アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖ピオ十世会のアジア管区長であるクチュール神父の「アポストル」誌の編集者の言葉を日本語に訳して下さった方がおられますので、感謝しつつ愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
*****
原文はこちら
http://www.sspxasia.com/Newsletters/2012/apostle33-editorial.pdf
編集者の言葉「私たちがこのあるがままで!」
親愛なる友人と恩人の皆さん
"As we are!" 「私たちがこのあるがままで!」
過去の話ですが、一九八〇年、ルフェーブル大司教は、一九七五年五月六日の不正な「修道会廃止」と一九七六年七月十七日の「聖職停止」ののち、聖ピオ十世会が再度承認さることを俯瞰して眺め、六月二十九日の説教でこのように述べられました。
「では将来はどうなるでしょうか? そうですね、聖主がそう望むなら──聖主はそれを強くお望みであり、強く望み続けられると思います──聖主がそれをお望みなら、彼は私たちを公式の教会へとふたたび投入なさるでしょう、このあるがままの私たちを。私たちがこのあるがままで、です。私たちにとって変更を加えたり、右や左に行ったりするなど問題外です。私たちは教会に留まりたいのです。そして兄弟会のまさに創立のときから、常にそうあり続けてきたことに留まりたいのです。私たちには教会を存続させるという目的以外、別の目的を持たないからです。」
「そういうわけで私たちは、いつの日か──聖主がそれをお望みの時、聖主がそれを決定なさる時──私たちはふたたび公式の教会へと迎え入れられるはずだ、といつも考えてきました。彼らは私たちを、本当の教会でない、近代主義がはびこってしまったこの公式の教会から投げ出したからです。ですから、すべての時代のカトリック教会に従うため、すべての歴代教皇たちに従うため、カトリック教会全体に従うために、私たちは、不従順──不従順ということになるのならばですが──不従順の義務を信じてきました。ですから、私たちは近代主義の誤りをある程度採択するよう私たちに要求してきたこの枢機卿たちに従わないことを義務と考えています。なぜなら私たちは、私たちの聖なる保護の聖人である聖ピオ十世が断罪した誤謬で、私たちの考えと心を毒したくなかったからです。私たちは反近代主義の宣誓、聖ピオ十世が私たちに公言するよう求める宣誓に忠実に留まります。この宣誓に忠実であり続けます。私たちは、将来、この宣誓を手に持ちつつ公式の教会に受け入れられるか、さもなければ、私たちは私たちがいまあるがままに留まります。」
ルフェーブル大司教様は後に、一九八七年十一月二十一日のガニョン枢機卿への手紙の中で、この考えを繰り返しました。
「従って、私たちは、このカトリック的雰囲気と環境の中で生活しつづける、ローマ・カトリック教会に帰属し、ペトロとその後継者たちに帰属しながらも、しかしながら、信教の自由、エキュメニズム、司教団体主義とアシジの精神などの第二バチカン公会議の精神──聖座が幾度となく断罪した近代主義とリベラリズムの落とし子──を、絶対的にそして徹底的に拒絶する、一つの偉大な生活共同体を形成しています。」
「この第二バチカン公会議の精神の結果は悲惨なものです。私たちは、あたかも私たちの考えと心に対する有害な疫病から逃れるかのように、その精神から逃れます。そのことから私たちを守るため、私たちのカトリック家族の若者たちをも守るため、できることをすべて実行しています。」
「邪悪な国々の真ん中にあったイスラエルの民やマカベオ兄弟たちに私たちを喩えて下さい。更に、聖カルロ・ボロメオ、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ、聖ヨハネ・ユード、オリエ師といった、聖なるすべての聖職者の改革者たちと私たちを比較してみて下さい。ここに現実があります。すなわち、私たちは、教会の外部と内部の両方に起きている非キリスト教化を目撃しているただ中で、いかなる犠牲を払っても、カトリックであり続けることに専心する一軍隊を形成しています。」
「私たちにひき起こった試練の数々にも関わらず、私たちは、私たちは、私たちがこのあるがままで教皇様によって承認されること、永遠の都ローマに席を置くこと、教会の刷新に私たちの協力を加えることに喜んで同意します。私たちはペトロの後継者との決裂を望んだことも、聖座は空位であるなどとみなしたこともありません。」
「私たちはあなた(ガニョン枢機卿)に、ローマと私たちとの関係を修復し、正常化する計画を提案します。私たちと私たちの事業について今現在あなたがご存知であることを考慮すれば、あなたは私たちの要求に驚いたりなさらないでしょう。私たちの要求は、教会の善と救霊、天主の栄光を求めての熱意の上に基礎をおいています。この精神においてのみ、そして、これらの考察を尊重してのみ、解決は有効で安定したものになり得ます。」
「もしも、この条件下での解決が不可能ならば、私たちは今現在にあるがままの私たちの道を歩み続けるつもりです。「祈りとみ言葉の宣教に励みながら」、もっと好機なる状況を待ちます。」
さらに最近、私たちの総長様が、八月七日にオーストラリアのアデレードでなさった霊的講話でこの表現を用いられました。
「始めから私はこう言っていました。私たちがそこへ行くなら、私たちは保証を必要とし、満たされるべき条件がそろわなければならない、と。もしも条件がそろわないなら、うまく行くはずがありません。簡単にはいかないでしょう。考えてみて下さい、突然、近代主義のど真ん中に存在させられる! その状況は……地獄に似ています。私たちに賛成の司教様たちもいますが、非常に大勢の司教様たちは私たちに反対しています。これらの保証がないなら不可能です。単純に不可能です。この保証とは、私たちがこのあるがままで受け入れられることです。『私たちがこのあるがままで』とは、私たちの生き方、私たちの説教が続けられることを意味します。単に積極的な側だけでなく、更に否定的な側面でも、公会議を攻撃し続けることが出来ることを意味します。私はそう書きました」
"As we are!" 「私たちがこのあるがままで!」
二十年前、二十五年前にそうであったように、今でも大きな重みを持つ言葉です。その理由は私たちの創立者のもう一つの説教でも見つかります。今度は一九八四年十二月八日のスイス、マルティニー(Martigny)で、シオン近郊の司教が地方紙で発表した新たな糾弾を受けてです。ルフェーブル大司教様は次のように言いました。
「私たちのしていることがカトリックでないなら、それならば、カトリック教会というものは存在したことがなかったことになります!」
これが、『私たちがこのあるがままで』ということの意味です。すなわち、歴史、神学、教導職は、聖ピオ十世会の創立当初からそうすることを目指している、聖伝の教えと事業が、唯一のまことの教会、カトリック教会の四つのしるしを帯びているということを証明している、ということです。
なぜ「私たちがこのあるがままで!」なのでしょうか? それはこういうわけだからです。
「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる。
私たちは、しかしながら、第2バチカン公会議とそれに由来して公会議後の全ての改革において明らかに現れた公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向を持つローマに従うのを拒否し、常に拒否した。…
それ故、いかなる反乱も、苦々しさも、憎悪もなく、私たちは常なる教導職の星の導きの元、司祭養成の事業を続ける。私たちは聖なるカトリック教会のために、教皇様のために、そして未来の世代のために、これよりも偉大な奉仕をすることが出来ないと確信している。
それ故、聖伝の真理の光が永遠のローマの空を暗くしている暗闇を追い払う日を待ちながら、私たちは、永遠の教会によって過去信じられていたこと、信仰と道徳と礼拝、公教要理の教え、司祭の養成、教会の諸施設において実践されていたこと、公会議の近代主義の影響を受ける前に出版された本の中に法定化されたことを全て固く保持する。」
「私たちがこのあるがままで!」とは具体的な実行において、何を指すのでしょうか? それは私たちが、このあるがままでということ、すなわち以下のことです。
* 一九七〇年十一月一日に教会によって承認され、教会の永久の教えによって司祭たちの養成と聖化を確保する、私たちの会憲とともに。
* 兄弟会の他のすべての公的な発言、一九八二年、一九九四年、二〇〇六年、そして二〇一二年の総会の宣言を含んで、全てとともに。
* 特に近代主義の誤りを断罪する教皇文書を含む、教導権(歴代教皇の教え)の授業など、私たちが神学校で教えている教えとともに。ルフェーブル大司教様は、一九二〇年の昔にル・フロック神父様のもとでご自分がフランス神学校で教えを受けたこの教導権の授業、大司教様の一生に、特に第二ヴァチカン公会議の最中と後に、決定的な影響を及ぼすことになるこの授業の大切さを主張していました。
* 近代主義に反対する宣誓、及びトリエント公会議と第一ヴァチカン公会議の信仰宣言とともに。
* ルフェーブル大司教様の全著作を含む、すべての事業(opera omnia)とともに。すなわち、『司牧書簡』『私は公会議を告発する』『一司教は語る』『教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者の皆様への手紙』『異端論駁』『彼らは主の王位を奪った』『信教の自由に関する疑義』とともに。
* キリストにおいてすべてのもの復興させるため、聖主イエズス・キリストの社会的王権のために、私たち自身が完全に献身しているそのままに。
"As we are!" 「私たちがこのあるがままで!」
パウロ六世の時代から現在に至るまで、公会議後の当局は、私たちを「彼らがそうあるように」させようと試み、第二ヴァチカン公会議の誤りと有害な新ミサ及びそれに続く典礼改革を私たちに受け入れさせようとすることを止めようとしませんでしたが、公会議後の当局にとって、この「私たちがあるがままで」という言葉が受け入れ難いものであることは驚きではありません。このような内容の文書こそが、ふたたび、今年六月十三日にフェレー司教様に与えられました。司教様はすぐにこれを拒絶しました。
「私たちは真理に反しては何の力ももっていないが、真理のためには力を持っている」(コリント前十三章八節)というみことばに対して、「私たちがこのあるがままで」であるか、さもなければ、いかなる同意も無いでしょう。
「私たちがこのあるがままで」という言葉には、より高い段階において、ルフェーブル大司教様のモットー「天主の愛を信じた Credidimus Caritati」も含まれることを忘れないようにしましょう。私たちは信じたから発言したのです。「私は信じたがゆえに話した!」(詩編一一五章一節) この信仰は、幸いな聖三位一体の天主の内なる生命そのものへ、天主の神秘的な、人類創造と贖罪の素晴らしいご計画へ、天主の無限のあわれみ深い愛へと私たちを導き入れることに他なりません。
もしも「私たちがこのあるがままで」を、その言葉が含むすべてのことを持ち合わせながら、「愛によって働く」(ガラツィア五章六節)強い信仰とともに、私たちが、単に忠実に保つだけでなく、これを実行するなら、そのとき私たちはいつの日か、「天主があるがまま」(ヨハネ第一 三章二節)、「顔と顔とをあわせて」(コリント前十三章十二節)、至福直観の永遠の輝きにおいて天主をまみえることでしょう。
これこそが、幸いなロザリオの聖母のおん取り次ぎによって、私が読者の皆さん全員に望む恩寵です。「天主なるおん子の恩恵の、その栄光の、天におけると同じく地上のおん子の王国の用心深い守り手」なる彼女は、ご自分の天主なるおん子を、天主のおん子をそのあるがままとして以外は見ることはできないからです。
祝福を受けて下さい。
管区長 ダニエル・クチュール神父
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"As we are!" 「私たちがこのあるがままで!」
過去の話ですが、一九八〇年、ルフェーブル大司教は、一九七五年五月六日の不正な「修道会廃止」と一九七六年七月十七日の「聖職停止」ののち、聖ピオ十世会が再度承認さることを俯瞰して眺め、六月二十九日の説教でこのように述べられました。
「では将来はどうなるでしょうか? そうですね、聖主がそう望むなら──聖主はそれを強くお望みであり、強く望み続けられると思います──聖主がそれをお望みなら、彼は私たちを公式の教会へとふたたび投入なさるでしょう、このあるがままの私たちを。私たちがこのあるがままで、です。私たちにとって変更を加えたり、右や左に行ったりするなど問題外です。私たちは教会に留まりたいのです。そして兄弟会のまさに創立のときから、常にそうあり続けてきたことに留まりたいのです。私たちには教会を存続させるという目的以外、別の目的を持たないからです。」
「そういうわけで私たちは、いつの日か──聖主がそれをお望みの時、聖主がそれを決定なさる時──私たちはふたたび公式の教会へと迎え入れられるはずだ、といつも考えてきました。彼らは私たちを、本当の教会でない、近代主義がはびこってしまったこの公式の教会から投げ出したからです。ですから、すべての時代のカトリック教会に従うため、すべての歴代教皇たちに従うため、カトリック教会全体に従うために、私たちは、不従順──不従順ということになるのならばですが──不従順の義務を信じてきました。ですから、私たちは近代主義の誤りをある程度採択するよう私たちに要求してきたこの枢機卿たちに従わないことを義務と考えています。なぜなら私たちは、私たちの聖なる保護の聖人である聖ピオ十世が断罪した誤謬で、私たちの考えと心を毒したくなかったからです。私たちは反近代主義の宣誓、聖ピオ十世が私たちに公言するよう求める宣誓に忠実に留まります。この宣誓に忠実であり続けます。私たちは、将来、この宣誓を手に持ちつつ公式の教会に受け入れられるか、さもなければ、私たちは私たちがいまあるがままに留まります。」
ルフェーブル大司教様は後に、一九八七年十一月二十一日のガニョン枢機卿への手紙の中で、この考えを繰り返しました。
「従って、私たちは、このカトリック的雰囲気と環境の中で生活しつづける、ローマ・カトリック教会に帰属し、ペトロとその後継者たちに帰属しながらも、しかしながら、信教の自由、エキュメニズム、司教団体主義とアシジの精神などの第二バチカン公会議の精神──聖座が幾度となく断罪した近代主義とリベラリズムの落とし子──を、絶対的にそして徹底的に拒絶する、一つの偉大な生活共同体を形成しています。」
「この第二バチカン公会議の精神の結果は悲惨なものです。私たちは、あたかも私たちの考えと心に対する有害な疫病から逃れるかのように、その精神から逃れます。そのことから私たちを守るため、私たちのカトリック家族の若者たちをも守るため、できることをすべて実行しています。」
「邪悪な国々の真ん中にあったイスラエルの民やマカベオ兄弟たちに私たちを喩えて下さい。更に、聖カルロ・ボロメオ、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ、聖ヨハネ・ユード、オリエ師といった、聖なるすべての聖職者の改革者たちと私たちを比較してみて下さい。ここに現実があります。すなわち、私たちは、教会の外部と内部の両方に起きている非キリスト教化を目撃しているただ中で、いかなる犠牲を払っても、カトリックであり続けることに専心する一軍隊を形成しています。」
「私たちにひき起こった試練の数々にも関わらず、私たちは、私たちは、私たちがこのあるがままで教皇様によって承認されること、永遠の都ローマに席を置くこと、教会の刷新に私たちの協力を加えることに喜んで同意します。私たちはペトロの後継者との決裂を望んだことも、聖座は空位であるなどとみなしたこともありません。」
「私たちはあなた(ガニョン枢機卿)に、ローマと私たちとの関係を修復し、正常化する計画を提案します。私たちと私たちの事業について今現在あなたがご存知であることを考慮すれば、あなたは私たちの要求に驚いたりなさらないでしょう。私たちの要求は、教会の善と救霊、天主の栄光を求めての熱意の上に基礎をおいています。この精神においてのみ、そして、これらの考察を尊重してのみ、解決は有効で安定したものになり得ます。」
「もしも、この条件下での解決が不可能ならば、私たちは今現在にあるがままの私たちの道を歩み続けるつもりです。「祈りとみ言葉の宣教に励みながら」、もっと好機なる状況を待ちます。」
さらに最近、私たちの総長様が、八月七日にオーストラリアのアデレードでなさった霊的講話でこの表現を用いられました。
「始めから私はこう言っていました。私たちがそこへ行くなら、私たちは保証を必要とし、満たされるべき条件がそろわなければならない、と。もしも条件がそろわないなら、うまく行くはずがありません。簡単にはいかないでしょう。考えてみて下さい、突然、近代主義のど真ん中に存在させられる! その状況は……地獄に似ています。私たちに賛成の司教様たちもいますが、非常に大勢の司教様たちは私たちに反対しています。これらの保証がないなら不可能です。単純に不可能です。この保証とは、私たちがこのあるがままで受け入れられることです。『私たちがこのあるがままで』とは、私たちの生き方、私たちの説教が続けられることを意味します。単に積極的な側だけでなく、更に否定的な側面でも、公会議を攻撃し続けることが出来ることを意味します。私はそう書きました」
"As we are!" 「私たちがこのあるがままで!」
二十年前、二十五年前にそうであったように、今でも大きな重みを持つ言葉です。その理由は私たちの創立者のもう一つの説教でも見つかります。今度は一九八四年十二月八日のスイス、マルティニー(Martigny)で、シオン近郊の司教が地方紙で発表した新たな糾弾を受けてです。ルフェーブル大司教様は次のように言いました。
「私たちのしていることがカトリックでないなら、それならば、カトリック教会というものは存在したことがなかったことになります!」
これが、『私たちがこのあるがままで』ということの意味です。すなわち、歴史、神学、教導職は、聖ピオ十世会の創立当初からそうすることを目指している、聖伝の教えと事業が、唯一のまことの教会、カトリック教会の四つのしるしを帯びているということを証明している、ということです。
なぜ「私たちがこのあるがままで!」なのでしょうか? それはこういうわけだからです。
「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる。
私たちは、しかしながら、第2バチカン公会議とそれに由来して公会議後の全ての改革において明らかに現れた公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向を持つローマに従うのを拒否し、常に拒否した。…
それ故、いかなる反乱も、苦々しさも、憎悪もなく、私たちは常なる教導職の星の導きの元、司祭養成の事業を続ける。私たちは聖なるカトリック教会のために、教皇様のために、そして未来の世代のために、これよりも偉大な奉仕をすることが出来ないと確信している。
それ故、聖伝の真理の光が永遠のローマの空を暗くしている暗闇を追い払う日を待ちながら、私たちは、永遠の教会によって過去信じられていたこと、信仰と道徳と礼拝、公教要理の教え、司祭の養成、教会の諸施設において実践されていたこと、公会議の近代主義の影響を受ける前に出版された本の中に法定化されたことを全て固く保持する。」
「私たちがこのあるがままで!」とは具体的な実行において、何を指すのでしょうか? それは私たちが、このあるがままでということ、すなわち以下のことです。
* 一九七〇年十一月一日に教会によって承認され、教会の永久の教えによって司祭たちの養成と聖化を確保する、私たちの会憲とともに。
* 兄弟会の他のすべての公的な発言、一九八二年、一九九四年、二〇〇六年、そして二〇一二年の総会の宣言を含んで、全てとともに。
* 特に近代主義の誤りを断罪する教皇文書を含む、教導権(歴代教皇の教え)の授業など、私たちが神学校で教えている教えとともに。ルフェーブル大司教様は、一九二〇年の昔にル・フロック神父様のもとでご自分がフランス神学校で教えを受けたこの教導権の授業、大司教様の一生に、特に第二ヴァチカン公会議の最中と後に、決定的な影響を及ぼすことになるこの授業の大切さを主張していました。
* 近代主義に反対する宣誓、及びトリエント公会議と第一ヴァチカン公会議の信仰宣言とともに。
* ルフェーブル大司教様の全著作を含む、すべての事業(opera omnia)とともに。すなわち、『司牧書簡』『私は公会議を告発する』『一司教は語る』『教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者の皆様への手紙』『異端論駁』『彼らは主の王位を奪った』『信教の自由に関する疑義』とともに。
* キリストにおいてすべてのもの復興させるため、聖主イエズス・キリストの社会的王権のために、私たち自身が完全に献身しているそのままに。
"As we are!" 「私たちがこのあるがままで!」
パウロ六世の時代から現在に至るまで、公会議後の当局は、私たちを「彼らがそうあるように」させようと試み、第二ヴァチカン公会議の誤りと有害な新ミサ及びそれに続く典礼改革を私たちに受け入れさせようとすることを止めようとしませんでしたが、公会議後の当局にとって、この「私たちがあるがままで」という言葉が受け入れ難いものであることは驚きではありません。このような内容の文書こそが、ふたたび、今年六月十三日にフェレー司教様に与えられました。司教様はすぐにこれを拒絶しました。
「私たちは真理に反しては何の力ももっていないが、真理のためには力を持っている」(コリント前十三章八節)というみことばに対して、「私たちがこのあるがままで」であるか、さもなければ、いかなる同意も無いでしょう。
「私たちがこのあるがままで」という言葉には、より高い段階において、ルフェーブル大司教様のモットー「天主の愛を信じた Credidimus Caritati」も含まれることを忘れないようにしましょう。私たちは信じたから発言したのです。「私は信じたがゆえに話した!」(詩編一一五章一節) この信仰は、幸いな聖三位一体の天主の内なる生命そのものへ、天主の神秘的な、人類創造と贖罪の素晴らしいご計画へ、天主の無限のあわれみ深い愛へと私たちを導き入れることに他なりません。
もしも「私たちがこのあるがままで」を、その言葉が含むすべてのことを持ち合わせながら、「愛によって働く」(ガラツィア五章六節)強い信仰とともに、私たちが、単に忠実に保つだけでなく、これを実行するなら、そのとき私たちはいつの日か、「天主があるがまま」(ヨハネ第一 三章二節)、「顔と顔とをあわせて」(コリント前十三章十二節)、至福直観の永遠の輝きにおいて天主をまみえることでしょう。
これこそが、幸いなロザリオの聖母のおん取り次ぎによって、私が読者の皆さん全員に望む恩寵です。「天主なるおん子の恩恵の、その栄光の、天におけると同じく地上のおん子の王国の用心深い守り手」なる彼女は、ご自分の天主なるおん子を、天主のおん子をそのあるがままとして以外は見ることはできないからです。
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