨハネ1章23節)。洗者聖ヨハネは、真理を、否定はしませんでした。聖ヨハネは、自分の卓越した使命と、その結果としての、卓越した尊厳を認めました。しかし、それと同時に、自分自身は何者でもないことを宣言しました。聖ヨハネは、自分のことを、「声」と呼びました。声は、それだけでは存在せず、それだけでは意味がありません。ですから、洗者聖ヨハネは、自分を「声」と呼ぶことによって、自分が私たちの主イエズス・キリストに完全に依存していることを断言したのです。

5.高慢の第四の誘惑

洗者聖ヨハネに対する高慢の第四の誘惑は、洗礼を授けるという彼のわざの価値を貶めることによって、聖ヨハネが自分を正当化し、誇示するように、聖ヨハネを挑発することでした。ユダヤ人たちは、聖ヨハネに、「あなたがキリストでもなく、エリアでもなく、あの預言者でもないとしたら、なぜ洗礼を授けるのですか?」と言いました。これは、ねたみ深く、人を傷つける言葉であり、自己愛の反応を引き起こすためのものでした。

しかし、洗者聖ヨハネは、その罠に嵌まりませんでした。聖ヨハネは、少しも自分を正当化しようとは、しませんでした。聖ヨハネは、自分への侮辱を受け入れ、そしてすぐに、すべての焦点を、私たちの主イエズス・キリストに向けたのです。「私は水によって洗礼を授けているが、あなたたちの中に、見知らぬ人が一人立っている」(ヨハネ1章26節)。聖ヨハネにとって最も大切なことは、人々が、自分ではなく、イエズス・キリストのもとに行くことでした。

結論

洗者聖ヨハネは、鳥が猟師の網から逃れるように、高慢のすべての誘惑から逃れました。謙遜は、私たちを自由にします。この世の栄光を求めることからも、他人からの評価を求めることからも、自己中心的な考えや自己憐憫からも、思い上がりや絶望からも、私たちを自由にします。謙遜は、私たちから自己愛を取り去り、それによって、私たちは、心を込めて、私たちの主イエズスを愛することができるようになるのです。


無原罪の御やどり:悪魔とその手先たちは、マリアに対しては何もすることができませんし、マリアの御保護の下に身を置く者たちに対しても、何もすることができません。

2021年12月29日 | お説教・霊的講話

無原罪の御孕りの教義についての説教

ドモルネ神父

はじめに

12月8日、私たちは、童貞聖マリアの無原罪の御孕りをお祝いします。今日は、この教義の意味についてお話しします。

1.教義の宣言

 1854年12月8日、教皇ピオ九世は、無原罪の御孕りの教義を宣言しました。教皇の言葉は次の通りです。「余は、以下のように宣言し、公表し、定義する。すなわち、至聖なる童貞マリアが、その御孕りの最初の瞬間において、人類の救い主イエズス・キリストの功徳を考慮して、全能の天主が授けた特別な恩寵と特権によって、原罪のすべての汚れから保護されていたとする教義は、天主によって啓示された教義であり、したがって、すべての信者はこれを固く、かつ絶えず信じなければならない」(大勅書「イネファビリス・デウス」〈Ineffabilis Deus〉)。
この宣言の構成要素について、少し説明することにしましょう。

2.マリアは原罪から保護されていた

アダムは最初の人間であり、すべての人間の父でした。全人類はアダムの中にありました。ですから、アダムが罪を犯したとき、全人類が罪を犯したことになったのです。この理由から、すべての人間は、罪の状態で生まれてくる、という一般法則があります。童貞聖マリアはアダムの子孫ですから、他の人間と同じように、当然、罪の法則の支配下にありました。しかし天主は、この法則が聖母に適用されることを、妨げられたのです。

3.マリアの御孕りの最初の瞬間において

子どもの受胎においては、両親が子どもの体を形作ります。子どもの体が形作られると同時に、天主は霊魂を創造され、その体に結び付けられます。霊魂と体が結びつくと同時に、その子どもは、人間となります。聖母の両親、すなわち聖ヨアキムと聖アンナは、人間本性の法則に従って、マリアの体を用意しました。天主は、マリアの霊魂を創造され、それをマリアの体に結び付けられました。その瞬間、罪の法則が、マリアに適用されるはずでした。しかし、その同じ瞬間、天主は、マリアに成聖の恩寵をお与えになることによって、罪の法則がマリアに適用されるのを防がれたのです。マリアが原罪によって汚れを受けられた最初の瞬間と、マリアがその汚れから清められた第二の瞬間があったのではありません。マリアは、原罪から完全に保護されていたのです。マリアは、無原罪で御孕りになったのです。

4.保護によって

マリアの無原罪の御孕りは、唯一無二の特権です。原罪から保護された人は、他にはだれもいません。すべての人間は、まず罪の汚れを受け、その後、洗礼によって清められます。私たちの主イエズスが原罪の影響をお受けにならなかった、というのは、その通りです。しかし、私たちの主イエズスは、原罪から保護されたわけでも、清められたわけでもありません。主は、その神性のゆえに、単に、罪の法則の支配下にはおられなかっただけなのです。では、なぜ天主は、聖母に無原罪の御孕りという特権をお与えになったのでしょうか? それは、イエズスの御母、また、天主の御母という聖母の使命のためです。イエズスの無限の尊厳のゆえに、イエズスの御母が、まさに最初の瞬間から、完全に罪を免れている、ということが、必要だったのです。

5.イエズス・キリストの功徳を考慮して

聖パウロは、ローマ人にこう言いました。「一人の人、アダムの不従順によって多くの人が罪人とせられたように、イエズス・キリスト一人の従順によって、多くが義とされる」(ローマ5章19節)。イエズスは、普遍的な救い主でいらっしゃいます。イエズスを通さなければ、誰も、恩寵を受けて、天国に行くことはできません。このことは、童貞聖マリアにも当てはまります。聖母は、原罪から保護され、イエズス・キリストの功徳のゆえに、恩寵の充満を受けられました。マリアは、私たち全員と同じように、私たちの主イエズスによって贖われたのです。

6.原罪のすべての汚れから保護されていた

最後に述べておきたいことがあります。原罪は、苦しみ、病気、死、死後ちりに還ること、無知、悪意、弱さ、情欲といった結果をもたらしました。教皇ピオ九世は、童貞聖マリアが「原罪のすべての汚れ」から保護されていた、と述べました。これは、聖母が、ご自分の中での恩寵の進展を妨げるような、原罪のすべての結果から保護されていた、ということを意味しています。ですから、マリアは、苦しみや死からは、保護されておられませんでした。苦しみや死は、霊魂における恩寵の進展を妨げるものではないからです。しかし、マリアは、病気、死後ちりに還ること、無知、悪意、弱さ、情欲からは保護されておられました。

結論

親愛なる信者の皆さん、聖母の連祷で、私たちは童貞聖マリアを「象牙の塔」と呼びます。象牙は、貴重で美しく、腐敗しにくい素材です。私たちが聖母を「象牙の塔」と呼ぶとき、それは、恩寵の充満である聖母の美しさと、聖母の非腐敗性、すなわち聖母の無原罪の御孕りを意味します。聖母の恩寵の充満と無原罪の御孕りは、聖母を、堅固な塔のように力強いものにします。悪魔とその手先たちは、マリアに対しては何もすることができませんし、マリアの御保護の下に身を置く者たちに対しても、何もすることができません。ですから、悪魔に抵抗したければ、マリアを拠り所としましょう。無原罪の御孕りのメダイである、不思議のメダイを身につけましょう。この祈りを頻繁に唱えましょう。「原罪なくして孕り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え」。アーメン。


ヴィガノ大司教とのインタビュー「解決は、カトリック教会がキリストの声を響かせて、人類の目を開かせ、人間が天主のもとに立ち帰ることだと人類に理解させるときです。」

2021年12月29日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ヴィガノ大司教とのインタビュー

「解決は、カトリック教会がキリストの声を響かせて、人類の目を開かせ、人間が天主のもとに立ち帰ることだと人類に理解させるときです。」

「もし私たちが罪を犯し続けるなら、陰謀家や裏切り者の共犯となり、天主の御あわれみ受ける資格はなく、この地上の地獄から抜け出す資格もないでしょう。これが最後のチャンスかもしれません。」

Interview With Archbishop Carlo Maria Viganò

クリスティアーナ・ボッブ
2021年12月20日 月曜日

最近、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教と連絡を取る機会に恵まれました。大司教は、道徳に悩む世界の中で、誰よりも光輝く道しるべのような存在です。その謙虚さや、真理と正義への情熱は、世界中で嘘の声の中で真実の声を探している人々が多くなればなるほど、大司教を最前線へと駆り立てているのです。ヴィガノ大司教は、教会に、核となる信条を思い出させ、信者を支えて真に重要な目標に向けさせるために発言しているのです。赤ん坊を殺すことは自由なのでしょうか? それとも、繁栄と、人類としての夢と運命を実現できることが自由なのでしょうか? それらは相容れないものです。私たちが道徳のない生活を送りながら、同時に私たちの天主がお与えになった運命を成就させることができるかのようなふりをするのは、統合失調症のようなものです。私たちは地球規模の決断に直面している世代です。私たちはどのような世代になるのでしょうか。歴史上ほとんどないような、全世界が意識の危機、決断のときに直面しているのです。悪は実在し、悪が私たちを再定義しようとしています。私たちは、それを許すのでしょうか。悪は、私たちが自分自身のために道徳を定義できると信じさせようとしていますが、そんなことをすれば究極的には堕落へと至ります。それとも、私たちは、自分たちが何者であるかを知っていると、永遠に向かって宣言するのでしょうか。私たちは、自分が天主の似姿に創造されたのであり、善であることを知っています。カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、私たちがずっと前から知っていたことを明らかにするために、真実にまっすぐに切り込みます。今日の危機は、天主と天主がこの世代のために設計なさったことに委託する心によって、克服することができるのです。以下、私の質問に対する大司教の全回答を、お読みください。

1.多くの人が、世界が乗っ取られてしまう危険性に気づき始めていますが、宗教的背景は異なります。異なる信仰を持つ人々が、たとえ違っても、共に自由を支えるにはどうすればよいでしょうか?

【ヴィガノ大司教】これは複雑な問題であり、近代主義者の司教なら、おそらく次のように答えるでしょう。「どこに問題があるでしょうか? 私たちは皆、天主の子です。それぞれの信者が天主をどのように呼ぶかは関係ありません」。しかし、これはカトリックの答えではありませんし、ましてや司教、つまり使徒の後継者が言うべき答えでもありません。

カトリック信者は、聖書と聖伝から、天主の側とサタンの側という二つの側のある、歴史的な戦いが進行中であることを知っています。また、勝利は天主と、無原罪の聖母、つまり、いにしえの蛇の頭を踏み砕く、黙示録の星の冠をかぶった婦人のものであることも知っています。悪魔に従順なエリートが自らのアジェンダ(行動計画)を押し付けている、本当の世界規模のクーデターに直面して、すべてのカトリック信者は、パンデミックの緊急事態を口実に起こることの地獄のマトリックスを認識する方法を知っています。それは、死の思想、生命への憎悪、神聖なものへの嫌悪、混乱と暴力への自己満足を認識することです。

カトリック信者でない人々、あるいは、パンデミックとワクチンの物語(ナラティブ)に適応している高位聖職者たちやベルゴリオ自身に従っている人々は、確かにこれらの出来事の意味を理解するのがより困難で、人間がどうして仲間の死を望むのか、どうして世俗、そして宗教の権威が腐敗し、人々を裏切ることによって買収されているのかが理解できないでいます。医師が患者を治療することなく、あるいは不適切な治療を施すことによって、あるいは通常の条件下では決して承認されることのない実験的な血清について助言することによって、患者に死を与えることができるのでしょうか。基本的権利を最も不当に侵害する独裁が至るところで確立されているのに、どうして裁判官がそれを阻止するために介入しないのでしょうか。

スイスの市民へのメッセージ[1]で述べたように、今日、私たちが求めなければならないのは自由ではありません。もっとよく言えば、私たちが主張しなければならない自由は、放埓【勝手気まま】でも、自分の好き勝手なことを何であれするという意志でもなく、――回勅「リベルタス・プレスタンティッシムム」(Libertas Præstantissimum)でのレオ十三世の定義に従って――善の境界の内側で行う自由です。しかし今日それは阻まれています。

母親の胎内にいる子どもを殺すのは自由でしょうか? 悪と罪に権利を認め、聖徳と善行をあざけり、非難するのは自由でしょうか? 天主だけがお持ちである、いつ生き、いつ死ぬかを決める力を主張するのは自由でしょうか? あえて同性間の結婚をしようとし、養子を迎え、「代理出産」で(繁殖用の)雌馬として支払いを受けた母親から子を買うのは自由でしょうか? 貧困を引き起こし、低開発国の資源を搾取しているのは、まさに背教的で反キリスト教的な西洋なのに、西洋の社会構造を破壊するために、あるいは労働コストを下げるために、世界の貧しい人々や相続権を失った人々を利用するのは自由でしょうか?

カトリック信者、とりわけ平信徒には、真の信仰という恩寵とキリストの教会との完全な交わりを持っていない人々に、今起こっているすべてのことが―まさにその明らかに反キリスト教的な性質のために―聖書が語る「最後のこと」―τα ἔσχατα(タ・エスカタ)―闇の子に対する光の子の戦いの一部であることを理解してもらう機会があります。そしてその時、正直な者、善良で善を求める者、福音が「善意の人」と呼ぶ者たちは、エリートたちが敵とみなす宗教はただ一つ、ローマ・カトリック・使徒継承の宗教であることを理解し、もはや中立でいることも、自分のつくべき側を選択せずにやっていけると信じることも不可能であることを理解するのです。天主の恩寵が彼らの心に触れ、霊魂の目で、自分が属することができるのはただ一つの側であり、共通の敵と戦うことができるのはただキリストの十字架だけであることを理解するようになるでしょう。そして、その選択は、天主によって祝福され、報われるのです。

2. 宗教は、(1)クーデター、(2)解決策、(3)その両方、において、どのような役割を担っているのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】これも非常に複雑な問題です。まず第一に、一般的な意味での「宗教」と、「カトリック教」として理解される「宗教」を区別する必要があります。

確かに、新型コロナウイルス感染症は国民の合意を得るために、宗教的な意味合いを持ってきました。そして、パンデミックの大司祭たち、ワクチンの伝道師、不信心者の改宗、新たな異端者の破門、ワクチン未接種者の社会的な火あぶり、遺伝子血清の接種による救い、といった具合にです。しかし、私たちはサタンが天主の猿まねをする者であることをよく知っており、新型コロナウイルス感染症でさえも、いつもの役割を演じていることを明白に示しているのです。

第二に、私たちがカトリック教会について語るならば、私たちは、60年間、位階階級が一種の双極性障害を生きてきたことを忘れてはなりません。一方で、教理、道徳、典礼、規律など、二千年もの間、教会をカトリックたらしめてきたものがあります。他方では、別の教理や道徳を説き、別の典礼を行い、信仰を守り、主の群れを守るためではなく、誤謬や異端、離教の種をまくために自らの権威を行使するベルゴリオと近代主義者の司教たちがいます。信徒たちもこの分裂を認識しています。

信徒たちは、教会が最初に一種のプロテスタントのセクトになり、次に慈善団体のNGOに、あるいは、さらに悪いことには新世界秩序のしもべになる、などということを望んでおらず、これまでも決して望まなかったのです。天主の恩寵によって、カトリック信者であり続け、私たちの主が私たちに教えてくださったことを全面的に信じ、聖伝のミサを捧げる多くの司祭と一部の司教が今でもいます。そして彼らは、偶然の一致ですが、健康独裁、グレート・リセット計画、新世界秩序のプロジェクトにも気づいているのです。

また、国家にディープ・ステート【影の国家】があるように、教会にもディープ・チャーチ【影の教会】があります。ディープ・チャーチは、おそらくフリーメーソンが設立を望んでいる「人類教」(Religion of Humanity)の一部になれるという希望を持って、グローバリストのイデオロギーを自分たちのものとしました。偶像と悪魔は認めるものの、真の天主であり唯一の救い主である私たちの主イエズス・キリストはそこから追放される人間の宗教、まさに悪魔の宗教です。こういう訳で、ベルゴリオの教会は、エキュメニカルで、包括的で、弾力的で、環境保護的です。これが、ワクチンを推進し、パンデミックについてのパニックの種をまく理由です。このため、ベルゴリオの教会は、人権侵害、教会の冒涜、国家の世俗化、社会からのカトリックのアイデンティティーやキリスト教の聖伝の抹殺に直面しても沈黙しているのです。ディープ・ステートは、国家主権、経済、ビジネス、司法、教育、健康、そして社会構造全体を破壊しようとします。これによって、支配者は国民を裏切り、独裁体制を確立することで権力を維持するのです。同じように、ディープ・チャーチは、キリストの教会を破壊し、教会に人道的な装いを残しながら、霊魂、つまり、その主であり天主であるキリストを教会から奪おうとしているのです。どちらの場合も、悪魔のわざと認めることができます。悪魔は、この世のすべての完全なものの創造主であり、同時に十字架上の天主なる御子の犠牲を通して人類の贖い主であり救い主であるお方を憎んでいますから。

ですから、ご質問にお答えすると、こうなります。ベルゴリオの教会はこのクーデターを計画するのに決定的な役割を果たしたのです。それは、サイコ・パンデミック、ネオ・マルサス的環境保護主義、グレート・リセット、アジェンダ2030が、ジェンダー論、LGBT運動やいわゆる同性愛者の「結婚」の承認に沿って増殖する上での土台として、神学と哲学の誤謬を故意に承認し教えたことによってです。第二バチカン公会議から今日まで、このディープ・チャーチは、信徒に新しい宗教をのみ込ませることと同時に、自分たちはまだカトリック信者であると信じ込ませることを何とかしてやり遂げたのです。

ディープ・チャーチもまた、世界的なクーデターを実行する上で役割を担っています。なぜなら、教会はパンデミックのシナリオを受け入れ、承認し、何カ月も教会を閉鎖して礼拝を禁止し、教会がワクチンを承認していると解釈されることを知りながら、「新型コロナウイルス感染症用ワクチンを使うことの道徳性に関するノート」を公布したのです。ベルゴリオは、遺伝子血清は道徳的義務であり、実際に愛徳の行為であるとまで言い、バチカンの全職員にワクチンを義務づけました。

しかし、ディープ・チャーチは、解決策の一部にはならず、問題の一部になるでしょう。解決策になるのは、善き牧者たち、体制に売り渡されていない稀な高位聖職者たち、日々現実に接し、市民の完全支配と市民の一部の絶滅を目的としたこの犯罪的陰謀によって引き起こされる身体的、心理的、道徳的、精神的損害を目にする司祭たちや修道者たちでしょう。解決を与えるのは、カトリック教会となるでしょう。つまり、教会がキリストの声を大きく響かせて、人類の目を開かせ、"この地獄の輪から抜け出す唯一の方法は、人間が天主のもとに立ち帰り、天主の聖なる法を尊重し、聖徳を実践し、罪を放棄することだ"と人類に理解させるときです。私たちが皆、天主の御前にひざまずいて、私たち罪人を憐れんでくださるように願うとき、初めて天主が介入され、敵を打ち破られるのです。その敵の中には、今日、グローバリストのアジェンダと完全に足並みをそろえている人々も含まれることでしょう。

3.(1)人々が自由を求めて押し返して戦う場合、あるいは、(2)人々が自由を求めて押し返さず戦わない場合、次の12カ月はどのようなものになると思われますか?

【ヴィガノ大司教】私は当然ながら予言はできませんが、かつてないほど速い出来事の進展と、進行中のクーデターの証拠により、新世界秩序の確立に勇気と決意をもって反対することが全員の義務であるということが明らかになるよう望んでいます。しかし、繰り返しますが、この問題が自由のための闘争に限定されると錯覚してはなりません。私たちが戦うならば、私たちの戦いは、天主の法に従い、王たるキリストと元后たるマリアの帰還を求めるものでなければなりません。私たちはすでに自由をあまりにも乱用してきており、最悪の異常行為を正当化する盲目的崇拝物にしてしまいました。今こそ、私たちの主の「もはやしもべではなく、友」【ヨハネ15章】であるか、サタンの奴隷であるかを選ぶ時なのです。

健康独裁あるいは環境保護独裁に服従することを望まない人々を合同させて行動プログラムを提供する、「反グローバリズム同盟」という考えは、良き機会を提示することができます。この同盟は、すべての地域の現実に有効な一般原則を示すことができ、各運動はその原則を共有して、具体的な状況に適応させることができるはずです。私は、政治指導者、知識人、機関の代表者、司法、軍、医師、ジャーナリスト、教師、そして私の訴え[2]を取り上げ、それを推進しようとする一般の人々がいることを望んでいます。また、すでに述べたように、攻撃が世界規模のものである以上、反対運動もまた世界規模でなければならないからです。

しかし、もし私たちがなすがままにさせておくならば、もし私たち全員に降りかかっている脅威を見ないふりをして自分たちの小さな現実の中に閉じこもるならば、もし私たちが罪を犯して主を怒らせ続けるならば、私たちは陰謀家や裏切り者の共犯者となり、天主の御あわれみ受ける資格はなく、この地上の地獄から抜け出す資格もないのは確かでしょう。このことについて考えてみてください。これが最後のチャンスかもしれません。

[1] https://www.thegatewaypundit.com/2021/11/exclusive-archbishop-vigano-shares-letter-tgp-directed-towards-tomorrows-protesters-health-tyranny-switzerland

https://www.remnantnewspaper.com/web/index.php/headline-news-around-the-world/item/5692-robert-kennedy-jr-requests-message-from-archbishop-vigano-at-major-demonstration-in-switzerland

[2] https://www.thegatewaypundit.com/2021/11/huge-exclusive-archbishop-carlo-maria-vigano-calls-people-faith-unite-worldwide-anti-globalist-alliance-free-humanity-totalitarian-regime-video

 


ローマ公教要理(トリエント公会議による公教要理)主祷文(「天にまします」)の解説 第6の願い 我らを試みに引き給わざれ

2021年12月28日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
 
トリエント公会議による公教要理の「主祷文」について
 
今回は、その続き
第6の願い 我らを試みに引き給わざれ
についての箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します。

第6の願い 我らを試みに引き給わざれ

202.天主の子らが、罪の赦しを得た後に、この同じ天主に礼拝と崇敬を捧げる強い望みに燃え立ち、天の御国を希求し、天主の御稜威(みいつ)に対する敬神(徳)の義務をことごとく果たしつつ、その御旨と御(み)摂理とに全く依り頼む際、まさにその時、人類の敵があらゆる術策を練り出し、千万の兵器を準備して、戦いを挑むことは、疑問の余地がありません。こうして、せっかく立てた決心を覆(くつがえ)し、変えてしまい、再び悪徳に立ち返り、以前よりもはるかに悪い者になってしまう【1】ことが懸念されます。かかる者には、使徒の長(おさ)たる聖ペトロの、「彼らにとっては、伝えられた聖なる掟を、義の道を知って後に離れるよりは、知らない方が良かったであろう【2】」、という言葉がまさしく当てはまってしまうでしょう。

§ I. 主が私たちにこの祈願を唱えることをお命じになった理由

さればこそ、主はこの祈願を為すことをお命じになり、かくして私たちが己が身を天主に委ね、その助力なしには、狡知にたけた敵の罠にかかってしまうことを確信するがゆえに、その父らしいご配慮とご保護とを乞い願うようなさるのです。

204.しかるに主が、(罪の)試みないしは誘惑に陥ることのないよう天主に祈ることを私たちにお命じになったのは、主祷文の祈りを使徒らにお教えになったときだけでなく、ご死去の時が迫る折に、使徒らに、彼らが清い者であることを仰せられた【3】後、「誘惑に落ちないように、目覚めて祈れ【4】」と仰せになって当の義務を思い起こされた際でもあります。主キリストが重ねてこの訓戒をお与えになったため、司牧者は信徒がこの祈願を頻繁に為すよう、切に促す必要があります。かくして彼ら信徒が、人類の敵である悪魔によって常時備えられるかくも大きな(誘惑という)この種の危険を前にして、唯一かかる危難を排除することがおできになる天主に、「我らを試みに引き給わざれ」と、たゆまず唱えるよう図らねばなりません。

205.一方信徒は、もし彼らが自らの弱さと無知とを思い起こし、また主キリストの仰せられた、「霊ははやっても肉は弱いものだ【5】」という言葉を想起し、かつ天主の御手の支えなしには、悪魔の攻撃を受ける者たちの破綻(はたん)がいかに重大で破滅的なものになるかを鑑(かんが)みるならば、自分たちがどれほど天主のご助力を必要とするかを悟るでしょう。
主の御受難における聖なる使徒団のふるまいほど、人間の弱さを如実に示す例があるでしょうか。実に使徒らは、今し方勇み立っていたと思えば、最初の危難の前兆が見えるやいなや、主を打ち捨てて逃げ去ったのでした。【6】しかるに使徒らの長(おさ)の例は、これよりもさらに顕著です。実に聖ペトロは、自分がどれほど怖れ知らずで、主キリストをこの上なく愛慕している旨あからさまに公言し、自らの力に信頼して、「たとえあなたと共に死ななければならないとしても、私は決してあなたを否(いな)みません」【7】と言い放った後で、下女の声に震えおののき、自分は主を知らないと呪いを交えて誓ったのでした...。実に彼において意志の力は、霊ないしは精神の高揚に釣り合わなかったのです。しかるに、もしいとも聖なる者たちが、頼みとしていた人間本性の弱さのために重大な罪を犯したとすれば、彼らの聖性にはるか遠く及ばぬ者たちは、どれほどの怖れを抱くべきことでしょうか。

§ II. 誘惑とその原因

206.したがって司牧者は、信徒に彼らが常に瀕する戦いと危険とを指し示すべきです。なぜなら霊魂がこの死すべき身体(からだ)に住まうかぎり、この身体を肉【8】と世、悪魔とがこぞって攻め立てるからです。【9】
怒り、ならびに貪(どん)欲が私たちにおいてどれほどのことをなし得るかを、苦い経験をとおして体験しなかった人が誰かいるでしょうか。誰がこれらの情念の刺激を感じ、これに傷つけられ、その炎に燃やされないでしょうか。しかるにこの種の打撃ないしは攻撃は、かくも多種多様であるため、どこかに深い傷を受けないでいることは至難の業です。
しかしながら、私たちと共に住まい、生きるこれらの敵に加えて、使徒パウロが、「我々が戦うのは、血肉ではなく、首長と権勢【10】、この世の闇の支配者、天空に徘徊する悪の霊である【11】」という言葉で指す、残忍きわまりない敵が存します。

207.事実、私たちは、内的な戦いに加えて、外部からの攻撃、悪魔の襲撃にみまわれるのですが、当の悪霊は、ある時には真っ向から私たちに攻めかかり、またある時には密(ひそ)かに私たちの心に入り込む【12】ため、これに対して充分用心することは、およそ不可能なほどです

§ III. 悪魔

208.使徒パウロはこれらの悪霊を、その自然本性の卓越性のために(なぜなら、当の霊は本性上、人間および目に見える全ての被造物に優っているからです)「首長【13】Principes」と呼び、また本性上の優位のみならず、権力においても私たち人間を凌駕(りょうが)するゆえに「権能【14】Potestas」と名付けています。さらに、当の霊は、輝かしく光明に満ちた世界、すなわち敬虔な義人の世ではなく、闇の世、つまり影の差した暗い世、すなわち放埒(ほうらつ)で悪行に満ちた生活の汚れと闇によって盲目となり、闇の君主たる悪魔にすすんで従う者たちを支配するがために、闇の支配者と称しています。
使徒はまた、悪魔を「悪(意)の霊」と呼んでいますが、これは肉の悪があると同様に霊の悪(意)が存するからです。

209.肉的な悪(意)と呼ばれる悪は、感覚によって捉えられる情欲ならびに快楽へと、人の欲情を焚(た)きつけるのですが、一方霊的な悪(意)は、霊魂の上位の部分に属する悪い願望、乱脈な欲求を指しますが、当の悪(意)は、理性が感覚に優り、より高貴なものである分だけ、肉的な悪(意)より、さらに悪いものとなります。
しかるにサタンの悪意は、私たちから天の遺産を奪うことに主に向けられるため、その意味で使徒パウロは彼を「天に徘徊する悪霊【15】」と呼ぶのです。

210.以上のことから、私たちの敵の力がいかに大きく、かつその(悪い)意志がどれほど不屈のものであるか、また私たちに対する憎しみがいかに凶悪で限りのないものであるかが推し量られます。事実、これの悪霊は私たち人間に対して絶えることのない戦いを挑むのであり、したがって彼らと平和を保ち、休戦をすることは不可能です。彼らがどれほど大胆不敵に私たちに攻め寄せるかは、「我は天に昇らん【16】」という、預言者イザヤ書中のサタンの言葉に如実に示されています。事実彼は、楽園にいた人祖を誘(いざな)い、預言者たちに挑みかかり、果ては主が福音書で仰せられているように、使徒らを「麦をふるいにかけるように【17】」攻め立てたのでした。さらには他ならぬ主キリストの御前(みまえ)に現れることさえはばかりませんでした【18】。聖ペトロは、サタンの飽くことのない願望と果てのない奮励を、「敵である悪魔は、吠える獅子のように、食い荒らすものを捜しながら、あなたたちの周りを巡っている【19】」と述べて表しています。

211.サタンは単独で私たちを攻撃することもありますが、時には悪魔の集団が私たちの一人々々に襲いかか留のですが、これは、主キリストにその名を問いただされた悪魔が、「私の名は集団である【20】」と答えて示していることに他なりません。事実、大勢の悪魔が群れを成してこのあわれな人を苦しめていたのでした。またもう一人の悪魔について、マタイによる福音書中に、「自分より質(たち)の悪い他の7人の悪魔を連れに行き、帰ってきて、そこに住む【21】」という章句が見受けられます。

212.悪魔による誘(いざな)いおよび攻撃を己が身にいささかも感じず、これら一切のことは偽りであると思いなす者が少なからずいますが、かかる人々を悪魔が攻撃しないということは、全く驚くに値しません。なぜなら彼らは自らからすすんで悪魔に身を委ねたのだからです。彼らの中(うち)には敬虔心も愛徳も、キリスト教信者にふさわしい何らの徳も見出されません。したがって彼らはことごとく悪魔の支配下にあるのであり、そのため彼らを打ち負かすためには何の誘惑も必要ではありません。なぜなら悪魔はこれらのものの霊魂の中に、彼ら自身の承諾を得て、すでに住みついているからです。 

213.しかるにサタンが誰にもまして攻撃するのは、天主に己が身を奉献し、地上にありながら天上の如き生活を送る者たちです。サタンは彼らをこの上なく忌み嫌い、四六時中彼らに罠をしかけます。
聖書には、[正しく生き、悪を避ける]固い心構えを抱きつつも、悪魔により力ずくで、あるいは奸計によって悪の道に陥れられた義人の例が多々見受けられます。アダム、ダビド、サロモンおよびその他枚挙のいとまのないほど多くの者たちは、人間の知慮も力も抗(あらが)い得ない悪魔の猛烈な攻撃と聡(さと)い術計にかけられたのです。
したがって誰があえて、自らの力に頼って安全であると思いなすことができるでしょうか。それゆえ敬虔で清い心をもって天主に、私たちが自分の「力以上の試みに遭うのをお許しにならず、却って当の試みを耐え、それに打ち克つ方法を備えてくださる【22】」よう祈り求めねばなりません。

214.しかるに信徒の中に、あるいは臆病な気質のため、あるいは無知のために、悪魔の力を過度に恐れる者があるならば、彼らが誘惑の荒波にもてあそばれるとき、祈りの避難港に身を隠すよう促して勇気づけねばなりません。

215.事実、人類に対する執拗な憎しみに駆られるサタン【23】は、その恐るべき権勢と不動の意志にも関わらず、自らが望むだけ(程度の面でも期間の面でも)私たちを試み、責めさいなむことができないのです。彼の一切の力は、天主のご意志と許しとによって律されているからです。
よく知られた義人ヨブの例は、この点を如実に示すものです。なぜなら、もし天主がサタンに「彼の持ち物全てをおまえの手に任せる」【24】と仰せにならなければ、彼はヨブの所有物のただ一つにも手をかけることができなかったからです。反対に、もし主が、「ただ彼の身には手を伸ばしてはならない」と付言されなかったとすれば、サタンは一撃でヨブをその子らと財産と共に打ち滅ぼしたことでしょう。
事実、悪魔の力はかくも束縛されているため、天主の許しがなければ、福音記者が述べるところの豚の群に入ることさえできないほどです。【25】

§ IV. 「試みに引く」という言葉の意味

216.しかるに、当の祈願の性質を正しく理解するために、ここで言う「試み」ならびに「試みに引く」という言葉の意味するところを説明しなければなりません。

217.「試みる」という言葉は第一に、特定の事物に関しての真実を知るために、ある人を試練にかけることを意味しますが【26】、この意味で天主が誰かを試みられることは決してありません。実際、天主がご存知でないことが何かあるでしょうか。実に「天主のみ前に、全ては明らかであり、開かれている【27】」からです。
しかるに何かを「試みる」もう一つの、より一歩進んだ仕方がありますが、それは、ある物(者)の本質を知るために、善い目的または悪い目的のためにこれを試みにかける場合です。

218.善い目的のために試みにかけるというのは、ある人を、その美徳を明らかにし、知らしめて、これに利典と栄誉とを与え、かつ彼の模範を他の者らに示して、皆がこぞって天主を讃えるよう促すために試練に合わせる場合に言います。しかるに天主が誰かを試みられるのは、この意味でしかありませんが、第二法の書における、「あなたたちの天主である主は、あなたたちが真実に主を愛しているか否かを知るために、あなたたちを試みられる【28】」というくだりに、その一例を見受けることができます。
同様に、天主が窮乏、病苦およびその他の災厄によってご自分の愛する子らを打ちひしがれる際も、天主は彼らを試みられるのですが、それはあくまでも彼らの忍耐を試し、彼らを他の者らにキリスト教信徒にふさわしい忠誠の模範となすという善い目的を目してのことに他なりなりません。
まさにこの意味で、アブラハムは独り子を屠(ほふ)るよう天主から命じられたとき【29】、主から試みられたと言われるのですが、この命令に従うことをとおして、同大祖は従順と忍耐の顕著な模範を末代、末世まで残したのです。
大天使ラファエルがトビアに告げた「あなたは天主に嘉(よ)みされていたために、試みられる必要があった【30】」という言葉も、同様の意味に解さねばなりません。

219.反対に、人が罪又は霊魂の滅びとに駆り立てられる場合、悪い目的のために試みられることとなりますが、これは悪魔に固有のはたらきです。実に悪魔は人を騙(だま)し、深淵に突き落とすためにこれを試みにかけるのであり、そのため、「試みる者【31】」と聖書中で呼ばれています。

220.かかる試みないし誘惑において、悪魔は、ある時は私たちの心中に潜む衝動、すなわち霊魂(たましい)の愛着や情動を巧みに用いて、又ある時は外的な事物を用いて私たちを外から攻撃するのですが、後者の場合、順境によって私たちを思い高ぶらせ、逆境によって私たちの気をくじきます。またある時は、悪魔は身持ちの悪い者ら、殊に「悪疫の座に座り【32】」、悪い教えの致命的な害悪を蒔(ま)き散らす異端者を自らの使いないしは手先として用いて、善徳と悪徳とを区別し、そのいずれを選ぶべきかも知らず、常に戸惑い、倒れかかり、悪へと自然に流される類(たぐい)の者たちを滅ぼそうとします。

221.「試みに引かれる」ということは、試みないしは誘惑に屈することを意味しますが、しかるに二とおりの仕方で人は試みに引かれます。第一の場合、私たちは、他人によって悪に誘(いざな)われ、自分の元いた[正しい]状態から脱落してしまいます。しかるに誰一人として、天主からこの意味で試みに引かれる者はいません。実に、天主は何人に対しても、罪の発起人【33】たり得ないからです。却って「天主は、不正を行う者を忌み嫌われる【34】」のです。聖ヤコボの書簡中に、「試みのときに、『天主が私を試みられる』と言ってはならない。天主は悪に誘われることもできず、また人を誘(いざな)うこともないからである【35】」と記されているとおりです。
第二の意味で、ある人が私たちを「試みに引く」と言われるのは、
たとえ当人自身が私たちを試みることも、また試みに荷担することもないとは言え、かかる試みを妨げることも、またこの試みに私たちが屈するのを防ぐことも、そうすることが充分可能でありながら、あえてしない場合です。
この意味で、仁慈なる天主は敬虔な者らを試みられるのですが、しかるに恩寵によって彼らを支え、けっしてお見捨てになることがありません。
しかしながら、時として、天主の正しく、計り知れぬ裁きによって、私たちの悪業がこれを求めるがゆえに、天主は私たちを自らの身に委ね、かくして私たちは誘惑に屈するということがあります。
また私たちが、私たちの救霊のために天主がお与えになった諸々の恵みを、自らの滅びのために悪用し、放蕩息子の如く、情欲の趣(おもむ)くままに放縦な生活を送って、父の財産を蕩尽(とうじん)する際にも、天主は私たちを試みに引かれると言われますが、この場合、使徒パウロが律法について述べたことを当てはめて言うことができます。すなわち、「私にとっては、命を与えるための掟が、かえって死の元となった【36】」のです【37】。エルサレムの都は、このことの格好の例証となります。預言者エゼキエルが、「我が汝にまとわせた飾りによって、汝は完全に美しいものとなった【38】」という言葉で言い表しているように、天主により、あらゆる種類の装飾と恩典とをもって飾られ、豊かにされたたこの街は、天主からかつて受け、また引き続き受けていた恵みについて感謝をささげ、至福を得るために天の賜を用いる ―そのためにこそ、当の恵みを受けていたのですが― どころか、父なる天主の恩を忘れ、天的利善に対する希望(のぞみ)も思いも打ち捨てて、現世の富を放埒(ほうらつ)で淫蕩(いんとう)な生き方で享受することしか考えず、同預言者の度重なる叱責の的となったのです。【39】
同様に、善業を為すべく天主から与えられた豊かな資質を、同じ天主の許しにより、悪徳と化してしまう者らは、天主に対して甚だ恩知らずな者であると言わなければなりません。

222.しかるに天主による、かかる「許し」ないしは許可が、聖書中しばしば、文字通りに解せば、天主による積極的な行為を示す言葉で言い表されるという事実によく注意すべきです。例えば出エジプトの書において天主は「私はファラオの心を頑(かたく)なにする【40】」と、またイザヤ書では、同預言者に「彼らの目を盲(めしい)にせよ【41】」と仰せられています。さらに使徒パウロは、ローマ人への手紙で、「天主は彼らを恥ずべき欲情と、自らの曲がりきった了見とに打ちまかせられた【42】」と述べています。しかるにこれらの章句およびその他これに類したくだりは、天主の積極的な行為の意味にではなく、あくまで[消極的な]許可の意味に解すべきものです【43】。

§ V. この祈願をとおして天主に求める恵み

223.以上のことから、「我らを試みに引き給わざれ」という祈願をとおして何を願うかが明らかとなります。すなわち、この祈りによって私たちは、全く何の試みにも遭(あ)わないことを願うのではありません。実に「この世における人の生活は試練である【44】」からです。
しかるにこれは、人類にとって有益かつ実り多いことです。なぜなら試みに遭うときにこそ、私たちは自らを、すなわち自分の力を知るのであり、かくして天主の力強い御手の下(もと)に謙(へりくだ)り【45】、雄々しく戦って、「朽ちることのない光栄の冠【46】」を受けるよう励むこととなるからです。実に、「闘技に臨む者は、[競技の]きまりにしたがって戦わなければ冠を受けることができない【47】」のであり、また聖ヤコボが述べるように、「試みを耐え忍ぶ者は幸いです。それに打ち勝てば、主がご自分を愛する人々に約束された生命の冠を受けるのだから【48】」です。そしてもし、私たちが時として敵の誘惑に責め悩まされるなら、私たちは助け手として、「罪以外の全てにおいて私たちと同様に試みに遭われたために、私たちの弱さに同情してくださる大司祭を持つ【49】」ものであることを思い起こすことは、大きな慰めとなります。

224.したがって、当の祈願において私たちは、天主の助力を失って、誘惑に、あるいは騙(だま)されて、あるいは打ちひしがれて屈してしまうことのないように願います。また、天主の恩寵が私たちに伴い、私たちの力が艱難において衰えてしまうとき、これを回復し、再生するよう願うのです。
したがって、私たちは一般的に全ての誘惑において助けていただくよう、天主に乞う必要がありますが、誘惑に襲われるとき、特にこの誘惑から救われるよう、明示的に祈らねばなりません。実に、ダビドはおよそ全ての誘惑においてこのように為したのであり、嘘をつく誘いに遭うときは、「私の口から、真理のことばを取り去り給(たも)うな【50】」と、貪欲(どんよく)の誘惑に対しては、「私の心を利得にではなく、御身の御(み)証(あかし)【51】に傾かせ給え【52】」と、また現世のはかない事物に執着し、欲情に惹(ひ)きつけられそうになるときには、「私たちの目をそらせて、空しいものを見せ給うな【53】」と祈ったのでした。
したがって私たちは、欲情に従うことも、種々の誘惑に抵抗することに疲れ果てて【54】、主の道から離れてしまう【55】こともなく、却って順境においても逆境においても内心の平静と堅実さを保ち、私たちの存在のいかなる部分も、天主のご保護から、もれ出てしまうことがないよう祈り求めるのです。
最後に私たちは、天主がサタンを私たちの足の下に打ち砕いてくださるよう【56】願います。

§ VI. いかなる考察と手段によって悪魔に抵抗するべきであるか

225.司牧者が次に為すべきことは、信徒がこの祈願を唱えるにあたって特に思いなし、鑑(かんが)みるべき事柄を示し、かかる省察に励むよう促すことです。
この点、人間がいかに弱いものであるかを慮(おもんばか)って自力に頼らず、己が安全についての希望をことごとく天主の仁慈に置き、かつそのご保護の下に、いかに大きな危難にあっても、かかる希望ならびに勇気を持った多くの人を、天主がサタンの牙から救い出したことを思って、気概を保つことに優るものはありません。
実に、天主こそ、情欲に燃え立つ狂女によって窮地に陥れられた旧約の義人ヨゼフを救い出し、栄誉の極みにまで引き上げられたのではありませんか【57】。また天主は、悪魔の手先に責め立てられ、不正きわまりない判決によって死刑に処されかけていたスザンナを救われた【58】のではありませんか。しかるにこれは、驚くに値しません。聖書に記されているように、「彼女の心は、主に依り頼んでいた【59】」からです。
また、世と肉と悪魔とに打ち勝ったヨブの栄誉と光輝は、異彩を放つものです。
しかるに、この種の例は枚挙にいとまがなく、司牧者は、それらを用いて、信徒がかかる希望ならびに信頼を育むよう、尽力すべきです。
一方、信徒らも、敵の誘惑に遭うとき、かかる戦いにおいて勝利を収められた主キリストを頭(かしら)としていだいていることを思い起こすべきです。実に、主は悪魔に打ち勝たれたのであり、また主は、福音書中の「武装した強者を打ち倒し、その身につけていた武具と戦利品を奪い取った、さらに強い人【60】」に他なりません。主が世に対して収められた勝利については、聖ヨハネによる福音書中、「信頼せよ、私はこの世に勝ったのだ【61】」という主ご自身の言葉があります。また黙示録において、主は「勝利を収める獅子【62】」と呼ばれ、「勝つ者であり、さらに勝つために勝ち誇って出て行った【63】」旨記されていますが、それは主が、ご自分の勝利において、おん自らに従う者らにも、(誘惑に)勝つ力をお与えになったからです。
使徒パウロのヘブライ人への手紙には、信仰によって国々を破り、獅子の口をふさぎ、およびその他の栄えある業(わざ)を成し遂げた義人らの勝利が列挙されています。【64】
しかるに聖書中に見られるこれらの偉業は、信仰、希望、愛徳に長ける者たちが毎日、悪魔との内的、外的な戦いにおいて収める勝利について考える助けとなります。かかる勝利は、かくも頻繁で、かくも顕著なものであるため、もし肉眼で見ることができたならば、これ以上頻繁に、かつめざましい仕方で起こることはおよそないと思われることでしょう。かかる敵の敗北について使徒聖ヨハネは、「若者よ、私があなたたちに書き送るのは、あなたたちが強い者であり、天主のみ言葉があなたたちの中に留まり、またあなたたちが悪者に勝ったからである。【65】」と記しています。

226.しかるにサタンを打ち破ることができるのは、無為、安眠、飲酒、美食、淫乱遊蕩によってではなく、却って祈り、労働、徹夜、節制、禁欲、貞節によってです。先に見たように【66】、主は、「誘惑に陥らないように、目覚めて祈れ【67】」と仰せになっているからです。これらの武器を持って戦いに挑む者は、諸々の敵を討ち散らすことができます。「悪魔に抵抗する者たちから、悪魔は逃げ去る【68】」ものだからです。

227.しかるに誰も、上述した聖人らの勝利を鑑みて、悦に入って高ぶり、自力で悪魔の誘惑と攻撃に抗(あらが)い得ると思いこむことがないようにしなければなりません。そのようなことは、私たちの自然本性ならびに人間の弱さに適うものではないからです。

228.サタンとその手先を打ち負かすための力は、天主からのみ与えられます。天主こそ、「私たちの腕を青銅の弓のようにされ【69】」、その仁慈によって「強者(つわもの)の弓は折られ、弱い者が力を帯びる【70】」からです。実に天主は、「救いの楯で私たちを守り、その右腕で私たちを支え【71】」、「私たちの手を戦(いくさ)に、私たちの指を闘いに鍛えられ【72】」るのです。
したがって私たちが敵に打ち勝つ場合、唯天主にのみ感謝の念を抱きかつ示すべきです。唯天主によって、その助力を受けてのみ私たちは勝利を得ることができるからです。この意味で、使徒パウロは、「主イエズス・キリストによって私たちに勝利をお与えになった天主に感謝しよう【73】」と述べているのであり、また黙示録においても、天から響く声は、次のように叫んで、当の勝利を同じく天主に帰しています。「天主の救いと力と統治、ならびにそのキリストの権勢の時はすでに到来した。私たちの兄弟を[罪に]訴えていた者は突き落とされたからである。兄弟たちが勝ったのは、小羊の御血によってである。【74】」また同書中に見られる、「彼らは小羊と戦い、小羊は彼らに勝つであろう【75】」と言う章句も、主キリストが世と肉とに対して収められた勝利を証し立てています。以上、何によって、またいかにして霊魂の敵に打ち勝つことができるかを見てきました。

229.次いで、司牧者は、天主によって勝者に備えられた栄冠と、はかり知れぬ永遠の報いとを信徒に示さねばなりませんが、これについての天主ご自身のみ言葉を、同じく黙示録から引くべきです。すなわち、「勝つ者は、第二の死を受けることがなく【76】」、また他の箇所では、「勝つ者は白い衣をまとい、私はその名を命の書から消すことなく、御父のみ前と天使たちの前でその名を宣言する【77】」と天主は宣(のたも)うておられます。またそのすぐ後で、天主なる我らの主イエズス・キリストご自身が、使徒ヨハネに、「勝つ者を私は天主の神殿の柱とし、彼はもうそこから出ることがない【78】」と、さらに、「勝つ者は、私と共に私の王座に座らせよう。私が勝って、父と共にその王座に座したのと同様に。【79】」と仰せになっています。最後に、聖人らの栄光と、彼らが天で永遠に浴するあふれるばかりの諸善を示した後に、主は「勝つ者は、これら全てを受ける【80】」と述べて、結んでおられます。

1: ルカ 11章21-26節参照 (四旬節第3主日の福音)
2: 聖ペトロの後の手紙 2章21節
3: ヨハネ 13章11節
4: マタイ 26章41節
5: 同上
6: マタイ 26章56節
7: マタイ 26章35節
8: 訳者注: 主キリストおよび使徒聖ヨハネと聖パウロによって度々用いられた(マタイ16章17節、26章41節、ヨハネ3章6節、6章64節、ローマ人への手紙8章12節以下、ガラツィア人への手紙5章16節等々)この言葉は、同じ聖パウロの書簡中に見られる「古い人」と言う表現と同じ意味を持つものである。「新しい人」ないしは「霊の人」が恩寵の助けによって超自然的な傾きに従って、天主の法を守り、その御旨に沿って行動するよう促すのに反し、「古い人」ないしは「肉の人」は、自然的な傾向にのみ従い、洗礼を受けた後も依然として残る悪い傾き、すなわち肉の欲、目の欲、生活の傲りという3つの欲情に律され、支配されるものであり、世と悪魔とは、これに拍車をかける。キリスト者の生活は、己が中にあるこの2つの傾きの間でめぐらされる、たゆまぬ戦いである。(Ad. Tanqérie 著 « Précis de théologie ascétique et mystique » を参照した。)
9: ヨブ書 7章1節参照
10: 訳者注:このくだりは、従来「権勢と能力」と訳されてきたが、原語の意味および当教理の文脈に即して、あえて「首長と権能」という言葉で訳した。(この2位階に属する善天使は、それぞれ「首天使」、「能天使」とよぶことができるだろう。)以下注13および14を参照のこと。
11: エフェゾ人への手紙 6章12節
12: 訳者注:ここで言う「心に入り込む」( influunt in animas nostras)という表現は、あくまで比喩的に解すべきものである。悪魔のみならずいかなる天使も、人の知性と意志とに直接働きかけることができないからである。(神学大全第1部第57問4項参照)
13: ラテン語では <Principes>、ギリシャ語原文では<αρχαι>。(自らに備わった秀でた資質のために)第一の座を占め、他の者らを治め、指導する者を示す語である。英仏語では、それぞれ<Principalities>および<Principautés>と訳される。聖トマス・アクィナスによると、同位階の天使は、「能天使」によって伝えられた天主の命令を、下位の天使、すなわち天使と大天使を指揮して遂行する役目をもつ。「首長」という言葉を構成する2つの漢字は、「首位」、「長所」ないしは「長ける」といった言葉にみられるように、他者に優って秀でた資質(性質)を有することを示すものであり、また聖トマス・アクィナスが神学大全中(第1部、第108問、第6項)同位階の天使の職務を、為政者のそれになぞらえていることもふまえて、このように訳することが適当であると思われる。( « haec ordinatio statim in nomine principatum designatur, qui sunt primi in executione divinorum ministeriorum utpote praesidentes gubernationi gentium et regnorum ») ただし、ある位階の善天使は、当の位階名の一字をとって、天使という一般的名称に付け加えて呼ばれるのが常であるため(「勢力」→「力天使」、「主座」→「座天使」等々)、「主権」(Dominationes)の位階に存する善天使すなわち「主天使」と同音語となる(「首天使」と「主天使」)のを避けるために、後者を「権天使」と呼ぶことが必要となろう。
14: ラテン語では <Potestates>、ギリシャ語原文では<εξουσιαι>。公の権力、権勢を指す言葉。英仏語では、それぞれ<Powers>、<Puissances>ないしは<Authorités>と訳される。「能力」という従来の訳語は、ヴルガタ訳聖書で用いられているラテン語の<potestas>という語に基づくものであると思われるが、しかるにこの言葉は、原語ギリシャ語の<εξουσια>と同様、主として政治的、法的な権力、権能を表す語であるため、(*1)その意味で、特定の所作、行為ないしは活動を為すための、より具体的な意味での力を示す「能力」(*2)をもってその訳語とするのは、不適当であると思われる。聖トマス・アクィナスによると、同位階の天使は、「権天使」(Dominationes)によって定められた、果たすべき務めが、どのようにして下位の天使らによって完遂されるべきかを決定し、かつ悪霊を牽制することを役職とする。 (神学大全前掲箇所参照)(*1)A. Ernout & A. Meillet : « Dictionnaire étymologique de la langue latine » Paris, 1979 (p.528) « Potestas : Pouvoir, puissance. En particulier «pouvoir politique», «pouvoir du magistrat». (「Potestas : 権力、権威。特に「政治的権力」および「行政官、司法官の権能」を指す。」)(*2)この意味での「力」は、むしろ<virtus>もしくは<vis>といった語に相当する。
15: エフェゾ人への手紙 6章12節
16: イザヤ書 14章12節
17: ルカ 22章31節
18: マタイ 4章参照
19: ペトロの前の手紙 5章8節
20: ルカ 8章30節
21: マタイ 12章45節
22: コリント人への前の手紙 10章13節
23: 黙示録 2章20節参照 
24: ヨブ書 1章12節
25: マタイ8章31節/マルコ5章11節/ルカ8章32節
26: 神学大全 第1巻第114問2項 第2反論に対する解答および第2巻第2部第97問1項参照
27: ヘブライ人への手紙 4章13節
28: 第二法の書 13章3[4]節
29: 創世の書 22章
30: トビア書 12章13節
31: マタイ 4章3節
32: 詩編1 1節
33: 訳者注 ラテン語原文では、< peccati auctor >
34: 詩編5 7節
35: ヤコボの手紙 1章13節
36: ローマ人への手紙 7章10節
37: 訳者注: つまり、本来人間の利益となるべきもの(例えば天主の掟)が、それを悪用することによって、却ってその滅びの元となってしまうということ。
38: エゼキエルの書 16章14節
39: エゼキエルの書 16章15節以下
40: 出エジプトの書 4章21節および7章3節
41: イザヤ書 6章10節
42: ローマ人への手紙 1章26節
43: 神学大全第2巻第2部第87問2項および第15問参照。また次の教会博士の著作をも参照することができる。Iren. lib.4 contra hæret. cap.48 / Tert. lib.2 contra Marc. 14 / August. lib. de Prædestin. et Gratia cap.5. et de Prædestin. sanct. cap.9. et de libro arbitr. cap.21, 22, 23 
44: ヨブの書 7章1節(ヴルガタ訳聖書による)
45: 聖ペトロの前の手紙 5章6節
46: 同上4節
47: ティモテへの後の手紙 2章5節
48: 聖ヤコボの手紙 1章12節
49: ヘブライ人への手紙 4章15節
50: 詩編118 43節
51: 訳者注:主の掟のこと。
52: 詩編118 36節
53: 同詩編 37節
54: ヘブライ人への手紙 12章3節参照
55: 第二法の書 31章29節および詩編24 4節参照
56: ローマ人への手紙 16章20節
57: 創世の書 39章7節
58: ダニエルの書 13章61節
59: 同箇所 31節
60: ルカ 11章22節
61: ヨハネ 16章33節
62: 黙示録 5章5節
63: 黙示録 6章3節
64: ヘブライ人への手紙 11章
65: ヨハネの第1の手紙 2章14節
66: 当章206項
67: マタイ 26章41節
68: ヤコボの手紙 4章7節
69: 詩編17 35節
70: サムエルの書上 2章4節
71: 詩編17 36節
72: 詩編143 1節
73: コリント人への前の手紙 15章57節
74: 黙示録 12章10節
75: 黙示録 17章14節
76: 黙示録 2章11節
77: 黙示録 3章5節
78: 黙示録 3章12節
79: 黙示録 3章21節
80: 黙示録 21章7節

 


【参考情報】ヴィガノ大司教、ミュラー枢機卿とそのグレート・リセット批判を擁護する

2021年12月28日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ヴィガノ大司教、ミュラー枢機卿とそのグレート・リセット批判を擁護する

Archbishop Viganò defends Cardinal Müller and his Great Reset critique

2021年12月16日 マイケ・ヒクソン

(LifeSiteNews)―ゲルハルト・ミュラー枢機卿が、カトリック活動家アレクサンダー・ツッゲルに、コロナウイルスの都市封鎖やワクチン義務、特に危険で反民主的な「グレート・リセット」のアジェンダ(行動計画)に関して、思慮深く良いインタビューを行った後、ドイツで激しい攻撃にさらされました。枢機卿が、彼が拒絶している世界観を持つグローバリストの一人としてジョージ・ソロスに言及したため、国家と信仰の両方の指導者たちが、「陰謀論」と「反ユダヤ主義のコード」までも広めている、と非難したのです

LifeSiteは、グレート・リセットに反対する強い姿勢で知られるカルロ・マリア・ヴィガノ大司教に連絡を取り、ミュラー枢機卿の批判への反応について、つまり、枢機卿が行った"反民主主義的でグローバリズム的な秩序を確立するために健康危機を利用するような、現在の政治動向に対する筋の通った批判"に対して強い反発があったことについて、コメントするつもりがあるかどうかを尋ねました。

私たちは、ヴィガノ大司教の迅速な対応と支援に感謝いたします。このイタリア人大司教の声明の全文は以下の通りです。イタリア語はこちらをご覧ください。

Ephpheta, quod est, Adaperire!
「エフェタ」、それは「開けよ」という意味である
マルコ7章34節

真理が、それに反対する誤謬を広める人々に複雑な反応を引き起こすことに、私は驚きません。私たちの主の言葉に対するファリザイ人の反応――メシアによる神性の宣言に対するカヤファの芝居がかった身振りで始まる反応――は、真理と知的誠実さの肯定を前にした嘘つきと悪意ある人々の怒りを常に表しています。そして、動機がなく、反論に対する論拠もないほど強められるこの憤りが、しばしば対話相手にぶつけられ、相手を嘲笑して、相手を狂った、あるいは危険な犯罪者にしようとするのです。

私たちが、新型コロナウイルス感染症についての公式の物語(ナラティブ)の隅石に加わっている人々に目撃することができた例は、嘘をつく人々の側に不寛容な態度があることの確認と、同時に、真実の明確な証拠を述べることだけをしている人々に対して行う、彼らが不寛容であるという非難です。

ワクチンの効果がないことを断言し、医薬品や治療法の認可を担当する役人たちの深刻な利益相反を強く指摘しているウイルス学者らがいます。パンデミックの抑制に役立たず、国民経済にとって悲惨であることが証明された後であってもさらに都市封鎖を課すことの有効性に異議を唱える国会議員たちがいます。憲法違反の政府によって課された規則を批判する法律家たちが存在します。中絶胎児を使った実験的な血清の道徳性について説教台から疑問を呈する教区司祭もいます。世界経済フォーラムと国連アジェンダ2030によって推進されているグレート・リセットの犯罪計画が、例のパンデミック緊急事態 --- 2009年にジャック・アタリがフランスの週刊誌「レクスプレス」(L'Express)で予告して以来、待望されてきた --- の筋書き通りに時間通りにまた不審にも正確に実現していることを指摘している知識人がいます。

ところが以上の人々は、グローバリストの最高法院(サンヘドリン)によって異端者とみなされており、巨大製薬会社から報酬を得ている専門家たちが「不可謬権をもって聖座から」(ex cathedra)定義した"健康宗教の新しい教義(ドグマ)"に疑問を呈する資格がない者とされています。管理される側から支払いを受けている管理者たちが、いかなる誠実さや公平さを保証できるのか、私たちは想像することができます。

ディープ・ステートの主唱者たちが、自分たちの犯罪計画を堂々と告白している文章や発言を引用して【証明しようとしてみて】も無駄です。例えば、ジャック・アタリの言葉を引用してみましょう。

「歴史が私たちに教えてくれるのは、人類が本当に恐れを抱いたときにのみ大きく進化することである。そのとき、人類はまず防衛メカニズムを開発する。それは時には耐え難いもの(スケープゴートや全体主義)、時は役に立たないもの(気晴らし)、時には効果的なもの(必要ならそれまでのすべての道徳原則を否定する治療法)だ。その後、いったん危機が終わると、人類はこれらのメカニズムを個人の自由と両立するように変形させ、このメカニズムを民主的な健康政策の中に取り組む」(https://scenarieconomici.it/jacques-attali-una-piccola-pandemia-permettera-to-establish-a-world-government/).

Histoire nous apprend que l'humanité n'évolue significativement que lorsqu'elle a vraiment peur : elle met alors d'abord en place des mécanismes de défense ; parfois intolérables (des boucs émissaires et des totalitarismes) ; parfois futiles (de la distraction) ; parfois efficaces (des thérapeutiques, écartant si nécessaire tous les principes moraux antérieurs). Puis, une fois la crise passée, elle transforme ces mécanismes pour les rendre compatibles avec la liberté individuelle et les inscrire dans une politique de santé démocratique.
https://www.lexpress.fr/actualite/societe/sante/avancer-par-peur_758721.html

この言葉は、2009年、当時WHOが非難を浴びた豚由来の新型インフルエンザが目前に迫っていた時に発せられたものです。この言葉からは、健康上の緊急事態を管理する方法、さらには緊急事態の計画そのもの、そして市民が取り得る対応策について、正確なイメージを確認することができます。つい数日前、アタリはマスクをつけずにインタビューに応じましたが、その際、マスクを鼻の下に当てていたジャーナリストを叱りました。この逸話は、インターネット上のビデオで見ることができますが、パンデミックという物語(ナラティブ)の不条理さを証明するものです。

この物語は、システムの臣民や奴隷には当てはまりますが、責任者には当てはまらないのです。バイデン、ジョンソン、メルケル、ドラギ、ベルゴリオ、そしてすべての「世界の偉人たち」は、大衆を軽蔑し、不条理なルールを大衆に押し付け、そのルールを自分たちが最初に破るのは、まさにこのパンデミック・カルトに固執するには信心深い同意を必要とし、それが何の科学性も持たないことを証明するためなのです。

知的に誠実な方であるミュラー枢機卿猊下は、バーク枢機卿やシュナイダー司教などが、私も含めて、すでに糾弾していることを言われました。クラウス・シュワブ、ジョージ・ソロス、ビル・ゲイツ、そしてグレート・リセットの信奉者たちが常に公言してきたことであり、パンデミックから気候変動の緊急事態まで、予測されるさまざまなシナリオを詳細に説明した公式文書や印刷物さえも作成しています。そして、枢機卿の言葉は、昨年2020年5月の教会と世界のための私のアピール --- それに枢機卿のお名前も署名されていますが --- を枢機卿が、熟考し、欲していたことを確認するものです。私は、いくつかの点で勇敢なその行いに対して猊下に感謝申し上げます。

しかし、ドイツの主流メディアが、ジョージ・ソロスやクラウス・シュワブがユダヤ系であるという単純な事実から、ミュラー枢機卿を反ユダヤ主義者として非難し、問題の本質には立ち入らないようにしていることは残念です。ところが、グローバリストのエリート、特にシュワブ、ゲイツ、ソロス、ロスチャイルド家、ロックフェラー家に対する同様の非難は、正統派のラビやナチの強制収容所を生き延びたユダヤ人たちによってなされているのです。彼らも反ユダヤ主義者でしょうか? しかし、繰り返しますが、偏見を持っている人に合理的な質問をすることは無駄です。イソップ寓話にあるように、水路の一番上にいる狼は、下流の子羊に水を汚させない権利があると信じているのです。

教理省長官でもあった枢機卿にとって、ベルゴリオとは反対側と見えることがらの立場を表明することは、何か困難で、そう簡単ではないことは私も想像がつきます。何故ならベルゴリオはファイザー社のワクチンを広め、ロスチャイルド家やロックフェラー家と共にグリーン経済や包括的資本主義を支持しているのですから。

しかし、私はまた、猊下が新世界秩序(New World Order)の反人間的陰謀を非難し、億万長者ゲイツやソロスの国家の運命への干渉を、証拠と彼らの発言による同意に基づいて、非難するという正直さをお持ちであるならば、サンタマルタ館のあの住人が持つグローバリスト・イデオロギーへの同じ同意を、同等の分析の明確さをもって認識なさるでしょう。かの住人はつい最近アルゼンチンの諸宗教公園inter-religious park)を祝福し、「フラテッリ・トゥッティ財団」と同財団の諸宗教との対話のための「ホリスティック(全体的)・トレーニング」を認可したばかりです。

Photo Credit

ソロスとゲイツの各国政府への干渉が明らかであれば、WEFと国連の共犯者たち、彼らの計画、彼らに協力する者たちに尊厳と正統性を与えたベルゴリオの責任は否定できません。なぜなら、エキュメニズム、母なる地球の神格化、教会の「アマゾン的」次元、シノドスの道、人工知能財団のトランスヒューマニズム、そしてこの教皇職のすべての不幸な革新は、この枠組みに完全に一致し、それに役立ち、同じ目的、すなわち新世界秩序の必須目標である「人類教」(Religion of Humanity)の確立を追求しているからです。

健康の緊急事態が計り知れない損害を引き起こしたとしても、それにもかかわらず、多くの目の見えない人々の目を開かせ、耳が聞こえず話せない多くの人々を癒やし、彼らが耳を傾け、話すことができるようになったという利点があります。

この恩恵は、私たち全員が、目の前で起こっていることを超自然的な目で評価し、背後にある原則に気づかせ、宣言されていない目的を察知し、責任ある人々を糾弾し、素朴な人々に警告を発する好機とならなければなりません。素朴な人々は、牧者たちが健全な指標を与え、奈落の底に突き落とさない人々であってほしいと当然に期待しています。そして、この恩恵は、「私なしには何もできない」(ヨハネ15章5節)という主の言葉がいかに真実であるかを理解する好機にもならなければなりません。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2021年12月16日

 

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L'archevêque Viganò défend le cardinal Müller et sa critique de la Grande Réinitialisation. - Résistance

Klaus Schwab, George Soros, Bill Gates et tous les adeptes de la Grand...

Résistance

 

 


聖ピオ十世会 聖伝のミサ報告 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX Japan

2021年12月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計103人でした。大阪では23人でした。
幼きイエズスの祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上にありますように、皆様の意向で昨日から3日続けてミサを捧げております。

12月31日は、年末なので、修道院でのミサは午前11時00分からです。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.

The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 103, including children.

09:00 mass
M: 23 (incl. 7 children)
F: 27 (incl. 8 children)
Total: 50 (incl. 15 children)

11:00 mass
M: 17 (incl. 6 children)
F: 17 (incl. 4 children)
Total: 34 (incl. 10 children)

12:30 mass
M: 14 (incl. 2 children)
F: 10 (incl. 1 child)
Total: 24 (incl. 3 children)

Total of 3 masses (excl. 5 people who participated in multiple masses)
M: 51 (incl. 15 children)
F: 52 (incl. 13 children)
Total: 103 (incl. 28 children)






私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお慶びを申し上げます!ミサの報告

2021年12月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお慶びを申し上げます!
今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計146人でした。
大阪では、イブのミサは19人、真夜中のミサは41人でした!天主に感謝!
今日だけで、東京の聖堂の特別献金を、東京で99,400円、大阪で69,105円をいただきました。心から感謝申しあげます。
今日から3日間続けて、小野田神父は、聖伝のミサに与る愛する兄弟姉妹の皆様のために、特にクリスマス特別献金を感謝しつつ、ミサを捧げております。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.

The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 146, including children.

09:00 mass
M: 40 (incl. 11 children)
F: 43 (incl. 13 children)
Total: 83 (incl. 24 children)

11:00 mass
M: 14 (incl. 1 child)
F: 18 (incl. 2 children)
Total: 32 (incl. 3 children)

12:30 mass
M: 18 (incl. 3 children)
F: 19 (incl. 2 children)
Total: 37 (incl. 5 children)

Total of 3 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 69 (incl. 15 children)
F: 77 (incl. 17 children)
Total: 146 (incl. 32 children)




主の御降誕おめでとうございます|なぜ人類はキリストの誕生を祝うので しょうか?その理由はただ一つしか ありません。

2021年12月24日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、主の御降誕のお喜びを申し上げます。

2021年12月25日は主の御降誕の大祝日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「主の御降誕の大祝日のメッセージ」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


ヴィガノ大司教のクリスマスメッセージ「あなたが、至聖なるご誕生とご受難と死によって民を解放なさったように、今日もまた民を解放してください。」

2021年12月23日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教のクリスマスメッセージ

Archbishop Viganò’s Christmas Message

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2021年12月20日

NATIVITAS DOMINI NOSTRI JESU CHRISTI SECUNDUM CARNEM
私たちの主イエズス・キリストの肉によるご誕生

12月25日。
初めに天主が天と地を創造された時から5199年目、洪水から2957年目、アブラハムの誕生から2015年目。
モーゼとイスラエルの民の出エジプトから1510年目、ダヴィドが王として油を注がれてから1320年目、ダニエルの預言によれば65週目、オリンピア紀元194年目。
ローマ建国から752年目、オクタヴィアヌス・アウグストゥスの治世40年目。
全世界が平和であった、世の第6時代に、
永遠の天主にして永遠の御父の御子であるイエズス・キリスト、
そのいとも慈悲深きご来臨によって世を聖化しようと願い給い、
聖霊によりて宿り、ご受胎から9カ月を経て、ユダヤのベトレヘムで童貞マリアから生まれ給い、
肉となり給うた。

ローマ殉教録、12月25日[1]

毎年のように、季節と歴史のサイクルの中で、聖なる教会は、永遠の天主にして永遠の御父の御子であり、聖霊の御働きにより聖母マリアによって宿り給うた、私たちの主イエズス・キリストの肉によるご誕生をお祝いします。荘厳な典礼の言葉によって、贖い主のご誕生は、時をその「前」と「後」に分けるよう人類に義務付けます。主が救いのみわざを遂行するために御自らご托身になり、アダムにおいて堕落した人間をサタンの奴隷状態から決定的に引き離されるその時から、「以前と同じものは何もなくなるのです」。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、これは、私たちの「グレート・リセット」です。これによって、天主の御摂理は、私たちの最初の父祖の原罪により、いにしえの蛇によって破壊された秩序を回復させたのです。背教の天使とその指導者ルチフェルは除外されますが、すべての人間が人となられた天主の犠牲から恩恵を受け、アダムの創造以来定められていた永遠の命を取り戻すことができるようになる恩寵を与えてくれたリセットです。

初めから反抗的な被造物に対する、創造主の側からの、何という素晴らしい御慈悲のみわざでしょうか。十字架上の天主の御子という捧げ物を受け入れることによって、不従順な人間に、御子の無限の罪の身代金を与えられた、何という天主の愛でしょうか。propter nos homines et propter nostram salutem(われら人類のため、われらの救いのために)、人となり給うた聖三位一体の第二のペルソナの従順をもって人間の高慢に応え給うた、何という天主の謙遜でしょうか。これこそ、真の「新秩序」(New Order)であり、永遠の敗者【悪魔】が、天主の御稜威の栄光を、あわれな死すべき被造物である私たちにお分けくださることを妨げようとする戦争の千回の戦いの後、天主によって切望され、何世紀にもわたって続くように定められたものなのです。これこそ、人間をその完全性で創造し、人間に友情を与えることで満足せず、人間が自ら悪魔の奴隷として降伏することによって天主を裏切った後、天主の御独り子のいと尊き御血という代価で、人間を買い戻すことに―「redemptio」(贖い)は、まさに奴隷が買い戻されて(贖われて)再び自由になるローマ法の制度―決めたお方の勝利です。そして、それはまた、ご托身の神秘において、贖い主、すなわち、私たちのために苦しみを受け、死ぬように定められた聖なる御子をお生みになった天主の御母の勝利でもあります。原福音において、その血統と敵【悪魔】の間の永遠の敵意において、蛇に対する勝利者として約束されたのは御母なのです。

このために、選ばれた民(ユダヤの民)が集められ、このために彼らは約束の地へと導かれました。このために、聖霊は旧約の預言者たちに霊感をお与えになり、救い主の誕生の時と場所を示されました。このために、天使たちは洞窟でグローリアを歌い、東方の三博士は星に従って、王の子のように産着に包まれた御子を礼拝したのです。このために、童貞聖マリアはマグニフィカトを歌い、小さな洗者ヨハネは聖エリザベトの胎内でおどりました。このために、シメオンは約束されたメシアを腕に抱いて、Nunc dimittis(主よ、今こそあなたのしもべを死なせてください)と言ったのです。

Veni, Emmanuel: Capivum solve Israël.
来てください、インマヌエルよ。あなたの捕らわれの民を解放してください。
あなたが、至聖なるご誕生とご受難と死によって民を解放なさったように、今日もまた民を解放してください。偽りの牧者たちや傭い人たちを明らかにすることで、あなたの聖なる教会を解放してください。あなたが大司祭たちの妬みと、素朴な人々から隠されていたメシアの予言に関する大司祭たちの沈黙を明らかにされたように。悪しき支配者たちから、腐敗から、権力と金銭の奴隷状態から、この世の君への奴隷化から、偽りの自由という嘘から、偽りの進歩という欺瞞から、あなたの聖なる法への反抗から、国々を解放してください。私たち一人一人を、みじめさから、罪から、高慢から、あなたなしでも自分を救えるという思い込みから、解放してください。私たちの霊魂を苦しめる病気から、私たちの人生に感染する悪徳という疫病から、私たちの反逆への当然の報いである死を打ち破ることができるという錯覚から、私たちを解放してください。なぜなら、主よ、あなただけが真の解放者だからです。真理であるあなたにおいてのみ、私たちは自由になり、私たちを世に、肉に、悪魔に縛り付けている鎖が落ちるのを見ることができるのです。

Veni, o Oriens.
来てください、昇る太陽よ。影を投げ捨て、夜の闇を払いのけてください。
Veni, Clavis Davidica.
来てください、ダヴィドの鍵よ、天のふるさとを広く開いてください。天国への道を安全にし、地獄への扉を閉じてください。
Veni, Adonai.シナイ山で、あなたの御稜威のうちに、あなたの民に上から律法を授けられた、力ある主よ、来てください。
Veni, Rex gentium. 
来てください、諸国民(異邦人)の王よ、私たちを治めるために、平和の君よ、大いなる勧めの天使よ。来て、時と歴史の中に降り給い、御稜威のうちにあるあなたに挑むことで私たちが建てたこの地獄のバベルの塔を転覆させてください。

主よ、来てください。この2年間のパンデミックの狂気の中で、私たちは地獄が肉体の苦しみから成っているのではなく、あなたが遠く離れておられることを知るという絶望や、あなたの沈黙、あなたの不在という耳の聞こえない恐怖に身を任せることから成っていることを理解したからです。

そして、あなたの至聖なる御母にして私たちの母は祝福されますように。この方を、あなたはこの恐ろしい時代に私たちの代願者として私たちの側に残してくださいました。なぜなら、この地上における地獄のビジョンの中に、私たちがあなたを霊魂の中に、家族の中に、国の中に迎え入れ、私たちがあなたから奪い取った王冠をあなたにお返しすることができる霊的な薬を見いだすことができるのですから。

王たる幼子よ、私たちのために躊躇なくご托身になって死なれたあなたの愛によって征服させていただける人々を祝福してください。この天主の愛が、アダムで死んで、新しいアダムであるあなたのうちに生まれ変わった人々によって、また、エワとともに堕落して、新しいエワであるマリアのうちに再びよみがえる人々によって、感謝の念をもって受け取られますように。

アメン。そうなりますように。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

Sabbato Quattuor Temporum Adventus
待降節の四季の斎日の土曜日
2021年12月18日

[1] ANNO a creatióne mundi, quando in princípio Deus creávit cœlum et terram, quínquies millésimo centésimo nonagésimo nono: A dilúvio autem, anno bis millésimo nongentésimo quinquagésimo séptimo: A nativitáte Abrahæ, anno bis millésimo quintodécimo: A Moyse et egréssu pópuli Israel de Ægypto, anno millésimo quingentésimo décimo: Ab unctióne David in Regem, anno millésimo trigésimo secúndo; Hebdómada sexagésima quinta, juxta Daniélis prophetíam: Olympíade centésima nonagésima quarta: Ab urbe Roma cóndita, anno septingentésimo quinquagésimo secúndo: Anno Impérii Octaviáni Augústi quadragésimo secúndo, toto Orbe in pace compósito, sexta mundi ætáte, — Jesus Christus ætérnus Deus, æterníque Patris Fílius, mundum volens advéntu suo piíssimo consecráre, de Spíritu Sancto concéptus, novémque post conceptiónem decúrsis ménsibus, in Béthlehem Judæ náscitur ex María Vírgine factus Homo. Natívitas Dómini nostri Jesu Christi secúndum carnem.

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Abp. Viganò's Christmas 2021 message - LifeSite

This, dear children, is our 'Great Reset,' with which divine...

LifeSite

 


【参考資料】インタビュー:ヴィガノ大司教、トランスヒューマニズムとグレート・リセットという「地獄のプロジェクト」を糾弾し、第二バチカン公会議と「浸透計画」について語る

2021年12月22日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】インタビュー:ヴィガノ大司教、トランスヒューマニズムとグレート・リセットという「地獄のプロジェクト」を糾弾し、第二バチカン公会議と「浸透計画」について語る

INTERVIEW: Abp. Viganò Denounces “Hellish Project” of Transhumanism and Great Reset, Discusses Vatican II and “Infiltration Plan”

2021年12月7日

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、イタリア人ジャーナリストのチェーザレ・サケッティ氏が自身のブログ「The Eye of the Needle」掲載用に行った長時間の新たなインタビューで、世俗の領域と教会の領域の両方に関わる幅広いテーマについて語っています。

最近、イタリアのメディアで「新型コロナウイルス感染症の『大司祭』」と呼ばれる人々が仕掛けた自分への攻撃に答えた後、大司教は「私が何度も糾弾してきた『ディープ・チャーチ』による」カトリック教会への「例の浸透」について語っています。インタビューの後半では、「浸透計画」を第二バチカン公会議(1962-1965年)に関連づけ、「第二バチカン公会議以降、教会は革命家たちの原理(フランス革命の原理を指す)や自由イデオロギー、共産主義、集団主義を受け入れ、そしてさらに一般的にはジェンダー論といった『この世の精神』を受け入れ、また、教理的な分野だけでなく、道徳的かつ文化的な分野で、つまりキリスト教文明の重要な要素としてのキリスト教の解体を受け入れているのです」と観察しています。

「トランスヒューマニズムは地獄のプロジェクトです」と、この引退した大司教はインタビューの別のところで言っています。「悪魔が天主の創造物を変質させ、堕落させることによって、その創造物をあざ笑っているのです。天主の法という『優しいくびき』への従順の代わりに、サタンの専制政治への奴隷化と服従が取って代わり、その専制政治では、善に対する寛容さはなく、誰もが悪を犯し、悪を受け入れ、悪を正当化することを余儀なくさせられます。また、私たちの良心を読み取ることができるのは天主だけであるという事実にもかかわらず、サタンは私たちの内なる精神的部分という聖域を侵して支配し、私たちを自分の意志に反してでも悪を犯すように仕向けようとします」。

そのほかにも、教皇フランシスコと彼の「メーソンのロッジが望む"世界宗教"の使徒」(サケッティ)としての役割、「いわゆるザンクトガレン・マフィアの操作」(ヴィガノ)、大司教が最近呼びかけている「反グローバリズム同盟」の設立(およびその組織の本部所在地)などの話題が取り上げられています。

そして、「ベルゴリオの教会に支援された反カトリックにして反キリスト教のイデオロギーを持つ『グレート・リセット』の推進者たち」と「新世界秩序に立ち向かい、自分たちの道徳的価値観やビジョンがカトリックの永続する教導権や、聖伝のカトリックの典礼で実現されると考えている人々」(ヴィガノ)との間で続いている闘争の話題もあります。

インタビューの最後には、いつものように希望に満ちた励ましの言葉をいただきました。「誰も皆さんから奪うことのできない唯一の善である天主の恩寵に留まってください。そして、聖母が介入されるとき、地獄は震えるのです」。

ブログ「The Eye of the Needle」用の
チェーザレ・サケッティによるカルロ・マリア・ヴィガノ大司教とのインタビュー

【問い】大司教様、大司教様はここ数日、イタリアのメディアから厳しい攻撃を受けており、その攻撃はますます激しさを増しているようです。トリノのラ・スタンパ紙の編集者であるマッシモ・ジャンニーニは、大司教様のことを「悪党」と呼んでいました。また、別のイタリアの著名なジャーナリストであるブルーノ・ヴェスパは、ワクチンやいわゆるパンデミックに関する大司教様の発言について、天主はあなたを「許すべきだ」と述べています。イタリアの主要メディアが、なぜ大司教様を「公共の敵」とみなしているのか、説明していただけますか? なぜ彼らは大司教様を恐れているように見えるのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】これまで述べてきたように、あらゆる形の反対意見を委縮させようとするのは、全体主義体制の典型です。まず、敵対者を嘲笑し、世論の目の前で彼の信用を失墜させるために嘲笑の対象とします。次に、その人を病的であるとか、精神科の治療が必要であるとか言って委縮させた後、その敵対者は精神病院に入院する必要があるほど精神的に不安定であるとほのめかすのです。最後に、このプロセスは、反対意見を持つ人々を完全に犯罪者にして終わります。このようにして、この体制は、すべての敵対者を市民社会から切り離すために必要な前提条件を整えていくのです。

イタリアの雑誌「ヴェネルディ」(「ラ・レプブリカ」紙発行)から私が受けた最近の嘘、侮辱、個人攻撃は、この茶番劇の一部であり、新型コロナウイルス感染症の「大司祭」たちが祭服を引き裂き、自分たちの嘘に対するあらゆる反論を嘆く一種の劇場的演出です。「ラ・スタンパ」と「ラ・レプブリカ」は、1500年代からロスチャイルド家と親戚関係にある一族、エルカン家の所有であることを思い起こすべきです。実際、ジョン・エルカンはクラウス・シュワブの著書「第四次産業革命」の序文を書いており、その中でこのWEF(世界経済フォーラム)の会長は「グレート・リセット」について詳細に説明しています。このように、エリートの代弁者たちは、公式の物語(ナラティブ)に忠実であるがゆえに、自分たちに反対する人々の信用を失墜させ、中傷するという、陰謀集団の典型的な戦術を採用することになるのです。

確かに、司教たちの耳が聞こえないかのような沈黙やサンタマルタ館(編集者注:ホルヘ・ベルゴリオの住居)のプロパガンダを考えると、グローバリストのエリートが行っている進行中のクーデターを糾弾する不一致の声は、その矛盾した宣言に対する理不尽な承認を求める人々を苛立たせ、我慢できなくさせるように見えるのは明らかです。

【問い】このような状況の中、イタリアのメディアは、ジョルジオ・ギオ神父のように、ワクチンが引き起こす害や、西洋社会を支配しつつあるように思われる反キリスト教的精神を告発している神父たちが行うミサに、スパイを送り込んでいるほどです。本物の聖伝の教会の精神は、死んでいないどころか、再燃しているようにさえ思えます。大司教様は、このような聖伝のカトリック信仰の刷新を、グローバリスト勢力は特に恐れていると思われますか?

【ヴィガノ大司教】まず最初に指摘したいのは、教会の問題に世俗の当局が介入することは、聖座とイタリア共和国との間の政教条約(コンコルダート)に直接的な違反をしているということです。さらに、イタリア司教協議会(CEI)は、政府と議定書や協定を交渉する権限を持っていませんから、そのような協定は、交渉や批准の権利を持たない人々が合意した限りにおいて、何の有効性もありません。そうは言っても、すべての司祭には、この実験的な医療製品の接種がもたらす現実の危険(単なる仮説ではなく現実の)について、信者に警告する権利、というよりもむしろ義務があると思います。特に、今回のように、サイコ・パンデミックの茶番劇全体が、健康上の緊急事態を口実に、憲法上の権利や自然権を侵害して市民を支配することを目的とした独裁政権の樹立に至ることを目指すことが明らかな場合は、まさにそのケースです。

カトリックの位階階級、司教協議会、司教たち、司祭たちがこの公式な物語(ナラティブ)に従っていることは、非常に厚かましくて媚びへつらうものですから、私が何度も糾弾してきた「ディープ・チャーチ」による浸透を明らかにしています。この浸透は少なくとも70年前に始まり、今日ではその傲慢さと、パンデミック緊急事態とされるものと、(現在の教会指導者の)さらに重大な教理的、道徳的、規律的な逸脱、そしてこの指導者の「ディープ・ステート」との憂慮すべき共犯関係の両方に関して、反対する声をすべて迫害していることから、極めて明白になっています。

この教会の牧者たちの露骨な裏切りは、世俗の政府の分野でも発生しているように、「根底」からの、つまり一般の信者や一般の司祭といった人々からの自然発生的な反発を呼び起こし、この反発は、パンデミックへの対応と教会の位階階級の危機の両方に大きく関係しています。

一方では、反カトリックにして反キリスト教的なイデオロギーを持つ「グレート・リセット」の推進者たちがいて、ベルゴリオの教会がこれを支援しています。他方では、新世界秩序に立ち向かい、自分たちの道徳的価値観やビジョンは、永続するカトリックの教導権や、聖伝のカトリックの典礼において実現されると考えている人々がいます。二つの国、悪魔の国と神の国があるのです。分裂は常に同じです。なぜなら、この対立している勢力は、存在論的に対立し、互いに敵対するという立場に基づいて用意されているからです。

【問い】かつてソ連の秘密情報機関に所属していたロシアの大佐、ウラジーミル・クヴァチョフは、パンデミックを「テロリストの作戦」と呼び、地球規模の人口削減を実行し、地球規模の独裁政治を先導するために特に考え出されたものだと述べています。ロックフェラー財団が2010年に発表した論文「ロックステップ作戦」(Operation Lockstep)には、パンデミックの発生がはっきりと記されています。このパンデミックによって、世界の各政府は個人の自由に対する権威主義的で抑圧的な措置を実施することができ、それはワンワールドの政府に向かうために不可欠なものです。これらの制限措置は、フェースマスクや社会的距離を置くことなど、この一年半の間に施行されたものと基本的に同じであり、西洋社会では前例のないような集団精神病や社会的憎悪をもたらしています。このような状況全体は、人類を絶え間ない恐怖状態に引きずり込み、地球規模のリバイアサンへの道を開くために、グローバリスト勢力が考え出した人工的な危機であると、大司教様は思われますか?
【注:「リバイアサン」とは、英国の政治哲学者ホッブズが、旧約聖書の怪物リバイアサン(レビアタン)にたとえた「国家」のこと、ホッブズは国家が社会契約によって成立したとした。】

【ヴィガノ大司教】私はそう思います。私は、サイコ・パンデミックが始まった2020年5月に、このグロテスクな茶番劇の危険性と不条理さを暴露したときから、そう言い続けています。私はロックフェラー財団のシナリオや、世界経済フォーラム(WEF)の「グレート・リセット」が描いたシナリオも、よく承知しています。同フォーラム会長は、2019年11月にジュゼッペ・コンテ前イタリア首相と、つい数日前にはマリオ・ドラギ現イタリア首相と会っています。同様に、「アジェンダ2030」という国連の計画も私は知っています。

この作戦には綿密な準備が必要で、公的機関や民間企業の大部分が参加する必要があり、司法、法執行機関、メディアの協力も得られました。パンデミックは単なる口実であり、基本的な権利の侵害とそれに伴う新秩序の全体主義体制の確立が必然であるかのように見せかけるための「口実」(profasis)です。この新秩序では、魔術師、ワクチン寺院、不合理な儀式、そして「vitandi」(避けるべき)罪人の破門など、パンデミックの迷信が最高位に君臨しています。こういった人々は、この狂気のイデオロギーを受け入れるために、信仰を棄てる前であっても、理性を放棄するのに賛同しなければなりません。

【問い】大司教様が何度も糾弾なさってきた「グレート・リセット」社会では、「トランスヒューマニスト」のイデオロギーが基本的な役割を果たしています。現代のテクノロジーは非常に速いスピードで進歩しており、脳にマイクロチップを埋め込んで人間の行動をコントロールする可能性についても公然と語られるようになっています。このような「人間とロボット」の新しいモデルを支持しているのが、以前の何回かの質問で遭遇した世界経済フォーラムのトップ、クラウス・シュワブです。大司教様は、トランスヒューマニズムの最終目的はこのこと、人間から自由意志を奪うことだと思われますか?

【ヴィガノ大司教】トランスヒューマニズム(人間改造主義)は地獄のプロジェクトであり、悪魔が天主の創造物を変質させ、堕落させることであざ笑っているのです。天主の法という「やさしいくびき」への従順の代わり、サタンの専制政治への奴隷化と服従が取って代わり、その専制政治では、善に対する寛容さはなく、誰もが悪を犯し、悪を受け入れ、悪を正当化することを余儀なくさせられます。また、私たちの良心を読み取ることができるのは天主だけであるという事実にもかかわらず、サタンは私たちの内なる精神的部分という聖域を侵して支配し、私たちを自分の意志に反してでも悪を犯すように仕向けようとします。クラウス・シュワブは、近著「グレート・リセット」の中で次のように述べています。

「私たちはまた、活動レベルや血液生化学的な値をモニターする内蔵デバイスの新しい使い方や埋め込み方、そしてそれらが幸福感や精神的な健康、家庭や職場での生産性にどのように関連するかを研究しています。また、脳の機能をよりよく学び、ニューロテクノロジーの分野で優れた発展を遂げています」。

それは、ルチフェルだけが考えることのできる錯覚です。また、反キリスト的な母体、イエズス・キリストの天主の王権への反抗ですから、完全な失敗に終わる運命にあります。それは、天主の法に反抗する被造物が、いと高き御者のおられるところに到達するふりをして、ルチフェルの「Non serviam」(「私は仕えない」)を、同じ恥ずかしい決意をもって繰り返す錯覚です。

サタンは、「天主の猿まねをする者」(simia Dei)です。私たちを天主から遠ざけ、地獄に引きずり込もうとするサタンの行動のすべてに、救い主を模倣し、その主権を簒奪し、その教えを曲解し、天主から霊魂を奪おうとするサタンのあざけりが見られます。悪魔は、天主の代わりに礼拝されることを望んでいます。悪魔は、反キリストが世界を支配し、キリスト教会を、エキュメニカルで環境保護的な「人類教」(Religion of Mankind)【哲学者オーギュスト・コント提唱の倫理的新宗教】であるサタンの反教会に置き換えることによって、人類を悪魔の専制政治に服従させることを望んでいるのです。

【問い】大司教様はビデオや記事の中で、「新世界秩序」(NWO)がもたらす脅威について語ってこられました。ジョージ・H・ブッシュ、ヘンリー・キッシンジャー、ニコラ・サルコジ、デヴィッド・ロックフェラーなど、何人もの政治家や首相が、この表現を公の場で使っています。これらの政治家は、新世界秩序を私たちが目指すべき「エデン」のようなものと表現しているのです。今回の新型コロナウイルス感染症の騒動でも、このような言葉をよく耳にしました。新世界秩序を推進する考え方と、この目標を達成するためにワクチンが非常に重要な役割を果たす理由を説明していただけますか?

【ヴィガノ大司教】新世界秩序は、新しくもなく秩序でもありません。これは、天主の御摂理的な計画を覆し、永遠の救いにつながる真の宗教を取り消し、最終的に「キリスト教の秩序」(ordo christianus)を地獄の混沌に置き換えようとするサタンの愚かな野望を表しています。この無秩序においては、嘘が真実に取って代わり、不正と権力濫用が正義に取って代わり、気まぐれが天主の法への従順の代わりに、死が生命の代わりに、病気が健康の代わりになり、悪の正当化と善の非難があり、善人の迫害と悪人の称賛があり、無知が文化と知恵の代わりに、醜悪と恐怖が美の代わりに、分裂と憎悪が調和と愛の代わりになるのです。サタンは、天主の特質を取り入れて礼拝されたいのではなく、邪悪で、卑猥で、偽りで、不条理で、怪物のようなあらゆるものを通して、礼拝の対象となることを要求しています。サタンが求めているのは、完全な転覆であり、存在論的に悪魔的かつ反キリスト的な転覆です。つまり、計画的な緊急事態を装って行われる世界規模のクーデターによって得られる「新秩序」なのです。

ワクチンキャンペーンは、科学的な妥当性を欠いており、まず、新型コロナウイルス感染症の蔓延を抑えるという口実で、世界規模の追跡管理を実施するための見かけ上の正当性を示す役割を果たしています(この口実は偽りです。なぜなら、他にも理由がありますが、ワクチンを接種した人が感染して伝染する可能性があるからです)。しかし明日には、このキャンペーンはその範囲を広げて、「グリーンパス」を拡大させて「グリーン緊急事態」に立ち向かうための「社会的信用システム」で使用される情報を含めようとしています。「グリーンパス」は、聖ヨハネの黙示録に出てくる、人々が売買や旅行、消費、食事、生活をするのを許可したり禁止したりする「獣のしるし」のようなものとして考えられています。

第二に、人間が本来持っている免疫システムを低下させる実験用の遺伝子血清を人々に接種することは、非常に重大な犯罪です。なぜなら、普通の健康な人々を慢性的な病人に変え、その結果として医療会社や民間療法の顧客にしてしまうからです。このような状況は、グローバリスト・エリートの利益を大きく膨らませ、人々の生活を全般的に困窮させます。なぜなら、「グレート・リセット」は、個人の健康に対する攻撃だけではなく、国家の安全保障に対する攻撃でもあるからです。その理由は、国家の軍隊がワクチンの副作用によって害を受ける一方、ワクチンを受けていない兵士は現役を禁止されるためです。私が思うに、この点は、現在の危機を分析している人々が十分に考慮していない点であり、その人々の悪意を示しています。この人々は、いったん権力を握ると、新秩序に服従させるために国家を破壊することに協力するのです。

【問い】また、新世界秩序について、大司教様はあるビデオの中(1) (2)(3)、1960年代初頭に第二バチカン公会議が、この計画に道を開く上で基本的な役割を果たしたと述べておられます。この点で、この公会議は、カトリックの聖伝から切り離された「新しいリベラルな教会」を構築したイベントであると考えられます。この「リベラルな教会」は、現代世界の精神を封じ込めようとするのではなく、それを受け入れました。本来、反キリストの現れを妨げる力である「カテコン」(katechon)であったはずの機関が、かえって反キリストのスポークスマン、プロモーターになってしまったのです。教会に浸透していたメーソン勢力が、この変化を計画したと言えるのでしょうか? 現在の教会は、1884年にレオ十三世が予言し、1917年のファチマや1973年の秋田の予言など、関連する他の預言で予言された背教を生きていると大司教様は思われますか?

【ヴィガノ大司教】第二バチカン公会議(1962-1965年)の主役の一人であるレオ・ジョゼフ・スーネンス枢機卿は、公会議革命は「カトリック教会の1789年」を象徴していると述べています【編集者注:1789年は、フランス革命前の社会全体を覆したフランス革命の始まり】。このように考えると、第二バチカン公会議以降、教会は革命家たちの原理(フランス革命を指す)や自由主義、共産主義、集団主義、そしてより一般的には「この世の精神」、ジェンダー論を受け入れ、教理的な分野だけでなく、道徳的かつ文化的な分野で、つまりキリスト教文明の重要な要素としてのキリスト教の解体を受け入れているのです。このような裏切りは、メーソンのロッジがカトリック君主国に対して行ったのと同様の方法で行われ、思想面と実践面の二つの面から展開された浸透計画によって実現されました。

思想的な面では、異端や哲学的な誤謬によって正統性が損なわれ、今でもその邪悪な結果に悩まされています。現実的な面では、人々の道徳が破壊され、個人を支配するために情熱に服させ、脅迫するために自分の悪徳に隷属させ、最も腐敗した者を、その非道な行為によって権威が失墜した機関の最高ポストに登用することを目撃しました。教会の最高位の司祭が堕落した変態である場合、道徳的な性の問題において教会はどのような信頼性を主張できるでしょうか? 聖座の役人が金融スキャンダルや不明瞭な市場投機に関与しているとき、教会はどのような信頼性を主張することができるでしょうか?

したがって、聖伝への回帰が必要です。正直さ、義務感、忠誠心、国への愛、名誉、規律など、今日では忘れ去られてしまった価値観への回帰が必要です。それは、国の抜本的な改革を必要とする、世俗の領域での「キリスト教の秩序」への復帰であり、教会の領域でも同じように、偽りの牧者を排除し、第二バチカン公会議のイデオロギーの激しさによって破壊されたすべてのものを回復することが必要です。摂理が私たちに要求している厳しい試練を終わらせたいのであれば、主が私たちに与えている懲罰の原因を取り除くことが基本となります。

その原因とは、メーソンの原理と革命によって考案された、この反キリスト的なシステム全体です。私たちは、キリストの力の表現としての権威を回復し、私たちを統治する人々に道徳的・霊的な教育を与えなければなりません。それは確かに大変なことですが、子どもたちに良きキリスト信者、良き市民となり、天主の御前に責任を持ち、天主に従うこと、天主を王と宣言すること、天主に栄光を捧げることを望むようになる価値観を本当に伝えたいのであれば、私たちはそれを行うべきです。私たちが再び主を王と認めれば、主はその子どもたちが戦いで滅びることを許さず、大きな勝利で報いてくださいます。しかし、現在の惨状の根底にある誤謬を理解しない限り、天主のご介入に期待することはできません。

【問い】最近、ベルゴリオは「グレート・リセット」を生み出す必要があると明言し、元に戻ることはないとも指摘しています。ベルゴリオは、キリスト教を完全に排除することを究極の目標としているメーソンのロッジが望む "世界宗教"の使徒と化しているのです。ベルゴリオは第二バチカン公会議の当然の結論である、と述べることに意味があるのでしょうか? 大司教様は、いくつかの預言や尊者ホルツハウザーのビジョンで予見されていた教会の背教が、すでにピークに達し、その最終段階に近づいていると思われますか?

【ヴィガノ大司教】ベルゴリオは、グローバリストの宗教を最も確信している信奉者の一人であり、その目標をすべて受け入れ、その計画を推し進め、その教理を広め、その敵と戦っています。もしも彼が教会の位階階級の内部で今持っている役割を担っていなかったとしたら、彼は新世界秩序の預言者であり、キリストの教会の主要な敵であると考えられていたことでしょう。彼が教会のトップと普遍的にみなされているという事実は、明らかな矛盾、極めて重大な利害の対立、自分の持つ権威に対するあからさまな裏切りを私たちに示しています。

辞任するベネディクト十六世に代わってベルゴリオと交代させたのと同じ方法が、教会に敵対する勢力の介入が存在していることを明らかにしています。いわゆるザンクトガレン・マフィアの工作は、この敵対的な介入の直接的な証拠であり、「ディープ・ステート」によっても事前に計画されていたのです。それは、教会がこの世の精神を受け入れ、福音宣教を放棄するという「教会の春」について述べている、ジョン・ポデスタの電子メールに見られるようにです。

ベルゴリオ自身が誇らしげに主張しているように、この「教皇職」は第二バチカン公会議の原則を首尾一貫して適用したものです。2013年以降のベルゴリオの発言や行いのすべては、彼の非妥協的な沈黙から誤解を招くような曖昧な表現に至るまで、公会議のテキストのさまざまな曖昧な箇所に織り込まれた誤謬と一致しています。しかし、悪魔から来るすべてのものと同様に、このプロジェクトは成功する望みがなく、私たちがいまだに認識できない非常に明確な真実を理解させるために役立つだけです。救いの唯一の望みは、私たちの主が使徒たちに教えられたように、また聖なる教会が二千年にわたって信仰のために提案してきたように、カトリックの信仰を完全に受け入れることにあります。すべての誤謬、信仰をこの時代の考え方に合わせようとするすべての試み、この世に教会の居場所を確保するための妥協、権力と引き換えの裏切りは、すべてサタンから来るものであり、そのようなものは失敗に終わる運命にあります。

王たるキリストが教会を治めるために戻って来られれば、世俗社会を治めるために戻ってくる前であっても、主は教会に善良で聖なる牧者たちを与えてくださるでしょう。背教を糾弾し、誤謬と戦い、善人をキリストの十字架の周りに集める一人の勇気ある教皇をくださるでしょう。なぜなら、キリストの神秘体である教会もまた、自らの受難を受ける運命にあるからです。しかし、その受難は、永遠の敗者の情婦ではなく、まさに汚れなき小羊の花嫁という存在であるとの尊厳と完全性をもって受けなければなりません。

こういう訳で、私は御摂理がこの世に平和と回心の時を与え、牧者と群れを福音への忠実さに導き、公審判の前の最後の迫害に尊厳を持って立ち向かえるようにしてくださるように望み、祈っているのです。もし、ロシアが汚れなき御心に奉献されることによって、この良き機会が到来するならば、私たちは悪魔に対するキリストの勝利において成就する終末論的なビジョンにおいて、現在の事実を真に読み取ることができる、と私は思います。

【問い】大司教様はここ数日、「反グローバリズム同盟」の結成を呼びかける公の訴えを展開されています。この同盟の本部は、歴史的にフリーメーソンやグローバリスト勢力に嫌われている国であるイタリアに置かれるべきだとお考えですか?

【ヴィガノ大司教】イタリアは、天主によって、教皇職の存在によって祝福された国です。各都市の歴史的、文化的、芸術的な遺産に代表され、しかしカトリック信仰の絆で結ばれているイタリアの文明は、常にサタンとそのしもべたちの解体行為の対象となってきました。フリーメーソンはイタリアを憎み、また、まずキリスト教の誕生、そしてその後の普及と本質的に結びついている、イタリアの輝かしい歴史を憎んでいます。フリーメーソンはまた、キリスト教が浸透しているこの国の伝統を憎み、深くキリスト教的であるその芸術を憎み、人生のあらゆる歩みに影響を与える信仰の力を雄弁に物語る文化と文明を憎んでいます。また、説教と模範によって何百万もの霊魂を地獄から救い出した聖人たちや、小さなジェスチャーや寛大さ、真にキリスト教的な道徳観によって表現される、深遠なカトリックの真正性と情熱を示すその人格を、いまだに暗示しているような人々をも憎んでいます。

こういう訳で、私はイタリアが、自らを世界反グローバリズム同盟の自然な本部として提案します。そうすることでイタリアが新秩序の専制政治に対抗する重要な役割を果たすべきだと考えています。また、カトリックの君主が復活することは、今の時代には考えにくいことですが、連合前のコミューンと州(編集者注:1870年のイタリア連合以前のイタリアの都市国家の統治形態)の統治形態は、キリスト教の原則に沿った、同時に現代社会のニーズに適合したイタリアの世俗社会の改革を望む人々を大いに刺激することができると思います。この点について、私は特に、シエナの市庁舎(Palazzo Comunale)のフレスコ画「善政の寓意」を思い浮かべます。このフレスコ画では、神学的な聖徳が枢要徳や市民道徳を照らし、導いています。

【問い】ドラギ政権が強行した「グリーンパス」による差別で、多くの人が深刻な個人的問題で苦しんでいます。このワクチン接種を受けるのを避けるために仕事や給料を諦めている多くの人々がおり、また、このかつてない権威主義社会に対して街頭で抗議活動を行っている多くの人々もいます。このディストピア社会の結果に苦しんでいる人々、そして希望を失い、まさに自暴自棄になっている人々に、何かおっしゃりたいことはありますか?

【ヴィガノ大司教】私は、私たちの主の言葉でお答えしたいと思います。「私がこう言うのは、私によってあなたたちに平和を与えるためである。あなたたちはこの世で苦しむだろう。だが、勇気を出せ、私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)。

自分自身が受ける差別や愛する人の差別に苦しんでいる人々、教会の権威のひどい加担により、世俗の権威が恥ずかしげもなく脅迫したために予防接種を受けざるを得なかった人々、勇気を持って違法で専制的な法律に屈することを拒否した人々、首尾一貫した行動のために支援の手段を奪われた人々に、私はこう言います。皆さんは、悪の力と暴力が、皆さんの持ち物、体、家族に影響を与えることはあっても、主に忠実でいることによる平和を奪うことは決してできないことを証明しています。殉教者たちは特別な力の賜物を持った人だと思いますか? 本当の殉教者たちは、昔も今も、そしてこれからも、皆さんや私のような人であり、千の欠点があるかもしれませんが、キリストへの愛に駆り立てられ、つまり愛徳に駆り立てられ、その超自然的な天主の愛を捨てないために自分の命を犠牲にする覚悟のある人です。そして、殉教者たちが天主の御助けを借りて、恐ろしい苦痛を伴う死に直面することができたのならば、今日、皆さんは、至聖なる童貞マリアのマントの下で、卑怯であるのと同じように残酷なこれらの暴君に立ち向かうことができないと思いますか? 皆さんに天国に値する特権を与えられたことを光栄に思ってください。皆さんの忠実、敵対する力に対する皆さんの強さは、たとえ小さなことであっても、皆さんに天の助けと保護をもたらすことでしょう。

誰も皆さんから奪うことのできない唯一の善である天主の恩寵に留まってください。残りのすべては、私たちが「キリスト信者の助け」として祈る聖母の御手に委ねられます。そして、聖母が介入されるとき、地獄は震えるのです。

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Viganò:"l'Italia è una nazione benedetta da Dio e ha un ruolo chiave contro il Nuovo Ordine Mondiale" - La Cruna dell'Ago

di Cesare Sacchetti

La Cruna dell'Ago

 
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ヴィガノ大司教「第二バチカン公会議のすべてを取り下げて、忘れるのが望ましい。公会議が信仰から逸脱していたのであれば、教皇はその公会議を無効にする権限を持っている。それが教皇の義務だ。」 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教(前・駐米教皇大使ʌ...

ヴィガノ大司教「第二バチカン公会議のすべてを取り下げて、忘れるのが望ましい。公会議が信仰から逸脱していたのであれば、教皇はその公会議を無効にする権限を持っている。それが教皇の義務だ。」 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 
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ヴィガノ大司教:次期教皇は公会議の改革以前のすべての典礼書を復興させ、ミサの見苦しいパロディーをカトリック教会から追放しなければならない - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

ヴィガノ大司教「第二バチカン公会議の脱線や新しいミサの作成は『教会に浸透した革命的な勢力』の結果である」2021年6月16日【編集者注】カル...

ヴィガノ大司教:次期教皇は公会議の改革以前のすべての典礼書を復興させ、ミサの見苦しいパロディーをカトリック教会から追放しなければならない - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 
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【参考資料】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の現代のカトリック教会における混乱と逸脱の原因に関する考察(2020年6月8日付) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教(前・駐アメリカ合衆国教皇大使)は、2020年6月9日付...

【参考資料】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の現代のカトリック教会における混乱と逸脱の原因に関する考察(2020年6月8日付) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 


ヴィガノ大司教「無原罪の御宿りの崇敬の祈り:聖母は、私たちを栄光ある民、天主なる御子の遺産、聖人の群れとして選んでくださいました。」

2021年12月22日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教「無原罪の御宿りの崇敬の祈り」

Archbishop Viganò: Act of Veneration of the Immaculate Conception
ヴィガノ大司教「無原罪の御宿りの崇敬の祈り」

2021年12月8日

またも羊の群れは牧者に見捨てられました。教皇フランシスコは2年連続で、ローマのスペイン階段での天主の御母、童貞聖マリアの伝統的な公的崇敬を取りやめました。自分の新世界秩序(New World order)の主人を喜ばせるために、彼は自分が代理人になっている天主の統治ではなく、反キリストの統治を確立するために使用される「新型コロナウイルス感染症の恐怖」に貢献しなければならないのです。しかし、天主は、たとえ教会が小さな残骸になったとしても、決してその教会を見捨てられることはありません。カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、教皇フランシスコの不在と棄権によって残されたその場に入って、聖ベルナデッタに名を聞かれて「私は無原罪の御宿りです」とお答えになった聖母に公的な崇敬を捧げます。聖母の御名は、聖母が終生無原罪であり、終生童貞であることを表しています。読者の皆さんに祝福された祝日が訪れますように。ブライアン・マッコール


ACT OF VENERATION

ON THE SOLEMNITY OF THE IMMACULATE CONCEPTION OF THE BLESSED VIRGIN MARY

童貞聖マリアの無原罪の御宿りの大祝日の崇敬の祈り

2021年12月8日、ローマ・スペイン広場

Ab initio et ante sæcula creata sum, et usque ad futurum sæculum non desinam:
et in habitatione sancta coram ipso ministravi.
Et sic in Sion firmata sum, et in civitate sanctificata similiter requievi,
et in Jerusalem potestas mea.
Et radicavi in populo honorificato, et in parte Dei mei hæreditas illius,
et in plenitudine sanctorum detentio mea.
Eccli 24, 14-16

聖書が天主の知恵について語るこの荘厳な言葉は、典礼によって至聖なる童貞のこととされています。ここでお話しになっているのは、無原罪の御宿りである聖母です。

「私は、初めから、世より前につくられ、未来の世まで存在し続けるであろう。私は、その聖殿の中で彼に仕え、こうして私は、シオンにおいて固められ、聖い町では休息を見いだした。私の勢力はエルザレムにある。私は、天主の世嗣なる栄光ある民の中に根をはり、そして、私の住居を、聖人の集いに置いた」(集会書24章14-16節)。

時代を超えて選ばれ、教会に固められた聖母は、聖なる住居(すみか)で私たちのために取り成しされ、私たちのうちに住まわれ、私たちの元后となっておられます。聖母は、私たちを栄光ある民、天主なる御子の遺産、聖人の群れとして選んでくださいました。そして、重要なのは、昨日その祝日を祝った聖アンブロジオが作った教会奉献の賛歌「Cœlestis urbs Jerusalem」(「天の都エルザレム」)が、特異的な対称性を通じて、聖母に適用できることです。

O sorte nupta prospera, dotata Patris gloria, respersa Sponsi gratia, Regina formosissima, Christo jugata principi, cœli corusca civitas.
「幸いな運命によりて浄配となり、御父の栄光で飾られ、花婿の恩寵をふり撒かれ、いとも美しき元后、君主たるキリストと結ばれ、天の輝く都(くに)よ」。


この祝されし日に、いと高き御者の生ける汚れのない聖櫃となるために、原罪のあらゆる汚れから保護された、童貞聖マリアの無原罪の御宿りの教義が宣言されたことを思い起こしましょう。そして、罪によって堕落し、罪の奴隷となったこの世は、堕落した悪徳の女性をモデルとして提示して、童貞性、純潔性、母性を軽蔑しています。しかし、私たちは、終生童貞なる天主の御母であり、また正しくも教会の母にして私たちの母であるお方をたたえます。

私たちは童貞聖マリアの子であり、教会の子です。なぜなら、童貞聖マリアは、キリストにおいて私たちを御父のもとへ生み出し、十字架の下で私たちは子として主から聖母に委ねられ、聖母は私たちに母として委ねられているからです。そして教会もまた、洗礼によってキリストのうちに私たちを御父のもとへ生み出しています。祭壇のふもとで私たちは子として教会に委ねられ、主の脇腹から流れ出た水と血は、その秘跡と聖なるミサにおいて豊かに流れ、天主なる花婿の花嫁への愛、そのかしらであるキリストの、神秘体への愛を私たちに示しています。

親愛なる兄弟の皆さん、忘れないでください。御父のもとへ行くにはその御独り子を通してでなければできないように、御子のもとへ行くには、私たちの元后であり、私たちの代願者であり、天主の玉座での私たちの仲介者であり、私たちの命であり、私たちの甘美であり、私たちの望みである、童貞聖マリアを通してでなければできないということを。ですから、私たちの母であり、教会の母であるマリア、私たちの元后であり、教会の元后であるマリアがおられないところに教会はありません。

それゆえ、私たちは、新しいエルザレム―聖なる教会―に自分の住居(すみか)を置き、集会書が言うように、「栄光ある民の中に」住むことを選ばれた聖母をたたえます。自らの徳によるのではなく、天主の恩寵によって、私たちすべてが召されている聖なる都に属することによって聖化された、栄光と誉れある民です。今日、自分たちのアイデンティティーの誇り、キリストに属することの誇り、王の中の王の聖なる記章(しるし)の下に立つことの誉れを回復しなければならない民です。何世紀にもわたって、キリスト教社会を築くことができた民、しかしその社会が、現在では、キリストに反抗し、キリストの至聖なる御母マリアの聖なる御名を発することさえ許さない人々に軽蔑され、禁止されている民です。

スペイン広場に集まり、政府当局がその母にして元后をたたえるために建てた無原罪の御宿りの像の前で、私たちは敬意を新たにしましょう。背教的なこの世の瓦礫の上に、人類の平和、民族間の調和、国家の繁栄、霊魂の救いを保証することができる唯一の「ordo Christianus」(キリスト教の秩序)を再建することを目的としましょう。この再建、私たち一人一人が切望している霊的かつ道徳的な再生は、私たちが私たちの主の社会的王権を認め、私たちが告白している信仰を一貫して生きる方法を知っている場合にのみ可能となります。

私たちは、天主の御母への堅固にして信頼する信仰をもって、これを求め、これを懇願します。
Salve Regina, Mater misericordiæ... 「元后あわれみ深き御母、…」

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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