Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちの人生と死の意味とミサの価値

2023年05月30日 | お説教・霊的講話

2023年2月18日(土)大阪 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、今日は、つい最近主に召されました兄弟のイグナチオさんの霊魂のために、このミサを捧げています。お祈りください。 

今日は、この葬儀のミサにおいて、私たちの人生の意味と死の意味とミサの価値について、一緒に黙想いたしましょう。

【死】

来たる水曜日――あと数日です――灰の水曜日です。四旬節に入ります。その最初に、教会は母の心を持って、私たちに思い出させてくれます。私たちの頭に灰をかけて、「人間よ、覚えよ。お前は塵であり、塵に戻る、ということを。」と言います。

アダムつまり人間は、塵から造られました。本来ならば永遠に生きるべきものとして造られました。しかし、罪を犯したがために、塵に帰る者となってしまいました。アダムの子孫である私たちも、その死を、苦しみを、病を逃れることができなくなりました。 

聖パウロは言っています。「一人の人によってアダムによって、この世に、死と苦しみが入った」と。

【復活】
しかし、四旬節の最初に私たちが言われた言葉を、四旬節の終わりに、つまり復活祭には、教会は別の喜びの言葉で投げ掛けてくれます。「主は、まことによみがえられ給えり、アレルヤ!」 

一人の人の不従順や罪によってこの世に死が入ったように、一人の男、一人の人間、人の子、アダムの子、第二のアダム、イエズス・キリストの従順によって、そのご死去によって、私たちの中に復活の希望がよみがえった、と。 

この復活に至るためには、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。私たちの人生の究極の目的である、私たちの永遠の命、そのために私たちがこの世に生きているこの目的に到達するためには、どうしたらよいのでしょうか。

【復活に至るための道:イエズス・キリストの十字架の木】

それはイエズス・キリストと一致することです。イエズス ・キリストのご死去と一致することです。なぜかというと、それ以外には、私たちには復活に至る道がないからです。 

どうやったら、私たちはイエズス様と一致することができるでしょうか。その最も素晴らしい最高のやり方は、ミサ聖祭に与ることです。なぜかというと、ミサ聖祭においてイエズス・キリストの死が、もう一度秘跡的に、私たちの目の前に実現するからです。再現されるからです。 

ちょうどノアの大洪水の時に全人類が滅んでしまったように、しかし方舟に乗った選ばれた人だけがその大洪水の破滅から救われたように、人類には死という大洪水が私たちを飲み込もうとしています。私達はこれから、どうやったら逃れることができるでしょうか。木でできた箱舟、つまりイエズス・キリストの十字架の中に入ることです。イエズス様の、ちょうどノアの方舟に脇から人々が入って行ったように、イエズスの開かれた脇腹から私たちが入ることです。

ですから今日この御ミサを捧げていることは、なくなった霊魂達にとってとても大きな慰めであって、お恵みです。ミサが捧げられれば捧げられるほど、霊魂は早く天国に行くことができるからです。

私たちは、特にマリア様にお祈りいたしましょう。聖母が、霊魂を煉獄の霊魂たちを、早く天国に導いてくださいますように。そして私たちにも、ミサに与るお恵みを与えてくださいますように、お祈りしましょう。 

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン 。


種を蒔く人が種を蒔きに出た

2023年05月30日 | お説教・霊的講話

2023年2月17日大阪(金)説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

来週の水曜日は、灰の水曜日です。大小斎の義務があります。四旬節を聖なるものとして過ごしましょう。

今日の福音は、とても有名な「種を蒔く人が種を蒔きに出た」です。
イエズス様がその譬えを説明して、その種というのは「御言葉だ」と言います。イエズス様ご自身のことなのです。その中にすべての超自然のいのちの聖寵の元がすべてぎっしりと詰まっている種が、私たちの心に蒔かれるという譬えです。

イエズス様のお恵みを受けて、ご聖体を拝領して、天主御自身を受けて、そして私たちを聖なるものに変える力を持っているその御言葉の種が力を発揮するためには、私たちは良い土地でなければなりません。 

せっかくの御言葉が蒔かれたにもかかわらずなぜ実りをもたらさないかというと、イエズス様は、その土地の状態がよくなかったからだ!と説明します。

あるものは道端に、あるものは岩の上に岩だらけのところに、あるものはとても良い土地だけれどもしかし雑草や茨(いばら)が一緒に生えている。せっかくのイエズス様の祈りが窒息してしまった、塞がれてしまった。

道端というのは、世俗の考えが制限されずにどんどん入って、そのことばかりに固められてしまった、あるいは罪や悪い習慣に凝り固まってしまった、そこで御言葉の入る余地がなくなってしまった、霊魂。その間に悪魔がその御言葉を取ってしまった、受け入れる余地がなかった、頑なな霊魂。もしかしたら私たちは、イエズス様の御言葉をイエズス様のお考えを受け入れるのでしょうか、それとも世俗の考えやテレビの話やあるいはその他のことで凝り固まっているのでしょうか 。

イエズス様が言うには、御言葉は岩だらけのところに種が落ちたのもあると言います。土はあるんですけれども、岩だらけなので根が生えてもすぐに枯れてしまって、長続きしません。イエズス様は、この霊魂は、最初は喜んでイエズス様のことを聞くんだけれども、ちょっとした辛いことや誘惑があると、もうそれで放棄してしまう、根が深くない、謙遜ではなかった。罪がまだ砕かれていない。それでイエズス様のお考えが深く根を張ることができなかった。自分のことが、愛着心が砕かれていなかった。だからちょっとしたことがあると、それでイエズス様が根絶やしなってしまう。 

第三は、良い土地なんだけれども、そして御言葉はどんどん成長するんだけれど、でも同時に雑草が入るのを許してしまっている。よく私たちにありがちのパターンのことです。

せっかくいい土地なのにもかかわらず、世俗のことに、あるいはこの世間の楽しみに、あるいは被造物への愛着に、養分を取られてしまう。そしてせっかく育ちつつあった木が、結局は実らなくなってしまう。養分を取られてしまう。私たちはもしかしたら、四旬節の間にこの茨の、あるいは雑草を、私たちの周りから取るようにしなければならないかもしれません。

良い土地はイエズス様の御言葉をよく聴いて、それを心に留めて、忍耐強く、どんなことがあってもそれを守って、100倍の実りをあるいは60倍の実りを実らせる霊魂です。

マリア様の汚れなき御心に、ぜひ私たちもこの四旬節の間に、良い実りをつける土地となることができますように、お祈りいたしましょう。 

四春節の決心として、イエズス様のことを黙想する時間を作るのはどうでしょうか。ロザリオを、特に玄義を黙想しながらお祈りをする決心を立てるのはどうでしょうか。あるいはインターネットやYouTube を制限したりするのはどうでしょう。あるいは福音書をひもといて読んでみるのもどうでしょうか。私たちが良い土地となることができますように、マリア様の御取次ぎを請い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


堅振の秘跡:兵士は祖国のために他の人々を守るために軍人となる:堅振の秘跡により、全宇宙の創造よりも偉大な業が、私たちの霊魂に行われ涯続く。完成されたキリスト者となりキリストの兵士となる

2023年05月30日 | お説教・霊的講話

2023年1月29日 東京のミサにて小野田神父の説教

愛する兄弟姉妹の皆様、

今朝、堅振の秘跡の儀式がありました。
フェレー司教さまのお説教を簡単にお伝えします。

堅振の秘跡により、キリスト信者は、キリストの兵士・軍人となります。キリストのために戦うものとなります。 これは一体どういう意味でしょうか。

軍人というのは、大人です。完成されたものです。子供ではありません。
確かに洗礼を受けると、私たちは天主の超自然の命を受けて、そして天主のレベルまで上げられて、私たちの行うことは天主を喜ばすことができる、功徳を積むことができるものとなります。
 
しかし、いかんせん、私たちのなすことは赤子であって、天主から見ると幼い愚かなことばかりやっている…。言ってみれば、ちょうど子供が素晴らしいペンを持っていながらも、ペンを使って落書きをするようなものです。しかし素晴らしいペンであるので、価値はあります。しかし落書きです。しかし、堅振の奇跡を受けると、私たちは聖霊の恵みの充満をいただくので、私たちはキリストの兵士となります。

兵士というのは、自分の生存のために兵士になるのではありません。 兵士というのは、祖国のために、あるいはみんなのために、他の人々を守るために軍人となります。私たちが堅振の秘跡を受けると、他の人々の救霊さえも手伝うことができるほどの完成されたキリスト教信者になります。 

一体どうしてでしょうか。なぜかというと、聖霊が私たちに働いて私たちが子供でありながら、落書きではなくて最高の美術品を書くことができるようになるからです。 

どうしてそうなるかというと、譬えて言うと、子供の手を偉大な芸術家がとって素晴らしい絵を描くかのようです。子供がその芸術家の動きに逆らわない限り、素晴らしい絵を描くことができます。

それと同じように、堅振を受けると、私たちも聖霊の充満を、満ち溢れを受けて、聖霊が私たちの霊魂を掴んで私たちを息吹いて動かすので、私たちの自由を尊重しながら動かしてくださるので、聖霊と一緒に私たちは偉大な大傑作を描くことができます。 私たちの救霊のために、多くの人たちの救霊のために、働くことができます。

天主は、私たちが、自分の救霊のために多くの人たちの救霊の永遠のいのちのために必要なお恵みを、保証してくれます。その保証が、堅振の時に受ける霊的な刻印と言われるものです。この霊的な刻印というものは、神学によれば、天主が私たちに"保証"を与えるということです。"保証"とは何かというと、誰かが約束をする時「神父様、私はこのことを約束します。その証拠に見てください。これが保証です。これを保証に、どうぞ約束を信じてください」。

それと同じように、聖霊は私たちの霊魂に消えることのない、大罪を犯してもどんなことがあっても永久に消えることのない刻印をして、キリストの兵士・軍人として刻印を押して、名誉を高めて、そして必要なお恵みを全て与える、一生涯にわたって与えると保証してくれるのです。天主の保証は確実であって、約束をけっして破られることはありません。必要なお恵みは必ず与えられます。この聖霊の充満を、堅振の秘跡では受けます。

ですから、私たちがキリストの兵士となるというのはただのタイトルではありません。ただの名前だけではありません。リップサービスでもありません。本当にとてつもないこの全宇宙を創造しているものよりももっと偉大な業が、私たちの霊魂に行われて刻まれて、それが一生涯続くということです。

私たちは、すでに堅振の秘跡を受けた…あるいは今度受ける方がいらっしゃるかもしれません。この受けたお恵みに感謝いたしましょう。私たちがこの今地上にいるのは、この地上のためではありません。永遠のいのちに、天主に創造されました。無から造られました。今私たちは天主の命、永遠の幸せ・無限の喜びを分かち合うため、天主とともに、聖父と聖子と聖霊とともに永遠に分かち合うためにこの世に生まれて来ました。そのためにキリスト信者になり洗礼を受けました。そしてそれを完成させるために、堅振の秘跡も受けました。

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様の御取次で、けっして聖霊に対してひとつも罪を犯して悲しませたりすることがなかった いつも忠実な聖霊の浄配であったマリア様の御取り次ぎで、私たちも聖霊の充満を受けてこれをけっして失うことがなく、天国に至るまで聖霊に導かれますようにお祈りいたしましょう。そしてついには、諸聖人とともに、聖父と聖子と聖霊との交わりとの中で、永遠の無限の喜びを分かち合うことができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン 。


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】【名古屋】 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年05月29日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖霊降臨の主日、おめでとうございます!愛する兄弟姉妹の皆様におかれては、聖霊降臨にふさわしい、とても良い日を送られたことと思います。

2023年5月28日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計114人でした。大阪では50人でした。名古屋では11人でした。マリア様に感謝いたします。

さて、来週の主日は、東京と大阪と札幌とで聖伝のミサが行われる予定です。

7月1日(土曜日)には大阪でマーチフォーライフが行われます。多くの兄弟姉妹の皆様のご参加をお願い致します。東京では7月16日(主日)にマーチフォーライフがあります。

【ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオ】
ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ「大いなる傷」(DIE GROSSE WUNDE: Exklusive Videoreihe mit Bischof Vitus Huonder)の日本語訳が完成しました。

大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(1) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(2) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(3) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

第一部では、何故か、おそらく通信の不具合いにより、次の部分が消えており、そのために掲載が遅れてしまいました。以下にその部分だけを掲載いたしますので、よろしくお願いいたします。

5.ノブス・オルド・ミサ

聖ピオ十世会はある意味で、教会における危機の子です。私たちは、すでに次のように観察しています。

教会の危機は、伝えられた信仰からの、聖伝からの、信仰の実践からの、部分的な背教の結果です。聖伝からの逸脱は、変更されたミサの聖なる犠牲の典礼において、最も痛みをもって感じられます。この変更は正当な動きだったのでしょうか。この変更は公会議の意向だったのでしょうか。

聖なるミサに関して、典礼に関する憲章「サクロサンクトゥム・コンチリウム」(Sacrosanctum Concilium)はこう言っています。「われわれの救い主は、渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、自分のからだと血による聖体の犠牲を制定した。それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、自分の死と復活の記念を託するためであった。それは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、未来の栄光の保証がわれわれに与えられる復活の祝宴である」【47番】。その一方で憲章は、改革に対しては、こう警告しています。「なお、真に教会のために確実に役立つものとして要求されている改革でなければ行ってはならない。また、すでに存在している形態から、新しい形態がいわば有機的に生ずるように、慎重に配慮する必要がある」【23番】。

それにもかかわらず、大きく変化した新しい儀式が、同様に変化した聖なるミサの神学とともに提示されています。すでに指摘したように、聖伝の聖体信仰からの逸脱は、1969年に、使徒的憲章「ミサーレ・ロマーヌム」(Missale Romanum ex decreto Concilii ecumenici Vaticani II instauratum)および「ノブス・オルド・ミサ」(Novus Ordo Missae)導入によって明らかになりました。同年のミサの新しい規則の検討の際、専門家による委員会は次のような結論を出しました。

「ノブス・オルドには、トリエント公会議が教えた信仰を提示する意向がない。それにもかかわらず、カトリックの良心は、トリエント公会議に永遠に拘束されることは明らかである。そのため、ノブス・オルドの公布により、忠実なカトリック教徒は最も悲劇的な選択肢に直面している」。

委員会【のこの言葉】は、あまり真剣に受け止められていませんでした。導入されたミサ典礼書が訂正されれば、この困難は解決されるはずでした。現実には、オルド【ミサ式次第】自体は、作られたそのままに残り、すなわち、もはやトリエントの信仰を十分に例示するものではありませんでした。

長い年月を経て、使徒的勧告「デジデリオ・デジデラーヴィ」(Desiderio Desideravi、2022年)で、ついにそのこと【トリエント公会議で決定的に示されたカトリック信仰を新しいミサが示していないこと】が明らかになりました。一見すると、カトリックの用語や敬虔な態度、ミサ挙行という解釈があるにもかかわらず、大部分は聖なるミサについてのプロテスタント的な概念であると判断しないためには、目を逸らさなければならないのです。

この教皇の書簡は公会議に言及しています。したがって、それは公会議の憲章の解釈として理解されます。ある比較・たとえだという考えは、ほとんど成り立ちません。

【報告】【東京】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 114 including children.

09:00 mass
M: 32 (incl. 6 children)
F: 36 (incl. 9 children)
Total: 68 (incl. 15 children)

11:30 mass
M: 24 (incl. 2 children)
F: 24 (incl. 3 children)
Total: 48 (incl. 5 children)

Total of 2 masses (excl. 2 persons who participated in multiple masses)
M: 55 (incl. 8 children)
F: 59 (incl. 12 children)
Total: 114 (incl. 20 children)

March for Life Osaka

マーチフォーライフ


2023年1月29日(日)東京での堅振:フェレー司教様のお説教

2023年05月28日 | お説教・霊的講話

2023年1月29日(日)東京での堅振:フェレー司教様のお説教

親愛なる受堅者の皆様、そして信徒の皆様、
私がここに来て、皆さんに堅振を授けることができる喜びを伝えることをお許しください。

【秘跡の偉大さ】

私たちキリスト教信者が、天主からどれほど偉大な素晴らしい宝物を受けているかということを、理解してください。私たちはこれに慣れっこになってしまっているからです。秘跡は一つ一つが偉大な素晴らしい賜物です。私がこのように言うことは全く問題ありません。というのは、天主様が今日皆さんに授けてくださる堅振の秘跡、これが受堅者の一人一人に行われることは、全宇宙を無から創造する事よりもはるかに偉大なことが行われることだからです。

では皆さんに、今日天主様が皆さんの霊魂に行われる素晴らしい出来事がどんなものか説明して、その神秘に近づいてみましょう。

一つ一つの秘跡は、私たちに天主のいのちへと成長するようにさせてくれます。それは天主のいのちであって、人間のいのちではありません。人間のいのちは、創造の時にこの世を創った時に、私たちに与えられました。しかし私たちを天主の子どもとして、ご自分のいのちへと成長させてくれます。

一つ一つの秘跡には、それぞれの固有の特徴があります。皆さんは公教要理で、堅振の秘跡によって私たちはキリストの兵士となるということを学びました。しかしそれですべてではありません。この堅振の秘跡は、キリスト教信者を完全にさせる完璧にさせる秘跡です。それは、特別のお恵みによって私たちが完成させられる、ということです。

【自由意志】

では、キリストの兵士、軍人ということについて黙想しましょう。天主は私たちを無から創造されました。なぜでしょうか。その理由はたった一つしかありません。なぜ私たちはこの地上に存在しているのでしょうか。生まれてきたのでしょうか。その理由は天国です。私たちを天国に行かせるために創造されました。

天主は私たちをご自分の似姿・肖像に従って創造してくださいました。何を意味するかというと、私たちは自由意志を持っているということです。つまり私たちは選択することができますし、しなければなりません。私たちは善を選ぶことによって功徳を積むことができるようになります。これは天主が全く無償に与えてくださったことです。お恵み、グラッツイア、というのは、グラティス、無償に、ということから由来しています。つまり無償で与えるという意味があります。これはなぜかというと、天主が私たちにこれを与えることは義務ではなかったし、それをしなければならないことでもなかったからです。全く自由に与えてくださったお恵みです。そして私たちはこれを使って、功徳を積みます。功徳とは何かというと、もしも善をすればそれに報いられる。そして悪を行えばそれに相当する罰があるということです。

【罪とその結果】

人類はこの特別な自由というお恵みを、その最初から悪用してしましました、乱用してしまいました。そのために私たちの人祖、最初の親たちは、自由を乱用して最初の罪を犯しました。で私たちはそれをすべて遺産として受け入れました。これが原罪と呼ばれています。ですから本来ならば、天主の御計画によれば、子孫たちに代々と伝えられるべき無限のものすごいお恵みが失われ、そのかわりに私たちは負債を負う身になってしまいました。

この負債が最も目に見える明らかなしるしは死です。そして苦しみです、苦悩です。苦しみ、死というのは、罪の前にはありませんでした。しかし罪を犯したために、この世に存在するようになりました。もしも私たちが苦しむとしたら、それは罪の結果です。しかしこの罪の結果である死や苦しみという罰は特別に天主の力によって贖いのもととなりました。そうしてこの贖いの最も最初の要素・エレメントは、十字架です。十字架によって私たちの主は、死と苦しみを受けて、そしてその苦しみを善へと変えてくださいました。

この地上での死は、確かに辛いことです。しかしもっと悲劇的なドラマチックなものがあります。それは天主との友情関係を失ってしまった、成聖の恩寵を失ってしまったということで、即ち永遠の死を私たちが受けなければならないということです。そしてこれはあまりにも重大で深刻な問題です。

【キリストの兵士】

私たちは、自由意志を持っています。この自由意志を私たちの敵は悪用するようにそそのかしています。 それは悪魔です。悪魔も自由意志を持っていてそれを乱用して、天主に逆らいました。そして天主は悪魔が私たちを誘惑する事を許しています。この悪魔がその頭(かしら)であるものを「この世」と言います。この世は、私たちが天国に行くことができないようにと、いろいろと企んでいます。ですからこの世は、私たちにとっては、天国に行くための戦いがあるところ、戦闘の場所であります。

この世には、悪魔のみならず、自由意志を悪用する人々もいます。ですからもちろんそのような人たちの誘惑に対しても、戦いを繰り広げなければなりません。ところでもしも天主が私たちにそのような攻撃を許すとしたら、それは私たちが勝利をおさめるためです。私たちが悪に染まって落ちてしまうのをお望みではありません。私たちが勝利をおさめることができるように私たちに必要なすべてのお恵みを下さっています。聖寵を下さって、そして力強めてくださっています。勝利のためです。そしてその勝利のための特別のお恵みを、堅振の秘跡と言います。この秘跡によって、私たちはキリストの兵士となるのです。

兵士というのは、自己防衛のためだけにあるのではありません。ただの自分の生存、生き残りのためにあるのではありません。そうではなくて、他の人たちを守って他の人たちのいのちを救うために兵士・軍人があります。ですからキリストの兵士となるということは、私たちがキリストと一緒に協力して他の霊魂たちをも勝ち取る、ということです。天主はそれをお望みです。そして勝利をすることをお望みです。

【霊の刻印】

皆さんが受けるキリストの兵士というのは、ただのタイトル・ただの名前だけ・リップサービスではありません。そうではなくて、本当の兵士になることができるように、何かが現実が皆さんに与えられます。そして皆さんを本当に現実に強めてくださいます。兵士として。そしてこの現実に強めてくださるものを、霊の刻印といいます。

この霊の刻印は――ラテン語ではカラクテルといます――それは同時に、スタンプというか、ハンコというか――刻印であって、皆さんの霊魂に刻みつけるものです。しかし、これは、ただのしるしではありません。本当の現実の力を皆さんに与えてくれるものです。ところでこの力は道具として働く力です。それは聖トマス・アクイナスの表現によります。

使徒たちは使命を受けました。聖霊が私について証明するだろう、と言った時に。そして聖霊は何を証明するかというと「イエズス・キリストこそが、まことの天主である」ということを証明します。聖霊を受ける、この刻印を受けるということは、つまり皆さんもイエズス・キリストの証人となる、ということです。証人ということは、ギリシャ語ではこれは殉教者、証しする人という意味です。

証人・殉教というということは、つまり死をも意味します、この地上での死を。しかし死と聞くと、私たちは怖れを感じます。しかし主は言います「怖れるな」。いったいどうしてか。なぜかというと主はこうもおっしゃるからです「私はお前たちに、慰め主を、弁護者を送る」と。それが聖霊です。

その主が送られる聖霊、それは三位一体の第三のペルソナ、全能の天主御自身が私たちに送られるということです。ですから皆さん、皆さんはただ独りぼっちではありません。孤独ではありません。何故ならば聖霊が送られるからです。しかも聖霊が送られるときには、私たちが戦うのではなくて、聖霊が私たちと共に戦ってくださいます。しかも聖霊は、私たちにもっとすばらしいことの協力者とさせてくださいます。つまり、私たちが他の霊魂たちの救いにも協力することができるようにさせてくださり、他の霊魂たちの救いが私たちにかかっている、わたしたちの善い行いにかかっているということさえも、私たちに委ねておられます。しかし、その仕業・事業をなさるのは聖霊です。私たちの少しの協力を求めているということです。

私たちがする善業・よい仕事、これが聖霊の力によってお恵みの泉となって,そこから多くの霊魂たちが天主へと招かれるようになります。ですから、私たちのすることが超自然のお恵みを生みだして、その超自然のお恵みをもって、天主へと回心するようにさせてくれます。

【キリスト者を完成させる秘跡】

堅振は確かに私たちをキリストの兵士とすると申しましたが、もう一つこれは私たちを完成させる完璧にする秘跡でもあると申しました。この点についてももう一つ考察しましょう。

天主は、本当に私たちを天主の子どもたちにしたいと思っております。そのためにまず最初に、私たちは洗礼を受けました。洗礼を受けることによって超自然の成聖の恩寵を受けます。そしてこの特別の聖寵のお恵みによって、私たちは天主のいのちに与るものとなりました。

超自然のいのちを与えられたと申しましたが、いのちというのはつまり生きているということであって、活動するということでもあります。私たちが動く・活動するということのために、天主は同時に超自然の徳を与えてくださいます。その超自然の徳によって私たちは天主のレベルまで挙げられるようになります。私たちのその行動は、天主のレベルの行動となります。

ところで洗礼を受けて、私たちが超自然の徳の注入を受けたとしても、実際にそれを実践するのは、日常生活においては困難が伴います。それは私たちが日常経験するところです。しかし困難に打ち勝つことができるように天主は私たちに聖霊を与えて、超自然のいのちを本当に天主の子どもとして実践することができるように助けてくれます。

このことを聖パウロがすでに言っています。皆さんどうぞ聖パウロのローマ人への手紙第八章をお読みください。そこには天主は私たちに聖霊を送って、そして私たちが天主の子どもとしてなるようにさせてくださる、そして聖霊は私たちにおいて「父よ!」と叫ばしてくださる。と言います。つまり私たちがもしも「天にましますわれらの父よ」と言った時には、それは私たちよりも先に聖霊が私たちの心において「父よ!」と叫ばせてくださっているのです。そしてそれを持って最も良い正しい場所に天の御父のもとに持って行ってくださっています。

別の例を挙げてみます。これも聖パウロが言っていることですけれども、聖霊がなくては私たちは「イエズスが主である」つまり「天主である」ということは言えない、と言っています。つまり私たちが「イエズス様がまことの天主である」という時には、聖霊が私たちにおいてそれを言わしめているのです。ですから私たちは信仰のためには聖霊が必ず必要です。

【堅振は、私たちが聖霊と共に働くようにさせてくれる】

聖霊がどれほど近くにいらっしゃっているかということをもっと理解してください。そのためには、私たちが聖霊の七つの賜物について黙想するとますますよくわかります。

皆さんは公教要理で、聖霊の賜物が私たちをして天主の息吹にインスピレーションにますます従順で敏感にさせてくださるお恵みだ、ということを学びました。つまり私たちの内的に最も緊密なところで聖霊が働いておられるということです。そしてこの賜物は七つあります。

聖霊は全能の力を持って私たちを助けるので、私たちは自由を保ったまま聖霊が私たちを助けてくれます。それはどういうことかというと、聖霊は私たちの自由を尊重しながら、私たちにおいて働かれる、ということです、つまり聖霊が私たちと共に働く、あるいは私たちが聖霊と共に働くようにさせてくれます。

これはどのように働くのでしょうか。ちょっとイメージで説明したいと思います。たとえば、小さい子どもが鉛筆を持っていて、鉛筆で落書きを書いたとします。ちょうどそれと同じように、天主は私たちに超自然の徳を注入してくださって、私たちが天主の天のレベルの業をすることができるようになります。この超自然のお恵みは、言ってみれば鉛筆のことです。しかし天主の御前において私たちはいったい何でしょう。ただのちっぽけな子供に赤ちゃんにすぎません。ですから私たちが行う行動というのはいわば子供の書いた落書きにすぎません。しかし私たちのキリスト教生活が落書きよりももっと素晴らしい最高傑作となることを、完璧となることを、主はお望みです。

天主は完全な御方です。私たちも天主の子どもですから、私たちさえも完全であるようにお望みです。でも私たちは子どもで惨めな落書きしか書けないのですけれども、どうしたら私たちが最高傑作を描くことができるでしょうか。

ではどうやったら赤ん坊が最高傑作を描くことができるでしょうか。それは、ある最高の芸術家が子供の手を取って、そして子供と一緒に最高の美術品を描く時に、それができます。子どもが書いたものですけれども、芸術家の手のなかにおいて、それを描いたものなのです。ですから子供が書いたものは最高傑作となります。

この偉大な芸術家というのが、今日皆さんがお受けになる聖霊御自身です。そして聖霊が皆さんの霊魂を取って最高傑作を書くようにされることを望んでおります。ですから聖霊とともに私たちが描くのであれば、すべては簡単で単純です。ですから難しいなどと仰らないでください。確かにこのちいさな子どもが鉛筆で最高傑作を素晴らしい芸術を一緒に描くと同じほどの難しさしかありません。

問題は私たちに自由があるということです。つまり、たとえば私たちは善をやりたいと思いながらやらなければならないと思いながらも、しかしやりたくない、嫌だなあと思うこともあります。内的な戦いが起ります。わたしたちの自由意志を聖霊が影響を与えて、それを善を選ぶようにしてくださいます。ですから私たちがするべきことは聖霊の働きに心を開いて、聖霊の息吹に身を任せることです。聖霊の動きに従うことです。それが私たちに求められていることです。

【霊の刻印は、約束の保証】

天主は、私たちがいったい何であるか、どのようなものであるか、どれほど弱いかをご存じです。ですから、天主は私たちに特別なものを下さろうとします。それが霊の刻印です。これは本当のものすごい宝物です。なぜかというと、これは私たちの霊魂から消し去ることができないものだからです。つまり私たちは大罪を犯してしまったとしても信仰を失ってしまったとしても、この刻印は私たちに永遠に留まるからです。

この霊の刻印というのは、実は天主からの保証なのです。保証とは何かというと、もしも誰かが何かをしたいという時に、その約束をする時に、その約束が本当であるというために、守るというために、私はここにこれだけのものを準備しました、これを受け取ってください、本当です、と言います。それが保証なのです。それで天主は、お恵みを必ず与えるというその保証に、この決して消えないという刻印を私たちにくださいました。

この約束というのはどんな約束なのでしょうか、どんな保証なのでしょうか。それは私たちがキリストの兵士としてなるべくに必要なすべてのお恵みを私はあなたに必ず与えるという約束であり保証です。ですから、ある複数の敬虔なよい霊的著者は、もっとも効果的な祈りはこうであると言っています。つまり「御身がお与えになってくださった聖なる霊の刻印のお名前によって、私はこれこれを御身にお願い致します」と祈ることです。つまり、「天主様、あなたは私にすでにキリストの兵士としてこのお恵みをくださいました。ですからこの保証を私に下さったので、私は全く役にたたない惨めな罪人でありましたけれども、あなたのこの刻印の名によって保証によって、どうぞこのお恵みを私に与えてください」というのが、まさにこの主に約束を思い出させることなので、最も効果的な祈りである、と言っています。これで何が約束されたかというと、もちろん私たちが天国に行くこと、そして多くの方々の霊魂の救いのために必要なお恵みです。

【聖霊の浄配である聖母に祈る】

聖霊の浄配であるマリア様にお祈りしましょう。堅振を受ける皆さんがマリア様の御取り次ぎによって最も素晴らしい準備のうちに心の状態のうちに、堅振のお恵みを豊かに受けることができますように。

私たちはもう一つ別のお祈りをもお願いします。それは既に堅振をうけられた方々のためです。私たちが堅振を受けて、そして聖霊の息吹にいつも忠実であってそれに素直に従うことができるお恵みを、今日請い求めましょう。それはなぜかというと、私たちがなぜ聖霊を受けたかというと、それは私たちが天国に行くためです。天国の最も美しい場所を、天主は私たちに与えようと望んでおられます。ですから毎日毎日、私たちが天主の本当の子どもとして生きることができるように、聖霊の息吹に従うことができるようにお祈りしましょう。

この世は確かに腐敗しており難しいところであり、そして悪に満ちているところではあります。しかし私たちには聖霊が天主とともにおられます。ですから私たちのこの地上での生活の最後には、天主御父がその子どものために特別に準備されていた天国に到達することができますように。そして天主御自身の幸せ・至福を私たちが受けることができますように。聖父と聖子と聖霊とともに永遠の幸せを受けることができるようにお祈りしましょう。アーメン。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

【お知らせ】
一般社団法人日本聖ピオ十世会の銀行口座が開設されました。
御寄附や四旬節の献金、また教会維持費などのためにお使いくだされば幸いです。
愛する兄弟姉妹の皆様の暖かいご支援を感謝申し上げます。

銀行名:住信SBIネット銀行
金融機関コード(銀行コード):0038
支店番号-口座番号:106-1951537
漢字氏名:一般社団法人日本聖ピオ十世会
カナ氏名:シヤ)ニホンセイピオジツセイカイ


私たちも聖霊の賜物を受けるには どうすればよいでしょうか?|【ヤコブとレベッカ】の予型に見る救われる人が毎日実践している生き方

2023年05月27日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年5月28日は聖霊降臨の主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父

 

 


大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(3)

2023年05月27日 | カトリック・ニュースなど

大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(3)

DIE GROSSE WUNDE
Exklusive Videoreihe mit Bischof Vitus Huonder

9.この危機を克服する

2023年の今日(ここに戻りたいと思います)、教会は、歴史上最大の危機の一つの中にあります。それは、教会内部の危機です。それは、宣教、典礼、他者への奉仕、指導力など、教会生活のあらゆる分野に及んでいます。それは、深刻な信仰の危機です。それが私たちの理解したことです。

では、問題は「どのようにすればこの危機を克服できるのか」です。率直に申し上げましょう。危機を脱する方法はただ一つ、見捨てられた価値観に戻ること、軽視したり、不法に捨てたりした価値観や信念に立ち返ることです。その目的は、過去70年間に起こったことを処理し、それを見直しの対象とするためです。教会は、トップもメンバーも刷新することが必要です。特に、位階階級の刷新、司教たちの刷新、そして緊急に秘跡的かつ典礼的な生活へ緊急に回帰することが必要です。秘跡的な生活と司祭職(つまり位階階級)は、密接な関係にあります。1990年代に底を打ったと思われていたこの危機は、過去10年で急速に、ほとんど予想もしなかった深淵に達しました。しかし、文書「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)を発表した2007年は、特に希望に満ちた年でした。その一方で、私たちはこう言わなければなりません。それは大きく燃え上がった火でした。しかし、その火はあっという間に消え去り、今日、危機はかつてないほど大きくなっています。

この時点で、私たちは、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」について、いや、むしろその廃止について、一言説明を加えなければなりません。なぜなら、この教皇文書は、私にとっては、聖ピオ十世会との対話に、非常に重要なものだったからです。教皇ベネディクト十六世の長年の仲間であるゲオルク・ゲンスヴァイン大司教は、次のように語っています。「2021年7月16日、ベネディクト十六世は『オッセルバトーレ・ロマーノ』で、聖伝のローマ典礼の使用に関する『トラディティオーニス・クストーデス』(Traditionis Custodes)の発表に関する情報を知ります。(…)『トラディティオーニス・クストーデス』は、(…)明確な方向転換をもたらすものです。

それは、14年前に始まった和解の探求を危険にさらすものですから、間違い(ミステイク)です。小教区の教会で聖伝の典礼によるミサの挙行を禁じたのは誤りでした。なぜなら、信者の一団を追い詰めて、自分たちが迫害されていると認識させ、いかなる代価を払っても自分たちのアイデンティティーを『敵』から守らなければならないと感じさせることは、常に危険なことだからです」(自由訳)。もちろん、和解についてだけではありませんが、このことを指摘することは重要なことです。

10.大いなる傷

また、この録画の題名は、教皇ベネディクト十六世に関するモンシニョール・ゲンスヴァインの情報から取りました。これは、先日の使徒的勧告「スンモールム・ポンティフィクム」に関する、最近亡くなった教皇(Summus Pontifex)の発言に関連しています。当時の彼(ベネディクト十六世)にとって、徐々に生じてきた大いなる傷(意図的であろうとなかろうと)を癒やすことは重要だったことでしょう。さらに読み進めます。「彼の著作から明らかなように、(…)神学者ラッツィンガーは、最初は典礼改革に共感していました。(…)しかし、その後の発展を見るにつれて、彼は、公会議が望んだことと執行委員会によって典礼になされたこととの間の違いに気づきました。特にラテン語の典礼の挙行が、守るべき防波堤、あるいは、壊されるべき要塞になったとき、その違いは対立する前線(陣営)の戦場となったのです(…)」(自由訳)。

聖ピオ十世会との対話は、大いなる傷を癒やすこと、いやそれ以上に、大いなる傷を癒やすのを助けることも目的としています。なぜなら、この傷はまだ出血しており、最近も出血が続いているからです。教会は、この傷によって、かつてないほど苦しんでいます。この傷は大きくなっています。この傷は毒のある腫れ物となって、全身を熱のある悪い状態にしています。この意味で、「デシデリオ・デシデラーヴィ」が典礼について、また教会の一致との関係について言及したこと(61番)は、真剣に受け止めるべきでしょう。

「このような理由から、私は『トラディティオーニス・クストーデス』を書きました。非常に多くの多様な言語のある中で、教会が教会の一致を表現することのできる一つの同じ祈りを掲げることができるようにするためです。すでに書いたように、私は、この一致が、ローマ典礼の教会全体で再確立されるように意図しています」。

しかし、この方法で一致が回復できるのかという疑問が生じます。真正な典礼を廃止することによってでしょうか。これは単に違法なことです。なぜなら、この典礼は聖伝によって教会の信仰の宝に属しており、そのため天主の法に関わるものだからです。

11.教会内部での迫害

教皇ベネディクト十六世は、その発言によって、残念ながら今日の教会全体に影響を及ぼし、現代の教会の状況を説明するのに属する事実、すなわち教会内の迫害を取り上げました。アリウス派の時代に大聖バジリウス(379年帰天)が次のように不満を述べたように、私たちも今日、そう認めざるを得ません。

「正しく敬うべき兄弟たちよ、迫害は私たちに降りかかっている。最も厳しい形での迫害が。牧者が迫害され、群れは散らされる。そして、最悪なのは、不当な扱いを受けている人々が、自らの苦しみを自らの証しの証拠として受け入れることができず、人々は大勢の殉教者のように競技者たちを尊敬することもできないことである。なぜなら、キリスト教徒という名前が迫害者に適用されるからである。現在、確実に厳しい罰を受けることになる一つの罪は、教父たちの聖伝を注意深く守ることだ。このために敬虔な人々は家から追放され、遠い地方に住まわされることになる。悪の判事たちは、白髪交じりの頭、実践的な敬虔さ、少年期から老年期まで福音に従って生きる生活に対して、敬意を示さない。(…)私たちは、これらのことを知っている人たちに向けて書いている。なぜなら、われわれの災難を知らない地方は、この世にないからである」。

聖バジリウスはそう言っています。そうです、教会博士であるこの聖なる教父のこの記述は、現代の教会の状況にほぼ一対一で当てはめることができます。最近、「トラディティオーニス・クストーデス」、「デジデリオ・デジデラーヴィ」と、それに付随する文書で始まった聖伝の典礼に対する措置は、この典礼に、ローマ教会の真にして本来の礼拝があると認める理由を持っているそれらの信者に対する狩りにほかなりません。彼らには何世紀にもわたって受け継がれてきた形式で秘跡を受ける権利があることを、臆面もなく無視しているのです。それは、公会議後で勝利を得て、当時多くの苦しみを引き起こしたのと同じ大胆さなのです。

12.教皇フランシスコへの質問

私は教皇様にお聞きしてみたいと思います…そうです、教皇様が私を迎えてくだされば、私は何を聞いてみたいでしょうか。教皇様にお聞きしたいのは、こうです。

「なぜ子どもたちからパンを取り上げるのですか。何が教皇様を駆り立てて彼らを餓えさせるのですか。何が教皇様を駆り立てて彼らを消滅させようとするのですか」。

なぜなら、彼らにはこの糧を得る権利があるからです。私は強調します、この糧を得る権利がある、と。それは、彼らの父親が食し、彼らに受け継がれた糧なのです。彼らのレシピではありません。彼らが、言ってみれば勝手に、自分たちで作ったものではありません。彼らは、忠実に受け継いできた人たちから受けたのです。

なぜ教皇様はそれを彼らから取り上げて、彼らを飢えさせようとするのですか。なぜ教皇様は、彼らにとって異質なものを彼らに押し付けようとするのですか。

私たちの主はこう言われました。「人間の父親でさえ、自分の子がパンを求めるのに、石を、魚を求めるのに蛇を、卵を求めるのにさそりを与える者があろうか」【マテオ7章9-10節、ルカ11章11-12節】。

ここでポイントは、教皇様が何かを与えるということではなく、教皇様が子どもたちから何かを、つまり、教父たちの聖なる犠牲という重要なものを取り上げる、ということなのです。

ルフェーブル大司教は、1976年に教皇パウロ六世に謁見した際、次のような要望をしました。

「公会議以前のように、いろいろな教会の中で、一つのチャペルを認可することはできないでしょうか。今日、すべての人にすべてが許されています。なぜ私たちは、何かが許されないのでしょうか」。

当時、それは奇妙な要求に関するものではありませんでした。今日でも、それは奇妙な願いに関するものではありません。それは、信仰についてのものです。私たちの信仰の至高の善についてのものなのです。それは本当に、生きていくための糧、パンについてのものです。そこで再び疑問です。なぜ教皇は子どもたちからパンを取り上げるのでしょうか。何が教皇をして、子どもたちを飢えさせ、消滅させるのでしょうか。

13.正義と感謝

私は、2015年1月9日に聖ピオ十世会の代表者たちとの協議開始を命じたローマの書簡に立ち戻ります。不利な状況にもかかわらず、私はその任務を果たしました。そして今も果たしているところです。ですから締めくくりに、教会当局へのお願いを述べたいと思います。

私は、聖ピオ十世会に対する正義を求めます。彼らの事案の研究により、この請願を求めているのです。他のケースと同様に、教会がこの会に関連して謝罪をすることがふさわしいでしょう。これは、幻の墓のケースでも行われたことです。これは、幻の墓に関することではなく、生きている人々に関することであり、公会議以前に教会によって与えられた司牧の世話を受ける権利を持ち、その後も永久の請求権として存在し続けている霊魂たちに関することです。これは特権や恩典に関することではなく、権利に関することです。教会の権威が、この謝罪とともに、聖ピオ十世会の活動に対する感謝の気持ちを表明し、この深くカトリック的な活動に対して、「もしも」や「しかし」のない【一切の留保のない】評価を表明すれば、うまくいくでしょう。


大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(2)

2023年05月26日 | カトリック・ニュースなど

大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(2)

DIE GROSSE WUNDE
Exklusive Videoreihe mit Bischof Vitus Huonder

6.真正なローマ典礼
第二バチカン公会議まで受け継がれてきた教会の典礼は、本質的に真正なローマ典礼です。これは歴史的事実です。これを否定することはできず、できるのは無視することだけです。この聖伝の典礼は、時々トリエントの聖なるミサとも呼ばれますが、これはちょっと正しくありません。教皇ピオ五世は、新しい「トリエント」典礼を導入したのではありません。彼は教会に、ミサの聖なる犠牲の純粋な聖伝のテキストを渡したのです。1570年7月14日の「クオ・プリームム」(Quo primum)で、彼は、とりわけ聖なるミサの挙行に関して次のように述べています。
「又、何によってであろうとも【司祭が】このミサ典礼書を変更すべく強いられ、強制される事無く、又この手紙が決していつの時代でも変更されることの無く、却って〔この手紙が〕常に堅固、且つその適応範囲において有効であるように、同じく余は規定し宣言する」。

後継の教皇は、このような条項を無視してはなりません。彼がそうしてはならないのは、典礼文の古さのためであり、また、この主題それ自体のためでもあります。なぜなら、この教えは、単に変化しやすい規律に関するものだというだけではなく、信仰の遺産、つまり祈りの形式での信仰の真理と言えるからです。聖伝のローマ典礼は、信経に等しいものです。その実質は変更されてはなりません。したがって、それを禁止することはできません。教皇ピオ五世は、何も新しいものを作り出したのではありません。むしろ彼は、この形式の典礼による信仰を行使することの正当性を確認したのです。彼は、この信仰が真正なものであることを裏付けたのです。このような善は、信者から奪われることは決してあり得ません。第二バチカン公会議の後、ミサの聖伝の典礼を廃止する意向で起こったことは、不公正であり、権威の行き過ぎでした。

【参考】クオ・プリームム

7.圧力の道具

第二バチカン公会議後の教会生活の発展にとって、つまり、危機が起こるために、次の二つの概念が決定的なものでした。それは、「従順」と「生ける教導権」です。これらは、次の一文に要約することができるでしょう。「生ける教導権には絶対的に服従しなければならない」。

この二つの概念のある種の解釈は、近年の教会生活の否定的な発展を支持しました。なぜなら、この二つの用語は、革新的なものを受け入れるための圧力の手段として使われたからです。それ以前の時代には、信者は、従順の範囲について十分に紹介されていませんでした。彼らは、教導権と聖伝の重要性についてあまり指導を受けなかったのです。従順が隷属的かつ服従的な用語で、死体のような【知性も理性も働かせない】従順として理解される場合があまりにも多くありました。特に18世紀から19世紀にかけての教会への攻撃と教皇の権威に対する過度な狭量な見方は、絶対的で疑うことのない従順だけが知られるという効果をもたらしました。この従順が信者に教え込まれました。ですから信者は、教会の刷新が必要とされるとして提示されたものに対して、異議を唱えることなく屈服したのです。ルフェーブル大司教は、1976年9月1日、教皇パウロ六世に謁見した際、次のように強調しました。「私は跪いてすべてを受け入れたいのですが、自分の良心に逆らうことはできません」。このような態度は、当時の多くの信者にとって考えられないことだったでしょう。教会当局の前では、あえてそうする必要はなかったのですから。良心に訴えるということが、ほとんど教えられていなかったのです。しかし、この謁見の経過は、権威というものが、当時どのように使われたか、今日でもどのように使われているかをよく明らかにしています! 権威の乱用(信者に恐怖を与えること)は決して無視できません。すべてのカトリック教徒は、このことを常に意識していなければなりません。

もう一つの用語である「生ける教導権」は、聖伝に固く結ばれていない新しい教えを持ち出すために、しばしば悪用されましたし、今でも悪用されています。しかし、教皇の権威は、あらゆる教会の権威と同様に、「信仰」の規則に縛られています。この意味で、教会の権威は、何を信じるべきかを決定するものではありません。教会の権威は、信仰の遺産を引き継ぎ、それを守り、それを保護し、それを説明します。これが、生ける教導権の意味するものです。教導権は、恣意的に信仰を変更して、受け入れを義務付けることはできません。ここにこそ、つまり、受け継がれてきた信仰の規則にこそ、私たちがルフェーブル大司教の態度と仕事を正しく判断するための基準があるのです。ルフェーブル大司教は、司教の義務、実際にはすべての信者の義務であること以外には、何もしなかったのです。つまり、信仰の規則という下地に照らし合わせて、教会の権威の教えと行動を綿密に検査しただけでした。

8.失われた忠孝(pietas)

「教会法」(Codex Iuris Canonici、CIC)は、教義学や道徳の教科書ではありません。しかし、それは、信仰の教理、信仰の生活を保護するものです。その意向は、主に信者の霊魂の救いのためです。私たちはすでに、第二バチカン公会議当時に施行されていた1917年の教会法で、第23条に「前法が廃止されたか否かにつき疑いがある場合には、前法の廃止は推定されない。この場合には、後法は前法の範囲内におかれ、しかもできるかぎりそれと協調させなければならない」とあるのを知っています。この原則は、1983年の教会法でも、第21条に盛り込まれています。

このような原則が人間の法律学に、実定法的な教会法に適用されるのであれば、その原則は、天主の法の保護のために、教理の宣言と典礼生活の規制にもより一層適用されなければなりません。なぜなら、それによって信者の霊魂の救いが直接影響を受けるからです。公会議以降、教会で起こった革新や変化のすべては、この原則に基づいて判断されなければなりません。過去の教えとどこまで首尾一貫しているのでしょうか。この点では、父祖たちに対する、教会の過去に対する、聖伝の教えと実践に対する信心と尊敬である忠孝(pietas)も存在します。信仰の問題には選択肢はありません。後のものは前のものと調和していなければなりません。信経は、福音やその他の啓示と首尾一貫していなければなりません。公会議の決定は、信経に一致していなければなりません。後に続く公会議の決定は、それ以前の拘束力のある公会議の決定と首尾一貫していなければなりません。正確に言えば、忠孝は、公会議の時代にも、公会議後の時代にも、ほとんど存在しませんでした。当時、教会の信仰がどれほどひどく扱われてきたことでしょうか! たとえば、教会や教会の調度品、祝別された祭服、聖伝を固守する人々、良心に従って聖伝の典礼に忠実でありたいと望む司祭たちが【どれほど軽蔑されて捨てられてきたことでしょうか】! このことは今日でも、教会に重くのしかかっています!

神学者たちは、自分たちの教えによって、教会の原点に戻るという妄想によって、どれほど傲慢になっていたことでしょうか。そのキャッチフレーズはこうです。「今、教会はすべて良くなっている。私たちは、より良い変化をもたらす世代なのだ」。それは、広範囲なグループにあったある種のムードであり、軽蔑や皮肉、うぬぼれをもって過去を見下すようにさせ、神聖で触れることのできないものさえも平気で無視するというムードでした。パウロ六世の教皇就任以来、教会の教理や規律への重大な介入が繰り返し記録されており、それは忠孝を欠いたものでした。おそらく最も困難なものは、聖なるミサの典礼への介入でした。私たちの信仰の最も神聖な部分が、忠孝もなく、敬意もなく扱われたのです。

しかし、教会は常に、聖なるテキストと典礼上の教えを細心の注意を払って保存し、伝えてきました。そして、教会が変更や追加を行う際には、まったく不本意ながらであり、また敬意を持っていたのです。教皇の権限に関して第一バチカン公会議が定式化した原則は、教皇だけでなく、教会のすべての役職に適用され、特に聖なるミサの犠牲に適用されます。「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである」【第一バチカン公会議の教義憲章「パストル・エテルヌス」(Pastor Aeternus)第4章6番】。

すべてのことが起こった後、人はこう自問することができます。「あの起こったことは、信頼に足る行動様式だったのだろうか。それは敬虔さによって決定されたのだろうか」と。


5月27日 聖霊降臨祭の前日 聖伝による大小斎の日です

2023年05月26日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
明日は聖霊降臨祭の前日です。聖伝による大小斎の日です。今では義務がなくなりましたが、できる方々はどうぞ!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父












大いなる傷:ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ(1)

2023年05月25日 | カトリック・ニュースなど

大いなる傷
ヴィトゥス・フオンダー司教との独占ビデオシリーズ

DIE GROSSE WUNDE
Exklusive Videoreihe mit Bischof Vitus Huonder

1.聖ピオ十世会への旅

2015年1月9日付の手紙で、私は聖ピオ十世会の代表者たちと対話を始めるようにという命令を受けました。この手紙は、当時のローマ教理省長官、ゲルハルト・ミュラー枢機卿からのものでした。アイデアは、この共同体との友好的な対人関係を構築するためでした。一方、教理に関する問題も議題に上げなければなりません。第二バチカン公会議(1962-1965年)の文書に関連する問題もあれば、ここ数年のローマのいくつかの宣言に関連する問題もありました。特に典礼に関する問題、特に真正のローマの聖なるミサに関する問題は特筆すべきものでした。さらに、教会の自己理解、エキュメニズム、教会と国家の関係、宗教間対話、信教の自由がテーマです。2015年4月9日以来、この任務により、聖ピオ十世会と、総長だけでなく他の代表者たちとも定期的に接触しています。この関係や議論は、聖ピオ十世会の教会法上の承認への道を開くはずのものです。

2015年4月17日にザンクトガレン(スイス)のオベリートで行われた対話は、特に重要な意味を持っていました。神学上の重要なテーマが数多く議論されました。その議論に基づいて、私はバチカンのエクレジア・デイ委員会のために報告書を書きました。接触が進むにつれて、私は聖ピオ十世会の創立者であるマルセル・ルフェーブル大司教の伝記や著作を掘り下げて調べました。こうして私は、聖ピオ十世会の神学的な主張、懸念事項、目的について、ますます詳しく知るようになっていきました。2019年、77歳のとき、私はクール司教区の司教としての務めを終えました。そのとき、聖ピオ十世会の団体に隠遁する機会が与えられました。このことは、エクレジア・デイ委員会によって肯定的に評価されました。同委員会はまた、私にそうするよう明確に奨励しました。これにより、私は聖ピオ十世会の内的生活と活動をもっとよく知る機会を得たのです。このようにして、司教区の経験を積んだ司教として、聖ピオ十世会における信仰の状況を、「普通の」司教区や小教区の状況と比較することができたのです。私は教皇フランシスコに報告書を送りたいと願っていました。

2.人生の各断面

公会議の同時代人の一人の人生経験は、聖ピオ十世会との対話に大きな意味を持つものです。そのため、まず、私自身の過去の概略を凝縮してご紹介したいと思います。私の人生を決定づけた何人かの教皇職は、私にとって重要です。なぜなら、教会と信仰に関することだからです。私がお会いしたのはどの教皇でしょうか。私が知っているのはどの教皇でしょうか。

私は1942年生まれですから、ピオ十二世の背が高くてやせた姿を今でもよく覚えています。私が特に覚えているのは、ピオ十世とマリア・ゴレッティという2人の列聖です。1958年にピオ十二世が亡くなったとき、私は16歳でした。この教皇は、一般的に高く評価されていました。何しろ、第二次世界大戦、共産主義時代、新たに出現した倫理的問題といった、さまざまな困難な状況の中で、賢明かつ慎重に教会を導いてきたのですから。彼の回勅やその他の宣言は、今日でも神学的に基本的なものです。これから私たちは、これらの文書に何度も立ち戻らなければならなくなります。

次に、私は教皇ヨハネ二十三世の教皇職を経験しました(1958-1963年)。現在使われている聖伝のローマ典礼のある1962年のミサ典礼書は、彼の在位中にさかのぼります。教皇ヨハネは第二バチカン公会議【の開催】を告知し、準備を命じ、1962年に開幕させました。この時、私は高校生でした。

パウロ六世の教皇在位中(1963-1978年)に、教会に大きな変化が起こりました。私はこの教皇のもとで、1971年に司祭に叙階されました。実質的な公会議の教皇であり、したがって教会内の転換点でもあります。教皇自身は、見たところは保守的ですが、リベラルで進歩的なグループをとても好んでいました。彼は、そういったグループを昇進させました。この教皇在位期間は、1969年に新しい典礼が導入されたことで独自の意味を持つようになりました。この導入は、使徒的憲章「ミサーレ・ロマーヌム」(Missale Romanum ex decreto Concilii Oecumenici Vaticani II instauratum)で行われました。これが、教会の大きな苦しみの始まりであり、それは内部から引き起こされたのです。それは現在に至るまで続いているはずのものです。過去数十年間、新しい典礼式次第【ノブス・オルド】ほど教会の一致を乱すものはありませんでした。

教皇ヨハネ・パウロ一世の教皇在位(1978年)は短く、一方、教皇ヨハネ・パウロ二世の治世(1978―2005年)は長いものでした。この治世は、第二バチカン公会議を誘因とする実施や強化を行うための教皇在位期間と呼ぶことができます。このことは、とりわけ、多くの回勅やその他の教理文書、新しい教会法の発行(1983年)、そして「カトリック教会のカテキズム」の発展(1992年)において具体化されています。この状況の中で、私たちは教皇主導によるいわゆるアッシジ会議(1986年10月27日)を強調しなければなりません。これは、世界の諸宗教の代表者たちとの祈りの会議でした。多くの信者にとって、この出来事はとてつもない衝撃でした。それに伴い、教会の指導者と正統性に対する信頼が大きく失われました。

教皇ベネディクト十六世(2005-2013年)は、ヨハネ・パウロ二世を踏襲しました。2007年、彼は私をクールの司教に任命しました。彼が教皇職にあった期間は、継続性の、少なくとも望ましい継続性の教皇在位期間です。教皇ベネディクト十六世は、第二バチカン公会議とそれ以降の時代に起こった教会の断絶に、誰よりも早く気づいていました。彼は、継続性の神学、特に典礼に関するものによって、この断絶を修復しようと試みました。そのために、彼はいわゆる継続性の解釈法を発展させました。彼の教皇職はバランスのとれた教皇職であり、まさにこの傷を癒やそうと試みた教皇職です。教皇ベネディクト十六世は、公会議による否定的な結果を正すことを切望していました。この点で、私たちは2007年を、7月7日の使徒的勧告の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の年を強調しなければなりません。これをもって、教皇は、聖伝のローマ典礼を教会に取り戻そうとしたのです。2009年、教皇はまた、ルフェーブル大司教と、大司教が聖別した聖ピオ十世会の司教たちに対する不当な破門を撤回しました。これによって、教皇は、教会に重くのしかかっていた不正を部分的に正したのです。

2013年、教皇フランシスコは教会の指導権を引き継ぎました。彼の教皇職は、これまでに明らかになっているように、断絶の教皇職と呼ぶことができます。聖伝との決別です。これは、彼自身が聖伝と聖伝に従う信者を繰り返し叱責しているという事実によっても強調できます。その一方で、明らかに聖伝に反する行為(例えばカナダでのように混合宗教的カルト[syncretistic cult]行為)を行っています。聖伝との決別への意志は、とりわけ二つの使徒的勧告「トラディティオーニス・クストーデス」Traditionis Custodes)(2021年7月16日)と「デジデリオ・デジデラーヴィ」(Desiderio Desideravi)(2022年6月29日)において明らかです。これらの著作によって、教皇は聖伝のローマ典礼を根絶しようと望んでいます。その一方で、彼はいわゆる世界宗教の率直な支持者でもあります。これは多くの信者にとって、つまずきの石となっています。告解の裁治権や婚姻を荘厳にする権限に関する彼の教令は、聖ピオ十世会にとって意味のあるものです。

3.修正撤回(retractatio)

聖ピオ十世会の話に戻りましょう。聖ピオ十世会との接触、その歴史の研究、神学的な問いの深化を通して、私は新しい視点を手に入れました。それは、教会の過去70年、80年に対する新しい見方です。公会議当時とその後の信仰のあり方を新たに判断する、「修正撤回」(retractatio)とでも言うべきものです。なぜ教会が今のような状態になったのか、その理由がはっきりしました。2023年の今日、教会は、歴史上最も大きな危機の一つにあります。それは、宣教、典礼、他者への奉仕(diakonia)、指導力など、教会生活のすべての領域に及ぶ内的な危機です。それは、深刻な信仰の危機なのです。

聖ピオ十世会の歴史的な発展と生活を掘り下げて調べる人なら誰でも、この危機の原因と根源に意識せずとも遭遇してしまいます。なぜなら、聖ピオ十世会とは、ある意味で、この危機のために生まれ出たものだからです。それは、その創立者がこの団体を設立することによって危機に対応し、それによって教会を助けようと望んだ限りにおいて、そうなのです。彼がとりわけ心配していたのは、教会の信仰と、不安のまま見捨てられた信者のことでした。第二バチカン公会議以降起こったことに続いて、多くの人々が牧者のいない羊になってしまいました。大司教にとって、行動の理由は、第一に霊魂の救いであり、信仰の純粋さを守ることでした。なぜなら、信仰は救いに至る道だからです。ですから、信仰を偽ってはなりません。聖ピオ十世会とその創立者を見て、判断しなければならないのは、この原則からです! 教皇フランシスコが私にお話しになり、「彼ら(聖ピオ十世会)は離教者ではありません」と言われたのは、この意味なのです。

4.危機の原因

「教会の深刻な危機の原因は何か?」という問いに進みましょう。すでに指摘したように、教会の深刻な危機の原因は、70-80年前の教会生活の進展にあります。それは、私のこれまでの生涯とほぼ一致します。しかし、私たちは正直に、「危機の始まりは、第二バチカン公会議より前にある」と言わなければなりません。一方、公会議とそれ以後の期間は、以前の教導権と以前の教会の実践に対する公式の(しばしば沈黙しながらも成功した)攻撃の出発点となりました。これらは、伝えられた信仰に対する攻撃でした。これらの攻撃は、近代主義の拒否を受け入れたくない司教たちや神学者たちによって行われました。同様に、彼らは、教会と、社会生活の特定の領域に境界線があることを受け入れようとはしませんでした。その結果、公会議の文書において、またそれに続く教導権と決定においても、聖伝から、教会の真の教えから、しばしば気づかれることなく、隠されたまま、秘密のまま離れ去っていったのです。ここに、教会の危機の深い原因があります。聖ピオ十世会の生みの親であるルフェーブル大司教が、公会議の教えと教理上の決定、そして公会議に続く教会の公式発表に無条件に従うことができなかった理由も、ここにあります。彼の態度は事実に照らして正当化され、完全に教会の信仰に沿ったものでした。人々は大司教にもっと耳を傾けるべきでした。彼に対する措置には重大な不公平がありました。なぜなら、教会の統治が聖伝から遠ざかっていることを証明するのは簡単なことだからです。それは【ルフェーブル】大司教の主観的、感情的な認識などではありません!

公会議についてのルフェーブル大司教の立場は、1978年11月18日の教皇ヨハネ・パウロ二世との会談で明確に示されています。この立場もまた、絶対的に正しいものです。ある手紙の中で、この高位聖職者は次のように報告しています。「公会議について、私は(教皇に)次のような文言に署名する用意があると告げました。『私は聖伝の意味で解釈された公会議の教令を受け入れます』。彼【教皇】には、それが完全に満足するもので、完全に正常なものだと分かったのです」。

ペトロの座とキリストの代理人に対する大司教の態度も、また正しいものです。例えば、彼はこう言っています。「教皇がリベラルな理念に染まっていることは確かです(…)もしこの事実によって、彼がこれらの誤謬に適合した行動や発言をしたときに、私たちが彼に従うことを禁じられるとしても、私たちは彼を軽蔑したり侮蔑したりするようになってはなりません。このことは、彼が占めているペトロの座に対する敬意からです。私たちは、彼がただ真理を断言し、私たちの主の統治を確立するためにのみ働くように、彼のために祈らなければなりません」。

5.ノブス・オルド・ミサ

聖ピオ十世会はある意味で、教会における危機の子です。私たちは、すでに次のように観察しています。教会の危機は、伝えられた信仰からの、聖伝からの、信仰の実践からの、部分的な背教の結果です。聖伝からの逸脱は、変更されたミサの聖なる犠牲の典礼において、最も痛みをもって感じられます。この変更は正当な動きだったのでしょうか。この変更は公会議の意向だったのでしょうか。

聖なるミサに関して、典礼に関する憲章「サクロサンクトゥム・コンチリウム」(Sacrosanctum Concilium)はこう言っています。「われわれの救い主は、渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、自分のからだと血による聖体の犠牲を制定した。それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、自分の死と復活の記念を託するためであった。それは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、未来の栄光の保証がわれわれに与えられる復活の祝宴である」【47番】。その一方で憲章は、改革に対しては、こう警告しています。「なお、真に教会のために確実に役立つものとして要求されている改革でなければ行ってはならない。また、すでに存在している形態から、新しい形態がいわば有機的に生ずるように、慎重に配慮する必要がある」【23番】。

それにもかかわらず、大きく変化した新しい儀式が、同様に変化した聖なるミサの神学とともに提示されています。すでに指摘したように、聖伝の聖体信仰からの逸脱は、1969年に、使徒的憲章「ミサーレ・ロマーヌム」(Missale Romanum ex decreto Concilii ecumenici Vaticani II instauratum)および「ノブス・オルド・ミサ」(Novus Ordo Missae)導入によって明らかになりました。同年のミサの新しい規則の検討の際、専門家による委員会は次のような結論を出しました。「ノブス・オルドには、トリエント公会議が教えた信仰を提示する意向がない。それにもかかわらず、カトリックの良心は、トリエント公会議に永遠に拘束されることは明らかである。そのため、ノブス・オルドの公布により、忠実なカトリック教徒は最も悲劇的な選択肢に直面している」。委員会【のこの言葉】は、あまり真剣に受け止められていませんでした。導入されたミサ典礼書が訂正されれば、この困難は解決されるはずでした。現実には、オルド【ミサ式次第】自体は、作られたそのままに残り、すなわち、もはやトリエントの信仰を十分に提示するものではありませんでした。長い年月を経て、使徒的勧告「デジデリオ・デジデラーヴィ」(Desiderio Desideravi、2022年)で、ついにそのこと【トリエント公会議で決定的に示されたカトリック信仰を新しいミサが示していないこと】が明らかになりました。一見すると、カトリックの用語や敬虔な態度、ミサ挙行という解釈があるにもかかわらず、大部分は聖なるミサについてのプロテスタント的な概念であると判断しないためには、目を逸らさなければならないのです。この教皇の書簡は公会議に言及しています。したがって、それは公会議の憲章の解釈として理解されます。ある比較・たとえだという考えは、ほとんど成り立ちません。

(続く)


大阪での堅振式 フェレー司教様お説教:堅振の秘跡の効果:霊魂に刻みつける刻印と聖霊の賜物

2023年05月25日 | お説教・霊的講話

2023年1月28日(土)大阪での堅振式 フェレー司教様お説教

受堅者の皆様 そして親愛なる信徒の皆様、
私たちは今日、堅振の秘跡を与えるというとても大きな喜びに満たされています。

【自然のレベルを超える秘跡というものの素晴らしさ】

秘跡ということを私たちが語るときに、それは私たちが考えつくことができる私たちが望むことができる最もすぐれたものよりも、さらに高度な最も高貴なものを意味します。なぜかというとこれは天主のレベルのものであるからです。

天主は私たちを無から何もないところから創造されました。創ってくださいました。そして私たちに完成を完璧さを与えようと望まれておられます。これは人間の完成ではありません。天主は、私たちにご自分自身の天主の完成を与えようと伝えようと望んでおられます。しかし私たちには、それがいったい何であるかを見たり聞いたりあるいは触ったりすることはできません。その能力がありません。なぜかというとそれは、天主の高みのレベルにあるのものだからです。

それでも天主は御自分のお持ちになる豊かさを私たちに伝えようと思われたので、その素晴らしさを伝えるために、天主は私たちのレベルにまで下りてくださるようにしなければならなかったのです。そしてこれが秘跡と呼ばれるものです。秘跡の定義というのは、目に見えないお恵みを聖寵を私たちの霊魂に生み出すことができる目に見えるしるしである、ということです。ですから秘跡を見ると、天主様が私たちの霊魂にどのような素晴らしい御業をなさってくださるかということを示す何かがあります。

【堅振の秘跡には重要な二つの点がある】

そこで教会は、私たちに、堅振の秘跡によって一番何が行われているかということを、二つのことを特に強調して教えています。もちろん二つのことだけには限りません。それ以上たくさんありますが、特に二つを強調しています。一つは霊の刻印――霊魂に刻みつける刻印であって、もう一つは聖霊の賜物です。

【霊の刻印とは】

堅振を授ける時には司教は、親指に聖香油をつけます。聖香油というのは、オリーブ油とそれからバルサムとが混ぜ合わされて祝別された、しかも司教様だけが聖木曜日に祝別することができる、特別の油です。オリーブの油は、聖霊の働きを意味しています。なぜかというと、聖霊と同じように霊魂に浸みとおるという働きをするからです。油を私たちが皮膚に塗油すると、その油は私たちの気がつかないうちに深くやさしく浸透します。聖霊も同じように働きます。私たちの霊魂に非常にやさしくやさしく浸透して、ドアをノックするように入るのではなくて、浸み通っていきます。ちょうど油が塗油されると私たちの細胞をもう一度生かして新しくすることができるように、聖霊も私たちに浸透して私たちをまたふたたび生かしてくださいます。昔は油で火をともしました。それと同じように、聖霊も私たちの霊魂を照らし出します。火と言えばもちろん聖霊は聖霊降臨のその日に舌の形をした炎として表れて、そして御自身が炎であるということを明かしています。

司教は、親指に聖香油をつけて、そして皆さんの額に十字架のしるしをしながら聖香油を塗油します。それと同時にこう言います。「私は救いの聖香油をもってあなたに十字架のしるしをする」。その瞬間、聖霊は皆さんの霊魂に特別な霊魂の刻印を刻み込みます。この刻印は、ちょうどハンコのように。印鑑のように刻印・しるしと呼ばれています。このしるしを持って、皆さんを兵士とされます。実はローマの時代には、ローマの兵士たちは自分が所属していた将軍の刻印を身体に打っていたのです。ですからこの兵士がどの軍隊に属していたかということは、誰でもわかりました。これは外見でわかるものでした。そしてこれによって兵士かどうかわかるのです。しかし堅振では皆さんの霊魂に刻みつけられて、皆さんがキリストの兵士であることをわかるようにします。

【天主の愛の炎】

聖霊が使った火という炎というイメージを使ってみましょう。石を火の中に入れたらどうなるでしょうか。この火の性質というか望みは自分の熱を伝えることですから、石であってもその火の性質が伝えられます。この石も、火の中に置かれると熱を吸収するばかりか火のような色にさえなって、火の性質が伝えられます。私たちは石ころよりももっと高貴なものです。天主の炎である聖霊が皆さんにご自分の炎を伝えようとされる時に、いったい皆さんにはどのような素晴らしいことが起きるでしょうか。石を見てください。火のなかにずっと置かれた石は、誰も触ろうとしません。なぜかというと、その石はあまりにも熱くて、火のようであって、熱を私たちに伝えようとするからです。聖霊も今日皆さんの霊魂に同じことをします。そして聖霊は皆さんの霊魂にご自分の炎を伝えますけれども、この炎というのは、聖徳の聖なる炎です。そしてこの炎で皆さんを燃やしめて、この炎を皆さんが他の人々に伝えることを望んでいます。

あれっ、道路を見ると何かきらきら光っていて太陽があるようだ。近づいてみると実は割れたガラスだったりとか何かなんですけれども、しかし太陽の光を燦然と輝かして、あたかも太陽があるかのようです。ちょうどそのように、皆さんの霊魂に刻まれた霊の刻印は、聖なる、聖別された、聖なるものに属している、ということのしるしです。ですから皆さんは、聖なる、特別の、聖霊に属するもの、となります。そしてこの聖なるしるし、この霊の刻印は、私たちを聖霊の道具として変化させてくださいます。日常のことばでいうと聖霊の道具というのは、「兵士」と言われています。

【十字架のしるし】

キリストのしるしというのは、十字架のしるしです。この御聖堂では何度も十字架のしるしをしますので、いったい何度するかは数えきれないほどです。では今日御聖堂の外に、レストランに行ったらどうでしょうか。ところでレストランに行って私たちは食べる前に必ず食前の祈りをしなければなりません。で、お祈りをするためには十字架のしるしもします。しかしカトリック信者で十字架のしるしをレストランでする人は、ほとんどいません。いったいなぜなのでしょうか。なぜかというと、今私たちは戦場にいるから、闘う場所にいるからです。悪魔はもしもキリスト信者が自分の務めをキリスト信者としての務めを果たすと、どれほどの霊魂を救うことができるかということを知っているので、それをしないようにできるだけ邪魔しようとします。ですから私たちがオープンにカトリック信者であるということを表明するようなことをさせないように働いているからです。

悪魔が最も良く使う武器は恐れです。それは使徒たちもそうでした。使徒ペトロを見てください。一人の女中の声に怖れをなしてしまいました。これは迫害のときだけではありません。いつでもありうることです。それは、他の人は私のことを何と思うだろうか、なんといわれるだろうか、ということを怖れているのです、そのために私たちは、私たちのなすべきことをしないように怖れさせてしまっているのです。世間体といわれているものです。

この怖れ、世間体を気にする、あるいは恥ずかしがる、キリストを赤面するということは、よく額に現れます。そこで司教様は額に十字架のしるしをして、怖れるなとサインをします。この怖れはキリスト教生活を麻痺させます。では、レストランで十字架のしるしをしたと考えてみましょう。何が起こるでしょうか。もしも私たちが十字架のしるしをしたとしたら、聖霊は私たちを通してお恵みの滴(しずく)を、この私たちを見るすべての人に与えるのです。これは何が起こるかというと、ちょうど私たちが聖人伝を読んだ時と同じことが起こります、何故かというと、聖人伝を読むとああすごいなあと言って私たちは勇気をもらいますし、その見本に倣いたいなあと思いますし、そしてその聖人の人生は私たちが信者として生活するための助けとなります。それと同じようなことが、皆さんがよいカトリックの信者としての義務を果たした時に周りに与える影響です。

私がこのいま申しあげたお説教をしたのちに、どこでもいろんな方が私に同じことをおっしゃるんです。あるときには異教徒、あるときには無神論者、あるときにはプロテスタントが、私たちが十字架のしるしをしたのを見て回心したという話です。簡単な十字架のしるしをするだけで、私たちは霊魂を得ることができます。レストランだけではありません、私たちの全生涯がそうです、いつもそうです。

では別なことを考えてみます。お恵みを受けて回心する方もいれば、そのしるしを見てそれを拒否する方、それを拒絶する方々もいます。そういう人は非常にしばしば皆さんを攻撃します、そして皆さんを批判します。それは時には、あの重大なものではないのですけれども、あるときには馬鹿にした態度とか、馬鹿にした嘲笑いとかですが、時にはこれは殉教にまで発展します。

【秘跡の言葉の通りに、現実に起こる】

司教は聖香油をもって、「私は十字架のしるしをする」と言うのみならず、「私は救いの聖香油をもってあなたに堅振を授ける、あなたを固める」とも言います。司祭あるいは司教は、確かに叙階の秘跡を受けた時に別の霊の刻印を受けました。これは司祭としての刻印ですが、その刻印を受けると、もはや司祭が秘跡を行う時には自分ではなくて、天主の道具として秘跡を執行することができるという刻印です。この最も目に見えるしるしというのは、証拠というのは、それはミサのときの聖変化の言葉のことです。司祭はこれを「私の体」という意味です。しかしそれは誰それ神父の身体ではなくて、キリストの体のことです。でもこれは、「私の体」と言って本当のことです。しかしこの言葉は真理です、本当です、なぜ本当かというと、実はこの聖変化のことばを発するときに、これはイエズス・キリストに属しているからです。ですからイエズス・キリストの体なので、「私の体」となります。この聖変化のことばはただイエズス様に属するのみならず、もっと深い意味があります。それは天主の全能の力が、この言葉に宿っているということです。人間が言葉を発するときには、自分の頭の中の考えを皆さんの頭の中に伝えるだけです。ところが、天主の御言葉は現実に有らしめます。それが本当に起こることになります。創造のことを考えてください。天主は無から御言葉によって創造しますけれども、たとえば、光あれというと本当に光があるようになりました。

イエズス様も、このことを行います。めくらに見えよ!というと、見えるようになります。足萎えに、歩けない人に「歩け!」。歩きます。死人に命令します「ラザロ、起きろ!」。死人が起き上がります。この天主の御言葉イエズス様の言葉は、すべての秘跡において行われます。ですから、これはただ言うだけではなくて、その言ったことが本当に皆さんの霊魂に生じるのです。司教が「私はあなたを固める!堅固にする!堅振を授ける!」という時に、皆さんの霊魂にはこのことが本当に生じて、現実に起こっているのです。

【洗礼の聖寵の御業が固められる】

ラテン語で、このコンフィルモというのは、固めるという意味があります。では何が固められるのでしょうか。それは天主様が洗礼のときから始められたその御業が固められるのです。では洗礼の時に何が起ったでしょうか。すべての罪が赦されました。そしてその罪の代わりに、そこを聖霊の恵みが聖寵の恵みが満たしました。そして私たちは天主の神殿となって、天主の子どもとなりました。それから天主の命が私たちに宿り、つまり成聖の恩寵を受けることになりました。今日、ですから皆さんの霊魂に聖霊が来られて、そして皆さんの霊魂を聖とする成聖の恩寵が豊かに与えられます。

【堅振は、キリスト教信者を完成させる秘跡】

聖トマス・アクィナスは、堅振の秘跡のことを聖寵の充満の秘跡だと言っています。教会は、キリスト教信者の完成の秘跡であると言います。聖霊は皆さんを最も堅固にして、そして完璧にしようと望んでおられます。この完璧さというのは、皆さんが成聖の恩寵を 充満を受けるということです。それと同じ程度で、皆さんは超自然のすべての聖徳を受け入れます。その超自然の徳についてもありますが、しかし教会は特に聖霊の賜物について強調しているので、これについても触れなければなりません。

皆さんは、公教要理で、聖霊の賜物というのは聖霊の息吹に私たちがより敏感で従順であるようしてくれる能力だということを学びました。ちょうどイメージで話しますと、二歳の子どもにこのペンを与えたとします。もしもペンを与えられないのならば何も書くことはできませんけれども、どんな小さな子どもでもペンがあれば何かを書くことができるようになります。天主だけが、私たちに超自然の徳を注入することができます。そうすると私たちは、たとえ子どもであっても、天主のレベルの行為までもできるようになります。問題があります。それは、子どもはこう何かを書く時に自分のやりたいことだけ自分の思うままにやるんです。ですから、何か子どもの書いたものをみると、あっこれは子どもの書いたものだとすぐに誰でもわかります。天主は無限に完ぺきな方で完成された方であって、無限に私たちを愛しておられる方です。ところで愛しているということは相手に最高の最善のことを望むということです。ですから、天主は最善のことを無限に望んでおられます。ですから、ちょうどたとえて言うと、子どもにペンを与えて、それから「さあお前は今から大傑作を書きなさい、ただ落書きではなくて、美術品を書きなさい」というようなことです。じゃどうやったらこの子供が美術品の最高傑作を書くことができるでしょう。何かそのようなことを求めるのは不可能ではないでしょうか。

イエズス様は私たちにこのことを命じました。これは掟です。完璧であれ、と。完全であれ、と。しかもこういわれました。あなたたちの天の御父が完全であるように完全であれ、と。つまり、私たちは天主様が完璧であると同じ程度に完璧であれと、掟を命じられたのです。でも私たちはこの小さな子供のようなものなので、どうやったら完璧になることができるでしょうか。ここに天主の原理があります。天主がもしも私たちになにか使命を、あるいは掟を与えたら、それを果たすことができるお恵みも、必ず与えるということです。もしも天主が私たちに完全であれと命令を下すのならば、天主はそれと同時に、私たちが完全であることができる手段も方法も与えてくださらなければなりません。そしてこの手段が、堅振の秘跡です。

子どもの例にもどります。ではこの子どもがペンを持って何かを描こうとするその瞬間に、偉大な芸術家がやってきて、そして子どものペンと一緒に描くのなら、そして子どもがそれに従って手を動かすなら、その時に偉大な芸術作品が出来上がります。これは子どもが書いたのであって、同時に芸術家が書いたものです。この芸術家は聖霊と呼ばれています。そして、この天主である芸術家・聖霊は、皆さんの手のみならず全生涯をつかんで、そして皆さんの生活を聖化しようとされます。それが聖霊の七つの賜物で、すべての活動をフォローしています。難しいと仰らないでください。子どもがただこの芸術家の手の動かされるままに手を動かすというだけの簡単なことです。そして秘跡は皆さんにこのお恵みを与えますけれども、しかし聖霊がどのように働くは、皆さんの心の持ち方次第なんです。皆さんが聖霊に働くことを許せば許すほど、聖霊に熱心に信心を持てば持つほど、聖霊は皆さんをよくつかまえて動かすことができます。

これはどういうことか言うと、皆さんに良い考えが起こるときに――たとえば罪を避けなさい、あるいはよいことをしなさい、嘘を言ってはいけないなどという時に――それに従った場合、それは聖霊に自分の手を任せたことです。そして聖霊に導かれるがままに生活したことになります。そして、聖霊が皆さんを導かれるままに従ってするときに、それは芸術作品になります。

【聖母に祈る】

では最後にマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様が皆さんの霊魂をよく準備してくださいますように。聖霊の恵みをたくさん受けることができるように助けてくださいますように。そして第二のお恵みとして、すでに堅振の秘跡を受けた方も、私たちが聖霊の息吹に敏感に従うことができるそのお恵みを請い求めましょう。

そしてそうすることによって、私たちが本当に天主の子どもとして生きることに、天主の御父のまなざしに注意して生活できるように、そしてこの世の怖れとか世間体とかこの世とか、あるいは悪魔が私たちに何を恐れさせるかということにも打ち勝つことができるようお恵みを請い求めましょう。
それはみなさんが、ついには天主御父が私たちに望んだ完成を受けることです。それは、完ぺきな永遠の無限の天主の幸せを私たちがうけて、父と子と聖霊とともに永遠に幸せであるためです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

【お知らせ】
一般社団法人日本聖ピオ十世会の銀行口座が開設されました。
御寄附や四旬節の献金、また教会維持費などのためにお使いくだされば幸いです。
愛する兄弟姉妹の皆様の暖かいご支援を感謝申し上げます。

銀行名:住信SBIネット銀行
金融機関コード(銀行コード):0038
支店番号-口座番号:106-1951537
漢字氏名:一般社団法人日本聖ピオ十世会
カナ氏名:シヤ)ニホンセイピオジツセイカイ


堅振の秘跡の儀式の一番大切な部分、堅振の儀式、新しい堅振と聖伝の堅振の違いについて

2023年05月24日 | お説教・霊的講話

2023年1月22日 東京 説教

日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

ついに一週間後、私たちには堅振の秘跡の儀式があります。堅振をうけようと準備されている方はいま23名おられます。その方々の多くは今日告解の秘跡を受けられると思います。

もしもできないという方々もいらっしゃると思うので、堅振の日には来週の主日の9時には、その前に堅振を受ける方々が告解を受けることができるようにと配慮してくださると非常にうれしく思います。もしも大罪の状態で堅振を受けてしまうと、堅振は有効ですけれども、しかし涜聖の罪を犯してしまうことになり、そしてお恵みがブロックされてしまうからです。どうぞ寛大な配慮を感謝いたします。

二回目のミサののちに堅振を受ける方のリハーサルがあります。今日ミサに与っている方で、もしも二回目のミサの後のリハーサルに参加することができればうれしく思います。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さま、

私たちは先週、聖霊の七つの賜物について黙想しました。上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、そして敬畏です。今回は堅振の秘跡の儀式についてお話ししたいと思います。

まず堅振の儀式の一番大切な部分、それから次にどのような順序で儀式が行われるか、そして最後に新しい堅振と聖伝の堅振はどのような違いがあるかということを、少し垣間見たいと思っています。

堅振の儀式の最も大切な部分は、司教さまが堅振を受ける人々にするしぐさ、質料、そしてもう一つは仰る言葉、つまり形相です。

【堅振の質料】

堅振の質料というのは、たとえば、洗礼のときには水が必要だったように、堅振のときにはこの二つのことが必要です。一つは司教様が堅振を受ける方の頭に按手するということ。もう一つは、聖香油という特別に祝別されたオリーブオイルを使ってそれを塗りながら堅振を受ける方の額に十字架のしるしをすること、この二つが必要です。もしもこの二つが無ければ質料がないということなので、堅振は無効になってしまいます。

聖香油というのは、聖木曜日に司教様が「聖香油のミサ」という特別のミサで、多くの司祭や助祭などと一緒に捧げるにおいて、オリーブ油に特別な香バルサムという香を混ぜながら祝別する特別な油です。

オリーブ油を使うということは旧約時代から聖伝であって、王さまあるいは預言者あるいは大司祭を聖別するために作るためにオリーブ油が必ず使われました。そして新約時代にも、使徒の時代から二千年間オリーブ油だけを使って、これ以外の油を使わずに堅振の秘跡を授けてきました。

ちょうどお酒といえば日本語でこれはお米からできるものであって、サツマイモからできたものは これは日本酒とはいいません。それと同じように、オレウム(oleum)という言葉では、これはオリーブから搾られた油を指しています。バルサムを入れるというのは、これは非常によい香りがする材料で、そして腐敗を防止します。特に死者の悪臭を防ぐために、そして腐敗を防ぐために、古代からバルサムを額に塗って腐敗を防止するということをしていました。これが意味するところは、オリーブ油が、聖霊の働きが霊魂に染み通るということを意味し、力をつけるということを意味し、養うということを意味し、同時にバルサムが私たちを罪という腐敗の悪臭から守ってくれる、ということを意味します。これが意味するのみならず、それに対応する聖霊が働くということです。聖寵が与えられるということです。こうすることによって私たちはキリスト者、つまり油を注がれた方キリストに倣うものとなって、完成されたキリスト者となるのです。 

司教様が按手するということも必要な質料です。按手というのは、受堅者の堅振を受ける方の額に直接に触れていなければなりません。なぜ額に十字架の印をするかというと、額というのは恥ずかしいとか恐れる時に青くなったり赤くなったりして最も人間の弱さが現れるところなので、そこに十字架の印をしながら、キリストの敵に対して恐れることもなく恥じることもなく、堂々と堅固たれ!ということを意味します。 

【堅振の儀式】

ではいったい堅振の秘跡はどのように行われるか簡単に見てみましょう。詳しくはリハーサルをする時に申し上げます。

【準備:ヴェニ・クレアトルと説教】

私たちの聖ピオ十世会の習慣では、まず司教様と一緒にヴェニ・クレアトルを歌います。これはポンティフィカルという典礼書には載っていないのですけれども、私たちは伝統的にそれをいつも歌っています。ここでもそうします。その次に司教様は、私たちにお説教をしてくださいます。そして堅振を受ける方の霊魂を準備します。

こうしてから儀式は、典礼書に書かれている通りになります。典礼の儀式書によれば、堅振の典礼は四つの部分に分かれています。三つの部分と、あとは最後の四つ目は付属の祝別です。

【聖霊を呼び求める】

まず第一に聖霊を呼び求めます。司教様は立ったまま堅振を受ける人々に、特に罪から罪を犯すことから守られるように、なぜかというと聖霊の賜物は罪とは共存することができないからです。それから特にこの後で、両手を伸ばして、堅振を受ける方々に聖霊の恵みが伝わるようにと、祈ります。特に悪魔の奴隷状態から解放されるように、そしてその代わりに聖霊が注がれるように、と祈ります。その次に、やはり手を伸ばしながら聖霊の七つの賜物を一つ一つはっきりと「この賜物を与え給え」と祈ります。皆さんはその名前を聞いたら「アーメン」と、儀式書に従って答えてください。

【堅振の秘跡の核心部分】

聖霊を呼び求めた次は、堅振の秘跡の核心部分に行きます。その堅振を受ける方はこの前に行列をつくってください。司教様は祭壇の前に座ります。そして一人ずつ司教様の前に行って跪きます。代父母の方は堅振を受ける方の右の肩に右の手で触って直接触れながら、立っていてください。

司教様は ミトラという司教様だけが被る司教帽を被りながら、聖香油を親指に浸して堅振を受ける方の名前を聞き、その名前を呼んで、そして秘跡のことば(形相)を言います。例えば、ヨゼフという方が堅振を受ける時には、「ヨゼフ、私はあなたに十字架の印をして」と言いながら、頭に按手して、この親指で、額に聖香油で十字架を塗油します。「助かりの聖香油を持って汝に堅振を施す」あるいは「汝を堅固にする」と言います。そしてその次に手を離され「聖父と聖子と聖霊との御名によりて」と言いながら 三回堅振を受けている人に十字架のしるしをします。堅振を受けた方はここで「アーメン」と答えてください。

こうして堅振を受けた方は司祭から聖香油を受けた部分を拭き取ってもらって、そして自分の席に戻ってください。堅振を受ける方には、一人一人同じことをされます。最初に男性、次に女性です。

【「平和があなたと共に」】

その帰る前に、司教様は第3の部分を行います。その部分は非常に簡単です。しかし非常に深い意味があります。つまり堅振を受けたので、これからは立派なキリスト者だ、聖霊の充満を受けた、もう赤ちゃんではない、大人だ、兵士だ、という意味で「平和があなたと共に」「 パックス・テクム」と言いながら堅振を受ける方の頬を平手打ちします。ビンタをします。びっくりしないでください。なぜ司教様がビンタをするのかというと、イエズス・キリストの信仰のためには苦しいことも屈辱も雄々しく耐え忍びなさい、ということを示しているからです。でも同時に「平和があなたと共にありますように」と祈るのは、しかし勇気ある態度でイエズス様の信仰を耐え忍ぶのだ、イエズス様のために苦しみを耐え忍ぶのなら屈辱を耐え忍ぶのなら本当の平和が与えられる、ということを意味しています。同時にそれが約束されています。こうして自分の席にお戻りください。

その後、司教様は手を洗います。その手を洗っている間に聖歌隊はアンティフォナを歌います。今まで私たちが受けたこの秘跡がさらに固められますように、という祈りです。

【特別の祝福】

その次に司教様は堅振を受けた人に向かって特別の祝福を与えて、最後には皆さんに、立って主祷文・天にまします、めでたし、それから使徒信経を唱えるようにと命じます。堅振を受けた方は大きな声で恥ずかしがらずにそれを信仰宣言してください。

以上がどのような儀式が行われるかということの説明です。その直後にミサ聖祭が始まります。 

【聖伝の堅振を行う理由】

では、なぜわざわざ司教様は日本までやって来られて、そして昔ながらの堅振をするのでしょうか。新しい堅振はどうなんでしょうか。それについて、ひとつ簡単に説明します。

新しい堅振は50年前にできました。1971年に変更され、1972年にもさらに変更が加わりました。そこで大きく変わってしまいました。変わったその理由は、エキュメニズム、それから新しい神学です。

今までの秘跡は全て、エキュメニズムのために、他の宗教と似通った儀式を取り入れるようになってしまいました。詳しく研究された方は、新しい堅振の秘跡は ルター派の「堅信礼」といわれている信仰宣言によく似ていると指摘しています。

もともと堅振の秘跡というのは 私たちに特別のお恵みを与えて、そして私たちをキリストの兵士とすることです。信仰のために潔(いさぎよ)しとするものですが、しかしエキュメニズムのために私たちがその信仰のために戦うということを放棄するようになってしまいました。ですから非常に残念なことに堅振の儀式がプロテスタントに似てしまっています。しかしたとえプロテスタントと似ていても、それだけならば有効は有効ではないのか?――はい、それだけならば有効であり得る、と言えます。

しかしさらに形相が、つまり祈りの言葉が、変わってしまいました。もともとは「誰それ、我汝に十字架の印をなし、救いの聖香油を持って汝を堅固にする、聖父と聖子と聖霊との御名によりて」という言葉でした。しかし新しくなり、「賜物である聖霊の印を受けなさい」に変わってしまいました。これは東方教会のある堅振の儀式から取られたとされています。

またオリーブ油を使うということは 旧約時代からの聖なる伝統でした。聖伝によれば、オリーブ油で作る聖香油だけが有効な堅振を行うことができ、他の植物油では無効だと考えられていました。カトリック教会の今までの教えに従えば、もしもオリーブ油以外のものを使われた場合には無効になる疑いがあると教えられてきました。しかし1972年にパウロ6世がどんな植物から出た油でも良いとしてしまいました。一体なぜそれが許されたのか、その根拠には非常に大きな疑問があります。有効性に疑いが生じます。これは私たちの意見ではなくて、以前昔ローマでそのような報告があった時にもう一度やり直すようにという指示があったことからも、それがいえます。それもオリーブ油でなければならない理由の一つです。 

また確かに新しい堅振では、掩手(えんしゅ)、司教様が他の司祭たちと一緒に手を伸ばす儀式はあるのですけれども、直接に手をつける按手(あんしゅ)というのがなされるかどうかについては、疑問があります。翻訳の違いによって色々なやり方がなされています。アメリカの方ではその手を置くということについて特に言及がないようです。ですからもしも按手がないと、その有効性に疑問が生じます。

【遷善の決心】

では最後に遷善の決心を立てましょう。
私たちは、それでも世界中を回って私たちが聖霊の充満を受けることができるように堅振を授けてくださる司教様がいらっしゃる、そして今回この二千年間のままの堅振式の儀式を秘跡を受けることができるこのお恵みを感謝いたしましょう。これは探しても見つけることが非常に難しい特別のお恵みです。この堅振の秘跡が私たちに伝わるためにどれほど多くの犠牲をルフェーブル大司教様が払ってくださったかということは、私たちはその伝記で読むことができます。

私たちが聖霊の充満を受けてイエズス様の信仰をいつも誇らしく守ることができるように祈りましょう。イエズス様はこういいます。「私と私の言葉を恥じる人を、人の子もまた自分の栄光と御父と聖なる天使たちとの栄光を持って来るその日に恥じるだろう」。私たちは決してイエズス様の信仰を恥じてはなりません。そのためにも堅振のお恵みをよく受けるようにいたしましょう。

二週間後 2月5日はこの巡回教会の守護の聖人の大祝日です。そのうちの二十六聖人の中には子供たちも三人いました。そのうちの一人の話をして、今日のお説教を終わります。

最年少の12歳のルドヴィコ茨城は、長崎でも、旅の途中いつも苦しみの中でいつも朗らかにしていて、 そして明るくしていました。ある時、唐津城主の弟であった寺沢八三郎が、ルドヴィコを――子供を見て「お前、 信仰棄てろ。そうすれば俺の家に引き取ってやるから。武士にしてあげる。どうだ、いいじゃないか。武士だよ。」と言うと、ルドヴィコは「お奉行様、あなたこそキリシタンになってください。そして一緒にパライソに天国に行きましょう。」ときっぱりと断ったのです。

武士になるよりも武士になって天国を失うよりもこのまま天国に行った方がよっぽど良いということです。そして長崎に行くと「僕の十字架どこ?」と探して、「あぁ、あれだ!」と喜んで走って行って、そして最後には「パライソ!パライソ!」と「天国!天国!」と「イエズス!マリア!」と言って殉教していきました。聖霊に満たされていた子供です。私たちも堅振の秘跡で聖霊に満たされるお恵みを請い求めましょう。

昔ながらの堅振の秘跡によって聖なるカトリック信仰を強めてください。完全な信者として成長させてくれるそのお恵みに心からそして感謝いたしましょう。そしてこのお恵みをけっして無駄にすることがないよう、特にお祈りいたしましょう。マリア様にお願いいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。

【追加情報】

Prümmer "Manulae Theologiae Moralis III" の堅振の項にはこうある:
156. 3. Unctio debet fieri cum pollice manus dexterae, non autem cum penicillo aut alio instrumento, ut iam dictum est. Si tamen episcopus pollicem habet infirmum, licite potest ungere pollice manus sinistrae vel alio digito (46: Cf. S. Alph. 1 . c. n. 165). 

日本語訳 「156. 3. 【司教が堅振の秘跡を授ける時】塗油は右手の親指でなされなければならなず、すでに述べたように、棒状のものやその他の道具でやってはならない。しかしもしも司教の親指が病む場合、左の親指あるいはその他の指を使って塗油をすることができる。」(強調は筆者による)

【お知らせ】
一般社団法人日本聖ピオ十世会の銀行口座が開設されました。
御寄附や四旬節の献金、また教会維持費などのためにお使いくだされば幸いです。
愛する兄弟姉妹の皆様の暖かいご支援を感謝申し上げます。

銀行名:住信SBIネット銀行
金融機関コード(銀行コード):0038
支店番号-口座番号:106-1951537
漢字氏名:一般社団法人日本聖ピオ十世会
カナ氏名:シヤ)ニホンセイピオジツセイカイ


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年05月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2023年5月21日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計111人でした。大阪では37人でした。

今日、私たちの兄弟姉妹の或る夫婦に女の子が生まれました。お祈りください。洗礼式は6月5日(月)に行う予定です。今年生まれる予定の赤ちゃんたちが私たちの間に二人います。この子供たちの良い出産をお祈りいたしましょう。

7月1日(土曜日)には大阪でマーチフォーライフが行われます。多くの兄弟姉妹の皆様のご参加をお願い致します。東京では7月16日(主日)にマーチフォーライフがあります。





今年の7月には、フランスから、ビルコック神父様(聖ピオ十世会)やトマス神父様(イエズス会)、またドイツからはラロシュ神父様(聖ピオ十世会)が来日される予定です。

来週の主日は聖霊降臨の大祝日です。東京、大阪、名古屋でミサがあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】【東京】

Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 111 including children.

09:00 mass
M: 29 (incl. 5 children)
F: 37 (incl. 8 children)
Total: 66 (incl. 13 children)

11:30 mass
M: 25 (incl. 2 children)
F: 22 (incl. 2 children)
Total: 47 (incl. 4 children)

Total of 2 masses (excl. 2 persons who participated in multiple masses)
M: 53 (incl. 7 children)
F: 58 (incl. 10 children)
Total: 111 (incl. 17 children)


天主は、たった一つの聖寵も、たった一つの祝福も聖母の手を通さずにこの地上に来ることを欲しておられない

2023年05月23日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年5月21日は御昇天後の主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御昇天後の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


聖ピオ十世司祭会総長とのインタビュー:教皇フランシスコの教皇職の最新の方向性

2023年05月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

聖ピオ十世司祭会総長とのインタビュー

  • 彼らは、教理もなく、教義もなく、信仰もない教会を提唱しており、そこではもはや何かを教える権威は必要ありません。すべては『愛と奉仕』の精神に溶解しているのですが、それが何を意味するのか、どこに至るのか、よく分からないままです。
  • 教会は、矮小化された超自然的ではない「福音」を提示するだけに還元され、…人類がもはや回心する必要がないと提示するのです。
  • 残念なことですが、エクレジア・デイのこれらの団体のメンバーは、トリエント典礼を捧げることを望む他の多くの司祭と同様に、教会生活における現在の出来事に直面して沈黙し、恐怖の中に生きています。…この状況は、典礼の領域と教理の領域との間に永久に続く二項対立を引き起こし、そのことが、司祭たちを永久に続く欺瞞の中に生きさせ、信仰告白の必要に直面したときに、彼らを救いようのないほど麻痺させるという危険性があります。

Interview with the Superior General of the Priestly Society of Saint Pius X

聖ピオ十世司祭会総長とのインタビュー

2023年5月12日
FSSPX.NEWSサイト

教皇フランシスコの教皇職の最新の方向性

2023年5月5日の聖ピオ五世の祝日にFSSPX.NEWSがメンツィンゲンで行ったインタビュー

【問い(FSSPX.NEWS)】総長様、教皇フランシスコは先日、教皇在位10年を迎えました。ここ数年で最も重要なポイントは何だとお考えですか?

【ダヴィデ・パリャラーニ神父】教皇の二つの中心的かつ革新的な思想、つまり「普遍的な恩赦」【全てをゆるす】と理解されるあわれみと、地球を「全人類の共通の家」として尊重することに基礎を置く新しい道徳、この二つの思想に続いて、近年ではシノダリティーという思想によって特徴づけられていることは否定できません。シノダリティーは決して新しい思想ではありません(注1)が、教皇フランシスコはこれを自らの教皇職の優先軸に据えました。

シノダリティーとは、成熟し完成した近代主義の真髄を表しているにもかかわらず、この思想があまりにもどこかしこにも遍在しているため、多くの人は、時に、これに関心を失っています。教会学的な観点から見ると、シノドス革命は、教会の位階構造、機能、そして何よりも信仰の教えにおいて、教会に衝撃を与えるとともに、教会を深く変容させるものだと考えられます。

(注1)第二バチカン公会議直後から始まったシノドス運動だが、それ以来、千回以上の教区シノドスが開催されており、その際、信者が頻繁に参加していた。このことは、まったく革新的なことである。
教皇フランシスコは、教皇就任当初からシノダリティーという概念の要素を明確にした。第一に、「信仰の感覚」(sensus fidei)および、民衆の敬虔さを啓示の源として解釈することを通して(使徒的勧告「福音の喜び」[Evangelii gaudium]119-120番参照)、次に、「司教シノドス設立50周年記念講演」(2015年10月17日)において、より率直にシノダリティーの問題を述べることによって、明示していたからである。これに基づいて、国際神学委員会は、「教会の生活と使命におけるシノダリティー」(2018年)という概念を具体的にするテキストを作成し、今日私たちが動いているのを目にしているプロセスを理論化した。
このように、シノダリティーに関するシノドスは、公会議以来広く実験されてきた概念を教会全体の規模で実践的に適用したものとして現れている。この概念は、現教皇在位期間を通じて、提示され、神学的に探求されてきた。

【問い】なぜ、人々はこのシノダリティーに疲れてしまったのでしょうか?

【パリャラーニ神父】考えられるのは、シノダリティーが過度にドイツ語圏の問題として認識されてきたこと、あるいは、おそらく、すべての物事を誇張せずに言えば、シノダリティーは基本的にはベルギーの問題であって、その普遍的な次元が時間の経過とともに失われてきた可能性があることです。ドイツ人たちがこのシノドスのプロセスで特別な役割を果たしたことは確かですが、この問題自体はローマの問題であり、したがって普遍的なものであり、そのため、カトリック教会全体に関わるものなのです。

【問い】このシノドスのプロセスをどのように定義なさいますか?

【パリャラーニ神父】第一に、このプロセスは、あらかじめ定義された教理というよりは、或る具体的な現実です。このプロセスは、混乱した手法であり、もっとよく言えば「一つの実践」(a praxis)です。あらゆる可能性を前もって知ることがないままに開始されたものです。具体的に言うならば、教会をひっくり返そうという断固とした願望です。教導教会は、もはや自らを天主からの啓示の管理者、守護者であるとみなしていません。そうではなく、教皇と共にいる司教団とみなしており、彼らが耳を傾けるのは、信者の声、特にあらゆる周辺部の声であり、つまり最も疎外された霊魂が提案するものに特に注意を払っているのです。それは、牧者が羊になり、羊が牧者になる教会なのです。

その根底にある思想は、天主がご自身を啓示なさるのは、位階階級によって守られている聖書や聖伝という伝統的な経路を通じてではなく、「天主の民の体験」を通じてである、というものです。このため、シノドスのプロセスは、世界中の全教区の信者による話し合いから始まりました。このデータに基づいて、司教協議会のレベルで要約が作成され、数カ月前に最初のローマのまとめ(synthesis)が発表されました。

【問い】天主がご自身を啓示され、天主の民の体験を通じて御旨を周知させられるという思想は、どのような意味を持つのでしょうか?

【パリャラーニ神父】この思想は、近代主義という建築物全体の基盤そのものです。聖ピオ十世は、回勅「パッシェンディ」(Pascendi)全体を、啓示に関するこの誤った思想を糾弾することで構築しています。もし、聖書と聖伝に言及する代わりに、信仰が、最初は個人的な体験に、そして共有されたときには共同体的な体験に還元されるとすれば、信仰の内容、ひいては教会の構造は、あらゆる種類の可能性のある進化に開かれてしまいます。定義によれば、体験とは、ある瞬間と、あるいはある期間と結びついています。体験とは、時間と歴史の中で起こる現実であり、したがって本質的に進化的なものです。それと同じように、私たち一人一人の人生の中にも運動があり、それゆえに進化していくものなのです。

このような信仰体験は、歴史のさまざまな瞬間の認識と必要性に応じて必然的に進化する運命にあり、新しい内容で常に「豊かに」され、同時に、もはや現代的でないものは脇に置かれます。このように、信仰は、むしろ、人類の歴史と同様に、常に新しくて変化する偶発的な出来事と結びついた、人間的な現実となるのです。長期的には、永遠のもの、超越的なもの、不変のものが残される余地はあまりありません。私たちがまだ、天主とカトリック教会について語るならば、この二つの現実は、体験が「ここで、今」(hic et nunc)感じられることを投影したものに終わってしまいます。この二つの用語【天主とカトリック教会】は、私たちの信仰の他のすべての教義的な要素とともに、その真の意味と範囲において取り返しのつかないほど変えられています。この二つの用語は、ぼんやりとしたこの世的で変化しやすいだけのものの中に、徐々に再吸収されていくのです。その用語の意味は、人類と、人類の持つ天主への経験とともに進化します。この思想は新しいものではありませんが、シノドスのプロセスは、その広さと深さの新たな最高点を表しているのです。

【問い】総長様が言われたこの「ローマのまとめ」について、どんなものかをお教えいただけますか。

【パリャラーニ神父】このローマのまとめは、2022年10月に発表された文書で、タイトルは「あなたの天幕に場所を広く取りなさい」です。

これは、シノドスの旅の大陸段階で司教たちの内省のために、すなわち、それぞれの大陸で共に会う司教たちのために、作成された作業文書です(注2)。この文書は、信者の「信仰の感覚」(sensus fidei)を表現したものであり、司教たちはこれを「シノドス的な教会への回心の道筋を示すあかしであると認識する弟子の目で」祈りながら読み(…)「教会は(…)どのようにその福音宣教を刷新するか、(…)耳を傾けることから学びます。」(注3)したがって、この「信仰の感覚」の表現を前提として、司教たちは結果を導き出して最終決定を下すことが期待されているのです。

(注2)大陸のグループは七つに分かれている。南米と北米は別の存在であり、中東はアジアと別である。
(注3)「あなたの天幕に場所を広く取りなさい」、13番。

さて、このテキストの内容とそこに含まれる提案は、最初から最後まで大惨事です。カトリックの信仰を表現したものとみなされ得るものは、実質的に何一つありません。それどころか、提案のほとんどは、教会がまったく新しい現実へと溶解していくことを提唱しています。信者の一部(そして特に現代では司祭の一部)が奇妙なことを言うのは理解できるかもしれませんが、バチカンのシノドス事務局が作成したまとめにそのような記述が残されたのは絶対にあり得ないことです。

【問い】このまとめの中で、特に危険だと思われる箇所はありますか?

【パリャラーニ神父】残念ながら、文章のほとんどが恐ろしいものです! しかし、特に二つだけ、この文書全体の意図、特に、カトリック教会の本質そのものを、シノドスのプロセスを通じて変えたいという願望を要約しているように思えるものがあります。第一に、権威に関連して、逆向きに機能する教会、教導教会がもはや何も教えることができないという教会を認めたいという明確な願望があります。「一人だけで行う運営を特権化するピラミッド型の権力を解体する教会的パラダイムとして、シノドス的組織モデルを構築することが重要です。教会における唯一の正当な権威は、主の模範に従った、愛と奉仕の権威でなければなりません」(注4)。

ここで私たちが疑問に思うのは、一つの異端があるのか、あるいは単に、私たちが表現することさえできない「無」があるのか、どちらだろうかということです。異端者とは、実際には、まだ何かを「信じて」おり、たとえその思想が歪んでいるとしても、まだ教会についての思想を持っているかもしれません。しかし、ここで私たちが扱っている教会の概念は、曖昧であるばかりでなく、現代の表現を用いれば「流動的」でもあるのです。ここで彼らは、教理もなく、教義もなく、信仰もない教会を提唱しており、そこではもはや何かを教える権威は必要ありません。すべてが「愛と奉仕」の精神に溶解しています。しかし、それが何を意味するのか、どこに至るのか、よく分からないままなのです。

(注4)同上、57番。

【問い】総長様は、特に気になる第二の箇所があるとも言われましたね?

【パリャラーニ神父】はい、あります。次の第二の文章は、全テキストの精神を要約していると同時に、教皇フランシスコの教皇職のこの数年の本当の感情を表しているように私には思えます。「世界は『出向いていく教会』を必要としています。それは、信者と非信者の間の分裂を断ち切り、人類に目を向け、教義や戦略以上のもの、救いの経験、人類と自然の叫びに応える『贈り物の一撃』を提供する教会です」(注5)。この短い文章には、最初に見る文章よりもはるかに深い意味と重要性があると私は確信しています。

(注5)同上、42番

信者と信者でない人の区別を拒否することは、現在の文脈では論理的ですが、確かに狂っています。もはや信仰が本物の超自然の現実でなくなれば、信仰を守って宣教するはずの教会そのものが、その存在意義(raison d’être)と人間の中での使命とを変えることになります。

実際、もし信仰が他の経験の中の一つに過ぎないのであれば、どうして信仰がより良いものであるかのように描かれ、またなぜ信仰が普遍的に課されなければならないのでしょうか? 簡単に言えば、一つの感情・経験は、絶対的真理に一致することはあり得ません。その価値は、特定の意見の価値であり、これはもはや伝統的な言葉の意味での真理ではあり得ません。このことは、論理的には、信者と信者でない人の区別を拒否することになります。残っている唯一のものは、期待、意見、叫びを持つ人類であり、そのような人類は超自然のものを主張することはないのです。

このように、教会は人類に対して、もはや超越的な啓示の伝達とは言えない教えを提供することになります。教会は、矮小化された超自然的ではない「福音」を提示するだけに還元され、その時、福音は単なる内省と慰めの書にすぎず、区別なくすべての人に適応している本になりさがります。この観点から、「ラウダ―ト・シ」(Laudato si)が提案する新しい神学と新しい環境保護的な道徳は、人類がもはや回心する必要がないと提示するのです。またその神学と道徳においては、信者と信者でない人の区別はもはや存在していないことを私たちは理解します。

【問い】メディアでは、シノドスが同性婚に注意を払っていることが特に目立ちます。この問題をどのように捉えておられますか?

【パリャラーニ神父】この分野における世界的な圧力が、シノドスのプロセスにも影響を与えていることは否定できません。教会は、特に使徒的勧告「愛のよろこび」(Amoris Lætitia)によってこれらの人々に扉が開かれた後、これらの人々の感情的な必要性に対して、さらに歓迎し、気配りをするよう求められています。これは、最も期待が高まっているテーマの一つです。私たちの受けた印象は、一方では、教会当局が、このようなカップルを祝福することはできないという原則を繰り返し(例えば、2021年3月の教理省の回答)、他方では、何度かこのようなカップルが祝福されている(役所で法律上の結婚をした後に祝福を受けるために教会に来るカップルもある)というものです。

数カ月前、フラマン語圏ベルギーの司教団は、これらのカップルを祝福する公式な儀式を発表したほどです。この新しい取り組みに対して、バチカンは今のところまだ反応を示していません。アントワープの司教によれば、教皇はこのことをご存じでしたが、ただなすがままにさせておくことにしたのだということです。同じように、ドイツの司教団は、この分野での大きな、そしてあからさまに革命的である前進を提案しています。このすべてのことが、司教や信者の一部による反発を引き起こすのは避けられません。しかし、他の多くの人々は、物事を受動的に観察することで満足しています。

こうして、この分野でも他の分野でも、弁証法的で混乱した状況が生まれ、その中で誰もが自然に、管轄当局からの宣言を待つだけになってしまっています。すると、この当局は、物事が早すぎると思われるときには自由にブレーキをかけますが、譲歩して物事を前に進め、少しずつ、さまざまな慣習や習慣の一部になるようにすることもできます。時には、教会の伝統的な教理が繰り返し述べられ、不変のものとして定義されることもあり、このことは保守派を安心させます。しかし、特定のケースの司牧上の必要性も同様に強調され、和解不可能なものを和解させるという「奇跡的」なあわれみが適用されます。現実には、伝統的な道徳原理や信仰は、このようにして選択可能な意見へと変容していくのです。これは、権威を行使する方法の特徴であり、もはや超越的な原則に導かれることなく、その時々の期待に対して敏感に反応を見せ、純粋に現実的な方法で評価された好機に従って、その期待を満たすことを決意するのです。

しかし、このようなことが、ある時点ですべて止まるというわけではないと理解することが重要です。このように権威を行使する方法は、現代の民主主義国家を支配しているのと同じメカニズムを使っています。今日認可され得なかったものが、明日、同じ弁証法によって、また新しい圧力と新しい前例によって、状況が十分に成熟し、心が十分に準備されたときに、認可されることになるのです。これが、シノダリティーが引き起こすメカニズムの簡単な説明であり、これが、私たちが近代主義の最も完成された例に直面していると言った理由です。

【問い】直近では、教皇フランシスコの教令は、トリエント・ミサを捧げることを望む新任司祭は、聖座の明示的な許可を得なければならないと再定義されました。さらに、小教区の教会で聖伝のミサを許可するためには、聖座の許可も必要であるとされています。これらの施策をどのように評価なさっていますか?

【パリャラーニ神父】経験豊かな専門家でなくても、聖伝のミサを廃止しようという明確な願望がここに見て取れると思います。2023年2月に発表されたこの教令も、2022年6月の使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」(Desiderio desideravi)も、聖伝のミサ典礼書の使用をできる限り制限し、さらにそれを使いたいと思う人を脅して挫かせようとするものです。このような状況下で、トリエント・ミサを捧げる許可を得るために聖座に働きかける勇気を持つ若い司祭がいるとは到底思えません。好むと好まざるとにかかわらず、自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)以来、このミサは教会で事実上禁じられています。ロシュ枢機卿がつい最近私たちに思い出させたように、公会議によって「教会の神学は変化した」(注6)ため、その結果として典礼も変化したのです。なぜなら、典礼は教会の神学を表現したものであるからです。

(注6)ロシュ枢機卿はこう主張した。「教会の神学は変化しました。以前は、司祭が少し離れたところにいるすべての人々を代表していました。彼らは、ミサを捧げるこの人物だけを通して、いわばつながって(channnelled)いました。(しかし、今日では、)典礼を捧げるのは司祭だけでなく、洗礼を受けた人々も司祭とともにそうするのです。ですからそれは、非常に大きな声となるのです」(BBCラジオ4放送、2023年3月19日)。

【問い】このような状況の中で、エクレジア・デイ団体のさまざまなメンバーは、不確実性と不安の瞬間を経験しているところです。もうすぐ、それに関する新しい教皇の文書が出されるかもしれないと私たちは聞いています。このことについて、何か語ることがおできになりますか?

【パリャラーニ神父】そのような文書については、私は何も知りません。しかし、私は、ダモクレスの剣が常に頭の上にぶら下がっているようでは、司祭は充実した司祭職を送ることはできないと思います。同じように、いつも単なる噂に常に気を取られていては、司祭は平穏な生活を送れません。司祭は、明日ミサを捧げるのを長上から許されるかどうかを気にせずに、ミサに忠実に生きなければなりません。

司祭は、自分が配る大いなる宝を、他の霊魂に与えることに関心を持つべきであり、自分からそれを奪われることを常に恐れて生きたり、自分が置かれている不安定な状況から逃れることができる奇跡を希望して生きなければならなかったりするべきではありません。私は、天主の御摂理がこのような状況を望んでおられるとは、まったくもって思っていません。

さらに、残念なことですが、エクレジア・デイのこれらの団体のメンバーは、トリエント典礼を捧げることを望む他の多くの司祭と同様に、教会生活における現在の出来事に直面して沈黙し、恐怖の中に生きています。悲しいかな、彼らは、今日教会で起こっていることについて懸念を表明し始めたその日に、ダモクレスの剣が自分たちに落ちてくる可能性があることを十分に承知しています。また、ロシュ枢機卿は、彼らにいつでもこのことを思い出させることができるように準備しています! 私は愛徳の心でこう言います。この状況は、典礼の領域と教理の領域との間に永久に続く二項対立を引き起こし、そのことが、司祭たちを永久に続く欺瞞の中に生きさせ、信仰告白の必要に直面したときに、彼らを救いようのないほど麻痺させるという危険性があります。そのため、今日、特にある国々では、シノドス運動という狂気に対する反発が、逆説的ではありますが、聖伝のミサ典礼書の使用を固守しないグループから多く出てきているのです。

【問い】聖ピオ十世会の将来を、どのように考えておられますか?

【パリャラーニ神父】簡単に言えば、聖ピオ十世会は、今まで当会が代表していたものと完全に連続していると私は考えています。聖ピオ十世会は教会の現状に関心を持たなければなりませんが、噂や、この枢機卿があの神学生に内緒で言ったこと、あるいは教会で起こり得るであろうこと、あるいは私たちに起こるかもしれないことに関心を持つことはありません…私たちはそのすべてを超えて生きる必要があるのです。

カトリック教会の善のために、聖ピオ十世会は、聖伝の典礼を捧げる完全な自由を、司祭と信者に維持し、保証しなければなりません。同時に、聖ピオ十世会は、この同じ典礼に付随し、その典礼を支える聖伝のカトリック神学を保存していくのを確実にし続けなければなりません。今でもまだ明晰なカトリック信者は、この教理を放棄することはできません。ロシュ枢機卿の言葉を借りれば、公会議によって行われた教理の変更が、まさに新しいミサを作らせたのです! ミサとカトリック教理の両方を維持し、誤謬とそれを教える人々に対して挑戦する完全な自由を保持することは、私たちの義務です。結局のところ、典礼が定義により公的なものであるならば、それに付随する信仰告白も公的なものです。

今日、私たちはこれまで以上に、カトリック教会の聖伝の典礼が、道徳――私たちにはその原則を変える権利がありません――にも一致していることを、私たちは認識しなければなりません。私たちの宗教の中心に、全能の天主が十字架と真の犠牲とを植えられました。十字架なくして、この犠牲なくして、誰も救われることはあり得ません。偽りの愛と偽りのあわれみの感覚の名において、あらゆる種類の忌まわしいものを受け入れることによっては、誰も救われることはあり得ません。救う愛はただ一種類しかありません。なぜなら、清める真の愛はただ一つしかないからです。それは十字架の愛であり、天主の贖いの愛であり、私たちの主が私たちに示してくださり、私たちに伝えてくださった愛であり、主が「愛徳」と呼んでくださった愛です。しかし、この愛は、信仰なしには存在できず、また、それを教える人たちなしには存在できないのです。

Entretien avec le Supérieur général de la Fraternité Sacerdotale Saint-Pie X


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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