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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ローズ・フーさんの「楽在苦中」 第2章 探究

2011年08月31日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 アジア管区長クチュール神父様は、インタビューの中で、私たちの友人であるローズ・フーさんについて言及されました。

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 ローズ・フーさんの本「苦しみの中の喜び」(アジア管区サイトあるいはアンジェル・プレスでお求め頂けます)は日本語にも翻訳されつつあります。


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 そこで、愛する兄弟姉妹の皆様にこの日本語訳の続き(第2章)をご紹介したいと思います。これを日本語に訳される労を執って下さった兄弟に心から感謝します。

第2章 探究

 行き場の無いボートには、風がどの方向から来ようとも、それはいつもボートに逆らって吹いています。 真実を求めている人にとって、どんなに小さいものでも天主様を知るための一歩となります。聖霊は絶えず私を導いています。 私が世界の一時的な性質と虚飾に気付く様に助けたのは聖霊でした。それ以来、私は真実を探し求めようと決心しました。

 周知のように、中国のほとんどの家族は仏教徒の習慣に従います。 私の家族もこの規則への例外ではありませんでした。 中国の旧正月またはいくつかの大きな祝日に、人々は豊かな生活、或いは子供が授かるよう仏陀を崇拝しに寺院に行きます。 私はその様な願いはかなり簡単であると思いました。 自分を助けてくれる人を探すか、経験豊富な医師に見てもらえばいいのですから。 人はなぜ木彫の像を神として崇拝する必要があるのでしょうか? 旧正月毎に、私は母と共に町の寺に行きました。 お寺の中はそこら中すさまじい煙で、息も出来ませんでした。閻魔大王の陰気な顔と四天王の恐ろしい形相を見たとき、私は死ぬほどおびえて、悪夢を見ました。 お寺の中での礼拝は、少しの平安や喜びも私にもたらしませんでした。 私の心は非常に空しく、気持ちが楽にはなりませんでした。


 約翰中学で学んだ私の兄の一人は、聖公会の信者としてそこで洗礼を受けました。 時々、彼は自分の宗教の教義を語りました。 我等の主であるイエズス・キリストの御降誕。 人類を罪への罰から救うために十字架につけられ、3日目に死者の内から復活されたこと。 私は、イエズス・キリストが長年待ち望んでいた救世主であるに違いないと信じました。 彼は単に人間であるだけではなく、神でもあり、死に打ち勝って、私たちのために天国の門を開けられました。 しかし、私の兄が、彼の宗教の創設者が単に離婚したいがために、ローマ教皇から離れて新たに宗教を組織したヘンリー八世であると私に言うと、私は宗教の創設者として、彼自身さえ神の戒律を保つことが出来なかったのだと考えました。 どうしてこの宗教は、本当で純粋でありうるでしょう? そして、どうしてそれを確信できるでしょうか? 私は絶え間なく真理を求めなければなりませんでした。

 私の小さなボートはまだ湖を旋回していました。 私は何年間も震旦女中に通い、公教要理のクラスにも長い間いました。 私は余りにも頑固で反抗的であり、正しく手綱の無い荒馬に似て、従えることができませんでした。 私は修道女や信者との間に、わざと問題を起こすのが得意でした。 例えば、私のクラスメートは間違った行動等のために少しの罰も受けず、マザーXがなぜ庇われるのに値しなかった人をしばしば弁護したのかと尋ねました。

 ある日、マザー陸は、私が洗礼を受ける準備ができているかどうか私に尋ねました。 私は率直に答えまして言いました。 「マザー、私は個人的な意図の為にカトリック教徒になりたくはありません。人の中には、単に修道女を喜ばせる為にカトリック教徒になる人もいます。 或る者は海外に行きたい為に、またある者は…」マザー陸は私の答えに非常に驚きました。 彼女は少しの間ためらい、そして、冷静にゆっくりと私に話しました。「あなたはカトリック教徒になろうとする意志を純粋なものにしたいと望んでいます。 それは良いことです! 「将来、信仰があなたの上により多くの動機を与えるでしょう」。

ローズ・フーさんの「楽在苦中」 第1章 真の人生の意義についての混乱

2011年08月30日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 アジア管区長クチュール神父様は、インタビューの中で、私たちの友人であるローズ・フーさんについて言及されました。

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 ローズ・フーさんの本「苦しみの中の喜び」(アジア管区サイトあるいはアンジェル・プレスでお求め頂けます)は日本語にも翻訳されつつあります。


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 そこで、愛する兄弟姉妹の皆様にこの日本語訳をご紹介したいと思います。これを日本語に訳される労を執って下さった兄弟に心から感謝します。


第1章 真の人生の意義についての混乱

 小さい葉のようなボートは湖の中心を漂っています。 あてもなく旋回し、湖の表面に巨大な円を描きます、そして、前方へ動いているように見えますが、実際は少しずつ後退しています。

 私たちが生まれる前に、私たちの天の父は、既に私たちを愛しました。 そうでなければ、どうして私たちは創られたのでしょうか? 天主様の御恵みは私が洗礼を受け入れる前から既に私と共にありました。 そうでなければ、私には洗礼を受け入れる霊的な知恵を持つことができたでしょうか? 信仰は天主様が私にお与えになった最も素晴しい恩恵です。

 真実への個々の霊魂に対する天主様の呼び出しは実に多様です。 私は、それほど御金持ちではありませんが、かなり快適な生活を全親族に提供するほど豊かであった異教徒の家族に生まれ、育てられました。 極端に貧しい親類、または友人との接触を全く持たなかったので、私は個人的に貧困の苦しみを経験したことがありませんでした。 殆ど物が無いという世界を体験していなかったので、私は自分が所有していた物を大事にしませんでした、他の人々も、私の様に安楽な人生を過していると思っていました。 私が通った小学校と高等学校は聖心会の修道女によって運営されていました。聖心小学校と震旦女中(中学・高校)は、高貴又はエリート家庭の為の名門校でした。 授業料が非常に高かったので、一般の家庭は費用を工面することが出来ませんでした。 私が高校に在学中で、共産主義者が中国を支配する直前に金銭的価値が激烈に下がったある日、私たちの家族の収納室に札束でいっぱいの麻の袋を見つけました。私と妹二人と、姪一人の僅か一学期の授業料を払うために、その袋を父が私たちの運転手に学校まで運ぶよう望んでいると知らされました。

 私にとって、私たちが学校に通うのにそのような多額のお金を支払わなければならなかったのは、大きな驚きでした。 これにより、皆さんは私が世間を殆ど知らず、私がどれだけナイーブであったかお分かりになるでしょう。 学校に通う以外に、私は映画に行くことに余念がありませんでした。 日曜日の一日で、私は時々3つの映画を見ました。 食事を抜くことができますが、映画を見逃すことはできませんでした。 私は合計8回も「風と共に去りぬ」を見ました。「哀愁」、「ジェーン・エア」等は少なくとも5回見ました。 その中のあるものは、台詞さえ暗唱することが出来ました。 私は頻繁にハリウッドの映画スターに手紙を書きました。 時折、彼らはサイン入りの写真を送り、私はそれを貴重な宝物として扱いました。私は自分は何という愚か者だろうとひそかに思ったことがありました。私は彼等俳優を偶像のように崇拝していましたが、彼等は私がだれであるかを知ってさえいませんでした。 映画は、私が自分のエネルギーと時間の大部分を費やしたものでしたが、それは次々に無数の錯覚と混乱の時を私にもたらしました。

 お金では幸福を買うことができません。 物質的な世界は、束の間の快楽だけを私たちに与えます。 地位と名声は、共に瞬きする内に過ぎ去る雲のようです。 そうでなければ、どうして或る億万長者と注目の的である映画スターは自殺したのでしょうか? もし、富が彼らの心の切望を実現させることが出来るなら、彼等は何故自滅の道を歩んだのでしょうか?

 物心の付くようになった日から、時間は川の中の水のように流れるのだと認識しました。 それを止めることはできませんし、流れを早くすることもできません。 美しく煌く雪片は水晶のように輝いていますが、いったん暖かい空気に吹かれると、それは蒸発します。 月は満ち欠けし、時間が絶えず過ぎていくのを人に知らせます。私の幼年期で最も待ち遠しい時期は旧正月でした。 これは、祭礼のため、人々が美味しい粽や湯圓を作り、食用のために鶏とアヒルを屠る時でした。 私たちは子供として、実に幸福でした。 沢山の爆竹で遊ぶ一方で、飴と瓜の種をいっぱい食べました。 欲しいものも手に入りました。 儀礼的な挨拶を親戚の年長者にした時、中にお金が入った紅包を受け取ります。中国の旧正月ほど子供に楽しみをもたらすものはありません。 ですが、万物は過ぎ去り、旧正月がどんなに楽しくても、結局は過ぎ去るものです。新年の到着を待ち望んで、鞭を使って地球を加速させようとしても、地球は動きません。 地球はそれ自身のリズムに応じ、いつものようにゆっくりと規則正しく回転します。 旧正月が来た時、早く過ぎ去らないように地球を縛り上げて動きを遅くしようとしても、地球がその要求に注意を向けるでしょうか? 結局、地球上の何物も永続はしません。 私もまた、私たちがこの世で生涯人生を相次いで楽しむことが出来るよう、人々が決して死なないことを願っていました。 しかし、大きくなるにつれて、私は人は皆必ず死ぬものだとわかりました。 人は、より現実的な人生における全てを理解する能力を持たざるをえません。 さもなければ、人の間の恐ろしい闘争と矛盾を想像するのは難しくなります。

 どこで真実の源、または人生の意義を見つけることが出来るだろう? 永遠の生命の真実がどこにあるのだろう?  私はさまよい、混乱していました。

聖ピオ十世会 SSPX イタリア管区長ダヴィデ・パリャラーニ神父様とのインタビューその3

2011年08月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビューを日本語に翻訳して下さった方がおられるので、感謝しつつこれを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビュー


 イタリア語の原文は次で読むことが出来ます。
Intervista a don Davide Pagliarani

 フランス語の翻訳は次にあります。
Entretien avec M. l’abbé Pagliarani à propos des entretiens théologiques

 英語版は、次にあります。
Interview with Fr. Davide Pagliarani

ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビュー その3


(続き)
この文書 [ウニヴェルセ・エクレジエ] の中で、この様な<信徒の良心の>統制を行おうという意図を著した箇所が他にあるとお考えですか?

 私のつまらない考えでは、特に一つあります。モートゥ・プロプリオ が、<1962年版>ミサ典書に加え、全ての<旧>典礼書の自由な使用を復活させたにもかかわらず、この指導文書はある非常に特殊な場合に於いては、聖伝の典礼書の使用を禁じています。それは エクレジア・デイ 委員会の傘下にあるか、既にトリエント典礼を使用している修道会組織向けの特例は除いた、司祭叙階の場合です(第31項)。

 このことは、却って驚くべき事であります。特に教区の叙階式の場合には(当然、司教が自由に自分の好みの典礼書を使うことができるべきであるのにそうではないので)驚きです。何故なら、現代の教会論が、司教が使徒たちの後継者である事を理由にして、教区司教を典礼に関するの調停役かつ真の典礼専門家と見做す事を極めて強く主張しているからです。しかしながら、もし私たちが古典的かつ典型的な聖座による<聖伝のミサに反対している勢力との>妥協を考察するなら、この<一部適用禁止に関する>説明は、むしろ言う必要のない明白な事に思えます。

 一方で、エクレジア・デイ 委員会傘下にある修道会は、双方の署名のなされた憲章を持ち、バチカンの担当機関によって直に統制されているのですが(私が後で説明します)、他方で、1962年版の典礼書を使う司教は、<エクレジア・デイ 委員会傘下にある修道会と>同じ条件で統制を受ける事はあり得ません。

 その結果、新典礼による叙階式を執り行うようにとの厳格な有無を言わせない要求は、聖職受任候補者たち(と司教自身)が、自らの人生や教区生活に於いては間違いなく最重要かつ重大なものである<叙階という>式典に、新典礼を採用する事を以って、この指導文書第19項に完全な承諾を示している事を十分に証明するものと思われる外的印なのです。

 従って、この要求は、1984年度発行の特典(Indult)の適用に関わったほぼ世界的な慣例に似た効力を持っています。この特典が授与された様々な多くの教区では、信徒たちが自分の教区への繋がりや、この繋がり故に、パウロ六世の典礼様式に対する承諾の表明を可能にするために、御降誕祭と御復活祭には聖伝のミサが執り行われないよう要求されました。

 これと同じやり方が用いられたものの中でもかなり意義深かったのが、聖ペトロ会に強要された2000年の命令です。これは、教区長と自分たちとの交りや、自分たちが公にそして心から新しいミサを受け入れていることを表明する為に、少なくとも聖木曜日には教区司教と共に共同司式をすることという温かい招待とともに、聖ペトロ会会員たちが新典礼様式に則ったミサを自由に捧げる事ができると会が同意しなければなりませんでした。聖ペトロ兄弟会はエクレジア・デイ傘下の修道会であるにも拘らず、この修道会内に存在する一部の強情な会員たちが、パウロ六世のミサ様式に対する反感をより声だかに表明したまさにその時、この措置が必要だと証明したことに注目してください。その時この困難な状況下にあった当時の総長<ジョゼフ・ビズィグ(Fr. Josef Bisig)神父>は、直接 エクレジア・デイ 委員会から総長職を取り上げられ、修道会総会による選出には拠らず、却って エクレジア・デイ 委員会自身の押し付けた司祭と取り替えられてしまいました。

 当時、典礼秘蹟聖省の長官はメディナ・エステヴェス(Medina Estevez)枢機卿でしたが、その少し前にカストゥリオン・ホヨス(Castrillon Hoyos)枢機卿がエクレジア・デイ 委員会の委員長に任命されていました。

 そういう状況なので、例の指導文書<ウニヴェルセ・エクレジエ>履行命令は、先ほど申し上げた第19項と共に、ベネディクト十六世による<2007年公布の>モートゥ・プロプリオ 以上に、ヨハネ・パウロ二世による特典(インダルト)からの影響をさらに受けているように考えられます。

 ところで、それにも拘らず、ベネディクト十六世御自身によって宣言されたのは言ってみれば、「実際に一度として廃止された事のないミサ典書の使用を、1984年の特典は、幾つかの事例と限定された正確な条件に基づく場合には、寛大に認めると断言している」という事です。そして、ウニヴェルセ・エクレジエは、これと同じ教会法的かつ道徳的な不合理に逆戻りしているように見えるのです。この不合理は、トリエント<公会議>に少しでも結び付くもの全てに対する軽蔑と恐れ ---- 私は「憎しみ」とは言わないでおくことにします ---- という文脈の中に置かれてようやく理解出来るものなのです。

 Dulcis in fundo [大事な事を一つ言い残しましたが]、全ての人々は司祭会が第31項も第19項も決して受け入れないとよく知っているので、
一方で、全ての不平分子は聖ピオ十世会を“不従順”だと批判する事により、自分たちの“教会法厳守”を見せびらかそうと努め、他方ではそう批判はしておきながらも、聖ピオ十世会の非妥協的な態度も自分たちの為に何か建設的なものを間接的に手に入れてくれるだろうと期待しながら聖ピオ十世会を観察しているわけです。

 ですから私たちは、再度「成り行きを見ようと遠くから付いて行った“sequebatur a longe ut videret finem”」<マタ26:58>と、私たちが先ほど言及した聖ピオ十世会に対する功利主義的期待というテクニックが見えます。

 マルセル・ルフェーブル大司教様の御逝去二十周年記念式典が2011年<3月25日>に行われました。二十年が経っても、この人物像は議論を巻き起こし続けており、時の流れと共に、ますます教会と文化の範囲内に関心を呼び起こしているようにさえ思えます。神父様のお考えでは、一昔は多くの人々が古臭く時代遅れなものとしてさっさと片付けてしまっていた高位聖職者のこの“第二の青年期”(返り咲いたような関心や人気)は一体何の理由なのでしょうか?

 ルフェーブル大司教様は何か不滅なものを体現化しました。それは公教会の聖伝です。また(私にこの表現を使う事が許されるならですが)もし聖伝がその人の中で“生きる”のを決して止めなかった司教がいるとすれば、それは間違いなく“反逆の”司教です。例えば、当時誤って廃止され禁じられたものとして見做されていた聖伝ミサの執行を公然と一度も止めなかった唯一の高位聖職者が、聖ピオ十世会の創立者でした。彼はただ単に印刷され、埃をかぶったミサ典書を新しい世代に譲り渡しただけではなく、御自分が完全にかつ個人的にそれと関わって、祭壇上に日々現存される正真正銘の生きる宝物を守りそして伝えたのです。

 もし誰かが、何よりも先ず司祭職と典礼の危機にこそ、公教会の危機は根を張っており、またそこにこそこの危機が示されている事を本当に気付き始めるとすれば、人間を救うために、そして司祭職と典礼の両者を救うために、全精力を使い果たした方に言及する事は避けられません。

 ですから、もしも誰かがトリエント・ミサ又は聖伝について語る時、単にこの方から距離を置き、政治的に正しいと自己証明をするためだけだったとしても、全く乗り気のしない評論家でさえ彼について語るよう強いられるでしょう。

 ところが、彼について良かれ悪しかれ語る人は、聖伝を語らずしてそうする事は出来ません。この聖伝こそが、“ルフェーブル派”などとはほど遠く、それどころか、単にそして永遠に、カトリック的なのです。

(了)

聖ピオ十世会 SSPX イタリア管区長ダヴィデ・パリャラーニ神父様とのインタビューその2

2011年08月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビューを日本語に翻訳して下さった方がおられるので、感謝しつつこれを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビュー


 イタリア語の原文は次で読むことが出来ます。
Intervista a don Davide Pagliarani

 フランス語の翻訳は次にあります。
Entretien avec M. l’abbé Pagliarani à propos des entretiens théologiques

 英語版は、次にあります。
Interview with Fr. Davide Pagliarani

ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビュー


(続き)

もっと何か教えていただけませんでしょうか?
 
ダヴィデ・パリャラーニ神父:私に出来る事とは、当初から私の長上方により明確に説明された事柄を繰り返す事だけです。つまり現在聖ピオ十世会が置かれている教会法上の状況は、公教会に蔓延る誤謬へ抵抗した結果であり、従って、聖ピオ十世会が教会法上の正常な場所に到る可能性は私たちに懸かっているのではなく、公教会の復興に向けて聖伝がすることの出来る貢献を聖職位階が受け入れるか否かに懸かっているのです。

 もし私たちが教会法による何らかの正常化に達しないなら、それは単に聖職位階が未だに十分この貢献の切迫した必要性を確信していないという意味になります。その時私たちは、もう数年待たなければならないでしょう。公教会の自己破壊の過程が加速されるのと一緒に、そしてそれと平行して起こるかも知れないのですが、当局がますます聖伝の必要性に気づくことを期待しながら。


「私たちがローマで行う僅かながらの善は、その私たちがどこか別の所で行う大きな善よりもおそらく重要なものでしょう。」この、エコンの司祭叙階式でガラレッタ司教様がされた非常に重要な発言は、私たち[イタリア]管区に対する直接の招集命令です。もちろん、主にそれは神学上の会談について言及していますが、イタリアにある聖ピオ十世会のイメージもまた、ローマに近接しているという理由から、非常に特別な関連性がある事は否めません。神父様はイタリア管区の長上です。ではこの重要発言はどのような印象を神父様に与えましたか? 

ダヴィデ・パリャラーニ神父: エコンで司教様が言われた事は、聖ピオ十世会の深い確信と一致しています。この発言は正にカトリック精神によって形成されているように思えます。ですから、私としては何も驚くには値しません。

 ガラレッタ司教様の発言は、ローマ教会に対する奉仕を聖ピオ十世会に望ませるローマ精神を完璧に要約するものです。つまりローマそれ自身を皮切りとして、公教会がその聖伝を取り戻すことができるように、出来る事は何でもやるということです。

 教会史は、普遍的で、有効的、さらに永続的な如何なる刷新も、ローマがその刷新を自分自身のものとし、それがローマから始まらない限りは不可能だ、という事を私たちに教えてくれます。

 以上の点に関して、外部に存在する多くの評論家たちは、聖ピオ十世会の中で、教会当局との対話に対してより乗り気な、いわゆる“ローマ”派と、教皇様への如何なる接近に対しても反感を持っている“ガリア(フランス)”派との間に内部分裂が起きていると主張しています。そこで、この過度な簡素化(ローマ派及びガリア派への分類)は別としまして、また論評出来る限界内でお聞き致しますが、この意見は事実に基づいたものだとお考えですか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父: 人間の集まりなら何処にでもある様に、聖ピオ十世会に於いてもそれを構成する多様なメンバーたちの中には、色々な差異や感性があるものです。そのような差違があり得ないなどと考えるのは些か子供染みています。

 それにも拘らず、もし冷静な正しい判断が失われるか、或いは根拠なしに元々抱いていた偏見を基礎に話をするなら、今貴方が言及されたばかりの過度の簡素化に容易く陥ってしまいます。ついには党派を作り出して、考えもせずにあちらよりこちらの味方をするということになってしまうのだと私は考えます。

 聖ピオ十世会のメンバーたちにとって、彼らが所属する会の持つ独自性(アイデンティティ)は、確実で正確な軸の周りに構築されているのははっきりしていて、これは聖伝と呼ばれています。聖ピオ十世会内部の至る所で共有されるこの原理の上にこそ、聖ピオ十世会そのものの団結は築かれますので、客観的には独自性(アイデンティティ)と結束の、これより強力な原理を見出す事は不可能です。厳密に言えば、本質的要素におけるこの基本的な結束は、個々の意見を持つことが許されていることに関しても、色々なニュアンスを含んだ見解を持つのを許してくれます。

 <聖ピオ十世会に於ける>均質性の若干の欠如という印象は、聖ピオ十世会メンバーたちが自分の置かれた環境や、状態、さらに国々で用いる語調の相当な違いから由来するものであり、また何よりも、聖職位階の公式な代表者たちが私たちについて、また何らか聖伝と衝突する時に発言する、極端に違う矛盾した立場と直面する時に与えられたのだと私は考えています。文脈から外れたインターネットのオンラインで個々の発言を評価し、コンピューターのスクリーン前でこれらの発言全てを同じレベルに還元する人々の間では、これらの事実にはあまり気が付かないのです。

 間違いなく、それは深く考えて初めて分かることであって、外部の評論家たちにとっては直ちに一目瞭然と分かるようなものではないのです。

 5月13日には、特に モートゥ・プロプリオ・スンモールム・ポンティフィクム の適用方法について規定する目的を持った指導文書 ウニヴェルセ・エクレジエ が発行されました。この重要文書は聖ピオ十世会からどの様に評価されているのでしょうか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父: この文章は、一方で モートゥ・プロプリオ による指令を実行する明確な意向を表明しておきながら、他方でスンモールム・ポンティフィクム に反対して司教団が申し立てた数多くの明示的かつ暗示的な異議に配慮した要点です。つまり根本的に彼らがトリエント典礼復興に反対している事は何の秘密でもありません。

 先ず最初に、この文書は1962年典礼の復興は公教会の普遍法であると正確に明言しています。次にこの指導文書は、主として厳密に教会法の文脈で、<トリエント典礼の>ローマ・ミサ典書を使用することが自分の教区長たちから妨害されている司祭たちを擁護しようとする明確な努力を払っています。とりわけこれらの権利を保障するのは司教たちに委ねられており、教区長自身によって下された決定に訴えることが出来ると、ある種の繊細さをもって司教たちに思い起こさせています。

 以上が、バッサリと要約された一番肯定的な点だと思います。

 それでも指導文書ウニヴェルセ・エクレジエ の第19項は、パウロ六世が改定したミサ典書の有効性並びに正当性を認めない信徒たちには、永遠の聖なるミサを依頼する事が認められないと明言していますね。この制限規定についてはどうお考えですか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父: 全く正直に申しまして、私はこれが何のことか理解出来ないものですから、それについて判断を下せません。

 私は常に、ミサの最も聖なる典礼様式というものは、内在的な価値を持っていると主張して来ました。何よりも先ず、典礼様式自体が持っている天主に対する崇拝(latria)【つまり天主が全ての被造物に対して至上の主権を持っていることを承認するために天主にいけにえなどを捧げることによって示す礼拝行為】という優れた目的との関係上の価値です。(Ho sempre ritenuto che il santissimo rito della Messa avesse un valore intrinseco, soprattutto in relazione al fine latreutico che le è proprio.)


 ところでミサ聖祭が持つ内在的な価値などは全く考慮されず、今や“決して廃止されたことなどない”と宣言された、何世紀もの歳月を経た典礼様式の価値と、それを執り行う可能性とが、(ウニヴェルセ・エクレジエの19条によるような)それに与るか、それを要求する人の主観的な心情によって決まるのだと説明するためには、一体どのような教会法的、あるいは神学的基礎がそこにあるのか理解に苦しみます。

 これは愚かで非実用的な見解を作り上げます。例えば、この<トリエント>ミサが捧げて欲しいと要求する十人の信徒の内、もし五人がパウロ六世の<新しい>ミサに不服である<ウニヴェルセ・エクレジエ第19項に抵触する>と分かった場合、司祭はどうする義務があるのでしょうか? もしも、ある司祭が新しいミサについては自身非常に厳粛な保留をしている<捧げない>とするなら、この制限規定は一般信徒に対して のみ適用されるのですから、彼はどうするよう強いられるでしょうか?

 もし仮に、二つの典礼がまさに同じローマ典礼の二つの同等な様式だと見做されるのならば、トリエント典礼はそれを捧げることが許される前に何らかの調査を必要とする程に危険なものであるはずがないのです。

 最後に、もしこの[同等という]前提を正直に受け入れるなら、公然とトリエント典礼を拒絶する司祭や司教が、自分たちの強情な決意を手離すまで、新しいミサを捧げる事を慎むように要求されるべきではないでしょうか。

 私が思うには、この指導文書第19項は、一方で典型的な外交的態度の現れでありながらも、もう一方では残念ながらある種の下手に隠された精神的恐喝の一部ともなり得るものです。この文書は、司教たちの一部が「トリエントミサは不可避的に第二バチカン公会議とノブス・オルド<新典礼>との教会論とは相容れない別の教会論を伝えるものだ」ということに気が付いていることを示しています。その結果として、トリエントミサは信徒の良心に対して直接の統制が効いている間は許され得るという訳です。私としては、幾分それに不安を覚えます。

(続く)

ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビュー その1

2011年08月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビューを日本語に翻訳して下さった方がおられるので、感謝しつつこれを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビュー


 イタリア語の原文は次で読むことが出来ます。
Intervista a don Davide Pagliarani

 フランス語の翻訳は次にあります。
Entretien avec M. l’abbé Pagliarani à propos des entretiens théologiques

 英語版は、次にあります。
Interview with Fr. Davide Pagliarani

ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビュー


ローマとの教義に関する会談の結果と聖伝主義者たちの動揺についての初期評価

 ダヴィデ・パリャラーニ神父(聖ピオ十世会イタリア管区長)とのインタビューは、2011年6月26日、(ローマ近郊の)アルバーノ・ラツィアーレ(Albano Laziale)に於いてマルコ・ボンジ(Marco Bongi)氏により主催された。

 聖ピオ十世会によるローマとの神学討論、カトリック聖伝主義界の文化的現況、さらに指導文書ウニヴェルセ・エクレジエについての簡潔な論説について、マルコ・ボンジ氏の依頼に対して聖ピオ十世会イタリア管区長から聞き入れられたインタビューである。

______________________

マルコ・ボンジ:聖ピオ十世会とローマの間で行われた神学上の会談も終わりに近づいていますが、たとえ未だ公式な発表が一切出されていなかったにしても、幾つかの漏洩情報に基づいて、この会談は失敗したと確信している評論家たちが十分に存在します。この件について何か仰って頂けますか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:この会談を失敗と見做すのは、先入観に基づいた間違いであると私は思います。この結論は、恐らく本来この会談それ自体が持っていた目的とは無縁な事柄をそれに期待した人々により引き出されたものです。

 会談の目的は、具体的な合意に達する事では決してなく、むしろ双方の教義上の立場を記録した、明確で完全な書類を編纂し、さらにそれを教皇様と聖ピオ十世会総長に提出する事でした。二つの委員会が根気よく働いてくれた事により、基本的には討論事項の全題目に触れているのですから、この会談を失敗と見做すべきであると主張する方の根拠が私には分かりません。

 もしも次のようなことが起こっていたのならば、この会談は失敗だったでしょう‐これは背理法(reductio ad absurdum)ですが、‐例えば、もし仮に、聖ピオ十世会の代表者たちが会の主張と正確に一致しない報告書を作成したとすれば、例えばですよ、もし仮に司教団体主義や信教の自由は、そもそも聖伝とは完全に一致する現代社会への適合なのだと、聖ピオ十世会の代表らが言ったのだとすれば、です。<訳者注:つまり、聖ピオ十世会が今まで主張してきたことを否定するような対談をしなければ、この会談が失敗に終わったとは言えないが、そうやって対談を失敗に終わらせるのなら、どうして今まで対談をしたいと主張してきたのか、もしもそうであるならわざわざそのような対談をする必要も無かったことになる、聖ピオ十世会がローマとの対談を望んでいてそれが実現した今になって、いままで主張していたことと反対を述べるなどと信じるのは、あまりにも馬鹿馬鹿しい。従って、この対談は失敗だったと言うことはあり得ない。> たとえこの対話の内容について公にされたわけではなく何らかの沈黙が維持されましたが、そのような会談の失敗という結果に至る危険は全くないと言えると思います。

 公教会と聖伝の善の為に、聖ピオ十世会がこのような信仰の証をすることの大切さと、いま何が失われつつあり危険に晒されているのかということの重要性とを十分に把握していない人は、不可避的に別の観点に見合う判断を練り上げるでしょう。

 神父様のお考えでは、どのような観点が間違った判断へと導くことになるとお考えですか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父: 私のつまらない考えでは、何らか異分子的な聖伝主義者の領域が存在し、様々な理由から、それが聖ピオ十世会の状況が教会法的に正常化されるようなことを期待しています。

1)もちろん、普遍教会のために建設的な反響を期待する方々がいます。しかしながら、私が思うにはこのような人々は誠実で何ら幻想を抱いていないのですが、私は、この種の友人たちに、聖ピオ十世会には一日で公教会を変える使命もカリスマもないことを言いたいと思います。聖ピオ十世会は、単に、公教会が自分の聖伝をそのまま完全に取り戻すことが出来るように協力する事だけを意図しています。ですから、もし公教会の他の全ての事業同様に、教会法上の正常化があろうとなかろうと、躓きの石であり逆らいの印であり続けるなら、公教会の善の為にゆっくりと働き続ける事は出来るでしょう。教会法上の正常化は、御摂理が機が熟していると判断する時にのみ実現することでしょう。さらに‐現時点での‐合法化が仮にあったとしても、だからといって、緊急事態が突然なくなるとは思いません。緊急状態は公教会内に存在し続けますし、まさにこの緊急状態のために、今まで聖ピオ十世会そのものの活動が正当化されて来たのですから。

2)もう一方で、全く反対側の対極線にいるですが、少しブルジョア的な意味に於いて「保守主義者」と表現したいと思うグループが幾つか存在します。この人々は、この会談を同意に達するための試みの会談であると想定し、これは失敗に終わったと言いたくてたまらないのです。上手く隠し切れていない彼らの意向とは、聖ピオ十世会が聖伝を具現化しているが、そのような聖伝は公教会内部で市民権を獲得することは絶対にあり得ないと、出来るだけ速く証明する事です。この焦りは、公教会の未来のためへの自己を忘れる愛、或いは教義の純潔さを守るための愛によるというよりはむしろ、固有の意味での聖伝--- 保守主義、あるいは新保守主義的な立場の薄っぺらさではなく--- が持っているかもしれないインパクト(影響力)を本当に恐れているからです。


現実に、この反応はこれらの立場にある矛盾と内的弱さに、ゆっくりとますます気づいていること‐そうだとはっきり認められる事はありませんが‐を明らかにしているのです。

3)ですが、何よりも先ず、この事(異分子的な聖伝主義者らが聖ピオ十世会の教会法的に正常化を期待すること)は、聖ピオ十世会の戦いを自分のものにしようと望まず、あるいはこの戦いに伴う重荷や様々な結果を引き受けることを望まないけれども、教会法による聖ピオ十世会の正常化からは何らかの利益を期待してはいるグループや立場が存在していることを示していると思えます。

 実際、変化に富んでいる聖伝主義の群島には、大勢の“評論家たち”が存在しています。彼らは、聖ピオ十世会の考え方について、本質的な意見の相違を表明しながらも、私たちのことにおける日々の進展を最大の関心を持って見守っているのです。それは、自分たちのことをそれと同一視する修道会とか、又は自分たちが深く関わっている地元の状況とかにとって、建設的な反響を期待しているからです。聖ピオ十世会の将来に関する最も取るに足りない噂が自然発生する度に、これらの評論家たちが経験する動悸に私は感銘を受けています。ですが、この現象は簡単に説明出来るものでしょう。

何故ですか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父: 今お話ししたのは、自分たちの将来の状況について、基本的に失望していて或る不安定さを感じている信徒或いは司祭たちについてのことです。

 彼らは自分たちの信じた(ローマが彼らにした)約束の大部分が殆ど守られも、実行されもしていないと理解しています。

 彼らは、第一にスンモールム・ポンティフィクムによって、それから次にウニヴェルセ・エクレジエに基づいて、トリエント典礼に完全な市民権と自由が与えられ、実質的に守られる事を期待しましたが、これは穏やかに実現しないだろうと理解しているのです。特に司教様たちとの関係上、無理だと。

 従って‐そして残念ながら‐たとえこれらのグループが聖ピオ十世会の話の結果に興味を持っていたとしても、この会談を支える教義的原理のためでも、この会談が公教会そのものに対して持ち得る影響のためでもなく、ただむしろ功利主義的な観点から興味を持っているのです。つまり聖ピオ十世会は、今や失うものは何もない司祭たちの突破用歩兵大隊として見られています。もしも聖ピオ十世会が、自分のためにかなり重要なものを獲得するなら、他の司祭たちも懇願出来る教会法上の前例を作り上げるだろう、と。

 この態度は道徳的に議論の余地があり、おそらくはやや利己主義的です。しかし二つの利点を持ち合わせています:

 先ず第一に、これは、聖ピオ十世会の立場が、結果としては何か興味深いものを生じさせる事の出来る唯一の信じるに値する立場である事を、そして、自分たちの意思に反して、ついにはその事実に言及する羽目になる人々が多く存在している事を、逆説的に証明してくれます。

 二番目の利点とは、もしも教義のことに優先権---この優先権は公教会が自分の聖伝の回復を可能にする為なのですが---が与えられていなければ、不確実な計算と不安定な結果から作り上げられる外交的な観点へと必然的に滑り込み、悲劇的に失望的な結果を見るだけという危険を冒す事になるだろうと、立証してくれています。

 もしもバチカンが聖ピオ十世会に、聖座直属の属人教区(Ordinariate)として組織されるという機会を提供すると想定した場合、その提案はどのように受け止められるとお考えですか?

 それは<カトリック的>原理と優先権、そして何よりも先ず聖ピオ十世会の長上方が常に御自分たちのインスピレーションをそこから引き出して来られた超自然の賢明を基礎にして、平静に考慮されるでしょう。

(続く)


日本の新しい教皇大使にチェンノット大司教【インド出身】が任命されました

2011年08月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 日本の新しい教皇大使にチェンノット大司教【インド出身】が任命されましたのでご紹介します。天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

日本の教皇大使にチェンノット大司教

 教皇ベネディクト16世は、15日、日本の教皇大使として、ジョゼフ・チェンノット大司教を任命された。

 同大司教は、1943年、インドのシリア・マラバル典礼エルナクラム=アンガマリー大司教区コカマンガラム生まれ。

 1969年、司祭叙階。1977年、教皇庁国務省外務局入りし、1999年、中央アフリカおよびチャドの教皇大使となる。同年、司教叙階。2005年よりタンザニアの教皇大使を務めていた。


アジア管区長 クチュール神父様へのインタビュー part3

2011年08月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 アジア管区長 クチュール神父様へのインタビュー part3を日本語に訳して下さった方がおられるので、感謝しつつ愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


 クチュール神父様のインタビューの原文は次の通りです。

アジア管区長 クチュール神父様へのインタビュー part1
アジア管区長 クチュール神父様へのインタビュー part1 日本語訳

アジア管区長 クチュール神父様へのインタビュー part2
アジア管区長 クチュール神父様へのインタビュー part2 日本語訳

アジア管区長 クチュール神父様へのインタビュー part3

 神父様がアメリカにこられたのは、信者が祈りに加えて、援助をお願いするため、そして神父様が広めようとしていらっしゃる本のためでした。この本では、ある中国人女性がマルクス政権によって投獄された話でした。これはすべての章がとても美しく神聖なお話で、とても読みやすい話です。どうしてこの方をお知りになりましたか?そしてこの本は、神父様のお仕事や、聖伝ミサやアメリカにおけるカトリック教徒の役に立つものですか?

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クチュール神父様
  彼女は中国、毛沢東の下、強制収容所で、1955年から1981年までの26年間を費やしました。その後、1989年にアメリカに渡りました。約10年間彼女の教区で新ミサに預かったあと、聖伝ミサに出会いました。だれかが彼女の手による聖体拝領について、手による聖体拝領は悪いと教えたのです。そして彼女は聖ピオ十世会と出会いました。今、彼女は、聖ピオ十世会の第三会員です。彼女は次のような普通では考えられない説明をしました。「共産党の監獄における26年間は、聖ピオ十世会の会員となるための最もすばらしい準備期間だったでした。私にとって最高の修練期間でした」と。

 彼女の本「苦しみの中の喜び」(アジア管区サイトあるいはアンジェル・プレスでお求め頂けます)は、最近、韓国の聖ピオ十世会で再出版され、現在第2刷です。この本は、フランス語やスペイン語に翻訳され、もうすぐ日本語にも翻訳されつつあります。この本は、彼女の話、とても簡潔な、いうなればとても美しい章が書かれています。彼女が逮捕されたとき、彼女は20才でした。彼女は16才のときに改宗したのです。4年後、彼女はレジオ・マリエの会員であったために逮捕されました。レジオ・マリエのすべてが毛沢東によって監視され、その最初のターゲットが中国におけるカトリック教会となりました。中国のレジオ・マリエの話は普通では考えられないことです。(詳しくは、SSPXアジア管区ウェブサイトをご覧ください)1948年、教皇大使であったリベリ(大)司教様は1947年革命が来ることを感じました。(毛沢東は1949年に政権を手にしました。)それから、大使はアイルランド人のマックグラース神父様を送りましたが、すでに神父様の中国での小教区ではレジオ・マリエが普通では考えられない状況になっていました。教皇大使はマックガース神父様に言いました。「毛沢東は、まもなく政権を掌握するでしょう。私はあなたに、中国全土でレジオ・マリエを設立することを命じます。なぜなら、カトリック教徒は、司祭なしで信仰を守らなければならなくなるからです。」2年以内に、神父様はおよそ2千もの祈りのグループをつくり、カトリック教徒の信仰をそこで守り、多くの人が殉教の準備をしたのです。


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 ローズ・フーさんは、上海のオーロラ女学校の学生でした。これは、マックグラース神父様が中国での布教の一環として始められた学校でした。豊かな家族のための学校で、予想に反してこの学校は成功しました。学校は、まるで草がすくすく成長するように成長しました。この学校は、天主様の恩寵を受けていました。この学校出身の多くの若い少女が後に拷問にあいましたが、多くが固く信仰を守りました。この本は、彼女の当時の霊的指導者マックグラース神父様(2000年帰天)への従順によって彼女が書いた証言集です。

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 神父様は、ローズ・フー夫人に言いました。「ローズ・フーさん、あなたの体験した話を文章にまとめなければなりません。」最初は中国語でかかれた彼女の本は、バチカン中国語放送ラジオで放送されました。ですからこれは重要な証言集です。この本は、ちょうど英語に翻訳されたところです。そして、今から1年から2年位先には、フランス語、スペイン語、日本語、そしておそらくドイツ語にも翻訳されるでしょう。

 彼女は、私たち司祭にとってすら教育的な模範です。そしてこの金欲的、物質的な社会において、天主様への奉仕の召命をもたらすでしょう。なぜならこれは、若い人が英雄的な方法で固く信仰を守った模範だからです。

 この本から、ひとつの例を引用しましょう。この本の中にはたくさんの逸話があります。あるとき、ローズさんは、肺炎にかかりました。2週間、ベッドで寝たきりになっていましたが、薬を探すことはできませんでした。ついに、彼女は誰かに手紙で知らせ、どうにかして薬を得ることができました。それから、彼女の具合は少し良くなりました。でも、立てるようになったときから、すぐに畑で働かなくてはならなかったのです。彼女が友人のテレーズとビルの横を通りかかったとき、地面に卵が一個落ちているのを見つけました。それは、ごく普通の鶏の卵でした。彼らにとっては、卵はビタミンの壺のようなものです。これは天からの贈り物でした。ですから、テレーズは卵を手にとって言いました。「ローズ、見て。善良な天主様は、あなたの健康が戻るように卵をくださった」ローズは答えました。「でもまだ病気の人たちがいる、私に限っては、今は良くなってきています。でも、まだずっと病気の人がいます」「そうです、でも、ローズが卵を食べないといけません、善良な天主様がローズに働いて欲しいとおもっていらっしゃいます」「だめだめだめ、この卵はいただけません、このことは今夜お話しましょう」このようにして、彼女らは夕方まで畑で働きました。そして、夕方6時ごろに帰宅しました。彼女らはカトリックの友人達と集まり、そこでローズさんは言いました。「だめだめだめ、この卵はいただけません。まだずっと病気の人たちがいるから」そこで彼らは、卵を人から人に回しました。15人の人が集まっていましたが、卵は最終的にローズさんの手に帰ってきました。皆それぞれが言いました。「自分よりもっと悪い状況の人がいる。」そのうちの数人は、もうほとんど餓死しそうなのに、彼等は言ったのです。「だめだめ、私よりもっとその卵を必要としている人がいる」この労働収容所で、英雄的な愛徳と犠牲の精神を見出すことができるでしょう。最終的に、彼らは卵を割り、水を張ったボウルにいれ、ひとつの卵でスープを作ったそうです。皆がそれぞれスプーンひとすくいずつ食べたそうです。ローズさんに次のように尋ねました「卵の殻はどうしたのですか?」ローズさんは、答えました。「ああ、みんなで食べました。だって、形跡を残してはいけないのです。」


神父様、インドはいつも、アメリカから多大な援助を受けてきました。アメリカは、多くの寄付をインドに送ったり、宣教師をインドに派遣したりしてきましたので、インドから光栄なことに感謝していただいてきました。今日、叙階されたばかりの若いインド人の神父様について、お話をしていただけますか?もし、クチュール神父様が若いインドの神父様にお言葉や激励をなさるとしたら、あるいは今後司祭を目指す人にアドバイスをなさるとしたら、どのようなことをおっしゃいますか?

クチュール神父様 
 明日の朝に行われる彼の初ミサで私が何を言うか、ということを言っておられるのですね?こういうことです。私達は今朝、フェレー司教様がおっしゃった司祭職の理想に生きなければならないということです。この理想は聖ピオ十世会の召命です。これは、私たちが叙階式の時に補助をした司祭方や司教様方のことを申し上げています。その一方で、聖ピオ十世会はもっともっと新しい時代に入りつつあります。聖伝ミサを守ったばかりではなく、ミサを執り行う司祭職を守ってくださったルフェーブル大司教様のおかげです。

 ルフェーブル大司教様は、おっしゃいました。「彼らは私個人を攻撃しているのではありません。彼らは、聖伝を攻撃しているのです。」これになぞらえてみましょう、(もしこれと同様に比喩したらですけれど)いうなれば、私たちの伝道において、玉座に座るのは私たちではありません。私たちが代理を務めさせていただいている方が伝道において玉座に座るのです。実際、このようなことを理解している司祭は、ほとんど残っていません。私は、このことを彼に伝えるつもりです。

 司祭は、真のカトリック司祭職が、次に挙げる宝に密接につながっていることを名言しなければなりません。それはミサ、秘跡、カトリックの説教です。フランスで数年前に出版された本には、パリの私たちの教会である、シャルドネの聖ニコラス教会で改宗した人たちのことが書いてあります。著者は、ある女性大学教授が、司祭が説教の前後に十字のしるしをするのに心を打たれ、改宗という聖寵のお恵みを受けたことを書いています。私たちはいつでも十字の印をするので、それを大したことではない、些細なことととらえる考え方があります。でも、考えてください、大学教授が単純な十字の印で聖寵を受けたのです。私は、アジア管区でも、医者で元プロテスタントの方で、彼女が25才か26才のときに彼女の友人が彼女に、司祭が祝別した十字架をプレゼントしたときに改宗した信者がいます。

 新しく叙階された司祭に明日、次のように言うつもりです。「いつもあなたがどなたの代理をしているか思い出してください、そして、人々は私たちが聖寵という宝を持っているので私たちのところにやってくるでしょう。その宝とは、秘跡、カトリックの教義などでしょう」またその一方で、これらだけでは十分ではありません。私たちにとって、そして若い司祭にとっても、理想に生きることが必要です。

 司祭は、ミサを立てる、ということでは列聖されません。それでもなお、すべての司祭は列聖されるかもしれません。司祭がいつも行なっている善徳によって、そして聖なるミサに生きることによって司祭は列聖されます。これは他の人にもあてはまります。私たち聖ピオ十世会の若い司祭は、この事実を絶え間なく心に留めなければなりません。聖ピオ十世が「Haerent Animo」の中で司祭の理想の善徳の奨励をお書きになったとき、聖ピオ十世は部下の司祭たちが聖なるものであるように、望んでいらっしゃいました。そして私が思うにこれは私がお捧げする最も美しい模範です。そして、私たちが司祭を送ることになる地の人々に私たちがお捧げする最も美しい贈り物です。教会という宝を携えた司祭、そしてその宝にふさわしい生活に彼らを導くことを義務だと確信する司祭。こういった司祭を彼らに贈ります。


 神父様、信者に少しでもお言葉をいただけますか?特に信者におっしゃりたいことはございませんか?そして若い人に特別にお言葉をいただけますか?

 まず第一に、宣教のためにお祈りいただいているみなさまに感謝いたします。私は、あらゆるところで宣教のためにお祈りが捧げられていることを知っています。家庭で、学校で、大人から子供まで。なんども私はそのことを確信しています。毎年、私はお手紙やハガキを聖ピオ十世会の学校からいただいています。小学生からも「神父様、こんにちは、私たちは、宣教のために四旬節の犠牲をお捧げしています」というお手紙をいただいているほどです。これらは私たちの原動力になります。大司教様はしばしば、庭のホースのたとえ話をなさいました。私たち司祭、つまり宣教師は、ホースの先端部分です。そして、水が溢れているのを見つけます。信者が宣教のために世界中あらゆるところで祈っているのを知っています。これは、水道の蛇口です。ですから、私は、皆さんが祈ってくださっている聖寵をホースの先につなげるでしょう。信者の皆さんが祈ってくださっている恩寵は、ホースの先まで来ていることを断言できます。恩寵は行き交うのです。先週の土曜日、つまり一週間前、私はシンガポールでイスラム教だった女性に洗礼をさずけました。その一週間前は、仏教徒に洗礼をさずけました。そこでは成人の改宗があります。私はそれを見ています。これは神秘的です。本当に恩寵は行き交うのです。時々、神秘的なことは同時に起こるのです。私はなんどもこれを証明する事実に出会いました。私は自分の目で諸聖人の通功である祈りの力を見てきました。だから、皆様のお祈り、皆様の犠牲、皆様が捧げて下さる聖体拝領、皆様のロザリオ、皆様が宣教を心に留めて下さることに、心から感謝を申し上げます。

 一方で、収穫はあふれるほどです。人生を豊かにするかもしれない冒険を求める若い人よ、宣教生活は今も存続しています。召命のために祈ってください。たぶん、自分自身の召命のために祈ってください。若い人よ、自分自身に問いてください。豊かな実りを見てください。「天主様は私も必要とされているのではないだろうか?」あるいは預言者が言ったように「私を送ってください、主よ!もし、わたしが主をお助けすることができるなら、私はここにおります!天主様はわたしに何をお望みになりますか?」これは、ソルボンヌ大学の卒業生である聖フランシスコ・ザビエルが1544年にお書きになった言葉で、ローマのイエズス会に送った最も有名な言葉のひとつです。「私はできるなら、ソルボンヌ大学の廊下を走りぬけながら、学生に向かって叫びたいです「君たち何をやっているのだ?永遠について考えろ」」

 「あなたが死ぬ日、善良な天主様の御前で、何を申し開きしますか?もし、あなたに時間と才能があれば、時を浪費してはいけません。あなたの才能、あなたの全人生を無駄で役に立たないことに使ってはいけません。行って、収穫の仕事をしなさい、いつの日か、永遠の実りをもたらすために」聖フランシスコ・ザビエルは当時インドにいらっしゃり、そのようになさりました。彼は今日も同じことをおっしゃるでしょう。

 では、ありがとうございます。勇気を持ち続けなさい。そして、この世の人生と永遠にいついて考えてください。もし迷いがあるなら、または、もし、自分の生き方を探しているなら、黙想会に参加してください。多分、ある生き方ともう一つの生き方を始める前に、物事をはっきりさせておくのは良いことでしょう。「私が自分の人生を設計するにあたって何が一番よいことか、天の栄光と永遠のことを考慮すべきか?」同時に、お祈りをお願い致します。祈りのうちに、自分の中で確信が生まれ、特に善良な天主様が若い人の中に数多くの宣教の召命の種を蒔かれることでしょう。


パウロ六世とファチマ

2011年08月15日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、今日は聖母の被昇天の祝日ですね。おめでとうございます。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 以前「1967年 5月13日 教皇パウロ6世ファチマに巡礼する。しかしパウロ6世はファチマの聖母には見向きもせず、祈りもしない。」ということを、書いたことがあります。その根拠を知りたいと思っておられる方がおられるようなので、ご紹介します。

 その根拠は、ド・ナント神父というフランス人司祭の証言です。ド・ナント神父は聖ピオ十世会とは関係のない司祭です。彼はパウロ六世が1967年5月13日ファチマに訪問した時に、フランスでテレビの中継を、目を釘にしてみていました。そのことをパウロ六世に宛てて、次のように書いています。ド・ナント神父は、パウロ六世がファチマの第3の秘密を発表するのを待っていたのです。今では英語の訳がインターネットでも読めますのでそれをご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


FATIMA PROFANED

All the scandals, the air of schism that hung so heavily about us, would disperse if only you made a pilgrimage to Fatima. All our confidence, our filial love, would be restored as in a baptism of grace. Once there, you would – you could not do otherwise than – pray to the Blessed Virgin Mary together with that whole vast crowd of loyal, traditional Catholics, and after that you would let her speak, the Mother of God and our Mother and Protector; and you would tell us her Third Secret and accede to her requests. And then the world would become converted, beginning with us, your own sinful priests and people. In that prospect lay our hope!

You did go to Fatima, it is true. It was on 13th May 1967, fifty years to the day after the Heavenly Apparition. "Our eyes fixed on the screen, our hearts torn with anguish, the rosary between our fingers as we mingled our Aves with those of our brethren over there, we awaited what should have been the Event of the century...

"Alas, five hours later, there was no hope of peace left, and the final grace which we had hoped might follow mysteriously upon this meeting between the Vicar of Jesus Christ and His Blessed Mother had been squandered." (Letter No 191, p.6, 13 May 1967)

Why this feeling of certain disillusionment? Because it was only too clear from beginning to end that you had come, not to see, but to be seen, not to listen, but to speak, not to fall on your knees, but to be honored by millions prostrated at your feet, not to receive instructions from Heaven, but to impose your own earthly projects, not to implore the Blessed Virgin Mary to give us peace, but to ask men to bring it about, not to sanctify your heart and purify it after having allowed it to be soiled by Manhattan, but rather to spread the atmosphere of Manhattan, of the World, even in this spot sacred to Mary. You had come in order to desecrate Fatima! ...

You had arranged to celebrate Mass in Portuguese – despite the fact that people of all tongues and all races the whole world over were watching or listening – because you wished to show the tradition-loving country of Portugal that you were on the side of the innovators, that you supported change and were prepared to place your own desires above the glory of God. The Mass was a sad and hurried one, impossible to follow – a cold and "mumbled" (term used by Fr Laurentin in a French daily) ceremony. ...

Your visit, taken up with your political and ecumenical daydreams, was not a pilgrimage at all, and herein lies the terrible scandal. In all those discourses we find hardly any references – and those only cold and superficial – to the Apparitions of 1917. In not wishing to visit the actual site of the apparitions in the Cova da Iria, you gave the impression – perhaps intentionally? – that you did not really believe in them. On your arrival, receiving the acclamations of the crowds for over an hour as you passed them, you failed to salute Our Lady of Fatima. Nothing escapes the television screen. Mounted on the platform, you did salute – the crowds. But Our Lady – No. You had passed her who was the object of your pilgrimage, without raising your eyes. I saw it. Nor did you recite the Rosary with the crowd, and, if you did say a single Ave, this was neither televised nor reported in the press.....



フィリピンでは最近、文化センターで、私たちの主イエズス・キリストを侮辱する展示がありました

2011年08月12日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フィリピンでは最近、フィリピンの文化センター(Cultural Center of the Philippines: CCP)で、私たちの主イエズス・キリストを侮辱することを目的とした物が展示されました。
 口にするのも恥ずかしいのですが、十字架のキリストの前に男性の性器を付けたり、王たるキリストをミッキーマウスの顔にしたりしたものが、展示されていました。フィリピンでは大きな問題になりました。
 私たちは、その悲しいニュースを聞き、オープン・フォールムに行ったり、償いのロザリオ(15連)を皆で唱えたりしました。償いのロザリオの後、その展示は取りやめになることが決定になり、文化センターの責任者は辞任することになりました。

Offended Filipino Catholics turn to internet to assail CCP over ‘penis art’

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2011年8月5日オープン・フォールムにて


Talking up a storm at the CCP

 次は、8月7日の主日の午後に文化センター前で、私たちの信徒たちが120名ほどで償いのロザリオを唱えていたことがテレビのニュースになったものです。
EXCL Catholics pray the rosary to fight art exhibit

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Catholic priests and devotees pray in front of the Cultural Center of the Philippines yesterday to protest an exhibit

Blasphemie: Penis-Ausstellung am Ende

Philippines shuts art show deemed offensive

Criticized Philippine Art Exhibit Is Closed : New York Times

フィリピンでのニュースの報告でした。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りを感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


典礼聖省長官は、跪いて口で聖体拝領をするように強くすすめる。

2011年08月12日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!


愛する兄弟姉妹の皆様、

 ブログの記事を書くことも出来ずに時間が過ぎてしまっています。約一ヶ月前のニュースですが「典礼聖省長官は、跪いて口で聖体拝領をするように強くすすめる」をお知らせします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Cardinal Canizares calls for Communion on tongue, kneeling

The prefect of the Congregation for Divine Worship has strongly endorsed the practice of receiving Communion on the tongue, while kneeling.

Cardinal Antonio Canizares Llovera told the Catholic News Agency that the traditional posture is a "sign of adoration that needs to be recovered." When Catholics receive Communion while standing, they should show their reverence with a bow, the Spanish cardinal said; but in practice few people do that. He said: "I think the entire Church needs to receive Communion while kneeling."

Spanish cardinal recommends that Catholics receive Communion on the tongue

Lima, Peru, Jul 28, 2011 / 01:56 pm (CNA).- Spanish Cardinal Antonio Canizares Llovera recently recommended that Catholics receive Communion on the tongue, while kneeling.

“It is to simply know that we are before God himself and that He came to us and that we are undeserving,” the prefect of the Vatican's Congregation for Divine Worship and the Discipline of the Sacraments said in an interview with CNA during his visit to Lima, Peru.

The cardinal’s remarks came in response to a question on whether Catholics should receive Communion in the hand or on the tongue.

He recommended that Catholics “receive Communion on the tongue and while kneeling.”

Receiving Communion in this way, the cardinal continued, “is the sign of adoration that needs to be recovered. I think the entire Church needs to receive Communion while kneeling.”

“In fact,” he added, “if one receives while standing, a genuflection or profound bow should be made, and this is not happening.”

“If we trivialize Communion, we trivialize everything, and we cannot lose a moment as important as that of receiving Communion, of recognizing the real presence of Christ there, of the God who is the love above all loves, as we sing in a hymn in Spanish.”

In response to a question about the liturgical abuses that often occur, Cardinal Canizares said they must be “corrected, especially through proper formation: formation for seminarians, for priests, for catechists, for all the Christian faithful.”

Such a formation should ensure that liturgical celebrations take place “in accord with the demands and dignity of the celebration, in accord with the norms of the Church, which is the only way we can authentically celebrate the Eucharist,” he added.

“Bishops have a unique responsibility” in the task of liturgical formation and the correction of abuses, the cardinal said, “and we must not fail to fulfill it, because everything we do to ensure that the Eucharist is celebrated properly will ensure proper participation in the Eucharist.”

【参考資料】
Most Rev. Athanasius Schneider on Communion in the Hand 【ビデオ】




カトリック教会のためのロザリオの十字軍、現在4673環のロザリオが集まりました

2011年08月08日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2011年の復活祭からフェレー司教様が発動した第4次ロザリオの十字軍の報告を申し上げます。
 2011年4月23日から2011年7月31日までの分として、現在日本から、総計
 ロザリオ 4673 環

 の報告を頂きました。深く感謝します。私のまとめの報告が大変遅れまして申し訳ありません。すでに 561環の報告については昨日ご紹介してあります。続きをご紹介します。

 私も、拙いながら、記録を付け忘れた日が多々ありましたが、少なくとも7月31日までに120環をお捧げしました。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
勝利の聖母修道院長

トマス小野田神父様

アヴェ・マリア
 失礼致します。報告すべきかどうか迷ったのですが、とりあえず前回同様に報告させていただきます。
御復活祭から5月31日までに十字軍の意向で捧げたロザリオは114環です。
天地の元后聖マリア、我らの為に祈り給え。

【報告】
アヴェ・マリア。
小野田神父様、お体の具合はその後、いかがですか?どうかお大事になさってください。フェレー司教様のご意向によるロザリオの十字軍のご報告です。
4月17日~30日 
 フランシスコ  14環
 モニカ      14環
 テレジア     69環
5月1日~31日
 フランシスコ  31環
 モニカ     31環
 テレジア   157環 以上です。

母が最近、友人から聞いたと言っていましたが、2007年に教皇様は全世界の司教様宛てに、書簡を送って,聖伝のラテン語のミサは、みんな廃止されたと思っているけれど、今まで一度も廃止されたことはなく、聖伝のラテン語のミサに与りたいと言う信者がいれば、便宜を図ってあげてほしい、と頼まれましたが、今年の5月13日、ファチマの聖母御出現の記念日に、教皇様はそれからもっと進んで、全カトリック教会の小教区で聖伝のラテン語のミサをささげるように、と言う通達を出そうとなさったのに、枢機卿さまたちの3分の2が、古いと言って反対なさった、と言うことを母は聞いたと言っていました。『教皇様は良く頑張っていらっしゃる。偉いね。』と母は言っていますが、本当に今年5月13日にそういう事実があったのですか?
ピオさんからも、秋田巡礼の直後にメールで、5月13日に教皇様がそのような発表をなさるかもしれない、と言うことは聞いていました。その後どうなったのかと思っていました。
今日は、初土曜日で、最近大阪の信者さんたちの有志で、坂田さんの家でロザリオや黙想をしていますが、坂田さんたちは、教皇様がそのようなことをなさろうとしていらっしゃったことは、しらなかったとおっしゃっています。
小野田神父様のブログにも、そのような重大なニュースなら、取り上げてくださるはずなのに、小野田神父様はお体の具合が悪かったので、ご存じなかったのかな、と話していました。
もし何かご存知でしたら、教えてくださいませ。御願いいたします。
全世界のカトッリック教会で、もう一度再び聖伝のラテン語のごミサが奉げられるようになるなんて、本当にすばらしいことです。私たちも教皇様と心を合わせて、ロザリオの祈りをみんなで心を込めてささげていきたいなと思います。
みんなで粘りづよく、困難にもくじけず、信仰を持って祈れば、ロザリオによって解決できない問題はない、と言うことを小野田神父様のお説教でも、繰り返しおっしゃっていますね。一日も早くそういうことが実現する日が来ますように。神様やイエズス様やマリア様、諸天使、諸聖人達の願いが実現しますように。
神さまからの祝福とお恵みがありますように。祈りのうちに。デオ・グラチアス。


【お返事】
 教皇様が全カトリック教会の小教区で聖伝のラテン語のミサをささげるように望んでいることは本当だと思います。しかし、思いのまま動けないでおられるのも事実であると思います。
 5月13日に聖伝のミサに関する特別の通達を出そうとなさったのに、それがブロックされてしまった、という話は私は知らなかったのですが、もしかしたらそうだったのかもしれません。フェレー司教様も、今年の6月にこんな実話をおしえて下さっています。
 ドイツのトラピスト会の大修道院長司祭は、単にトリエントミサへの帰還のみならず、第二バチカン以前の修道会会則と憲章を回復させる事が出来るように教皇様に許可を願いました。ベネディクト十六世はこのドイツのトラピスト会にその許可を与えました。それを可能にする為、教皇様はこのドイツのトラピスト会修道院を直々に御自身の管轄下に置く、と言ったのです。しかし、国務聖省はそれをブロックて出来ないようにしました。そこで、国務聖省を無視して頭越しに動かなければなりませんでした。


【報告】
+J,M,J,Ave Maria ☆!

小野田神父様、聖務に御忙しいのに、ブログを更新くださってありがとうございます!
お具合はいかがですか?
全快されますように毎日家族でお祈りしております。

第四次ロザリオ十字軍の意向で、つたなくも唱えましたロザリオのご報告をさせていただきます。
4月御復活~5/31まで
マリア  50
マリア 80
マリア 35
パウロ 80
マルガリタ 45
レジナ  85
マグダレナ 129
トマス御夫妻 38
計 542


聖心の月となりました!
小野田神父様の御ミサをお待ちしております。

至聖なるイエズス様の聖心よ、われらをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、われらのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフよ、われらのために祈りたまえ。

【報告】
アヴェ・マリア!

トマス小野田神父様

ロザリオの十字軍のご報告をさせていただきます。
5月24日から6月12日10時(日本時間)まで
私と子供2人あわせて21環でした。

小野田神父様からいただきましたロザリオの十字軍のTシャツありがとうございます。それと祝別されている大天使ミカエルのメダイも不思議のメダイとともに身につけさせていただいております。ともに天主様の愛を深く感じております。

最近、あらためて、旧約聖書と新約聖書を同時並行で読み始めました。
旧約聖書を読むと人間の愚かさと天主様の厳しさがこれでもかとつきつけられ、天主様への畏れの念がいやでも湧いてまいりますが、そのあと、福音書のイエズス様のおはなしを読むと、救いという言葉の意味が実感として伝わってまいります。旧約の時代は救いがまだ来ていなかったことを思えば、よい時代に生まれたといえるのでしょうね。

ロザリオの十字軍は第4次となりましたが、最終決戦と信じ、ロシアが一日も早く聖母マリア様のけがれなき御心に奉献されますように戦ってまいります。

それでは、お体にお気をつけて聖務にいそしんでください。
天主様の祝福が豊かにありますように!

【報告】
+J,M,J,Ave Maria ☆!

小野田神父様、聖務に御忙しいのに、ブログを更新くださってありがとうございます!
お具合はいかがですか?
小野田神父様のご健康のために毎日家族でお祈りしております。

第四次ロザリオ十字軍の意向で、つたなくも唱えましたロザリオのご報告をさせていただきます。
6月として
マリア  60
マリア  62
マリア  30
パウロ  45
マルガリタ  50
レジナ    128
マグダレナ  111
計 542

尊き御血の月となりました!
小野田神父様の御ミサをお待ちしております。

至聖なるイエズス様の聖心よ、われらをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、われらのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフよ、われらのために祈りたまえ。


【報告】
アヴェ・マリア!
 神父様、お久しぶりです。お体とても心配しておりました。どのようなメールを送ればいいかとあれこれ考えているうちに、このように遅くなってしまって。


 5月のロザリオ、お捧げできるのは45環です。ロザリオを唱える際、神父様が早く回復なさりますよう、病人の回復を求める祈りも唱えました。信者の皆様、きっと同じ心でいらっしゃって、心を込めてお祈りされたことと思います。

 祖父が亡くなり、天国で再び会いたいという気持ちを強くし、祈りを捧げています。日一日、「私」を捨て、家族のために人のために、そして小さく謙虚に生きたいと祈ってます。
 早く神父様のミサに与れますように。お体を大切にしてください。


【お便り】
PAX+

ブログ更新楽しみにしています。
先日、ある信者の方から、こんな質問がありました。御聖体が、少し大きくないですか?とのことです。ちなみに、御聖体の大きさは、問題ないと思いますが・・・どうなんでしょうか?

あと、お水も御聖体拝領の前はのんではいけないとのことでした。
トリエントミサに与っていたころは、歯磨きしたとき、口に残った水までも飲まないように気を使ったそうです。びっくり!

【お返事】
 いつもブログを愛読して下さってありがとうございます。日本で使われているホスチアは、フィリピンのカルメル会で作られたほやほやのホスチアを毎月持ってきて使っています。日本のものとサイズが異なるかもしれませんが、フィリピンでは一般にこのサイズを使っています。
 また、カトリック教会の教えによれば、お水は飲んでも断食を中断することにはなりません。ご安心下さい。


【お便り】
勝利の聖母修道院長

トマス小野田神父様

アヴェ・マリア

6月29日、聖ペトロと聖パウロの大祝日、トマス小野田神父様叙階20周年おめでとうご在ます。益々のご活躍をお祈り申し上げます。また日本の東京、大阪などに一日も早くプライオリーが早く建設されますように。

 神父様、大した事ではありませんが、バルチック艦隊を破った連合艦隊の三笠などの戦艦は大半がイギリス製だそうです。
 ブログを読ませて頂きました。私は職人気質と言われる日本人気質は、それが超自然徳によって支配される時、キリスト教的徳として素晴らしいものになる
と信じて疑いません。グレゴリオ聖歌の完成度の高さもある種の完璧を求める西洋人の気質が伺えます。超自然は自然を完成するなら、全く問題はありませんよ。ただ日本人が信仰を受け入れなければ話になりませんね(それが神父様の趣旨ですね)。・・・


【報告】
+J,M,J,Ave Maria ☆!

小野田神父様、聖務に御忙しいのに、ブログを更新くださってありがとうございます!
小野田神父様のご健康のために毎日家族でお祈りしております。

第四次ロザリオ十字軍の意向で、つたなくも唱えましたロザリオのご報告をさせていただきます。
7月として
マリア   69
マリア   69
マリア   31
パウロ   20
マルガリタ  63
レジナ    130
マグダレナ   91
計 473


数が少なく、情けないです(T_T)。8月はがんばります!
8月は、聖母の被昇天と聖母の汚れ無き御心の大祝日がありますから!
小野田神父様の御ミサをお待ちしております。

至聖なるイエズス様の聖心よ、われらをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、われらのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフよ、われらのために祈りたまえ。


【お便り】
トマス 小野田 神父様

 聖なる司祭叙階18周年をお迎えになり、おめでとうございます。
 心よりお祝いを申し上げます。
 この1年は、マニラでのお役目が増え、日本や韓国でのミッションの回数が減りました。思いがけず体調も崩されてしまいました。
 でも、御両親様がお揃いで洗礼を受けられたことは、お喜びのことだと思います。また、新しく受洗された方もおられるようで、嬉しく思います。
 フィリピンでの新しい(3番目の)修院の展開や、マニラの初等中等学校についても、希望の光を感じます。
 神父様には、いつも温かく丁寧に接してくださり、感謝しています。
 これからも、お元気でますますご活躍されますように、お祈りしております。
 神父様の修道会のためにもお祈りしております。
 どうぞよろしくお願いいたします。
  2011年6月29日 使徒聖ペトロと聖パウロの祝日 
           司祭叙階18年目の記念日に


【お便り】
トマス小野田圭志修道院長様
十主の平安!♪

アヴェ・マリア
わが主イエズス・キリスト様のいとも貴き聖血の聖月ですね!!


18名の新司祭様方11名の助祭様方大きな有難い実りですね
シャルルド・パリの巡礼素晴らしいですね♪子供さん達もたくさんですね♪
29日は、神父様の叙階18周年の記念日でもありましたね!
おめでとうございました
では、6月分の、フェレー司教様の御意向の聖なるロザリオの御報告です♪

*シスター        90環
*ヨゼフマリア      60環
*パウロ         90環
*クリスティーナ    118環
*テレジア         6環
*マリア         36環
*バルナバ         1環
*テレジア        81環
*クリスティーナ     46環
*マリア         26環
*ローザ         27環
*グラチアス      116環
*アンナ         29環

合計 680環 です。宜しく御願い致します。
7月も御ミサに与れますように、御祈り宜しくお願い致します!

デオ・グラチアス!!
至聖なるイエズス様のいとも貴き聖血われらを救い給え!!
われらの母なる聖マリア様
聖会の保護者なる聖ヨゼフ様!
トマス小野田圭志修道院長様ウイリアムソン司教様を御護下さいませ!!

お祈りのうちに アレルヤ!

【報告】
アヴェ・マリア!

トマス小野田神父様

ロザリオの十字軍のご報告をさせていただきます。
6月13日から7月13日13時(日本時間)まで
私と子供2人あわせて37環でした。

このところ日本では暑い日が続きますが、常夏のフィリピンも特に暑い時期なのでしょうか。お身体に気を付けてください。
小野田神父様に天主様の祝福が豊かにありますように!

【お便り】
トマス小野田修道院長 様

御ミサ、ありがとうございました。
灌水式の時、夏の丘のように、目のさめるカッパをまとっていらっしゃいましたね。先日の叙階記念に贈られたのだろうかと思っていました。
金の刺繍の緑色ビロード、金糸のフリンジ、地模様のあるエメラルド色のシルク。本日の主日の色に合わせた美しいカッパです。
カッパも主日の色によって分けられているものですが、いつか献堂される聖堂には、広い香部屋があって、様々な祝祭日の御ミサための美しい祭服が揃えられた収納があるのでしょう。

お説教は新約と旧約の比較でわかりやすいと思いました。新約のいま、同じことが繰り返されるのはなぜか?その答えは、たったひとつしかありませんでした。

院長様。院長様もわたしも、髪に白いものが少し出てくるようになったのを見て、年月を感じます。貴会に通うようになって10年になります。
院長様。わたしを何度も助けてくださってありがとうございます。
ディエゴさんが、聖トマス・アクィナス神学校の神学生さんたちの歌うグレゴリオ聖歌のCDをくださいました。今、聴いているところです。・・・

何も持たないことを感謝致します。

【お便り】
小野田神父様、こんばんは。
日本でのミッションをありがとうございます!
聖務に大変御忙しいのを承知しておりますが、気になることがあり
質問をさせていただきます。

【質問】カルメル山のスカプラリオの代用メダイについて教えてください。

【祈りの本ピエタ(p.36)より抜粋】
[開始]
1251年7月16日、聖母マリアから聖シモン・ストックに与えられた御約束。
「誰でもこれ(スカプラリオ)を身に着けて死ぬ人は永遠の火をうけないでしょう。」
前記の聖母マリアが聖シモン・ストックに与えられた御約束により、あなたのスカプラリオはあなたにとって深い意味を持つことになります。それは聖母御自身によって天国から与えられた貴重な贈り物なのです。
「信心深く忍耐強くそれを身に着けなさい」と彼女はすべての霊魂にいわれます、
「それは私の衣服です。それを着けていることはあなたが絶えず私のことを考え、また私もあなたのことを考え、あなたが永遠の生命を確保するようあなのものたを助けることを意味します。」
[抜粋終]

代用メダイは、どのような条件のときに代用として有効なのでしょうか?
私たち家族は、海女などのような職業の人たちが、海に潜るときにだけ着けると思っておりました。また、お風呂に入るときは、スカプラリオを取る時と、また着ける時に、愛をこめてスカプラリオに接吻する。と。

マリア様の御言葉のなかの「忍耐強く」は、寝るときや、暑いとき、また着用におけるいろいろな困難に対してだと思います。
最初だけ茶色や五色のスカプラリオの着衣式をして、さっそく代用メダイに切り替えることが有効だと思っている方がいらっしゃってはいけないと思いまして、老婆心ながら(^_^;)質問させていただきました。

今年の2月や3月にクチュール神父様が着衣式をしてくださり、依頼により代用メダイの祝別もしてくださった時にも
「ウールのスカプラリオ(本来の)がmuch better! 」とおっしゃられたのですが、英語なので聞き取れなかった方もいらっしゃるのかもしれません。

さしでがましいお願いで恐縮なのですが、小野田神父様、もしよろしければ、CREDIDIMUS CARITATI などで、スカプラリオの代用メダイについてお答えをいただけませんでしょうか?どうぞよろしくお願いいたします。


【お返事】
 代用メダイは、労働条件が厳しいとか、病気などの正当な理由があるとき、着用することが困難な場合、代用することができます。
 例えば、海女や高熱の場所で働いている方々などです。お風呂に入るときなど短時間であれば脱衣することが出来ます。代用は代用ですから、できるだけ正式のものを着用なさって下さい。
 また、スカプラリオを身に付ける時と脱ぐ時には愛をこめてスカプラリオに接吻してください。


【お便り】
アヴェ・マリア!

トマス小野田神父様

本日はごミサに与り、天主様へ感謝申し上げます。また、公共要理も知的にも奥の深い内容でとても勉強になりました。明日7月18日(月)8時からの御ミサに与る予定でしたが、子供の送り迎えをしなければならなくなり、与ることができなくなりました(泣)
なお、19日(火)7時の御ミサには与りたいと思います。

小野田神父様に天主様の祝福が豊かにありますように!


【お便り】
アヴェ・マリア!

トマス小野田神父様

転勤で群馬県に引越ししましたのでご連絡いたします。
昨日、聖伝ミサに与らせて頂き、感謝いたします。神父様は、一度も暗さの影を見せたことがなく、いつも明るくにこにこしていらっしゃるところが素晴らしいと感じました。イエズス様を思い浮かべながら・・・。
私たちもイエズス様に大きな愛で愛されていますから、神父様のようにどのような状況におかれてもいつもにこにこと周りに明るく振舞っていたら、どんなに良いことでしょうと思いました。人々にイエズス様を愛させたいという熱い望みを抱きながら宣教していらっしゃる神父様たちを影から支えて行けますよう頑張ります。DEO GRATIAS!

【お便り】
トマス小野田神父様

いつも有難うございます。神父様にお礼を述べようと思っていたのですが、時間が無くてお話しできなくて、すみませんでした。

先月、私の父と先祖の為に御ミサをお願いしましたが、おかげ様で父方の先祖が喜んでくれているようなのです。(中略)きっと、先祖が私を歓迎してくれたんだと感じました。御ミサが本当に力がある、という事を実感した次第です。

本当にどうもありがとうございました。心よりお礼申し上げます。
今後も見守って頂きたくお願いいたします。


【お知らせ】
Dear Friends and Benefactors,

Please find the latest Apostle attached. Please do not hesitate to
encourage others to subscribe to the email version of the Apostle.

In Jesu et Maria,
Father Robert Brucciani


【お便り】
トマス 小野田 神父様
 猛暑の一日、夕方までお世話になりありがとうございました。
 フランスの神学校に入学される方がいらっしゃるとのこと、よかったですね。その方が険しい道を順調に歩まれますようにお祈りします。

 帰りの電車の中から、富士山が見えました。常磐線の利根川を超え茨城に入ったあたりです。夕焼けの中に、グレーの山の端が、頂上までくっきり映えていました。

<ローマ公教要理と聖ピオ十世の公教要理>
 神父様が少し聞いて下さったので書きますが…。

 1970年代に、京都の古屋司教様が、神学校教育ではなくて成人の要理教育のために、ローマ公教要理を使いたいとの意向を持たれて、seidoが、司教認可を受けてローマ公教要理を日本語版で出版したということは、よく分かります。秘跡の部に関しては、もっと以前に中央出版社が訳出し出版していたのですね。

 ローマ公教要理は「反宗教改革」が旗印なので、どこかの日本の現在の教会でカトリック要理をさらっと聞いて来られた方に対しては、この本は目を覚まさせられると思います。まさに今の教会にプロテスタント的要素が入り込んで、プロテスタント思想が教えられている現実を考えると、小野田神父様が語られる公教要理はこれがふさわしいだろうと思います。

 聖ピオ十世の公教要理は「これはこうだ。」と簡潔な要理問答になっています。カトリックの環境で育った人がお父さんやお母さんから教わる場合や、教会でそれほど神学に造詣の深くないシスター方が堅信の準備で要理教育をされる時にこれを使用されることは、危険がないと思います。無難でかつ語るべきことは語られていると思います。

 しかし、ローマ公教要理の豊かさの一つは、聖アウグスティヌスや聖トマス・アクィナスなど数多くの聖人の言葉がそのまま引用されていること、また、聖書の聖パウロのこの言葉はこう解釈するのだということが明確に宣言されていることです。また、教会の指導者は、こう教えなければならないと書かれています。聖ピオ十世の公教要理には、このような要素はないですね。

 中途半端に勉学された方が、ローマ公教要理のようなテキストで教えようとすると、学習者が(これはどういう意味ですか?と)突っ込んできた時に、応えられないかもしれませんが、小野田神父様ならその点は全く心配ないので、やはり神学者である聖人の言葉や、聖書の聖パウロの言葉や、私たちの主の言葉をふんだんに取り入れたテキストを使われることは、意味があると思います。

 教科書を教えるのか、
 教科書で教えるのか、ということが言われます。

 全幅の信頼を寄せられる教科書なら、教科書の内容そのものを教えればいいわけです。しかし、世の中にはそう完璧な教科書は存在しません。

 それで、教える側(人)が、教える目標や視点を明確にして、
 教科書で(教科書を使用して、用いて)、教科書がカバーしていない内容も補足しながら教える、
 ということをしなければならないということです。

 そこで、教える人の力量が問われるわけですね。
 教える側にとって、“上級教科書”が、ローマ公教要理だということでしょうか?

 話は飛びますが、私が中2の時から教わったカトリック要理のお話も、話のレベルはとても高度だったと思います。1対1で週に1回話して下さったシスターは、ずっと高Ⅲの担任をして大学でも英語と宗教を教えておられる卒業生のシスターでした。(中高の同窓です。)以前にも書きましたが、私にテキストを見せずに、延々とお話をして、「メモ(ノート)をとらなくてもいい」とおっしゃりながら、メモをとらせずに中学生がどれくらい理解できているか、試されていたような感じはありました。

 次回のお話の初めに「前回はどのようなお話をしましたか?」と必ず聞かれるので、お話が終わった後、帰りの電車の中で、思い出したことのすべてをノートに書きとり、帰宅してから、清書していました。その時にカトリック用語の漢字や意味が分からないものを、家にあるブリタニカなどの百科事典を読んだり、後日学校の図書館でカトリック事典を見たりして、調べる必要がありました。調べてまとめながら、シスターが話された内容を反芻していたようなところがありました。

 こういうやり方は、やる方も聞く方も向き不向きがあると思いますが、私にとっては、毎回待ち遠しかったです。

 私が何か質問をすると、すぐに答えを出されないで、次週に本を渡してくださることも多かったです。

 たった一つ、私が不満だったことがあります。それは、中2の後半のある回から、「これからは旧約聖書のモーゼ五書を少しずつお話したい」と言われて、毎回通常のカトリック要理プラス20分くらい時間を取って アブラハムから始まってイザク、ヨゼフ…と話は進んでいきました。中2の社会科では日本史と世界史の概略を学びます。中東やヨーロッパの古代史はすでに学習済みなので、カルデアのウルというと、あのあたりだなと分かり、BC何百年くらいと言われると、誰の時代だなと分かるようにはなっていました。鳥瞰図の聖書地図や聖書年表はシスターはお持ちで、それを見ながら毎回興味深く聞きました。

 私が質問すると修道院所蔵の本を何でも貸してくださるので、ある時、「シスターが話してくださることが書いてある本物の旧約聖書を読みたい」と言いました。あの分厚い、一般書店には売っていない、バルバロ訳の旧約聖書を、もしかしたら貸してくださるかもしれない、と思いました。

 ところが、「中学生が旧約聖書そのものを一人で読むのはまだ早すぎる」と言われました。バルバロ訳の新約聖書はすでに学校で個人に配られていて、宗教の時間には使用し、平日のミサの時には持っていっていました。また、毎週木曜日に、次の主日の朗読箇所(書簡と福音のみ)を読むグループを中2対象で別のシスターがなさっていて、それにも私は出ていたので、「聖書そのものにはすでに親しんでいる…」と言ったのですが、「旧約聖書は信仰の書として価値の高いものだけれども、中学生が指導者なしで読むと興味本位に理解されたりすることもあり、私は勧められない…」と、絶対ノーだったのです。「でも、学校の図書館には[禁帯出]ではあるけれども、多数置いてあります」とか、少し抵抗したのですがダメでした。

 その翌週、布の装丁のサック付きの立派な本を持ってこられました。タイトルは『旧約聖書物語』犬養道子 文。この本は現在も3000円くらいで新潮社から1977年版として売っているようですが、私がお借りしたのはそれよりも数年前のことです。~物語というのが、本物ではない子ども向きダイジェスト版のようで、がっかりしたのです。

 今となっては、そのシスターの言っておられたことはよく分かります。

 さらに、すぐに与えられるよりも「待て」と言われる方が、人間は読みたいという意欲が持続するものですね。そこまでのお考えはシスターにはなかったと思いますが…。

 私には、シスターが祈って祈って私のために時間を割いておられていたことは分かりました。だから、その誠意に私も応えなければならないだろうという意識はありました。


 そのシスターがテレジア様だったのです。ただし、大テレジアなのか小テレジアなのか、当時はお聞きすることはしませんでした。シスターの個人的なことは、聞くべきではないというような空気がありました。シスターは聖域の人で、この世の人ではないというような実感がありました。私が洗礼を受けて、霊名を聞かれたので、答えて、「シスターのテレジアはどちらのテレジアだったのですか?」とお聞きして初めて、アヴィラの聖テレジアであったことがわかりました。洗礼名と堅信名は別にお持ちで、テレジアは修道名だったそうです。大学卒業が確定した、学生の時に修道院に入られたそうです。

 アヴィラのテレジアが修道名だとお聞きしたごく最近に、「小学校が四ツ谷の雙葉で、神戸に引っ越しして中高が神戸海星女子学院で、大学が聖心女子大(大学院は上智)で、修道会を選ぶ時に、サンモール会にも聖心会にもよくしていただいたけれども、特に聖心女子大在学中に修道会に入ったので、聖心会は身近だったけれども、中高のマリアの宣教者フランシスコ修道会に魅かれた」と。
 
 やはり、中高で受けた教育が大きかった、「心の故郷」だとおっしゃっていました。

 私もそうです。中高で受ける教育(中等教育)というのは、大事ですね。もっともその基礎に、初等教育があり、そのまた基礎に家庭教育があるわけですが…。

 このシスターに教えていただいた後、2年間(中3と高Ⅰ)別のシスターに1対1でカトリック要理と今度は聖ルカ福音書を習いました。この方もテレジア様です。どちらのテレジアなのか、洗礼名なのか修道名なのかまだお聞きしていません。

 昔のカトリック校や修道会やシスターというのは、ベールに包まれていて、それが魅力でもありました。閉鎖的と批判する世間の人には言わせておけばいいという感じでした。その姿勢が、また強くて、すがすがしかったです。全部知ってしまったら、奥ゆかしさが感じられなくなるということもありますね。でも修道会やシスターというのは、あちらはヴェールで覆われているけれども、こちら(児童・生徒・家庭)のことは、しっかり細部まで知りつくされているというところが、すごいところだと思いました。心の奥底まで知りつくされている感じはありました。

 人数が多くなってくることは喜ばしいことですが、また反面色々気をつけなければならないことも出てきますね。お子さんが増えるということは、大人が常に、子どもの目にさらされているということですから、大人が自戒しなければならないと思います。話題、態度、行動などなどです。今は親に連れて来られていても、成人になって、どう育つかですから…。それは、私達、さらされている大人にも原因があり、責任がありますから…。人間の集まりですから、絶えず心がけるべき点は、注意しなければならないと思います。

 小野田神父様も、ご体調に気を付けられますように。フィリピンでは新学期が始まっているのですね。どうぞ、悔いのないように、ご活躍ください。お祈りしております。

 それでは、来月を楽しみにしています。どうぞお元気で。

【お便り】
+主の平安、そしてアヴェ・マリア!

小野田神父様、いつも私たちのためにお働きくださりありがとうございます。

ブログに、

「私たち聖ピオ十世会が、何故に、カトリックの歴代の教皇様たちの教えを守り続けているのか、何故聖伝のミサを守り続けているのか、何故昔のままの叙階式を守り続けているのか」

とお書きになっているのを見て、最後に叙階式のくだりを付け加えられているのが分かりました。

今後もぜひ続けてくださればと存じます。

それでは、小野田神父様がに絶えざる御助けの聖母と秋田の聖母の豊かな御取り次ぎがありますように。

【お便り】
小野田神父様

フェレー司教様の説教も興味深く読みました
やはり長期戦覚悟ですね
問題はそう簡単ではないですから
SSPXは決して妥協せずにいってもらいたいと思います

外国に比べると日本でせっかくミサがあるのに
聖伝がいまいち盛り上がらないようなのも残念です
でも学士会館でミサを始めたときよりはずっと定着してきています

これからもお体お大事に


【お便り】
アヴェ・マリア。小野田神父様、最近のカトリック新聞の聖ピオ十世会についての一方的な、偏見を助長するような記事の内容といい、フェレー司教様のお話の中にも、又今日の小野田神父様のブログの中にもある、カトリック教会内にある不従順の動きについて、悲しく思うと共に、私は私の兄弟親戚たちに、イエズス様が『時のしるしを見分けなさい。』とおっしゃったように、目を覚ましてもらうために、是非、フェレー司教様のお話や、神父様のブログを印刷して、読ませてあげたいな、と思うのです。
小野田神父様もこのような情報を、私達、聖ピオ十世会のメンバーだけに伝えたいと思っていらっしゃるわけではなくて、本当は善意あるカトリック教会のすべての人に、伝えて正しい判断を、してもらえるようにしたいと思っていらっしゃることと思います。彼等にはそれを伝えてくれる人がかけているのです。
私たちは私たちだけが救われたら其れでよいのではなく、できる限り多くの人を、本当の聖伝のカトリックの信仰にみちびかなければ、かみさまからタレントを土に埋めておいた人と同じように扱われてしまいます。
それで神父様に御願いします。どうか、神父様のブログから印刷できるようにしてくださいませ。何かそれが出来ない理由がありましたら教えてくださいませ。
神さまからの祝福とお恵みが、小野田神父様と聖ピオ十世会と、善意あるすべての人々の上にありますように。
祈りのうちに。デオ・グラチアス。

【お便り】
+ アヴェマリア

暑い日が続きますがお元気でいらっしゃいますか

神父様に報告があります
報告しようかどうか ずっと迷っていたのですが
メールにするにも 口に出すにも恐ろしくて教会の誰にも話せなかったのですがこれはどうにも メールなどで報告しなくてはならないと考えました。

今回のメールを送信するにあたって、なんども迷いました。
長いメールを送って すみません

実は(時期既に遅しなのですが)
今春、まさに東日本大地震が起こる6日前、ひどい映画が公開されました
ネットで見る限り、3月5日公開の映画でした
日本の子どもたちが 大好きな ドラえもん でした
聖書の冒涜でした

こどもの映画に こんなひどい内容・・と絶句し
子供たちは 映画嫌いになりました 

(映画のあらすじ(我が家編) もう二度とみたくないので、多少間違いがあるかもしれません)

 ロボットのアダムとイブ(映画中ではロボットの アムとイム)は神様に作られたものであった。
 これとは別に、普通の人間はずっと勝手に悪事を働いていた。
 ロボット軍団は人間を奴隷にすべくやってきた
 最終的に、ロボットを作った神様(と呼ばれていた人)は、人間のオジサンで、しかも、ロボットに組み込んだコンピュータープログラミングをまちがっていた。神様は存在しなかった 
コンピュータープログラミングを間違えていたロボット作成者のオジサンは、老衰で死んでしまったため、主人公「のび太」は タイムマシンに乗って
アムとイムを最初から削除することによって、地球に自由と平和が戻ったという内容
(あらすじおわり)

あまりにひどかったので、この映画を見た3月以降、我が家はドラえもん禁止となりました。

5月以降、秋田巡礼のとき、神父様に「テレビ番組は良くない」と教えていただいたので、それ以降、NHK語学番組以外、テレビは封印されています。・・・
いつも ご指導ありがとうございます

日本が大好きですが、日本を憂いています。聖ピオ10世会にたどり着いてよかったです。聖母のみこころのうちにとどまることができますように

【お便り】
+AveMaria

小野田神父様、

ガラレッタ司教様の、「信仰と愛のどちらかを選ぶのではありません、その両方を抱擁しなければなりません!」 拝読いたしました。

美しいお説教を UP して下さり、本当に ありがとうございます。訳してくださった方にも感謝です。

特に後半が、すばらしい!
叙階式のために、これほどすばらしいお説教を聴いたことが無いというほどです。

前半の 教義的議論の確かさも さすがなのですが、
司祭として、それ(信仰の教義)を人々に伝えるために、愛をもってする、ということ、愛がなければ、正しい信仰を持つ司祭が、いくら言葉を並べてみても、人々の耳の鼓膜は振動するでしょうが、心には何も響かないということ、人々の霊魂に、信仰の恵みを届けるためには、愛が媒体となるということを、よくよく 理解させていただきました。

『この愛の業は、謙遜を通して、屈辱を通して、従順、忍耐、御受難、死、それどころか御自分の敵を十字架上で赦す事を通して成し遂げられました。その全生涯に亘り、私たちの聖主はファリサイ人たちに真理を認めさせると共に、彼らに救いと赦しを提供する為にありとあらゆる可能性と手段を御利用になったのです。この模範こそが、全く単純に、私たちの従わなければならないものなのです。』

あ~、ガラレッタ司教様もすばらしい!

マリア様について、『人類の共贖者であって、全ての恵みの仲介者なのです。』 と仰って下さっているのも嬉しいです。

この記事のために、コメントを投稿しようと書き始めましたが、長くなりましたので、メールにしました。 ^^

お忙しい中、ブログの更新 ありがとうございます。
いつも、拝読しております。

お祈りの内に


【報告】
+ アヴェマリア!

いつも ご指導ありがとうございます。
今日は、主日ですので、先程まで教理の勉強とロザリオをしてきました。
ブログにも、コメント欄に、報告しましたが、6月及び7月のロザリオ報告致します。

6月 639環
7月 583環    小計 1222環

学校の ロザリオクラブの分も含まれています。先生、シスターにご了解していただいています。
個人別統計は、とっていませんでした。
日別統計は とっています。

システムがよくわかっていなかったため、5月以前は、聖母に直接お捧げしていたというかタリーチャートをつけていませんでした。
今後もよろしくご指導ください。




+ + +


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次

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生命と家庭に関する天主の掟が尊重されるため:現在10290環のロザリオが集まりました

2011年08月07日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大変遅れてしまいましたが、生命と家庭に関する天主の掟が尊重されるため、フィリピンにおける「出産健康法」が廃案となるためのロザリオの報告をご紹介いたします。愛する兄弟姉妹の皆様のご協力を深く感謝します。

 2010年11月1日から2011年8月1日までの分として、生命と家庭に関する天主の掟が尊重されるため、フィリピンにおける「出産健康法」が廃案となるため:2011年8月7日現在日本から、総計
 ロザリオ 10,290 環

 の報告を頂きました。

 フィリピンでの総集計は2011年8月6日現在、689,947 環が報告されています。日本のあらたに報告された分(2091 環)を付け加えてロザリオ 692,038 環になりました。愛する兄弟姉妹の皆様に深く感謝します。

 次回からは、フェレー司教様が起動させた第4次ロザリオの十字軍の報告をいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【お便り】
十主の平安
アヴェ・マリア

神父様の御病気、早く良くなられますように祈ります!

とても遅いのですが、3月20日(主日)の御ミサベネディクション御聖体顕示
の時の御報告をさせて頂きます、16名の信者が与りましたと思います、不確かで申し訳ありません。東京の信者さんが4名でしたと思います、少人数でしたので、とても勿体なかったですが、与りたくても与れないご事情の方々もおられますので、きっと、素晴らしい御恵みの溢れから、御恵みを頂かれておられるのでは、と思います。

パウロさんが東京から、11月から毎月、侍者を御勤め下さいます為と、神父様方の御世話をなさってくださいます為に、いらして下さっておられます!本当に本当に、有難く!嬉しく!感謝しております!

汚れなき御心の聖母マリア様の御聖堂は本当に本当に素晴らしく、3日間の、聖伝ミサベネディクション長い時間の御聖体顕示本当に、とてもとても御恵みに満ちました、素晴らしい、荘厳な、夢のような3日間でした!

天主様に感謝致します!!
聖母マリア様に感謝致します
聖ヨゼフ様に感謝致します
クチュール神父様に感謝致します


フィリピンの悪法の消滅の為の聖なるロザリオの追加のご報告を致します。
家族で、1月17日~3月31日までで、約583環です。
来月に、又御報告させて頂きます。

【報告】
主の平安。
アヴェ・マリア、3月分のロザリオの報告をします。
フランシスコ 31環
モニカ 31環
テレジア 176環(すくなくとも)

神様からの祝福とお恵みと平和がありますように。祈りのうちに。デオ・グラチアス。

【報告】
アヴェ・マリア!

勝利の聖母修道院長
トマス小野田神父様

フィリピンのロザリオのご報告をさせていただきます。
3月15日~3月31日10時(日本時間)
私と子供あわせて33環でした。

東北関東大震災で、母方の伯母だけがひとり残念ながら行方不明ですが、他の親戚は皆、無事であったようです。
伯母は天国へ行ける方ですので、すべてを天主様へ委ねます。

天主様の祝福が豊かにありますように!

【お便り】
フランシスコ・パウロさんから救援へおいでの方々へのメッセージです。

 皆様の御報告を拝覧いたしました。私の義理の息子は警察庁の事務官ですが、人手が足りなくヘリで南相馬へ派遣された警察救援隊の心のケアーに出ました。ほとんどが若い方たちで相当な精神的限界に近い状態のようです。人の姿をとどめていない被災者の身元確認はせいぜい二日が限度のようです。霞ヶ関に戻りましても次の派遣命令に二の足を踏む様子だそうです。息子も家に戻りまして酒浸りです。主の御受難を思い、祈りたいのですが祈りの言葉が出ないのです。我が家のファティマの聖母像が災害のあった東の方角へ極端に向き倒れました。無言の主イエズス、われらの罪を許したまえ・・・悲しみにある人々に慰めを。

【報告】
アヴェ・マリア!

勝利の聖母修道院長
トマス小野田神父様

フィリピンのロザリオのご報告をさせていただきます。
4月1日~4月13日10時(日本時間)
私と子供あわせて21環でした。

天主様の祝福が豊かにありますように!

【お便り】
主の平安。小野田神父様、27日に腎臓の石を粉砕する手術なさるそうですが、30日からの秋田巡礼に、本当に来られますか?
パウロさんが、7年程前に同じような手術、経験なさったそうですが、麻酔も効かないほどの大変な苦しみだったとおっしゃっています。それなのに、その3日後にフィリッピンから飛行機を乗り継いで秋田まで来るなんていくらなんでも無茶ではないでしょうか?どうか無理なさいませんように。私たちだけでも十字架の道行きをしたり、ロザリオをくることは出来ますからね。お身体大事にしてくださいませ。
私も35年前、子供を生むときには、大変な思いをしました。お産の後、ガラシア病院には当時、麻酔科のお医者さんがいなかったので、麻酔なしで21針縫われたのですが、お産と同じくらい大変でした。シスターの助産婦さんがそばにいて、少しでも私が「ヒィー」と声を出しそうになったら、「お母さんになったんでしょう、これぐらい我慢しなさい。」ってしかられるので参りました。
小野田神父様の石を粉砕する手術も、終わればもう本当に楽になるとパウロさんはおっしゃっていますので、お産みたいなものなのかもしれません。
がんばってくださいね。私たちもお祈りしています。神さまからの祝福とお恵みが小野田神父様の上にありますように。祈りのうちに。デオ・グラチアス。

【報告】
Onoda 神父様、
ごふっかつさいは 天主様の祝福が豊かにありますように!
4gatsu no rosario ban wa 110 rosario to 3 decades desu.
4gatsu no saigo no made ni intention wa "against RH bill" datta node.

【報告】
アヴェ・マリア!

勝利の聖母修道院長
トマス小野田神父様

フィリピンのロザリオのご報告をさせていただきます。

4月14日~5月7日22時(日本時間)
私と子供あわせて33環でした。
小野田神父様に天主様の祝福が豊かにありますように!

【お便り】
修院長様。
主の御復活のお慶びを申し上げます。

 修院長様は本当に久しぶりの日本はいかがでございましたか。
美しい風景と、日本語しゃべりまくり、日本食食べまくりをなさいましたか。
結石の治療の後でございましたが、少しはリラックスなさいましたでしょうか。
御ミサ、講話、聖務日課、ベネディクションなど、皆様も祝福された日々をお過ごしになったと存じます。マリア様は日本に素晴らしい巡礼地を与えて下さいました。私は今年も巡礼に行けませんでしたので、その残念な思いをお捧げいたしました。
ブログで拝読しましたが、お恵みに満ちた日々を知り、私も幸せでございます。
又、二人の方々が洗礼を受けられた事も素晴らしいお恵みでございます。
評価を絶する賜物を天主様は今年も下さいましたね。

 3.11 地震の後の自粛ブームで、観光地は今まで程は混雑していないと聞きましたが、秋田はいかがでございましたか。こういう時だからこそ、巡礼に行って祈り、お金を使う事が必要でございますね。

 また、5つのスカプラリオの着衣式をしていただいて感謝しております。
去年、修院長様から5つのスカプラリオをお聞きして、アメリカから輸入しました。
このスカプラリオは素晴らしい信心だと思い、信者の方々にご紹介申し上げたら、すぐに広まりました。今までに37個ほど注文いたしました。
このスカプラリオの製造元の方は、おそらくNovus Ordo の信者ですが大変良い方なのです。このお話は又次の機会に致します。

 お忙しい巡礼の後でございますが、修院でお休みになりましたか。
結石の予防には水を飲む事が良い、といいますが、水は少量ずつ何回も飲む事が良いそうです。また、水を飲む事はリラックス効果があるそうです。
私も牛乳とトーストの朝食の後、冷たい水をマグカップ2杯飲むのですが、確かに水を飲んだ後はリラックスしたような気がします。
又、子供は癒しであると聞きました。修院長様は校長先生でもあられますので、リラックスの為にお時間を見つけて子供達と遊んであげて下さい。
私も、血を吐くほど嫌な思いをしても、子供達と遊んだ後は癒された経験がございます。

 メールと御ミサでお会いできる日を楽しみにしております。

【報告】
アヴェ・マリア!

勝利の聖母修道院長
トマス小野田神父様

フィリピンのロザリオのご報告をさせていただきます。
5月8日~5月23日12時(日本時間)
私と子供あわせて16環でした。
クチュール神父様の御ミサは子供の関係で残念ながら出られませんでした。
来月こそ与れるように準備をいたしたいと思います。
小野田神父様が今度みえるのはいつでしょうか。相談に乗っていただければ幸いです。小野田神父様に天主様の祝福が豊かにありますように!

【お便り】
トマス 小野田 神父様

 ブログを拝見しました。腎臓に3つも石を持っておられたとは…!
 精密な検査を受けられて、治療に専念なさってくださることを心から希望します。
 ふだんから、盲導犬のハーネスではありませんが、いつも司祭・修道者の服装をされて、暑い熱帯におられて、3つの重責(主任司祭・修院長・学校長)を課せられて、超多忙なご生活…、また常に人目にさらされ緊張感のあるご生活なのだと思います。そういう生活状態では、痛みとか症状というのが、なかなか自覚されにくいのではないかと思います。

 私事ですが、忙しく社会で仕事をしていて、私生活がなかったころや、子どもが小さくて一日中振り回されていた時代は、どこが痛いのか、熱があるのか、空腹なのか、食事をしたかしなかったかさえ忘れるほど、自分の身体に無自覚でした。朝起きたら、あっという間に夜が更けて、充実はしているけれども、とにかくやらなければならないことに追われていた時期は、自分の身体のことなど、何かあると言われればそんな感じもし、ないと言われればそんな感じもし…という感じでした。
 私の場合は、それは、20代30代の頃でしたが、神父様はお若いですが、やはり40歳を超えられたら、ご自分の健康にも留意しなければならない時期に来ておられるのでしょうね。

 書かれているように、早く見つかってよかったです。日本でも韓国でもフィリピンでもよいお医者様にかかられて、良い治療をお受けになってください。

 お母様のこともご心配でしょうが、そこはお父様を信頼されて、とにかくご自分のお身体の治療に専念なさってください。

 お仕事のいくらかを力強いスタッフの方に思い切って任されて、休養の時間をとられることはできないのでしょうか。

 どうぞお大事になさってください。
 場合によっては、日本でのミッション計画を大幅に変更されてもいたしかたないと思います。御無理をされませんように。

 たかが風邪ですが、風邪から肺炎になって命を落とす、風邪から大腸炎になって命を落とすこともありますから、十分休養なさってください。お医者様のお勧めのように、十分水分をお取り下さい。
 小野田神父様とお母様のことも共にお祈りしております。


【お便り】
アヴェマリア

もうご存知かもしれませんが、日本からの国際線の料金が軒並みあがっているそうです。なんでも日本からフィリピンへの料金が3倍ぐらいになっているそうです。
4月のミサの帰りの便は要注意です。チエックしておいたほうがいいです。
秋田巡礼は中止したほうがいいとの意見もありました。

あとは放射線の問題ですが、政府の発表はあてになりません。被爆は覚悟したほうがいいです。

祈りのうちに。

【報告】
トマス小野田圭志修道院長様
十主の平安

アヴェ・マリア
遅くなりました、聖なるロザリオのご報告です♪
以前、御伝え致しておりますが、フィリピンの「悪法」の消滅の為の意向の分を、4月に皆さまにお願いしまして、ご報告いただいておりますので、その分も、ご報告させていただきます、ややこしいのですが、集計の方法は、
聖神父様に御任せ致します、どうぞ宜しく御願い致しますm(__)m

     4月1~23日まで       4月24日~5月31
                             フェレー司教様の御意向の為      フィリピンの悪法消滅の為   
*シスター      69環            114環
*ヨゼフマリア    46環            72環
*ヨゼフ       46環            114環
*マリア       59環            122環
*マリア     0環(覚えていないとの事で(T_T)) 15環
*マリア      26環             42環
*テレジア    102環            164環
*マリア      35環             60環
*マリア        0環            38環
*マリア      50環             80環
*マリア       28環           198環
*アンナ       20環            38環
*マリア       34環            19環
以上です、どうぞ宜しく御願い致します。
ややこしくて、申し訳ありません。

【お返事】
 いつもありがとうございます。第4次ロザリオの十字軍として、561環を別に集計させていただきます。天主様の祝福が豊かにありますように!


+ + +


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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スリランカのコロンボ大司教区のウェブ・サイトによるオリサでの迫害のちょうど一年後にあったゾウの攻撃

2011年08月04日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会アジア管区長のクチュール神父様がインタビューの中で、スリランカのコロンボ大司教区が発表しているインドのゾウの話を紹介しています。

 ところで、このスリランカのコロンボ大司教区のウェブ・サイトの該当ページを翻訳して下さった方がおられますので、深く感謝しつつ愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
(日本が放射能の危険のない安全な国土になることを祈りつつ、原発の代わりになるエネルギーが一日も早く日本に定着することをこいねがいつつ)


オリサでの迫害のちょうど一年後にあったゾウの攻撃 ELEPHANTS ATTACK IN ORISSA  EXACTLY AFTER ONE YEAR OF PERSECUTIONS


オリサでの迫害のちょうど一年後にあったゾウの攻撃
ELEPHANTS ATTACK IN ORISSA
EXACTLY AFTER ONE YEAR OF PERSECUTIONS


 2008年の7月、インドのオリッサ州でひどい迫害が起こりました。バーフガーフ地区クフントパリ村に怒り狂った暴徒が押し寄せ、孤児院を焼き払ってしまいました。そのとき、22才の修道女は火あぶりにされました。またある修道女はカンダハマルで集団暴行を受けました。暴徒は教会を攻撃し、自動車に火を放ち、キリスト教徒の家を壊しました。トマス・チェレン神父様は、爆弾で破壊された布教センターの所長でした。神父様はヒンズー教の暴徒により火をつけられかけましたが、なんとか九死に一生を得ました。これらの結果、殺害された信者は500人以上、負傷者及び家を焼き払われたことによりホームレスとなった者の数は数千人に及びました。最近、不思議で劇的な出来事がオリッサ州で起こりました。多くの人はこのことについて語り合い、不思議がりました。

 ここ数箇月の間、野生のゾウの大群が、混乱の時、キリスト教徒に最悪の迫害を行なった迫害者の住む村々に、嵐のように襲いかかりました。一年前、有る村では、キリスト教徒は、暴動を起こした者によって自分の家が壊されているとき、自らの命を守るために走って逃げなければなりませんでした。一年後、2009年7月、その攻撃を受けたのと同じ日同じ時間にゾウの一群が、村の周りを取り囲むジャングルから、どこからともなく現れました。

このゾウたちは、まず、迫害運動の首謀者が所有している岩石粉砕機を攻撃しました。それから、彼の家と農場を壊しに行きました。

 数百人の村人が野生のゾウの継続的な攻撃により、オリッサ州の避難所生活を強いられることになりました。

 カンダハマル地区では、最近数週間の間にも、12~13頭のゾウの群れに攻撃され
7名が死亡、このほか数人が負傷しています。

 地区長のクリシュエン・クマー氏によると、45の村に住む2500人以上の人がゾウの攻撃によって影響を受けた、ということです。

 ところでしかし、彼によると、このゾウの一群は、隣接するラクヘリ特別保護区からきたのかどうか、はっきりしないのです。カンダハマルへは300キロメートルほど移動せねばなりませんし、地区にある、市街地を通らねばなりません。自然動物局の職員は、攻撃現場に仮設テントを設営し、どのようにして、ゾウが自然保護区から出てきたか解明しようとしています。村人は、ゾウが大群で激しい破壊を引き起こしながら攻撃したのを見たからです。

勢いづいたゾウは、非キリスト教徒の家を破壊して回り、庭を破壊し、迫害者の家を特定して攻撃しました。キリスト教徒の家は無傷でした。

 この奇妙な攻撃は広がり、ゾウは既に30の村の700軒の家を破壊、5人が死亡したという報告があります。この地区の人々は誰も、ゾウの大群がこのようなことをすることを見たことはなかったし、ゾウがそのようなことをすることを想像することさえできなかったのです。このゾウは普通のゾウではありません。このゾウは、キリスト教布教活動のために現れたのです。

 一般的に、小さいゾウがはじめに村にやってきて、その地域の情報収集をします。それから少し大きなゾウの群れがやってきて、その後もっと大きなゾウがすぐにやってきて、仕事をやってしまいます。

 インドの ministry partner は、次のように述べました。「私たちが思うに、これは殉教者の血の復讐と何か関係があるのかもしれません。事実、神の怒りが現地の人に落ちたのです。現地の人はこのゾウに「キリスト教徒のゾウ」と名を付けました。」

 行政からの援助がほとんどないので、村人は道路を封鎖しました。「ゾウは、農作物と特定の家を破壊しました。」でも、官僚は、援助をしないことを表明しました。「スンダーガーには、ゾウの永住居住区がありません。ゾウは、ビハール、チャッチスガーフ、ジャークハンドなど、ゾウの居住区が狭まってきているところから来ているのです。しかし、どうやって、そしてどうしてゾウがオリッサに到着したのか、明らかになっていません」



オーストリアのカトリック司祭たちはオープンに「不従順への呼びかけ」を開始

2011年08月04日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 300名ほどのオーストリアのカトリック司祭たちは、オープンに教義や規律を拒否し、三位一体の主日(2011年6月19日)に「不従順への呼びかけ」(AUFRUF ZUM UNGEHORSAM)というウェブ・サイトを開始しました。それについて、聖ピオ十世会のアメリカ管区のウェブ・サイトが記事を載せており、それを日本語に訳して下さった方がおられるので、感謝しつつ日本語訳を紹介します。

 このように助けて下さる愛する兄弟姉妹の皆様のおかげで大変に助かっております。ありがとうございます。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

オーストリアにおける離教の軌跡


 オーストリアにおいて、4200人いる司祭のうち、300名を超える司祭が「不従順の宣言」に賛同し、6月に発起人を送り出すことを宣言しました。その文書を引用します。「ローマにおける遅すぎる教会改革と司教の怠惰について」これを支持する司祭らは、次のようなことを含む宣言文を支持しています。

・言論の自由を基礎とした、すべての典礼における教会の改革がなされるように祈ること
・聖体拝領を「善意を信じる人」にも提供すること。これには、カトリックではないキリスト教徒や、教会外で再婚した人が含まれる。
・「聖体の配布がある言葉の典礼」を、「司祭なしの聖体祭儀」と呼ぶこと。このようにして、私たちは司祭不足の時の主日の義務を果たす。
・説教をするのは聖職者だけに制限する教会法上の規定を「無視」すること
・司祭のいない小教区では、「男女を問わず」個人のリーダーたちを促進すること
・「既婚者がそして女性が司祭職に着くことが出来るように、オープンに賛成の意思を表明する機会を使う」こと



 「この不従順の宣言は、私にとってショックでした」と、ウイーンのクリストフ・シェンボーン枢機卿は7月7日付の手紙に書きました。その手紙の中で、多くの専門職に就いている職員が不従順を宣言したら「とっくの昔に職を失っていたでしょう」。枢機卿は、司祭が叙階の時に司教に自由意思で従順を約束しましたことを思い出させて、司教様はこう問うたのです。「あなたを信頼して大丈夫ですね?」

 本当に良心に従って階級制度に不従順しなければならないと信じている人々は、その結果として「ローマ・カトリック教会と一致して道を旅することはできない・・従順の原理を投げ出した人は一致を壊している。」枢機卿は「司祭なしの聖体祭儀」などその「非論理」を指摘しています。



 このニュースについての私たち聖ピオ十世会アメリカ管区のコメントです。ヨーロッパで起きていること、オーストリアとオランダの状況は私たちを脅かすものです。しかし、アメリカでも既に似たようなことが起きています。例えば、ウィスコンシン州グリーンベイの司教は、最近、ある活動的な修道女を、小教区の管理者かつ典礼指導者かつ、特別聖体奉仕者などに指名しました。そして、司祭不足のため、このシスターは2つの小教区を担当することになりました。司祭たちは、他の秘跡が提供されているか確かめに、その教区に時々行くだけになりました。これは、普通のカトリックの小教区の生活の様相を一変させるかもしれない前例を作りつつあります。さて、この任命には、ローマの了解があったのでしょうか、少なくとも、アメリカ・カトリック司教協議会の了解があったのでしょうか?

 私たちは、あからさまな攻撃を受けている司祭の独身性について、教会の階級制度について、使徒継承の唯一の原理について、対処を迫られています。言うまでもないことですが、私たちは近代主義の傾向という毒素が、教会のいわば血管にゆっくりと注射されていることを気づかされています。今、私たちはこういった革命的な過程の結果について急に証人になっていることに気付かされます。

 これは、ド・リュバック de Lubac がその追憶『Mémoire sur l’occasion de mes écrits』において、不平を漏らしていたこととよく似ています。スクレーベクスやラーナーなどの急進派が世俗化と霊的砂漠化の推進者として「平行公会議(パラ公会議)-- オリンピックに平行するような形で開かれるパラ・オリンピックのように、正式な公会議とは別に準備された「公会議」のこと--」を創り上げていたことに言及してド・リュバックは抗議をしているのです。ド・リュバックとベネディクト十六世の言わんとしているメッセージは明らかです。「昔には戻らない、ただし、本当の公会議はまだ受け入れられていないのでその業を危険にさらしている進歩主義者たちから教会を守る必要がある」と。


 この響きは、デジャブ(既視体験)に似ています。風の強い日に種をまいた人は、今になって、差し迫った嵐に文句を言っています。前衛的な司祭のやりたい放題とは、つまり、第二バチカン公会議があれほど強制的に促進したまさに自由の精神から導き出される論理的結論にほかなりません。

注:

*1 Henri de Lubac, Ed. Culture et verite, Namur 1989, p. 346-347.


信仰と愛のどちらかを選ぶのではありません、その両方を抱擁しなければなりません!

2011年08月03日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2011年6月29日、エコン(スイス)で行われた叙階式に於いてアルフォンソ・デ・ガラレッタ司教様がされたお説教を日本語に訳して下さった方がおられるので、感謝しつつ、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


信仰と愛のどちらかを選ぶのではありません、その両方を抱擁しなければなりません!


2011年6月29日、エコン(スイス)で行われた叙階式に於いてアルフォンソ・デ・ガラレッタ司教様がされた説教


司教様、
そして親愛なる神父様方、
親愛なる叙階候補者の方々、
親愛なる兄弟の皆様、

 私たちはこの年に再び、助祭職と司祭職を授ける為、またそれを通して本会が持つ召命及び使命の遂行の為に、ここ聖ピオ十世司祭兄弟会の母体なるエコンの神学校に集っています。信仰とカトリック教会の存続を保証する為、カトリック司祭職を伝え、守り、それを生きる事が問題となります。

 司祭は Alter Christus、つまりもう一人のキリストです。彼は in persona Christi、即ちキリストの位格<聖三位一体の第二の位格>に於いて行動します。ですから、実に私たちの間にあるキリストの司祭職なのです。私たちの間にあるキリストの現存なのです。司祭は私たちの聖主の御託身と、その御生涯、教え、聖成の恩寵、さらに贖いが持つ様々な利益の継続を保証してくれます。その上それは不可欠なのです。この危機‐信仰の危機と公教会の危機‐を通して、自分たちの置かれた状況、特に聖なる公教会の状況から距離を置きそれを無視する事が私たちには出来ないのは明らかです。正直申しますと、本質的なところは何も変わっていません。本質的なところは、何一つ変わっていないのです。

自由主義は、カトリック信仰と1789年思想との和解を試みる

 ルフェーブル大司教様は私たちの時代と社会の悪、また何よりも公教会内に存在する全ての悪を完全に理解すると共にそれを明らかにして下さいました。この悪は全く単純に自由主義と呼ばれます。それこそがこの和解、つまり公教会と世俗、またカトリック信仰と自由主義原理、さらにこの、カトリック宗教と1789年に生まれたあの思想との和解の試みなのです。全てはそこにあります。全ての問題はそこに横たわっているのです。残りの全ては、第二バチカン公会議と当局によって為された、フランス革命から生じた世界に対する、つまり自由主義世界に対するこの適応の正当化を目的とする現代神学の、理論的で、捕らえ難く、極めて複雑な立証でしかありません。

 そこで私たちは、当時ラッツィンガー枢機卿だった方による幾つかの発言を引用したいと思います。その中で彼は簡略かつはっきりとそれを正確に言明しているのです。忠実さ及び正確さに配慮して私はそれを皆様にお読み致します。かなり短いものです。

「公教会と世俗の関係の修正を求める要望に関して第二バチカンは正しいものでした。仮に公教会の外で生じたにせよ、 [世俗に対する] 公教会の展望には‐もし浄化と修正を受けるならば‐その地位を見出せる価値観は実際に存在します。」(ラッツィンガー枢機卿とヴィットリオ・メッソーリ(Vittorio Messori)、『信仰について』)

「60年代の課題とは、二百年に亘る自由主義文化により表現された最高の価値観を獲得する事でした。」(ヴィットリオ・メッソーリとのインタビュー、1984年11月発行の月刊誌Jesus掲載文、p. 72。)

 現教皇のベネディクト十六世は、ラッツィンガー枢機卿<時代>同様、現代世界憲章 Gaudium et spes が「公会議の遺言書」である理由を説明しています。彼は当憲章の意向と特色を次の言葉で表現しているのです:

「この[文書]全体の分析を提供する事が望ましいならば、(信教の自由と世界の諸宗教に関する[当文書]に関連して)それはピオ九世による シラブス の修正、つまり . . . . . 対立シラブスであると言うでしょう。この文書は反シラブスとして役立ちますし、1789年に幕が切って落とされた新時代との公教会による正式な和解の試みを象徴するのです。」(ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿、カトリック神学の諸原理<Principles of Catholic Theology>[イグナチオ出版、1987年]、pp. 381-382)

 今引用したものは非常に分かり易い文書と発言です。これは根本にまで及び、権威ある決定的な重要性を持つのみならず、これらの文書を分析するという面倒を私たちに掛けないで済ましてくれる自白なのです。もし彼ら自身がそれはこうですと告白するなら、もはや私たちにはそれを分析する必要性などありません。第二バチカンは、完全にカトリック宗教、つまり公教会の信仰と、自由主義、つまり革命及びフランス革命原理との和解であるどころか‐教皇様が別のところで述べておられる様に‐信仰の思想と啓蒙思想との和解なのです。以上の発言は幾つもの不名誉と噂話をもたらします。

 先ず初めに‐これについて納得するには、公会議後の教会に目を向けるだけで十分なのです!‐これほど自然及び超自然の秩序の双方にたっぷりと影響を与える価値観が存在し得るのでしょうか、また何故これらの価値観が公教会の外で生じ得るのでしょうか? そうなると公教会は真理の保管所ではないのですか? カトリック教会こそが真の教会ではないのでしょうか? さらに真理は、歴史や時勢、さらに文化や場所に翻弄されて発展して来たのですか? 公教会の外で生じた価値観があると言う事は適切ではありません。数十年も前に、<英国>作家のチェスタートンは、フランス革命思想は常軌を逸したカトリック思想だと言っていました。そして私たちにはもっと正確に、この思想は不当なやり方で自然の秩序に置き換えられたカトリックの諸真理、つまり、超自然の秩序に於いては、ある程度まで真実でありながら、あからさまに自然の秩序に置き換えられた思想である、と言えるのかも知れません。

 もしも第二バチカン公会議が本当の意味で自由主義の価値観を取り入れ、それを修正し、浄化し、また修正したとしても、これらの価値観はキリスト教の歪められた真理なので、全く単純にカトリックの絶えざる真理だけを再発見したことでしょう。自由主義というものは、その起源に関して言うなら、キリスト教の、つまりカトリックの異端なのです。

 一方で、教皇たちによる、二百五十年に亘る、不変の教導権がこれらの想定される「価値観」を排斥した時、つまり教皇たちが卸売りと小売りとを排斥した時期に、この和解を試みるのはやはり向こう見ずな事でした。この様な和解の可能性のみならず、この様な和解を宣言する必要性さえ排斥されたのです。これはシラブスであり、そしてこれはピオ九世なのです。

 今皆様は公会議が持つ様々な原罪を経験しています。非常に頻繁にそれは私たちの目前に教導権と教会当局を提示します。しばしばそれは、たった一つの彼らが持っている論拠でしかありません。ただ一方で、彼らは二百五十年に亘る教導権を取り除き、正確にこの教皇たちが前もって排斥された事を行う事から始めます。それは向こう見ずを通り越しています。


 次に彼らは世俗、つまり天主から遠く離れ、この天主と対立する世俗との和解を探し求めるのです。世俗を御覧下さい、どんな種類の世俗かを理解するには見回すだけで十分ですよ。今となっては聖書は非常に明快なものです。聖ヨハネは私たちに説明してくれます:「世にあるもの全てとは、肉の欲、目の欲、そして生活の驕りだからである。」(ヨ第一 2:16)さらに使徒聖ヤコブはキリスト教徒たちに言います:「姦通者よ、この世の友が天主の敵であると知らないのか? 従ってこの世の友となる者は皆、天主の敵となるのだ」(ヤ4:4)

自律の精神は人間の神格化へと導く

 最後に、一体何が自由主義思想の本質、それとも趣旨、又は核心でしょうか? 教皇たちを初めとして、十九世紀と二十世紀の偉大な著作家たちは既にそれを完全に言い表しました。それは先ず第一に自然主義であって、云わばそれは超自然の秩序や天啓、恩寵の否認でありまして、その結果としてこの<自然の>秩序に位置する公教会とキリスト、さらに天主の否認なのです。首尾一貫した自然主義は、究極的に無神論へと導きます。また共産主義はその点で私たちにこの事を思い起こさせるのです:このような恐怖は人類史上今だかつて経験されたことはなかったと。第二に、それは独立と反抗の精神です。あらゆるものからの独立、それは真実からの理性の独立や、善に対する意志の独立、天主と権威からの人間の独立であります。そして第三に、人間の神格化です。既に聖ピオ十世はこれを指摘しています:人間は自ら天主に取って代わると、神となり栄光と創造を自分自身に<帰されるよう>注文すると。

 この様に彼らは企てたのです。つまり「カトリック信仰と完全かつ根本的に相容れないものでありただ単に自然の秩序、即ち現実に反したこれらの思想」との和解を試みたのです。もちろん、それは和解の試みだったので、彼らはこれらの原理をそれ自体では主張しませんでした。彼らは超自然の秩序を否認はしませんが、それを弱めて自然の部類に入れてしまうのです。

 彼らは公教会を否認しませんでしたが、公教会を世界の奉仕に、そして地上に於ける天の御国を世界と人間中心主義的計画に、要するに依然として自然の秩序にある人類の一致と平和の奉仕者としてしまいました。例えば、そのようなものとして提示されているアシジやアシジⅢを御覧になって下さい。

 彼らはキリストを否みはしませんでしたが、キリストを人間の支配下に置きました。キリストは全ての人間と結合し、彼は人間を人間に啓示し、その恩寵を以って人間を完全な者とする、としました。これが彼らの教えです。

 彼らは天主に対して人間の完全な独立を主張したりはしませんが、客観的秩序を主観的秩序へと変えています。彼らによれば、確かに、客観的に言えば、ある神が存在し、真の宗教があり、真実がある、だから人間はそれを固守する道徳上の義務を持つことだろう、しかしいずれにせよ、何であろうとも、人間は自分の良心と自分の信じる真理に従う事を通して、それもとりわけ自分の自由を行使する事を通して救われる、何故なら、そこにこそ、人間が持つ侵す事の出来ない存在論的尊厳があるからだ、従来の意味に於ける自由(つまり善に於いて動く自由)ではなく、善と悪との間から選ぶという自由を行使することにこそ、人間は自らの完成と救いを見出す、と言うのです。

 彼らは人間の神性を宣言しませんでした、しかし、ペルソナ主義によって、共通善、それもありとあらゆる共通善を、個々の人間への奉仕のための道具とし、人類学的な逆転を行いました。そして最後に彼らは、普遍的で至上の天主なる共通善をつまり天主ご自身を---- 何故なら天主こそが至上の共通善ですから -----人間の奉仕のためのものとしてしまったのです。だからこそ、人間とは天主が<御自身の為ではなく>それ自身の為にお愛しになる唯一の被造物だと公会議は宣言しました。天主が<御自分の為ではなく>それ自身の為にお愛しになる、と!そして天主は、人間が天主に帰する栄光の内にではなく、人間の栄光の内に、つまり人間の賞賛の内にのみ御自分の栄光を見出すというのです。

 そうなると、私たちは自由主義者や人間中心主義者、そして革命論者たちと同じ目的を持つことになります。もう問題は無いことになります。私たちは皆、人間の栄光化を求める事で天主の栄光になることでしょうから。彼らの神もまた、人間の栄光により満足させられて完成されるのです。それ以外の何物でもないのです!

現代の悪を癒す為に「全てをキリストに於いて復興する事」

 以上が、この和解がどれほど不可能かということです。彼らはこの原理を適用し、それが持つあらゆる結論にまで至りました。ルフェーブル大司教様は私たちにこう言いました。彼らはキリストから王位を剥奪した、と。
 そうです、彼らは神権、天主の権利、つまり私たちの聖主の至上権と王権とを組織的に無視したのです。彼らは人権を擁護しています。それは人間の権利の宣言による、天主の権利の拒絶です。彼らは良心の自由や、思想の自由、罪を犯す自由、さらに宗教を実践する自由や信教の自由で、天主御自身とその権利に於いて私たちの聖主から王位を奪いました。実際に聖主は王位を剥奪されたのです。その上彼らは、キリストが王ならば、その教会は女王だからという理由から、エキュメニズムを通じて、聖主からその教会に於ける王位を奪う事もしたのです。最後に彼らは、司教団体主義と、究極的にはあらゆる権威の破壊を通じて、聖主からその代理者<教皇>や司教たちに於いて持つ王位を奪ってしまいました。

 以上が、公会議が和解を試みようと用いた思想です。さらに、もちろんですが、今や「和解の和解」が存在します。つまり(ベネディクト十六世の言う)「継続の解釈法」です。さらに聖ピオ十世会のような人々、或いは聖ピオ十世会に属していたけれどもはやそうではなくなった人々で、「和解の和解の和解」を試みている人々もいます。

 しかしそれは無駄な努力なのです。この計画は予め失敗する運命にあります。何故なら、bonum ex integra causa, malum ex quocumque defectu. 善は完全に良い完璧な原因に由来し、悪は何であれ原因に於ける何らかの欠陥に由来するからです。

 ただしここで私たちがお話しているのは根本的な欠陥の事です。何故なら、自由主義思想にある根本的要素は、完全かつ根本的にカトリック信仰に反しているからです。まさに彼らが和解する為に探し求めているものは、相反するものなのです。円を正方形にする事は出来ません。不可能です。想像さえ出来ないものです。それが常識というものです。永遠の都ローマと啓蒙の都パリへと同時に旅行する事は可能なものか、マルティニの方に聞いてみて下さい。(訳者注:マルティニは、スイスのエコンの隣の町でローマとパリとを結んだ直線上のほぼ中心に位置する。)この二つの目的地に至るのに同じ道を選ぶ事は出来ますか、と彼に聞いて見て下さい! スペインなら、それは一本のローソクを天主に、もう一本を悪魔に捧げる事と同じだと人々は言います。使徒聖パウロは程度の差こそあれ次の言葉で同じ事を言いました:「不信仰者と共に重荷を担うな」(コリ後6:14)。何しろ、正義と不正の中間にはどんな組織が存在し得ますか? あるいは光と闇の中間には、どんな和解があり得ますか? そして信仰者と不信仰者の間に? 天主の神殿と偶像の神殿の間にはどうですか? そこで聖パウロは言います。天主の神殿とは公教会であると。となれば、そこにはどんな和解が存在しえますか? 何もありません。

 確かにルフェーブル大司教様はこの悪を正確に指摘されましたが、彼は正確かつ鋭い見識でその解決策を指し示しても下さいました。彼はこの解決策を指摘した。つまりそれは私たちの聖主イエズス・キリストです。もっと正確には、大司祭なるキリストと王たるキリストなのです。司祭職と私たちの聖主イエズス・キリストを除くなら、個人であれ社会であれ、決して救い、贖いは存在し得ません。何故なら、彼はその司祭職と王権の両方を以って御自分の使命を成し遂げるからです。「置かれている土台、即ちイエズス・キリスト以外のものを誰も土台に置く事は出来ない。」と聖パウロは言明します(コリ後3:11)。さらに聖ペトロは、同じやり方で、家造りに捨てられた石が隅の親石となったと話しています。他の陣営には、つまり私たちの聖主イエズス・キリスト以外の人物の内には一切の救いはないからであります。さらにこの世には、私たちの聖主イエズス・キリストの御名の他に、人々が救われ得る他のの名前など一つとしてないのです。(使4:11-12参照)

 エフェゾ人への手紙に於いて、私たちの希望の堅固な礎を聖パウロが作ろうとした時、彼は私たちの聖主を死から蘇らせ、彼を御自分の右側に座らせ、おのおのの権天使、能天使、主天使、座天使を、さらにはこの世と来世に於いて任命され得るもの全てをも同様に御自分の権威下に就かせる事により、御父なる天主が如何に御自分の権威と権勢という力を誇示されたかについて私たちに思い起こさせています。天主はこの世と来世のあらゆるものを御自分に服従させるのです。天主は何一つ御自分の帝国、そして御自分の王権の外に置き去りにしなかったので、oportet illum regnare、つまりキリストは君臨すべきです(コリ前15:25)。ここに於いて、私たちは司祭の、そして司祭職の理想を見出します。即ち、私たちの聖主イエズス・キリストにあらゆるものの基礎を据えて、キリストの内に全てを確立し、全てを復興するだけではなく、私たちの聖主イエズス・キリストに全てを結びつけ、全てを要約し、また彼に向かって全てを配置するという事なのです。

 すべてあなたたちのものである。しかしあなたたちはキリストのものであって、キリストは天主のものである。(コリ前3:23)これが永遠から存在する天主の御計画なのです。それは全てをキリストに於いて復興し、結びつけるという事です。また、彼の司祭職と王権を除くなら、人の生涯は目覚めることのあり得ない悪夢となるのです。私たちには自分たちの生活する社会にいてそれがはっきりと見えますし、そこには真理も聖徳も、そして悲しいかな、救いも贖いも正義も存在しません。今申し上げた事全ては、私たちの聖主を通して、その司祭職を通して、その王権を通して私たちのところにやって来ます:「私は道、真理、命である」(ヨ14:6)。

 従いまして、親愛なる司祭の皆さん、親愛なる叙階候補者の皆さん、司祭の生涯とは、厳密に言ってあらゆる人を、真理であらせられる私たちの聖主イエズス・キリストに、またあらゆる意志を命であらせられる私たちの聖主イエズス・キリストに、そして私たちの聖主イエズス・キリストという唯一の救いの道をあらゆる人々に提供する事なのです。

何故ローマに行くのか?

 もし事態がこのようなものであれば、ある人は私にこう言うかもしれません。では何故これらの方々と接触するのか、そして何故ローマに行くのか? と。 原理として誰も彼らとの接触を一切すべきではないと思われる、と。

 よろしいですか、しかしそれは全く反対です。つまり原理として、私たちは接触すべきですし、ローマにも行くべきなのです。それから、言うまでもなく賢明<の徳>は状況を判断すると共に、ある特定の場合に於いて実際に何を行うべきか決定してくれるでしょう。ただ私たちが原理としてそこに行くべきだというのは、何よりも先ず私たちがカトリックで使徒的、そしてローマ的だからです。次に、ローマがカトリック教会の頭にして中心であるならば、この危機は必ずローマにおいて、そしてローマによってこそ、その解決策を見出すだろうし、危機が解決されるだろうと私たちは考えるからです。結果として私たちがローマで行う僅かながらの善は、私たちがどこか他の所で行う多くの善よりも大きいからです。

 一方、caritas Christi urget nos、即ち、キリストの愛は私たちを締め付けるのです(コリ後5:14)。あなた方は、誰でも過ちの内に生活している場合に、この過ちを放棄する事が如何に難しいかを理解しなければなりません。自然の秩序に於ける一連の執着全てを、またそれに充てられた全生涯を、そして当局による認可の紋章が付いた全ての教えとそれによる様々な影響力から離れるのに必要な光と力を受ける事はとても難しいのです。それは簡単な事ではないという事を認め、彼らに対する憐れみを持とうではありませんか。何故なら、結局のところ、彼らはただ単に私たちが無償で受けたものを必要としているからなのです。それは光と恩寵です。何故なら、私たちは受けなかったものを何かを持っているでしょうか?(コリ前4:7)。そうです! 彼らには、天主の御憐れみと寛大さによって私たちが頂いた恩寵が彼らにただただ必要なのです。愛によってそうすることが私たちの責務となります。

 猛烈に、かつ原理として、近代主義者たちとの一連の接触に反対する人々は福音の一節を私に思い起こさせてくれます。かつて私たちの聖主がある町に於いて歓迎を受けなかった時、‐雷(いかずち)の子らと呼ばれた‐ヤコブとヨハネは、もしお望みならば、あの町を破壊する為に天から火を降らせましょうと彼に申し出ました。すると聖主は‐御自分の問題を解決する上でまるで彼らを必要としているかのように!‐この使徒たちの酷いものではありながらも無邪気な思い上がりを大目に見ると、「自分たちがどんな精神を持っているかを貴方たちは分かっていない」(ル9:51-56)とお答えになりました。そうです、彼らは人々の心に愛徳を注ぐ聖霊を受けていなかったので、自分たちが果たしてどんな精神を持っているのかを知らなかったという訳です。彼らは苦い奮発心に陥ってしまいました。

「私たちは愛を信じた」

 ではこの<聖霊がお注ぎになる>精神とは一体何ですか? それは私たちの聖主イエズス・キリストの精神なのです。そんなに難しい事ではありませんが、私たちの聖主が御自分の敵である相手方と如何に対峙したかに注目する事が必要となります。聖ヨハネと聖パウロの両者は教えてくれます。これによって、実に私たちは、御父が私たちを愛し、また私たちが罪人であった時、さらに私たちが彼の敵であった時に、キリストがそんな私たちの為に御自分の命をお捧げになられたという事を、つまり天主の愛を知りました。天主の愛がどこよりも表明されるところとはそこでであって、私たちはこの愛を信じたのです。ですから、私たちも同じ事をしなければならないのです(ヨ4:9-16とエ2章)。

 如何にして天主の愛は表されましたか? 戦争や排斥、断罪を通して、さもなければ天から火を降らせる事を通してですか? とんでもない!この愛の業は、謙遜を通して、屈辱を通して、従順、忍耐、御受難、死、それどころか御自分の敵を十字架上で赦す事を通して成し遂げられました。その全生涯に亘り、私たちの聖主はファリサイ人たちに真理を認めさせると共に、彼らに救いと赦しを提供する為にありとあらゆる可能性と手段を御利用になったのです。この模範こそが、全く単純に、私たちの従わなければならないものなのです。

 教義的堅固さというものが、どれだけ柔軟さや巧妙さ、さらに愛の衝撃性にさえも反しているのか私は知りません。分かりません。何故に教義上の頑固さが憐れみの情に反するのか、さらに愛徳である宣教師的であって使徒的な熱意に反するのか私には分かりません。信仰と愛のどちらかを選ぶのではありません、その両方を抱擁しなければなりません。更に申し上げるなら、例え私が山をも動かせる信仰を持っていたとしても、愛がなければ私は無なのです。もし私に愛がなければ、私は無です。仮に私が貧しい人々の為にと自分の命を捧げても、愛がなければ私は無なのです。(コリ前13:3参照)

 コリント人への第一の手紙に(13章参照)聖パウロが書き記した愛を讃える賛歌をお読みになり、私たちの聖主の生涯にそれを当てはめて下さい。そうすれば皆さんは間違いなくカトリック精神が何であるかを理解する事でしょう。愛は忍耐深く、愛は親切で、嫉まず、愛は利己主義ではなく、恨みを抱かず、悪に対して善を返し、愛は全てを赦し、全てを信じ、全てを希望し、全てを辛抱します。それこそが、信仰の復興に於いて、またキリストに於ける全ての復興に於いて本当に私たちが協力出来る方法なのです。さらにもしキリスト、司祭職及びキリストの王権がその救済策であるならば、この救済策は必然的に私たちの御母、聖なる童貞マリアの御心を通過します。

 私たちの聖主は、童貞マリアの、そしてマリアの御心の実でありましたし、彼だけが永遠にそうあり続けるでしょう。彼女はキリストの御母であり、天主の御母であり、全人類の御母であり、人類の共贖者であって、全ての恵みの仲介者なのです。彼女こそがあらゆる恩寵を分配しお授けになります。実に彼女は全被造物の元后、即ち天地の元后なのです。聖ベルナルドが言うように、童貞マリアを通してこそ私たちは一切のものを頂いているのですから、熱烈さ、信心、そして必要な恩寵を獲得する為に、熱情と信心、そして粘り強さを持ってマリアの御心へと向かわなければなりませんが、何よりも先ず、信仰と希望と愛に於いて強靭な人生を得るよう努めなければならないのです。何故なら私たちは力強く愛さなければならないからです。従いまして、適当な時に必要な支援を得る為、また最後の決算に於いて真のキリスト教徒かつ私たちの聖主の真の司祭である為、忠実かつ頻繁に、真の内的信心を通して、マリアの御心へと、つまりあの恩寵の玉座へと向かいましょう。アーメン。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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