Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

クチュール神父 アポストル誌第33号 「私たちがこのあるがままで!」

2012年10月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会のアジア管区長であるクチュール神父の「アポストル」誌の編集者の言葉を日本語に訳して下さった方がおられますので、感謝しつつ愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

*****


原文はこちら
http://www.sspxasia.com/Newsletters/2012/apostle33-editorial.pdf

編集者の言葉「私たちがこのあるがままで!」

親愛なる友人と恩人の皆さん

"As we are!" 「私たちがこのあるがままで!」
 過去の話ですが、一九八〇年、ルフェーブル大司教は、一九七五年五月六日の不正な「修道会廃止」と一九七六年七月十七日の「聖職停止」ののち、聖ピオ十世会が再度承認さることを俯瞰して眺め、六月二十九日の説教でこのように述べられました。

「では将来はどうなるでしょうか? そうですね、聖主がそう望むなら──聖主はそれを強くお望みであり、強く望み続けられると思います──聖主がそれをお望みなら、彼は私たちを公式の教会へとふたたび投入なさるでしょう、このあるがままの私たちを。私たちがこのあるがままで、です。私たちにとって変更を加えたり、右や左に行ったりするなど問題外です。私たちは教会に留まりたいのです。そして兄弟会のまさに創立のときから、常にそうあり続けてきたことに留まりたいのです。私たちには教会を存続させるという目的以外、別の目的を持たないからです。」

「そういうわけで私たちは、いつの日か──聖主がそれをお望みの時、聖主がそれを決定なさる時──私たちはふたたび公式の教会へと迎え入れられるはずだ、といつも考えてきました。彼らは私たちを、本当の教会でない、近代主義がはびこってしまったこの公式の教会から投げ出したからです。ですから、すべての時代のカトリック教会に従うため、すべての歴代教皇たちに従うため、カトリック教会全体に従うために、私たちは、不従順──不従順ということになるのならばですが──不従順の義務を信じてきました。ですから、私たちは近代主義の誤りをある程度採択するよう私たちに要求してきたこの枢機卿たちに従わないことを義務と考えています。なぜなら私たちは、私たちの聖なる保護の聖人である聖ピオ十世が断罪した誤謬で、私たちの考えと心を毒したくなかったからです。私たちは反近代主義の宣誓、聖ピオ十世が私たちに公言するよう求める宣誓に忠実に留まります。この宣誓に忠実であり続けます。私たちは、将来、この宣誓を手に持ちつつ公式の教会に受け入れられるか、さもなければ、私たちは私たちがいまあるがままに留まります。」


 ルフェーブル大司教様は後に、一九八七年十一月二十一日のガニョン枢機卿への手紙の中で、この考えを繰り返しました。

「従って、私たちは、このカトリック的雰囲気と環境の中で生活しつづける、ローマ・カトリック教会に帰属し、ペトロとその後継者たちに帰属しながらも、しかしながら、信教の自由、エキュメニズム、司教団体主義とアシジの精神などの第二バチカン公会議の精神──聖座が幾度となく断罪した近代主義とリベラリズムの落とし子──を、絶対的にそして徹底的に拒絶する、一つの偉大な生活共同体を形成しています。」
「この第二バチカン公会議の精神の結果は悲惨なものです。私たちは、あたかも私たちの考えと心に対する有害な疫病から逃れるかのように、その精神から逃れます。そのことから私たちを守るため、私たちのカトリック家族の若者たちをも守るため、できることをすべて実行しています。」

「邪悪な国々の真ん中にあったイスラエルの民やマカベオ兄弟たちに私たちを喩えて下さい。更に、聖カルロ・ボロメオ、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ、聖ヨハネ・ユード、オリエ師といった、聖なるすべての聖職者の改革者たちと私たちを比較してみて下さい。ここに現実があります。すなわち、私たちは、教会の外部と内部の両方に起きている非キリスト教化を目撃しているただ中で、いかなる犠牲を払っても、カトリックであり続けることに専心する一軍隊を形成しています。」
「私たちにひき起こった試練の数々にも関わらず、私たちは、私たちは、私たちがこのあるがままで教皇様によって承認されること、永遠の都ローマに席を置くこと、教会の刷新に私たちの協力を加えることに喜んで同意します。私たちはペトロの後継者との決裂を望んだことも、聖座は空位であるなどとみなしたこともありません。」
「私たちはあなた(ガニョン枢機卿)に、ローマと私たちとの関係を修復し、正常化する計画を提案します。私たちと私たちの事業について今現在あなたがご存知であることを考慮すれば、あなたは私たちの要求に驚いたりなさらないでしょう。私たちの要求は、教会の善と救霊、天主の栄光を求めての熱意の上に基礎をおいています。この精神においてのみ、そして、これらの考察を尊重してのみ、解決は有効で安定したものになり得ます。」
「もしも、この条件下での解決が不可能ならば、私たちは今現在にあるがままの私たちの道を歩み続けるつもりです。「祈りとみ言葉の宣教に励みながら」、もっと好機なる状況を待ちます。」


さらに最近、私たちの総長様が、八月七日にオーストラリアのアデレードでなさった霊的講話でこの表現を用いられました。

「始めから私はこう言っていました。私たちがそこへ行くなら、私たちは保証を必要とし、満たされるべき条件がそろわなければならない、と。もしも条件がそろわないなら、うまく行くはずがありません。簡単にはいかないでしょう。考えてみて下さい、突然、近代主義のど真ん中に存在させられる! その状況は……地獄に似ています。私たちに賛成の司教様たちもいますが、非常に大勢の司教様たちは私たちに反対しています。これらの保証がないなら不可能です。単純に不可能です。この保証とは、私たちがこのあるがままで受け入れられることです。『私たちがこのあるがままで』とは、私たちの生き方、私たちの説教が続けられることを意味します。単に積極的な側だけでなく、更に否定的な側面でも、公会議を攻撃し続けることが出来ることを意味します。私はそう書きました」


"As we are!" 「私たちがこのあるがままで!」
二十年前、二十五年前にそうであったように、今でも大きな重みを持つ言葉です。その理由は私たちの創立者のもう一つの説教でも見つかります。今度は一九八四年十二月八日のスイス、マルティニー(Martigny)で、シオン近郊の司教が地方紙で発表した新たな糾弾を受けてです。ルフェーブル大司教様は次のように言いました。
「私たちのしていることがカトリックでないなら、それならば、カトリック教会というものは存在したことがなかったことになります!」

 これが、『私たちがこのあるがままで』ということの意味です。すなわち、歴史、神学、教導職は、聖ピオ十世会の創立当初からそうすることを目指している、聖伝の教えと事業が、唯一のまことの教会、カトリック教会の四つのしるしを帯びているということを証明している、ということです。


なぜ「私たちがこのあるがままで!」なのでしょうか? それはこういうわけだからです。
「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる。
私たちは、しかしながら、第2バチカン公会議とそれに由来して公会議後の全ての改革において明らかに現れた公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向を持つローマに従うのを拒否し、常に拒否した。…
 それ故、いかなる反乱も、苦々しさも、憎悪もなく、私たちは常なる教導職の星の導きの元、司祭養成の事業を続ける。私たちは聖なるカトリック教会のために、教皇様のために、そして未来の世代のために、これよりも偉大な奉仕をすることが出来ないと確信している。
 それ故、聖伝の真理の光が永遠のローマの空を暗くしている暗闇を追い払う日を待ちながら、私たちは、永遠の教会によって過去信じられていたこと、信仰と道徳と礼拝、公教要理の教え、司祭の養成、教会の諸施設において実践されていたこと、公会議の近代主義の影響を受ける前に出版された本の中に法定化されたことを全て固く保持する。」

「私たちがこのあるがままで!」とは具体的な実行において、何を指すのでしょうか? それは私たちが、このあるがままでということ、すなわち以下のことです。

* 一九七〇年十一月一日に教会によって承認され、教会の永久の教えによって司祭たちの養成と聖化を確保する、私たちの会憲とともに。

* 兄弟会の他のすべての公的な発言、一九八二年、一九九四年、二〇〇六年、そして二〇一二年の総会の宣言を含んで、全てとともに。

* 特に近代主義の誤りを断罪する教皇文書を含む、教導権(歴代教皇の教え)の授業など、私たちが神学校で教えている教えとともに。ルフェーブル大司教様は、一九二〇年の昔にル・フロック神父様のもとでご自分がフランス神学校で教えを受けたこの教導権の授業、大司教様の一生に、特に第二ヴァチカン公会議の最中と後に、決定的な影響を及ぼすことになるこの授業の大切さを主張していました。

* 近代主義に反対する宣誓、及びトリエント公会議と第一ヴァチカン公会議の信仰宣言とともに。

* ルフェーブル大司教様の全著作を含む、すべての事業(opera omnia)とともに。すなわち、『司牧書簡』『私は公会議を告発する』『一司教は語る』『教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者の皆様への手紙』『異端論駁』『彼らは主の王位を奪った』『信教の自由に関する疑義』とともに。

* キリストにおいてすべてのもの復興させるため、聖主イエズス・キリストの社会的王権のために、私たち自身が完全に献身しているそのままに。 

"As we are!" 「私たちがこのあるがままで!」
パウロ六世の時代から現在に至るまで、公会議後の当局は、私たちを「彼らがそうあるように」させようと試み、第二ヴァチカン公会議の誤りと有害な新ミサ及びそれに続く典礼改革を私たちに受け入れさせようとすることを止めようとしませんでしたが、公会議後の当局にとって、この「私たちがあるがままで」という言葉が受け入れ難いものであることは驚きではありません。このような内容の文書こそが、ふたたび、今年六月十三日にフェレー司教様に与えられました。司教様はすぐにこれを拒絶しました。

「私たちは真理に反しては何の力ももっていないが、真理のためには力を持っている」(コリント前十三章八節)というみことばに対して、「私たちがこのあるがままで」であるか、さもなければ、いかなる同意も無いでしょう。

「私たちがこのあるがままで」という言葉には、より高い段階において、ルフェーブル大司教様のモットー「天主の愛を信じた Credidimus Caritati」も含まれることを忘れないようにしましょう。私たちは信じたから発言したのです。「私は信じたがゆえに話した!」(詩編一一五章一節) この信仰は、幸いな聖三位一体の天主の内なる生命そのものへ、天主の神秘的な、人類創造と贖罪の素晴らしいご計画へ、天主の無限のあわれみ深い愛へと私たちを導き入れることに他なりません。

 もしも「私たちがこのあるがままで」を、その言葉が含むすべてのことを持ち合わせながら、「愛によって働く」(ガラツィア五章六節)強い信仰とともに、私たちが、単に忠実に保つだけでなく、これを実行するなら、そのとき私たちはいつの日か、「天主があるがまま」(ヨハネ第一 三章二節)、「顔と顔とをあわせて」(コリント前十三章十二節)、至福直観の永遠の輝きにおいて天主をまみえることでしょう。

これこそが、幸いなロザリオの聖母のおん取り次ぎによって、私が読者の皆さん全員に望む恩寵です。「天主なるおん子の恩恵の、その栄光の、天におけると同じく地上のおん子の王国の用心深い守り手」なる彼女は、ご自分の天主なるおん子を、天主のおん子をそのあるがままとして以外は見ることはできないからです。

祝福を受けて下さい。

管区長 ダニエル・クチュール神父


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【質問】公会議とルフェーブル大司教の態度について

2012年10月20日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 御質問を頂きましたので、お答えしたいと思います。

【質問】
 公会議の決定事項が一応有効なら、新しいミサが一応有効なら、ルフェーブル師の行動は過剰防衛で、やはり違法になり、教会法に定められた制裁措置は適法となります。

 ピオ十世会側は悪意の有無や、緊急事態と反論していますが、それらはもっと基準というか定義が違うと思うのです。

 また仮に公会議に問題があったとして、するとピオ十世会は正しくなるのでしょうか。例えば、非常に真面目で、公会議を全否定し、聖伝を重視する人達は他にも沢山います。教皇空位派、ピオ5世会、でも彼らは正しくはないわけでしょう?

 公会議に深刻な問題があったとしても、だからピオ十世会が正しいことと同義ではないと思うんです。

 ルフェーブル大司教がなぜ一度目は違法に叙階し聖務停止になり、二度目は違法に聖別して破門されたのかが、私にはどうしても理解ができません。これらは、カトリック的な行動に、キリスト者的な行動にはとても見えません。

 クリスチャンは努力は可能な限りしないといけませんが、非常事態においても法を逸脱してはいけないのではないでしょうか。アブラハムは嫌でありながら自分の息子イサクを薪にくべ、イエズス様も嫌ではありながら御父を信じて、十字架にかかる選択を採りました。ルフェーブル大司教とちょうどま逆です。ピオ神父様もデルコル神父様も、皆同じようになさっています。

 どうしても・・・ルフェーブル大司教の行動は聖伝に反します。イエズス様は仰いました。自分は石ころからでも、選ばれた民を作れるのだ、と。自分の死後は聖伝が・・・それは人間的過ぎる、信仰を逸脱した心配ではないでしょうか。

 これは、部分的であれ教皇様の教導権を受け入れていない、ということであり、離教の構成要件になっている可能性があります。一部の枢機卿が、離教徒ではない、とインタビューの中でコメントしたとかの話も聞きましたが、枢機卿の意見は枢機卿の意見、それは教会法でも教皇様の教令でもありません。違った意見の聖職者もいますし、結局どちらが正しいか分けるのは神様の目であり、その下にある聖伝や教会法でしょう。

 例えば、堕胎の罪を犯した女性がいたとします。でもそれを知った指導司祭が仮にリベラルで破門を宣言しなかったとします。その女性は破門は教会から宣言されてはいませんが、でも神の目から見て自動破門状態にはあるわけです。とすれば、ピオ十世会は、そして私は・・・とするとわからないわけです。


【回答】
 ご質問をありがとうございます。

 ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会と私たちとが苦しんでいるのは、現在のカトリック教会の危機の結果です。私たちは、この危機の影響のゆえに苦しみの中にもまれているだけなのです。

 ルフェーブル大司教様の行動は、過剰防衛ではありませんでした。非常に現実的で、カトリック的でした。

 何故なら、ルフェーブル大司教の最も基本的な態度(そしてそれを受け継いだ聖ピオ十世会の態度)は、「天主のお恵みにより、私たちはカトリックとして留まりたい、カトリック信仰を保ち続けたい」だったからです。

 現代のつらい教会の危機における、ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会の基本的な行動・思想原理は、聖トマス・アクイナスの教えた原理であり、それをルフェーブル大司教が取りつづけました。

 すなわち、信仰を間近に危機にする場合を除き、教会の権威に逆らうことは許されない(One may not oppose the authority of the Church except in the case of imminent danger to the Faith) ということです。

 信仰を危険に陥れるような間近に迫る場合とは、もしかしたら将来このような危険があるだろうなどという仮定のことではなく、目の前にカトリック信仰を否定するようなことを突きつけられるという場合のことです。

 ルフェーブル大司教が反論したのは、ジャーナリストがおかしく編集した教皇の発言の一部や公会議の一部の引用ではなく、第二バチカン公会議に参加しつつ、その全てを読んで研究したうえでの、正統な手段での反論と論駁でした。

 その時、いつもカトリック信仰とカトリックの権威とに対する敬愛がありました。何故なら、

(1)第二バチカン公会議の中央準備委員として数年に亘り公会議を準備し、第二バチカン公会議の教父として参加し、リベラル派による公会議の乗っ取り(ハイジャック)をその目で見て、これらに対し、合法的な全ての手段を使ってその訂正を試みたから。

(2)新しいミサがの先駆けである「規範ミサ」を評価する会議において、合法的な全ての手段を使って新しいミサが押し付けられるのを阻止したから。

(3)聖伝のミサが、聖ピオ五世の大勅令によってカトリック司祭の義務であり、永久の有効特権をもっていること、そして、新しいミサの発布はパウロ六世の使徒憲章によってたんなる「許可」でしかないことをよく知りつつ、聖伝のミサを捧げ続けただけだから。

(4)単なる想像ではなく、オッタヴィアーニ枢機卿など倹邪聖省の長官が新しいミサのことをカトリックの信仰から遙かに離れているとパウロ六世に指摘していた事実からも分かるように、新しいミサを作ったブニーニが断言しているように、カトリック性を取り払ったエキュメニカルな儀式がゆえに、それを拒否しただけだから。

(5)ローマからの使者やパウロ六世が、新しいミサを捧げれば、ローマとエコンとの関係は全て問題なくなる、新しいミサをさえ捧げれば、司祭の叙階もしても良いし、何をしても良い、としてきたとき、「新しいミサ」を捧げるのを拒否しただけだから。

(6)第1回のアシジの集会(1986年)が現実に開かれた(その種の集会は過去の教皇たちによって排斥されてきました)のを見て、カトリックの司教を聖別する印を、ようやく認めたからです。


 確かに、一時、特にパウロ六世の時代、何故教皇様がカトリック教会をこのように危機に陥れることが出来るのか?とルフェーブル大司教は悩んだ時があります。しかし「おまえは教皇ではない」とも「私たちこそがカトリック教会だ」とも「私が言うとおりに教会を運営せよ」とも、言いませんでした。

 何故なら、ルフェーブル大司教も聖ピオ十世会もカトリック教会の一部であって、教皇でもなければ、教会当局でもないことを認めていたからです。

 何故なら「おまえは教皇ではない」と判断したり発言したりすることは、私たちカトリック信徒・司祭・司教の義務でもなければ、そのような判断する権威も持たないからです。

 「ただ単なる一カトリック司教」(1988年6月30日のルフェーブル大司教の発言)として、カトリック教会の中に聖伝が戻ってくるように働きかけていたのです。ですから、第二バチカン公会議後のいろいろな革新的な「実験」や「試み」が自由に行われているのを見て、私たちに「聖伝の実験」をするのを許してほしい、とか、ローマからの要請に従って、第二バチカン公会議の幾つかの点についての「疑問点」を文書の形(『ドゥビア』)で提出したりしました。

 ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会とは、カトリック教会が、教会当局が、教会の真理を認めるように働きかけ続けてきましたし、働きかけ続けています。例えば、聖伝のミサが決して廃止されたことがなかったことは、私たちはよく知っていました。しかし、以前はそれに反対のことが信じられていました。教皇様が、聖伝のミサが決して廃止されたことがなかったという事実を確認したことは、聖伝にとっては前進です。

 ルフェーブル大司教様は、教皇聖座空位主義は拒絶しました。御自分の判断で、全く自由に、強制されずに、この考えを拒絶しました。しかも、教皇聖座空位主義を信じているような司祭や神学生たちを聖ピオ十世会から退会・退学させました。何故なら、そのような態度の原理にあるものは、カトリック的ではないからです。

 まさに現在のカトリック教会の危機の結果、ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会は苦しんでいるのです。

 ルフェーブル大司教は、努力は可能な限りしました。1988年にカトリックの司教を聖別したのも、その可能な限りの努力の表れです。しかも、アシジの集会をしたローマと、一人の司教を聖別して良いという同意を得ることもしました。

 以上、お答えになっていることを祈ります。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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ルフェーブル大司教様のドキュメンタリー映画 『ルフェーブル大司教、嵐の中の司教』

2012年10月18日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ルフェーブル大司教様のドキュメンタリー映画か最近出来ましたのでご紹介します。『ルフェーブル大司教、嵐の中の司教』(« Mgr Lefebvre, un évêque dans la tempête »)というタイトルです。

フランス語の記事
MONSEIGNEUR LEFEBVRE UN ÉVÊQUE DANS LA TEMPÊTE par Gérard Leclerc

Monseigneur Lefebvre, un évêque dans la tempête
http://www.monseigneurlefebvre.org


予告編です。


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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イタリアの教区司祭は教区シンポジウムの基調講演者として聖ピオ十世会のイタリア管区長に依頼

2012年10月18日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 イタリアのノバラ司教区の教区司祭であるアルベルト・セッチ神父は、第3回「聖伝の日」というシンポジウムをヴェルバニアで開催し、イベントの基調講演者として、聖ピオ十世会のイタリア管区長のペトルチ神父に依頼しました。

アルベルト・セッチ神父曰く
「我々は聖ピオ十世会に招きました。何故なら、研究と犠牲を40年以上続け、この恐ろしい教会の危機の理由や意味を調べることができた人々は、聖ピオ十世会以外にいないからです。ローマ当局自身も、聖ピオ十世会で正式に議論することに同意し、彼らは暗黙のうちに聖ピオ十世会の立場が重要であり、注目に値すると認めています。」

 イタリア語原文はここCronaca della III Giornata della Tradizione a Verbania di domenica 14 ottobre, l'intervento di don Paolo Petrucci Superiore Italiano della FSSPX

 英語の訳はここDiocesan Conference Hosts SSPX Italian Superior to Talk on Vatican II をご覧下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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2012年10月19日から21日まで、聖ピオ十世会主催のコンフェランス「第二バチカン公会議は聖伝か革命か」

2012年10月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

 

2012年10月19日から21日まで、聖ピオ十世会のイタリア管区では、リミニにて、第20回カトリック研究会が次のテーマで開かれます。

第二バチカン公会議:
聖伝なのか それとも革命なのか?
教会の危機の根本を見る

onvegno FSSPX - Rimini 19-20-21 ottobre 2012

Ricordiamo che la Fraternità Sacerdotale San Pio X, in collaborazione con la Rivista "La Tradizione Cattolica", invita al 20° Convegno di Studi Cattolici sul tema:
 
詳しくは次をクリックしてください。
 

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シュミットバーガー神父との別のインタビュー「教皇からこれ以上多くを期待することはない」

2012年10月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会のドイツ管区長であるシュミットバーガー神父様との別のインタビュー「教皇からこれ以上多くを期待することはない」についての英語訳をご紹介します。

 ドイツ語の原文は、Pater Franz Schmidberger
Vom Papst ist nicht mehr viel zu erwarten こちら
です。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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Father Schmidberger: There Isn't Much More to be Expected From the Pope
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"What use is the Motu Proprio to the Old Liturgy if a year thereafter, one of the worst opponents of this Liturgy is given a key position?"

(kreuz.net) There are rumors that in the case of the regulation of the Society of St. Pius X that a certain western European country will have its ambassador to the Holy See threatened with resignation.

This was explained by Father Franz Schmidberger, Mathematician and German District Superior of the Society in an interview with the Catholic monthly 'Kirchliche Umschau'.

The Vatican Appeared Satisfied with the Answer

The clergyman recapitulated the most recent history of the negotiations of the Society with the Vatican.

On the 16th of March the CDF attempted to give an ultimatum to Society General Superior, Bishop Bernard Fellay, to accept the Dogmatic Preamble of September 14th.

Thereupon Bishop Fellay published a dogmatic text, which stressed the persistence of the Society in the Catholic position:

"The proposal of Msgr. Fellay went as far as we could, to satisfy the side of the CDF's position, and on the other side not to give up any of our positions."

The text found, according to Schidberger, "clearly the approval of the Holy Father and also the agreement of the Congregation for Doctrine and the Faith".

Pressure Was Put on the Pope

Then there came an unexpected change of position: Bishop Fellay received a new text on June 13th frot he CDF.

The new demands contained within were described by Father Schmidberger as "very surprising".

The Pope was not made happy happy, according to the CDF, with a subsequently specified interview, which Msgr Fellay gave on the recognition of the the Society.

At the same time, there was probably pressure put on the Pope.

Not Acceptable

The new demands bound the recognition of the legitimacy of the New Liturgy.

That was not acceptable according to Father Schmidberger: "How can one recognize a Liturgy as legitimate, which flees from the Catholic Faith and not to it?"

The second demand touched upon the Pastoral Council: The Society many only still discuss particularities of the Council.

They must then -- against their convictions -- attempt to reconcile it with the continuity of the earlier Magisterium.

Bishop Fellay had answered this text according to the statements of Father.

The Pope Speaks and Negotiates With a Forked Tongue

Father Schmidberger believes that the appointment of the heterodox Archbishop Gerhard Luwig Mueller as guardian of the Catholic Faith was responsible for a change of course toward the Society in the Vatican.

He also criticized the appointment of Archbishop Arthur Roch as Secretary of The Congregation of Divine Worship and the Discipline of the Sacraments:

"What is the point of a Motu Prorprio about the Old Liturgy, if you appoint one of its worst opponents to a key position, which will counteract the Traditional Mass?"

Catholic, Roman Catholic

However, Father Schmidberger decisively rejects any separation with Rome.

He cited the founder of the Society, Archbishop Marcel Lefebvre: "Neither Liberal nor Modernist, nor schismatic, rather Catholic, Roman Catholic!"

This devise of the Archbishop called for almost a daily tightrope walk for the society in view of the Church crisis.

A Pilgrimage for Lefebvrists?

The future of the negotiations with the Vatican would be dependent upon Archbishop Augustine Di Noia and his scope of negotiations.

Father Schmidberger discerns then that the Society still has to remain in its current position of misunderstanding.

He appealed to the faithful, not to be bitter toward the Holy See, rather to preserve love.

Some prelates in and out of the Curia have pleaded for the Society: "They have recognized how important the effect of the Society in the official area would be."

Father Schmidberger thinks: "Would the consideration not have value, if it meant the pastoral care of a pilgrimage or another seminary?"

The Errors Are Finally Discussed Openly

Father Schmidberger can't imagine a renewal of the Excommunication of the Society.

At the same time he insists that Msgr Muller is "really not our friend".

He demands the acceptance of the the errors, which have led to the Conciliar and post-Conciliar decline.

The recognition of the Society would mean for the ecclesiastical confession, that certain expressions are to be corrected and requires the Traditional Mass for the healing of its members.

Father Schmidberger expects little of the Pontificate of Benedict XVI.: "Humanly, since his last personal decisions in Rome, there is not overly much to be expected."

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2012年9月18日、聖ピオ十世会フランツ・シュミットバーガー神父がしたインタビュー

2012年10月17日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! 今年の9月18日に、聖ピオ十世会ドイツ管区長のフランツ・シュミットバーガー神父がしたインタビューを日本語に訳して下さった方がいらっしゃいます。心から感謝しつつ、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。



聖ピオ十世会とローマとの話し合いに関する
シュミットバーガー神父様へのインタビュー




二〇一二年九月十八日、聖ピオ十世会ドイツ管区長であり前総長のフランツ・シュミットバーガー神父は、ウェブサイトpius.infoへのインタビューに回答した。その内容はこちらのページでも英語字幕付きで見られる。


Pius.info : 聖ピオ十世会とローマをめぐる話し合いについては騒がれなくなりました。最後の重要な出来事はエコンでの総会でした。あなたは管区長として参加されました。今回の総会が聖ピオ十世会の内部や外部に及ぼす影響をどのように判断されますか?

シュミットバーガー神父:なによりまず、この総会は、最後の数ヶ月にいささかの苦痛を味わった私たち長上たちの一致を強めました。私はこれを大きなお恵みだと見ています。私たちは共通の立場を見いだしたのです。このことは、新たにされた力と決心とともに、教会のための職務を続けるため、私たちの役に立つでしょう。これは、会の内部において、反響をもたらすでしょう。外部においては、もしも正常化がなされる場合に、それに際して断固としてローマに要求しなければならない数々の点に私たちは専心できると思います。これらの点は三つのポイントにまとめられます。第一に、私たちは第二ヴァチカン公会議の確実な間違いを指摘し続けることが可能であること。つまりはっきりとそれについて話すことが可能であるということです。第二に、私たちは一九六二年版の典礼書だけを、特にミサ典書だけを使用することが許されること。第三に、聖ピオ十世会内部から選出される司教が必ず一人は常に存在するということです。

聖霊降臨の祝日の頃に、聖ピオ十世会の合法的承認は間近に迫っていると思われていました。今となっては解決策はさらに遠くへ去ってしまったかのように見えます。最後の数ヶ月に何が起きたのでしょうか? この変化はいつ、どのようにして起きたのでしょうか?

 この変化は、総長フェレー司教様が六月十三日にローマで当時の教理聖省長官レヴァダ枢機卿と会見したときに起きました。レヴァダ枢機卿はその場でフェレー司教様に教義に関する新文書を提示しました。その文書は、フェレー司教様が提示した文書を受理した一方で、他方ではしかし、極めて重大な変化を含み、私たちの観点からすると、現実の問題を突きつけ、全く新しい状況を作り上げました。


教皇様が個人的に総長様に書かれた手紙についての話しがありますが。

 これは極めて多分に、私たちが教皇様に、これらの新しい要求が本当に教皇様の承認とともに付け加えられたのかどうか、これは本当に教皇様からのものなのか、あるいは教皇様の側近の方々からのものなのかどうかを尋ねたという事実によって起きました。教皇は、これらの要求が満たされることを教皇ご自身が望んでいると、私たちに確認しました。

六月十三日以来の、これらの新しい要求は何なのでしょうか?
 これは特に新しい典礼が受容され得るものであることを私たちが認めることについてです。ここで意味されていることは、新しい典礼の正統性のことだと考えます。また、第二ヴァチカン公会議についての幾つかの微妙なニュアンスについての議論を続けることは可能で得るけれども、私たちがその前に、基本的に第二ヴァチカン公会議の継続性を受け入れる準備がなければならないことです。つまり、第二ヴァチカン公会議を、他の公会議と教会の教え(聖伝)と切れていない鎖の一部として理解せよということです。 そのようなことは、絶対にありえません。第二ヴァチカン公会議には、否定することが不可能な矛盾が存在します。私たちはこの "継続の解釈学 hermeneutic of continuity" を、そのように受け入れることは出来ません。

聖ピオ十世会は、この新しい、受け入れ難い要求に対してどういった反応を見せるつもりですか?

 私たちはローマの諸聖省に、私たちは彼らとの間に困難があり、彼らが本当に私たちの正常化を望むなら、これらの要求を破棄しなければならないと告げるつもりです。二〇〇九年十月から二〇一一年四月までに起きた話し合いで、第二ヴァチカン公会議及び公会議のいくつかの文書と公会議後の教導職に関して、観点の重大な食い違いがあるということが、明らかとなりました。公会議後の教導職の見解と十九世紀の教皇たち及び教会の常なる教えに沿って私たちが支持する見解との間に、合意を見いだすのは容易ではないということは、皆が同意していたことです。これらの傷が正しい薬で治癒されない限り、そして、その薬とは噛み合わないそれら論点の数々についてオープンに話し合うということですが、それがない限り、教会内の危機に対する本当の解決はないでしょう。

ミュラー司教が教理聖省長官に任命されました。彼は聖ピオ十世会に対する反感のためによく知られています。同時に教義上の議題について、大いに論争の対象となり得る彼の意見が浮上してきています。ミュラー司教は聖ピオ十世会とローマの交渉に関してどういった立場を取るでしょうか?

はい、つい先日任命されたミュラー大司教は、現教理聖省長官です、そのため、教皇様の次に、これらの交渉に対する最終的責任を彼が負うことになります。もちろん、私たちに直接応対するのはディ・ノイア大司教です。彼は教皇様が個人的に任命しましたが、おそらくミュラー大司教に対してバランスを取るためでしょう。ミュラー大司教は実際、私たちに対して断固反対の立場を常に表明しているからです。ですが、さらに問題なことは、いくつかの点に関する大司教の異端的教えです。例えば、ミサ中に起きるパンとぶどう酒のイエズス・キリストのおん体とおん血への変化、全実体変化(transsubstantiation)のことです。ミュラー大司教はこれを事実上「目的変化 transfinalisation」と呼ばれるものへと置き換えているのです。それはつまり、パンとぶどう酒は新しい目的を持つものになるというのです。これについては彼の教義学に関する本で読めます。

 あるいはまた別の例を見てみます。ミュラー大司教は、パンとぶどう酒の聖別は聖変化の言葉を通して実際に起きているという事実をはっきりと支持していません。聖母神学に関していえば、彼は聖母の終生童貞の明確な概念を持っていないように見えます。少なくとも、彼の教義に関する著作を読むとそれを信じていないかのように思われます。それどころか、以下のように主張することが可能なのです。つまり、彼は教会が今までに信じてきた主張からある部分において離れている、もしくは少なくともどっちとも取れる立場を許している、と。
 これは実に、非常に重大で非常に悲しむべきことです、何故なら教理聖省の長官はまことに信仰の最高擁護者でなければならず、信仰の純粋さを守り、信仰の無傷を保ち、信仰の純潔の守護者でなければならないからです。この信仰を、そのすべての美しさと深遠さと偉大さを、大司教もまた信者たちに伝えようとしなければなりません。教会が常に信じ説いてきたことに関して、決していかなる疑いも曖昧さもあるべきではないのです。

一方で、聖ピオ十世会は、絶えず教皇制度を受け入れるよう要求されています。しかし、教皇制度は(聖ピオ十世会にとって)問題になったことは一度もありませんし、教義上の教えの継続性も同様です。他方では、プロテスタントらはエキュメニズムの名のもと、いかなる前提条件もなしに教会へと招かれています。しかもプロテスタンティズムは総じて教皇制度を拒絶しているにも関わらずです。これについてどのようにコメントなさいますか?

 もちろんこれは矛盾しています。カトリックの教義を否定し教皇制度を否定している人々、根本から完全に違う立場にある人々とともに、彼らはエキュメニズムを実践しています。
私たちは完全なカトリック教理、カトリック信仰のすべてを受け入れます。私たちはぜひとも自分たちの血で使徒信経に、教会の信仰に署名したいと望みます。しかし、私たちはあれもこれも受け入れないということで責められています。プロテスタント信者は第二ヴァチカン公会議を受け入れていますか? これこそが、尋ねなければならない質問です。今日、あらゆる人々が典礼において自分の好きなことを何でもすることができるなら、なぜ昔ながらの典礼を一般的に許さないのでしょうか?

 もちろん、現在の教皇様には刷新された開放性があります。私たちは二〇〇七年に公布された自発教令(訳注: スンモールム・ポンティフィクム)を天主に感謝します。ですが、例えば、典礼秘跡聖省の新秘書としてイギリス出身のロック(Roch)司教が任命されましたが、彼はこの自発教令の反対者として知られており、自分の教区で古いミサを捧げることを支持するのではなく、妨害しようとあらゆる手を尽くしたのです。こういったことは実におかしなことです。

 聖ピオ十世会がこの二つのポイント、つまり新しいミサが許容されうることと教義の継続性ということに対して回答するなら、しかも、第二ヴァチカン公会議とともに変化があったと述べて否定的な回答をするなら、ローマはこれに対しどのように反応するでしょうか? 最悪の場合、新たな破門があり得ますか?

 私は、個人的には新たな破門がありうるとは思いません。二〇〇九年に教皇様自らが、聖ピオ十世会の四司教様の破門を取り下げたのですから(そのような破門をすることは)教皇様の考えと言動には一貫性がないことを意味させるからです。そのような破門は、教会の霊的善のためになりません。また、聖ピオ十世会は五百六十から五七〇名の司祭がいる、数百の修道女と修道士の単なる修道会、幾つかの学校も経営している単なる修道会というだけでなく、聖ピオ十世会はさらに広い影響力を持ち──そのように言うのは生意気かもしれませんが私はそう信じております──ある点では、教会の聖伝を支持する全ての人々にとって、脊椎であり、参照の基準であり、重要な要素となっています。この基準が破門などという方法で傷つけられるなら、教会におけるすべての復興と保守勢力は甚だしく意気消沈するでしょう。これは大変な災いです。聖ピオ十世会にとってというよりは、むしろ教会にとって大変な悲劇です。非常な損害だと私は見ています。

いくつかの批判もあります。聖ピオ十世会が頑固でかたくななので交渉は失敗したのだという人もいれば、「どっちみち話し合いなど役に立たない。いったいなぜローマと話さなければならないのか」と話し合いそのものに疑問を呈する人々もいます。そこで最後にお尋ねします。ローマとの話し合いで何らかの利益はありましたか? あったとしたら、それは何でしょうか?

 大いに有益でありました。私の見解では、話し合いをすることで私たちが事態の正常化に関心があり、教会が尋常でない危機に瀕している結果として、自分たちの今日の状況があるのだ、ということを示したのです。この危機が私たちをしてこの教会の状況を正常化させたいという熱望へと駆り立てるのだと示しただけでなく、この事態が起こったのは私たちの過ちではないということをも示しました。これは心から強調しておきたい点です。

 もしも昔からの教義、昔からの典礼、教会の昔からの規律を全て守りたいなら、この富を元にカトリックの生活を送りたいなら、現在の状況のために、私たちが今やっていることは必要なのです。これが最初のポイントとなるでしょう。

 また、話し合いは、私たちがローマに執着し、私たちにとってこれは自明のことですが、私たちも教皇様を受け入れていることを実証してみせました。他方で、教義上の違いがあるということ、しかもこれらの違いは私たちの側から由来するのではなく、むしろ──残念ですが口にしなければなりません──教会の公式の責任者たちの側から由来していることを、この話し合いは明らかにしました。つまり、アシジの集会を催し、教会と歴代の教皇たち及び過去の公会議が禁じた、しかも、非常にはっきりと禁止したのです! そのようなことを実践している人々の側に由来していることです。これが第二のポイントです。

 話し合いの三番目の利点は、私たち長上の脆弱さを教えてくれたことです。私たちは謙遜にそれを認めねばなりません。従って私たちもまた、聖ピオ十世会の内部における明確化の一連の過程を経験しました。私たちはローマとの話し合いそのものを完全に拒否する人々には賛成しません。つまりこういうことです。聖ピオ十世会は決して己のために働いたことはありません。聖ピオ十世会自身を目的そのものだと見なしたことはありません。それどころか、聖ピオ十世会は教会と教皇たちに仕えることを常に切望しているのです。

 これはルフェーブル大司教様が常に述べていたことです。私たちは司教様たち、教皇様の役に立ちたいのです。私たちは彼らに仕えたいのです。教会を危機から救い出そうとする彼らを助けたいのです。そのすべての美、聖性において教会を新たにしたいのです。ですがもちろん、このことはいかなる妥協も、いかなる偽りの妥協もないという条件でのみ起こり得ます。これは私たちにとって非常に重要です。

 私たちは実際、公に教会内にこの宝を復興させ、この宝の権利を取り戻させようと──これは私たちの望んだすべてです──確かに試みました。そして、私たちはある程度の範囲までやり遂げたと言えるでしょう。

 聖ピオ十世会はこの話し合いの数々で、第二ヴァチカン公会議とそのいくつかの宣言に関して、今一度の再考と覚醒を促す一因となったからです。

(Sources: pius.info ─ DICI no. 261 dated September 28, 2012)

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聖母マリアよ、祈り給え

2012年10月14日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア

愛する兄弟姉妹の皆様、

ローズ・フーさんは、先ほど天主様に霊魂を返したとのことです。永遠の安らぎを彼女の霊魂に与えたまえ。


今日は、大阪でミサ聖祭がありました。天主様に感謝します。32名の方々がミサ聖祭に与りました。


午後は、簡単な公教要理の後、一時間ほどファチマの聖母マリア様を讃えて聖歌を歌いました。感謝します。今回、東京から二名の方々がミサ聖祭に与りに来られました。


霊的花束も頂きました。かたじけなく思います。深い感謝とともに頂きました。

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上にありますように!!

トマス小野田神父(聖ピオ十世会司祭)

天主様に感謝!

2012年10月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 台風は如何でしたでしょうか?
 大阪のミサに与った方の中には、9月30日に東海地方を襲った台風により、2つの廊下、3つの部屋で床上浸水の被害に遭われた方がおられました。「天主様のお恵みにより、私共家族は無事でございました」が、家が被害を受けたとのことです。東京のミサに与られた方のうち一人は、新幹線を降りても在来線が不通のために駅のコンコースで夜を過ごした方もおられました。

 全てのお恵みを天主様に感謝します! 大阪では、8月24日金曜日に17人、8月25日土曜日に22人、9月28日金曜日に12人、9月29日土曜日に30人の方々が聖伝のミサに与りました。

 東京では、8月26日主日に31人、8月27日月曜日に12人、9月30日主日に37人、10月01日月曜日に6人の方々が聖伝のミサに与りました。

 東京での8月26日主日のミサの参列者数
男: 16人(内、子供0人)
女: 15人(内、子供1人)
計: 31人(内、子供1人)

 9月30日の東京での主日のミサの参列者数
男: 18人(内、子供2人)
女: 19人(内、子供3人)
計: 37人(内、子供5人)

 多くのお恵みを天主様に感謝します! 10月21日の主日には東京で子供の洗礼がある予定です。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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