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汚れなき御心の凱旋とは

2009年04月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 天主の御母聖マリアの汚れなき御心の凱旋(triumph)とは何でしょうか。凱旋とは、単なる勝利(victory)でも、大勝利でもありません。

 凱旋とは、全ての戦いを戦って最終勝利をおさめ、その勝利の成果と喜びを皆と分かち合い誇示し、歓喜と歓声と喜びの陶酔の中でその決定的勝利を祝うことです。パレードなどで戦いの苦しみの後の勝利と平和の喜びを苦労した皆とともに喜ぶこと(凱旋パレード)です。

 この凱旋を永久に記念して凱旋門が建てられ、戦いの後の平和の秩序が固められることです。

 天主の御母聖マリアは、その汚れなき御心の凱旋を約束しました。そのためには、ロシアが名指しで、教皇様全てのとカトリック司教たちによって奉献されるという手段がなされなければなりません。

 そのために、天主の御母聖マリアの汚れなき御心の輝かしい凱旋のために、教皇様が早く全てのカトリック司教たちとともにロシアを名指しで奉献してくださるように、私たちは天主の聖母にロザリオの十字軍で祈りましょう。

 日本では、昨年の8月から今年の復活祭までで、報告を受けただけで、約一万環のロザリオを捧げることができました。今から始めて来年の3月25日までに今までの約10倍の12万環のロザリオを捧げることができるでしょうか?マリア様の冠の12の星の数に合わせて。

 私たちがロザリオの数を十倍にするのは無理がありますから、10人、20人のお友だちを誘ってみるのはいかがでしょうか? カトリックの洗礼を受けていない方々でも、是非、ご招待なさってください。

 愛する兄弟姉妹の皆様のご協力を感謝いたします。天主様の祝福が豊かにありますように!

 聖母マリア様の汚れなき御心の凱旋が一刻も早く来ますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

教会の一致とエキュメニズム:聖伝の教えと第二バチカン公会議の教えとの違い

2009年04月29日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

 まず、最初に、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由

【3】良心と人間の行為の自由

 続いて、第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、

 そして、第三に、第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? を考察し始めました。

 第二バチカン公会議の教会は、
 外部に目を向けて
【1】この世に対して、さらに、世界の統一をもとめて
【2】他の宗教に対して第二バチカン公会議の文献に見えるエキュメニズムを分析
 次に内部に目を向けて
【3】教会内部構造について、
 どのように変わったのか?
という点を考察しています。

 そこで、今回も、 第二バチカン公会議の教会は他の宗教に対してどのように変わってしまったのか、聖伝の教えと第二バチカン公会議の教えとがどう比較されるのかを考察してみましょう。私たちは、第二バチカン公会議の「新しさ」を理解する上で、これまでの通り、出来るだけ第二バチカン公会議の文章を引用し、その文字通りの意味を考え、さらに第二バチカン公会議後のバチカン、教会当局によってどのようにそれが解釈され続けてきたか、適応されてきたか、解説されてきたかを示すその文献も適宜引用していくことにしましょう。それによって客観的な教会当局の第二バチカン公会議理解を知り、それが聖伝とどれだけ大きな差異があるかということを深めていくことにしましょう。

 昔からの聖伝の教えによれば、天主の国と教会とは同じ現実を意味している(特にマテオ16章15-19を見よ)。同じ現実であるが、将来の観点と現在の観点という違いがある。「天主の国」は戦闘の教会と凱旋の教会との両者を意味しうる。教導権はこれについて一致している。レオ十三世、ピオ十一世、ピオ十二世は、この二つの表現は同じ現実を意味すると言う。

 昔からの聖伝によれば、キリストの教会とはつまりカトリック教会である。

 聖フランシスコ・ザベリオや聖ペトロ・カニシウス、サレジオの聖フランシスコの燃えるような熱心は、ルターやカルヴァンによって失われた霊魂たちを真のカトリックの一致に呼び戻そうと燃え立たせた。離教や異端はむしろカトリック教会をして燃え立たせ、背教者や未信者をキリストへの信仰に回心させた。

 天主の御旨によれば、一致の第一原理は、カトリック教会の一致が信仰、秘跡、統治という超自然の一致に基づく。何よりもまずこの一致は、信仰の真理に基づかなければならない。この信仰の真理には、多少の程度の余地があることを許さない。一点一画も、一つのイオタであっても欠如してはならない。信仰が完全でないことは、信仰が全くないと同じである。何故なら、信仰の真理を啓示し給う天主の権威を否定することだからだ。

 一致の第二の原理は、イエズス・キリストが御自分の教会にお望みになった特徴である。イエズス・キリストは御自分の教会のしるしの一つとして一性(一つであること)を望まれた。イエズス・キリストの教会はカトリック教会であるから、カトリック教会だけが唯一この一性を固有のものとして持っている。レオ十三世教皇は、回勅「サティス・コニトゥム」(一八九六年)の中で詳しく説明している。また、このカトリック教会が固有に持つ一性は、失われることのない特徴である。カトリック教会を離れるものが、この一致を失うだけである。キリストの教会であるカトリック教会はこの一性を失ったことがない。従って、キリスト教徒の本当の一致、真の一致は、唯一の真のキリストの教会であるカトリック教会に帰正することを促進することによってのみ達成される(ピオ十一世:回勅「モルタリウム・アニモス」)。



 第二バチカン公会議によれば、次のようにまとめられる。

 人類は全て、天主によって天主の国に属するように選ばれている。この天主の国では、完全な自由という天主の似姿を充足させる。この天主の国は、兄弟愛(博愛)へと導く自由と平等という人間の価値が進歩することによって、人間がより人間らしくなり準備される。人間がいっそう人間らしくなるには人間しだいである。

 この進歩を促進するために、人間としてのキリストにおいてキリストの教会を制定した。キリストは人間をより人間らしくするために人間となったからである。

[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
 「最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。・・・
 多くの苦難を通して悪と戦い、死を堪え忍ぶことは、確かにキリスト者にとって必要であり義務である。しかし、復活の秘義(Paschale Mysterium)に結ばれ、キリストの死に似た姿となるキリスト者は、希望に力づけられて復活に向かって進むであろう。このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。・・・ われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘義(Paschale Mysterium)にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない。・・・」

 人間をいっそう人間らしくするという人類の進歩促進のためにある教会は、天の国を先取りする特別な宗教的・司祭的召命をもった人々の集まりである。

『現代世界憲章』40
教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
 教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。」

 この教会は、全人類を天主の国へと準備させる、天の国の効果的なしるしつまり秘跡である。

『教会憲章』 1(序文) 教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である

 この聖なるものとしての教会が自由・平等・博愛(兄弟愛)を実践しているのを俗なるものとしてのこの世が見て、この世は教会を真似しようと望むだろう。このようにして、キリストの司祭的使命が続けられる。

 天主に結合している全人類の一致の秘跡である教会とは、キリストの教会である。このキリストの教会にはカトリック教会と全ての宗教団体が含まれているからである。

 中世の教義主義はギリシア・ローマの神学を主張して教会を分裂させた。中世の教義主義に変わって、エキュメニズムがその場所を占めなければならない。従って、新教会は全てのカトリックと全てのキリスト教教団と全ての諸宗教とエキュメニズムをしなければならない。

 新しい教会が全人類を一致させ統一させることを意味しその効果をもたらすべく、新しく考え出された「秘跡」とは「対話」である。全ての人間を尊重し彼らと対話することによって一致をもたらすようにする。

 第二バチカン公会議によれば、カトリック教会は人間のペルソナの崇高な品位、人格の尊厳のために闘う人間性のイデオローグに変わり(『現代世界憲章』22、『信教の自由に関する宣言』1)、諸宗教との対話の使徒に変容すべきである

『現代世界憲章』40(教会と世界との相互関係)
 人間の尊厳、人間の共同体、人間活動の深い意義について、われわれが述べたすべてのことは、教会と世界の相互関係の基礎ならびに両者の対話の根拠をなすものである。・・・
 天上の宝を目ざして互いに結ばれ、またそれによって富まされているこの家族は、キリストによって「社会として、この世の中に設立され組織された」ものであり、「見える社会的一致の適切な手段」を与えられている。したがって、教会は同時に「見える団体と霊的共同体」であり、全人類とともに歩み、世と同じ地上的なりゆきを経験する。教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
 教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。

 同様に、座長としての教皇の下に世界教会の模範が示されなければならない。世界一致と統一の「秘跡」として、この世界教会がエキュメニズムを実践しているのを世俗の政府が見て、世界政府は世界教会を真似しようと望むだろう。

 第二バチカン公会議は、将来、教皇は、座長として、世界宗教連合協議会の賛助をえて、諸宗教の違いを尊重しながらその新しい「首位権」を行使するだろう、それにならって世界大統領は、国連の長として、民主主義的に、戦争を防止し人権を擁護するための武力を備えてその新しい「首位権」を行使するだろうことを想定しているようだ。

 何故なら、第二バチカン公会議は、教会あるいは教皇の聖なる権能を政治の分野で使うことを拒絶するからだ。教皇は平和のための仲立ち人にはなれない。第二バチカン公会議は、世俗の国際権威に平和の保証を求めなければならない。(『現代世界憲章』79,82)

 こうして、キリストのいない世界統一、カトリック的ではない世界統一、世界自由経済を追求するための世界統一を第二バチカン公会議は求めている。

 公会議閉会の直前、1965年10月4日、公会議の教父らの採決を待つまでもなく、パウロ6世はマンハッタンの国連において『人類についての専門家』として、こう演説した。
「皆さんは、国連で人間の基本的権利と義務、人間の尊厳、自由、特に信教の自由を宣言しています。皆さんは、人間の知恵の中で最も崇高なもの、あえて言えば、その聖なる性質の代表者です。」
 「この相互扶助の組織は、国連の最も人間味豊かな神聖な側面です。それは、人生の旅路において全人類が夢見る理想です。それは世界の人々の最も大きな希望です。」
「皆さん、もう一度、最後の言葉を言わせてください。皆さんが建設しているこの建造物は、ただ物的、地上的土台の上に立つものではありません。そうだとすれば、それは砂上の楼閣となるでしょう。むしろそれは、わたしたちの良心の上に立てられなければなりません。」
(中央出版社:『 歴史に輝く教会』416-426頁参照。)

 第二バチカン公会議は、キリストの上に成り立つのではない、人間の自由な良心と尊厳との上に成り立つ平和を求める。

 こうして第二バチカン公会議によれば、遂にキリストが来臨するとき、全て教会と世界とは一つとなり、全ての人間は一つとなる。

 しかし、真理と聖寵とがなければ、つまり真の教導権と秘跡の助けがなければ、個人も社会も同様に悪魔の虜となってしまう。

 全ての政治秩序には、その基礎に宗教がある。現在の非宗教的世界秩序の基礎にある「宗教」は世俗のヒューマニズムという人間中心の宗教、民主教である。

 新しいヒューマニズムによって構築され直した新しい教会の構造によれば、国連の世界最高権威が人類の霊的指導者となるだろう。教皇はその単なる下僕にすぎない。

 このような最高国際権威は、究極のところ天主からの最高権威者たる教皇に反対する権威として、立ち上がるだろう。キリストなしに作られた世界統一最高権威は、ついにはキリストに反対するものとして、反キリストの権威としてそびえ立つことであろう。

 何故なら「世俗の権威は霊的権威の下に置かれるべきである。何故なら、使徒聖パウロ曰く「天主に拠らない権能はない、あるものは全て天主によって秩序付けられたものである(ローマ13:1)。・・・誰であれ、天主によってこのように秩序付けられたこの権威に逆らうものは、秩序付ける天主に逆らうものである。・・・全ての人間的被造物がローマ教皇に従うことは、救いのために全く必要だ」(ボニファチオ八世)からである

 こうして、キリストの来臨を待望するかわりに、反キリストの来臨を準備することとなってしまうであろう。


主よ、憐れみ給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我等のために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

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ツォリッチ大司教は教会のドグマを公に否定する - 聖ピオ十世会は直ちに撤回を求める

2009年04月29日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会ドイツ管区管区長のシュミットバーガー神父様の声明をご紹介します。
 以下は、「ツォリッチ大司教は教会のドグマを公に否定する --- 聖ピオ十世会は直ちに撤回することを求める」(Aktuell : : Erzbischof Zollitsch leugnet öffentlich ein Dogma der Kirche FSSPX.INFO - Priesterbruderschaft St. Pius X. Deutschland)の記事の要約です。(英語訳は、Repent of heresy- SSPX to head of German Bishops Conferenceをご覧下さい。)

聖ピオ十世会は、ツォリッチ大司教(Erzbischof Zollitsch)が公に宣言した偽りの教えを直ちに撤回することを求める。

 ドイツの司教評議会議長のロベルト・ツォリッチ大司教(Erzbischof Robert Zollitsch)は、今年の聖土曜日にテレビ・ショウ「ホリゾンテ」でキリストの苦しみと死との償いの性質を否定した。大司教によれば、天主は、聖子の苦しみを通して、苦しみと死において人類の側に立ち、人類との連帯を示したにすぎない、イエズスは人々の罪を自分に引き取ったが、人間のために罪の償いを果たしたのではない、より近くになることにより共にいるということを見に負った、と言う。
 教会の明らかな教えによれば、このキリストの苦しみの罪の償いの性格を否定することは、異端と考えられる。大司教はこの偽りの声明を撤回するように求められている。

 インタビューの最も重大な部分はこれである。
「大司教さまは、人類が罪深いために天主が聖子をこの世に与えたというようにはもう描写しないと言うことですか? 大司教さまはこのことをそう言わないと言うことですね?
「言いません。天主は聖子を与えたが、それは聖子の死と苦しみに私たちとの連帯によるものでした。人間よ、あなたたちは私にとって価値のあるものだ、私はあなたたちと共に行く、私はどんな状況でもあなたたちと共にいる、と示すためでした。



 ドイツ司教評議会会長でありフライブルク大司教であるロベルト・ツォリッチ大司教は、こうして教会のドグマを否定した。もしもこの否定を撤回しないなら、カトリック教会法典に従って本当の異端者(formal heretic -- formalen Häretiker)となるだろう。

 教会の教えは明らかである。

「人は罪人から義人となり、(天主)の敵から友となる」その功徳的原因(meritorious cause)は、その最愛のひとり子、私たちの主イエズス・キリストである。彼は「われわれが敵であった時」(ローマ5・10参照)、「われわれを愛したその大きな愛によって」(エフェソ2・4)十字架において、その聖なる受難をもって、私たちのために義をかち得て、私たちのために父なる天主に償いを果したのである。(トリエント公会議 DS 1529

 聖ピオ十世教皇の教令「ラメンタビリ(Lamentabili)」によれば、次の命題は近代主義の異端として排斥されている。
(排斥命題)「キリストの罪の償いの死の教えは、福音の教えではなく単にパウロの教えである」(DS 3438)

 ツォリッチ大司教はキリストの罪の償いのいけにえを、罪からの救いが必要であることを否定し、人類の困難において癒しを与える伴侶として、共同体の意味から「連帯的犠牲者」としてキリストが苦しんだことにしている。

 従って、聖ピオ十世会はドイツ司教評議会会長でありフライブルク大司教であるロベルト・ツォリッチ大司教に、直ちにこの発言の撤回を求める。この発言は異端と呼ばれるべきものであり、カトリック教会の教えを無視するものである。指導的立場にある司教の口から出たものであるが故に、これは大きな害を与えるものである。

 私たちはこの声明についての釈明が公に数日後以内になされることを期待する。

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【関連記事】
News Briefs SSPX condemns 'heresy' by head of German bishops' conference, April 28, 2009
Aktuell : : Erzbischof Zollitsch leugnet öffentlich ein Dogma der Kirche
Solidarität und Sündopfer: Ein Gastkommentar von P. Bernward Deneke FSSP zu Aussagen von Erzbischof Robert Zollitsch über das "Opfer Jesu"

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カトリック教会の第二バチカン公会議後の危機
聖伝のミサと新しいミサ

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エキュメニズムへのドアが開く:第二バチカン公会議の『教会憲章』、『エキュメニズムに関する教令』

2009年04月28日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

 まず、最初に、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由

【3】良心と人間の行為の自由

 続いて、第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、

 そして、第三に、第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? を考察し始めました。

 第二バチカン公会議の教会は、
【1】この世に対して、さらに、世界の統一をもとめて
【2】他の宗教に対して
【3】教会内部構造について、
 どのように変わったのか?
という点を考察しています。

 そこで、今回も、 第二バチカン公会議の教会は他の宗教に対してどのように変わってしまったのか、エキュメニズムのドアがどのように開かれたのかを考察してみましょう。私たちは、第二バチカン公会議の「新しさ」を理解する上で、これまでの通り、出来るだけ第二バチカン公会議の文章を引用し、その文字通りの意味を考え、さらに第二バチカン公会議後のバチカン、教会当局によってどのようにそれが解釈され続けてきたか、適応されてきたか、解説されてきたかを示すその文献も適宜引用していくことにしましょう。それによって客観的な教会当局の第二バチカン公会議理解を知り、それが聖伝とどれだけ大きな差異があるかということを深めていくことにしましょう。

(つづき)
【エキュメニズムへのドアが開く:『教会憲章』】

『教会憲章』第1章 教会の秘義について

 導入部:『教会憲章』の1から7までは、『教会憲章』8の第二バチカン公会議の新しい教えを準備する導入部である。
 導入部の伝えるメッセージの核心はこれである。教会は、天主との交わりと全人類一致との効果的なしるし(秘跡)である。
 全ての人間は天主によって天の国に属するように選ばれているが、そのうち一部は、イエズス・キリストを信じて教会に属するように選ばれている。世の終わりに、遂に天の国と教会とは同じものとなる。何故なら目に見えるが制限のある教会が無制限になり、無制限であるが目に見えない天の国が目に見えるようになるからだ。
 イエズス・キリストは天の国を全ての人間の心に目に見えない仕方で打ち立て、また同時に、目に見える教会を少数の人間において打ち立て彼らが天の国を建設する目に見える仕事を続けるように命じた。

 『教会憲章』8では次のことを教える。
 キリストは、目に見える組織(聖職位階制度によって組織された社会)としてこの地上に教会を設立し、聖寵を全ての人間に与える。すなわち、教会は救いの成果を人々に伝え、すべての人のうちにキリストに仕えようと心がける。では、どうやって全ての人間に聖寵を与えるのか?
 天主のみことばは、御托身(=受肉)で人間本性を摂取したことによって、天主のみことばが天主の本性と人間の本性とを持つ。それと同じように、キリストの霊は、目に見える人間の教会の社会的機構(=カトリック教会)を摂取し、カトリック教会のうちに存在し(subsistit in)、キリストの神秘体を成長させる。
 従って、みことばとイエズス・キリストの人間性とが一つであるように、キリストの霊とカトリック教会とは一つとなる。
 従って、みことばがイエズス・キリストの人間性の限界を遙かに超えているように、キリストの霊の教会は、カトリック教会の限界の外にも見出される。
 従って、カトリック教会という「組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされる」。この要素の程度がどれだけかは、教会にどれ程属しているかによる。

 結論:
 天主に結合している全人類の一致の秘跡である教会とは、キリストの教会である。このキリストの教会にはカトリック教会と全ての宗教団体が含まれている。

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『教会憲章』 1(序文) 教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である

『教会憲章』 2(父なる神の救いの計画) すべての選ばれた者を世々の前から「あらかじめ知っていた」父は、「かれらを自分の子の姿に似た者としようと予定した。それは子を多くの兄弟の長子とするためである」(ロマ 8·29)。
 父はキリストを信ずる人々を聖なる教会として呼び集めることを決定した。
 それはさらに、世の終わりに栄光のうちに完成されるであろう。そのときには、聖なる諸教父も述べているとおり、アダム以来のすべての義人は、「義人アベルより、最後の選ばれた人に至るまで」普遍的教会として父のもとに集められるであろう。

『教会憲章』 3(子の派遣) キリストは父の望みを果たすために、地上に天の国を開始し、父の秘義をわれわれに啓示し、自分の従順によってあがないを成就した。・・・
 教会、すなわち秘義としてすでに現存するキリストの国は、神の力によって、世界において可見的に成長する。

『教会憲章』 5(神の国) 聖なる教会の秘義は、その設立において示されている。主イエズスは「時は満ちた、神の国は近づいた」(マルコ 1·15、マタイ 4·17参照)とのことばをもって、・・・神の国の到来を述べ伝えることによって、自分の教会を始めた。この国は、キリストのことばと行ないと現存によって人々の前に現われる。
 教会は、その創立者から受けたたまものに恵まれ、愛と謙虚と自己放棄のおきてを忠実に守るとともに、キリストと神との国を告げ、諸国民のうちに刷新する使命を受け、この国の地上における芽ばえと開始となっている。教会は徐々に発展するが、その間にも神の国の完成を渇望し、栄光のうちに自分の王と結ばれることを全力をもって望み求めている。

『教会憲章』 8(教会の神的、人的要素) 唯一の仲介者キリストは、自分の聖なる教会、信仰、希望、愛の共同体を目に見える組織としてこの地上に設立し、これを絶え間なくささえ、この教会によって、すべての人に真理と恩恵を分け与える。聖職位階制度によって組織された社会とキリストの神秘体、見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人的要素と神的要素によって形成される複雑な一つの実在である。したがって、教会は平凡ではない類比によって、受肉したことばの秘義に比較される。神のことばに摂取された人間性が、ことばに不解消のものとして、結合し、救いの生きた機関として、ことばに仕えるものと同時に、教会の社会的機構は、からだの成長のため、教会を生かすキリストの霊に仕えるのである(エフェソ 4·16参照)。
 これがキリストの唯一の教会である。われわれは信経の中で、この教会を唯一、聖、カトリック、使徒的と宣言する。われわれの救い主は復活の後、この教会を牧するようペトロに渡し(ヨハネ 21·17)、それを広め治めるようペトロと他の使徒たちにゆだね(マタイ 28·18以下参照)、それを「真理の柱と基礎」として永久に立てた(1テモテ 3·15)。この教会 は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者およびかれと交わりのある司教たちによって治められる、カトリック教会のうちに存在する。しかし、この組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされるが、それらは本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促すものである。
 キリストが貧困と迫害のうちにあがないのわざを完成したように、教会も救いの成果を人々に伝えるために同じ道を歩くよう招かれている。キリスト・イエズスは「神のすがたでありながら……しもべのすがたをとりおのれを無とし」(フィリッピ 2·6)、われわれのために「富める者が貧しい者となった」(2コリ 8·9)。教会は自己の使命を果たすために人間的手段を必要とするが、地上の教会が設立されたのは、光を求めるためではなく、謙虚と自己放棄をみずからの模範によって広めるためである。キリストが父から派遣されたのは「貧しい人々に福音を伝え、傷ついた心の人々をいやし」(ルカ 4·18)、「失われたものを捜して救う」(ルカ 19·10)ためである。これと同じように、教会も、人間的弱さに苦しむすべての人を愛をもって包み、さらに貧しい人や苦しむ人のうちに、貧しく苦しんだその創立者の姿を認め、かれらの欠乏を和らげるよう努め、かれらのうちにキリストに仕えようと心がける。キリストは、「聖にして、罪も汚れもなく」(ヘブ 7·26)、罪を知らず、(2コリ 5·21)、ただ人々の罪を償うためにのみ来たのであるが(ヘブ 2·17参照)、自分のふところに罪人を抱いている教会は、聖であると同時に常に清められるべきであり、悔い改めと刷新との努力を絶えず続けるのである。
 教会は、「世の迫害と神の慰めとを通って旅を続け」主が来るまで、主の十字架と死を告げながら、進む(1コリ 11·25参照)。教会は、復活した主の力によって強められ、内外からの自己の苦悩と困難に打ち勝つ、終わりの日に完全な光の中に現われるまで、影につつまれた主の秘義を、忍耐と愛をもって忠実に世に現わすのである。

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【「エキュメニズムに関する教令」による狭義のエキュメニズム】

 主キリストによって設立された教会は単一・唯一であるように、キリストを信じる全てのキリスト教団が一つになるべきである(1)。後代になって、重大な不一致が起こり、かなり大きな諸集団がカトリック教会の完全な交わりから分かれたが、ときには、カトリック側に過失がなかったわけではない(3)。教会を建て、これに生命を与える諸要素が、カトリック教会の見える境界の外に存在できる(3)。
 キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会とのある交わりの中に居る。・・・信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然認められる(3)。
 それぞれの教会や教団でこれらの「要素」は、恩恵の生命を実際に生み出し、救いの交わりへの戸を開いている(3)。従って、これらの非カトリックの教壇も、秘跡としての教会の一部である。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからである(3)。

【『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』による広義のエキュメニズム】

 全ての人間は、天主によってその他全ての被造物のなかから天主を賛美するように選ばれている。選ばれたと言うことはすなわち救われていると言うことである。従って、全ての人間は救われている。
 従って、キリスト教共同体の外であっても、たとえ「聖化と真理との要素」ではなかったとしても、「みことばの種子」が見いだされる。この世に生まれる全ての人間を照らすみことばの火花としての何らかの真理と良さが見いだされる。
 全ては文化である。カトリック教会だけでは人間の神秘を全て汲み尽くすことは出来ない。

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主よ、憐れみ給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我等のために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

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聖ピオ十世会総長の友人と恩人の皆様への手紙 第74号が発信されました。

2009年04月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会総長の友人と恩人の皆様への手紙 第74号が発信されました。どうぞご覧下さい。私たちは新たなロザリオの十字軍の発動と新たな霊的花束の招集のイニシアティヴをフェレー司教様に感謝します!

 英語版は、イギリス管区のホームページに既に掲載されています。以下にフェレー司教様のメッセージの核心を引用いたします。

====引用開始====


「・・・最近数ヶ月に起こったことを通して、この闘いのより激しい時が来たと認めることが出来なければなりません。究極の標的とされているのは、教会の何らかの復興を始めようと努力しているキリストの代理者、つまり教皇様であることは明らかです。人々は、教会の頭【である教皇様】と私たちの運動とが接近するのを恐れているのです。人々は第二バチカン公会議の既得を失うことを恐れているのです。だからこれを中和させるために全力を尽くしているのです。 ・・・

 この極めて難しい道において、かくも激しい反対を前にして、親愛なる信徒の皆様、私たちは皆様に更にもう一度、祈りに駆けつけることをお願いいたします。ファチマの聖母マリア様のメッセージに深く錨でつながれた、聖母マリア御自身が幸福な終わりを約束し給うた、規模の大きい攻撃を始める時期が来たように私たちには思えます。聖母マリアは最後には御自分の汚れ無き御心が凱旋するだろうと予告されたのですから。

 私たちは聖母マリア様にこの凱旋を要求します。この凱旋は、聖母マリア様御自身が求めた手段によるものであり、それは最高の牧者である教皇様とカトリック世界の全ての司教たちとによって、ロシアが聖母の汚れ無き御心に奉献されること、および聖母の悲しみに満ちた汚れ無き御心への信心が広がることです。

 だからこそ、私たちは童貞聖マリアにこの目的のために、今日から2010年3月25日までの間、天主の御母聖マリア様の回りを飾る星の数の冠として、1200万環の霊的花束を、それと同じほど価値のある総量の犠牲、つまり私たちの身分上の義務を忠実に果たすことをまず第一として私たちの日々の苦労の犠牲も合わせて、聖母の汚れ無き御心への信心を広めるという約束をつけて、童貞聖マリア様にお捧げしたいと思います。 ・・・

 私たちの聖ピオ十世会は、今年で聖母の汚れ無き御心に奉献されて二十五年になります。私たちはシュミットバーガー神父様がなさったこの幸福なイニシアティヴを更新し、それに私たちの全ての霊魂を込め、この【奉献の】精神を私たちの心に再び生き生きとさせようと思います。・・・」

====引用終了====

天主に感謝!
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このブログは聖ピオ十世会のウィリアムソン司教様のブログ Dinoscopusを応援しています。
兄弟姉妹の皆様のご関心と応援とをも感謝します!
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新しい司祭職


第二バチカン公会議は、教会を新しくどのように自己定義したのか?【2】他宗教に対して

2009年04月27日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議にどのような点が新しくなったか、つまり、どの点がカトリック教会の聖伝による見方と変わってしまったかについて、次の点を見てきました。

 まず、最初に、第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?
【1】人間の尊厳としての自由、および
【2】人間の思想の自由

【3】良心と人間の行為の自由

 続いて、第二バチカン公会議は、人間と天主との関係についてどのように新しく考えるようになったか?
【1】第二バチカン公会議によれば啓示とは何か、啓示の伝達すわなち聖伝とは何か、啓示を信じるすわわち信仰とは何か?

【補足】カトリック教会の昔からの聖伝と 第二バチカン公会議の言う「聖伝」とでは、どう違うか
【2】第二バチカン公会議による新しいいけにえ(=「過ぎ越しの神秘」「復活の秘義」)とは何か
【3】第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストとは何か、

 そして、第三に、第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? を考察し始めました。

 第二バチカン公会議の教会は、
【1】この世に対して、さらに、世界の統一をもとめて
【2】他の宗教に対して、
【3】教会内部構造について、
 どのように変わったのか?
という点を考察していくなかで、既に【1】この世に対してについては二回にわたって考察しました。

 そこで、今回は、 第二バチカン公会議の教会は他の宗教に対してどのように変わってしまったのかを考察してみましょう。私たちは、第二バチカン公会議の「新しさ」を理解する上で、これまでの通り、出来るだけ第二バチカン公会議の文章を引用し、その文字通りの意味を考え、さらに第二バチカン公会議後のバチカン、教会当局によってどのようにそれが解釈され続けてきたか、適応されてきたか、解説されてきたかを示すその文献も適宜引用していくことにしましょう。それによって客観的な教会当局の第二バチカン公会議理解を知り、それが聖伝とどれだけ大きな差異があるかということを深めていくことにしましょう。


【教会と他宗教】

 主観的ヒューマニズムは、「聖書のみ」「聖書の自由解釈」というモットーとともにプロテスタント主義を生み出した。プロテスタント的自由解釈と個人の良心の自由の高揚は、教会の教導権を放棄させ、プロテスタント諸派をモザイクのようにバラバラにしていった。
 十九世紀、二十世紀になると、プロテスタント諸派は、無数に分派を繰り返して信憑性を失っていくことを自覚した。プロテスタントの信憑性を確保し、カトリックの一致へと惹きつけられるプロテスタントを引き留めるために、統合の必要性を感じた。そこで生まれたのが「エキュメニズム」運動であった。「エキュメニズム」とは「普遍」という意味であり、すでにローマの教会によって使われてしまっている「カトリック」という言葉の変わりに、それと似たような意味の言葉として「エキュメニカル」が選ばれた。

 1925年、ストックホルムで、「生活と実践に関する世界キリスト教会議」(1925, Universal Christian Conference on Life and Work)が 「教理は分裂をもたらすが、奉仕は一つにする」を標題として開催された。
 1927年、ロザンヌで、「信仰と職制世界会議」(1927, World Conf. on Faith and Order) が開催され、キリストの教会がどうして多くの教会を含むのかが考察された。
 1937年、エジンバラの会合で、教会とこの世とが区別されるかが議論された。
 1948年、世界教会協議会 WCC(World Church Council)が創立される。アムステルダム会議が1948年8月22日から9月4日まで開かれ、44か国、145 教会から351 人の代議員が出席した。

 カトリック教会の一致から離れていったプロテスタント教会諸派が再一致をどれだけ探していたかは理解できる。しかし、「自由解釈」と「ローマの教導権の拒否」とを原理とした、個々の教派の教理のアイデンティティーを残したままの連合を探すに留まっていた。

 カトリック教会はこれに参加することは出来ない。何故なら、聖伝によれば、非カトリックの宗教は宗教として真理ではないからだ。極めて少数の非カトリックの個人は、通常のやり方を越えた特別な仕方で(たとえば望みの洗礼)、カトリック教会に属しているかもしれない。

 カトリック教会は、常にキリストの教会はカトリック教会である、キリスト教会とカトリック教会とは等号の記号で結ばれること、全く同一であることを常に教えていた。最近ではピオ十二世が「ミスティチ・コルボリス」でそう教えた。

 しかしながら、第二バチカン公会議の新しいヒューマニズムは、「キリストは托身(=受肉)によって自分自身を全ての人間と一致させた」ので、個人の大多数が、彼らのの善意(と想定されている)によって「教会」に属していると言いだした。

 第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストの十字架による贖いもなく、この贖いを適応することもなく、イエズス・キリストの御托身(=受肉)という事実により、ipso facto 自動的に、全ての人々をキリスト化させキリストと一致させる力を持っている。「このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。」(『現代世界憲章』22)

 第二バチカン公会議によれば、キリストが全ての善意の人と一致しているのは例外ではなく普通である。何故なら、キリストは人間がより人間らしくなるために来たのであるから、より人間らしいということは、洗礼を受けて目に見える教会の中に入らなくても、既にキリスト者であるということを意味するからだ。

[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
 最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。

 では、第二バチカン公会議は、【A】どうやって非カトリックの諸派を「キリストの教会」の中に取り込もうとしたのか? しかも、【B】カトリック教会の外見上のアイデンティティーを保たせながら? 


【A】どうやって非カトリックの諸派を「キリストの教会」の中に取り込もうとしたのか?

【答え:教会の要素】
 エキュメニズムへのドアを開くキー・ワード「教会の要素」
 カトリックの聖伝は、カトリック教会の外にあるものは「カトリック教の残骸」であると教えてきた。たとえそれが真理を知るための源泉(例えば聖書)であったとしても、聖寵を得るための源泉(幾つかの秘跡)であったとしても、この残骸は、個人に対しては極めて希にでも霊魂を救うことがあるかもしれない。

 第二バチカン公会議はこの個人に対する議論を非カトリック諸派に適応させようとした。「残骸」では軽蔑の意味が含まれるから「要素」と呼んだ。有効な司祭職と聖体があるところを「個々の教会(particular churches)」と呼んだ。

 そのような残骸は、カトリック教会の廃墟の跡である。カトリック教会の外では働いていない。何故なら、真理の残骸(例えば、聖書)は、カトリック信仰或いは教導権がなければ、これを正しく理解することが出来ないからだ。聖寵の残骸(例えば御聖体)は、その実りを与えることが出来ない(聖トマス・アクィナス「神学大全」第三部 第八二問 第七項を見よ)からだ。また位階制度の残骸(司祭職、司教職)は、横領され、単に質料的なものであり、裁治権を一切持たない。従って、昔からの聖伝によれば、それらは死んだ「残骸」に過ぎない。だから聖アウグスティノは、カトリック教会の外では、或る程度は、教会の中にある善が見いだされる、しかしそれらは、カトリック教会の外では救いには役に立たない、と言う。

 しかし第二バチカン公会議は、それら死んだ残骸を、生ける「要素」であると変えて呼んでしまった。

『教会憲章』8(教会の神的、人的要素)
「・・・この教会は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者およびかれと交わりのある司教たちによって治められる、カトリック教会のうちに存在する。しかし、この組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされるが、それらは本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促すものである。」

 「エキュメニズムに関する教令」15、東方の離教教会について
「したがって、これらの個々の教会における主の聖体祭儀によって、神の教会が建てられ、成長し、また共同司式によってそれらの教会の交わりが示される。・・・これらの教会は分かれてはいるが、真の秘跡、特に使徒継承の力によって司祭職と聖体を持ち、それらによって今なお緊密にわれわれと結ばれている。」


 「エキュメニズムに関する教令」3、プロテスタント共同体について
「・・・キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会とのある交わりの中に居る。・・・ 信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然認められるのである。・・・
 キリスト教の聖なる行事も、われわれから分かれた兄弟のもとで少なからず行なわれている。それらはそれぞれの教会や教団の異なった状態による種々のしかたで、疑いもなく恩恵の生命を実際に生み出すことができ、救いの交わりへの戸を開くにふさわしいものと言うべきものである。
 われわれは、これらの分かれた諸教会と諸教団には欠如があると信じるが、けっして救いの秘義における意義と重要性を欠くものではない。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。」


ヨハネ・パウロ二世、『ウト・ウヌム・シント』(1995年5月25日)
その他のキリスト教共同体において、これらの(=聖化と真理の)諸要素が見いだされ、キリストの一つの教会はそれらにおいて効果的に現存する


教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』 和田 幹男 訳
「使徒継承と有効な聖体祭義という最も緊密な絆によってこれと結ばれている諸教会も真の個別教会である 。それゆえ、これらの諸教会の中にもキリストの教会が現存し、活動している。」
「有効な司教職と聖体秘義の本来的かつ十全的な本質を保持していない教団は 、固有な意味で教会ではない。しかしながら、これらの教会の中で洗礼を受けた者は洗礼によってキリストに組み込まれており、それゆえ教会とは不完全であるが、ある交わりの中にいる。実際に洗礼はそれ自体、十全的な信仰告白と聖体秘義と教会における充満的な交わりによる、キリストにおける命の完成への指向性をもつものである。」

教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』 和田 幹男 訳
その目に見える境の外にあるのはただ "教会の要素" であって、これは――教会そのものの要素であるから――カトリック教会を指向しており、これに導くものである」

 従って、第二バチカン公会議によれば、カトリック教会の外にも、その他のキリスト教といわれる共同体において「教会の要素」があるために、不完全の仕方で「キリストの教会」が延長していることになっている

教皇庁教理省宣言 『ドミヌス・イエズス』 和田 幹男 訳
「キリストの教会はキリスト教徒の分裂にもかかわらず、その充満としてはただカトリック教会の中にだけ存在し続けるということである。他方、「その境界の外にも」、つまりカトリック教会とはまだ充満的な交わりの中にはない教会と教団の中にも「聖化と真理の数多くの要素が存在する」ということである。」

教会に関する教義の幾つかの観点に関する質疑応答(2007年6月29日)
第二の質問に対する回答:「・・・ カトリックの教義に従えば、キリストの教会が、カトリック教会と充満的に交わりにまだない諸教会や教団において現存し働いているということを正しく断言することができる。それはそれらにおいて現存する、聖化の要素と真理とのためである。」

『カトリック教会のカテキズム』
819 更に、「聖化と真理の多くの要素」は、カトリック教会の目に見える教会の外に見出される。「天主様の書かれた御言葉、聖寵の命、信仰、希望、愛徳、聖霊の他の内的賜物、さらに目に見える要素」が。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。」

【B】カトリック教会の外見上のアイデンティティーをどうやって保たせるのか? 

【答え:subsistit in(の内に存する)】

 昔からの聖伝によれば、キリストの教会とはカトリック教会のことである。カトリック教会、イコール、キリストの教会である。

 しかし第二バチカン公会議は、キリストの教会の中にカトリック教会とその他キリスト教諸派を含めさせようとした。

 キリストの教会がカトリック教会よりも大きくカトリック教会を含み、同時にキリストの教会がカトリック教会と同一であり得るにはどうしたらよいか? そのために、次の手続きをするのだと思われる。
【B-1】まず、全ての宗教団体がキリストの教会に属するとする。
【B-2】次に、カトリック教会はその他全ての「諸教会」のなかで優先的地位を占める、とする。
【B-3】最後に、キリストの教会は、カトリック教会の内に存する(subsistit in)、とする。


【B-1】全ての宗教団体がキリストの教会に属するとするには、次の理由をつけると思われる。
(1)イエズス・キリストは御言葉の秘跡であるのと同じように、教会はイエズス・キリストの効果的なしるしである。
(2)全ての本当の宗教団体は、御言葉の効果的なしるしである。
(3)従って、全ての宗教団体は、教会に属する。

【B-2】カトリック教会はその他全ての「諸教会」のなかで優先的地位を占めるとするには、次の理由を付けると思われる。
 天主は全ての人間に現存するが、特にキリストにおいて現存するのと同じように、御言葉は全ての諸教会に現存するが、特にカトリック教会において現存する。

【B-3】キリストの教会は、カトリック教会の内に存する(subsistit in)とするには、次の理由を付けると思われる。
 天主の御言葉は、天主の本性においてあるが人間本性においてもあるのと同じように、キリストの教会は、カトリック教会の内に存する。


【聖伝からの反論】

【B-1】に対して:
 教会はイエズス・キリストの効果的なしるしだから「秘跡」である、といのは、「秘跡」とはしるしであるという知識からのこじつけに由来したもので、現実に「秘跡」だからという議論ではない。カトリック教会は、常に七つの秘跡だけを教えてきた。

【B-2】に対して:
 天主は全ての人間に、創造主として存在を与えるものとして現存するが、キリストにおいては天主のペルソナと本性とにおいて現存する。何故ならキリストは真の天主であるからである。
 御言葉は、確かに創造主として、すなわち存在を与えるものとして全ての諸教会に現存するが、これは、どのような動植物にも鉱物に対しても同じである。しかしながら、カトリック教会においては、御言葉は御自分の神秘体の頭として現存する。

【B-3】に対して:
 天主の御言葉のペルソナは天主の本性においてあるが人間本性においてもある、これは天主の本性と人間の本性という二つの本性が天主のペルソナにおいて位格的結合(Hypstatic Union)をしたからである。しかし、この位格的結合は、天主の第二のペルソナが御托身をしたときの唯一のケースである。
 更に、天主のペルソナと天主の本性とは、存在論的に別の現実である。だからこそ天主のペルソナが天主の本性においてある、と言うことが出来る。しかし、「キリストの教会」も「カトリック教会」も同じ存在論的立場にある二つの団体である。従って、キリストの教会がカトリック教会の内に存する、ということを、天主の御言葉が天主の本性においてあるが人間本性においてもあるということと同じだと言うことは出来ない。

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エキュメニズム

汚れなき御心の凱旋のため

2009年04月25日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ついに時が来ました。今までは、準備期間であり、訓練でありました。黙示録的な時代がますます深まっている今、本格的な「戦い」はこれから始まろうとしています。

 天主の御母聖マリアの汚れなき御心の凱旋のために、私たちは聖ピオ十世会総長フェレー司教様の動員の合図に従って、今日から来年3月25日まで、天主の御母聖マリアの汚れなき御心にその冠の12の星として、1200万(12 millions)環のロザリオの霊的花束を捧げましょう。

 私たちは、天主の御母聖マリアが、必ず私たちの祈りを聞き入れてくださることを堅く信じております。

 愛する兄弟姉妹の皆様のこれまで以上の寛大なご協力をお願いいたします。

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ベネディクト十六世教皇様への感謝のロザリオの霊的花束の数は、4070 環

2009年04月25日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか? 
 愛する兄弟姉妹の皆様から、ベネディクト十六世教皇様への感謝のロザリオの十字軍の祈りの数が報告されてきています。(一部を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。)

 今回の報告で、2009年2月2日から総計 4070 環となりました。

 また、今年の1月22日までに報告されたロザリオの祈りの総数(6139環)と合わせると、
総計で、10209 環となりました! 愛する兄弟姉妹の皆様には心から感謝いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

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主の平和。
教皇様への霊的花束、私も報告させていただきます。
二月から今日まで、

テレジア     107環,
フランシスコ    27環、
(個人的私的意向のロザリオの数は省きました)

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主の平和。小野田神父様、

先日、報告したロザリオの数,27環追加します。

昨年八月から二月までの数は、
フランシスコ、62環、
テレジア、246環

プラス27環で273環です。
1万環のロザリオ、達成できると良いですね。

神様からの祝福とお恵みが小野田神父様と聖ピオ十世会と教皇様と私たちみんなの上にありますように。主イエズスキリストの御名によって。アーメン。



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小野田神父様、主の御復活、おめでとうございます。
聖木曜日~御復活まで、韓国の小野田神父様の御ミサに
私たちの守護の天使に、代わりにあずかっていただきました。・・・


聖週間に、ブログのお説教、ほんとうにありがとうございます。
聖金曜日にお書きくださったお言葉は、これ以上のものはないと思いました。
私たち家族ひとりひとりの心に深く響き、染み入りました。
また、聖土曜日の、小野田神父様の「返歌」も、
年始の小野田神父様のブログのお言葉、
『ルルドの聖母マリア様は、私たちに本当に幸福な新年を願っておられることでしょう。
私たちがイエズス・キリストをますます愛する新年を。
イエズス・キリストの十字架を愛し望み受け入れ担う新年を。
罪と罪の機会を避ける本当に幸福な新年を。』
につづき、また私の大好きな言葉になりました。

天主様が咲かせてくださった花なので、天主様のために咲き、天主様のためにいさぎよく散る。
そして、永遠に天の御園で、天主様のために咲かねばならない。
なのに、空しく過ごし、天主様に罪を犯した私たちをどうぞ赦してください。
イエズス様の御心よ、全被造物の創造主よ、私たちの家庭、国家、全人類の
唯一の王様として君臨してください。

イエズス様こそ、天主の御子、救い主であることを全く信じます。
3日目に復活され、死と地獄に勝ち、自ら天主であることを証しされたことを全く信じます。
イエズス様の、十字架上の残酷な御死去までの、想像を超える御受難こそ、
天主なる御父の完全な正義を宥め、私たち人間を地獄から解放し、
再び天主様の養子になることができるようにしてくださったと全く信じます。
イエズス様を礼拝いたします。感謝いたします。そしてお愛しいたします。
でも、どうぞ心だけではなく行いをもって、お愛しできますように。
イエズス様にならい十字架を愛し望み受け入れ担う毎日をお捧げできますように。
共贖者なる、天主の御母なる聖母マリア様、御身に感謝いたします。御身をお愛しいたします。
でも、どうぞ心だけではなく行いをもって、お愛しできますように。御身に少しでも似るものとしてください。
どうか罪びとなる弱い私たちの願いをお取次ぎください。

終生童貞なる聖母マリア様、教皇様をお護りください。
無原罪の御宿りなる聖母マリア様、4人の聖ピオ十世会の司教様方をお護りください。
天使と人類の元后なる聖母マリア様、小野田神父様のご活動を、ご健康をお護りください。


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フィリピンにて

2009年04月24日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今週は、月曜日から明日の土曜日まで、15名の女性の方々のための霊操の黙想会を指導しています。自由時間は極めて制限されておりますが、元気に一生懸命頑張っております。
 来週の月曜日からは、男性のための霊操の黙想会が始まります。
 愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りを感謝しています。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ベネディクト十六世教皇様への感謝のロザリオの霊的花束の数は、今のところ 3598 環

2009年04月21日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか? 
 愛する兄弟姉妹の皆様から、ベネディクト十六世教皇様への感謝のロザリオの十字軍の祈りの数が報告されてきています。

 今回の報告で、2009年2月2日から総計 3598環となりました。

 また、今年の1月22日までに報告されたロザリオの祈りの総数(6139環)と合わせると、
総計で、9737環となりました!

愛する兄弟姉妹の皆様の多くのご報告をお待ちしております。愛する兄弟姉妹の皆様には心から感謝いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

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拙い数字ですがロザリオの十字軍2環お捧げします。
四旬節中好きなコーラを買うのを四旬節の間我慢しました。
ブログの皆様には負けてしまいますが、お受け取りください。

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第二バチカン公会議の曖昧さ

人間の尊厳と良心の自由

人間中心主義 新しいヒューマニズム

カトリック教会と第二バチカン公会議の教会

第二バチカン公会議後のこの世に対する愛

聖伝と新聖伝、啓示と新啓示

カトリック教会の第二バチカン公会議後の危機

イエズス・キリストが王であること

エキュメニズム

聖伝のミサと新しいミサ

教皇様への感謝のロザリオの霊的花束の数は、今のところ 3596 環

2009年04月20日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか? こちらは、フィリピンで、一生懸命に仕事の遅れを取り戻そうとして暑さに負けずにがんばっています。今週は、私たちのいるニュー・マニラの勝利の聖母教会では、聖イグナチオによる「霊操」の女性のための黙想会があります。良き黙想会になりますように愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

 愛する兄弟姉妹の皆様から少しずつ、ベネディクト十六世教皇様への感謝のロザリオの十字軍の祈りの数が報告されてきています。しかも、心温まるお手紙と励ましの御言葉とを添えて頂いております。身に余るほどの御言葉をいただいて恐縮です。全てはご紹介できないばかりか、そのような良いお便りに対して、御返事もろくすっぽ出来ておらず、ご容赦を願い、ただ感謝ばかりです。心から感謝しております。

 今回の報告で、2009年2月2日から総計 3596環となりました。

 また、今年の1月22日までに報告されたロザリオの祈りの総数(6139環)と合わせると、
総計で、9735環となりました!

愛する兄弟姉妹の皆様の多くのご報告をお待ちしております。
愛する兄弟姉妹の皆様には心から感謝いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

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いつも感謝いたしております。 
去る12月26日から本年4月18日までロザリオ111環お捧げいたしました。引き続きさせていただきます。

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J,M,J, Ave Maria

ロザリオ十字軍の霊的花束の御報告をいたします。
352本です。よろしくお願いいたします。

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+ JMJ ,Ave Maria ! Alleluja !☆

小野田神父様、こんばんは。
世界のどこにおいでになっても、ブログを掲載いただきほんとうにありがとうございます。
小野田神父様のおかげで、「第2バチカン公会議」の「本質(正体)」が理解できます。
「第2バチカン公会議」についての考察をすすめていくにしたがい、
昔、教会で、お説教で聞いたことのある「表現」をブログで読み、思い出したことがあります。

昔、教会に通っていたとき、(私たちが物ごごろがついたころには今の新典礼になっていたのですが)
当時は、新典礼が定着し始めた頃で、「昔のミサのほうが荘厳だ」という大人の方々も
教会内には、ある程度いらっしゃっしゃったようです。
第2バチカン公会議の根本にある、新しい「神学」についての詳しい説明があったのかどうか
子どもの記憶ではわからないのですが、親戚(カトリック信者)も変革の内容はわからず
ただ、教皇様、バチカンからの命令だとのことで、従っていたのでしょう。
私たちは、毎日曜日に御ミサに行くのも、信者だから、行かなければならないというから、
御ミサの本当の意味もわからないまま、ただおとなしくあずかっていました。
新ミサの中のお説教や、配布されるパンフレット、典礼に関する説明を聞いても
何を言っているのか、何だか難しい表現ばかりで、
何が言いたいのかがさっぱり意味がわからなかったことを思い出しました。
わからないのは、子どもであるから、自分が理解できないのが悪いと思っていました。
カトリックって理屈が難しいんだな。と思っていました。
でもそれは、「第2バチカン公会議」の新しい「神学」だったからわからなかったのだと
今は理解できます。

聖伝の公教要理は、皮肉にも、もう教会に行かなくなってから知りました。
煉獄と地獄、その他の聖伝に関する本を読み、聖伝の御ミサに対し非常にあこがれていました。
「死ぬまでに1回でもいいから、本当の御ミサ、聖伝の御ミサにあずかってみたい。」と思っておりました。
それが、小野田神父様のブログを、偶然ではなく、「天主様の御旨により」知り、
毎月の聖伝の御ミサにあずかれる、「今」を本当に心から天主様に感謝しております。
幼児洗礼の私たちが、ミッションスクールで育った私たちが、
人生の半ばにして、聖伝の御ミサ、告解と御聖体の秘蹟にあずかることを重ねて、
初めて。本当の待降節・御降誕・四旬節・御復活など、真の典礼を迎えることができています。

そして、私たちは「今」、本当の聖伝の司祭のお説教を聞くことができていることを感謝いたします。
これまで、教会の新ミサの神父様のお説教をきいてもあまりよくわからず、心に染み入ったことは1度もなく、
イエズス様の御受難を思い、マリア様を思い、自分の罪を恥じ入り、涙したことがありませんでした。
20年前に知った聖伝のカトリック信仰を、聖伝の御ミサと、秘蹟と、小野田神父様のおかげで
知らなかったことを埋め、間違って理解していたことは「矯正」して、
日ごとに「正しく」、「強く」してくださる恩恵をいただいている「今」は、これまでの私たちの人生で、いちばん幸福です。

長くなってすみません
ロザリオ十字軍の報告をいたします。

マリア ・・・231環
マリア ・ ・・243環
マリア ・・・77環
Noemi(未信者)・・・20環

天主の御母なる聖マリア様、天主様の光栄のため、イエズス様にしたがって十字架を担い、
罪を避ける毎日をおくれますように、弱い罪人なる私たちをお助けください。
無原罪の御宿りなる聖マリア様、小野田神父様のご活動とご健康をお護りください。

---------------

主の御復活おめでとうございます!!!

トマス小野田神父様

いつも有難うございます。

御復活祭が過ぎても、一環でも増やそうと思い、ご報告が遅れてしまいました。
ベネディクト16世教皇様への感謝のロザリオを、1/27~4/18までの間に、384環唱えました。どうぞ宜しくお願い致します。

教皇様は大変な反対の中、良くやって下さったと、本当に心から感謝の気持ちでいっぱいです。これからも教皇様のために沢山お祈りさせて頂きます。

小野田神父様もどうぞお元気で御活躍されますように。


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+主イエズス・キリストのご復活のお喜びを申し上げます。

トマス小野田神父様

ご復活際までの教皇様のための霊的花束ですがお知らせ致します。
155環でした。

お話は変わりますが、日本語の「よろしく」、「よろしくお願いします」のような挨
拶は英語にもあるのでしょうか。もしあれば英語で何と言えば良いか教えて下さい。
使う機会はないと思いますが参考にしたいと思います。

神父様のブログには大変興味深く勉強させて頂いております。
「聖伝では・・」と「第二バチカン公会議では・・」とを比較することによって「第
二バチカン公会議では・・」のところを読むと気分が悪くなってしまいます。
普通のカトリック教会ならそのようなことは出来ないと思います。大きな違いに唖然
と致しました。
真理の輝き! 私たちは神父様のブログを通して聖なる人になって行くような気がし
ませんか?何故なら神父様のブログはいつもいつも私たちに天主様を愛するようにお
教えになっていらっしゃいますからではないでしょうか?
ああ、いかに感謝に堪えざるべきか・・。有難うございました。

【御返事】
日本語の「よろしく」にピタリと一致するような表現は思い当たりませんが、「よろしくお願いします」という意味を表現するは、英語では、状況や場合によって違う表現を使うと思います。

例えば、
「ロザリオ十字軍の霊的花束は、352本です。よろしくお願いいたします。」では、
「よろしく」は、「この報告を快く受け取って下さい」という意味でしょうし、

「秋田巡礼ではどうぞよろしくお願い致します。」では、
「よろしく」は、「良い巡礼になるように、お互いに協力していきましょう、至らないところがあるかも知れませんが補い合っていきましょう」という意味だと思います。

 英語には私の思うには日本語の「よろしく」とピタリ一致する言葉がないようなので、英語で言うには、お願いする内容を少し具体的に表現する必要があると思います。あるいは、英語を使う人特有の表現やメンタリティーがあるので、そちらの方を使う方がより英語らしい自然な表現になるかも知れません。

 そうなると、
「ロザリオ十字軍の霊的花束は、352本です。よろしくお願いいたします。」は、
I am happy to report you the 352 rosaries as Spiritual Bouquet for the Holy Father.

「秋田巡礼ではどうぞよろしくお願い致します。」では、
I am looking forward to our Akita Pilgrimage. See you then!

 などと、言うことになるのではないでしょうか。

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カトリック教会の第二バチカン公会議後の危機


エキュメニズム

第二バチカン公会議に忠実な大阪教区典礼委員会「教会―こういうふうにできている」

2009年04月18日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは、今まで、第二バチカン公会議による新しい「神学」を見てきました。新しい人間理解、新しい信仰理解、新しい典礼理解、新しい教会理解などを見てきました。
 まだ新しい「神学」の全体を見たわけではなく、あくまでもその途中ですが、ここまで来ると、私たちには第二バチカン公会議の改革の多くのことの理由が理解できたのではないでしょうか。

 何故、今まで通りではいけないのか? 何故、あそこまで変わってしまったのか?

 今までのカトリックの聖伝による信仰ではないので、別の新しい信仰に基づくので、典礼も、教会建築も変えられなければならなかったのです。

 「前のままの方がよっぽど良かった」けれども、信仰が変わったので、理由があって新しくなったのです。

 私たちは、すでに第二バチカン公会議が自己の使命として、人間の崇高な召命にふさわしい兄弟的一致と博愛と世界統一と、よりよい世界の建設を挙げたことを見ました。人類統一という天主にまで届く高い塔の建設に第二バチカン公会議は積極的に協力しようとするのです。

 第二バチカン公会議にとって、人間が罪人であるということは問題ではありません。そうではなく人間は、崇高で、天と地との頂点に立つものだという認識です。そして、この崇高な「人類の一致」「世界統一」が第二バチカン公会議のキーワードです。

 だから、第二バチカン公会議によれば、典礼はこの素晴らしい人間を祝うものでなければなりません。人間のための人間による人間の祭典(Celebration of Man for Man by Man)です。全ての中心は、人間です。

 これに反して、昔ながらの聖伝によれば、人間は、購い主キリストとともに、天主の栄光のために十字架を担うべきです。ミサ聖祭は、まず、十字架のいけにえの再現であり、罪の償いのためにあります。

 新しい第二バチカン公会議の神学によれば、いままで「十字架のいけにえ」である「ミサ」と呼ばれてきたものにかわって、「主の晩餐の食事の集会」がおかれます。

 人間をしてより人間らしくさせるイエズス・キリスト、つまり復活した主がご自分の民の間に今も生きていることを祝い、人類の一致のために、一致の秘跡を祝うため、「集会」を開き、この一致を感覚的に実感し体験しなければならないのです。

 第二バチカン公会議によれば、ミサは「十字架のいけにえ」というよりは、むしろ「キリストの死から復活への過越秘儀(或いは「復活秘義」)を「想起」させる、記念するものです。

 新しい神学によれば、ミサは、主の十字架から復活への過越の記念であって、復活したキリストとの出会いが体験される場であるからです。

 第二バチカン公会議によれば、キリストの体とは、何よりもまず、キリスト者の集いのことです。だからこそ、新しいミサでは、御聖体の現存よりも、二、三人がキリストの名前で集まるところに復活したキリストが(霊的に)現存するということに強調がおかれます。

 だから、聖体に対する礼拝もなくなるのです。聖体は単なる「食事」ですから。

 昔ながらの聖伝によれば叙階の秘跡を受けた司祭がミサのいけにえを捧げるのですが、第二バチカン公会議によれば、司祭は「司会」にすぎなく、司祭であるキリストと、そのからだである平信徒たち教会がひとつになって典礼をささげるのだからです。

 新しい神学においては、主体が信者であり、会衆が「感謝の祭儀」に集い、「過越の秘義」を生き生きと感じること、主の復活を体験することが大切となるからです。 信仰とは、主観的で、センチメンタルなものと捉えられているからです。

 教会は、今、昔の聖伝と断絶し、過去と断絶し、これからも更にどんどん変わっていこうとしています。その変化の「過渡期」にあります。第二バチカン公会議の人間中心主義の原理を、全てにおいて適応させてしまうまでその変革は留まることを知らないでしょう。

 この新しい神学の光のもとに、聖伝の教えと比較しながら、次の大阪教区典礼委員会の説明を聞いて下さい。大阪教区典礼委員会は、第二バチカン公会議の論理と新しい教えに極めて忠実であることが分かります。

 参考資料としてご覧下さい。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に、天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.


====引用開始====

教会―こういうふうにできている by 大阪教区典礼委員会

【註:スペースが限られているので部分的に省略しました。全文は上のリンク先をご覧下さい。要点を見出しとして付けました。太字の部分は、この小野田神父がそうしました。】

・・・

【「今までどおり」では限界があるので、現在の典礼にふさわしく新しく変える必要がある】

できるだけ「今までどおり」という線でがんばるのか、それとも現在の典礼に「ふさわしい」聖堂となるように、精一杯くふうしてみるか・・・・・・。
どうでしょう、この機会に、後者についてごいっしょに考えてみませんか。

【前のままではなく新しくなったのには意味や理由がある】

「なんでこんなややこしい聖堂のかたちにしてしもたんや。前のままの方がよっぽどよかったのに。あーあ・・・・・・。」
でも、ちょっと待って。それはただ単に「ややこしく」なったのではなくて、ちゃんとした意味や理由があってそうなったのかもしれません(もちろん、そうでない場合もあるわけですが)。

【新しく目ざすべき典礼にあう新しい形】

これから一年間にわたって、わたしたちがめざすべき典礼と、
それにふさわしい「場」としての聖堂について、ごいっしょに考えてみたいと思います。

【「日曜日の集会(ソノママ)」は「一致のための場」「一致の秘跡を祝うため」】

主日をわたしたちは、どんな心構えで迎えているでしょうか?
教皇ヨハネ・パウロ2世は使徒的書簡『主の日』で、次のようにのべています。
「日曜日は『復活の日』ですが、主の復活を過去の出来事として思い出すだけでなく、復活した主がご自分の民の間に今も生きていることを祝う日なのです」(31項)。
日曜日の集会は、何よりも一致のための『場』であり、『一致の秘跡』を祝うために設けられています。この『一致の秘跡』は、教会が、父と子と聖霊の『一致によって』、またその『一致のうちに』集められた一つの民であることをきわめてはっきりと表します」(36項)。

【一つの民に集められたと「一致」を実感しなければならない】

問題は、わたしたちの聖堂がここでのべられているように「一致のための『場』」として機能しているかどうか、なのです。
わたしたちの聖堂は「一致」を実感できるくふうはなされているでしょうか・・・・・・?

「次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。まず第一に、あなたがたが教会に集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。・・・・・・それでは、一緒に集まっても主の晩餐を食べることにはならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」(Ⅱコリント11章17~22節)。
おやおや。ほな、アカンかったんやん。
・・・・・・といってしまう前に、聖パウロがここで何をいわんとしているかについて、考えてみましょう。
この時代には、だれかの家に集まって食事をすることで「主の晩餐」の記念が行われていたようです。でも、集まってきた者があまりにも互いに無関心で配慮がなかったので、パウロはきっぱりと「ゆるせん!」といったのです。パウロは「一致」に対して深いこだわりを示しています。

【註:Ⅱコリント11章と参照されているが、本当は、コリント前書の11章のこと。
聖パウロは、確かにコリントにおける徒党と党派があることを警告したが、同じ、コリント前書の第11章で次のことも警告している。女性の被り物のと成聖の状態(大罪のない状態)で御聖体を拝領しなければならないことだ。
「頭にかぶりものをしないで祈りや預言をする女もみな、その頭をはずかしめる。」
「あなたたちは、みずから判断せよ、女がかぶり物なしで天主に祈るのがよいことであろうか?」
「ふさわしい心を持たずに、主のパンを食べ、その杯を飲む者は、主のおん体とおん血とを犯す。だから、そのパンを食べ、その杯を飲むごとに、おのおの自分をしらべなければならない。主のおん体をわきまえずに飲食する者は、自分自身への裁きを飲食することである。そのため、あなたたちの中には、弱いもの、病気のものが多く、また、死んだものも少なくない。」
 これについては大阪教区の典礼委員会は何も言及をしていない。】


【「主の晩餐」の「食事」は、キリストの死から復活への過越秘儀を「想起」するもの】

「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(同11章26節)。この「食事」はキリストの死から復活への過越秘儀を「想起」するものであり、ここで実践される「一致の交わり」がキリスト者の生き方の「規範」そのものである、と考えていたためでした。それは、「罪人」と呼ばれた人びとと共食されたキリストの、あの生き方です。キリスト者の「集い」の場は、「一致」をめざすものでした。

【建物としての「聖堂」は、共同体の「影」であり、「集い」があればOK】

ところで、この時代はまだ、今のわたしたちが考えるような「聖堂」というものはありませんでした。建物は「生ける神の神殿」(Ⅱコリント6章16節)である共同体の、いわば〃影〃のようなものでしかない、とさえ考えられていたようです。つまり、だれかの家の大広間や、屋外にある広場などを提供してもらって「集い」がもてれば、それで充分だったのです。事実「家の教会」ということばがあったほどなのです。
「私たちには(異教徒のように)神殿も祭壇もない」ことをむしろ誇りにさえ思う――それが、2~3世紀ごろの「教会」だったのです。ところが、コンスタンティヌス帝がキリスト教の禁教を解いた4世紀頃から、いろいろな変化が生じるようになってきます。


【キリストの体とは、何よりもまず、キリスト者の集いのこと】

それだけたくさんの人が「集い」に参加するとなれば、今までのような一般の住まいでは皆が入りきれません。そこで採用されたのが、立派な、宮廷様式の建物です。これを「バジリカ」といいます。
 バジリカ様式の建物の中で「集い」がもたれているようすをちょっと、想像してみてください。
・・・・・・壮麗な建物の向こうでは、いわゆる「司式者」が「祭壇」をはさんで会衆を前にしています。その席は後陣にあって、その建物ではこれまで「裁判官」(!)がましましていたところです。そして、その両側を「長老」たちがずらりと取り囲んでいます。・・・・・・どうでしょう?これまでの「家の教会」に比べると、この「司式者」にそのつもりがなかったとしても、なんだか〃距離感〃をおぼえませんか?

パウロにとって、キリスト者の交わり、一致した集いそのものが「キリストのからだ」でした(Ⅰコリント12章12~31節)。ところが、距離感はやがて一体感を失わせ、「集い」への参加意識は希薄になっていき、ついには人びとを単なる「お客さん」にしてしまいます。

「自分たちが『キリストのからだ』だって? そんな、めっそうもない!」ということになってしまいます。「『キリストのからだ』なら、ほら、あそこにありますよ。あの遠い聖域で司祭が掲げている、ほら、あれ。・・・・・・見えますか?」遠巻きに眺めて崇め奉るものとしての「聖体」理解まで、あとほんの一歩です。

【私たち教会が一つになって典礼を捧げるのだから、主の食卓を「囲んでいる」と体感できなければならない】

『典礼憲章』は、すべて典礼行為は「一致の秘跡」であり「キリストのからだ」である教会全体の(26項)「わざ」(7項)である、とのべています。だからこそ、そこに集まるすべての人に「行動的な参加」(30項)が期待されているのです。

司祭であるキリストと、そのからだであるわたしたち教会がひとつになって典礼をささげている、という実感がもたらされるような聖堂の構造・・・・・・。
遠くから、祭壇をほれぼれしながら「眺める」のではなく、目の前でそれを「囲んでいる」と体感できるような、聖堂の構造・・・・・・。


【聖堂の役割は、十字架のいけにえの再現にあるのではない】

聖堂の役割は、大ざっぱにいって二つあります。
1.キリストご自身が食物(聖体)となってわたしたちにふるまわれる場。
2.キリストの死と復活の神秘(過越秘儀)をともに味わい、感謝をささげる場。

祭壇は「主の食卓」であると同時に、「生きた石」(Ⅰペトロ2・4、エフェソ2・20参照)である主キリストが、私たちとともにいてくださることを示す、目に見えるしるしでもあります。ですからこの祭壇の上に置かれるパンとぶどう酒が、聖堂内のどこからでもよく見えるように配慮することは、とてもたいせつなことだといえるでしょう。

 祭壇に続いて、朗読台についても考えてみたいと思います。
教会は朗読台を「神のことばの食卓」と呼んで、たいせつにしてきました(「啓示憲章」21項参照)。ことばの典礼において、会衆はここから神のことば(聖書の朗読、答唱詩編、説教など)を「食物」として「いただく」からです。

また、キリストのからだをひとつの「食卓」(祭壇)からいただくように、神のことばもひとつの「食卓」(朗読台)からいただくようにするのが自然です。旧約聖書や書簡の朗読と、福音朗読とがそれぞれ別の朗読台からなされては不自然でしょう。朗読台はあくまでもひとつでなければなりません。

 次は聖堂内の十字架についてです。
ミサがキリストの死と復活の過越秘義を記念するものであるという理解から、聖堂内に固定された十字架へのこだわりは少なくなってきています。

ミサ典礼書の総則(2002年版)によれば、十字架はミサが行われるたびに奉仕者が持ち運び、祭壇の上に置くか、そばに立てることができる、となっています。それは、行列をとおして「受難の主は、常にわたしたちとともに歩んでくださる」ことを思い起こすため、また、ミサ全体の「流れ」のなかで、過越のできごとの頂点が何であるかを体験できるようにするためでしょう。

【御聖体を礼拝の対象にするよりは、教会共同体の一人一人が大切にされるべき】

続いて聖櫃(せいひつ)について考えてみたいと思います。
聖櫃のそもそもの起こりは、主の日の集いに参加できなかった病人のために、後でパンを運ぶことができるようにと貯えておいたことに由来します。その「貯蔵庫」がやがて、食物としてふるまわれるはずのパンを眺めて礼拝するための対象にされてしまいました。それは以前紹介した聖堂の構造上の変化とも関係があるでしょう。

もちろん、聖体を礼拝の対象にするな、といっているわけではありません。しかし典礼の「流れ」のなかでは、聖櫃のなかに「保存」されている聖体と、主の日に食卓(祭壇)を取り囲んで「キリストのからだ」となる共同体と、どちらが重んじられるべきなのでしょうか。祭壇から供されるキリストのからだと血をいただいて「ひとつのからだ、ひとつの心」(第三奉献文より)となった「神秘体」(=教会共同体)の一人ひとりこそ、たがいに大切にされなければなりません。

聖体賛美式の緒言にも、「この秘跡を食物、いやし、助けとして制定されたキリストの意向が不明確になるような仕方や飾りつけなどは避けなければならない」(82項)と、はっきり記されています。
こうして考えてみると、わざわざ別に礼拝所を設けなくても、聖櫃は祭壇から離れたところ、しかもできるだけ正面からずらした、脇の方に設置するのがよさそうです。


【今は、新しい教会へと完全に変わる過渡期にある教会】

 最後に、告解場のことについてお話しましょう。
・・・・・・と、書いておきながらこんなことをいうのもなんですが、いまだに「告解場(室)」という表現で「あぁ、あれね」と、話の通じるのが悲しいところでもあります。それは、「ゆるしの秘跡」の意味が今もって浸透していないことを意味しているからです。
多くのばあい、ただ単にこの秘跡の呼び方が「今風」になっただけ、ぐらいにしか考えられていないのではないでしょうか。

罪の告白(告解)は、神から「ゆるし」をいただいたというよろこびにあずかり、これから回心(悔い改め)して生きるための、あくまでも「第一歩」にすぎません。この秘跡の「流れ」をひとつの場で全体的に実感しようと思ったら、カーテンで仕切られた暗くて狭い部屋がほんとうにふさわしいものであるかどうか、ということを考えなくてはならないでしょう。暗いところから出てきて、あぁやれやれ、お勤めを果たした、では困ります。
最近では、聖堂内に応接間を連想させるような部屋をもうけて、司祭と向かい合って「ゆるしの秘跡」にあずかれるよう、くふうしている教会もあるようです。ただ、従来のイメージからはずいぶん明るくなりすぎて、「なんや落ち着かへんな・・・・・・」と、違和感をおぼえる方もおられるようですが。
そのためにも、ここはあらためて「ゆるしの秘跡」の意味ややり方など、みんなで再確認しておく必要があるでしょう。世代によって、この秘跡に対する考え方がずいぶんまちまちであったりします。司祭が「悔い改めの祈り」といっても通じないので、「痛悔の祈り」とあわてて言いなおしたり・・・・・・。
教会が現在のような「過渡期」にあるばあいは、跪いてもよし、司祭と向かい合ってもよし、というぐあいに、選択の余地をもうけておくほうがいいかもしれません。外的なことよりもまず、秘跡の意味と内容をよく理解することの方が先決でしょう。

====引用終了====

【関連記事】

教皇様への感謝のロザリオの霊的花束の数は、今のところ 2023 環

2009年04月17日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか? こちらは天主様の御助けにより、聖週間と復活祭の任務をソウルで終え、フィリピンに戻ってきました。しばらくフィリピンに不在でしたので、今、遅れを取り戻しております。

 愛する兄弟姉妹の皆様から少しずつ、ベネディクト十六世教皇様への感謝のロザリオの十字軍の祈りの数が報告されてきています。兄弟姉妹の皆様には心から感謝いたします。(お名前については仮名にさせて頂いております)

 今回 1963環が報告されましたので、2009年2月2日から総計 2023環となりました。

愛する兄弟姉妹の皆様の多くのご報告をお待ちしております。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.


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十主の平安

御復活の聖神父様の歌、楽しかったです(*^_^*)
本当に、我らの主イエズス・キリスト様の御姿とルフェーブル大司教様の御姿は、重なります。

聖なるロザリオの数を、お知らせ致します

エリザベトさん    193環
テレジアさん     186環
マリアさん       94環(熊本県)
マリアさん       73環
マリアさん       10環(熊本県)
マリアさん        5環
バルナバさん       1環
ヨゼフ・パウロさん   89環
マリアさん      538環
マリア・テレジア    36環
ベルナデッタ     197環 

です、どうぞ宜しくお願い致します。

御復活なされました我らの主なるイエズス様!
秋田の聖母マリア様!
御優しい、聖ヨゼフ様!

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Subject: 感謝のロザリオ十字軍

小野田神父様、たびたび失礼します。

遅くなりましたが、表題の件、ご報告します。

タルシジオ:276
(Franciscan Corona):49

ミカエラ:216

Total amount:541

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【関連記事】

第二バチカン公会議の教会は人間の良心と尊厳に成り立つ世界統一を求める

2009年04月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たち、第二バチカン公会議により生まれた「新しい人間」から生まれ出た教会について、つまり、新しい人間と天主との関係を取りなす第二バチカン公会議の教会について、考察を始めました。

 (3)第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? 第二バチカン公会議の教会は、【1】この世に対して、【2】他の宗教に対して、【3】教会内部構造についてどのように変わったのか?という点を考察してみます。

 私たちは、すでに現代人が、自分自身の知識と力とに自己陶酔しており、崇高な人間こそが全ての中心であると確信していると第二バチカン公会議が認めたこと、第二バチカン公会議は自己の使命として、人間の崇高な召命にふさわしい兄弟的一致と博愛と世界統一と、よりよい世界の建設を挙げたことを見ました。

 人類統一という天主にまで届く高い塔の建設に第二バチカン公会議は積極的に協力しようとするのです。続きを見てみます。


【一致の基礎】

 聖伝によれば、人類は救われるために、洗礼により教会の中に入らなければならない。人類は永遠の救霊のために、キリストにおいて、全世界的・カトリック的な(つまり普遍な)兄弟とならなければならない。

 従って、カトリック教会は常にこう祈ってきた。例えば、今日つまり復活後の木曜日の集祷文はこうだ。

"Deus, qui diversitatem gentium in confessione tui nominis adunasti : da, ut renatis fonte baptismatis una sit fides mentium et pietas actionum ; per Dominus Nostrum Iesum Christum ..." 様々な民族を聖名の信仰宣言において一つに集め給うた天主よ、洗礼の泉においてもう一度生まれた者たちをして、彼らの心の信仰と彼らの行動の敬虔を一つにならしめ給え。(復活後の木曜日の集祷文)

 何故なら、信仰の一致と真の天主に対する子供としての敬虔とがなければ、真の兄弟愛もありえないからである。ただ単に片思い的な一方通行の普遍的兄弟愛は、無償の福祉であり崇高な善意であるけれども、相互の兄弟愛がない限り、真の友情ではなく幻想にすぎない。

 カトリックの聖伝は、永遠の命を得させるために、私たちの主イエズス・キリストの命令に従って全被造物と諸国に私たちの主イエズス・キリストの教えたことを宣教し、聖父と聖子と聖霊との聖名によって洗礼を授け、全世界を超自然の信仰と洗礼の秘跡のもとに、キリストのもとに置こうとする。

 カトリック教会は、最初はからし種のような小さいものであるが、成長し、全世界に広がり、愛徳と聖徳と数において発展しなければならない。人類の真の幸福のために、全ては、王であるイエズス・キリストのもとに置かれなければならない。キリスト以外の「平和」は、幻想にすぎない。


【第二バチカン公会議による一致の基礎】

 第二バチカン公会議は、カトリック信仰における一致でもなく、三位一体を真の天主を父と仰ぐ兄弟愛でもなく、人間の自然本性的な社会性だけに一致の基礎を置こうとする

『現代世界憲章』24(人間の召命の共同体性格)
 すべての人について父として配慮する神は、すべての人間が一つの家族を構成して相互に兄弟の精神をもって接することを望んだ。事実、すべての人は神の像として創造されたのであり、神は「一つの根源から出た全人類を地の全面に住むように」(使徒 17:26)させたのであって、人はすべて唯一同一の目的、すなわち神自身をめざすよう呼ばれている。


 第二バチカン公会議は、人間の崇高な召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる。

『現代世界憲章』3(人間に対する奉仕)
 この公会議は人間の崇高な召命を宣言し、人間の中に神的な種子が置かれていることを肯定し、人間のこの召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる。教会はけっして地上的野心によって動かされているのではない。教会の望むことはただ一つ、すなわち、真理を証明するために、裁くためではなく救うために、奉仕されるためではなく奉仕するために、この世に来たキリスト自身の仕事を、弁護者である霊の導きのもとに続けることである。


 第二バチカン公会議は、こっそりとテイヤール・ド・シャルダンの考えを使う。
 例えば、「キリストに結ばれずに誰一人として人類の一員とはならない。何故なら御托身の神秘は人間の存在論的基礎に至るまで人間本性に影響を与え、全ての被造物の長子であり全ての秩序の最初である方へと、聖寵により方向付けをするからである」(C. Bordet "Teilhard de Chardin, l'actualite de son message, les Editions Ouvrieres, 1964, p.80)が、テイヤール・ド・シャルダンの考えであるとすれば、第二バチカン公会議はそれにこだましてこう言う。「神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。」(『現代世界憲章』22(新しい人・キリスト))

 第二バチカン公会議によれば、イエズス・キリストの十字架による贖いもなく、この贖いを適応することもなく、イエズス・キリストの御托身(=受肉)という事実により、ipso facto 自動的に、全ての人々をキリスト化させキリストと一致させる力を持っている。「このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。」(『現代世界憲章』22)

 第二バチカン公会議は、「神の子が受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた」という一致の密かな効力の他に、教会の本性上、教会は一致の芽生えであると教える。「このメシア的な民は、現実にはすべての人を含まず、またしばしば小さな群のように見えるが、それは全人類に取って、一致と希望と救いの最も堅実な芽ばえである。」(『教会憲章』9)

 そしてこの芽生えは、成長することなく芽生えのまま留まる。教会は、天の王国の地上の芽生えであり、教会の発展は、終末論的な期待に基づく。教会は地上における教勢を伸ばそうとするのではなく、教会の「発展」とは、神の国の完成を渇望し終末的に栄光を受けるのを望み求めることである。

『教会憲章』5
「教会は、・・・キリストと神との国を告げ、諸国民のうちに刷新する使命を受け、この国の地上における芽ばえと開始となっている。教会は徐々に発展するが、その間にも神の国の完成を渇望し、栄光のうちに自分の王と結ばれることを全力をもって望み求めている。


 第二バチカン公会議によれば、教会が人類の一致のために提供することができるのは、教会の隠れた影響力、天の王国の理想、新しく訂正され清められたキリスト教世界像である。「全人類の兄弟的集まりを確立する努力は無駄なものではない」(『現代世界憲章』38(復活秘義において完成に導かれた人間活動))。「 キリストがその教会に託した固有の使命は、政治・経済・社会の分野に属するものではない。キリストが教会に指定した目的は宗教の領域に属する。ところで、実にこの宗教的使命そのものから、神定法に基づいて建設し確立すべき人間共同体のために役立つ任務、光、力が出てくる」(『現代世界憲章』42(教会が社会に提供する援助))。


【世界の統一】

 第二バチカン公会議の言う世界統一は何に基づくのか? 第二バチカン公会議の求める世界統一は、単なる全人類の兄弟的集まりではない。

 第二バチカン公会議が「人類家族は徐々に全世界における一つの共同体として自覚を強め、またそうなりつつある」(『現代世界憲章』33(問題提起))と認めているのなら、この「一つの共同体」とは何か? 世界統一政府? それとも世界連邦? あるいは国連なのか?

 公会議閉会の直前、1965年10月4日、公会議の教父らの採決を待つまでもなく、パウロ6世はマンハッタンの国連において『人類についての専門家』として、こう演説した。
「皆さんは、国連で人間の基本的権利と義務、人間の尊厳、自由、特に信教の自由を宣言しています。皆さんは、人間の知恵の中で最も崇高なもの、あえて言えば、その聖なる性質の代表者です。」
 「この相互扶助の組織は、国連の最も人間味豊かな神聖な側面です。それは、人生の旅路において全人類が夢見る理想です。それは世界の人々の最も大きな希望です。」
「皆さん、もう一度、最後の言葉を言わせてください。皆さんが建設しているこの建造物は、ただ物的、地上的土台の上に立つものではありません。そうだとすれば、それは砂上の楼閣となるでしょう。むしろそれは、わたしたちの良心の上に立てられなければなりません。」
(中央出版社:『 歴史に輝く教会』416-426頁参照。)


 【グローバリゼーションの原因】

 第二バチカン公会議は、相互が従属関係にあり相互依存しているという。

 世界が一つに結ばれていることと、各自が必然的連帯性に基づいて相互に従属関係にあることについては強く感じているが、他方、世界は相戦う力の対立によって引きさかれている。事実、政治、社会、経済、人種、そして主義上の激しい紛争がいまだに続いており、すべてを破壊する戦争の危険さえある。」(『現代世界憲章』4(現代世界における人間の状態--希望と不安))

 「思想の交流は増しているが、主要な概念を表わすことば自体が、主義の違いによってかなり異なった意味をもたらしている。」(『現代世界憲章』4(現代世界における人間の状態--希望と不安))

『現代世界憲章』25(人間と社会の相互依存)
「現代においては種々の原因によって、相互連帯と相互依存はますます多様化し、その結果、公法なたは私法上のいろいろな会や制度がつくられている。社会化と呼ばれるこの現象は、危険がないわけではないが、人間の才能の肯定と発展のため、また人間の権利を擁護するために多くの有利な条件を提供してくる。・・・
 頻繁に起こる社会秩序の乱れは、一部は経済・政治・社会形態の緊張によるが、根本的には人間の高慢と利己主義に基づくものであって、これらは社会環境をも退廃させる。」

『現代世界憲章』26(共通善の促進)
相互依存が日増しに緊密になり、徐々に世界に広がっていくことによって、共通善---すなわち集団とその構成員とが、より完全に、いっそう容易に自己の完成に達することができるような社会生活の諸条件の総体---は、今日ますます世界に広がりを持つものとなる。その結果、人類全体に関する権利と義務を含む者となった。どの集団も他の集団の必要と正当な要求、さらには人類家族の共通善を考慮しなければならない。」
(この共通善についての素晴らしい定義と、ヨハネ二十三世のマーテル・エト・マジストラ(Mater et Magistra)を参照させていることはとても良い点だ。」


 しかし、人類世界全体の共通善のために、それぞれの国家は自分の国家としての共通善を放棄すべきなのだろうか? カトリック国家は、自己のカトリックというアイデンティティーを放棄するべきなのだろうか? カトリック国家であるという自由を失うと同時に国家が経済的自由を失ってしまうことは、進歩なのだろうか? 政治的な真の主権を失ってしまうことは進歩なのだろうか?(例えば最近の例では、国連の家族解体システム(女子差別撤廃条約選択議定書)などを受け入れていくことが進歩なのだろうか?)

 キリストのいない世界統一、カトリック的ではない世界統一、世界自由経済を追求するための世界統一、これが進歩なのだろうか?

 しかし第二バチカン公会議はこれらについて答えていない。

【カトリックを越える一致】

 第二バチカン公会議によれば、カトリック教会は人間のペルソナの崇高な品位、人格の尊厳のために闘う人間性のイデオロギーに変わり(『現代世界憲章』22、『信教の自由に関する宣言』1)、諸宗教との対話の使徒に変容すべきである。

『現代世界憲章』40(教会と世界との相互関係)
 人間の尊厳、人間の共同体、人間活動の深い意義について、われわれが述べたすべてのことは、教会と世界の相互関係の基礎ならびに両者の対話の根拠をなすものである。・・・
 天上の宝を目ざして互いに結ばれ、またそれによって富まされているこの家族は、キリストによって「社会として、この世の中に設立され組織された」ものであり、「見える社会的一致の適切な手段」を与えられている。したがって、教会は同時に「見える団体と霊的共同体」であり、全人類とともに歩み、世と同じ地上的なりゆきを経験する。教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっている。・・・
 教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。


 しかし、第二バチカン公会議は、教会あるいは教皇の聖なる権能を政治の分野で使うことを拒絶する。教皇は平和のための仲立ち人にはなれない。第二バチカン公会議は、世俗の国際権威に平和の保証を求めなければならない。(『現代世界憲章』79,82)

 第二バチカン公会議は、従って、キリストの上に成り立つのではない、人間の自由な良心と尊厳との上に成り立つ平和を求める。


 1965年10月4日、パウロ6世の国連における演説。
「皆さんは、国連で人間の基本的権利と義務、人間の尊厳、自由、特に信教の自由を宣言しています。皆さんは、人間の知恵の中で最も崇高なもの、あえて言えば、その聖なる性質の代表者です。」
 「この相互扶助の組織は、国連の最も人間味豊かな神聖な側面です。それは、人生の旅路において全人類が夢見る理想です。それは世界の人々の最も大きな希望です。」
「皆さん、もう一度、最後の言葉を言わせてください。皆さんが建設しているこの建造物は、ただ物的、地上的土台の上に立つものではありません。そうだとすれば、それは砂上の楼閣となるでしょう。むしろそれは、わたしたちの良心の上に立てられなければなりません。」
(中央出版社:『 歴史に輝く教会』416-426頁参照。)


 しかし、このような最高国際権威は、究極のところ天主からの最高権威者たる教皇に反対する権威として、立ち上がるだろう。キリストなしに作られた世界統一最高権威は、ついにはキリストに反対するものとして、反キリストの権威としてそびえ立つことであろう。

 何故なら「世俗の権威は霊的権威の下に置かれるべきである。何故なら、使徒聖パウロ曰く「天主に拠らない権能はない、あるものは全て天主によって秩序付けられたものである(ローマ13:1)。・・・誰であれ、天主によってこのように秩序付けられたこの権威に逆らうものは、秩序付ける天主に逆らうものである。・・・全ての人間的被造物がローマ教皇に従うことは、救いのために全く必要だ」(ボニファチオ八世)からである。


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主よ、我等を憐れみ給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリア、われらのために祈りたまえ!
聖ヨゼフ、われらのために祈りたまえ!
聖ベネディクト、われらのために祈りたまえ!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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第二バチカン公会議は、教会をどのように自己定義したのか?【1】この世に対して

2009年04月15日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議で、カトリック聖伝と比べてどのような点が新しくなったか、どのような点で見方と変わってしまったかを考察してきました。
 既に、
(1)第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったかのか? 
また、
(2)第二バチカン公会議は、天主と人間との関係についてどのように新しく考えるようになったかのか? 
について考察しました。

 それでは、第二バチカン公会議により生まれた新しい人間から生まれ出た教会について、つまり、新しい人間と天主との関係を取りなす第二バチカン公会議の教会について、考察を進めていきましょう。

 現代の人類は、自分が発見した事がらと自分の力に感動し自己陶酔しており、崇高な人間こそが全ての中心であると確信します。そこで第二バチカン公会議は自己の使命として、人間の崇高な召命にふさわしい兄弟的一致と博愛と世界統一と、よりよい世界の建設を挙げています。


『現代世界憲章』3(人間に対する奉仕)
 したがって公会議は、・・・聖霊に導かれる教会が、その創立者から授けられた救いの力を人類のために提供することは、神の民が属している人類全家族に対する連帯感と尊敬と愛とを最も雄弁に証明することになると考える。実際、人間のペルソナをこそ救うべきであり(Hominis enim persona salvanda est)・・・人間こそ、われわれの全叙述の中心点である。
 それゆえ、この公会議は人間の崇高な召命を宣言し、・・・人間のこの召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる

『現代世界憲章』26(共通善の促進)
 これと同時に、人間のすぐれた尊厳についての自覚も増している。人間はあらゆる物にまさるものであり、その権利と義務は普遍的で、侵すことのできないものだからである。

『現代世界憲章』55(文化を作り出す人間)
 世界の統一と、真理および正義の中によりよき世界を建設すべきわれわれの使命とを考えるならば、それはいっそう明きらかである。こうして、われわれは新しいヒューマニズムの証人であり、・・・

『現代世界憲章』78(平和の本質)
 したがって、すべてのキリスト者は愛の中に真理を実行しながら(エフェソ4:15)、平和を求め、また打ちたてるために、平和を心から愛する人々と協力するよう強く求められている。

『現代世界憲章』92(すべての人との対話)
 教会は福音の知らせによって全世界を照らし、またあらゆる国、民族、文化に属するすべての人を一つの霊の中へ集めるという使命の力によって、誠実な対話を可能にし、強化する兄弟愛のしるしとなる。・・・
 このような話し合いの望みは、・・・われわれの側からは何びとをも除外しない。
 父なる神はすべての人の起源であり目的であり、われわれはすべて兄弟となるよう召されている。したがって、またこの同一の人間的・神的召命によって召されているわれわれは、暴力と欺瞞なしに、真の世界平和建設のために協力できるし、また協力しなければならない

『教会憲章』 1(序文)
 教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である。

『教会憲章』 9 
  神は、救いの作者であり、一致と平和の源であるイエズスを信じ仰ぐ人々を一つの集団に招き集めて、教会を設立した。それは、教会が、すべての人と個々の人にとって、救いをもたらす一致の見える秘跡となるためである。



 そこで、
(3)第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? 第二バチカン公会議の教会は、この世に対して、他の宗教に対して、教会内部構造についてどのように変わったのか?
 という点を考察してみます。

【教会とこの世との関係】

 聖伝によれば、天主であり、王の王であるキリストは、二つの職務を制定した。一つは使徒の司祭的な職務であり、民と人々とを天主へと直接に結びつける。もう一つは政治的職務であり人民を善徳へと秩序付ける。

 教会統治権も、政治的統治権も、全ての権能はキリストからくる。キリストはそれを教皇、あるいは君主にそれぞれの権能を委ねる。この二つの構造と統治権とは互いに独立している。

 しかし、この二つの裁治権あるいは職務の目的・究極目的は、相互に関係を持つ。政治の目的である市民の徳のある生活は、彼らの永遠の救霊のためにのみある。後者は教会の目的である。従って、目的に関しては、政治は、教会に直接的に本質的に(たんに偶然的だけではなく)従属する。


 使徒達は、来世の救霊とこの地上での平和の達成のために、この世界の政治的諸国が必要としていたことを説教した。古代プラトンは、統治するにふさわしい徳を持った聖人君主たる哲人をどこに見つけることができるか悲しく疑問に思った。私たちの主イエズス・キリストは、教会の権力と政治の権力とを区別し、「聖人君主たる哲人」たる教会の司教たちが、政治的には自由でありながら、政治に携わる人々を正しく導くことを委ねた。

 ボニファチオ八世は、1302年大勅書「ウナム・サンクタム(Unam Sanctam)」で、カトリック教会の聖伝の教えを述べた。

「世俗の権威は霊的権威の下に置かれるべきである。何故なら、使徒聖パウロ曰く「天主に拠らない権能はない、あるものは全て天主によって秩序付けられたものである(ローマ13:1)。・・・
 従って、地上の権力が道を外れるとすると、霊的権力によって裁かれるであろう。しかし、霊的小人が道を外れるとその長上によって裁かれる、もしも霊的最高の権力については天主によってのみ裁かれ、人間によっては裁かれることができないだろう。・・・
 従って、誰であれ、天主によってこのように秩序付けられたこの権威に逆らうものは、秩序付ける天主に逆らうものである。さもなければマニ教徒らのように、善と悪との二つの原理(原初)があるとでっち上げるものであるが、これは私たちは偽りであり異端であると判断する。何故なら、モーゼの証言に拠れば、原初(複数)ではなく、原初(単数)において、天主は天と地とを造り給うた(創世1:1)からである。
 更に、私たちは、全ての人間的被造物がローマ教皇に従うことは、救いのために全く必要であると宣言し、断言し、定義し、発表する。」

 ピオ十一世は、1926年、回勅「クワス・プリマス」で、キリストの王としての権利を再確認した。

「贖い主の主権は全ての人々に及ぶのです。レオ13世のお言葉によれば「キリストの支配権はカトリック信者ばかりでなく、異端によって脇道に逸れたもの、或いは離教によって愛の絆を切って離れた派のものであっても、正しい洗礼によって清められ、法の上から見てやはり教会に属している人々にまで及びます。しかしそれのみならず、その支配権はキリスト信者以外の全ての人々をも包括するものでありますから、全人類がイエズス・キリストの権力のものに」あるのです(回勅「アンヌム・サクルム」1899年5月25日)。
 この点では個人も家庭もまた国家も何の相違もありません。なぜなら人間は社会を構成しても、個人の場合と同じようにキリストの主権のもとに服しているからです。
 従ってキリストは個人の救霊の泉であると同時に社会の救いの源でもあります。「救いは主以外のものによっては得られません。全世界に私達が救われる名はこれ以外には人間に与えられませんでした」(使徒行録4:12)。
 キリストはまた国民一人一人や国家全体の繁栄と真の幸福をもたらす御者です。「国家と国民は別々に幸福になるのではありません。何故かと言えば国家とは多数の人々が一緒に生きていく集まりだからです」(聖アウグスチヌスのマケドニアへの書簡)。
 従って、国の為政者は自分の権威を保ち、国の繁栄を望むなら、自分がキリストの支配に対して公に尊敬と従順を表すのみでなく、国民にもそれをおろそかにさせてはなりません。
 教皇位について私は法的権威の失墜と権威に対する尊敬が一般的に欠けてきたことについて話しましたが、それは今でも変わらぬ事実です。
天主とイエズス・キリストが法と国家から除外され、権威が天主からではなく、人間に由来するように考えられてきたため、ついに権威の基礎そのものが取り去られることになりました。これは支配権と服従の義務の本質を無視したからです。その結果当然人間社会全体がぐらつくことになりました。なぜなら、その社会はもはや堅固な基礎も保護も持っていないからです」(回勅ウビ・アルカノ)。・・・
 キリストの主権に誉れを帰するならば人々はキリストによって完全な社会として創設された教会が、本来持つ権利をどうしても思い出さずに入られないのです。放棄してはならないこの権利によって、キリストの王国に属する天主から託された人々を支配し永遠の幸福へ教え導く使命を果たすために、教会は国家権力から完全な自由と独立を要求します。教会はこの使命のためにいかなる他の権力にも服してはならないのです。・・・
 毎年くり返されるこの祝日は、個人と同様に、政府も為政者もキリストに対して公の誉れと服従を示さねばならないことを全ての国々に思い出させるでしょう。そして人々は最後の審判のことを思い、公の生活から締め出され軽蔑され無視されたキリストが、どれほど厳しくその不正を責めるかということも考えるに相違ありません。・・・
 その上信者は、これらの真理を黙想することによって、真のキリスト教的理想に向かって歩む大きな力と勇気とを受けるでしょう。というのは私たちの能力は主の支配から除外されているものは一つもないからです。そのことは次の三つの理由によってはっきり分かるでしょう。私達の主キリストには、(1)天と地の全ての権能が授けられ、そして(2)その高価な御血によって贖われた全人類は、新たにキリストの権威のもとに置かれ、また(3)その権能は全人類を含んでいるのですから、私達がキリストの王権から逃れてならないのは明らかでしょう。」


 聖伝によれば、平和の君であり王の王であるキリストの代理者、すなわち教皇だけが諸国の平和のための仲立人たり得る。教会あるいは教皇は、平和のために聖なる権力をつかって諸国の君主に介入することができる。


【新しい「福音」の理解】

 1963年5月23日、ヨハネ二十三世は死の直前に自分の考えをこう語った。
「今日、かつて無かったほどに、そして過去数世紀にもなかったほどに、私たちは人間としての人間に、たんにカトリックとしての人間ではなく人間としての人間に奉仕するように呼ばれている。カトリック教会の権利だけではなく特に人間のペルソナの権利をどこででも擁護するように召されている。・・・変わるのは福音ではなく、私たちこそが福音をよりよく理解し始めたのだ。」(quoted by Msgr Capovilla, Giovanni XXIII, Quindici letture, Roma, 1970.)

 ヨハネ二十三世が1962年10月11日に開催した第二バチカン公会議は、社会秩序の基礎として天主の似姿としての人間のペルソナの超越性を置いた。

 あらゆる社会制度の起源、主体、目的は人間のペルソナであり、また人間のペルソナでなければならない(principium, subiectum et finis omnium institutorum socialium est et esse debet humana persona)【『現代世界憲章』25】、また、イデオロギー、道徳、宗教の選択にかかわらず【『現代世界憲章』29,73】、人間としての人間のペルソナの権利は神聖にして犯すべからず侵すことができない【『現代世界憲章』26】。

 政治的社会の共通善は本質的にこのペルソナの不可侵の権利、特に信教の自由を保障することにある。これは、ラッツィンガー枢機卿【現ベネディクト十六世教皇】によれば、二世紀の間のリベラルな文化が、教会の外に生まれたにもかかわらず福音と結合されて作り出された、宗教的・経済的・政治的理論である。

 第二バチカン公会議は、この人間のペルソナを全ての土台とする個人主義の上に、全人類の一致を追求しようとした。しかし、その土台があまりにも壊れやすいので、教会はこの人類統一という天主にまで届く高い塔の建設に手を貸そうとした。少なくとも、教会は、全人類の一致のしるしとしてまたモデルとしてこの世により明らかに示そうとした。

『教会憲章』 1(序文) キリストは諸民族の光であるから、聖霊において参集したこの聖なる教会会議は、すべての被造物に福音を告げることによって(マルコ 16·15参照)、教会の面上に輝くキリストの光をもってすべての人を照すことを切に望む。教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具であるから、これまでの公会議の教えを守りつつ、自分の本性と普遍的使命とを、その信者と全世界とに、より明らかに示そうとする。現代の状況は教会のこの義務をいっそう緊急なものにしている。それは社会・技術・文化の種々のきずなによって今日、より強く結ばれているすべての人々が、キリストにおける完全な一致をも実現すべきだからである。

(つづく)

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